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「気多神社」の版間の差分

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#[[能登国]]は養老2年([[718年]])に[[越前国]]より分立し、[[天平]]13年([[741年]])に越中国へ合併された後、[[天平宝字]]元年([[757年]])に再び分立しているが、林喜太郎 『伏木一宮気多神社』<ref name="tsuite">田口俵太郎・林喜太郎 『気多神社・慶高寺・国分寺資料』 高岡 刊年不明 に所収された 林喜太郎 「気多神社について」 より。「気多神社について」は同書の「第2部 富山県史跡名勝天然記念調査報告抜粋」の一節として所収されている。現在は高岡市立伏木図書館が所蔵しているが、奥書によれば元は富山市図書館が所蔵していたようである。</ref> によれば、天平13年(741年)から天平宝字元年(757年)までの17年間は、社格からみて[[羽咋郡]]の[[気多大社]]が全越中の一宮だったはずであり、従って国府の所在地であった当所に分霊されたのは天平宝字元年(757年)前後のことであろうとしている。
#[[能登国]]は養老2年([[718年]])に[[越前国]]より分立し、[[天平]]13年([[741年]])に越中国へ合併された後、[[天平宝字]]元年([[757年]])に再び分立しているが、林喜太郎 『伏木一宮気多神社』<ref name="tsuite">田口俵太郎・林喜太郎 『気多神社・慶高寺・国分寺資料』 高岡 刊年不明 に所収された 林喜太郎 「気多神社について」 より。「気多神社について」は同書の「第2部 富山県史跡名勝天然記念調査報告抜粋」の一節として所収されている。現在は高岡市立伏木図書館が所蔵しているが、奥書によれば元は富山市図書館が所蔵していたようである。</ref> によれば、天平13年(741年)から天平宝字元年(757年)までの17年間は、社格からみて[[羽咋郡]]の[[気多大社]]が全越中の一宮だったはずであり、従って国府の所在地であった当所に分霊されたのは天平宝字元年(757年)前後のことであろうとしている。
#『高岡市史』<ref name="shishijou">高岡市史編纂委員会編 『高岡市史 上巻』 青林書院 1959年9月 より。</ref>では、能登国が越中国に合併されていた時代、[[国司]]が着任もしくは定期的に参詣しなければならない国内随一の大社<ref>[[律令制]]において[[国司]]は任国内の諸社に神拝する事が定められていた。 [[一宮#一宮の起源|一宮の起源]] を参照のこと。</ref>は、当然に羽咋郡の気多大社であったが、国府から遠すぎるため国府近くに遥拝所が設けられ、能登国分立後に独立の神社になったのではないかとしている。
#『高岡市史』<ref name="shishijou">高岡市史編纂委員会編 『高岡市史 上巻』 青林書院 1959年9月 より。</ref>では、能登国が越中国に合併されていた時代、[[国司]]が着任もしくは定期的に参詣しなければならない国内随一の大社<ref>[[律令制]]において[[国司]]は任国内の諸社に神拝する事が定められていた。 [[一宮#一宮の起源|一宮の起源]] を参照のこと。</ref>は、当然に羽咋郡の気多大社であったが、国府から遠すぎるため国府近くに遥拝所が設けられ、能登国分立後に独立の神社になったのではないかとしている。
#『越中国式内等旧社記』<ref>神道大系編纂会編 『神道大系 神社編34 越中・越後・佐渡国』 神道大系編纂会 1986年7月 に所収。同書の巻頭にある解題によれば、越中国内の式内33座を含む117座の神社を取り上げているが、その選定基準や意図は不明、著者も不明であると言う。奥書から原本は[[承応]]2年([[1653年]])の写本で、[[白山比め神社|白山比咩神社]]の長吏が所蔵していた古写本を森田柿園(紀 良見)が写したものと分かるが、解題によれば承応2年の古写本は越中国関係の史料としては最も古い時代に属するのだと言う。森田柿園(紀 良見)は[[文政]]6年([[1823年]])金沢生まれの学者である。</ref>には、能登国が越中国から分立した後、能登国の気多大社を勧請して創建されたので「新気多明神」と言う、と述べられている。この「新気多」と言う名称は、後述の『白山之記』<ref name="hakusan">『白山之記(しらやまのき)』は白山比咩神社が所蔵する縁起<!--「文書」ではない-->のうち最古のもので、国の[[重要文化財]]に指定されている。</ref>にも見える。
#『越中国式内等旧社記』<ref>神道大系編纂会編 『神道大系 神社編34 越中・越後・佐渡国』 神道大系編纂会 1986年7月 に所収。同書の巻頭にある解題によれば、越中国内の式内33座を含む117座の神社を取り上げているが、その選定基準や意図は不明、著者も不明であると言う。奥書から原本は[[承応]]2年([[1653年]])の写本で、[[白山比咩神社]]の長吏が所蔵していた古写本を森田柿園(紀 良見)が写したものと分かるが、解題によれば承応2年の古写本は越中国関係の史料としては最も古い時代に属するのだと言う。森田柿園(紀 良見)は[[文政]]6年([[1823年]])金沢生まれの学者である。</ref>には、能登国が越中国から分立した後、能登国の気多大社を勧請して創建されたので「新気多明神」と言う、と述べられている。この「新気多」と言う名称は、後述の『白山之記』<ref name="hakusan">『白山之記(しらやまのき)』は白山比咩神社が所蔵する縁起<!--「文書」ではない-->のうち最古のもので、国の[[重要文化財]]に指定されている。</ref>にも見える。


その他、林喜太郎 『伏木一宮気多神社』<ref name="tsuite" />では、社記にある[[元正天皇]]の御代である養老2年(718年)に[[行基]]により創建されたとする伝承を紹介しているが、これは[[射水神社]]の[[別当寺|別当]]養老寺が開山したことを模したもので、当神社が養老2年に行基により創建されたとする資料は見当たらない、と述べている。『中世諸国一宮制の基礎的研究』<ref name="kiso">中世諸国一宮制研究会編 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 ㈲岩田書院 2000年2月 より。</ref>においても『式内社調査報告書』の「天平宝字元年(757年)に越中国から能登国を分立する際、能登国の気多大社から分霊を勧請したものであろうとする説が有力である」との記述を紹介している。
その他、林喜太郎 『伏木一宮気多神社』<ref name="tsuite" />では、社記にある[[元正天皇]]の御代である養老2年(718年)に[[行基]]により創建されたとする伝承を紹介しているが、これは[[射水神社]]の[[別当寺|別当]]養老寺が開山したことを模したもので、当神社が養老2年に行基により創建されたとする資料は見当たらない、と述べている。『中世諸国一宮制の基礎的研究』<ref name="kiso">中世諸国一宮制研究会編 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 ㈲岩田書院 2000年2月 より。</ref>においても『式内社調査報告書』の「天平宝字元年(757年)に越中国から能登国を分立する際、能登国の気多大社から分霊を勧請したものであろうとする説が有力である」との記述を紹介している。

2020年7月13日 (月) 20:19時点における版

気多神社

社殿
所在地 富山県高岡市伏木一宮1-10-1
位置 北緯36度48分0.8秒 東経137度2分39.5秒 / 北緯36.800222度 東経137.044306度 / 36.800222; 137.044306 (気多神社)座標: 北緯36度48分0.8秒 東経137度2分39.5秒 / 北緯36.800222度 東経137.044306度 / 36.800222; 137.044306 (気多神社)
主祭神 大己貴命
奴奈加波比売命
社格 式内社名神大または小)
越中国一宮
県社
創建 天平宝字元年(757年
養老2年(718年)とも)
本殿の様式 三間社流造
例祭 4月18日
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境内入り口

気多神社(けたじんじゃ)は、富山県高岡市伏木一宮にある神社式内社名神大社または小社)、越中国一宮旧社格県社

所在地の高岡市伏木は、かつて国府国分寺が存在した越中国の中心地で、当神社境内にも越中国総社跡の伝承地がある。越中国内で一宮を称する4社のうちで唯一、所在地名に「一宮」と言う銘号が入っている。

祭神

主祭神
配神

歴史

創建

社伝によれば、当神社が勧請されたのは養老元年(717年)としているが、『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』[1]では、これに対する傍証は無く、草創については諸説あると述べ、以下の説を紹介している。

  1. 能登国は養老2年(718年)に越前国より分立し、天平13年(741年)に越中国へ合併された後、天平宝字元年(757年)に再び分立しているが、林喜太郎 『伏木一宮気多神社』[2] によれば、天平13年(741年)から天平宝字元年(757年)までの17年間は、社格からみて羽咋郡気多大社が全越中の一宮だったはずであり、従って国府の所在地であった当所に分霊されたのは天平宝字元年(757年)前後のことであろうとしている。
  2. 『高岡市史』[3]では、能登国が越中国に合併されていた時代、国司が着任もしくは定期的に参詣しなければならない国内随一の大社[4]は、当然に羽咋郡の気多大社であったが、国府から遠すぎるため国府近くに遥拝所が設けられ、能登国分立後に独立の神社になったのではないかとしている。
  3. 『越中国式内等旧社記』[5]には、能登国が越中国から分立した後、能登国の気多大社を勧請して創建されたので「新気多明神」と言う、と述べられている。この「新気多」と言う名称は、後述の『白山之記』[6]にも見える。

その他、林喜太郎 『伏木一宮気多神社』[2]では、社記にある元正天皇の御代である養老2年(718年)に行基により創建されたとする伝承を紹介しているが、これは射水神社別当養老寺が開山したことを模したもので、当神社が養老2年に行基により創建されたとする資料は見当たらない、と述べている。『中世諸国一宮制の基礎的研究』[7]においても『式内社調査報告書』の「天平宝字元年(757年)に越中国から能登国を分立する際、能登国の気多大社から分霊を勧請したものであろうとする説が有力である」との記述を紹介している。

千妙聖人が著述したものに、長寛元年(1163年)白山中宮の長吏隆厳が私注を加えて成立したと伝えられる『白山之記』[6]には、聖武天皇の御代に越中国から能登国が分立した際[8]、越中国二宮であった二神(二上神、射水神社を指すと言われる)が一宮になったこと、その後、越中国に新気多(当神社)が奉祝されると、当神社と射水神社の間に一宮争いが起こり、射水神社が無力の間に当神社が一宮になった、との記事がある。

延長5年(927年)には『延喜式神名帳』へ記載され、式内社となった。『伏木一宮気多神社』[2]では、当神社が正しく史上に現れたのはこの頃である、と述べている。 『延喜式神名帳』の頭注によれば、延暦3年(784年)3月3日正三位神階に叙せられ、延喜8年(908年)8月16日官幣に預かったとされる。

『延喜式神名帳』では越中国射水郡の式内13社を大社1座・小社12座としているが、当神社は「宮内省図書寮本」や『延喜式』最古の写本である「九条本」で名神大社と記載されている。しかしながら、「出雲本」においては射水神社が名神大社と記載されている。これについて、一般的に「出雲本」は誤記とみなされ、現在は「宮内省図書寮本」や「九条本」を支持して当神社を名神大社する説が有力となっている、と『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』[1]では述べている。
しかしながら、『延喜式』の「名神祭」の項には、当神社も射水神社も記載が無い。

橋本芳雄は『式内社調査報告 第17巻』で上記に対し異説を唱えている。それによれば、大伴家持が越中国国守として在勤したのは、ちょうど能登国が越中国に合併されていた時期で、大伴家持の歌日記のごとき『万葉集』の巻17、巻18、巻19には当時の様子が詳細に詠われているにもかかわらず、越中国国府の間近にあったはずの当神社に関する記述が全く見えない[9]のは、この頃まだ当神社が存在していなかったことを暗示しているのではないか、と推定している。その上で、当神社が『延喜式神名帳』で名神大社とされながら、射水郡式内社13座の最後に配列されているのは、創立年次が最も新しいことを暗示しているのではないか、と推察した。さらに同書では、射水神社を名神大社とする「出雲本」が古い時代の形を留めており、『白山之記』[6]にある一宮争いの記事などから、本来の名神大社は射水神社であったのが、国府に近い当神社が、天平宝字元年(757年)前後に気多大社から勧請された後、国府の権力を背景に名神大社を獲得したのではないか、と推測している。六国史を通覧した際も、同じ越中国の射水神社や高瀬神社が6度登場するのに対し、当神社に関する記載は全く無く、『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』[1]では「不思議な現象と見るべきであろう。」と述べている。『高岡市史 上巻』[3]においても、軽々しく判断はできないと前置きした上で、勧請の由来などから考えて「出雲本」に従うのが妥当ではないか、と考察している。

中世以降

朝野群載 巻6』には、神事に過穢があったことにより祟り給うたので、気多神社に使者を遣わし中祓いを科して祓い清めるべしとの承暦4年(1080年)6月10日付けの神祇官奏上が記載されている。

明治元年(1868年)に著された『一宮神官大江氏文書』の「従太政官由来就御尋書上帳」には、寿永年間1182年1185年)の末期、源義仲(木曾義仲)の兵火によって伽藍や社殿が焼失したとの伝承が記されている。その後、伽藍や社殿を再建したが、天文年間1532年1555年)に上杉謙信の兵火で再び焼失し、一社一寺になったと言う。万治元年(1658年)と同2年(1659年)の守山村村役の記録にある慶高寺看坊の上申(以下『慶高寺看坊の上申』と言う。)では、往古は社領が近隣7ヶ村にあって49坊の華麗な堂塔が立ち並び、日本廻国六十六部の経堂とされていたが、戦乱により一社一寺となったのだ、と述べている。

別当慶高寺中興第12世による『慶高寺由緒覚書抄録』には、天文の兵火の際、別当寺の社僧や堂守の坊主は暫く四散していたが、慶高寺と得正寺の社僧が立ち戻ってお勤めを行った、だが後に得正寺は一向宗に改宗してしまった、と記されている。また、社伝によれば永禄年間1558年1570年)に社殿が再建されたとしており、「従太政官由来就御尋書上帳」では慶高寺の宥應と言う僧侶がお布施を募って社殿を復興した、と記している。社殿の再建に関して『気多神社別当所慶高寺資料』[10]では、年代不明の覚書に天文年間に兵火にあうも本殿は罹災を免れたとあり、本殿は少なくとも天文年間以前に建てられたものである、と述べている。

天明6年(1786年)に宮永正運が著した『越の下草(こしのしたくさ)』、前述の『慶高寺看坊の上申』および『一宮神官大江氏文書』の「従太政官由来就御尋書上帳」には、戦国時代の末期から江戸時代初期までの当神社の状況が書かれている。これらを時系列的に並べると以下のようになる。

  • 戦国時代の末期、社領20を有していた。(『慶高寺看坊の上申』の記述)
  • 加賀藩前田利家が折々にご祈祷を行わせていた。(「従太政官由来就御尋書上帳」の記述)
  • 慶長2年(1597年)瑞龍公(加賀藩第二代藩主前田利長)により寺領宮林が寄付された。(『越の下草』の記述)
  • 慶長10年(1605年)検地奉行の富田越前により社領全てが召し上げられて荒廃し、堂塔大破した。(『慶高寺看坊の上申』の記述)
  • 正保2年(1645年)微妙公(加賀藩第三代藩主前田利常)により社殿が修復される。(『慶高寺看坊の上申』、『越の下草』および「従太政官由来就御尋書上帳」の記述)
  • 慶安3年(1650年)微妙公により供田10石が寄付された。(『慶高寺看坊の上申』および「従太政官由来就御尋書上帳」の記述)

さらに『越の下草』の記述によれば、以後も前田家の庇護を受けたとされる。

しかし、『慶高寺看坊の上申』によれば、明暦2年(1656年)に地子米を召し上げられて慶高寺の運営が成り立たなくなり、さらに明暦3年(1657年[11]には住職が死去、看坊(留守居または後見をする僧)を立てなければならない状況になったのだという。

その後、元禄の頃に慶高寺は中興される事になる。越中国分寺跡の薬師堂に安置されている慶高寺本尊大日如来の台座には元禄2年(1689年)の日付と共に「愛染院弟子奉再興者也 慶高寺第一世 祐玄」の銘が入っており、愛染院弟子の祐玄と言う僧が第1世を名乗って慶高寺を中興したことが分かる。以後、明治に至るまで、祐玄を含め13代の住職が別当である慶高寺を守った。

『伏木一宮気多神社』[2]によれば、明治元年(1868年)国教政策により神仏分離令が出されると、僧徒は神社へ関与することが禁じられた為、慶高寺中興第13世の法海は俗名を名乗り、西礪波郡今石動町(現在の小矢部市)の観音寺住職となったとしている。また、法海の弟子が大江氏を名乗って神職となり、慶高寺は当神社の社務所と大江氏住居を兼ねる様になったと言う。ここに至り慶高寺は廃絶した。

『高岡市史 下巻』[12]によれば、神仏分離令によって起きた廃仏毀釈運動により、当神社本地仏も慶高寺本尊も一緒くたに国分寺跡の薬師堂に押し込まれ、大きな仏像に至っては中に入らないので雨ざらしの状態にされたのだと言う。これによって、文化的価値のある貴重な仏像が痛むがままの状態になった事を同書では嘆いている。

明治6年(1873年)8月旧社格制度により県社に列格され、明治40年(1907年)3月には供進社に指定された。

昭和6年(1931年室町時代の特質を残しているとして、本殿が国の重要文化財に指定されている。

境内

本殿(国の重要文化財

主要社殿のうち本殿は、三間社流造。木割りが大きく、虹梁・拳鼻・手挟[13]の手法が室町時代の特質を残しているとして、国の重要文化財に指定されている。

主な祭事

毎年4月18日に気多神社奉賛会と春季例大祭(一宮青年団による)が行われている。

文化財

重要文化財(国指定)

  • 本殿(建造物) - 1931年(昭和6年)1月19日指定[14]

高岡市指定文化財

  • 有形文化財
    • 木造狛犬 1対(彫刻) - 1961年(昭和36年)3月27日指定[15]
  • 無形民俗文化財
    • 氣多神社のにらみ獅子 - 1996年(平成8年)12月4日指定[15]

現地情報

所在地
交通アクセス

脚注

  1. ^ a b c 谷川健一 編 『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』 ㈱白水社 1985年11月 より。
  2. ^ a b c d 田口俵太郎・林喜太郎 『気多神社・慶高寺・国分寺資料』 高岡 刊年不明 に所収された 林喜太郎 「気多神社について」 より。「気多神社について」は同書の「第2部 富山県史跡名勝天然記念調査報告抜粋」の一節として所収されている。現在は高岡市立伏木図書館が所蔵しているが、奥書によれば元は富山市図書館が所蔵していたようである。
  3. ^ a b 高岡市史編纂委員会編 『高岡市史 上巻』 青林書院 1959年9月 より。
  4. ^ 律令制において国司は任国内の諸社に神拝する事が定められていた。 一宮の起源 を参照のこと。
  5. ^ 神道大系編纂会編 『神道大系 神社編34 越中・越後・佐渡国』 神道大系編纂会 1986年7月 に所収。同書の巻頭にある解題によれば、越中国内の式内33座を含む117座の神社を取り上げているが、その選定基準や意図は不明、著者も不明であると言う。奥書から原本は承応2年(1653年)の写本で、白山比咩神社の長吏が所蔵していた古写本を森田柿園(紀 良見)が写したものと分かるが、解題によれば承応2年の古写本は越中国関係の史料としては最も古い時代に属するのだと言う。森田柿園(紀 良見)は文政6年(1823年)金沢生まれの学者である。
  6. ^ a b c 『白山之記(しらやまのき)』は白山比咩神社が所蔵する縁起のうち最古のもので、国の重要文化財に指定されている。
  7. ^ 中世諸国一宮制研究会編 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 ㈲岩田書院 2000年2月 より。
  8. ^ 『白山之記』には「但能登國越中能登郷也、聖武天皇御時神龜年中立國之間、・・・」と記されているが、前述のとおり、能登国が越中国から分立した正しい時期は天平宝字元年(757年)で孝謙天皇の御代である。
  9. ^ これに対し『万葉集 巻17』には、大伴家持によって射水神社を詠んだ和歌が載っている。
  10. ^ 林喜太郎 編 『気多神社別当所慶高寺資料』 氷見、向島秀一(私製) 1993年1月 より。
  11. ^ 万治元年(1658年)10月4日付けの上申書中で前年と述べているので、明暦3年(1657年)と思われる。
  12. ^ 高岡市史編纂委員会編 『高岡市史 下巻』 ㈱青林書院 1969年12月 より。
  13. ^ 虹梁(こうりょう)・拳鼻(こぶしばな)・手挟(たばさみ)は、いずれも寺社建築に見られる意匠様式。虹梁については 梁 (建築)#梁の意匠 を参照のこと。拳鼻は木鼻の一種。虹梁・斗栱・頭貫などの水平材の先端や、これらが柱から突き出た部分を木鼻と言うが、木鼻は形状によって拳鼻、象鼻など、いくつかの種類に分けられる。手挟は向拝(こうはい、本殿正面に突き出したのような部分)軒裏にある垂木の勾配により、向拝とそれを支える柱の上部に生じる三角形の空きを埋める板状の部分。前 久夫 『寺社建築の歴史図典』 ㈱東京美術 2002年3月 より。
  14. ^ 気多神社本殿 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  15. ^ a b 高岡市指定文化財(高岡市ホームページ)。

参考文献

  • 田口俵太郎・林喜太郎 『気多神社・慶高寺・国分寺資料』 高岡 刊年不明(巻末に昭和14年(1939年)6月 富山県史跡名勝天然記念調査報告の記載あり)
  • 高岡市史編纂委員会編 『高岡市史 上巻』 ㈱青林書院 1959年9月
  • 高岡市史編纂委員会編 『高岡市史 下巻』 ㈱青林書院 1969年12月
  • 黒板勝美 國史大系編修会編 『國史大系 第29巻上 朝野群載』 ㈱吉川弘文館 1964年11月
  • 谷川健一 編 『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』 ㈱白水社 1985年11月
  • 神道大系編纂会編 『神道大系 神社編33 若狭・越前・加賀・能登国』 神道大系編纂会 1987年12月 (『白山之記』を所収。)
  • 神道大系編纂会編 『神道大系 神社編34 越中・越後・佐渡国』 神道大系編纂会 1986年7月 (『越中国式内等旧社記』を所収。)
  • 林喜太郎 編 『気多神社別当所慶高寺資料』 氷見、向島秀一(私製) 1993年1月 (原版は昭和8年(1933年)6月)
  • 中世諸国一宮制研究会編 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 ㈲岩田書院 2000年2月
  • 全国一の宮会編 公式ガイドブック『全国一の宮めぐり』 全国一の宮会 2008年12月

関連項目

外部リンク