「劉馥」の版間の差分
編集の要約なし |
m Bot作業依頼: 「張コウ」の改名に伴うリンク修正依頼 (張郃) - log |
||
29行目: | 29行目: | ||
建安13年([[208年]])、劉馥は死去した。劉馥が築いた堤防や蓄積した物資は、[[孫権]]の合肥攻撃の際に、これを撃退する上で大いに貢献した。揚州の人々は、ますます劉馥を追慕したという。 |
建安13年([[208年]])、劉馥は死去した。劉馥が築いた堤防や蓄積した物資は、[[孫権]]の合肥攻撃の際に、これを撃退する上で大いに貢献した。揚州の人々は、ますます劉馥を追慕したという。 |
||
劉馥の死後、雷緒らは曹操に反逆したが、[[夏侯淵]]・[[張遼]]・[[于禁]]・[[ |
劉馥の死後、雷緒らは曹操に反逆したが、[[夏侯淵]]・[[張遼]]・[[于禁]]・[[張郃]]・[[臧覇]]らに討伐された。 |
||
劉馥の子の劉靖は、高官を歴任して仮節・鎮北将軍・都督河北諸軍事に至り、死去すると征北将軍・建成郷侯を追贈され、景侯と諡された。子の劉熙が後を継いだ。 |
劉馥の子の劉靖は、高官を歴任して仮節・鎮北将軍・都督河北諸軍事に至り、死去すると征北将軍・建成郷侯を追贈され、景侯と諡された。子の劉熙が後を継いだ。 |
2020年7月26日 (日) 09:20時点における版
劉馥 | |
---|---|
後漢 揚州刺史 | |
出生 |
生年不詳 豫州沛国相県 |
死去 | 建安13年(208年) |
拼音 | Liú Fù |
字 | 元穎 |
主君 | 曹操 |
劉 馥(りゅう ふく ? - 208年)は、中国の後漢時代末期の政治家。字は元穎。豫州沛国相県の人。劉靖(字は文恭)の父。劉熙・劉弘(字は叔和、晋の荊州刺史)の祖父。劉璠の曾祖父。『三国志』魏志「劉司馬梁張温賈伝」に伝がある。
事跡
戦乱を避け揚州に避難していたが、建安年間の初めに、袁術の部将である戚寄・秦翊を説き伏せ、軍勢を率いて共に曹操に帰順した。曹操は大いに喜び、劉馥を司徒掾とした。
建安5年(200年)、曹操が置いた揚州刺史の厳象が、孫策が置いた廬江太守の李術に殺害される事件が起きた。更に廬江で袁術残党の梅乾・雷緒・陳蘭らが数万の軍勢を集め、江・淮の間で郡県を破壊した。曹操は袁紹と対峙していたため、自ら討伐に向かえなかったが、劉馥なら東南の事を任せられるとし、厳象後任の揚州刺史として派遣した。劉馥は単身で空城の合肥に乗り込んで政庁を設置し、雷緒らを懐柔して帰服させた。
数年のうちに恩恵と教化が大いに行なわれ、民衆は劉馥の政治を慕い、流民が江山を越えてくるほどで、帰順者は万単位にのぼった。更に学校を立て、屯田・灌漑事業を推進し、官吏も民衆も蓄えを得た。
建安13年(208年)、劉馥は死去した。劉馥が築いた堤防や蓄積した物資は、孫権の合肥攻撃の際に、これを撃退する上で大いに貢献した。揚州の人々は、ますます劉馥を追慕したという。
劉馥の死後、雷緒らは曹操に反逆したが、夏侯淵・張遼・于禁・張郃・臧覇らに討伐された。
劉馥の子の劉靖は、高官を歴任して仮節・鎮北将軍・都督河北諸軍事に至り、死去すると征北将軍・建成郷侯を追贈され、景侯と諡された。子の劉熙が後を継いだ。
物語中の劉馥
小説『三国志演義』では、揚州刺史としての功績が言及されている。しかし赤壁の戦いに従軍した際に、曹操の詩を不吉と批判したため、酔っていた曹操の不興を買って殺害される。酔いから覚めた曹操は、自らの行為を泣きながら後悔し、三公の礼をもって手厚く葬るよう、子の劉熙に劉馥の遺体を引き渡している。
ただし劉熙は、史実では劉靖の子、すなわち劉馥の孫にあたる人物であり、これは『演義』作者の脚色上の誤りと思われる。
漫画『蒼天航路』においては、登場時に故人ながら、存命時に曹操に揚州刺史に任ぜられ、単身で何もない空城合肥を8年で7万の民を抱く一大城市に興したという史実に沿ったエピソードが載せられ、『演義』よりも存在感の大きい役柄となっている。