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[[覲子内親王|宣陽門院覲子内親王]]の養女となり、[[嘉禄]]2年([[1226年]])6月16日、9歳で叙[[従三位]]<ref name=jusann/>、同6月19日後堀河天皇に入内、7月2日[[女御]]宣下、同29日中宮となる。わずか9歳での入内の背景には近衛家の意向だけではなく、天皇の外戚の地位を確保したい養母・宣陽門院や庇護者である[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]を失って代わりの庇護者を求める[[藤原兼子]](卿局)の強い後押しがあったと言われている<ref>白根陽子『女院領の中世的展開』(同成社、2018年) ISBN 978-4-88621-800-1 P69-70.</ref>。 |
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ところが、[[四条天皇]]を遺して九条竴子が急逝すると、後堀河上皇の方から宣陽門院に対して四条天皇を女院の猶子にするように求めた。これに対して、宣陽門院は承諾と共に鷹司院を四条天皇の准母に遇することを提案した<ref>『玉蘂』嘉禎元年正月1日条</ref><ref name=『玉蘂』嘉禎3年7月17日条>『玉蘂』嘉禎3年7月17日条</ref>。これを受けて、[[嘉禎]]3年([[1237年]])7月17日、[[四条天皇]]の[[准母]]に遇せられて入内<ref name=『玉蘂』嘉禎3年7月17日条>『玉蘂』嘉禎3年7月17日条</ref>。宣陽門院の膨大な[[長講堂領]]を、鷹司院を通じて四条天皇に譲るための措置であった(四条天皇は将来的に長講堂領を手に入れ、宣陽門院は自分の死後に四条天皇およびその子孫に追善法要などを執り行って貰えるメリットがあった)。しかし、四条天皇は[[仁治]]3年([[1242年]])1月に早世した<ref>白根陽子『女院領の中世的展開』(同成社、2018年) ISBN 978-4-88621-800-1 P71・90-91.</ref>。 |
2020年7月3日 (金) 22:38時点における版
近衛 長子 | |
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第86代天皇后 | |
皇后 |
嘉禄2年7月29日(1226年8月23日) (中宮) |
鷹司院 | |
院号宣下 | 寛喜元年4月18日(1229年5月12日) |
誕生 | 建保6年(1218年) |
崩御 |
建治元年2月11日(1275年3月9日) |
諱 | 長子(ながこ) |
氏族 | 藤原氏(近衛家) |
父親 | 近衛家実 |
母親 | 藤原季信女 |
配偶者 | 後堀河天皇 |
入内 | 嘉禄2年6月19日(1226年7月14日) |
女御宣下 | 嘉禄2年7月2日(1226年7月27日) |
立后前位階 | 従三位 |
近衛 長子(このえ ながこ、建保6年(1218年) - 建治元年2月11日(1275年3月9日))は、鎌倉時代の女院。後堀河天皇の中宮。猪熊関白近衛家実の女。母は修理大夫藤原季信の女。女院号は鷹司院(たかつかさいん)。法号は蓮華性[1]。
略歴
宣陽門院覲子内親王の養女となり、嘉禄2年(1226年)6月16日、9歳で叙従三位[2]、同6月19日後堀河天皇に入内、7月2日女御宣下、同29日中宮となる。わずか9歳での入内の背景には近衛家の意向だけではなく、天皇の外戚の地位を確保したい養母・宣陽門院や庇護者である後鳥羽上皇を失って代わりの庇護者を求める藤原兼子(卿局)の強い後押しがあったと言われている[3]。
しかし、寛喜元年(1229年)4月18日、九条竴子の中宮立后に先立ち、院号宣下(鷹司院)をされて退出。天皇との間に子はなかった。
ところが、四条天皇を遺して九条竴子が急逝すると、後堀河上皇の方から宣陽門院に対して四条天皇を女院の猶子にするように求めた。これに対して、宣陽門院は承諾と共に鷹司院を四条天皇の准母に遇することを提案した[4][5]。これを受けて、嘉禎3年(1237年)7月17日、四条天皇の准母に遇せられて入内[5]。宣陽門院の膨大な長講堂領を、鷹司院を通じて四条天皇に譲るための措置であった(四条天皇は将来的に長講堂領を手に入れ、宣陽門院は自分の死後に四条天皇およびその子孫に追善法要などを執り行って貰えるメリットがあった)。しかし、四条天皇は仁治3年(1242年)1月に早世した[6]。
四条天皇の後を受けて即位した後嵯峨天皇は間もなく子供の後深草天皇に皇位を譲ったが、母親の身分が低いために皇位を譲ることが出来なかった宗尊親王のために長講堂領の獲得を図るために、宗尊を鷹司院の猶子にしようと図った[7]。これを知った宣陽門院は鷹司院に「松月上人が出家をしなければ重い病にかかるという夢を見た」と説得[8]して、鷹司院の兄である近衛兼経の反対にも関わらず寛元4年(1246年)4月21日に強引に出家させてしまった[9][10]。その後、後嵯峨上皇と宣陽門院との妥協の結果として、後深草天皇が宣陽門院の猶子となり、宣陽門院はその長講堂領を、鷹司院に一期分として譲渡した後、鷹司院の没後に後深草天皇に渡るように定めたが、建長3年(1251年)に宣陽門院は後嵯峨上皇及び後深草天皇が後白河法皇の追善法要である「長講堂八講」を行うことを条件に先の処分状を破棄して長講堂領を直ちに後深草天皇に譲渡し、代わりに鷹司院には元の上西門院領を一期分として与えた[11]。
脚注
- ^ 『女院小伝』
- ^ 『女院記』
- ^ 白根陽子『女院領の中世的展開』(同成社、2018年) ISBN 978-4-88621-800-1 P69-70.
- ^ 『玉蘂』嘉禎元年正月1日条
- ^ a b 『玉蘂』嘉禎3年7月17日条
- ^ 白根陽子『女院領の中世的展開』(同成社、2018年) ISBN 978-4-88621-800-1 P71・90-91.
- ^ 白根陽子『女院領の中世的展開』(同成社、2018年) ISBN 978-4-88621-800-1 P119-120.
- ^ 『岡屋関白記』寛元4年4月20日条
- ^ 布谷(後、白根)陽子は、宣陽門院の考えは当時将来が不透明である宗尊親王への長講堂領の継承では長講堂やそこで行われる筈の自分や父・後白河院の法要が存続し続けるのかを不安視し、あくまでも皇位継承者による長講堂領の相続を望んだとしている。同様に後堀河天皇の中宮としても四条天皇の准母としても子孫に皇統を残せなかった鷹司院も最終的に長講堂領の継承者から外されること(一期分の撤回)になったとする(白根、2018年、P76・120)
- ^ 白根陽子『女院領の中世的展開』(同成社、2018年) ISBN 978-4-88621-800-1 P117-120.
- ^ 白根陽子『女院領の中世的展開』(同成社、2018年) ISBN 978-4-88621-800-1 P75-77・120-121.