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これらを使う精進料理は、あく抜きや水煮といった、時間と手間のかかる下処理を必要とすることが多いのが、特徴のひとつである。これらの複雑な調理技術や使用する食材に対する概念は、多くの料理人や料理研究家に影響を与え、料理分野全体の水準向上に貢献してきた。単純な食材を、多くの制約がある中で調理するため、さまざまな一次・二次加工が施されてきたことも特徴のひとつである。 |
これらを使う精進料理は、あく抜きや水煮といった、時間と手間のかかる下処理を必要とすることが多いのが、特徴のひとつである。これらの複雑な調理技術や使用する食材に対する概念は、多くの料理人や料理研究家に影響を与え、料理分野全体の水準向上に貢献してきた。単純な食材を、多くの制約がある中で調理するため、さまざまな一次・二次加工が施されてきたことも特徴のひとつである。 |
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例として、[[大豆]]は栄養価が高く、菜食で不足しがちな[[タンパク質]]を豊富に持つこともあり、精進料理に積極的に取り入れられたが、生食は困難である。このため、風味を向上させ、長期保存し、食べる者を飽きさせないといった目的も含めて、[[ |
例として、[[大豆]]は栄養価が高く、菜食で不足しがちな[[タンパク質]]を豊富に持つこともあり、精進料理に積極的に取り入れられたが、生食は困難である。このため、風味を向上させ、長期保存し、食べる者を飽きさせないといった目的も含めて、[[豆豉]]、[[味噌]]、[[醤油]]、[[豆乳]]、[[ゆば|湯葉]]、[[豆腐]]、[[油揚げ]]、[[納豆]]などが生み出された。 |
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こうした技術は、精進料理を必要とする寺院と宮廷を含むその周辺の人々によって、研究・開発され、蓄積されてきた。また、特に中国、[[台湾]]、[[ベトナム]]に多く見られるものとしては、いわゆる'''もどき料理'''([[中国語]]で「{{lang|zh|仿葷素菜}}」)と呼ばれるものがある。これは植物性原料を用いて、動物性の料理に似せたものを作ることである。例えば、湯葉を加工して[[ハム#ハムに類似の食品|火腿]]([[中国ハム]])を作ったり、[[こんにゃく]]で[[イカ]]や[[エビ]]を形取ったり、[[シイタケ]]や他の[[キノコ|きのこ]]を用いて[[アワビ]]の[[スープ]]や炒め物に似せるといったものである。 |
こうした技術は、精進料理を必要とする寺院と宮廷を含むその周辺の人々によって、研究・開発され、蓄積されてきた。また、特に中国、[[台湾]]、[[ベトナム]]に多く見られるものとしては、いわゆる'''もどき料理'''([[中国語]]で「{{lang|zh|仿葷素菜}}」)と呼ばれるものがある。これは植物性原料を用いて、動物性の料理に似せたものを作ることである。例えば、湯葉を加工して[[ハム#ハムに類似の食品|火腿]]([[中国ハム]])を作ったり、[[こんにゃく]]で[[イカ]]や[[エビ]]を形取ったり、[[シイタケ]]や他の[[キノコ|きのこ]]を用いて[[アワビ]]の[[スープ]]や炒め物に似せるといったものである。 |
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[[中国]]では精進料理を「素菜」、「素食」などと呼ぶ。中国の精進料理は[[後漢]]時代([[1世紀]])の仏教伝来と同時に生まれた訳ではなく、仏教伝来よりも1000年以上早い[[殷]](商)代より、祭祀または重大な儀礼に際し、神への畏敬の念を払う意味で、沐浴をし、一定期間肉食を断つ習慣がもともとあったとされる<ref>許先、「緑色之精霊―中国素食文化史簡述」『食品与健康』2008年第4期pp4~6、天津市科技期刊編輯学会、天津</ref>。また、1日と15日には肉を食べないという風習もあった。記録に見られるものでは、[[周]]代の儀礼についてまとめた『[[礼記]]』「玉藻」には「子卯稷食菜羹」([[11月|子]]と[[4月|卯の月]]には[[アワ|ウルチアワ]]を食べ、野菜の[[スープ|あつもの]]を飲む)とあり、『礼記』「大喪記」には「期終喪,不食肉,不飲酒」(期、喪を終えるに、肉を食べず、酒を飲まず)、『[[周礼]]』「天官冢宰」には「大喪則不舉,大荒則不舉」(葬礼時、凶作時は肉食など贅沢をしない。)という文章がある。これらは常時の食習慣ではないが、[[斎]]食、斎戒の風習や、意図的に肉類を使わない料理を作ることがあった事実が分かる。 |
[[中国]]では精進料理を「素菜」、「素食」などと呼ぶ。中国の精進料理は[[後漢]]時代([[1世紀]])の仏教伝来と同時に生まれた訳ではなく、仏教伝来よりも1000年以上早い[[殷]](商)代より、祭祀または重大な儀礼に際し、神への畏敬の念を払う意味で、沐浴をし、一定期間肉食を断つ習慣がもともとあったとされる<ref>許先、「緑色之精霊―中国素食文化史簡述」『食品与健康』2008年第4期pp4~6、天津市科技期刊編輯学会、天津</ref>。また、1日と15日には肉を食べないという風習もあった。記録に見られるものでは、[[周]]代の儀礼についてまとめた『[[礼記]]』「玉藻」には「子卯稷食菜羹」([[11月|子]]と[[4月|卯の月]]には[[アワ|ウルチアワ]]を食べ、野菜の[[スープ|あつもの]]を飲む)とあり、『礼記』「大喪記」には「期終喪,不食肉,不飲酒」(期、喪を終えるに、肉を食べず、酒を飲まず)、『[[周礼]]』「天官冢宰」には「大喪則不舉,大荒則不舉」(葬礼時、凶作時は肉食など贅沢をしない。)という文章がある。これらは常時の食習慣ではないが、[[斎]]食、斎戒の風習や、意図的に肉類を使わない料理を作ることがあった事実が分かる。 |
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後漢の[[明帝 (漢)|明帝]]時代に伝えられた、[[インドの仏教]]では、[[托鉢]]によってのみ食べ物を得ることを求めていたため、当時は[[三種の浄肉]]であれば食べた。また、食事は午前中に限って行うことが求められ、最終的に[[植物]]を傷めることになる[[農耕]]は禁じられていた。漢に招かれた僧侶も、当初は国王など有力者の支援で、この様な戒律に従って食べることができたが、[[農耕社会]]である中国で、托鉢はなかなか受け入れられず、有力者の支援を得られなくなると、僧侶たち自らが山野で山菜などの採集をしたり、農耕を始めざるを得なくなった。同時に殺生を戒める立場から、肉を食べることは大乗慈悲に反する<ref>『[[大般涅槃経]]』に「食肉者,断大慈悲種」(肉を食べる者、大慈悲の種を断つ)とある。</ref>と考えた。殺生の戒めは中国にあった[[儒教]]の「[[仁]]」の考えとも通じるものがあり、広く受け入れられた。同時にこの時代は[[西域]]から新しい野菜や[[ウリ]]類が導入され生産量が増えたとともに、[[石臼]]が普及し、[[小麦粉]]、[[ダイズ|大豆]]、[[植物油]]などが利用できるようになった<ref>許先、「緑色之精霊―中国素食文化史簡述」『食品与健康』2008年第4期pp4~6、天津市科技期刊編輯学会、天津</ref>ため、[[醤油]]、[[ |
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[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]になると、仏教徒も増え、精進料理も普及してきた。[[梁 (南朝)|梁]]では、熱心な仏教徒であった武帝[[蕭衍]]が、[[511年]]に[[僧|僧侶]]を集めて作成した『断酒肉文』を出し、僧侶に肉食、酒を断つことを指示した結果、菜食が定着した。[[北魏]]の[[賈思キョウ|賈思勰]]が[[549年]]までに著した『[[斉民要術]]』にも「素食」という項目に精進料理31種が記載されている。 |
[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]になると、仏教徒も増え、精進料理も普及してきた。[[梁 (南朝)|梁]]では、熱心な仏教徒であった武帝[[蕭衍]]が、[[511年]]に[[僧|僧侶]]を集めて作成した『断酒肉文』を出し、僧侶に肉食、酒を断つことを指示した結果、菜食が定着した。[[北魏]]の[[賈思キョウ|賈思勰]]が[[549年]]までに著した『[[斉民要術]]』にも「素食」という項目に精進料理31種が記載されている。 |
2020年7月6日 (月) 21:49時点における版
Buddhist vegetarian cuisine | |||||||||||||||||||
台湾での仏教徒の為の料理 | |||||||||||||||||||
中国語 | |||||||||||||||||||
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繁体字 | 齋菜 | ||||||||||||||||||
簡体字 | 斋菜 | ||||||||||||||||||
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日本語 | |||||||||||||||||||
漢字 | 精進料理 | ||||||||||||||||||
朝鮮語 | |||||||||||||||||||
ハングル | 사찰음식 | ||||||||||||||||||
漢字 | 寺刹飮食 | ||||||||||||||||||
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ベトナム語 | |||||||||||||||||||
クオック・グー | đồ chay |
精進料理(しょうじんりょうり)とは、仏教の戒に基づき殺生や煩悩への刺激を避けることを主眼として調理された料理。ここでは、中国において仏教から成立した精進料理(素菜、素食)と、韓国料理や日本料理の和食の一分野である精進料理について紹介する。
精進料理では避けるべきと考えられている食材が大きく分けて2つあり、1つは動物性の食材、もう1つは五葷(ごくん)と呼ばれるネギ属などに分類される野菜である[1][2]。ただし、五葷の扱いは時代や地域によって異なる[1]。
精進料理は、僧侶には必須の食事であり、食事もまた行のひとつとして重要視された。その一方で民間でも、冠婚葬祭やお盆等において、一般家庭や料理屋でも作られるようになった。料理屋の精進料理は、時としては仏教の食事に関する概念とは対照的な美食を目的として調製され、密かに動物性の出汁を使っていることさえある。
中国・台湾・香港・日本・朝鮮では、精進料理を名物とするレストランや料亭、料理屋が数多く存在し、特に台湾の精進料理は広く浸透している。また、シンガポール、マレーシアなどにも仏教系の精進料理店が少数存在する。
禁止対象
肉食
第一に、動物性の食材は禁忌とされている[1]。仏教の世界では戒律によって在家の信徒は「五戒」で、僧は「沙弥の十戒」をはじめとして元から殺生が禁じられており、大乗仏教では『楞伽経』を基に僧の肉食も禁止されたため、僧俗への供養や布施として野菜や豆類、穀物を工夫して調理する。
インドの初期仏教においては、部派仏教の律による十種肉禁を除いた三種の浄肉(見聞疑の三肉とも。この場合は僧侶が、殺された現場を見なかった動物の肉・僧侶本人のために殺されたと聞かなかった動物の肉・前記二つの疑いがない動物の肉)であれば食べることができ、釈迦も乳糜(牛乳で作った粥)の布施を受けて大悟したなど、乳製品の摂取も禁止されていなかった。現在でも、タイ、ミャンマー、カンボジア、ラオスといった上座部(小乗)仏教圏においては、僧侶が三種の浄肉を口にすることが認められているため、菜食を基本とした精進料理は発達していない(精進料理という概念そのものは存在する。タイのジェー等)。
これに対して6世紀の中国では、仏教に傾倒した梁武帝が不殺生を厳格化し、僧侶に対して肉食が禁止された。この考えが朝鮮、日本、ベトナムなどの東アジア・東南アジアに伝播し、大乗仏教文化圏では菜食料理が発達した。ヒンドゥー教徒やジャイナ教徒にも不殺生として菜食を習慣とする人がいるが、精進料理は基本的に仏教と関係したものに限られる。なお、卵や乳製品などの扱いも時代や地域によって異なる。
五葷
第二に、五葷(ネギ科ネギ属などに属するにんにく、ねぎ、にら、たまねぎ、らっきょう)は禁忌とされることがある[1][2]。これは煩悩を刺激し、食材の匂いも強いことから避けられる[1][2]。ただし、山椒、生姜、パクチー(コリアンダー)を含むこともあるなど、時代や地域によって精進料理で禁忌とされる野菜類の範囲は異なっている[1]。
特徴
精進料理の特徴は、野菜・豆類など、植物性の食材を調理して食べることにある。サラダのように一品の料理として野菜を生のまま食べるという概念が中国や日本の食文化に定着するまでは、野菜・豆類は基本的に加熱調理する必要があった。
これらを使う精進料理は、あく抜きや水煮といった、時間と手間のかかる下処理を必要とすることが多いのが、特徴のひとつである。これらの複雑な調理技術や使用する食材に対する概念は、多くの料理人や料理研究家に影響を与え、料理分野全体の水準向上に貢献してきた。単純な食材を、多くの制約がある中で調理するため、さまざまな一次・二次加工が施されてきたことも特徴のひとつである。
例として、大豆は栄養価が高く、菜食で不足しがちなタンパク質を豊富に持つこともあり、精進料理に積極的に取り入れられたが、生食は困難である。このため、風味を向上させ、長期保存し、食べる者を飽きさせないといった目的も含めて、豆豉、味噌、醤油、豆乳、湯葉、豆腐、油揚げ、納豆などが生み出された。
こうした技術は、精進料理を必要とする寺院と宮廷を含むその周辺の人々によって、研究・開発され、蓄積されてきた。また、特に中国、台湾、ベトナムに多く見られるものとしては、いわゆるもどき料理(中国語で「仿葷素菜」)と呼ばれるものがある。これは植物性原料を用いて、動物性の料理に似せたものを作ることである。例えば、湯葉を加工して火腿(中国ハム)を作ったり、こんにゃくでイカやエビを形取ったり、シイタケや他のきのこを用いてアワビのスープや炒め物に似せるといったものである。
中国の精進料理
歴史
中華料理 |
母料理 |
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河南料理 |
八大料理系統 |
一 山東料理 |
北京料理 |
宮廷料理 |
東北料理 |
山西料理 |
二 四川料理 |
雲南料理 |
貴州料理 |
三 湖南料理 |
四 江蘇料理 |
上海料理 |
淮揚料理 |
五 浙江料理 |
六 安徽料理 |
七 福建料理 |
台湾料理 |
海南料理 |
八 広東料理 |
潮州料理 |
客家料理 |
順徳料理 |
その他系統 |
清真料理 |
湖北料理 |
江西料理 |
広西料理 |
マカオ料理 |
超系統料理 |
薬膳料理 |
精進料理 |
台湾素食 |
麺類 |
点心 |
中国では精進料理を「素菜」、「素食」などと呼ぶ。中国の精進料理は後漢時代(1世紀)の仏教伝来と同時に生まれた訳ではなく、仏教伝来よりも1000年以上早い殷(商)代より、祭祀または重大な儀礼に際し、神への畏敬の念を払う意味で、沐浴をし、一定期間肉食を断つ習慣がもともとあったとされる[3]。また、1日と15日には肉を食べないという風習もあった。記録に見られるものでは、周代の儀礼についてまとめた『礼記』「玉藻」には「子卯稷食菜羹」(子と卯の月にはウルチアワを食べ、野菜のあつものを飲む)とあり、『礼記』「大喪記」には「期終喪,不食肉,不飲酒」(期、喪を終えるに、肉を食べず、酒を飲まず)、『周礼』「天官冢宰」には「大喪則不舉,大荒則不舉」(葬礼時、凶作時は肉食など贅沢をしない。)という文章がある。これらは常時の食習慣ではないが、斎食、斎戒の風習や、意図的に肉類を使わない料理を作ることがあった事実が分かる。
後漢の明帝時代に伝えられた、インドの仏教では、托鉢によってのみ食べ物を得ることを求めていたため、当時は三種の浄肉であれば食べた。また、食事は午前中に限って行うことが求められ、最終的に植物を傷めることになる農耕は禁じられていた。漢に招かれた僧侶も、当初は国王など有力者の支援で、この様な戒律に従って食べることができたが、農耕社会である中国で、托鉢はなかなか受け入れられず、有力者の支援を得られなくなると、僧侶たち自らが山野で山菜などの採集をしたり、農耕を始めざるを得なくなった。同時に殺生を戒める立場から、肉を食べることは大乗慈悲に反する[4]と考えた。殺生の戒めは中国にあった儒教の「仁」の考えとも通じるものがあり、広く受け入れられた。同時にこの時代は西域から新しい野菜やウリ類が導入され生産量が増えたとともに、石臼が普及し、小麦粉、大豆、植物油などが利用できるようになった[5]ため、醤油、豆豉などの加工品を含め、植物性のものだけを食べても必要な栄養や風味を確保できる条件が整った。
南北朝時代になると、仏教徒も増え、精進料理も普及してきた。梁では、熱心な仏教徒であった武帝蕭衍が、511年に僧侶を集めて作成した『断酒肉文』を出し、僧侶に肉食、酒を断つことを指示した結果、菜食が定着した。北魏の賈思勰が549年までに著した『斉民要術』にも「素食」という項目に精進料理31種が記載されている。
唐代には禅宗が信者を増やし、勢力を拡大したが、逆に戒律を守らない僧が出るなど、乱れも見られた。このため、百丈懐海が『百丈清規』を定め、インド仏教の戒律を基礎に、中国の地理、風土に合った、農耕、勤労を求める戒律を整備した。また、植物でも臭いが強いものは修行に影響を与えることを嫌い、禁葷食とした。こうした禁葷食は、中国独自の宗教である道教にも影響を与え、宗派にもよるが、同様の基準で制限が行われることが主となった。他方で、チベット仏教の寺院では禁葷食の考えはなく、偶蹄類の肉や乳製品を食べるが、馬や鶏や水中生物は食べないなど独自の禁忌がある。
隋代において、施主をもてなすために作られた精進料理は、キノコや野菜を煮た「羹」と呼ばれるとろみのあるスープが主で、これに茶請けの菓子(点心)を添える程度であったが、唐代には徐々に山菜や野菜に手間をかけて出すようになった。また、宮廷で皇帝のために豪華なものを作ることもあり、肉食に似せたもどき料理も考案された。宋代には調理方法や料理の種類もさらに豊富になり、市中に精進料理専門店も現れた。清代は精進料理の最盛期となり、さまざまなもどき料理の出来を競うようになった。当時の『随園食単』や『調鼎集』にも「素焼鵝」などの精進料理が載せられている他、薛宝辰の『素食説略』のような専門書も著された[6]。一方で、味を競った結果、動物性の出汁を使う例も生まれた。
中華人民共和国成立後、文化大革命などの宗教迫害によって、寺院、道観で豪華な精進料理は作れなくなった時期もあるが、現在は、大規模な寺院や道観の多くで、信徒や観光客向けの精進料理が供されている。簡単なものでは、きのこそばの様な麺類と饅頭程度のすぐに食べられるものから、数日前に予約が必要な凝った宴会料理まである。宴会料理が食べられることで著名な寺院、道観の例をいくつか挙げると、五台山、上海の玉仏寺、武漢の帰元寺や長春観、アモイの南普陀寺、香港の寶蓮寺などがある。他に大都市には精進料理専門のレストランがある。
種類
中国における精進料理は、供される場所により次の4つに分けることができ[7]、使う素材や調理方法などの内容に違いがある。
- 寺観素菜
仏教寺院や道教廟観で出されるもの。僧侶、道士が作り、自身が日常食べる質素なものと、専門の料理人が作る法事、接客用の特別なものがある。殺生をしないこと、禁葷食が基本であり、ショウガも用いないことが多い。道観では道教の養生論により食材や生薬が選ばれる点で違いがあり、仏教素菜と分けて考える場合もある。
- 宮廷素菜
唐から清の宮廷内で出されたもの。専門の料理人が作り、清代には皇帝、皇后などが敬虔な信者となり、特別に「素局」という部門を設置し、寺観素菜と同じ基準で作られた時期もある。また、皇帝によっては、単なる気分転換に食べた場合もある。また、健康維持の薬膳として食べる場合は、栄養、効用重視で作られ、庶民が手に入れられない生薬を使うこともあった。
- 市肆素菜
いわゆる「素菜館」、「素食処」、「素飯館」、「蔬菜館」など、市中の精進料理店で出されるもので、料理人が作る。宋代に宮廷料理人出身者などにより出現したが、味や見た目を重視するため、手間をかけたり、材料を吟味した料理が多く、素材は野菜やきのこであっても、肉、魚、エビなどの出汁や酒、ラードなどの動物性油脂を使うことがよくある[8]。また、鶏卵や冬虫夏草の使用も行われる。
- 民間素菜
民間の家庭で出されるもの。野菜を煮たり炒めただけの簡単で質素なものが多い。仏教、道教の信者が常時食べるものと、季節的健康維持などの理由で短期間限定で食べるものがある。例えば、清の袁景潤の『呉郡歳華記麗』に記述があるように蘇州など華南では旧暦6月を斎月とする習慣があった[9]。
材料、調理法
野菜、きのこ、豆腐、麩、蒟蒻など、日本と共通する素材の他、日本ではあまり使われていないものとして、緑豆、念珠藻(「髪菜」)、黒慈姑(「荸薺」)、ワスレグサの蕾(「金針菜」)、棗(つぶして餡にする)などがあり、香辛料では華北山椒(「花椒」)、小茴香、トウシキミ(大茴香、「八角」)などがある。また、出汁は大豆もやし、ニンジン、広東セロリ、大根、シイタケの石突き(軸)を使うもの、シイタケの石突きに少量ソラマメを加えるもの、大豆もやし、サトウキビに少量ナツメとシイタケを加えるもの、白菜の葉、大豆もやし、ニンジンの皮、大根の皮、広東セロリを使うものなどがある。日本の精進料理でよく使う昆布などの海草、特に出汁用のものは、中国では使用は限られ、風味が異なる。
調理法では煮物、蒸し物のほかに、揚げ物、炒め物が多用され、さらに揚げてから煮たり、揚げてから蒸すなどの複合した調理法を用いる場合が多いなどの違いがあるが、普茶料理ではこれらの調理法も取り入れている。
朝鮮半島の精進料理
歴史
朝鮮半島への仏教伝来は4世紀[10]であり、中国では五胡十六国時代、南北朝時代に当たるが、すでに僧侶による農耕や菜食に移行する段階であったため、菜食(朝鮮語 チェーシク 채식)、素食(ソシク 소식)も仏教とほぼ同時に伝えられたと考えられる。統一新羅時代に唐から伝えられた禅宗は、禁葷食であり、仏教と切り離せない修行の方法の一つとして料理も伝えられた。新羅は528年に仏教を国教とし、翌529年に殺生禁止令を出して、菜食を食べることを求めた。10世紀の高麗時代には仏教寺院を中心に喫茶の習慣が広がり、供物としての油蜜菓(ユミルグワ 유밀과)と呼ばれるごま油を使った菓子が考案され、製麺や味噌の醸造も行われるようになった[11]その後、仏教徒に限って食べられてきたが、1980年代に精進料理専門店がソウル市内にできて以来注目されるようになり、伝統文化の見直しと健康志向から近年は自宅でも精進料理を好んで食べる人がでてきている[12]。
特徴
朝鮮半島においても、精進料理は供される場所により、寺院、宮廷、市中の料理店、家庭の4つに分けることができる。特に、高麗時代の宮廷においては道教の養生論や朝鮮人参などの韓薬も取り入れて、独特の精進料理が考案されたため、中国と異なる風味、手法のものも多く存在する。一方で、中国同様のもどき料理を作る手法は取り入れられ、改良されて、フェ(刺身)に似せたものなどの独特のものも作られている。
現在の韓国の精進料理は、韓国料理で多用されるトウガラシ、チシャ、エゴマなどの食材を取り入れており、チャンアチ(장아찌)と呼ばれる醤油漬けなどは中国や日本の精進料理とは異なる風味を持つ。調理法ではナムル、コチュジャン和えなどの和え物とおひたしが目立ち、近年は葉野菜を生で食べる事がある点は中国や日本と異なる。中国では用いられる頻度の少ない昆布や海苔などの海藻や大豆味噌も日本同様に取り入れている。炒め物もある点は中国と共通する。
日本の精進料理
歴史
鎌倉時代以降の禅宗の流入は、特に精進料理の発達に寄与した。平安時代までの日本料理は魚鳥を用いる反面、味が薄く調理後に調味料を用いて各自調製するなど、未発達な部分も多かった。それに比べて禅宗の精進料理は、菜食であるが、味がしっかりとしており、身体を酷使して塩分を欲する武士や庶民にも満足のいく濃度の味付けがなされていた。味噌やすり鉢といった調味料や調理器具、あるいは根菜類の煮しめといった調理技法は、日本料理そのものに取り入れられることになる。また、豆腐、氷(高野)豆腐(凍豆腐)、コンニャク、浜納豆(塩辛納豆ともいう)、ひじきといった食材も、精進料理の必須材料として持ち込まれたと考えられる。調理の心得として心から喜んで調理する喜心や自己より他人のための老心や冷静に調理の大心を重視している。甘い辛い酸っぱい苦い塩辛いの五味や生調理煮る焼く揚げる蒸すの五法を重視して、赤色の豆・米麦白色・黄色根菜類・緑野菜果物・きのこ海藻の黒色など五色を調理の基本としている。[13]
禅宗のうち曹洞宗では、開祖の道元禅師が宋に仏教を学びに渡った時、阿育王山の老典座との出会いから、料理を含めて日常の行いそれ自体がすでに仏道の実践であるという弁道修行の本質を知ったことから、料理すること、食事を取ることは特に重要視されている。道元が帰国後書いたのが、『典座教訓』(てんぞきょうくん)と『赴粥飯法』(ふしゅくはんぽう)で、ここから永平寺流の精進料理が生まれたという。永平寺では料理を支度することが重要な修行のひとつであり、庫院(調理場)の責任者である典座は、重役の一員に数えられている。
江戸時代には、料理屋でも寺院の下請けで仕出したり、仏教活動とは無関係に文人墨客向けに調製することが多くなっていた。京都大徳寺の精進料理は前者、飛騨高山の精進料理は後者の典型的なケースであり、いずれも分離していった懐石料理の手法を再び取り入れたりして、寺院のそれとはやや異なる風雅なものを生み出している。
精進料理はすでに記してきた通り、日本料理にも影響を与えて成長を促してきた。永平寺式の精進料理は、室町時代から江戸時代前期にかけて普及した本膳料理に通じる。また、懐石料理は精進料理から派生したものである。現在でこそ、(同音異義の会席料理との混同もあり)豪華なものとなっているが、当初は質素で季節の味を盛り込んだものであり、精進料理の精神が活かされたものであった。普茶料理は、中国料理の調理法が日本風にアレンジされながらも伝来し、けんちん汁、のっぺい汁、葛粉を利用した煮物や炒め物、揚げ煮といった料理や調理法が普及した。これら以外としては、点心の風習がある。これは室町時代に中国から伝わった風習で、軽食として饅頭・羊羹・うどん・素麺などが供された。当初は公家や武士が中心だったこの風習は、やがて庶民にも広がり、現在の昼食につながっていった。
野菜を使用する天ぷらは「精進揚げ」などとも呼ぶ[14][15](精進上げとは異なる[16])。
現状
寺院仏閣の中には、参拝者を宿坊に泊め、精進料理を提供して仏門の修行の一端を体験させることをしているところも少なくない。参詣参篭が信仰の重要な一部となる天台宗・真言宗系の寺院に多い。また、宿坊においては、料理と宿泊だけの提供もある。長野県の善光寺には、参拝客を宿泊させる宿坊が数多く存在し、夕食に精進料理を供することが多い。出される精進料理は、本膳式の本格的なものから、懐石料理風の現代的なタイプのものまでさまざまである。
一方、京都の寺院では、特に賓客用の精進料理を料理屋に一任したことが多かったため、寺院よりも周辺の料理屋に高度な精進料理が存在することが多い。大徳寺や妙心寺の周辺には精進料理専門の老舗の料理屋がある。
これは普茶料理でも同様であり、黄檗宗の総本山である萬福寺周辺には、普茶料理を食べさせる料理屋が多い。普茶料理には、料理屋で作られる独自のスタイルを止めて懐石料理風に仕立てた限りなく日本料理に近いタイプのものから、長崎の禅寺で作られる原点に近く、時としては現代の素菜を取り入れた中国料理に限りなく近いもの(長崎の禅寺の檀家には華僑が多く、お盆などでは中国や台湾からの来訪者も多いためとも考えられる)まで幅広く存在する。
ベジタリアン料理としての現代の精進料理
海外からの外国人観光客や日本に滞在する外国人の中にはヴィーガンやベジタリアンも多いが、精進料理は日本では高価な料理であることが多いこと、一般の日本料理では肉や魚が使用されていないように見えても、出汁に動物性材料を使っていることがあることなどから、ベジタリアン向けの、より気軽に低価格で毎日楽しめる精進料理も生まれてきている。しかしこれらは、精進料理という名前こそ付いてはいるが仏教的な意味は薄れてしまっている。また近年ではアメリカを中心にグルテンの摂取を控えるブームがあり、それに対応して麸を使わないなど、グルテンフリーを謳った精進料理も見られる。
献立の例
右図は京都にある臨済宗の禅寺・天龍寺の精進料理である。朱塗りの折敷は、臨済宗天龍寺派において、来客をもてなす際の正式のものである。
- 御飯
- 汁(白味噌)
- 平(湯葉、麩、椎茸の炊き合わせ)
- 木皿(胡麻豆腐)
- 木皿(紅葉麩、こんにゃく、栗、ごぼうなどの盛り合わせ)
- 壺(しめじと青菜のおひたし)
- 香の物
東南アジアの精進料理
華僑、華人と呼ばれる中国系の住民が多い、シンガポール、マレーシア、インドネシアなどにも中国の様式をもつ仏教寺院や道観が少なからずあり、僧侶、道士や信徒は中国の精進料理に準じた料理を日常的に、あるいは機会毎に食べ、精進料理専門の料理店も少数存在している。ココナッツミルクなど、東アジアの精進料理では余り用いない調味料も加えられる場合がある。
大乗仏教圏であるベトナムでは、毎月旧暦の1日と15日に「チャイ(ベトナム語:chay / 斎)」と呼ばれる精進料理を食べる風習が広く行われている[17]。
代表的な食材
脚注
- ^ a b c d e f “精進料理で「にんにく」を使ってはいけない理由”. NHKテキストview(NHK出版). 2015年7月31日閲覧。
- ^ a b c 青江覚峰『お寺ごはん』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2012年、2頁。
- ^ 許先、「緑色之精霊―中国素食文化史簡述」『食品与健康』2008年第4期pp4~6、天津市科技期刊編輯学会、天津
- ^ 『大般涅槃経』に「食肉者,断大慈悲種」(肉を食べる者、大慈悲の種を断つ)とある。
- ^ 許先、「緑色之精霊―中国素食文化史簡述」『食品与健康』2008年第4期pp4~6、天津市科技期刊編輯学会、天津
- ^ 邱龐同「清代素菜」『烹調知識』2002年第1期pp36~38、太原市商業経済学会、太原
- ^ 賀習耀、「素食園奇葩:寺観菜」『餐飲世界』2007年第4期、中国烹飪協会、北京
- ^ 趙英伝、「民間仿葷素菜」『四川烹飪』2005年第9期pp38~39、成都
- ^ 邱龐同「清代素菜」『烹調知識』2002年第1期pp36~38、太原市商業経済学会、太原
- ^ 高句麗は372年、百済は382年に仏教を国教とした。
- ^ 鄭大聲、「朝鮮の食文化の変遷とその特徴」『朝日カルチャーブックス アジアの食文化』、pp83-85、1985年、大阪書籍、大阪、ISBN 4-7548-1052-X
- ^ 法長、静山金演植、『身体と心を清める 韓国名刹と精進料理の旅』p4、ソウルセレクション、2009年、ソウル
- ^ 『今日から役立つ仏教』147頁正木晃執筆
- ^ “「精進揚げ」「精進落とし」はどのようなことですか?”. 仏事の総合アドバイザー「マルサン」. 2013年4月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年3月27日閲覧。
- ^ “精進揚げ”. 食と楽しい食さがし. 料理用語集. 2013年3月27日閲覧。
- ^ “ご葬儀の流れ”. 葬儀式場 浦田会館. 2012年8月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年3月27日閲覧。
- ^ ベトナムの精進料理に迫る!ホーチミン市でアンチャイしよう。
参考文献
- 吉村昇洋『精進料理考』春秋社、2019年。ISBN 978-4-393-15902-6。
関連項目
外部リンク
- 禅僧の台所~オトナの精進料理 - 曹洞宗の精進料理のレシピと情報
- “精進料理の歴史”. 典座ネット. 2009年8月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月18日閲覧。