ノート:夏侯惇
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夏候惇という誤字の記事があって、かなりの分量があるのですが、統合した方が良さそうですね。
統合しました。ひろたん 2005年9月18日 (日) 13:31 (UTC)
統合提案について
[編集]記事夏侯子江、夏侯子臧 につきまして、事跡の乏しさに加え、『三国志演義』にも登場しないことから、特筆性が無いものと思われますので、本記事への統合を提案いたします。統合後は、リダイレクト先を本記事の「子孫・兄弟」にしたいと考えています。--天竺鼠 2010年7月4日 (日) 14:03 (UTC)
- 統合に賛成します。--桜国の竜 2010年7月10日 (土) 03:49 (UTC)
- 合意が得られましたため、両記事を統合いたしました。--天竺鼠 2010年7月11日 (日) 12:51 (UTC)
経歴について
[編集]以下の内容の出典が不明(三国志以外)のため、コメントアウトしました。記述する際は出典をお願いします。
- 曹操軍が張繍に敗れた際、青州兵が略奪を働いたことを叱責された
- 辺譲を暗殺した
- 漢中攻略に関する戦略会議や、曹操の帝位就任に関する重要な会議で意見を求められた(武帝紀に、曹操の帝位就任に関する意見を述べる記述はある)
また、以下の内容は誤読ではないかと考え、書き換え及びコメントアウトを行いました。
- 典韋・田疇を推挙した→両者の伝を見る限り、典韋は夏侯惇に所属していた、田疇は曹操の意を受けた夏侯惇の説得を受けただけで、どちらも夏侯惇が推挙したとは取れない
- 呂布を軽騎兵で打ち破った。手に負えないと判断した呂布は本隊を東に戻した→夏侯惇伝では「呂布が退却した」という記述しかない。そもそも呂布は夏侯惇が守備していた濮陽に入ったのであるから、退却したという表現も微妙である
- 道に迷った夏侯惇と許褚が、張魯軍の陣営に入りこれを打ち破った→張魯伝注では、道に迷ったのは夏侯惇らが呼びに行った前衛部隊のように取れる。夏侯惇が敵を撃退したなら、その後の「敵の退却を夏侯惇が自分の目で確かめに行った」という記述も不自然である。別の記事や武帝紀では高祚らが張衛を破ったとあり、道に迷った前衛部隊とは彼らではないだろうか