廃帝 (東晋)
廃帝 司馬奕 | |
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東晋 | |
第7代皇帝 | |
王朝 | 東晋 |
在位期間 |
興寧3年2月23日 - 太和6年11月15日 (365年3月31日 - 372年1月6日) |
都城 | 建康 |
姓・諱 | 司馬奕 |
字 | 延齢 |
生年 | 咸康8年(342年) |
没年 |
太元11年10月16日[1] (386年11月23日) |
父 | 成帝 |
母 | 周貴人 |
后妃 | 孝皇后庾氏 |
陵墓 | 呉陵 |
年号 | 太和 : 366年 - 371年 |
廃帝(はいてい)または海西公(かいせいこう)は、東晋の第7代皇帝。諱は奕、字は延齢。第3代皇帝成帝の次男。
生涯
[編集]咸康8年(342年)、東海王に封じられ、永和8年(352年)には散騎常侍・鎮軍将軍となった。升平4年(360年)、車騎将軍を拝命され、翌年には琅邪王に改封した。隆和元年(362年)、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司となった[2]。
興寧3年(365年)、同母兄の哀帝の崩御により即位するが、穆帝の代から権力を牛耳っていた桓温の専横がなおも続いた。同年、洛陽が前燕の慕容恪により奪われ、桓温の力に陰りが見え始めた。桓温は太和4年(369年)に洛陽奪回の北伐軍を興したが、枋頭の戦いで前燕の名将の慕容垂の前に大敗してしまう。これにより桓温の東晋朝廷における勢力はますます弱体化するが、失脚の危機を挽回するために桓温は簒奪を図るようになる[2]。
太和6年(371年)、腹心の郗超の献策を採った[3]桓温は入朝する機に「帝が不妊になった」と讒訴した。桓温の圧力に押された褚太后が真偽を確認せず同意しながら司馬奕は廃され、海西公に降格されてしまった。帝位は大叔父の会稽王司馬昱が継いだ。
咸安2年(372年)、呉県西柴里に移された。同年11月、妖賊の盧悚が殿中監の許龍を海西公の居所に派遣し、褚太后の密詔と称して復位を勧めた。海西公はこれに従おうとしたが、保母の諫言により断念し、許龍を叱って追い出した。以後、才を隠し飲酒に耽ることで朝廷の警戒をそらし、ともかくも無事天寿を全うしている。
太元11年(386年)、45歳で薨去[2]。一説では酒毒で亡くなったという。
宗室
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后妃
[編集]子女
[編集]- 3人の男子 - あるいは、寵童らの息子とされた。
海西公が初めて皇子を産んだ際、民間では「鳳凰が一匹の子を産んだから、天下に喜ばない人がいないね。元々は小馬と呼ばなければならないが、もう龍の息子として育つように決まったんだね!」という歌が出回った。その曲調は美しかったが、歌詞の意味は微妙だった。実際、海西公は息子を産むことができず、寵童・内侍が姦通して産んだ子供を皇子にしたことを皮肉ったものだった。同じ時期のまた別の民謡では「御路の柳は青く、手綱に締まっている紫色の白馬が遊ぶ。君は皇太子じゃないのに、どうして甘露を得ることができるのか」と歌われた。これに対してある識者は白色は金徳の晋室を、馬は皇族を指し、偽物を意味する紫色が本物に当たる朱色に代わると解釈した。
海西公が廃黜されると、3人の皇子はいずれも馬の手綱に扼殺された。その翌日、南方から甘露を飲んだ馬が献上されたという[4]。
脚注
[編集]伝記資料
[編集]- 『晋書』巻8 帝紀第8 廃帝海西公