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'''須藤 憲三'''(すとう けんぞう、[[明治]]5年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]([[1872年]][[2月18日]]) - [[昭和]]9年([[1934年]])[[1月7日]])は、日本の[[医師]]、[[医学者]]、[[医学博士]]、[[金沢医科大学 (旧制)|旧制金沢医科大学]](現:[[金沢大学]][[医学部]])学長、生化学者。日本における糖尿病研究の先駆者であり、尿糖の定量法を確立した。また、「[[栄養]]」の命名者でもある<ref name="AN">{{Cite journal|和書|author=山本博|year=2005|title=金沢大学の糖尿病学|journal=ACANTHUS NEWS|issue=98|pages=pp.966|issn=1346-0684|url=https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2014/11/acan98.pdf|accessdate=2009-11-9}}</ref>。
'''須藤 憲三'''(すとう けんぞう、[[明治]]5年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]([[1872年]][[2月18日]]) - [[昭和]]9年([[1934年]])[[1月7日]])は、日本の[[医師]]、[[医学者]]、[[医学博士]]、[[金沢医科大学 (旧制)|旧制金沢医科大学]](現:[[金沢大学]][[医学部]])学長、生化学者。日本における糖尿病研究の先駆者であり、尿糖の定量法を確立した。また、「[[栄養]]」の命名者でもある<ref name="AN">{{Cite journal|和書|author=山本博|year=2005|title=金沢大学の糖尿病学|journal=ACANTHUS NEWS|issue=98|pages=pp.966|issn=1346-0684|url=https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2014/11/acan98.pdf|accessdate=2009-11-9}}</ref>。
当時は「営養」と書かれていたが「“営む”のではなく、“養い栄えさせる”のが栄養学の目的で、心身を栄えさせてはじめて頭も良くなるんだ」との主張の元、[[森外]]、[[尾崎幸雄]]などの支持を得て「栄養」に改めた。
当時は「営養」と書かれていたが「“営む”のではなく、“養い栄えさせる”のが栄養学の目的で、心身を栄えさせてはじめて頭も良くなるんだ」との主張の元、[[森外]]、[[尾崎幸雄]]などの支持を得て「栄養」に改めた。
金沢医科大学病院に国内の病院としては初めて栄養部を設立1923年、栄養部長に[[大橋タカ子]]を登用。
金沢医科大学病院に国内の病院としては初めて栄養部を設立1923年、栄養部長に[[大橋タカ子]]を登用。
[[日本の脚気史]]によれば、臨時脚気病調査会委員を務めている。
[[日本の脚気史]]によれば、臨時脚気病調査会委員を務めている。

2020年6月18日 (木) 11:20時点における版

須藤 憲三(すとう けんぞう、明治5年1月10日1872年2月18日) - 昭和9年(1934年1月7日)は、日本の医師医学者医学博士旧制金沢医科大学(現:金沢大学医学部)学長、生化学者。日本における糖尿病研究の先駆者であり、尿糖の定量法を確立した。また、「栄養」の命名者でもある[1]。 当時は「営養」と書かれていたが「“営む”のではなく、“養い栄えさせる”のが栄養学の目的で、心身を栄えさせてはじめて頭も良くなるんだ」との主張の元、森鷗外尾崎幸雄などの支持を得て「栄養」に改めた。 金沢医科大学病院に国内の病院としては初めて栄養部を設立1923年、栄養部長に大橋タカ子を登用。 日本の脚気史によれば、臨時脚気病調査会委員を務めている。

人物

羽前国置賜郡赤湯村(現山形県南陽市赤湯温泉)の町人宿「あぶらや」の主人富右ヱ門と母いわの長男として生を受ける。富右ヱ門は町人ながら、漢籍に詳しく書家としても号を雙翠(フスイ)と称し、名の通った土地の文化人であった。 幼名は健蔵、後に上京してから憲三と名乗る。 明治11年10月10日6歳10ヶ月で尋常小学校入学、4年で卒業。赤湯としては例を見ない優秀な成績で卒業。同じく赤湯村出身の東京帝国大学医学教授 佐藤精のすすめで徒歩で上京、明治19年15歳の時であった。

のちに須藤の妻となった「とく」は佐藤精の長女。 佐藤精は上杉藩藩医佐藤玄甫の長男、幼名を精一郎、母方の叔父であり、「とく」と須藤は、いとこ同士であった。(出典:家族伝承 および 南陽市市報「なんよう」 平成元年8月1日号「ふるさとのひと」 第39回日本民族衛生学会 会長講演 「sutoh kenzoh先生」須藤春一 1974年10月19日)(但し、須藤春一は血縁に非ず)

上京後、獨逸学協会学校でドイツ語を学ぶ、 1889年(明治22年)東京医学院に入るも東京医学院破たん後は済生学舎にて医学を学ぶ。1892年(明治25年)内務省医術開業試験に合格(当時学歴は不要であった)。1893年(明治26年)4月東京帝大医科大学生理学専科(史料によっては 選科 の記述もある)に移る、1894年(明治27年)6月東京帝大医学部隈川宗雄教授の助手。1903年(明治36年)3月講師。1905年(明治38年)助教授就任、1911年(明治44年)医学博士。 1912年(明治45年)より3年間ドイツ留学、ベルリン大学、カイザーウィルヘルム研究所(Kaiser-Wilhelm-Institut 現在では Kaiser-Wilhelm-Gesellschaft zur Förderung der Wissenschaften および Max-Planck-Institutに継承されている)にて研究。(出典:家族伝承 および 第39回日本民族衛生学会 会長講演 「sutoh kenzoh先生」須藤春一 1974年10月19日)


高安右人初代学長の後を受けて、1924年(大正13年)-1932年(昭和7年)金沢医科大学 (旧制)第二代学長[1] 昭和7年(1932年)退官、同年12月28日勳二等 瑞宝章。 後任は石坂伸吉氏(薬理学)。

業績

  • 隅川・須藤法 脂肪定量法
  • Pavy-隈川-須藤法 尿唐定量法
  • 医学写真の定着(出典:家族伝承 日本医学写真学会顧問 広瀬文雄氏談 「北陸写真研究会のあゆみ」1982年 南陽市市報「なんよう」 平成元年10月1日号「ふるさとのひと」)

著書

  • 『醫化學實実習』 瓜生済生館 1902年
  • 『醫化學實驗法』 南江堂 1902年
  • 『食物及榮養概論』 元々堂、1913年
  • 『小醫化學實習』 瓜生済生館、1918年
  • 『冩眞小話』 瓜生済生館、1922年
  • 『醫化學微量測定法』 瓜生済生館、1931年
  • 『醫化學的微量測定法』 南江堂 1934年
  • 『掃除の仕方』1926年

系譜


  須藤富右衛門
       ┃
       ┣須藤憲三    ┏ 清(夭逝)
       ┃  ┃     ┃
      いわ  ┣━━━━━╋ 千代子(荒井)
          ┃     ┃
  佐藤精━━━━━督子    ┣ 芳子(渡辺)
                ┃
                ┣ 次郎
                ┃
                ┗ 康雄
                   

 

その他

墓所は山形県南陽市赤湯 東正寺

脚注

  1. ^ a b 山本博「金沢大学の糖尿病学」『ACANTHUS NEWS』第98号、2005年、pp.966、ISSN 1346-06842009年11月9日閲覧 

参考文献

  • 南陽市報「なんよう」 郷土の偉人 医学博士 須藤憲三 須崎寛二 2011年11月号
  • 「東京大学医学部生化学教室百周年記念誌」30~34頁 東京大学医学部生化学教室百周年記念会 1997年3月
  • 南陽市報「なんよう」 ふるさとのひと 須藤憲三 日本医化学の先駆者 後藤大次郎 1989年8月~10月号
  • 「Diabetes Journal 糖尿病と代謝」 須藤憲三先生 田中静雄 竹田亮祐 1978年 Vol.6 No.2
  • 「臨床栄養」(臨時増刊号) 病院栄養指導の歩み 山本光雄、波部昭、松本敦子 1976年
  • 第39回日本民族衛生学会 会長講演 「sutoh kenzoh先生」須藤春一 1974年10月19日
  • 「金沢大学医学部百年史」金沢大学医学部創立百年記念会 1972年
  • 島峯 徹先生」 長尾優 医歯薬出版 1968年
  • 「広島医学」 須藤先生の思い出 末吉雄治
  • 「お茶の水医学雑誌」第18巻 広瀬文雄氏を囲む座談会
  • 金沢医科大学「十全会雑誌」第42巻 第1号 故名誉教授須藤憲三博士の病歴(狭心症)について 丸外毛二 1937年
  • 金沢医科大学「十全同窓会誌」第2号 45~49頁 1934年8月 須藤前学長葬儀次第
  • 「金澤医科大学一覧」 1933年
  • 「東京帝国大学医学部生化学教室出身及在室者氏名録」 1935年1月
  • 「東洋医学会誌」常尿の還元力に対する「バヰー」隈川・須藤氏法の比較試験 1909年

外部リンク