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|寺院=古黄檗山[[萬福寺 (中国福建省)|萬福寺]]・金粟山廣慧寺・天童山景徳寺・[[径山興聖万寿寺]]・虞山維摩院福巌寺
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'''費隠通容'''(ひいん つうよう、[[万暦]]21年[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]([[1593年]]) - [[順治]]18年[[3月29日 (旧暦)|3月29日]]([[1661年]]))は、[[中国]]の[[明]]末[[清]]初の[[臨済宗]]天童派の[[禅]][[僧]]。[[隠元隆琦]]の師として知られる。俗姓は何。[[法諱]]は通容。号は費隠。[[福州市|福州府]][[福清県]]の出身。


== 伝歴 ==
== 伝歴 ==
7歳の時父を12歳の時母を亡くし、14歳で三宝寺の慧山に就いて出家。[[崇禎]]3年(1630年)7月に古黄檗山[[萬福寺 (中国福建省)|萬福寺]]において[[密雲円悟]]の法嗣となり、[[臨済宗]]第31伝となる。
7歳の時父を12歳の時母を亡くし、14歳で三宝寺の慧山に就いて出家。[[崇禎]]3年(1630年)7月に古黄檗山[[萬福寺 (中国福建省)|萬福寺]]において[[密雲円悟]]の法嗣となり、[[臨済宗]]第31伝となる。


崇禎6年(1633年)に密雲から萬福寺住持を継席。[[隠元隆き|隠元隆琦]]を西堂としすぐのちに付法。崇禎10年(1637年)隠元に[[印可|源流]]と[[袈裟|法衣]]を授ける。
崇禎6年(1633年)に密雲から萬福寺住持を継席。[[隠元隆琦]]を西堂としすぐのちに付法。崇禎10年(1637年)隠元に[[印可|源流]]と[[袈裟|法衣]]を授ける。


その後、[[温州市|温州府]][[永嘉県]]法通寺・[[海塩県]]金粟山廣慧寺・[[寧波市|寧波府]][[鄞州区|鄞県]]天童山景徳寺・[[松江区|松江府]]華亭県超果寺・[[嘉興市|嘉興府]][[桐郷市|崇徳県]]福巌寺・[[杭州市|杭州府]][[余杭県]][[径山興聖万寿寺]]・[[蘇州市|蘇州府]][[常熟市|常熟県]]虞山維摩院・[[淮安市|淮安府]][[塩城県]]永寧院などの寺院を積極的に巡り、臨済の法を伝え師密雲と並称された。
その後、[[温州市|温州府]][[永嘉県]]法通寺・[[海塩県]]金粟山廣慧寺・[[寧波市|寧波府]][[鄞州区|鄞県]]天童山景徳寺・[[松江区|松江府]]華亭県超果寺・[[嘉興市|嘉興府]][[桐郷市|崇徳県]]福巌寺・[[杭州市|杭州府]][[余杭県]][[径山興聖万寿寺]]・[[蘇州市|蘇州府]][[常熟市|常熟県]]虞山維摩院・[[淮安市|淮安府]][[塩城県]]永寧院などの寺院を積極的に巡り、臨済の法を伝え師密雲と並称された。
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[[順治]]10年(1653年)閏6月、費隠は法嗣[[百癡行先]]や[[檀越]]の徐昌治・李士材らと禅宗の史伝書『五灯厳統』を編修して刊行。[[南宋]]の『五灯会元』を引き継いだ南宋以後の僧伝を掲載した。その意図は禅林の乱れをくい止め嗣法伝承の正常化を目指すことにあったが、[[曹洞宗]][[遠門浄柱]]の『五灯会元続略』に対抗した内容となっており曹洞宗より臨済宗が優れていることを示した。すなわち六祖[[慧能|慧能曹渓]]下の[[南嶽懐譲|南岳]]系が[[青原行思|青原]]系より優位であり、さらに曹洞宗の[[晦台元鏡]]、[[永覚元賢]]は嗣法伝承されておらず、[[無明慧経]]、[[湛然円澄]]についてもその嗣法は不明確であると独自の主張を立てた。これに対して[[三宜明盂]]、遠門浄柱らが激しく対立し、その流通を阻止するために[[浙江省]]府に訴訟した。この結果、費隠は敗訴。『五灯厳統』の板木は焼毀処分となってしまう。費隠も[[径山興聖万寿寺]]を退出せざるを得なかった。その後、三宜明盂とは和解し費隠も径山住持として戻ることを許されている。
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[[明暦]]3年(1657年)、費隠の法嗣[[隠元隆琦]]は[[逸然性融]]などの支持を受けて摂津普門福元寺(現[[大阪府]][[高槻市]][[普門寺 (高槻市)|普門寺]])において『五灯厳統』を重刻した。『五灯厳統』は日本で広く読まれ、覆刻本が大陸にも伝わった。


== 著述 ==
== 著述 ==

2020年8月2日 (日) 22:10時点における版

費隠通容
1593年 - 1661年
費隠通容像自賛[1] 張琦筆 絹本着色 萬福寺
尊称 聖山容禅師
生地 福州府福清県
没地 嘉興府崇徳県
宗派 臨済宗天童派
寺院 古黄檗山萬福寺・金粟山廣慧寺・天童山景徳寺・径山興聖万寿寺・虞山維摩院福巌寺
密雲円悟
弟子 隠元隆琦
著作 『五灯厳統』
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費隠通容(ひいん つうよう、万暦21年5月24日1593年) - 順治18年3月29日1661年))は、中国初の臨済宗天童派の隠元隆琦の師として知られる。俗姓は何。法諱は通容。号は費隠。福州府福清県の出身。

伝歴

7歳の時父を12歳の時母を亡くし、14歳で三宝寺の慧山に就いて出家。崇禎3年(1630年)7月に古黄檗山萬福寺において密雲円悟の法嗣となり、臨済宗第31伝となる。

崇禎6年(1633年)に密雲から萬福寺住持を継席。隠元隆琦を西堂としすぐのちに付法。崇禎10年(1637年)隠元に源流法衣を授ける。

その後、温州府永嘉県法通寺・海塩県金粟山廣慧寺・寧波府鄞県天童山景徳寺・松江府華亭県超果寺・嘉興府崇徳県福巌寺・杭州府余杭県径山興聖万寿寺蘇州府常熟県虞山維摩院・淮安府塩城県永寧院などの寺院を積極的に巡り、臨済の法を伝え師密雲と並称された。

晩年は福巌寺に移り、順治18年3月29日(1661年)、示寂する。世寿69。

隠元を含め64人にも嗣法し多くの門弟を育てた。密雲円悟が開いた臨済宗天童派の中で、唯一費隠の門流が盛んとなっている。

五灯厳統

順治10年(1653年)閏6月、費隠は法嗣百癡行先檀越の徐昌治・李士材らと禅宗の史伝書『五灯厳統』を編修して刊行。南宋の『五灯会元』を引き継いだ南宋以後の僧伝を掲載した。その意図は禅林の乱れをくい止め嗣法伝承の正常化を目指すことにあったが、曹洞宗遠門浄柱の『五灯会元続略』に対抗した内容となっており曹洞宗より臨済宗が優れていることを示した。すなわち六祖慧能曹渓下の南岳系が青原系より優位であり、さらに曹洞宗の晦台元鏡永覚元賢は嗣法伝承されておらず、無明慧経湛然円澄についてもその嗣法は不明確であると独自の主張を立てた。これに対して三宜明盂、遠門浄柱らが激しく対立し、その流通を阻止するために浙江省府に訴訟した。この結果、費隠は敗訴。『五灯厳統』の板木は焼毀処分となってしまう。費隠も径山興聖万寿寺を退出せざるを得なかった。その後、三宜明盂とは和解し費隠も径山住持として戻ることを許されている。

明暦3年(1657年)、費隠の法嗣隠元隆琦逸然性融などの支持を受けて摂津普門福元寺(現大阪府高槻市普門寺)において『五灯厳統』を重刻した。『五灯厳統』は日本で広く読まれ、覆刻本が大陸にも伝わった。

著述

  • 『祖庭鉗鎚録』
  • 『心経斲輪解』
  • 『禅宗漁樵集』
  • 『原道闢邪説』
  • 『五灯厳統』禅宗史書
  • 隠元隆琦等編『費隠禅師語録』
  • 隠元隆琦編『費隠禅師別集』

脚注

  1. ^ 費隠50歳(崇禎15年5月・1642年)の誕生日に祝賀として張琦によって画かれ、その法嗣となった隠元によって日本に将来された。

参考文献