「独湛性瑩」の版間の差分
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母の没後、16歳で、梧山・積雲寺の衣珠のもとで出家した。[[雲棲シュ宏|雲棲祩宏]]に私淑し、『[[首楞厳経]]』や『[[妙法蓮華経]]』を読誦していた。 |
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2020年8月2日 (日) 22:08時点における版
独湛性瑩 | |
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1628年 - 1706年 | |
生地 | 福建省興化府莆田県 |
宗派 | 臨済宗黄檗派(黄檗宗) |
寺院 | 興福寺、普門寺、宝林寺、国瑞寺、黄檗山萬福寺 |
師 | 隠元隆琦 |
独湛性瑩(どくたん しょうけい、崇禎元年9月27日(1628年10月23日) - 宝永3年1月26日(1706年3月10日))は、江戸時代前期に明国から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。俗姓は陳氏。福建省興化府莆田県の出身。
生涯
南宋代の丞相・陳俊卿の末裔であり、明代の孝廉御史・陳茂烈の8代の孫に当たる。父は、陳翊宣という名であった。
母の没後、16歳で、梧山・積雲寺の衣珠のもとで出家した。雲棲祩宏に私淑し、『首楞厳経』や『妙法蓮華経』を読誦していた。
1649年(順治6年)に、隠元隆琦の法弟であった泉州承天寺の亘信行弥に入門した。その後2年ほどして、金粟山の費隠通容の噂を聞き、諸方を行脚した。
1651年(順治8年)の夏、黄檗山に至り、隠元に参じ、1653年(順治10年)冬に大悟した。
1654年(順治11年)6月、隠元に従って来日し、その後、長崎・興福寺から摂津国・普門寺、山城国・萬福寺と、師の隠元に随従した。
1663年(寛文3年)1月の、萬福寺の祝国開堂後の冬の統制において西堂を務め、12月の初めての授戒会では尊証阿闍梨に任ぜられた。
1664年(寛文4年)5月、龍渓性潜の推挙によって遠江国浜松に至り、近藤貞用邸に寓居しながら、新寺(宝林寺、初山)の造営に当たった。1665年(寛文5年)11月に隠元を開山として招き、独湛が初代住持となり、以後18年間にわたり、その任に当たった。
1673年(延宝元年)10月には、慧林性機の推挙によって上野国笠懸に至り、岡上景能の求めに応じて、国瑞寺(二山)を開山した。
1692年(元禄5年)、高泉性潡に法席を譲り、山内の獅子林院に隠退した。退隠後は、上州の二山に招かれ塔頭の永思塔に仮寓した。また、1697年(元禄10年)には、遠州の初山で10,000人以上の信徒を集めて授戒会を催した。
1706年(宝永3年)1月26日、黄檗の獅子林院で没した。享年79。
念仏禅
隠元が将来したいわゆる黄檗禅の特色は、「念仏禅」という言葉で表現されており、習禅と念仏とを共に修める「禅浄双修」を、その特徴とした。この傾向を最も顕著に表していたのが、独湛である。独湛は、当麻曼荼羅に感動して「日本大和州当麻寺化人織造藕糸西方聖境図説」を著わし、浄土宗に属する義山や忍澂と交流した。
1704年(宝永元年)には、獅子林院で「勧修作福念仏図説」という、宋代以来の中国で民間教化に用いられた縁起文を板行している。
参考文献
- 木村得玄著『初期黄檗派の僧たち』春秋社、2007.7、ISBN 9784393177051
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