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その後、[[1956年]]に[[新進棋士奨励会|奨励会]]初段試験に合格し、同年予備クラスに入り四段ながら順位戦から予備クラス入りしていた[[浅沼一]]、後に棋士となる[[木村嘉孝 (棋士)|木村嘉孝]]・[[内藤國雄]]・[[佐伯昌優]]・[[伊達康夫]]らを相手に、内藤に1敗のみの11勝1敗の成績で1期で昇段を決め、翌[[1957年]]に四段昇段。38歳での[[順位戦]]初参加は、[[1956年]]から[[1973年]]まで行われていた予備クラスの三段から四段に昇段した中で最年長記録となる。ただし最初に参加した[[第13期順位戦#C級2組|第13期順位戦C級2組]]では6勝8敗で同星多数ながら序列最下位のため降級し、[[1959年]]に奨励会予備クラスに戻る。 |
その後、[[1956年]]に[[新進棋士奨励会|奨励会]]初段試験に合格し、同年予備クラスに入り四段ながら順位戦から予備クラス入りしていた[[浅沼一]]、後に棋士となる[[木村嘉孝 (棋士)|木村嘉孝]]・[[内藤國雄]]・[[佐伯昌優]]・[[伊達康夫]]らを相手に、内藤に1敗のみの11勝1敗の成績で1期で昇段を決め、翌[[1957年]]に四段昇段。38歳での[[順位戦]]初参加は、[[1956年]]から[[1973年]]まで行われていた予備クラスの三段から四段に昇段した中で最年長記録となる。ただし最初に参加した[[第13期順位戦#C級2組|第13期順位戦C級2組]]では6勝8敗で同星多数ながら序列最下位のため降級し、[[1959年]]に奨励会予備クラスに戻る。 |
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[[1961年]]は予備クラス後期西軍優勝も、人員調整で東軍に編入されていた東軍優勝[[高島弘光]]に敗れる。この年から行われるようになった敗者戦を前期東西決戦敗者の[[板谷進]]と指して勝利し、[[順位戦]]に復帰する。なお同時に降級した[[西本馨]]は復帰できず、[[橋爪敏太郎]]は予備クラスでは指さずに引退している。予備クラスから復帰自体も、[[星田啓三]]に次ぐ2例目、後に[[橋本三治]]が達成しているのみ。また予備クラスの後継奨励会A組敗者戦勝者での順位戦参加者は、他に[[山口英夫 (棋士)|山口英夫]]・[[ |
[[1961年]]は予備クラス後期西軍優勝も、人員調整で東軍に編入されていた東軍優勝[[高島弘光]]に敗れる。この年から行われるようになった敗者戦を前期東西決戦敗者の[[板谷進]]と指して勝利し、[[順位戦]]に復帰する。なお同時に降級した[[西本馨]]は復帰できず、[[橋爪敏太郎]]は予備クラスでは指さずに引退している。予備クラスから復帰自体も、[[星田啓三]]に次ぐ2例目、後に[[橋本三治]]が達成しているのみ。また予備クラスの後継奨励会A組敗者戦勝者での順位戦参加者は、他に[[山口英夫 (棋士)|山口英夫]]・[[森雞二]]・[[野本虎次]]しかおらず、予備クラスからの復帰者は唯一である。 |
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[[1962年]]に復帰後は、[[1964年]]の[[第19期順位戦#C級2組|第19期順位戦]]に9勝3敗で次点となった(この時の昇級者は10勝2敗の[[米長邦雄]]・[[関屋喜代作]])のが最高成績であった。[[1971年]]の[[第26期順位戦#C級2組|第26期順位戦C2組]]では0勝8敗で全敗を喫するも契約問題のため降級点がつかなかった。[[1975年]]の[[第30期順位戦#C級2組|第30期順位戦]]は2勝8敗で降級点を与えられ、[[1980年]]の[[第39期順位戦#昇降級リーグ戦4組|第39期順位戦]]では3勝7敗で2つ目の降級点を喫し、[[1987年]]の引退まで解消することはできなかった。[[1982年]]の[[第41期順位戦#昇降級リーグ戦4組|第41期順位戦]]では、0勝10敗と2度目の全敗を喫している。 |
[[1962年]]に復帰後は、[[1964年]]の[[第19期順位戦#C級2組|第19期順位戦]]に9勝3敗で次点となった(この時の昇級者は10勝2敗の[[米長邦雄]]・[[関屋喜代作]])のが最高成績であった。[[1971年]]の[[第26期順位戦#C級2組|第26期順位戦C2組]]では0勝8敗で全敗を喫するも契約問題のため降級点がつかなかった。[[1975年]]の[[第30期順位戦#C級2組|第30期順位戦]]は2勝8敗で降級点を与えられ、[[1980年]]の[[第39期順位戦#昇降級リーグ戦4組|第39期順位戦]]では3勝7敗で2つ目の降級点を喫し、[[1987年]]の引退まで解消することはできなかった。[[1982年]]の[[第41期順位戦#昇降級リーグ戦4組|第41期順位戦]]では、0勝10敗と2度目の全敗を喫している。 |
2020年7月16日 (木) 23:07時点における版
北村文男 七段 | |
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名前 | 北村文男 |
生年月日 | 1920年10月4日 |
没年月日 | 1993年1月14日(72歳没) |
棋士番号 | 76 |
出身地 | 三重県鈴鹿市 |
師匠 | 板谷四郎九段 |
段位 | 七段 |
棋士DB | 北村文男 |
2017年8月24日現在 |
北村 文男(きたむら ふみお、1920年10月4日 - 1993年1月14日)は、将棋棋士、囲碁棋士。三重県鈴鹿市出身。将棋では板谷四郎九段門下。日本将棋連盟棋士番号76。囲碁では関西棋院中部総本部[1]所属、伊神肇六段門下。
人物
早稲田大学卒業後、教員の傍ら1948年に将棋のアマチュア名人戦で三重県代表として出場し優勝。1950年、西名人(全国準優勝)を果たす。
その後、1956年に奨励会初段試験に合格し、同年予備クラスに入り四段ながら順位戦から予備クラス入りしていた浅沼一、後に棋士となる木村嘉孝・内藤國雄・佐伯昌優・伊達康夫らを相手に、内藤に1敗のみの11勝1敗の成績で1期で昇段を決め、翌1957年に四段昇段。38歳での順位戦初参加は、1956年から1973年まで行われていた予備クラスの三段から四段に昇段した中で最年長記録となる。ただし最初に参加した第13期順位戦C級2組では6勝8敗で同星多数ながら序列最下位のため降級し、1959年に奨励会予備クラスに戻る。
1961年は予備クラス後期西軍優勝も、人員調整で東軍に編入されていた東軍優勝高島弘光に敗れる。この年から行われるようになった敗者戦を前期東西決戦敗者の板谷進と指して勝利し、順位戦に復帰する。なお同時に降級した西本馨は復帰できず、橋爪敏太郎は予備クラスでは指さずに引退している。予備クラスから復帰自体も、星田啓三に次ぐ2例目、後に橋本三治が達成しているのみ。また予備クラスの後継奨励会A組敗者戦勝者での順位戦参加者は、他に山口英夫・森雞二・野本虎次しかおらず、予備クラスからの復帰者は唯一である。
1962年に復帰後は、1964年の第19期順位戦に9勝3敗で次点となった(この時の昇級者は10勝2敗の米長邦雄・関屋喜代作)のが最高成績であった。1971年の第26期順位戦C2組では0勝8敗で全敗を喫するも契約問題のため降級点がつかなかった。1975年の第30期順位戦は2勝8敗で降級点を与えられ、1980年の第39期順位戦では3勝7敗で2つ目の降級点を喫し、1987年の引退まで解消することはできなかった。1982年の第41期順位戦では、0勝10敗と2度目の全敗を喫している。
1958年・1963年、古豪新鋭戦で準優勝。1986年六段。1987年引退。1999年、追贈七段。将棋の弟子に山本真也がいる。
昇段履歴
- 将棋
- 1958年4月1日 四段
- 1973年11月3日 五段
- 1986年 六段
- 1999年1月14日 七段
- 囲碁
- 1960年 初段
- 1965年 三段
戦歴
- 将棋
- C級2組通算25期、連続24期