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'''藤原 忻子'''(ふじわら の きんし(よしこ)、[[長承]]3年([[1134年]]) - [[承元]]3年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]([[1209年]][[9月12日]]))は[[平安時代]]末期の后妃。第77代[[後白河天皇]][[中宮]]。父は[[徳大寺公能]]で、母は[[藤原豪子]]。妹に[[近衛天皇]][[皇后]](のち[[二条天皇]]后)[[藤原多子|多子]]がいる。 |
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[[久寿]]2年([[1155年]])に入内し、後白河天皇即位と共に[[従四位|従四位上]][[女御]]となる。[[保元]]元年([[1156年]])、中宮に冊立。保元3年([[1158年]])、後白河天皇譲位。[[平治]]元年([[1159年]])、[[ |
[[久寿]]2年([[1155年]])に入内し、後白河天皇即位と共に[[従四位|従四位上]][[女御]]となる。[[保元]]元年([[1156年]])、中宮に冊立。保元3年([[1158年]])、後白河天皇譲位。[[平治]]元年([[1159年]])、[[姝子内親王]]が二条天皇中宮に立后したのに伴い皇后宮。[[承安 (日本)|承安]]2年([[1172年]])、[[皇太后]]。承元3年(1209年)、76歳で崩御。『[[今鏡]]』は美貌であったと伝えるが、後白河天皇の寵愛は薄く子女もなかった。 |
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2020年6月26日 (金) 23:22時点における版
藤原 忻子 | |
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第77代天皇后 | |
皇后 |
保元元年10月27日(1156年11月11日) (中宮) 平治元年2月21日(1159年3月12日) (皇后宮) |
皇太后 | 承安2年2月10日(1172年3月6日) |
誕生 | 長承3年(1134年) |
崩御 |
承元3年8月12日(1209年9月12日) |
諱 | 忻子 |
氏族 | 藤原氏(北家閑院流・徳大寺家) |
父親 | 徳大寺公能 |
母親 | 藤原豪子 |
配偶者 | 後白河天皇 |
入内 | 久寿2年10月20日(1155年11月16日) |
女御宣下 | 久寿2年10月26日(1155年11月22日) |
身位 | 女御 → 皇后 → 皇太后 |
立后前位階 | 従四位上 |
藤原 忻子(ふじわら の きんし(よしこ)、長承3年(1134年) - 承元3年8月12日(1209年9月12日))は平安時代末期の后妃。第77代後白河天皇中宮。父は徳大寺公能で、母は藤原豪子。妹に近衛天皇皇后(のち二条天皇后)多子がいる。
久寿2年(1155年)に入内し、後白河天皇即位と共に従四位上女御となる。保元元年(1156年)、中宮に冊立。保元3年(1158年)、後白河天皇譲位。平治元年(1159年)、姝子内親王が二条天皇中宮に立后したのに伴い皇后宮。承安2年(1172年)、皇太后。承元3年(1209年)、76歳で崩御。『今鏡』は美貌であったと伝えるが、後白河天皇の寵愛は薄く子女もなかった。