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[[元亨]]2年([[1322年]])1月5日、従五位下に叙せられる<ref>[[一条子|万秋門院]]御給。</ref>。元亨3年([[1323年]])1月5日、従五位上に昇叙<ref>春宮御給。</ref>。元亨4年([[1324年]])4月17日、正五位下に昇叙<ref>春宮権大夫であった父具親の譲りによる。</ref>。[[正中 (元号)|正中]]3年([[1326年]])1月5日、従四位下に昇叙。[[嘉暦]]元年([[1326年]])8月6日、[[侍従]]に任ぜられる。同年11月4日、[[近衛府|左少将]]に任ぜられる。嘉暦2年([[1327年]])3月24日、従四位上に昇叙。嘉暦3年([[1328年]])1月5日、正四位下に昇叙。同年3月16日、石見権介を兼ねる。11月27日、春宮権亮を兼ねる。[[元徳]]元年([[1329年]])12月13日、左中将に転任。[[元弘]]元年/元徳3年([[1331年]])9月20日、新帝[[光厳天皇]]即位により春宮権亮を止める。同年10月28日、[[従三位]]に叙せられる。[[正慶]]元年/元弘2年([[1332年]])3月12日、参議に任ぜられる。元弘3年/正慶2年([[1333年]])6月、参議を止められ正四位下に戻される<ref>[[後醍醐天皇]]が隠岐から戻っての詔による。</ref>。


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[[建武 (日本)|建武]]4年/[[延元]]2年([[1337年]])1月7日、参議に任ぜられる。同日、[[兵衛府|右兵衛督]]を兼ねる。3月6日には検非違使別当に補される。7月20日、右衛門督に転任。10月8日、従三位に叙せられる。[[暦応]]元年/[[延元]]3年([[1338年]])6月12日、出家<ref>菩提心によるという。</ref>。暦応3年/[[興国]]元年([[1340年]])7月7日、薨去。享年21。

2020年7月3日 (金) 21:54時点における版

 
堀川具雅
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 元応2年(1320年
死没 暦応3年/興国元年7月7日1340年7月31日
官位 従三位参議右衛門督検非違使別当
主君 後醍醐天皇光厳天皇後醍醐天皇光明天皇
氏族 村上源氏庶流堀川家
父母 父:堀川具親、母:家女房
兄弟 具雅具孝具信
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堀川 具雅(ほりかわ ともまさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿内大臣堀川具親の長男。母は家女房。官位従三位参議右衛門督検非違使別当

経歴

以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

元亨2年(1322年)1月5日、従五位下に叙せられる[1]。元亨3年(1323年)1月5日、従五位上に昇叙[2]。元亨4年(1324年)4月17日、正五位下に昇叙[3]正中3年(1326年)1月5日、従四位下に昇叙。嘉暦元年(1326年)8月6日、侍従に任ぜられる。同年11月4日、左少将に任ぜられる。嘉暦2年(1327年)3月24日、従四位上に昇叙。嘉暦3年(1328年)1月5日、正四位下に昇叙。同年3月16日、石見権介を兼ねる。11月27日、春宮権亮を兼ねる。元徳元年(1329年)12月13日、左中将に転任。元弘元年/元徳3年(1331年)9月20日、新帝光厳天皇即位により春宮権亮を止める。同年10月28日、従三位に叙せられる。正慶元年/元弘2年(1332年)3月12日、参議に任ぜられる。元弘3年/正慶2年(1333年)6月、参議を止められ正四位下に戻される[4]

建武4年/延元2年(1337年)1月7日、参議に任ぜられる。同日、右兵衛督を兼ねる。3月6日には検非違使別当に補される。7月20日、右衛門督に転任。10月8日、従三位に叙せられる。暦応元年/延元3年(1338年)6月12日、出家[5]。暦応3年/興国元年(1340年)7月7日、薨去。享年21。

脚注

  1. ^ 万秋門院御給。
  2. ^ 春宮御給。
  3. ^ 春宮権大夫であった父具親の譲りによる。
  4. ^ 後醍醐天皇が隠岐から戻っての詔による。
  5. ^ 菩提心によるという。

参考文献