密雲円悟
密雲円悟 | |
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1566年 - 1642年 | |
密雲円悟頂相 | |
生地 | 常州府宜興県 |
没地 | 台州府天台県天台山通玄寺 |
宗派 | 臨済宗天童派 |
寺院 | 古黄檗山萬福寺・天台山通玄寺・金粟山廣慧寺・寧波府鄞県阿育王寺・天童山景徳寺 |
師 | 幻有正伝 |
弟子 | 費隠通容・五峰如学・漢月法蔵・破山海明・石車通乗・朝宗通忍・万如通徴・木陳道忞・牧門通門・浮石通賢・石奇通雲・林野通奇 |
著作 | 如学編『密雲禅師語録』 |
密雲円悟(みつうん えんご、嘉靖45年(1566年)11月16日 - 崇禎15年(1642年)7月7日)は、中国の明末の臨済宗天童派の禅僧。俗姓は蒋。法諱は円悟。号は密雲。常州府宜興県の出身。費隠通容の師であり隠元隆琦の師翁にあたる。
伝歴
[編集]父は蒋曦、母は潘氏。8歳で念仏を唱えたという。酒色に溺れ16歳で妻帯。29歳で出家を決意し妻を捨て、万暦23年(1595年)正月に顕親寺の幻有正伝に就いて出家した。その後、幻有に随って竜池山禹門禅院に住した。万暦30年(1602年)、幻有が燕京に移るもそのまま留まり監院を託された。万暦31年(1603年)、38歳にして銅官山(常州府宜興県)にて大悟する。40歳のとき幻有にまみえるため燕京の普照寺に赴き2年間過ごす。その後、径山・天台山・竜池山など各地を巡り、周海門居士・陶望齢・王舜鼎らと問答を繰り返すうち海東に法道が広まった。
万暦36年(1608年)、紹興の護生庵に移り、万暦38年(1610年)、幻有が竜池山に戻ると翌年訪ね、46歳のとき幻有より付法される。万暦42年(1614年)、幻有が示寂。これより3年間その柩に随従し、万暦44年(1616年)12月、遺骨を墓に納めた。翌年、衆に請われて竜池山禹門禅院にて開堂した。天啓元年(1621年)12月、匡廬・衡嶽に行き、天啓2年(1622年)12月に天台山通玄寺(台州府天台県)に住した。天啓4年(1624年)5月、金粟山廣慧寺(嘉興府海塩県)に普山。殿堂などの整備を進め大禅林とした。
崇禎3年(1630年)3月に黄檗山の住持となるが、8月には金粟山廣慧寺に帰り、崇禎4年(1631年)2月に阿育王寺(寧波府鄞県)に移り、4月天童山景徳寺(寧波府鄞県)の住持となった。ここでも荒廃した寺院を復興し僧が雲集した。
崇禎15年(1642年)、天台山通玄寺に戻り、同年7月に結跏趺坐のまま示寂した。世寿77。費隠通容ら12名に嗣法した。
著述
[編集]- 五峰如学編『密雲禅師語録』
伝記・資料
[編集]- 王谷撰『行状』
- 徐之垣撰『全身塔銘』
- 唐世済撰『遺衣金栗山銘』
- 韋克振撰『崇禎癸未夏月穀旦本山住持嗣法弟子通容樹石道行碑』
- 木陳道忞撰『天童密雲禅師年譜』
- 銭謙益撰『天童密雲禅師悟公塔銘』
- 木陳道忞撰『明天童密雲悟和尚行状』
- 自叙伝『行繇』(『密雲禅師語録』巻6)
- 遠門浄柱編『五灯会元続略』
- 費隠通容編『五灯厳統』
- 除昌治編『高僧摘要』
- 施沛彙『続灯存稿』
- 聶先編『続指月録』
- 超永編『五灯全書』
参考文献
[編集]- 大槻幹郎編『黄檗文化人名辞典』1988年 思文閣出版 ISBN 4784205381
- 石井修道「明末清初の天童山と密雲円悟」駒澤大学仏教学部