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'''庾 文君'''(ゆ ぶんくん、[[297年]] - [[328年]])は、[[中国]][[東晋]]の[[明帝 (東晋)|明帝]]の[[皇后]]。[[成帝 (東晋)|成帝]]の母。[[潁川郡]][[エン陵県|鄢陵県]]の出身。父は左将軍の[[ユチン|庾琛]]。母は妾の荀茂。兄は[[ユ亮|庾亮]]・[[庾冰]]、弟は[[ユ翼|庾翼]]。


== 生涯 ==
== 生涯 ==

2020年7月23日 (木) 03:33時点における版

庾皇后
東晋の皇后
在位 323年7月25日 - 325年10月18日

全名 庾文君
別称 明穆皇后
出生 元康7年(297年
死去 咸和3年3月28日
328年4月23日
配偶者 明帝
子女 成帝
康帝
南康公主
氏族 潁川庾氏
父親 庾琛
母親 荀茂
兄弟 庾亮庾冰庾翼
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庾 文君(ゆ ぶんくん、297年 - 328年)は、中国東晋明帝皇后成帝の母。潁川郡鄢陵県の出身。父は左将軍の庾琛。母は妾の荀茂。兄は庾亮庾冰、弟は庾翼

生涯

美女で有名だった。皇太子司馬紹(のちの明帝)に嫁ぎ、太子妃となった。大興4年(321年)、司馬衍(のちの成帝)を産んだ。

太寧元年(323年)6月、明帝が即位すると、皇后に立てられた。明帝が崩ずると、文君が皇太后となって垂簾聴政した。

咸和3年(328年)、蘇峻蘇峻の乱を起こし、2月に皇宮が陥落した。文君は乱兵の中で多くの辱めを受け、3月、悲慟のうちに死去した。された。

のちに姪(庾冰の娘)の庾道憐が成帝の子、廃帝司馬奕の皇后になった。

伝記資料

  • 晋書』巻32列伝第2 后妃下