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[[北魏]]のとき、順陽郡は荊州に属し、南郷・丹水・臨洮・槐里・順陽の5県を管轄した<ref>『[[魏書]]』地形志二下</ref>。
[[北魏]]のとき、順陽郡は荊州に属し、南郷・丹水・臨洮・槐里・順陽の5県を管轄した<ref>『[[魏書]]』地形志二下</ref>。


[[583年]]([[開皇]]3年)、[[隋]]が郡制を廃すると、順陽郡は廃止されて、[[トウ州|鄧州]]に編入された<ref>『[[隋書]]』地理志中</ref>。
[[583年]]([[開皇]]3年)、[[隋]]が郡制を廃すると、順陽郡は廃止されて、[[鄧州]]に編入された<ref>『[[隋書]]』地理志中</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年7月12日 (日) 22:05時点における版

順陽郡(じゅんよう-ぐん)は、中国にかつて存在した晋代から初にかけて、現在の河南省南陽市および湖北省襄陽市にまたがる地域に設置された。

概要

後漢末に立てられた南郷郡を前身とする。208年建安13年)、曹操荊州を奪うと、南陽郡西部を分割して南郷郡が立てられた。

289年太康10年)、南郷郡が順陽郡と改められた。郡治は南郷県に置かれた。

晋の順陽郡は順陽・南郷・丹水武当築陽の8県を管轄した[1]338年咸康4年)、順陽郡は再び南郷郡と改められた。

南朝宋が建てられると、南郷郡は再び順陽郡と改められた。宋初の順陽郡は朝陽・武当・酇・陰・汎陽・築陽・析・脩陽の8県を管轄した。449年元嘉26年)、順陽郡は雍州に転属した。464年大明8年)、順陽郡は南郷・槐里・順陽・清水・朝陽・丹水・鄭の7県を管轄した[2]

南朝斉のとき、順陽郡は南郷・槐里・清水・丹水・鄭・順陽の6県を管轄した[3]

南朝梁においては、武帝の父の蕭順之諱を避けて、順陽は従陽と表記された。

北魏のとき、順陽郡は荊州に属し、南郷・丹水・臨洮・槐里・順陽の5県を管轄した[4]

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、順陽郡は廃止されて、鄧州に編入された[5]

脚注

  1. ^ 晋書』地理志下
  2. ^ 宋書』州郡志三
  3. ^ 南斉書』州郡志下
  4. ^ 魏書』地形志二下
  5. ^ 隋書』地理志中