コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「藤原忻子」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
40行目: 40行目:
'''藤原 忻子'''(ふじわら の きんし(よしこ)、[[長承]]3年([[1134年]]) - [[承元]]3年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]([[1209年]][[9月12日]]))は[[平安時代]]末期の后妃。第77代[[後白河天皇]][[中宮]]。父は[[徳大寺公能]]で、母は[[藤原豪子]]。妹に[[近衛天皇]][[皇后]](のち[[二条天皇]]后)[[藤原多子|多子]]がいる。
'''藤原 忻子'''(ふじわら の きんし(よしこ)、[[長承]]3年([[1134年]]) - [[承元]]3年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]([[1209年]][[9月12日]]))は[[平安時代]]末期の后妃。第77代[[後白河天皇]][[中宮]]。父は[[徳大寺公能]]で、母は[[藤原豪子]]。妹に[[近衛天皇]][[皇后]](のち[[二条天皇]]后)[[藤原多子|多子]]がいる。


[[久寿]]2年([[1155年]])に入内し、後白河天皇即位と共に[[従四位|従四位上]][[女御]]となる。[[保元]]元年([[1156年]])、中宮に冊立。保元3年([[1158年]])、後白河天皇譲位。[[平治]]元年([[1159年]])、[[しゅ子内親王|姝子内親王]]が二条天皇中宮に立后したのに伴い皇后宮。[[承安 (日本)|承安]]2年([[1172年]])、[[皇太后]]。承元3年(1209年)、76歳で崩御。『[[今鏡]]』は美貌であったと伝えるが、後白河天皇の寵愛は薄く子女もなかった。
[[久寿]]2年([[1155年]])に入内し、後白河天皇即位と共に[[従四位|従四位上]][[女御]]となる。[[保元]]元年([[1156年]])、中宮に冊立。保元3年([[1158年]])、後白河天皇譲位。[[平治]]元年([[1159年]])、[[姝子内親王]]が二条天皇中宮に立后したのに伴い皇后宮。[[承安 (日本)|承安]]2年([[1172年]])、[[皇太后]]。承元3年(1209年)、76歳で崩御。『[[今鏡]]』は美貌であったと伝えるが、後白河天皇の寵愛は薄く子女もなかった。





2020年6月26日 (金) 23:22時点における版

藤原 忻子
第77代天皇后
皇后 保元元年10月27日1156年11月11日
(中宮)
平治元年2月21日1159年3月12日
(皇后宮)
皇太后 承安2年2月10日1172年3月6日

誕生 長承3年(1134年
崩御 承元3年8月12日1209年9月12日
忻子
氏族 藤原氏北家閑院流徳大寺家
父親 徳大寺公能
母親 藤原豪子
配偶者 後白河天皇
入内 久寿2年10月20日1155年11月16日
女御宣下 久寿2年10月26日(1155年11月22日
身位 女御皇后皇太后
立后前位階 従四位
テンプレートを表示

藤原 忻子(ふじわら の きんし(よしこ)、長承3年(1134年) - 承元3年8月12日1209年9月12日))は平安時代末期の后妃。第77代後白河天皇中宮。父は徳大寺公能で、母は藤原豪子。妹に近衛天皇皇后(のち二条天皇后)多子がいる。

久寿2年(1155年)に入内し、後白河天皇即位と共に従四位上女御となる。保元元年(1156年)、中宮に冊立。保元3年(1158年)、後白河天皇譲位。平治元年(1159年)、姝子内親王が二条天皇中宮に立后したのに伴い皇后宮。承安2年(1172年)、皇太后。承元3年(1209年)、76歳で崩御。『今鏡』は美貌であったと伝えるが、後白河天皇の寵愛は薄く子女もなかった。