崇仁親王妃百合子
崇仁親王妃 百合子 | |
---|---|
三笠宮家 | |
続柄 | 高木正得第2女子 |
全名 | 百合子(ゆりこ) |
身位 | 親王妃 |
敬称 | 殿下 |
お印 | 桐 |
出生 |
1923年6月4日 日本・東京府東京市赤坂区赤坂青山高樹町(現:東京都港区南青山) 高木子爵邸 |
死去 |
2024年11月15日(101歳没) 日本・東京都中央区 聖路加国際病院 |
埋葬 |
2024年11月26日 日本・東京都文京区 豊島岡墓地 |
配偶者 | 三笠宮崇仁親王 |
子女 |
近衞甯子(甯子内親王) 寬仁親王 桂宮宜仁親王 千容子(容子内親王) 高円宮憲仁親王 |
父親 | 高木正得 |
母親 | 高木邦子 |
栄典 |
勲一等宝冠章 |
役職 |
皇室会議予備議員 日本赤十字社名誉副総裁 母子愛育会総裁 民族衣裳文化普及協会名誉総裁 中宮寺奉賛会名誉総裁 他多数 |
崇仁親王妃 百合子(たかひとしんのうひ ゆりこ[注釈 1]、1923年〈大正12年〉6月4日 - 2024年〈令和6年〉11月15日)は、日本の皇族、旧華族。三笠宮家第2代当主。大正天皇第4皇子で昭和天皇の弟宮の三笠宮崇仁親王の妃。身位は親王妃。敬称は殿下[1]。勲等は勲一等。お印は桐(きり)。旧名は、高木 百合子(たかぎ ゆりこ)。2023年9月まで皇室会議予備議員。子爵・高木正得第2女子。
略歴
[編集]東京府東京市赤坂区赤坂青山高樹町(現:東京都港区南青山)の高木子爵邸に華族令嬢として誕生[2]。華族・高木正得子爵の二女[2]。母の邦子は入江為守子爵二女。姉に衣子、妹に桃子、小夜子がいる。
1928年(昭和3年)、女子学習院幼稚園に入園。1941年(昭和16年)、女子学習院本科(現:学習院初等科・学習院女子中等科・高等科)を卒業[2][3]。同年10月3日、納采の儀を経て大正天皇の四男である三笠宮崇仁親王と婚約。同年10月22日、結婚の儀を行う。2年6か月後の1944年(昭和19年)4月26日に第1女子・甯子内親王が生まれる。1945年(昭和20年)5月、宮邸であった青山東御殿(東京市赤坂区)が東京大空襲で全焼。伝記などによると、百合子は戦時中当時1歳の長女・甯子内親王を抱え、防空壕生活を余儀なくされた。宮家の防空壕には、青年将校らも何人か次々に避難し戦争の継続をめぐって激論になったと明かす。
神奈川県葉山町一色の御仮寓所へ転居。1947年(昭和22年)、華族制度廃止により生家・高木子爵家が高木家となる。
1946年(昭和21年)1月、第1男子寬仁親王を出産。1947年(昭和22年)、東京都品川区上大崎長者丸の邸宅を三笠宮家が購入し転居、以後13年間御仮寓所とする。この地は1985年にプラトーの分譲(清水建設施工)によってマンションになり、館名は崇仁親王のお印が入った「若杉ホームズ」である。
1948年(昭和23年)、母子愛育会の総裁に就任し、2010年(平成22年)に退任するまで60年余りにわたって母子保健の向上に力を尽くす。
皇室では、1963年(昭和38年)から[4]1967年(昭和42年)まで皇室会議の予備議員を務め、1991年(平成3年)より皇室会議の議員を務めたが[5]、2007年(平成19年)9月より再び予備議員となり2015年(平成27年)9月まで務めた[6]。
宮内庁の発表(2007年〈平成19年〉7月10日)によると大腸癌が見つかり、同日、聖路加国際病院で摘出手術を受けた。
2016年(平成28年)、夫・三笠宮崇仁親王の薨去に伴い、93歳で三笠宮家の当主になる。
2019年(令和元年)9月16日、再び皇室会議予備議員となる[7]。
2020年(令和2年)9月24日、肺炎と心不全の併発より入院[8]、10月8日に退院した[9]。
2022年(令和4年)6月4日、白寿(99歳)の誕生日を迎える[10][11]。明治以降の女性皇族では最高齢である[11]。
2023年(令和5年)6月4日、百寿(100歳)の誕生日を迎える[12]。100歳にあたって寄せた文書では、結婚後は皇族としての公務を果たしつつ「家族一人一人の歩みが分かるように写真アルバムを作成したり、5人の子供たちの育児日誌をつけたりと、時間に追われながらも充実した毎日を過ごしておりました」と回想。現在は孫や8人のひ孫の成長を楽しみにしているといい、「これからも人々の幸せを祈念しつつ、日々を過ごしてまいりたい」とした[13]。宮内庁によると、百合子は健康のため、午前中に15分程度、体操のテレビ番組などに合わせて運動をしているという。天気の良い日は宮邸の庭で日光浴をしたり、車椅子で赤坂御用地内を散策したりしている。複数の新聞や雑誌を読むことを日課とし、テレビでニュースや野球中継を見ることを楽しみにしているという[14]。
最晩年の闘病と薨去
[編集]2024年(令和6年)3月2日、身体の不調を訴え軽度の脱水症状がみられたことから、翌3日午後に聖路加国際病院で検査と診察を受け、軽い脳梗塞症の疑い、誤嚥性肺炎と診断され、そのまま入院した。宮内庁発表では症状は落ち着いており、意識もあり受け答えも出来ているが、痰の量が多いことから集中治療室に入って点滴を受けており、退院時期は未定とされた[15][16]。その後は右の手足の動かしづらさがかなり回復し、肺炎の症状も落ち着いたことから11日午前には一般病棟に移った[17]。しかし数日後に心不全の症状や新たな脳梗塞の症状が確認されたことが3月18日の会見で発表された[18]。6月4日に101歳となった[19]。一般病棟では車椅子に乗るなどのリハビリに毎日30分から1時間ほど取り組み、新聞を読むなどして過ごしており、11月上旬までリハビリが続いていた[20]。
同年11月8日、前日7日の検査で心臓や腎臓など全身の機能低下が進んでいることがわかり、容体が悪化していることが発表された[21]。その後、血圧が低下し声掛けにも反応がなくなるなどが見られ、容態悪化が発表されてから約1週間後の2024年11月15日6時32分、老衰のため[22]、入院先の聖路加国際病院で薨去した[23][24]。101歳没。結局、同年3月の入院から没するまで退院することはなかった[25]。皇族の薨去は令和に改元してから初で、8年前の夫である三笠宮崇仁親王以来となった[26]。
遺体は11月15日9時半、聖路加国際病院から三笠宮邸に移送され、納棺に当たる「御舟入」が11月16日17時から、棺を祭壇に移す「正寝移柩の儀」が11月24日14時から、通夜が同18時から、御霊を権舎に安置する「霊代安置の儀」が11月25日17時から行われ、本葬に当たる「斂葬の儀」のうち葬列が出発する「霊車発引の儀」が11月26日9時半から、「葬場の儀」が同10時から、納骨に当たる「墓所の儀」が同16時半から、孫の彬子女王(寬仁親王長女)を喪主に、尚友倶楽部の坊城俊在を司祭長に執り行われた[27]。遺影は2023年の百寿の際に撮影されたものが祭壇に飾られた。遺体は「葬場の儀」のあと落合斎場で火葬に付され、遺骨は豊島岡墓地の三笠宮家墓所に埋葬された[28]。副葬品には家族の写真、故人により保存されていた5人の子の乳歯、母・高木邦子手縫いの着物のほか、晩年に親しんだ漢字パズルなどが納められた[29]。
11月27日午前、三笠宮邸にて「斂葬後一日権舎祭の儀」が、同午後は豊島岡墓地にて「斂葬後一日墓所祭の儀」が行われた。崇仁親王妃百合子の葬儀は、戦前の「皇室喪儀令」をほぼ踏襲し、2025年(令和7年)11月15日に豊島岡墓地で行う「墓所一周年祭の儀」まで1年間続く。
天皇、皇后、上皇、上皇后は慣例により儀式には参列せず、斂葬の儀には勅使(別所浩郎侍従長)、皇后宮使(坂根工博侍従次長)、上皇使(河相周夫上皇侍従長)、上皇后宮使(高橋美佐男上皇侍従次長)を差遣。11月16日の「御舟入」前と11月24日の「正寝移柩の儀」の後に四陛下がそれぞれ、三笠宮邸に行幸啓し、天皇、皇后は11月27日の「斂葬後一日墓所祭の儀」の後、三笠宮家墓所で拝礼した。
年譜
[編集]- 1923年(大正12年)6月4日、東京府東京市赤坂区高樹町(現:東京都港区南青山)の高木子爵邸にて華族令嬢として誕生。
- 1928年(昭和3年)4月、女子学習院幼稚園に入園。
- 1931年(昭和6年)4月、女子学習院本科に入学。
- 1941年(昭和16年)10月22日、三笠宮崇仁親王と成婚。同日付で宝冠大綬章(勲一等宝冠章)を受章。
- 1944年(昭和19年)4月、甯子内親王を出産。
- 1945年(昭和20年)5月、宮邸の青山東御殿(東京市赤坂区)が空襲で全焼。防空壕舎や神奈川県葉山町一色の住宅を御仮寓所に。
- 1946年(昭和21年)1月、寬仁親王を出産。
- 1947年(昭和22年)、東京都品川区上大崎長者丸の邸宅を宮家が取得し、以後13年にわたり御仮寓所とする。
- 1948年(昭和23年)2月、宜仁親王(桂宮)を出産。11月、実父・高木正得元子爵が奥多摩の山中で自死。
- 1951年(昭和26年)10月、容子内親王を出産。
- 1954年(昭和29年)12月、憲仁親王(高円宮)を出産。
- 1956年(昭和31年)8~10月、セイロン建国2500年記念祭典参列のため、三笠宮とともに戦後初の海外訪問(イラン、イラク立ち寄り)。
- 1970年(昭和45年)11月、東京都港区の赤坂御用地に新築された三笠宮邸へ移居。
- 1989年(平成元年)5月、旧皇族・旧朝鮮王族李方子の葬儀に参列のため三笠宮と大韓民国訪問。
- 2001年(平成13年)10月、ダイヤモンド婚。
- 2002年(平成14年)11月、憲仁親王(高円宮)、心不全により47歳で薨去。
- 2011年(平成23年)10月、プラチナ婚。
- 2012年(平成24年)6月、寬仁親王、多臓器不全により66歳で薨去。
- 2014年(平成26年)6月、宜仁親王(桂宮)、急性心不全により66歳で薨去。
- 2016年(平成28年)10月、夫・三笠宮崇仁親王、心不全により100歳で薨去。葬儀で喪主を務める。
- 2024年(令和6年)8月、外孫(次女の長男)の千明史が急性呼吸不全により39歳で死去。
- 2024年(令和6年)11月15日、聖路加国際病院にて101歳で薨去。
生家・高木子爵家
[編集]高木家は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武家で、江戸時代は河内国丹南藩1万石の大名であった。母・邦子は入江為守子爵二女で、邦子実弟に侍従長・エッセイストの入江相政がいる(百合子の叔父にあたる)。入江家は藤原北家の支流・冷泉家の流れを汲み、中世の大歌人藤原俊成や藤原定家を祖先とする歌道の家。
なお、父の高木正得は昆虫学者であったが華族制度廃止に落魄し(貴重な蔵書や標本を戦災で失った心痛もあったとされる)、1948年(昭和23年)7月8日、遺書を残して失踪、11月1日に東京都と山梨県の県境にある西多摩郡氷川町(現・奥多摩町)の七ツ石山の中で首つり自殺の白骨死体となって発見された。遺書にはインフレなどによる生活苦がつづられており、生活力の無い元華族が淘汰されることを世間に印象付けた。
百合子 | 父: 高木正得 |
祖父: 高木正善 |
曾祖父: 高木守庸 |
曾祖母: 某 | |||
祖母: 高木銑子 |
曾祖父: 松平輝聴 | ||
曾祖母: 井村氏 | |||
母: 高木邦子 |
祖父: 入江為守 |
曾祖父: 冷泉為理 | |
曾祖母: 某 | |||
祖母: 入江信子 |
曾祖父: 柳原前光 | ||
曾祖母: 伊達初子 |
- 父:正得(子爵、貴族院議員)
- 母:邦子(入江為守子爵令嬢、高木子爵夫人[注釈 2])
- 姉:衣子(木越安綱男爵令息・正順を継嗣に迎える。次代当主[30])
- 妹:桃子(旧丸亀藩京極家 京極高晴子爵夫人)
- 妹:小夜子(高丘季昭子爵夫人)
- 曾祖父:松平輝聴(上野国高崎藩第9代藩主)
- 曾祖母:井村氏(輝聴の側室)
- 曾祖父:冷泉為理(羽林家・冷泉家第20代当主)
- 曾祖母:良子(名家・柳原家第20代当主・柳原隆光の長女)
- 曾祖父:柳原前光(大正天皇の伯父、貴族院議員、伯爵)
- 曾祖叔母:柳原愛子(大正天皇の生母。二位の局)
- 曾祖母:初子(伊予国宇和島藩第8代藩主・伊達宗城伯爵令嬢)
- 祖父:高木正善(河内国丹南藩第13代藩主)
- 祖父:入江為守(子爵、東宮侍従長、侍従次長、皇太后宮大夫)
- 祖母:信子(柳原前光伯爵令嬢、入江子爵夫人。柳原愛子の姪)
- 伯父:入江為常(入江為守・信子夫妻の長男)
- 伯母:坊城朔子(坊城俊良伯爵夫人)
- 叔父:入江相政(昭和天皇の侍従長)
子女
[編集]夫の三笠宮崇仁親王との間に、3男2女を出産し5人の子女をもうける。
諱・身位 | 読み | 生年月日 | 没年月日 | 続柄 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
甯子内親王 | やすこ | 1944年〈昭和19年〉 4月26日(80歳) |
第一女子 (第1子) |
近衞忠煇(日本赤十字社名誉社長)と結婚。 皇籍離脱後、近衞甯子(姓読み:このえ)となる。 (皇室典範第12条[31]の規定による) 子女:近衞忠大。 | ||
寬仁親王 | ともひと | 1946年〈昭和21年〉 1月5日 |
2012年〈平成24年〉 6月6日(満66歳没) |
第一男子 (第2子) |
寬仁親王 麻生信子と結婚(→寬仁親王妃信子)。 子女:2女(2人)。 | |
宜仁親王 | よしひと | 1948年〈昭和23年〉 2月11日 |
2014年〈平成26年〉 6月8日(満66歳没) |
第二男子 (第3子) |
桂宮宜仁親王(宮号読み:かつらのみや) 配偶者および子女:無し。 | |
容子内親王 | まさこ | 1951年〈昭和26年〉 10月23日(73歳) |
第二女子 (第4子) |
千宗室と結婚 皇籍離脱後、千容子(姓読み:せん)となる。 (皇室典範第12条[31]の規定による) 子女:2男1女(3人)。 | ||
憲仁親王 | のりひと | 1954年〈昭和29年〉 12月29日 |
2002年〈平成14年〉 11月21日(満47歳没) |
第三男子 (第5子) |
高円宮(たかまどのみや) 高円宮憲仁親王 鳥取久子と結婚(→憲仁親王妃久子)。 子女:3女(3人)。 |
系図
[編集]孫は9人、曾孫は9人(長女の長男の子が3人、次女の長女の子が1人、三男の三女の子が3人いることがメディアなどで報道されているが、残りの2人については続柄不明)。
栄典
[編集]日本
[編集]外国
[編集]名誉役職
[編集]- 皇室会議予備議員(通算4期、1963年(昭和38年)9月16日- 1967年(昭和42年)9月15日[4]・2007年(平成19年)9月16日 - 2015年(平成27年)9月15日[6]・2019年(令和元年)9月16日 - [7])
- 日本赤十字社名誉副総裁
- 恩賜財団母子愛育会総裁(1948年(昭和23年)4月 - 2010年(平成22年)9月30日[35])[36]
- 民族衣裳文化普及協会名誉総裁(1979年(昭和54年)3月 - 2010年 (平成22年)3月)[37]
- 中宮寺奉賛会名誉総裁
- 皇室会議議員(連続4期、1991年(平成3年)9月16日 - 2007年(平成19年)9月15日)[5]
注釈
[編集]- ^ 政府による正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では「皇太子」を除いて、皇族に宮号が冠されることはないため、官報での表記は「崇仁親王妃百合子」とされ、「三笠宮」が冠されることはない。
- ^ 堂上華族の入江家出身。入江家は、藤原北家・長家流御子左家の支流、冷泉家(上冷泉家)の分家で、旧家格は羽林家である。鎌倉時代初期の歌人・藤原定家の子孫。
脚注
[編集]- ^ 皇室典範第二十三条第二項「前項の皇族以外の皇族の敬称は、殿下とする。」
- ^ a b c 『人事興信録 第14版 下』タ99頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年9月10日閲覧。
- ^ 三笠宮家、崇仁親王妃百合子殿下、宮内庁公式サイト。
- ^ a b 1963年(昭和38年)9月19日宮内庁告示第6号「皇族たる皇室会議の議員及びその予備議員の互選において当選した件」
- ^ a b 1991年(平成3年)9月10日宮内庁告示第7号「皇族たる皇室会議の議員及び予備議員の互選において当選した件」
- ^ a b 2007年(平成19年)9月12日宮内庁告示第9号「皇族たる皇室会議の議員及びその予備議員の互選において当選した件」
- ^ a b “皇族議員に秋篠宮さまと常陸宮妃華子さま 選挙で再任:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2022年3月21日閲覧。
- ^ “三笠宮妃百合子さま、心不全を併発 容体は安定”. 日本経済新聞. 2020年9月29日閲覧。
- ^ “三笠宮妃百合子さまが退院”. 朝日新聞社. 2023年6月7日閲覧。
- ^ “三笠宮妃百合子さま きょう99歳 白寿の誕生日 | NHK”. NHKニュース (2022年6月4日). 2022年11月25日閲覧。
- ^ a b “三笠宮妃百合子さまが99歳に、明治以降の女性皇族では最高齢…楽しみは野球観戦”. 読売新聞オンライン (2022年6月4日). 2022年11月25日閲覧。
- ^ “三笠宮妃百合子さま きょう100歳の誕生日 | NHK”. NHKニュース (2023年6月4日). 2023年6月4日閲覧。
- ^ “三笠宮妃百合子さま、激動の100歳人生 防空壕生活、5人の子育て”. 朝日新聞デジタル (2023年6月1日). 2023年6月4日閲覧。
- ^ “三笠宮妃百合子さまが100歳に 明治以降の女性皇族で最高齢(毎日新聞)”. Yahoo!ニュース. 2023年6月4日閲覧。
- ^ “三笠宮妃百合子さまが入院 軽い脳梗塞症の疑いと誤えん性肺炎”. 毎日新聞. (2024年3月3日) 2024年3月4日閲覧。
- ^ 三笠宮妃百合子さま 入院 脳梗塞症の疑いと誤えん性肺炎と診断 - NHK NEWS WEB 2024年3月3日
- ^ “三笠宮妃百合子さま 一般の病室へ移る 脳梗塞などで入院”. NHK NEWS WEB. (2024年3月11日) 2024年3月11日閲覧。
- ^ “入院中の三笠宮妃百合子さまに心不全のご症状 宮内庁が明らかに”. 産経新聞. (2024年3月18日) 2024年3月18日閲覧。
- ^ “皇室で最高齢 三笠宮妃の百合子さま 101歳に 皇族方が病院訪問”. NHK NEWS WEB. (2024年6月4日) 2024年6月4日閲覧。
- ^ 血圧低下、穏やかな最期 逝去の百合子さま―宮内庁 - 時事ドットコム 2024年11月15日
- ^ “三笠宮妃百合子さま容体悪化 宮内庁“全身の機能低下”と発表”. NHK NEWS WEB. (2024年11月8日) 2024年11月9日閲覧。
- ^ 「三笠宮妃 百合子さま ご逝去 101歳 “激動の時代”を歩まれて」『NHK NEWS WEB』2024年11月15日。オリジナルの2024年11月15日時点におけるアーカイブ。宮内庁の諸橋
省明 ()宮務主管と永井良三皇室医務主管の会見によれば、死因は老衰である。 - ^ 『官報』第1348号2頁 令和6年11月18日 宮内庁告示第十一号「崇仁親王妃百合子殿下が薨去された件」
- ^ “【速報】 三笠宮妃百合子さま ご逝去 皇室最高齢の101歳~宮内庁関係者”. 日テレNEWS. (2024年11月15日) 2024年11月15日閲覧。
- ^ 【中継】三笠宮妃百合子さまのご遺体が孫の彬子さまに付き添われ3月入院以来約8カ月ぶりお住まいに 天皇陛下は公務取りやめ - FNNプライムオンライン 2024年11月15日
- ^ 三笠宮妃 百合子さまご逝去 101歳 宮内庁 激動の時代を三笠宮さまと歩まれて 一般の人たちの弔問16日から - NHK NEWS WEB 2024年11月15日
- ^ 百合子さまの本葬「斂葬の儀」、26日に豊島岡墓地で…喪主は孫の彬子さま - 読売新聞 2024年11月15日
- ^ 三笠宮妃百合子さま「斂葬の儀」 喪主の彬子さま、石破首相ら出席 - 毎日新聞 2024年11月26日
- ^ 「母親みたいなまなざしで見守って頂いた」三笠宮妃百合子さまの「斂葬の儀」営まれる 愛用の漢字パズルやお子さま方の乳歯などと共に埋葬 - FNNプライムオンライン 2024年11月27日
- ^ “高木衣子さん死去 三笠宮妃百合子さまの姉”. Web東奥 - 東奥日報. (2019年7月8日) 2020年7月3日閲覧。
- ^ a b 皇室典範(昭和二十二年法律第三号)「第十二条 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。」
- ^ 『官報』第4438号、「叙任及辞令」、昭和16年10月23日。p.719
- ^ Persepolis
- ^ Badraie Archived 2016-03-05 at the Wayback Machine.
- ^ “愛育会総裁に紀子さま”. 日本経済新聞 (2010年10月1日). 2022年3月22日閲覧。
- ^ “主 要 沿 革 及 び 事 業”. 社会福祉法人 恩賜財団母子愛育会. 恩賜財団母子愛育会. 2022年3月22日閲覧。
- ^ “文化活動の変遷 | 民族衣裳文化普及協会とは | 知りたい”. 一般財団法人 民族衣裳文化普及協会. 2022年3月22日閲覧。
参考文献
[編集]- 人事興信所 編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
外部リンク
[編集]- 三笠宮家 - 宮内庁
- 三笠宮殿下御成婚の御盛儀 - NHK放送史
- 畏し三妃殿下 東京療養所御慰問 - NHK放送史