楊艶
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楊皇后 | |
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西晋の皇后 | |
在位 |
泰始2年1月27日 - 泰始10年7月6日 (266年3月20日 - 274年8月25日) |
全名 |
楊艶 楊瓊芝(字) |
別称 | 武元皇后 |
出生 |
景初2年(238年) |
死去 |
泰始10年7月6日 (274年8月25日) 洛陽、明光殿 |
埋葬 | 峻陽陵 |
配偶者 | 武帝 |
子女 |
司馬軌 恵帝 司馬柬 平陽公主 新豊公主 陽平公主 |
氏族 | 弘農楊氏 |
父親 | 楊炳 |
母親 | 趙氏(趙俊の姉妹) |
従妹 | 楊芷(武帝の2人目の皇后) |
従姉妹 | 趙粲(武帝の側室) |
楊 艶(よう えん)は、中国西晋の武帝司馬炎の皇后。恵帝の母。字は瓊芝。本貫は弘農郡華陰県。父は魏の通事郎の楊炳(字は文宗)。曾祖父は楊衆(楊震の曾孫)。母は趙氏。
生涯
[編集]幼時に父母を失い、母方の叔父の趙俊で養育された。容貌美しく、女紅をよくした。司馬昭の意向により司馬炎にとつぎ、夫婦仲は良く、司馬衷(恵帝)など多くの子供を産んだ。
泰始2年(266年)正月、司馬炎が即位すると、皇后に立てられた。嫉妬深い性格であり、司馬炎が自分の後宮に入れるための女子を選ぶ際には妬み、色白で背が高いが不美人な女性だけを選んだ。あるとき司馬炎は容姿が美しい卞藩の娘を気に入ったが、楊艶は「卞氏は魏の三代の后族であった」を理由にこれに反対し、入内は取り止めとなった。司馬炎は太子の司馬衷が暗愚なため廃そうと考えたが、楊艶は実子を溺愛し、力を尽くして諫めてこれをはばんだ。また、楊艶の働きかけにより賈南風が太子妃(後の皇后)となった。
泰始10年(274年)7月、武帝の膝に崩じた。臨終に際して、貴嬪胡芳(胡奮の娘、司馬炎の寵妃)を厭い、従妹の楊芷を次の皇后に立てるよう懇願した。元と諡された。その後、夫の諡を重ねて武元皇后と称された。
母方の従姉妹の趙粲(趙俊の兄の娘)は司馬炎の側室となっている。
子女
[編集]伝記資料
[編集]- 『晋書』列伝 后妃上