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== 関連項目 == |
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2020年7月3日 (金) 21:53時点における版
一条実経(天子摂関御影) | |
時代 | 鎌倉時代 |
生誕 | 貞応2年(1223年) |
死没 | 弘安7年7月18日(1284年8月30日) |
改名 | 行雅、行雄、行祚(法名) |
別名 | 円明寺関白 |
諡号 | 円明寺殿、後一条入道関白 |
墓所 | 京都府京都市東山区東福寺 |
官位 | 従一位、摂政 関白、左大臣 |
主君 | 後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇 |
氏族 | 藤原北家九条流一条家 |
父母 | 父:九条道家、母:西園寺綸子 |
兄弟 | 教実、二条良実、頼経、一条実経、円実、慈源、法助、竴子、仁子、佺子 ほか |
妻 |
坊門有信の娘、良性の娘 藤原定高の娘、園基氏の娘 平成俊の娘 |
子 | 家経、実家、師良、ほか |
一条 実経(いちじょう さねつね)は、鎌倉時代の公卿。従一位、摂政 関白、左大臣。五摂家の一つ一条家の祖。号に円明寺殿、後一条入道関白など。法名に行雅、行雄、行祚などがある。通称は円明寺関白(えんみょうじ かんぱく)。
九条道家の四男に生まれる。母は西園寺公経女准三后綸子。長兄に九条教実、次兄に二条家祖の二条良実、三兄に鎌倉幕府4代将軍となった藤原頼経がいる。
来歴
寛喜4年(1229年)に元服して正五位下に叙せられる。父・道家と不仲だった兄・良実とは対照的に父に溺愛され、仁治3年(1242年)一条室町の第を譲られる。寛元4年(1246年)1月28日に関白・藤原氏長者。翌日に後嵯峨天皇が譲位したため、後深草天皇の摂政となる。また父の意向で関東申次の職務の一部を代行する。ところが翌年に鎌倉で起こった兄で将軍の頼経を巡る一連の騒動に連座して摂政を罷免される(宮騒動)。文永2年(1265年)に関白に再任されるが、2年後に辞任。その後、山城国山崎の円明寺で晩年を過ごし、弘安7年(1284年)7月18日薨去。享年62。墓は京都東福寺にある。
官途
※日付は旧暦
- 寛喜4年(1229年)- 1月21日 元服して正五位下に叙し禁色を聴される。1月30日 右近衛少将に任官。
- 貞永元年(1229年)- 3月24日 右近衛中将に転任。4月7日 従四位下に昇叙。
- 貞永2年(1230年)- 1月24日 播磨権守を兼任。
- 天福元年(1233年)- 8月8日 従三位に昇叙。
- 文暦元年(1234年)- 12月26日 正三位に昇叙。
- 嘉禎元年(1235年)- 10月2日 権中納言に転任、右近衛中将の兼任は元の如し。
- 嘉定2年(1236年)- 6月9日 権大納言に転任。11月22日 正二位に昇叙。
- 嘉定4年(1238年)- 2月6日 左近衛大将を兼任。2月9日 左馬寮御監を兼帯。
- 仁治元年(1240年)- 10月20日 右大臣に転任。10月24日 左近衛大将と左馬寮御監は元の如し。
- 仁治2年(1241年)- 11月8日 左近衛大将を辞す(左馬寮御監もか?)
- 寛元元年(1243年)- 8月10日 皇太子久仁親王(後の後深草天皇)の東宮傅を兼任。
- 寛元2年(1244年)- 6月13日 左大臣に転任、東宮傅の兼任は元の如し。
- 寛元4年(1246年)- 1月28日 関白・内覧・藤氏長者宣下。1月29日 関白と東宮傅を止め、摂政宣下。3月8日 従一位に昇叙。12月14日 左大臣を辞す。
- 寛元5年(1247年)- 1月19日 摂政・内覧・藤氏長者を辞す。
- 弘長3年(1263年)- 8月12日 左大臣に還任。
- 文永2年(1265年)- 閏4月18日 再度の関白宣下。10月5日 左大臣を辞す。
- 文永4年(1267年)- 12月9日 関白を辞す。
- 弘安7年(1284年)- 5月19日 出家、行祚と号す。7月18日 薨去、享年62。
系譜
- 父:九条道家
- 母:西園寺綸子 - 西園寺公経女
- 室:坊門有信女
- 室:良性女
- 室:藤原定高女
- 室:園基氏女
- 五男:一条家房(1270-?)
- 室:平成俊女
- 女子:一条頊子(万秋門院)(1260-1338) - 後二条天皇尚侍