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[[211年]]、曹操は[[潼関の戦い]]で[[馬超]]・[[韓遂]]らを破ると、降伏した軍を平南将軍の殷署に纏めさせると共に、趙儼を[[関中]]護軍とし、諸軍全ての統括を委ねた。彼は[[羌]]族の侵攻や呂並の反乱を鎮圧した。 |
2020年7月26日 (日) 09:22時点における版
趙 儼(ちょう げん、171年-245年夏6月[1])は、中国後漢末期から三国時代の武将・政治家。字は伯然。豫州潁川郡陽翟県(現在の河南省許昌市禹州市)の人。子は趙亭。
『三国志』魏志「和常楊杜趙裴伝」に伝がある。また、裴松之によると、『魏略』では徐福・厳幹・李義・張既・游楚・梁習・裴潜・韓宣・黄朗と同じ巻に収録されていたという(『三国志』魏志「裴潜伝」注)。
生涯
同郡の辛毗・陳羣・杜襲と並んで名を知られ、辛陳杜趙と称された。戦乱を避けて荊州に避難し、杜襲・繁欽と一緒に暮らした。
曹操が許に献帝を迎えた報せを受けると、曹操が中華を救うことを予測した。197年、27歳で老人や子供を助けながら許都へ赴いた。曹操から朗陵県長に任命され、刑罰と恩愛を上手く使い民心を安んじた。李通の親族を処刑したことがあったが、李通にはかえって評価され、親交を結んだという(『三国志』魏志「李通伝」)。
袁紹が豫州の諸郡に対し、味方になるよう誘いをかけると、多くの郡がそれに応じたが、陽安郡だけは動揺しなかった。この時、李通は曹操への支持を明らかにするため、急いで徴税を実施しようとした。しかし趙儼は民心の悪化を慮り、李通には徴税の手を緩めるよう忠告した上で、荀彧に手紙を送り措置を相談した。荀彧は租税を全て民達に返還してもよいと返答した。このため民が措置に感激し、郡内が安定した。
その後、趙儼は中央に戻り司空属官の主簿となった。この時、荊州の劉表に備えるため、于禁・楽進・張遼の3将軍が潁陰・陽翟・長社に駐屯していた。彼等はいがみ合って協調しなかったが、趙儼が参軍となって統制したので、互いに親しむようになった。
208年、曹操が荊州を征伐すると、趙儼は章陵太守を兼任して都督護軍となり、于禁・張遼・張郃・朱霊・李典・路招・馮楷の7将軍を統括した。後に丞相主簿へ戻り、扶風太守を任された。
211年、曹操は潼関の戦いで馬超・韓遂らを破ると、降伏した軍を平南将軍の殷署に纏めさせると共に、趙儼を関中護軍とし、諸軍全ての統括を委ねた。彼は羌族の侵攻や呂並の反乱を鎮圧した。
殷署が漢中守備のため派遣されることになると、趙儼は変事が起きることを心配し、殷署に何度も念を押した。しかし殷署が聞き入れなかったため、予想通り反乱が勃発し殷署も消息不明となった。趙儼の下に残った部隊にも動揺が広がりそうになったが、趙儼は細心の注意を払い、手練手管を駆使してこの危機を乗り切った。趙儼は2万人の援軍を漢中に送り届けた。
219年、劉備軍の関羽が曹仁を攻撃すると(樊城の戦い)、趙儼は議郎の資格で曹仁の軍事に参画することになり、徐晃と共に進撃した。趙儼が「兵力の足りない現状では援軍を待ち、包囲に苦しむ曹仁殿と連絡をとることが重要だ」と進言したため、諸将達は地下道と矢文を使って、幾度か曹仁と連絡をとった。関羽軍の包囲が厳しかったが、更なる援軍を得た上で会戦に勝利した。関羽はもう撤退し、当時孫権軍が関羽の輜重を襲ったため、関羽は南方まで引き返した。関羽を追撃すべきかどうかが議題となった時、趙儼は「孫権に脅威を与える材料として、関羽を生かしておくべきだ」と述べた。曹仁はこれを受け入れ、戦闘態勢を解除した。後に曹操も、同様の追撃中止命令を出していたようである。
220年、曹丕(文帝)が即位すると、侍中になった。また駙馬都尉も加えられ、河東太守・典農中郎将を代行した。222年には関内侯に封じられた。呉の孫権が国境地帯で侵入して騒ぎを起こす、曹休が五州の軍勢を引き連れて赴いた。この時、趙儼は曹休の軍師を務めた。呉軍が撤退すると宜土亭侯となり、さらに度支中郎将・尚書へ昇進した。その後も曹丕の広陵侵攻に随行し、撤退後もそのまま留まって征東軍師となった。
曹叡(明帝)の時代には都郷侯に封じられ、領地も600戸増やされた。監荊州諸軍事・仮節となったが、病気のため赴任せず尚書に再任された。やがて監豫州諸軍事になり、大司馬軍師となった。後に中央へ戻り、大司農となった。
曹芳(斉王)の時代、監雍涼諸軍事・仮節になり、征蜀将軍となった。またさらに位が進んで、征西将軍・都督雍涼諸軍事となった。243年、老齢のため中央へ召還され、驃騎将軍・司空に昇進した。
245年に死去し、穆侯と号された。子が爵位を継いだ。
小説『三国志演義』には登場しないが、吉川英治の『三国志』には登場する。
参考資料
- 『三国志』
脚注
- ^ 『三国志』魏志「三少帝紀」