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「藤原嫄子」の版間の差分

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[[長和]]5年([[1016年]])誕生。母が[[関白]][[藤原頼通]]の正室[[隆姫女王]]の妹であった縁で、子供のない頼通夫妻の養女となる。[[寛仁]]2年([[1018年]])、父・敦康親王が薨去。同4年11月26日著袴。


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[[長元]]9年([[1036年]])、後朱雀天皇の女御代となる。同10年([[1037年]])1月7日入内、[[女御]]の宣旨を受け[[正四位]]下に叙される。同年3月1日、中宮に冊立。天皇の寵愛を受け、[[祐子内親王 (後朱雀天皇皇女)|祐子内親王]]・[[子内親王 (後朱雀天皇皇女)|禖子内親王]]の二皇女をもうけるが、皇子出生を見る事なく、禖子内親王の出産9日後に産褥死した。享年24。


『[[太神宮諸雑事記]]』によると、中宮は御産の十日後、沐浴しているうちに雷電が鳴り大雨が激しく降り、そのまま御湯殿において頓滅したという。逝去当時、源氏でありながら藤原氏の養女として立后した事で、藤原氏の氏神である[[春日大社|春日社]]の神の怒りを買った為に亡くなったのだという噂が流れた<ref>『[[春記]]』長暦4年11月23日条「又内密談云、藤氏皇后于今無其人、已非託宣旨、源氏皇后蒙神罸之後、以其子息忽被下准后宣下、尤背神意歟」</ref>。なお嫄子を擁立したことで先に中宮となっていた[[禎子内親王]]は[[皇后]]に押しやられ、頼通との関係が悪化したとされる。
『[[太神宮諸雑事記]]』によると、中宮は御産の十日後、沐浴しているうちに雷電が鳴り大雨が激しく降り、そのまま御湯殿において頓滅したという。逝去当時、源氏でありながら藤原氏の養女として立后した事で、藤原氏の氏神である[[春日大社|春日社]]の神の怒りを買った為に亡くなったのだという噂が流れた<ref>『[[春記]]』長暦4年11月23日条「又内密談云、藤氏皇后于今無其人、已非託宣旨、源氏皇后蒙神罸之後、以其子息忽被下准后宣下、尤背神意歟」</ref>。なお嫄子を擁立したことで先に中宮となっていた[[禎子内親王]]は[[皇后]]に押しやられ、頼通との関係が悪化したとされる。

2020年6月26日 (金) 23:32時点における版

藤原 嫄子
第69代天皇后
皇后 長元10年3月1日1037年3月20日
(中宮)

誕生 長和5年7月19日1016年8月24日
崩御 長暦3年8月28日1039年9月19日
嫄子
氏族 皇族
養: 藤原氏北家御堂流
父親 敦康親王
養父:藤原頼通
母親 具平親王の次女
養母:隆姫女王
配偶者 後朱雀天皇
入内 長元10年1月7日1037年1月25日
子女 祐子内親王
禖子内親王
女御宣下 長元10年1月29日(1037年2月16日
立后前位階 正四位
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藤原 嫄子(ふじわら の げんし(もとこ)、長和5年7月19日1016年8月24日) - 長暦3年8月28日1039年9月19日))は、平安時代中期、後朱雀天皇中宮関白藤原頼通養女。実父は一品式部卿敦康親王、母は具平親王の次女。後朱雀天皇中宮嫄子女王とも。

生涯

長和5年(1016年)誕生。母が関白藤原頼通の正室隆姫女王の妹であった縁で、子供のない頼通夫妻の養女となる。寛仁2年(1018年)、父・敦康親王が薨去。同4年11月26日著袴。

長元9年(1036年)、後朱雀天皇の女御代となる。同10年(1037年)1月7日入内、女御の宣旨を受け正四位下に叙される。同年3月1日、中宮に冊立。天皇の寵愛を受け、祐子内親王禖子内親王の二皇女をもうけるが、皇子出生を見る事なく、禖子内親王の出産9日後に産褥死した。享年24。

太神宮諸雑事記』によると、中宮は御産の十日後、沐浴しているうちに雷電が鳴り大雨が激しく降り、そのまま御湯殿において頓滅したという。逝去当時、源氏でありながら藤原氏の養女として立后した事で、藤原氏の氏神である春日社の神の怒りを買った為に亡くなったのだという噂が流れた[1]。なお嫄子を擁立したことで先に中宮となっていた禎子内親王皇后に押しやられ、頼通との関係が悪化したとされる。

脚注

  1. ^ 春記』長暦4年11月23日条「又内密談云、藤氏皇后于今無其人、已非託宣旨、源氏皇后蒙神罸之後、以其子息忽被下准后宣下、尤背神意歟」