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「広漢郡」の版間の差分

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== 概要 ==
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[[紀元前201年]]([[劉邦|高帝]]6年)、広漢郡が立てられた。[[前漢]]の広漢郡は[[益州]]に属し、[[梓潼県|梓潼]]・[[什ホウ市|什方]]・[[フ城区|涪]]・[[広漢市|雒]]・[[綿竹市|綿竹]]・[[射洪県|広漢]]・[[昭化区|葭萌]]・[[三台県|郪]]・[[新都区|新都]]・[[九寨溝県|甸氐道]]・[[青川県|白水]]・[[平武県|剛氐道]]・[[文県|陰平道]]の13県を管轄した。[[王莽]]のとき、就都郡と改められた<ref>『[[漢書]]』地理志上</ref>。
[[紀元前201年]]([[劉邦|高帝]]6年)、広漢郡が立てられた。[[前漢]]の広漢郡は[[益州]]に属し、[[梓潼県|梓潼]]・[[什市|什方]]・[[フ城区|涪]]・[[広漢市|雒]]・[[綿竹市|綿竹]]・[[射洪県|広漢]]・[[昭化区|葭萌]]・[[三台県|郪]]・[[新都区|新都]]・[[九寨溝県|甸氐道]]・[[青川県|白水]]・[[平武県|剛氐道]]・[[文県|陰平道]]の13県を管轄した。[[王莽]]のとき、就都郡と改められた<ref>『[[漢書]]』地理志上</ref>。


[[後漢]]が建てられると、広漢郡の称にもどされた。後漢の広漢郡は雒・新都・綿竹・什邡・涪・梓潼・白水・葭萌・郪・広漢・[[船山区|徳陽]]の11県を管轄した<ref>『[[後漢書]]』郡国志五</ref>。
[[後漢]]が建てられると、広漢郡の称にもどされた。後漢の広漢郡は雒・新都・綿竹・什邡・涪・梓潼・白水・葭萌・郪・広漢・[[船山区|徳陽]]の11県を管轄した<ref>『[[後漢書]]』郡国志五</ref>。

2020年8月3日 (月) 11:51時点における版

広漢郡(廣漢郡、こうかん-ぐん)は、中国にかつて存在した漢代から初にかけて、現在の四川省北部に設置された。

概要

紀元前201年高帝6年)、広漢郡が立てられた。前漢の広漢郡は益州に属し、梓潼什方綿竹広漢葭萌新都甸氐道白水剛氐道陰平道の13県を管轄した。王莽のとき、就都郡と改められた[1]

後漢が建てられると、広漢郡の称にもどされた。後漢の広漢郡は雒・新都・綿竹・什邡・涪・梓潼・白水・葭萌・郪・広漢・徳陽の11県を管轄した[2]

のとき、広漢郡は梁州に属し、広漢・徳陽・伍城の3県を管轄した[3]

南朝宋のとき、広漢郡は益州に属し、雒・什邡・郪・新都・陽泉・伍城の6県を管轄した[4]

南朝斉のとき、広漢郡は雒・什邡・新都・郪・伍城・陽泉の6県を管轄した[5]

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、広漢郡は廃止されて、益州に編入され、広漢郡の呼称は姿を消した[6]

脚注

  1. ^ 漢書』地理志上
  2. ^ 後漢書』郡国志五
  3. ^ 晋書』地理志上
  4. ^ 宋書』州郡志四
  5. ^ 南斉書』州郡志下
  6. ^ 隋書』地理志上