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[[後漢]]のとき、南陽郡は宛・冠軍・葉・新野・新都・章陵・西鄂・雉・魯陽・犨・堵陽・博望・舞陰・比陽・復陽・平氏・棘陽・湖陽・随・育陽・涅陽・陰・酇・鄧・山都・酈・穣・朝陽・蔡陽・安衆・築陽・武当・順陽・成都・襄郷・南郷・丹水・析の37県を管轄した<ref>『[[後漢書]]』郡国志四</ref>。 |
[[後漢]]のとき、南陽郡は宛・冠軍・葉・新野・新都・章陵・西鄂・雉・魯陽・犨・堵陽・博望・舞陰・比陽・復陽・平氏・棘陽・湖陽・随・育陽・涅陽・陰・酇・鄧・山都・酈・穣・朝陽・蔡陽・安衆・築陽・武当・順陽・成都・襄郷・南郷・丹水・析の37県を管轄した<ref>『[[後漢書]]』郡国志四</ref>。 |
2020年7月12日 (日) 22:07時点における版
南陽郡(なんよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて、現在の河南省南陽市・平頂山市と湖北省随州市・襄陽市にまたがる地域に設置された。
概要
紀元前272年(秦の昭襄王35年)、秦の白起が楚を攻撃し、宛を占領すると、南陽郡が置かれた[1]。
前漢のとき、南陽郡は荊州に属し、宛・犨・杜衍・酇・育陽・博山・涅陽・陰・堵陽・雉・山都・蔡陽・新野・築陽・棘陽・武当・舞陰・西鄂・穣・酈・安衆・冠軍・比陽・平氏・随・葉・鄧・朝陽・魯陽・舂陵・新都・湖陽・紅陽・楽成・博望・復陽の36県を管轄した。『漢書』によれば、前漢末に35万9316戸、人口194万2051人があった[2]。
後漢のとき、南陽郡は宛・冠軍・葉・新野・新都・章陵・西鄂・雉・魯陽・犨・堵陽・博望・舞陰・比陽・復陽・平氏・棘陽・湖陽・随・育陽・涅陽・陰・酇・鄧・山都・酈・穣・朝陽・蔡陽・安衆・築陽・武当・順陽・成都・襄郷・南郷・丹水・析の37県を管轄した[3]。
魏のとき、一部が義陽郡として分割された。晋のとき、南陽郡は南陽国となり、宛・西鄂・雉・魯陽・犨・淯陽・博望・堵陽・葉・舞陰・比陽・涅陽・冠軍・酈の14県を管轄した[4]。恵帝の代に改めて、新野郡が分割された。
583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、南陽郡は鄧州と改められた。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、鄧州は南陽郡と改称された。穣・新野・南陽・課陽・臨湍・冠軍・菊潭・順陽の8県を管轄した[5]。
619年(武徳2年)、南陽郡は唐の鄧州となった。742年(天宝元年)、鄧州は南陽郡と改称された。758年(乾元元年)、南陽郡は鄧州と改称され、南陽郡の呼称は姿を消した[6]。