「夏侯惇」の版間の差分
m Bot作業依頼: 「バク」→「邈」の改名に伴うリンク修正依頼 (張邈) - log |
|||
32行目: | 32行目: | ||
曹操が[[エン州|兗州]]を中心に勢力を広げるようになると、夏侯惇は別軍の指揮を執り白馬に駐屯するようになり、折衝校尉・東郡[[太守]]に任じられた。夏侯惇は[[韓浩]]や[[典韋]]など優れた人物を見出し、部下に迎えた。 |
曹操が[[エン州|兗州]]を中心に勢力を広げるようになると、夏侯惇は別軍の指揮を執り白馬に駐屯するようになり、折衝校尉・東郡[[太守]]に任じられた。夏侯惇は[[韓浩]]や[[典韋]]など優れた人物を見出し、部下に迎えた。 |
||
曹操が徐州の[[陶謙]]と対立し遠征すると、夏侯惇は濮陽を留守した。まもなく[[ |
曹操が徐州の[[陶謙]]と対立し遠征すると、夏侯惇は濮陽を留守した。まもなく[[張邈]]・[[陳宮]]らが[[呂布]]を引き入れて謀叛を起こし、兗州の大半が曹操から離反した。 |
||
鄄城の[[荀彧]]と[[程昱]]は張邈らの謀叛を察知したが、曹操が兵の大半を率いて遠征しており留守の兵は少なく、濮陽から夏侯惇を呼び寄せることにした。鄄城には曹操の家族もいたが、城中には張邈らに内通する者が多く、夏侯惇は彼らを守るため軽装の兵で急ぎ出発したが、呂布と遭遇し交戦することとなった。呂布は一時退却した後、夏侯惇が空けた濮陽に入って輜重を奪い、部下の将に策をもって夏侯惇を捕らえさせた。夏侯惇の陣営は恐怖に陥ったが、韓浩の果敢な対応が功を奏し、夏侯惇は救出された。 |
鄄城の[[荀彧]]と[[程昱]]は張邈らの謀叛を察知したが、曹操が兵の大半を率いて遠征しており留守の兵は少なく、濮陽から夏侯惇を呼び寄せることにした。鄄城には曹操の家族もいたが、城中には張邈らに内通する者が多く、夏侯惇は彼らを守るため軽装の兵で急ぎ出発したが、呂布と遭遇し交戦することとなった。呂布は一時退却した後、夏侯惇が空けた濮陽に入って輜重を奪い、部下の将に策をもって夏侯惇を捕らえさせた。夏侯惇の陣営は恐怖に陥ったが、韓浩の果敢な対応が功を奏し、夏侯惇は救出された。 |
2020年7月15日 (水) 21:25時点における版
夏侯惇 | |
---|---|
清の時代に描かれた三国志演義の挿絵 | |
後漢 高安郷侯・大将軍 | |
出生 |
生年不詳 豫州沛国譙県 |
死去 | 延康元年4月25日(220年6月13日) |
拼音 | Xiàhóu Dūn |
字 | 元譲 |
諡号 | 忠侯 |
別名 | 渾名:盲夏侯 |
主君 | 曹操→曹丕 |
夏侯 惇(かこう とん、? - 延康元年4月25日(220年6月13日))は、中国後漢末期から三国時代の武将、政治家。字は元譲(げんじょう、拼音: )。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の人。『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」に伝がある。吉川英治の三国志や横山光輝の三国志などの作品では「かこうじゅん」と江戸時代の慣例に従った読みになっている。
出自
前漢の高祖に仕えた夏侯嬰の末裔という。『三国志』(裴松之注引)の『曹瞞伝』や『世語』によると、曹嵩(曹操の父)は叔父(父の弟)に当たるという。曹操と夏侯淵の従兄弟に当たる。
生涯
14歳の時、学問の師を侮辱した男を殺し、荒い気性を持つ人として知られるようになる。曹操が挙兵した時から、常にその副将として付き従った。
190年、曹操が奮武将軍を称すると、その司馬に任じられた。曹操が董卓配下の徐栄に滎陽汴水で敗れると、軍兵不足を補うため、夏侯惇は曹操や曹洪と共に揚州に赴き、丹陽太守の周昕達の協力を得て精強な兵士を得たが、反乱により多くを失った(「武帝紀」)。
曹操が兗州を中心に勢力を広げるようになると、夏侯惇は別軍の指揮を執り白馬に駐屯するようになり、折衝校尉・東郡太守に任じられた。夏侯惇は韓浩や典韋など優れた人物を見出し、部下に迎えた。
曹操が徐州の陶謙と対立し遠征すると、夏侯惇は濮陽を留守した。まもなく張邈・陳宮らが呂布を引き入れて謀叛を起こし、兗州の大半が曹操から離反した。
鄄城の荀彧と程昱は張邈らの謀叛を察知したが、曹操が兵の大半を率いて遠征しており留守の兵は少なく、濮陽から夏侯惇を呼び寄せることにした。鄄城には曹操の家族もいたが、城中には張邈らに内通する者が多く、夏侯惇は彼らを守るため軽装の兵で急ぎ出発したが、呂布と遭遇し交戦することとなった。呂布は一時退却した後、夏侯惇が空けた濮陽に入って輜重を奪い、部下の将に策をもって夏侯惇を捕らえさせた。夏侯惇の陣営は恐怖に陥ったが、韓浩の果敢な対応が功を奏し、夏侯惇は救出された。
夏侯惇は鄄城に到着すると、その夜に城内で叛乱を企てていた者たちを速やかに逮捕して処刑した。これにより、曹操軍は安定を取り戻した。兗州の混乱を耳にした豫州刺史の郭貢が数万の兵を率いて城下に出向いてきたときは、郭貢と単身で会見に出向こうとする荀彧の身を案じこれに反対した(「荀彧伝」)。
その後、夏侯惇は徐州から帰還した曹操の下で呂布討伐に従軍したが、左眼に流れ矢が当たる怪我を負った。このことから、同族の夏侯淵と区別するために盲夏侯とあだ名された。だが夏侯惇は嫌がり、鏡で自分の顔を見る度に怒って、鏡を投げ捨てたという(王沈の『魏書』)。
陳留太守・済陰太守を歴任し、建武将軍を加えられ、高安郷侯に封ぜられた。蝗害が起こると、かつて曹操が袁術戦で決壊させた太寿水をせき止める堤防を築き、自らも土を担いで土木作業に従事し、将兵を指揮して稲作を指導し、民を助けた。一方、部下の衛臻に妻を宴会に同席させるよう求めたが拒絶され、立腹して衛臻を一時拘束したこともあったという(「衛臻伝」)。
198年、呂布配下の高順と張遼が沛にいた劉備を攻撃すると、その救援に赴いたが敗北した(「呂布伝」)。
199年、洛陽の長官である河南尹に転任した。曹操が袁紹と敵対し河北を征伐すると、その後詰めを務めた。曹操が袁紹を破った後、豫章太守の孫賁と交州刺史の張津に手紙を送り、南方から荊州の劉表を牽制させたこともあったという(「孫破虜討逆伝」が引く『志林』)。
劉表の命令を受けた劉備が曹操の留守を狙って葉県へ侵入すると、夏侯惇は于禁・李典を率いこれを迎撃した。劉備は屯営を焼き払って博望に撤退した。李典は「伏兵があるので追ってはいけません」と諌めたが、夏侯惇はこれを聞き入れずに追撃した。案の定伏兵の攻撃を受けて危機に陥ったが、李典に救出された(博望坡の戦い、「李典伝」「先主伝」)。
204年、鄴が平定されると、陳登の後任となる伏波将軍に昇進した。河南尹の職は引き続き任され、法令に拘束されず自己の判断で職務を遂行されることが許された。
206年、并州の高幹が劉表と結んでいた張晟(張白騎)と共に反乱を起こし、河東の衛固・范先がこれに呼応すると、曹操は夏侯惇を彼らの討伐に向かわせた。河東太守の杜畿は、夏侯惇の大軍が着く前に衛固らのもとへ行って油断させ、それから張辟に篭って彼らを防いだ。そこに到着した夏侯惇が大軍を指揮して高幹・張晟を撃破し、衛固・范先を捕らえて処刑した(「杜畿伝」)。
207年、夏侯惇の功績が朝廷に取り上げられ、1800戸が加増され、合計2500戸となった。
夏侯惇は田疇のように曹操と距離を置いていた者とも仲が良く、封爵を辞退し続ける田疇の説得を曹操に頼まれている(「田疇伝」)。
217年、曹操と孫権が濡須口で戦ったが、孫権は防備はきわめて厳重になり、曹操は大軍をまとめて撤退した。戦いの後、曹操は許昌に帰還する際に、夏侯惇を揚州方面26軍の総指揮官に任命し、居巣湖辺に留め、張遼・臧覇といった将軍達の指揮を任せた。曹操は楽人と歌姫を与え、夏侯惇の功績を古人になぞらえて賞賛した。
219年、曹操は関羽に備えるため摩陂に駐軍した時、夏侯惇を呼び寄せた。曹操は夏侯惇を特に親しんで重んじ、車への同乗や寝室への出入りを許し、その厚遇に比肩できる者はいなかったという。この時、魏の前将軍に任命された。これまで夏侯惇は、魏王に即位した後の曹操の配下では唯一漢の官位に就いており、漢の直臣という立場は曹操と同じであった。これは曹操が「不臣の礼(配下として扱わない特別待遇)」として、夏侯惇に対して魏の官位を与えようとしなかったからであるが、夏侯惇は自分には過ぎた扱いとしてこれを固辞、魏の官位を与えられることを強く要請したという。
夏侯惇は曹操に帝位につくよう熱心にすすめたとも(『魏氏春秋』)、桓階が曹操に帝位につくよう勧めたことに異議を唱え、まず劉備を滅ぼしてから帝位につくべきだと主張したともいわれる(『曹瞞伝』、『世語』)。
夏侯惇は諸軍を指揮して寿春に帰還し、召陵に駐屯した。220年正月、曹操が亡くなり曹丕が魏王を継ぐと3月に大将軍(三公を凌ぐ軍務・軍政の最高職)に任命されたが、延康元年(220年)の4月、曹操の後を追うかのように病に倒れ、この世を去った(「文帝紀」)。先に曹操が帝位につくことに反対したことを後悔したため発病したという説もある(『曹瞞伝』、『世語』)。諡は忠侯。
233年(曹叡の代)5月、魏の功臣の中で功勲が顕著な者として、夏侯惇は曹仁・程昱と共に曹操の廟庭に祭られた。功臣の合祀は度々行われたが、この三人が最初であった。
夏侯惇は軍の遠征中でも師を迎えて、熱心に授業を受けた。性格は清潔で慎ましやかであり、余財が出るたびに人々へ分け施し、金に不足したときは官吏に借りるなどし、利殖に励むことはなかった(『夏侯惇伝』)。
許昌に最近まで残されていた夏侯惇の陵墓を発掘した際には、埋葬品がたった一振りの剣しかなかった[1]。
官位
裨将→行奮武将軍司馬→折衝校尉・東郡太守→建武将軍・陳留太守→建武将軍・済陰太守→建武将軍・河南尹→伏波将軍・河南尹→前将軍(魏国)→大将軍(魏国)
演義での夏侯惇
小説『三国志演義』での夏侯惇は、軽率なところがあるものの武勇に秀でた猛将として描かれている。例えば、董卓配下の徐栄を突き殺し、呂布配下の将軍である高順を一騎討ちで追い払い、関羽とも打ち合うといった活躍を見せている。
一般的に、夏侯惇というと隻眼の将軍といった印象があるが、この夏侯惇像を一層強くする挿話の舞台となるのは、その後の呂布との戦いである。この戦いの最中、呂布の将を追撃する夏侯惇を陣中から確認した敵将曹性は、矢を放ち夏侯惇の左目を射抜く。この時、夏侯惇は刺さった矢を眼球もろとも引き抜き、「父精母血、不可棄也(親から貰った体を棄てられるものか)」と叫びこれを喰らい、その後に左目を射抜いた曹性を、次の矢を番える暇もなく顔を突き刺し、討取るというものである。NHK放送の『人形劇 三国志』では潼関の戦いで登場し、小舟に乗せた曹操をかばい馬超軍の流れ矢を受け、目を失ったということになっている。孔融が禰衡を曹操に推挙した際、禰衡が曹操を筆頭に臣下への言行を様々に言い連ねているが、夏侯惇は「五体満足」と皮肉られる、という挿話も演義には見られる。
新野の劉備討伐では、10万の兵の大将として侵攻した際、敵先鋒の趙雲を追軍し、博望坡まで深追いしてしまう。李典が「博望坡は火計をしかけるのに優位な地形だ」と勧告するも、諸葛亮の火計にかかり潰走、大敗している(博望坡の戦い)。多くの部下を戦死させた責任として、自らの死罪を覚悟し縄で体を縛りつけ曹操と対面したが、曹操に赦されている。
最後は、曹操危篤の際に枕元へ呼びつけられた時、そこでかつて曹操が殺害した人物達の亡霊を見てしまう。これによって夏侯惇は昏倒、その後間も無く死去する設定になっている。
家系図
● | ● | 夏侯惇 | 夏侯充 | 夏侯廙 | 夏侯劭 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
夏侯楙 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
夏侯子臧 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
夏侯子江 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
夏侯廉 | ● | 夏侯佐 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
● | 夏侯淵 | 夏侯衡 | 夏侯績 | 夏侯褒 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
夏侯覇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
夏侯称 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
夏侯威 | 夏侯荘 | 夏侯湛 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
夏侯栄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
夏侯恵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
夏侯和 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
● | 夏侯尚 | 夏侯玄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
● | 夏侯儒 | 夏侯徽 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
子孫・兄弟
子
- 夏侯充(字:不詳)
- 長子。夏侯惇の没後、後を継ぐ。
- 夏侯楙(字:子林)
- 『演義』では養子という設定になっている。
- 夏侯子臧(名:不詳)、夏侯子江(名:不詳)
また、夏侯惇の没後に夏侯惇の7人の子と2人の孫が関内侯に封じられたという記録がある。
孫
- 夏侯廙
- 夏侯充の子。
- 夏侯佐
- 『晋陽秋』によると、高安郷侯となり、266年に死去したといい、これによって夏侯惇の直系子孫は絶えた。
曾孫
- 夏侯劭
- 夏侯廙の子。『晋陽秋』では夏侯佐の没後に遠縁より迎えられた養子とされている。
兄弟
- 夏侯廉(字:不詳)
- 夏侯惇の生前のうちに列侯に封じられていたという。
『三国志演義』では夏侯淵の兄とされる。また、吉川英治の小説『三国志』や横山光輝の漫画『三国志』では、夏侯恩が夏侯惇の弟としている。夏侯恩は『三国志演義』に登場する架空の人物であるが、演義本編にはそのような記述はない。
脚注・出典
- ^ 『三国志 真の最強は誰だ?』Mediax Mook414 平成25年8月30日発行 ISBN 978-4-86201-444-3 29ページ