「ノート:征韓論」の版間の差分
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::おっしゃるようにそういった記述があるのかは出典として最も大事な点であるので確認して頂ければ結構です。しかしながらそういった主張をしているのは毛利氏だけではございませんので、仮に毛利氏以外の検証可能性のある出典があれば、類似するような記述が追加される可能性は当然あります。その説の真偽の議論自体を編集者が行ってはならず、それは独自研究になりますから。--[[利用者:Greatkids|Greatkids]]([[利用者‐会話:Greatkids|会話]]) 2020年5月13日 (水) 15:24 (UTC) |
::おっしゃるようにそういった記述があるのかは出典として最も大事な点であるので確認して頂ければ結構です。しかしながらそういった主張をしているのは毛利氏だけではございませんので、仮に毛利氏以外の検証可能性のある出典があれば、類似するような記述が追加される可能性は当然あります。その説の真偽の議論自体を編集者が行ってはならず、それは独自研究になりますから。--[[利用者:Greatkids|Greatkids]]([[利用者‐会話:Greatkids|会話]]) 2020年5月13日 (水) 15:24 (UTC) |
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{{特別:差分/77528616}}の編集ですが、「西郷が近い将来における征韓を視野に入れて朝鮮使節を志願したとする意見と朝鮮の開国および同国との修好関係の実現を平和的交渉によって自ら成し遂げようとしたのだとする意見とが対立してきた」という箇所の頭に「これ以降、」と書いて毛利敏彦のあとにもってきています。しかしながら、[[家近良樹]]の著作によると、この部分は毛利敏彦が「この論争に重要な一石を投じることになった」以前のことになっています。ソースを確認せずに、利用者の独断で作文するのはよろしくないことですし、独自研究となります。-- [[利用者:Takabeg|Takabeg]]([[利用者‐会話:Takabeg|会話]]) 2020年5月13日 (水) 15:45 (UTC) |
2020年5月13日 (水) 15:45時点における版
西郷の反征韓論者・遣韓論者説の付与を提案します。--以上の署名のないコメントは、INfex(会話・投稿記録)さんが 2008年2月18日 (月) 18:34 (UTC) に投稿したものです。
「出典不明で巧妙に独自研究になってしまっています。【日本書紀の神功皇后紀で高句麗新羅百済を「三韓」と呼ぶ】は正しくとも【~を論拠とするので征韓論と呼ぶ。】かどうかは確認できる資料が必要です。もっとも、明治初年の巷間でなんとなく言われ始めたというのが実際でしょうから、すくなくとも「征鮮」でなく「征韓」であることの趣旨について推定しているなり弁じているなりした、信頼できる評者の引用があってしかるべきです。」 とのことだが、「巷間で何となく」は根拠なき独自研究です。--以上の署名のないコメントは、116.80.172.141(会話)さんが 2010年4月12日 (月) 13:18 (UTC) に投稿したものです。
- 「日本書紀の神功皇后紀で高句麗新羅百済を「三韓」と呼ぶ。それに基づき江戸時代には朝鮮半島を下に見る思想が盛んであった。その流れを受けて征韓論が出て来た。これに対して「朝鮮」は太古の伝説から取って李氏朝鮮が使っていた正式国号である。太古の栄光の国号を用いることは周・宋・西夏など広く見られる現象である。征韓派はこれを用いなかった。」引用元不明示で独自研究の懸念。--大和屋敷 2010年4月12日 (月) 14:38 (UTC)引用元にあたりそうな史料をさがしてください。僕はGoogleで検索しましたがみつかりませんでしたので。ご存知ならご紹介ください。貴殿がこれほどまでに投稿にこだわられる限りはきっとどこかにその根拠があるのでしょう。それがどこに記載されてあったことなのかをご紹介ください。現状では信頼性に乏しくとても百科事典の内容として掲載を許容できかねます。--大和屋敷 2010年4月12日 (月) 14:41 (UTC)資料追加のうえ記事を復元しました。一部未復元ですが資料あれば追記します。どうもピンポイントで適当なのが見つからない・・--大和屋敷 2010年4月13日 (火) 10:18 (UTC)
征韓論は、当時の閣僚の外交方針の論争を後付した抽象的なものである。
- 正確な議事録が存在しないので、閣議で誰がどう発言したかは聞き伝えであり正確性に欠ける。
- 西郷本人が、自分の主張について公式(私信でない)の文書に残しておらず何を考えていたのか本当の所は誰も判らない。
- 現在の書籍等の形で発表されている内容は、西郷や他の閣僚の手紙または佐々木高行の日記などから推測した研究である。
従って検証可能な正確な史料など存在し得ない。西郷が辞職した理由も、もともと参議などやりたくなかったのでこれを機会に辞めたとか(西郷の手紙が根拠)、いろいろ意見がありよく判らない。 客観的な記事にするなら、当時の日本及び朝鮮半島の状況を説明した上で、それらの状況に対処する外交方針をめぐって政府内に対立が起こった事実を記述するしかないと思う。D.Naka 2010年5月9日 (日) 03:14 (UTC)
その立論がなされている信頼できる文献・論文から「征韓論なかった説(?)」を投稿することができます。ありますか?あれば大変興味ぶかいです。--大和屋敷 2010年5月9日 (日) 05:35 (UTC)
- いや、誰が征韓論者とかということではなくて政府が分解したのは事実ですから、征韓論争とでもした方がいいのかなと。現実には江華島事件まで起こして2年後に開国を強行してる訳ですから、朝鮮に武力行使をする事に対して大久保、岩倉、木戸は絶対反対だった訳でもないと言えます。前後の事実の繋がりからに考えると大久保は「最終的には武力行使もやむを得ないがその時期ではない」と考えていたとする方が無理がないように思えます。D.Naka 2010年5月9日 (日) 13:07 (UTC)
あーなるほど。征韓論争のほうが正確そうですね。記述内容も征韓論そのものより、それをめぐる論争が中心ですし・・--大和屋敷 2010年5月9日 (日) 19:11 (UTC)
記事名変更の提案
上記の経緯により記事タイトルを「征韓論」から「征韓論争」に変更することを提案いたします。現在征韓論争はリダイレクトとして本記事にリンクされていますので、手続き方法はちょっとよくわかりません。賛否・議論等ございましたら下記でよろしくお願い申し上げます。Wikipedia:ページの改名により告知期間は1週間ということですが、とりあえず2010年7月末くらいまでに議論に結論を出せれば・・--大和屋敷 2010年5月9日 (日) 19:11 (UTC)
- こんにちは、「征韓論争」というタイトルが存在するのは知りませんでした。ご存じかと思いますが、私が明治初期の歴史の論拠としている資料の一つは『大隈伯昔日譚』でこれは明治28年に大隈重信の口述筆記を新聞記者が新聞の連載にまとめたものです。現在では国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー http://kindai.da.ndl.go.jp/ 」で自由に閲覧できます。征韓論争から22年後の口述筆記の上に大隈は西郷が嫌いだった事もあり、結構バイアスが掛かっていますが当時の参議の木戸や大久保等の微妙な意見の違いは読み取れると思います。あと「岩倉公実記」の 『朝鮮国遣使論発端ノ事 』『朝鮮国遣使ニ付閣議分裂ノ事 』に大隈の話と全然違う事が一部書かれています。
- 明治六年十月付ー大久保利通建白書(大久保利通文書)に以下の様に述べられており、出兵どころではないことがわかります。
- […略 我国ノ外債、多ハ英国ニ依ラザルヲナシ。若シ今、吾国ニ於テ不慮の禍難ヲ生ジ、倉庫空乏シ、人民貧弱ニ陥リ、其負債ヲ償フコト能ハズハ、英国ハ必ズコレヲ以テ口実トシ、終ニ我内政ニ関スルノ禍ヲキ、恐ラクハ其弊害言フ可ラザラン極ニ至ラン」D.Naka 2010年5月10日 (月) 09:00 (UTC)
- (反対)一般的には「征韓論」の方で呼ばれる機会も多いですし、教科書にも「征韓論」と記述している会社もあります。昔では「征韓論争」と言っていた時代もあったかとは思いますが、記事名としては現在の時点で広く知られている名前の方を記事名にしたほうが良いのではないでしょうか--Nederman 2010年5月21日 (金) 07:27 (UTC)
- 反対 私も現行の記事名を変えるほどではないと判断します。なお西郷は本来征韓論者ではないという近年よく見られる主張に関しては、坂野潤治氏がいくつかの著書で再反論していたと思います(現在手元にはありませんが…)。--トホホ川 2010年5月22日 (土) 01:59 (UTC)
コメント 坂野潤治『西郷隆盛と明治維新〈講談社現代新書 2202〉』講談社、二〇一三年四月二〇日第一刷発行、ISBN 978-4-06-288202-6 には、「以上のような経緯は、1978年に刊行された、毛利敏彦氏の『明治六年政変の研究』(有斐閣)の見解が正しかったことを示している。」 (169頁)、「このような毛利氏の見解は、「異端」どころか、きわめて「正統」の西郷理解でえあると、筆者は考える。」 (170頁)。とあり、毛利説を高くかっているようです。一方、家近良樹『西郷隆盛と幕末維新の政局 体調不良問題から見た薩長同盟・征韓論政変』に対しては、全否定しているわけではないですが、ピンポイントでチクリとやっています。「征韓論」のみに焦点を当てた記事に仕上げるのであれば記事名は「征韓論」のままで大丈夫だと思いますが、「征韓論」、「非征韓論」、その他も含んだ記事に仕上がれば「征韓論争」のほうがよいかもしれません。申し上げたいのは、記事名と内容に齟齬が無いようにしないといけない、ということです。-- Takabeg(会話) 2020年5月13日 (水) 12:36 (UTC)
征韓論の導入部分改善の提案
「西郷隆盛の死後、板垣退助らの自由民権運動の中で、板垣の推進する征韓論は西郷の主張として流布され、板垣ではなく西郷が征韓論の首魁として定着した。」という記述が現今なされていますが、この記述は2011年2月27日になされたもので、出典や根拠の確認出来ないものです。昨年要出典が貼られましたが長年出典の貼られなかった記述をいつまでも放置しておく必要性は無く、削除は妥当と考えますが如何でしょうか。
もう一点、改めて提案したいのですが、現今の導入部を改めるべきだと考えます。 「征韓論」とは記事中でも記されているように、幕末以来(たとえば吉田松陰や橋本左内など)からのもので、明治初期にあっては木戸孝允・佐田白茅・森山茂等も唱えているものであり、明治6年の西郷隆盛達だけの主張ではありません。 また、西郷隆盛自身の主張を「征韓論」ととらえるか「遣韓論」と捉えるかは歴史学者の中でも見解が分かれている(例えば近年では勝田政治氏・家近良樹氏などは前者で、磯田道史氏・原口泉氏は後者)ものであり、落合弘樹氏などは「鹿児島県外の研究者で遣韓論をとる人は少ない。」といった主張もされています。 こうした見解が分かれているものを「但し、史実として、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は、板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と呼ばれるもの」といった現在の導入部の断定的な記載は、「導入部は中立的な観点を伴った理解しやすい表現にて、明確に記述されることが推奨」されているWikipedia:スタイルマニュアル (導入部)の方針に反するものではないでしょうか。 「遣韓論」の記述が導入部に必要であるならば、「征韓論(せいかんろん)は、日本の幕末から明治初期において唱えられた武力をもって朝鮮を開国しようとする主張であり、留守政府の首脳であった西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされたものを指すことが多い。明治6年の西郷隆盛の主張を「征韓論」と捉えるか、「遣韓論」と捉えるかは研究者の間でも見解が分かれている。」といったような中立的な記載に改めるべきだと考えます。
以上、二点を提案します。--210.133.223.99 2020年2月12日 (水) 08:06 (UTC)
- ご提案ありがとうございました。二点目の征韓論、遣韓論の箇所につきましては、「「征韓論」と捉えるか、「遣韓論」と捉えるかは研究者の間でも見解が分かれている。」といったような中立的な記載に改めるべきだと考えます。」との考えに同意します。--Greatkids(会話) 2020年2月12日 (水) 08:35 (UTC)
- ご賛同いただきありがとうございます。2点目の提案については他の方の意見をしばらく待って決したいと考えています。1点目については触れられていませんが、もし現今の記述を残して置くべきだと考えておられる場合、有力な理由並びに根拠をご教示いただければと思います。削除の根拠としましては、出典のない記述について「検証可能性」の方針は「誰でも取り除くことができる」、「除去されても文句は言えない」、「出典を示す義務を負うのは、除去を求める側ではなく、書き加えようとする側」とwikipediaにおいては規定されています。9年間放置され1年前に要出典を貼られた典拠不明の記述を残す必要性を感じませんし、2011年2月27日以前の刊行物ないし論文等で出典が確認できた場合には、出典を明記した上で再度加筆していただけばよいと考えていますが、如何でしょうか。特に有力な反論がいただけない場合、1点目については近日中に削除したいと考えています。--210.133.223.99 2020年2月12日 (水) 09:20 (UTC)
- 1点目について私の意見は特にありません。よろしくお願い致します。--Greatkids(会話) 2020年2月12日 (水) 09:58 (UTC)
1点目については本日、検証可能性の方針に基づき削除いたしました。差し戻しないし記述を復活させる場合、2011年2月27日以前の刊行物ないし論文等で出典を確認できた場合のみお願いいたします。
2点目の改善につきましては、とくに反対意見の無い場合は次のように改善したいと考えています。
- 導入部の「但し、史実として、~遣韓中止が決まる直前では西郷の使節派遣でまとまっていた。」の部分は削除し、それに貼られている出典については記事中の「参議である板垣退助は~朝鮮に派遣することを上奏した。」の部分に移行。
- 導入部を「征韓論(せいかんろん)は、日本の幕末から明治初期において唱えられた武力をもって朝鮮を開国しようとする主張のこと。一般的には1873年(明治6年)に西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによって唱えられたものを指すことが多い。当時の西郷隆盛の主張を「征韓論」と捉えるか、「遣韓論」と捉えるかは研究者の間でも見解が分かれている。」と改善。
- 「見解が分かれている。」の部分に、「西郷どん、実は親韓論者だった?定説『征韓論』に一石 28年前の大河ドラマ放映時にも論争」を出典として挿入。歴史学者の原口泉氏と落合弘樹氏の見解が載っており、記事中で征韓論と遣韓論で見解が分かれていることが明確であるため出典として適切であると考える。--210.133.223.99 2020年2月13日 (木) 04:31 (UTC)
- ご提案ありがとうございます。導入部の「但し、史実として、~遣韓中止が決まる直前では西郷の使節派遣でまとまっていた。」の部分は削除については、部分的な変更に賛成しますが、全て削除には反対します。--Greatkids(会話) 2020年2月13日 (木) 07:19 (UTC)
- 「遣韓論」と呼ばれるものであり、の部分は断定的なので削除したほうが良いと思います。--Greatkids(会話) 2020年2月13日 (木) 07:30 (UTC)
- ご意見いただきありがとうございます。
- ご指摘の部分というのは記事中に同様の事が繰り返されていますし、導入部に必ずしも必要な記述だとは思えません。スタイルマニュアルでは、導入文について「過剰に細かな説明は避けるようにします。より詳しい説明は、記事本文で行います。」とあります。この記事はあくまで征韓論についての記事であり、征韓論というのは幕末以来からのものであり、西郷隆盛達だけの主張ではありません。所謂征韓論の内容は唱えた個々人によって差異があるものですし、そうした意味で西郷隆盛の主張だけを導入部にことさら記載する必要はないと考えます。導入部はあくまでコンパクトであるべきではないでしょうか。記事の中で使節派遣について触れられていないならば、導入部にそのことを記載すべきであると感じますが、現に記事の中では使節派遣の旨は記述されています。また西郷隆盛が使節となって派遣されるということに関してはこれまでの研究史上では何等否定されているわけではありませんし、あくまで使節派遣を主張した西郷の意図及び目的がどこにあったのかで見解が分かれているものと理解しています。ですが西郷の主張を巡っては研究者の間で見解が分かれているのは事実なのでそのことを導入部に残す、ということで充分であると感じるのですが如何でしょうか。
- 反対意見はありがたいのですが、一部を残すべき明確な理由とその根拠が分からないことには「なぜ」という部分が分かりませんし意見もまとまらないと思いますので、根拠並びにその理由について御聞かせいただければと思います。私の考えとしましては上記の通りです。--210.133.223.99 2020年2月13日 (木) 08:50 (UTC)訂正--210.133.223.99 2020年2月13日 (木) 08:53 (UTC)
- 根拠は冒頭の要約だけ見る人間も多いと思われるからです。そして要約に含めるべき大事な内容だと私が考えるからです。もちろんお互いの考えが相違するのは致し方ないというのは前提ですが。--Greatkids(会話) 2020年2月13日 (木) 09:27 (UTC)
- この際個人的な思い入れや主観を持ち込むべきではなく、あくまでWikipediaのスタイルマニュアルに沿って折り合いをつけるべき事柄であると考えます。私は少なくともスタイルマニュアルに沿って自分の考えを伝えているつもりです。もしこだわられるのであれば、現行の記述をある程度尊重した形で「西郷らは使節派遣をした上で交渉し、決裂した場合は出兵すべしと主張したが、内治優先を唱えた岩倉具視・大久保利通・木戸孝允らの使節派遣延期の主張が受け入れられたため、政府を去った。」という記述にすべきと考えます。板垣らも結果として西郷の主張に同意したのですから、概要の記述を要約して概要とは差別化したつもりです。自分としてはある程度譲歩したつもりですが如何でしょうか。出典としては当事者である大隈重信の『大隈伯昔日譚』を追加するつもりです。--210.133.223.99 2020年2月13日 (木) 10:35 (UTC)一部訂正--210.133.223.99 2020年2月13日 (木) 10:52 (UTC)
- 私は現在冒頭で書かれている要約を多少なり変更して残そうという見解でございまして、それだけの主張です。それと個人的な思い入れや主観を持ち込むつもりはございません。--Greatkids(会話) 2020年2月13日 (木) 10:58 (UTC)
- それとご指摘の過剰に細かな説明には当てはまらないと思います。私も提案させてください(但し、征韓論の中心的人物とされている西郷は、板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対して、自らが遣韓使節として朝鮮に赴いて開国を勧めると主張し、明治政府は西郷を使節派遣することを一旦は決定した。)--Greatkids(会話) 2020年2月13日 (木) 11:07 (UTC)
その要約は概要のものとほぼ全く同じものです。適切とは思えません。一旦決定したということならその後の経緯まで書かなきゃいかんでしょう。その要約ならば私の提案したもので問題ないと考えます。自説を一方的に主張されるだけでは話はまとまりません。少しは譲歩していただかないと困ります。それとも譲歩できない理由があるならあなた自身の考えではなく、明確な根拠をお聞かせ願います。--210.133.223.99 2020年2月13日 (木) 11:26 (UTC)
スタイルマニュアルでは、「その記事が取り扱う最も重要な点を簡潔に述べる必要」があると明記されています。概要と重複した内容は簡潔とは言い難いと思いますが。--210.133.223.99 2020年2月13日 (木) 11:32 (UTC)
- まず自説とご指摘ですがこれは自説ではございません。ただ本文中をただ要約しただけです。それと繰り返しになりますが、重要かどうかについては、私は重要と考えますので、認識の相違はしょうがないですね。--Greatkids(会話) 2020年2月13日 (木) 11:37 (UTC)
- 続けて投稿申し訳ございません。その後のことまで書かなければいけないともご指摘ですので、「後に岩倉や大久保らが反対し遣韓は中止された。」のような感じで良いのでしょうか?--Greatkids(会話) 2020年2月13日 (木) 11:46 (UTC)
これ以上は平行線となりますし考え方の違いですのでこの件については一旦保留とし、現行部分の「むしろ「遣韓論」と呼ばれるものであり」を削除して「自らが朝鮮に赴くというもので、」とすることで一旦は対応しようと思います。この導入部の記載の是非、及びこの議論内容については今後編集される方やノートを見た第三者の方の判断に委ねようと思います。私はあくまで要約するならば概要との差別化を図るべきで、現行の記載並びにGreatkids氏の要約は適切ではないと考えます。
- 導入部を「征韓論(せいかんろん)は、日本の幕末から明治初期において唱えられた武力をもって朝鮮を開国しようとする主張のこと。一般的には1873年(明治6年)に西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによって唱えられたものを指すことが多い。(現行部分)当時の西郷隆盛の主張を「征韓論」と捉えるか、「遣韓論」と捉えるかは研究者の間でも見解が分かれている。」と改善。
- 「見解が分かれている。」の部分に、「西郷どん、実は親韓論者だった?定説『征韓論』に一石 28年前の大河ドラマ放映時にも論争」を出典として挿入。歴史学者の原口泉氏と落合弘樹氏の見解が載っており、記事中で征韓論と遣韓論で見解が分かれていることが明確であるため出典として適切であると考える。
この2点については御同意いただけたと思いますので、もうしばらく待った後で改善に取り組みたいと考えています。--210.133.223.99 2020年2月13日 (木) 12:01 (UTC)
- 了解しました。お手数をおかけしてすいません。よろしくおねがい致します。--Greatkids(会話) 2020年2月13日 (木) 12:12 (UTC)
本日、ここでの提案並びに議論に基づいて導入部の記述を改善しました。なお、Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)では「導入部の長さは、一般に記事全体の長さに対応」するとされ、「その記事が取り扱う最も重要な点を簡潔に述べる必要」があり、「導入部での説明はより簡潔にするよう努めて下さい」と明記されていますが、現行の導入部の記述(但し、~西郷の使節派遣でまとまっていた)はこの方針に沿っているとは言い難く、なお改善の余地があると思います。導入部の記述は概要の記述との差別化を図り、現行よりもより簡潔にした内容(適切な要約)に改めるべきだと考えます。
しかしながら、中立的な記載に改めるという当初の目的は達成されましたので、私の提案は取り下げさせていただきました。課題点については今後第三者の方を交えた上で改めて提案するか、あるいは第三者の方から改めて改善の提案される機会を待ちたいと思います。この報告を以て本件については終了させていただきたいと思います。--210.133.223.99 2020年2月15日 (土) 04:29 (UTC)
- (210.133.223.99さんとは別人です。)出典の内容からみて、やや問題があると思われましたので修正しました。研究家の間で「遣韓論」の支持者は多くなく、鹿児島県内の教科書ですら採用されていないと出典にはあります。「w:中立的な観点」には「釣り合いの取れた重み付け」という基準もありますので、ご参照ください。
- また「遣韓中止が決まる直前では西郷の使節派遣でまとまっていた」云々の文章は「征韓論」の説明ではなく「明治六年政変」の説明です。また「史実」とも異なります。「西郷派遣決定」は政府内のパワーバランスによる一時的な政治的決着であり、「まとまっていた」わけでありません。最後の派遣決定は三条個人の裁定で、岩倉らは反対して辞意を述べています。また、西郷の意図が遣韓論か征韓論かどうかに「遣韓決定は」関係ありません。西郷が征韓論者であるとされるのは、使者となった西郷が殺害され、それを口実に戦争にするというシナリオによるものです。これは西郷自身による板垣宛書簡にも記述されており、「征韓論者」説にとっては、「西郷遣韓」は「征韓」のためのステップにすぎないと考えられているからです。また、私が転記した部分によれば、毛利氏の研究は、現在研究者の支持は決して多くないという研究者の指摘もあります。このため冒頭部分から一旦削除しました。この削除は「明治六年政変」ではなく「征韓論」を要約するのにふさわしい記述であると考えられる方が、現在の研究の状況を考慮して記述することを妨げるものではありません。--126.24.176.166 2020年4月9日 (木) 13:29 (UTC)
- 本件の提案者です。126.24.176.166さんの見解は妥当なものと考えますので、削除並びに記述改善については特に異論はありません。--210.128.31.253 2020年4月14日 (火) 14:59 (UTC)
Greatkidsさんへ。研究者の間で西郷の「遣韓論」支持が少ないというのは一人の学者の意見ではありません。西日本新聞の記事だけでも「高校の日本史教科書を出版する7社のうち6社は西郷は征韓論を唱えたと言う見解を削除しなかった(削除した1社も積極的支持ではない)」「落合弘樹という日本近世史の専門家が日本近世史研究者を観察した結果、『支持者は少ないと観測した』」ということです。同様の観測を「家近良樹という日本近世史の専門家」も行っています。少なくとも日本近世史研究学会を、信頼できる情報源に該当する媒体・人物が観測した結果、「遣韓論は支持者が多い」という出典がなければ同等に扱うべきではないと思われます。--126.48.61.191 2020年5月8日 (金) 14:14 (UTC)
- (追記)1993年の高橋秀直「征韓論政変の政治過程」、2000年の吉野誠「明治6年の征韓論争」では「一つの焦点となっている」という記述がありますが、2011年の家近良樹著書では高橋秀直らの研究により、「毛利説の支持者は少ない」と記述される状況となっています。研究情勢を分析するための出典は、現状により近いものが優先されるべきです。--126.48.61.191 2020年5月8日 (金) 14:37 (UTC)
ではそれを出典にすれば良いのでは?現在のものはただの意見ですよね? ただしご存知だと思いますが中立的な観点の方針についても考慮してください。それとここで合意していた内容を勝手に変えないでください。勝手に変えて良いのであれば議論の意味がありません。--Greatkids(会話) 2020年5月12日 (火) 04:47 (UTC)
- (追記)すいませんが、IPアドレスがいくつもあってどれがどの方なのかわかりません。できれば改善していただくと幸いです。--Greatkids(会話) 2020年5月12日 (火) 06:21 (UTC)
- (追記)Wikipedia:多重アカウントより引用 「ミスリードするためにログアウトする:複数のIPアドレスで編集することも、他者を偽ったり上記原則に抵触しないために使われる場合、多重アカウント編集と同様に扱われることがあります。間違ってログアウトして編集してしまった場合、管理者やオーバーサイト係に連絡して誤解がないように確認してほしいと希望してもかまいません。」--Greatkids(会話) 2020年5月12日 (火) 06:40 (UTC)
- Greatkidsさんはとりあえず何でもかんでも差し戻しをするのをやめていただけませんか。もし不服だというならば部分的な編集で済む話ですよね。あなたの編集によって有益な編集が削除されるのは正直如何なものかと思いますし、その意味でも会話ページでご忠告したのですが。
- それはともかくとして、Greatkidsさんは「但し、史実として、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は、板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くというものであり、事実、遣韓中止が決まる直前では西郷の使節派遣でまとまっていた」という部分を残すことにやたらと以前からこだわっておられますが、126.48.61.191さんは「遣韓中止が決まる直前では西郷の使節派遣でまとまっていた」云々の文章は「征韓論」の説明ではなく「明治六年政変」の説明です。また「史実」とも異なります。「西郷派遣決定」は政府内のパワーバランスによる一時的な政治的決着であり、「まとまっていた」わけでありません。最後の派遣決定は三条個人の裁定で、岩倉らは反対して辞意を述べています。また、西郷の意図が遣韓論か征韓論かどうかに「遣韓決定は」関係ありません。と、有力な反論をされておられます。この見解は私は妥当なものだと感じました。Greatkidsさんはまず126.48.61.191さんの見解のどこが不適切で、また何故残すべきかを具体的な根拠と合理的な理由を挙げて反論されるべきではないですか。
- それに中立的な観点とおっしゃいますが、そこにある「釣り合いの取れた重みづけ」という項には、「論争を説明する際には、少数の人々が支持する観点が、あたかも非常に広く受け入れられている観点と同じだけ注目に値するかのような書き方をするべきでは」ないとあります。この点に徴しても、以前に私が修正した内容は適切ではなかったですし、126.48.61.191さんの見解は妥当なものだと思います。
- はっきり申し上げまして、学会では征韓論か遣韓論かというようなものは正直問題になっていません。故毛利敏彦氏の見解が所謂遣韓論の内容だと思いますが、これも家近良樹氏や田村貞雄氏、高橋秀直氏等から反論を受けて否定されたものです。現在では一部の学者や研究者が学術論文ではない、一般向けの新書や機関紙等の類で「遣韓論」と言っているだけに過ぎません。そのために家近良樹氏や落合弘樹氏のような見解が出て来るわけです。家近氏や落合氏は学会に所属する近代史を研究している学者であり、これを「ただの意見」と捉えるのは何の根拠もないGreatkidsさんの個人的な見解に過ぎません。
- もし、「研究者の間でも見解が分かれている」という現行の記述を残すのであれば、それこそ「征韓論」と「遣韓論」で研究者間で見解が割れているという有力な出典を貼ってからでも十分だと思います。それがなされない限りは、126.48.61.191さんがなさった編集で問題ないと思います。
- それと、以前のノートでの議論の合意は以後の編集をする上で確かに重要ですが、より有力な反論がなされた場合はその限りではないでしょう。
- あとアカウントを作製するかどうかは利用するユーザーの自由であって、Greatkidsさんの個人的な事情からとやかく言われるような筋合いはないですよ。--210.128.31.253 2020年5月12日 (火) 08:52 (UTC)--210.128.31.253 2020年5月12日 (火) 08:53 (UTC)(再再度修正)--210.128.31.253 2020年5月12日 (火) 09:08 (UTC)
- なんでもかんでも取り消しをしたのではなくあなたと議論して合意したところまで取り消しをしたまでです。ですのでここでの議論と合意の上で編集していただきたいと思います。なのでそれが守られない場合は何度でも取り消しいたしますのでご了承ください。--Greatkids(会話) 2020年5月12日 (火) 09:40 (UTC)
- それは差し戻していい理由にはならないと会話ページで申上げたはずですが?Wikipediaはあなたの私物じゃありません。思い上がらないでください。
- とりあえず先に申上げたようにGreatkids氏の有力な説明を待ち、その上で126.48.61.191さんの意見を聞きたいと思います。--210.128.31.253 2020年5月12日 (火) 09:53 (UTC)訂正--210.128.31.253 2020年5月12日 (火) 09:54 (UTC)
- 削除を行った者です。w:信頼できる情報源の冒頭をご確認ください。「私たちが記事に書くべきなのは信頼できる著者による意見のみであり、一次情報源を独自に調査したウィキペディアン自身の意見は書くべきでないということです」つまり、「信頼できる著者による意見」は「ただの意見」ではなく、記事に書くべき意見です。媒体の西日本新聞、発言者の落合弘樹両方とも条件を満たしています。w:中立的な観点はご覧になっているようですが、「対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す」の節をよくご確認ください。
- またお聞きしますが、Greatkidsさんが差し戻された冒頭部分は、どの「信頼できる著者による意見」ですか。「遣韓中止が決まる直前」とはいつの決定をさしますか。私がこの版[1]で追加した出典にはそのような記述は一切ありません。遣韓中止が決まる直前の決定は明治6年10月15日のもので、三条個人の裁定で行われたものです。岩倉・大久保は閣議に出席し、明確に反対しています。その後には決定を不服として木戸も含めて辞職を求めています。このような状態を「まとまっている」と表現した出典はどちらでしょうか。基本的にwikipediaでは出典がない記述はいつ差し戻されても仕方ないものです。特に『論争』があるならばなおさらです。--126.48.61.191 2020年5月12日 (火) 12:16 (UTC)
- 【「征韓論」ではなく、「遣韓論」であるという主張が鹿児島県内の歴史家を中心に唱えられているが、研究者の支持は多くない】の部分の検証可能性が満たされていません。どこでそれが可能であると言えるのですか?--Greatkids(会話) 2020年5月12日 (火) 13:31 (UTC)
削除者です。検証可能性の意味を誤解しておられませんか?Wikipedia:検証可能性とは、端的に言えば第三者がその出典を確認できるかどうかということです。この場合はweb記事ですし、新聞記事ともなっていますので、検証可能性については完全に満たしています。落合弘樹、西日本新聞が嘘をついているかどうかについては、執筆者が最もやってはいけない「独自研究」にあたります。Greatkidsさんも検証可能性を満たした出典をお出しください。--126.48.61.191 2020年5月12日 (火) 13:40 (UTC)
- この出典で検証が可能なのは【落合弘樹教授が「鹿児島県外の研究者で遣韓論をとる人は少ない。西郷がどこを目指そうとしていたのかなど考えが分かりにくいために議論がまとまらない」という意見を述べている】であって、【「征韓論」ではなく、「遣韓論」であるという主張が鹿児島県内の歴史家を中心に唱えられているが、研究者の支持は多くない】は検証が出来ません。つまり検証可能性を満たしていません。--Greatkids(会話) 2020年5月12日 (火) 13:56 (UTC)
削除者です。Greatkidsさんが何をおっしゃりたいのか今ひとつわかりません。落合弘樹教授のコメントの文章「鹿児島県外の研究者で遣韓論をとる人は少ない」は、「鹿児島県以外の研究者では遣韓論支持者が少ない」「鹿児島県内ではそうではない」ということを指しています。これは、日本近代史研究の専門家による分析であり、きわめて重いものです。鹿児島県内の研究者が日本全体の研究者の五割以上を占めていれば「日本全体でも多い」と表現できますが。また出典となった西日本新聞の記事では、「定説『征韓論』」と征韓論説が定説であるとしており、学会では征韓論説が優位であることを示唆しています。また「鹿児島県の歴史家二名による遣韓論の主張」「市内の施設で『征韓論』の文字はほとんど見られない」「鹿児島市教育委員会による遣韓論書き換え」「県歴史資料センター黎明館による遣韓論表記」「2006年と2011年に鹿児島県が教科書会社に『遣韓論』の併記や『学説上、遣韓論に立つ見方も有力』と書くよう要請し、教科書会社は従わなかった」ことなど、鹿児島県内における「遣韓論運動」を書いています。これらの内容の提示により、「鹿児島県では西郷は征韓論ではなく遣韓論を唱えたという主張が盛んに行われている」ことは十分に記述されています。
なお、確たる出典もなく、落合弘樹や西日本新聞の分析が正しいかどうかWikipediaのユーザーが検討することは「独自研究」に当たります。ところでGreatkidsさんの主張には出典はないということでよろしいですか。--126.48.61.191 2020年5月12日 (火) 14:46 (UTC)
- Greatkidsさんは検証可能性の意味を理解しかねておられるようなので、今一度検証可能性を熟読されては如何でしょうか。そして御自身の主張について、Wikipediaの方針やガイドラインに基づいた合理的な説明を求めます。「原因となっている懸念や関心事を説明せずに、単に宣言し続けるのはやめ」てください。--210.128.31.253 2020年5月13日 (水) 10:33 (UTC)
- 私は「落合弘樹や西日本新聞の分析が正しいかどうかその真偽を検討する」つもりは一切ございません。126.48.61.191様のご指摘通り「独自研究」になってしまいますので。Wikipedia:検証可能性にも「個々の編集者が真実であると思うかどうかには関係ありません。直観に反するようですが、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。」とあります。その前提で繰り返しになりますが、この出典で検証が可能なのは【落合弘樹教授が「鹿児島県外の研究者で遣韓論をとる人は少ない。西郷がどこを目指そうとしていたのかなど考えが分かりにくいために議論がまとまらない」という意見を述べている】ことであって、その発言の中身【「遣韓論」であるという主張が鹿児島県内の歴史家を中心に唱えられているが、研究者の支持は多くない】についてはこの出典では検証が出来ません。落合弘樹氏の発言が間違ってるという意味でも、もちろん正しいと言ってるわけではございません。その判断をすると独自研究になってしまいますから。--Greatkids(会話) 2020年5月13日 (水) 10:55 (UTC)
- 冒頭部分について、どの「信頼できる著者による意見」か、「遣韓中止が決まる直前」とはいつの決定か、「まとまっている」と表現した出典はあるのか否か、そしてこの部分を征韓論の記事であるにも関わらず導入部に残す必要がどうしてあるのかについても説明を求めます。--210.128.31.253 2020年5月13日 (水) 11:04 (UTC)訂正--210.128.31.253 2020年5月13日 (水) 11:13 (UTC)訂正--210.128.31.253 2020年5月13日 (水) 11:22 (UTC)
- 210.128.31.253様へ それについて異議ありませんので、お望みであればその部分を追記された方にご連絡をよろしくお願いいたします。--Greatkids(会話) 2020年5月13日 (水) 11:15 (UTC)
削除者です。Greatkidsさん、「Wikipedia:検証可能性」をよくお読み直しください。「出典を示す責任は掲載を希望する側に」とあります。私は記載を望んでいません。望んでいるのはGreatkidsさんです。--126.48.61.191 2020年5月13日 (水) 11:55 (UTC)
- 削除者さまへ、それはどの記述についてでしょうか?誤解があるようですので、確認させていただきたいのですが?--Greatkids(会話) 2020年5月13日 (水) 12:18 (UTC)
導入部についてですが、「西郷の考えは非常にわかりづらく、「征韓論」ではなく、「遣韓論」であるという主張が鹿児島県内の歴史家を中心に唱えられているが、研究者の支持は多くない。」というのにしても、「但し、史実として、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は、板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くというものであり、事実、遣韓中止が決まる直前では西郷の使節派遣でまとまっていた」というのにしても、{{誰}}の見解なのかを明確にする必要があります。また、「但し書き」なら、脚注に入れておけばいいですし、毛利(1979)の何ページにそうした記述があるのか書く必要があります。なお、板垣の『自由党史』に関して、マイペディアには「ただし板垣ら党主流派(土佐派)の視点が強いという難点も指摘される。」と書かれていますので、Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)のリード文で、それをソースとして一方的に断定する形で書いてしまうと、Wikipedia:中立的な観点に抵触します。導入部は、「最大公約数」的な内容をソースを提示して書いたあと、論争の存在について言及するのがよいかと考えます。-- Takabeg(会話) 2020年5月13日 (水) 12:27 (UTC)
- ご指摘に同意します。--Greatkids(会話) 2020年5月13日 (水) 12:39 (UTC)
- 「但し、~まとまっていた」という部分に関してですが、「遣韓中止が決まる直前では西郷の使節派遣でまとまっていた」というのは、10月15日の閣議で参議・大久保利通が閣議の場で公然と反対意見を唱え、右大臣・岩倉具視と太政大臣・三条実美が協議した上で反対派である岩倉を押し切って三条が決定に及んだものを、「まとまっていた」と表現すること自体適切ではないと考えます。
- そもそも西郷隆盛の主張は武力行使の前提として使節派遣を行なうものであり、「西郷が兵を率いてすぐ朝鮮に渡るというような説はもはや研究史では問題ではなくなっている」(田村貞雄「「征韓論」政変研究史の若干の問題点」、P82)という学者からの指摘もあります。そしてこの部分の内容は概要に同趣旨の事が含まれているのであり、導入部で脚注にして残すほどのものではないと考えます。私はこの部分については、導入部からの削除が妥当だと考えます。--210.128.31.253 2020年5月13日 (水) 13:20 (UTC)
- 現行のものが良いかどうかは別として、ほとんどすべての関連書籍・論文で言及される毛利敏彦の説は、冒頭部において、言及されるべきだと考えています。いずれにしても、ページ番号を補完していただけないと検証ができません。ページ番号の提示がなければ、こちらで適切な記述を用意します。また、田村貞雄の見解も「田村貞雄によれば」という形で加筆されると有益であると思います。-- Takabeg(会話) 2020年5月13日 (水) 13:29 (UTC)
- いえ、毛利説に言及する必要はないという意味で言ったわけではありません。以前の記述は適切ではないという意味で言いました。Takabegさんのなさった編集にはとくに異論はありません。--210.128.31.253 2020年5月13日 (水) 13:33 (UTC)
削除者です。毛利氏の研究は40年以上前のことで、いくら言及がされているからと言って、現状の学会の情勢を踏まえないで同等に記述するのはどうかと思います。言及はされていますが私が見た出典ではいずれも否定されています。研究史上で意義があることと、現在どう捉えられているかを区別しないのは「対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す」、「論争を中立的に描写する」ことを目的とした、中立的な観点を満たせないのではないかと危惧します。冒頭文は簡潔にし、毛利説を含めた各研究者の意見は、研究史の節を設け、説が唱えられた時系列を明確にして書くほうが丁寧だと考えます。
Greatkidsさんへ。210.128.31.253さんが「「まとまっている」と表現した出典はあるのか否か、そしてこの部分を征韓論の記事であるにも関わらず導入部に残す必要がどうしてあるのかについても説明を求めます。」とした 2020年5月13日 (水) 11:13 のコメントに対する返答「それについて異議ありませんので、お望みであればその部分を追記された方にご連絡をよろしくお願いいたします。」を指しています。後のコメントも読みましたが、出典なしに直感のみで議論に参加されていたことは理解いたしました。返答はご無用です。--126.48.61.191 2020年5月13日 (水) 13:57 (UTC)
- 国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典が参考になるかもしれません。ちょっと古いことと、巻数や頁番号が無いのが難点かもしれませんが。。。 -- Takabeg(会話) 2020年5月13日 (水) 14:11 (UTC)
- 「毛利説を含めた各研究者の意見は、研究史の節を設け、説が唱えられた時系列を明確にして書くほうが丁寧」という126.48.61.191さんの意見には私も賛成です。導入部はもう少し簡潔であるべきだと考えます。--210.128.31.253 2020年5月13日 (水) 14:16 (UTC)
- 削除者様へ、あなたは歴史的な議論に言及していますがそれは独自研究です。検証可能性の意味を理解しかねておられるようなので、今一度検証可能性を熟読されては如何でしょうか??Wikipedia:検証可能性とは、端的に言えば第三者がその出典を確認できるかどうかということです。他にも「個々の編集者が真実であると思うかどうかには関係ありません。直観に反するようですが、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。」とあります。--Greatkids(会話) 2020年5月13日 (水) 14:20 (UTC)
削除者です。Greatkidsさん、この下の節での 2020年5月13日 (水) 14:14 (UTC)のTakabegさんの発言と、2020年5月13日 (水) 14:16 (UTC)の126.48.61.191さんの発言をご確認ください。Takabegさんも126.48.61.191さんも「歴史的な議論」の流れを追う研究史の節を設けることに同意されています。もう一度確認しますが、「研究史」の節を設けること自体が独自研究だという意見で本当によろしいですか。--126.48.61.191 2020年5月13日 (水) 14:27 (UTC)
- 削除者様へ、いいえ、研究史の節を設けるのは賛成ですし独自研究でもありません。--Greatkids(会話) 2020年5月13日 (水) 14:41 (UTC)
- 特別:差分/75962883 (2020年1月28日) で、利用者:Greatkidsさんは要約欄に「出典のある記事の削除荒らしのため」と書かれていますが、第三者から見ると、一見すると、利用者:Greatkidsさん自身が「出典のある記事の削除」を行っているように見受けられます。しかしながら、西郷隆盛#明治六年政変にも同内容があるようなので調べたところ、特別:差分/73725905で126.4.236.177さんが、Wikipedia:ページの分割と統合の手続きを経ずに (ノートにも議論の痕跡も無い) 移植したようです。当該箇所については、本記事でより詳しく記述したほうがよいのではないかと思います。
- 特別:差分/77406014 (2020年5月6日) で、利用者:Greatkidsさんは「研究史」を削除していますが、 明治六年政変#研究史と同内容であるので調べてみたところ、特別:差分/73810381で126.4.236.177さんが、Wikipedia:ページの分割と統合の手続きを経ずに (ノートにも議論の痕跡も無い) 移植したようです。「政変」に関する部分は明治六年政変#研究史に、「征韓論争」や「征韓・遣韓」に関する研究史は本記事に書けばよいと思います。-- Takabeg(会話) 2020年5月13日 (水) 12:24 (UTC)
- 転記と要約欄に書き、研究史をコピーした利用者です。以前の征韓論のページでは毛利氏の唱えた西郷遣韓論説を重要視する記述が行われていたため、毛利氏説が現在の研究史で置かれている状況を示すため「コピー」を行いました。政府内での「征韓論」の動きや、征韓論が与えた影響を評価するためには明治六年政変の研究は不可欠であり、西郷の意図を分析するためにも必要であると考えたからです。私がコピーを行った状態では不完全ですが、「征韓論」全体の研究史を描くにあたっては、明治六年政変自体の分析の記述は土台となり有用となると考えています。ところでWikipedia:ページの分割と統合#項目一部転記には、「ページ甲の一部を、ページ乙に転記即ちカット・アンド・ペーストする場合は」とありますが、ページから「カット」を伴わないコピーのみを行う場合にも「分割と統合」の手続きを取る必要があるのでしょうか。--126.48.61.191 2020年5月13日 (水) 12:48 (UTC)
- Takabegさまへ、ご指摘された部分を確認させていただきましたところ、「出典のある記事の削除荒らしのため」の文言は単に私の言葉遣いが間違っており誤解させてしまいました。申し訳ございません。そして「Greatkidsさんは「研究史」を削除しています」について私に覚えがなく再度確認したところ、他の部分の編集をした際に、誤ってその箇所も削除していたもの思われます。申し訳ございません。その他のご指摘の内容につきましては同意いたします。--Greatkids(会話) 2020年5月13日 (水) 12:56 (UTC)
『西日本新聞』の記事
Wikipedia:信頼できる情報源#歴史、Wikipedia:検証可能性#信頼できる情報源を読んでみてください。『西日本新聞』の記事は、「査読を経た情報源」とは言えませんので、信頼性では劣ります。どうしても使用しなければ気がすまないというのでしたら、"『西日本新聞』によれば、原口泉は「西郷はロシアの脅威に連携して対抗しようと考えた遣韓論だった」と主張し、落合弘樹は「鹿児島県外の研究者で遣韓論をとる人は少ない。西郷がどこを目指そうとしていたのかなど考えが分かりにくいために議論がまとまらない」と指摘している、という。"として脚注に入れておく程度がよいのではないかと思います。なお、原口の発言のうち"「親韓論」を。。。"という部分は自費出版の漫画にからめた発言なので、いずれにしても不要と考えます。-- Takabeg(会話) 2020年5月13日 (水) 12:28 (UTC)
- 参加していただきありがとうございます。ご指摘の通り私もこの新聞記事で書かれている内容は追加する必要はないと思います。--Greatkids(会話) 2020年5月13日 (水) 12:34 (UTC)
冒頭文の編集を行ったものです。Takebegさん、新聞は査読を経た論文・雑誌より信頼性では劣りますが、この記事におけるコメントは明らかに「自身の専門分野内について記述している」研究者の記事です。「自身の専門分野内について記述している著名な専門研究者」は通常は許可されえない「自己公表された情報源」ですら許される場合があるのです。ましてや通常の新聞は「信頼できる情報源」の要件を満たしています。対立する観点(研究者が多い)が同程度、もしくは上位の信頼性を持った情報源にあるならば、そちらがある程度優先されることも あるでしょう。しかし対立する観点の出典が一切示されない状況では記述するのに十分です。更に遣韓論を唱えた毛利氏の支持者が少ないことは、Takebegさんの記述でも言及されていることです。毛利氏の出典書籍は40年以上前のもので近年の研究情勢を反映できるはずもありません。はっきりとした言及を複数の研究者が行っている以上、現状の研究者の間で遣韓論の支持者が少ないことは明白です。
Takebegさんは複数の観点を主張者ごとに記述されましたが、この記述では「対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す」ことが満たされていません。もし、遣韓論が一定の支持者を持つならば、学会での評価は本文に記述したほうがよろしいと思います。私は現状でも記述に十分だと思いますが、より確かな出典の加筆も求められます(要高次出典テンプレートの貼り付けなど)。「脚注」は補足のために用いるもので、重要でない文章を押し込めるための場所ではありません。また、この場合は「信頼できる情報源」が発言者を明示したコメントですので、「西日本新聞」の但し書きは不要です。西日本新聞は取材もしていない「落合弘樹のコメントを捏造する」ほど信頼がない「デイリー・メール」レベルだと合意されたわけでもありません。--126.48.61.191 2020年5月13日 (水) 13:42 (UTC)
- 何度も言いますが、その出典で検証が可能なのは【落合弘樹教授が「鹿児島県外の研究者で遣韓論をとる人は少ない。西郷がどこを目指そうとしていたのかなど考えが分かりにくいために議論がまとまらない」という意見を述べている】ことであって、その発言の中身【「遣韓論」であるという主張が鹿児島県内の歴史家を中心に唱えられているが、研究者の支持は多くない】についてはこの出典では検証が出来ません。--Greatkids(会話) 2020年5月13日 (水) 13:52 (UTC)
- (追記)仮にですがこの記事の信頼性があり落合氏の発言が掲載に値するとすれば、同記事にある原口氏の発言もそうであるはずです。--Greatkids(会話) 2020年5月13日 (水) 13:59 (UTC)
- 私はTakabegさんのなさった編集で基本的に異論はありませんが、正直導入部が長すぎると思いますし、西郷個人の真意について導入部でそこまで触れる必要はないかと思います。「研究史」という節を設けて、そこに「西郷~なりつつある。」という部分を移動させるのはどうでしょうか。--210.128.31.253 2020年5月13日 (水) 14:11 (UTC)
- 確かに長いですよね。「研究史」節をもうけるのに賛成します。明治六年政変#研究史のうち、本記事に関係するものを戻して、併せて充実させていくというのも良いかもしれません。-- Takabeg(会話) 2020年5月13日 (水) 14:14 (UTC)
- 私はTakabegさんのなさった編集で基本的に異論はありませんが、正直導入部が長すぎると思いますし、西郷個人の真意について導入部でそこまで触れる必要はないかと思います。「研究史」という節を設けて、そこに「西郷~なりつつある。」という部分を移動させるのはどうでしょうか。--210.128.31.253 2020年5月13日 (水) 14:11 (UTC)
先程「研究史」節を追加し、導入部の学者の見解等についてはこちらに移動させていただきました。何か問題点があれば教えてください。--210.128.31.253 2020年5月13日 (水) 14:28 (UTC)
- ありがとうございます。私は問題ないと思います。--Greatkids(会話) 2020年5月13日 (水) 14:34 (UTC)
「板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くというものであり、事実、遣韓中止が決まる直前では西郷の使節派遣でまとまっていた」という私や126.24.176.166さんが問題視している記述が依然残っているわけですが、本当に毛利氏が「まとまっていた」というような主張を著書でなされているのか甚だ疑問です。毛利氏の主張についてはTakabegさんが書き加えられた部分で十分に窺えるわけで、この部分は正直削除しても問題ないように思います。まあ削除するにも一応出典があることはあるので、出典である毛利氏の著書を確認してどのような記述がなされているのかを確認してから、削除するか残すかを判断したいと考えますが皆様如何でしょうか。--210.128.31.253 2020年5月13日 (水) 15:00 (UTC)
- おっしゃるようにそういった記述があるのかは出典として最も大事な点であるので確認して頂ければ結構です。しかしながらそういった主張をしているのは毛利氏だけではございませんので、仮に毛利氏以外の検証可能性のある出典があれば、類似するような記述が追加される可能性は当然あります。その説の真偽の議論自体を編集者が行ってはならず、それは独自研究になりますから。--Greatkids(会話) 2020年5月13日 (水) 15:24 (UTC)
特別:差分/77528616の編集ですが、「西郷が近い将来における征韓を視野に入れて朝鮮使節を志願したとする意見と朝鮮の開国および同国との修好関係の実現を平和的交渉によって自ら成し遂げようとしたのだとする意見とが対立してきた」という箇所の頭に「これ以降、」と書いて毛利敏彦のあとにもってきています。しかしながら、家近良樹の著作によると、この部分は毛利敏彦が「この論争に重要な一石を投じることになった」以前のことになっています。ソースを確認せずに、利用者の独断で作文するのはよろしくないことですし、独自研究となります。-- Takabeg(会話) 2020年5月13日 (水) 15:45 (UTC)