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西晋の[[恵帝 (晋)|恵帝]]のとき、[[南陽郡]]を分割して新野郡が立てられた<ref>『[[晋書]]』地理志下</ref>。新野郡は[[荊州]]に属し、郡治は[[新野県]]に置かれた。
西晋の[[恵帝 (晋)|恵帝]]のとき、[[南陽郡]]を分割して新野郡が立てられた<ref>『[[晋書]]』地理志下</ref>。新野郡は[[荊州]]に属し、郡治は[[新野県]]に置かれた。


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2020年7月12日 (日) 22:07時点における版

新野郡(しんや-ぐん)は、中国にかつて存在した西晋から初にかけて、現在の河南省南部および湖北省襄陽市にまたがる地域に設置された。

概要

西晋の恵帝のとき、南陽郡を分割して新野郡が立てられた[1]。新野郡は荊州に属し、郡治は新野県に置かれた。

449年南朝宋元嘉26年)、新野郡は雍州に転属した。宋の新野郡は新野・山都池陽交木の5県を管轄した[2]

南朝斉のとき、新野郡は新野・山都・池陽・穣・交木・恵懐の6県を管轄した[3]

北魏のとき、新野郡は荊州に属し、穣・新野・池陽の3県を管轄した[4]

579年大象元年)、北周により、荊州新野郡が滕国とされた[5]。後に再び新野郡が置かれた。

583年開皇3年)、隋が郡制を廃すると、新野郡は廃止されて、鄧州に編入された[6]

脚注

  1. ^ 晋書』地理志下
  2. ^ 宋書』州郡志三
  3. ^ 南斉書』州郡志下
  4. ^ 魏書』地形志二下
  5. ^ 周書』宣帝紀
  6. ^ 隋書』地理志中