「高円宮憲仁親王」の版間の差分
→top: 続柄 |
|||
27行目: | 27行目: | ||
'''高円宮 憲仁親王'''(たかまどのみや のりひとしんのう、[[1954年]]〈[[昭和]]29年〉[[12月29日]]<ref>1954年(昭和29年)12月29日宮内庁告示第8号「崇仁親王妃百合子殿下親王御出産」</ref> - [[2002年]]〈[[平成]]14年〉[[11月21日]])は、[[日本]]の[[皇族]]。[[高円宮|高円宮家]]初代当主。[[身位]]は[[親王]]。[[お印]]は'''[[ヒイラギ|柊]]'''(ひいらぎ)。[[勲等]]は[[大勲位]]。[[学位]]は[[法学士]]([[学習院大学]])。 |
'''高円宮 憲仁親王'''(たかまどのみや のりひとしんのう、[[1954年]]〈[[昭和]]29年〉[[12月29日]]<ref>1954年(昭和29年)12月29日宮内庁告示第8号「崇仁親王妃百合子殿下親王御出産」</ref> - [[2002年]]〈[[平成]]14年〉[[11月21日]])は、[[日本]]の[[皇族]]。[[高円宮|高円宮家]]初代当主。[[身位]]は[[親王]]。[[お印]]は'''[[ヒイラギ|柊]]'''(ひいらぎ)。[[勲等]]は[[大勲位]]。[[学位]]は[[法学士]]([[学習院大学]])。 |
||
[[三笠宮崇仁親王]]と[[崇仁親王妃百合子|同妃百合子]]の第三男子(3男2女のうち第5子)。[[明仁]]([[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]])は従兄、[[徳仁]](第126代[[天皇]])は従甥にあたる。兄に[[寛仁親王]]、[[桂宮宜仁親王]]、姉に[[近 |
[[三笠宮崇仁親王]]と[[崇仁親王妃百合子|同妃百合子]]の第三男子(3男2女のうち第5子)。[[明仁]]([[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]])は従兄、[[徳仁]](第126代[[天皇]])は従甥にあたる。兄に[[寛仁親王]]、[[桂宮宜仁親王]]、姉に[[近衞甯子]]、[[千容子]]がいる。 |
||
[[高円宮]]の[[宮号]]は[[昭和天皇]]から賜ったものである。父宮の三笠宮の宮号の由来となった[[奈良県]][[奈良市]]の[[春日山 (奈良県)|三笠山]]付近にある高円山から採られた。なお、諱である憲仁は[[高倉天皇]]と字面・読みともに同じである。 |
[[高円宮]]の[[宮号]]は[[昭和天皇]]から賜ったものである。父宮の三笠宮の宮号の由来となった[[奈良県]][[奈良市]]の[[春日山 (奈良県)|三笠山]]付近にある高円山から採られた。なお、諱である憲仁は[[高倉天皇]]と字面・読みともに同じである。 |
2020年7月15日 (水) 09:46時点における版
高円宮憲仁親王 | |
---|---|
高円宮家 | |
続柄 | 三笠宮崇仁親王第3男子 |
宮号 | 高円宮(たかまどのみや) |
全名 | 憲仁(のりひと) |
身位 | 親王 |
お印 | 柊 |
出生 |
1954年12月29日 日本・東京都品川区上大崎 三笠宮邸 |
死去 |
2002年11月21日(47歳没) 日本・東京都新宿区信濃町 慶應義塾大学病院 |
埋葬 |
2002年11月29日 日本・東京都文京区大塚五丁目 豊島岡墓地 |
配偶者 | 親王妃久子(鳥取久子) |
子女 |
承子女王 千家典子(典子女王) 守谷絢子(絢子女王) |
父親 | 三笠宮崇仁親王 |
母親 | 崇仁親王妃百合子 |
役職 |
日本サッカー協会名誉総裁 日本ホッケー協会名誉総裁 日本スカッシュ協会名誉総裁 日本フェンシング協会名誉総裁 全日本軟式野球連盟名誉総裁 日本学生協会基金名誉総裁 日本水難救済会名誉総裁 日本アマチュアオーケストラ連盟総裁 他多数 |
高円宮 憲仁親王(たかまどのみや のりひとしんのう、1954年〈昭和29年〉12月29日[1] - 2002年〈平成14年〉11月21日)は、日本の皇族。高円宮家初代当主。身位は親王。お印は柊(ひいらぎ)。勲等は大勲位。学位は法学士(学習院大学)。
三笠宮崇仁親王と同妃百合子の第三男子(3男2女のうち第5子)。明仁(上皇)は従兄、徳仁(第126代天皇)は従甥にあたる。兄に寛仁親王、桂宮宜仁親王、姉に近衞甯子、千容子がいる。
高円宮の宮号は昭和天皇から賜ったものである。父宮の三笠宮の宮号の由来となった奈良県奈良市の三笠山付近にある高円山から採られた。なお、諱である憲仁は高倉天皇と字面・読みともに同じである。
生涯
1954年(昭和29年)、三笠宮崇仁親王の三男として誕生。松濤幼稚園、学習院初等科、学習院中等科を経て、学習院高等科時代は写真部に所属し、以来写真撮影を趣味の一つとした。
1978年(昭和53年)学習院大学法学部卒業後、同年から1981年(昭和56年)までの期間にカナダのクイーンズ大学に留学した。帰国後から国際交流基金で嘱託となり、公務の傍ら一般職員同様に勤務した。
1984年(昭和59年)4月23日、カナダ大使館のレセプションパーティーにて実業家の鳥取滋治郎の長女で通訳として活動していた鳥取久子と出会う。その後皇室会議で承認され、同年9月17日に納采の儀、12月6日に結婚の儀を執り行った。婚儀と同日に、高円宮家が創設された。戦後初の(三笠宮の分家として)宮家の1つから分かれた宮家の創設であった。なお、久子妃の曾祖母と貞明皇后は従姉妹にあたり、妃と高円宮は遠縁にあたる。その後、承子女王、典子女王、絢子女王の3女が誕生したが、男子はいない。
生涯を通じて皇位継承順位が皇族の中で最下位であり、また生家においても傍流にあたる三男ということから「皇室(オク)のスポークスマン」を自認していた(戦後では皇位継承順位が生涯を通じて皇族の中で最下位だった唯一の例)。
2001年(平成13年)7月、社団法人日本水難救済会名誉総裁に就任。
スポーツ、特にサッカーの振興・発展に尽力し、1987年から日本サッカー協会の名誉総裁を務めた。2002年(平成14年)には、サッカー・ワールドカップ日韓大会の開催期間中である5月末に夫妻で大韓民国を公式訪問し、開会式にも出席した。皇族の大韓民国訪問は、公式訪問としては高円宮が第二次世界大戦後初である(※それ以前には、韓国最後の皇太子李垠やその妻・李方子の葬儀などに参列するため秩父宮妃勢津子、高松宮宣仁親王、同妃喜久子、三笠宮崇仁親王、同妃百合子、寬仁親王が韓国を訪問したことがあるが、公式訪問ではない)。開催期間中19試合を観戦した[2]。
2002年(平成14年)11月21日、カナダ大使館にてスカッシュの練習を行っていた最中に心室細動による心不全で倒れた。直ちに慶應義塾大学病院に搬送されるも、既に心肺停止の状態であり、蘇生措置がとられ一時は心拍が確認されるも、夜半になって容態が悪化。久子妃の同意を得て人工心肺装置を取り外したところ、生命反応がなく、薨去が確認された。47歳没。
11月29日に斂葬の儀(葬儀)が執り行われ、その後落合斎場で火葬され豊島岡墓地に埋葬された。葬儀には学習院初等科・中等科などの同級生が動員された。憲仁親王が生前取り組んでいた役職の多くは、久子妃が引き継いでいる。
なお、憲仁親王の急逝以降、心室細動に対する対応が厚生労働省や消防庁で取り上げられ、死去から2年後の2004年(平成16年)に一般人による除細動のための自動体外式除細動器(AED)の使用が認められ広く普及した。
子女
- 第1女子 - 承子女王〈つぐこ〉(1986年〈昭和61年〉 - )
- 第2女子 - 典子女王〈のりこ〉(1988年〈昭和63年〉 - ) - 出雲大社権宮司・千家国麿夫人
- 第3女子 - 絢子女王〈あやこ〉(1990年〈平成2年〉 - ) - 日本郵船社員(NPO法人国境なき子どもたち理事)の守谷慧夫人
系譜
憲仁親王 | 父: 崇仁親王(三笠宮) |
祖父: 大正天皇 |
祖母: 貞明皇后 | ||
母: 百合子 |
祖父: 高木正得 | |
祖母: 高木邦子 |
系図
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
123 大正天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
124 昭和天皇 | 秩父宮雍仁親王 | 高松宮宣仁親王 | 三笠宮崇仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
125 上皇 | 常陸宮正仁親王 | 寬仁親王 | 桂宮宜仁親王 | 高円宮憲仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
126 今上天皇 | 秋篠宮文仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
悠仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
人物
- 芸術活動はバレエ等の芸術に造詣が深かった。バレリーナ・森下洋子らとの対談集『カーテンコールのこちら側』などの著書がある。
- 個人的な趣味は写真撮影であった。写真の趣味に関しては、11歳頃から母親の三笠宮妃百合子からコダックインスタマチックカメラを貰ったのがきっかけであった。学習院高等科時代に写真部に入部して夜間遅くまでクラブ活動をしていた[3]。 その他の趣味として根付のコレクション・社交ダンスなどがあり、多趣味な人柄だった。
- 他の皇族との交友関係は昭和天皇在世中から5歳年少で従兄弟違の浩宮徳仁親王(今上天皇)のよき相談役で兄のような存在であったという[4]。また、1987年(昭和62年)には、浩宮徳仁親王と小和田雅子(いずれも当時)を自邸に招き、交際を深めるきっかけを作ったことでも知られる(皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀参照)。薨去の直前にも皇太子夫妻が高円宮邸を訪問している。次女の典子女王の嫁ぎ先の出雲大社の行事に盛んに出席していた。
- スポーツ振興や国際交流に尽くしてきた。特にサッカーに関しては、まだ日本ではマイナースポーツであった頃から普及に尽力しており、自身も国民体育大会で日本協会チーム(通称「プリンス高円イレブン」)の一員として、毎年開催県の協会と親善試合を行っていた[5]。
- 語学に関して英語が堪能でフランス語も少しできるが、1991年(平成3年)のスペイン訪問でスペイン王室のエレナ王女との交流からスペインの文化に関心を持った。スペインに関心がある事を知っている他の皇室関係の人からのアドバイスでスペイン語の勉強をするようになった[6]。
- 三笠宮の他の3人兄弟の長兄の寛仁親王は癌で闘病生活であり、次兄の桂宮は身体が不自由な病気で公務に制限がある身体だったが、高円宮のみ唯一健康であった。健康的で若い男性皇族として盛んに公務をしていた。
逸話
- 公務の傍ら、皇族としては珍しく、国際交流基金の職員として他の一般職員とともに勤務していた。当時自民党員の鈴木宗男と高円宮の電話の会話があり、「国会議員の鈴木だ」と名乗った際に即座に平身低頭な口調にならないことに激昂し「俺を知らないのか! 貴様、名前を名乗れ!」と喚き散らした時には冷静に「高円宮と申します」と返答し、後日にそれが事実であることを知った鈴木が直接謝罪に伺いたいと第三者を介して申し出た時には、一切受け入れずに断ったというエピソードもあり、サッカーファンの間では語り草になっている[7]。
- 幼少時代は走るのが速いわけではなく、スポーツに対して苦手意識があった[8]。学習院初等科6年生の時に静岡県沼津市で実施された水泳合宿で2キロの長距離水泳で運動に自信がつき、[9]学習院中等科時代にテニスとサッカーなどのスポーツを開始した。学習院高等科時代に陸上ホッケーなどのスポーツをして、大学時代にスキー部に入部した。[10]
- 記者からの「プロポーズの言葉は?」との質問に対して、「ごく簡単に『Will you marry me?』と英語でプロポーズをした」と回答した。翻訳会社社員であった婚約者の鳥取久子(高円宮妃)の返答が「『Yes.』だった」という。[11]
高円宮の名を冠したもの
スポーツ
- 高円宮杯 JFA U-18サッカーリーグ
- 高円宮杯 JFA 全日本U-15サッカー選手権大会
- 高円宮牌ホッケー日本リーグ
- 高円宮賜杯全日本学童軟式野球大会 マクドナルド・トーナメント(平成9年第17回大会より高円宮杯が下賜される。)
- 高円宮牌フェンシングワールドカップ
カナダ関連・その他
- 高円宮記念クィーンズ大学留学奨学金[12]
- カナダ大使館高円宮記念ギャラリー
- 高円宮杯全日本中学校英語弁論大会
著作・コレクション
- 『カーテンコールのこちら側 高円宮憲仁親王対談集』(流行通信社、1991年) ISBN 4-947551-82-8
- 『創造のプロファイル 高円宮憲仁親王対談集2』(流行通信社、1992年) ISBN 4-947551-81-X
- 『オーロラが消えぬ間に』(読売新聞社、2001年) ISBN 4-643-01011-8
- 『素顔の一瞬』(中央公論新社、2002年) ISBN 4-12-003319-8
- 『現代根付 増補版-高円宮コレクション』(白鳥舎、2003年) ISBN 4-939046-06-0
- 高円宮妃久子 編『根付 高円宮コレクションII』(思文閣出版、2006年) ISBN 4-7842-1273-6
伝記
- 高円宮殿下伝記刊行委員会 編『高円宮憲仁親王』(読売新聞社、2005年) ISBN 4-12-003626-X
脚註
- ^ 1954年(昭和29年)12月29日宮内庁告示第8号「崇仁親王妃百合子殿下親王御出産」
- ^ “高円宮さまの急逝:日本にとって大きな損失”. ジェレミー・ウォーカーの A View From a Brit (2002年11月24日). 2015年9月29日閲覧。
- ^ 『宮さまとの思い出』131頁
- ^ 宮内庁・平成14年皇太子妃誕生日会見
- ^ 岡野俊一郎日本サッカー協会名誉会長談
- ^ 『宮さまとの思い出』93頁著者高円宮妃久子
- ^ 週刊FLASH 2002年3月12日号 光文社
- ^ 『宮さまとの思い出』159頁1行目から3行目
- ^ 『宮さまとの思い出』159頁4行目から7行目
- ^ 『宮さまとの思い出』160頁
- ^ 『宮さまとの思い出』18頁
- ^ 高円宮記念クィーンズ大学留学奨学金
参考文献
- 高円宮妃久子『宮さまとの思い出』(扶桑社、2003年) ISBN 4-594-04248-1
- 久能靖『高円宮殿下』(河出書房新社、2003年) ISBN 4-309-22405-9
- スティーヴン・コーミー『俤 高円宮殿下の想い出』(里文出版、2005年) ISBN 4-89806-243-1