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「明治六年政変」の版間の差分

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=== 留守政府の成立 ===
=== 留守政府の成立 ===
{{see also|岩倉使節団|留守政府}}
{{see also|岩倉使節団|留守政府}}
明治維新後、政府は度々改造が行われていたが、廃藩置県後の明治4年8月には、[[太政官]]の構成を[[正院]]・[[左院]]・[[右院]]とする三院制度が開始された{{sfn|笠原英彦|2007|p=105-106}}。正院は太政大臣である[[三条実美]]が天皇を輔弼し、参議がそれに参与するというものであった。このとき参議となったのは[[西郷隆盛]]・[[木戸孝允]]・[[板垣退助]]・[[大隈重信]]であり、[[大久保利通]]は[[大蔵省]]のトップとなっていたが、大蔵省内部の官僚や木戸ら有力者との軋轢を抱えていた{{sfn|笠原英彦|2007|p=105-106}}。9月12日、[[井上馨]]が大久保の洋行を提案し、大久保のみならず[[岩倉具視]]・木戸といった実力者を加えた大使節団の派遣へと展開していった。木戸らは洋行中に「大規模な内政改革は行わないこと」などを取り決めた12ヶ条の約定をとりかわし{{sfn|笠原英彦|2007|p=110}}、[[11月12日 (旧暦)|11月12日]]に出国した。
明治維新後、政府は度々改造が行われていたが、廃藩置県後の明治4年8月には、[[太政官]]の構成を[[正院]]・[[左院]]・[[右院]]とする三院制度が開始された{{sfn|笠原英彦|2007|p=105-106}}。正院は太政大臣である[[三条実美]]が天皇を輔弼し、参議がそれに参与するというものであった。このとき参議となったのは[[西郷隆盛]]・[[木戸孝允]]・[[板垣退助]]・[[大隈重信]]であり、[[大久保利通]]は[[大蔵省]]のトップとなっていたが、大蔵省内部の官僚や木戸ら有力者との軋轢を抱えていた{{sfn|笠原英彦|2007|p=105-106}}。9月12日、木戸派の[[井上馨]]が大久保の洋行を提案し、大久保のみならず大納言[[岩倉具視]]・木戸といった実力者を加えた大使節団の派遣へと展開していった。[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]、木戸らと留守政府の代表は洋行中に「大規模な内政改革は行わないこと」などを取り決めた12ヶ条の約定をとりかわし{{sfn|笠原英彦|2007|p=110}}{{sfn|高橋秀直|1993|p=678}}。[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]の会議では板垣が朝鮮に使節を送って開国を促し、応じなければ戦争に訴えるべきと主張したが、朝鮮問題には手を付けないことなどが合意された{{sfn|高橋秀直|1993|p=679}}。岩倉を代表とし、木戸・大久保・[[伊藤博文]]らも加わった使節団は[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]に出国した{{sfn|高橋秀直|1993|p=679}}


== 経緯 ==
=== 留守政府の政策 ===
大きな改革を行わないという合意は行われたものの、留守政府の各省庁はそれぞれ大規模な改革を主張し、政策を進展させていった{{sfn|高橋秀直|1993|p=679}}。[[学制]]、[[秩禄処分]]などの大改革は留守政府の期間に決定されたものである。また11月には[[宮古島島民遭難事件]]が発生し、台湾征討を主張する声が高まった。折から[[士族]]の新政府に対する不満が高まっており、士族で構成された軍、そして西郷隆盛を中心とする[[薩摩藩]]派も征討を主張していた{{sfn|高橋秀直|1993|p=680}}。木戸派の井上馨らを中心とする大蔵省が内治優先を主張し強く反対したことで出兵は行われず、[[副島種臣]]を清に派遣して交渉を行わせることとなった{{sfn|高橋秀直|1993|p=680}}。

== 留守政府の権力構造 ==
明治6年([[1873年]])になると、大蔵省とその他官庁の軋轢は、予算を巡ってますます強くなった。あまりの混乱に1月19日には木戸・大久保に対して早期帰国の命令額だった{{sfn|高橋秀直|1993|p=684}}。4月、井上は正院を改革して大蔵省の権力を強めようともくろんだが、4月19日に新たな参議となったのは[[司法省|司法卿]][[江藤新平]]・[[文部省|文部卿]][[大木喬任]]・左院議長[[後藤象二郎]]という反大蔵省の人物ばかりであり、井上は参議となれなかっただけでなく、各省の権限が正院に移されたことで、大蔵省の権力はかえって弱まった{{sfn|高橋秀直|1993|p=681}}。これをうけて井上と井上の腹心渋沢栄一は大蔵省を辞任し、また従来木戸派であった大隈重信が留守政府に接近し、また陸軍で木戸派を代表していた[[山縣有朋]]が一時失脚したことで、木戸派が中央政界に与える影響力は著しく減退した{{sfn|高橋秀直|1993|p=681}}。

しかし留守政府派といっても反大蔵省以外の結束理由があったわけではなく、また西郷隆盛も病気がちで青山の別荘に籠もりきりで、各参議はそれぞれ勝手な行動を行う上京であった{{sfn|高橋秀直|1993|p=682}}。大久保は5月29日に帰国したが、留守政府に不満を持っていたため意図的に復帰せず、岩倉の帰国まで様子見をするため国内の視察旅行に出かけている{{sfn|高橋秀直|1993|p=684}}。


===西郷の朝鮮使節派遣案===
===西郷の朝鮮使節派遣案===
5月31日、[[釜山]]に設置されていた[[大日本公館]]代表[[広津弘信]]より、朝鮮政府が日本人の密貿易を取り締まる布告の中で、日本に対する無礼な字があったと報告した。
明治6年([[1873年]])6月、閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。参議板垣退助は居留民保護を理由に派兵を主張した。西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した{{sfn|内藤一成|2019|p=155}}。西郷の意見には[[後藤象二郎]]、[[江藤新平]]らが賛成した。太政大臣三条実美は丸腰では危険であり、兵を同行するべきとしたが、西郷は拒絶した{{sfn|内藤一成|2019|p=155}}。ただし当時参議の一人[[副島種臣]]が[[]]に出張中であったため、決定は副島の帰国を待ってから行うこととなった{{sfn|内藤一成|2019|p=155}}。中国から帰国した[[副島種臣]]は西郷の主張に賛成はしたが西郷ではなく自らが赴く事を主張した。
参議板垣退助は居留民保護を理由に派兵し、その上で使節を派遣することを主張した{{sfn|高橋秀直|1993|p=683}}。西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した{{sfn|内藤一成|2019|p=155}}。西郷の意見には[[後藤象二郎]]、[[江藤新平]]らが賛成した。太政大臣三条実美は丸腰では危険であり、兵を同行するべきとしたが、西郷は拒絶した{{sfn|内藤一成|2019|p=155}}。ただし決定は清に出張中副島の帰国を待ってから行うこととなった{{sfn|内藤一成|2019|p=155}}。中国から帰国した副島は西郷の主張に賛成はしたが西郷ではなく自らが赴く事を主張した。7月23日、木戸が帰国したが留守政府の現状に激怒し、大久保同様政府への復帰をボイコットし、政府打倒を目指して裏面で活動を行っていた{{sfn|高橋秀直|1993|p=684-685}}。また征韓論に対して木戸は「朝鮮の我が交款を受けざる其無礼なる固り兵を挙げて伐つへし」としながらも、「力を養ふより先なるはなし」という意見書を提出している{{sfn|吉野誠|2000|p=6}}


7月末より西郷は三条に遣使を強く要求したが、三条は西郷が必ず殺害されると見ていたためこれを許そうとはしなかった{{sfn|内藤一成|2019|p=156-157}}。一方西郷は8月17日の板垣宛書簡で「朝鮮が使者を暴殺するに違いないから、そうなれば天下の人は朝鮮を『討つべきの罪』を知ることができ、いよいよ戦いに持ち込むことができる」と述べたように、自らが殺害されることも織り込み済みであった{{sfn|佐々木克|2010|p=3}}。
7月末より西郷は三条に遣使を強く要求したが、三条は西郷が必ず殺害されると見ていたためこれを許そうとはしなかった{{sfn|内藤一成|2019|p=156-157}}。一方西郷は8月17日の板垣宛書簡で「朝鮮が使者を暴殺するに違いないから、そうなれば天下の人は朝鮮を『討つべきの罪』を知ることができ、いよいよ戦いに持ち込むことができる」と述べたように、自らが殺害されることも織り込み済みであった{{sfn|佐々木克|2010|p=3}}{{sfn|高橋秀直|1993|p=683}}<ref group="注釈">毛利敏彦はこれらの言動は征韓派の板垣を説得するための方便としている。{{harv|吉野誠|2000|p=4}}</ref>


一方で、[[高島鞆之助]]が「西郷を殺してまで朝鮮のカタをつけなければならぬことはない」と回想したように朝鮮問題がそこまで大きな問題と考えられていたわけではなく、朝鮮と戦争になれば宗主国の[[清]]との戦争になる危険もあったが、西郷はこれに対して何ら発言を残していない{{sfn|佐々木克|2010|p=5}}。また副島が対応していた[[宮古島島民遭難事件]]や[[樺太]]出兵問題なども並行して起こっていた情勢であった{{sfn|佐々木克|2010|p=3-6}}。
一方で、[[高島鞆之助]]が「西郷を殺してまで朝鮮のカタをつけなければならぬことはない」と回想したように朝鮮問題がそこまで大きな問題と考えられていたわけではなく、朝鮮と戦争になれば宗主国の[[清]]との戦争になる危険もあったが、西郷はこれに対して何ら発言を残していない{{sfn|佐々木克|2010|p=5}}。また副島が対応していた宮古島島民遭難事件や[[樺太]]出兵問題なども並行して起こっていた情勢であった{{sfn|佐々木克|2010|p=3-6}}。


8月16日、西郷は三条の元を訪れ、岩倉の帰国前に遣使だけは承認するべきと強く要請した。このため翌8月17日の閣議で西郷の遣使は決定されたが、詳細については決まっていなかった{{sfn|内藤一成|2019|p=156-157}}。三条は箱根で静養中の[[明治天皇]]の元を訪れ、決定を奏上したが、「岩倉の帰国を待ってから熟議するべき」という回答が下された。明治天皇は当時20歳そこそこであり、内藤一成は三条の意見をなぞったものに過ぎないと見ている{{sfn|内藤一成|2019|p=157}}。
8月16日、西郷は三条の元を訪れ、岩倉の帰国前に遣使だけは承認するべきと強く要請した。このため翌8月17日の閣議で西郷の遣使は決定されたが、詳細については決まっていなかった{{sfn|内藤一成|2019|p=156-157}}。三条は箱根で静養中の[[明治天皇]]の元を訪れ、決定を奏上したが、「岩倉の帰国を待ってから熟議するべき」という回答が下された。明治天皇は当時20歳そこそこであり、内藤一成は三条の意見をなぞったものに過ぎないと見ている{{sfn|内藤一成|2019|p=157}}。


===岩倉の帰国による巻き返し===
===岩倉の帰国による巻き返し===
9月13日、岩倉が帰国し、三条とともに木戸・大久保の復帰に向けて運動を開始した{{sfn|高橋秀直|1993|p=685}}。岩倉は帰国早々「専ら国政を整え民力を厚すべき」という質問書を各参議に送っており、内治優先の考えを持っていた{{sfn|高橋秀直|1993|p=687}}。また西郷遣使についても即時に行われることではないと主張している{{sfn|高橋秀直|1993|p=687}}。しかし木戸は9月16日から病気となり、参議復帰を拒んだ{{sfn|高橋秀直|1993|p=685}}。木戸は伊藤博文とともに新任参議の罷免を求め、大隈もこれに賛同したが、三条と岩倉はこれは困難であると見ていた{{sfn|高橋秀直|1993|p=685-686}}。
三条はすでに帰国していた[[木戸孝允]]・[[大久保利通]]らを復帰させ、巻き返しを図ろうとしたが困難を極めた。[[伊藤博文]]の奔走により大久保は10月12日に参議に復帰したものの、木戸は応諾しなかった{{sfn|内藤一成|2019|p=159}}。大久保は厳しい財政状況の中で戦端を開くのは困難であり、まずは国力を充実させるべきと考えており{{sfn|佐々木克|2010|p=10}}、維新前からの盟友である西郷と対決する意志を固め、子供たちに当てた遺書を残している{{sfn|佐々木克|2010|p=14}}。


西郷は事態が進展しないことに苛立ち、自殺をほのめかして三条に圧力をかけている{{sfn|佐々木克|2010|p=8}}{{sfn|内藤一成|2019|p=159-160}}。三条は海軍卿[[勝海舟|勝安芳]]の軍備が整っていないという意見をあげ、岩倉ととともに遣使の延期方針を合意した{{sfn|内藤一成|2019|p=161}}。
朝鮮問題の討議は、木戸・大久保の復帰問題が片付いてからということになり、岩倉復帰後も討議は行われなかった{{sfn|高橋秀直|1993|p=688}}。西郷は事態が進展しないことに苛立ち、自殺をほのめかして三条に圧力をかけている{{sfn|佐々木克|2010|p=8}}{{sfn|内藤一成|2019|p=159-160}}。三条は海軍卿[[勝海舟|勝安芳]]の軍備が整っていないという意見をあげ、岩倉ととともに遣使の延期方針を合意した{{sfn|内藤一成|2019|p=161}}。


10月14日、岩倉は閣議の席で遣使の延期を主張し、西郷・板垣・江藤・後藤・副島らと論戦となった。15日の閣議で決定は太政大臣の三条と右大臣の岩倉に一任されたが、三条はここで西郷の派遣自体は認める決定を行った{{sfn|内藤一成|2019|p=162}}。しかし期日等詳細は依然として定まっておらず、単に8月17日の決定を再確認したもののにとどまった{{sfn|内藤一成|2019|p=163}}。三条は自ら軍事権を握ることで、「軍備が整っていない」ことを口実にし、西郷の派遣を遅らせる考えを持っていたが、岩倉・大久保・木戸は反発し、辞職の構えを見せた{{sfn|内藤一成|2019|p=164}}{{sfn|佐々木克|2010|p=20}}。10月18日、三条は病に倒れた。10月19日、副島・江藤・後藤・[[大木喬任]]の四人で行われた閣議は岩倉を太政大臣摂行(代理)とすることを[[徳大寺実則]]に要望し、明治天皇に奏上された{{sfn|佐々木克|2010|p=23}}。副島らは閣議の決定を早く上奏させるために岩倉を代理に就任させようとしたと見られている{{sfn|佐々木克|2010|p=23}}。
伊藤の奔走により大久保は10月12日に参議に復帰したものの、木戸は応諾しなかった{{sfn|内藤一成|2019|p=159}}。大久保は厳しい財政状況の中で戦端を開くのは困難であり、まずは国力を充実させるべきと考えており{{sfn|佐々木克|2010|p=10}}、維新前からの盟友である西郷と対決する意志を固め、子供たちに当てた遺書を残している{{sfn|佐々木克|2010|p=14}}。10月14日、岩倉は閣議の席で遣使の延期を主張した。板垣・江藤・後藤・副島らは遣使の延期については同意していものの、西郷は即時派遣を主張した{{sfn|高橋秀直|1993|p=691}}このため15日の閣議では、板垣・江藤・後藤・副島らは西郷を支持し、即時遣使を要求した{{sfn|高橋秀直|1993|p=691-692}}決定は太政大臣の三条と右大臣の岩倉に一任されたが、三条はここで西郷の派遣自体は認める決定を行った{{sfn|内藤一成|2019|p=162}}。しかし期日等詳細は依然として定まっておらず、単に8月17日の決定を再確認したもののにとどまった{{sfn|内藤一成|2019|p=163}}。三条は自ら軍事権を握ることで、「軍備が整っていない」ことを口実にし、西郷の派遣を遅らせる考えを持っていたが、これを「変説」と受け取った岩倉・大久保・木戸は反発した{{sfn|内藤一成|2019|p=164}}{{sfn|佐々木克|2010|p=20}}。

10月16日、岩倉は三条の元を訪れ、決断の変更を求めたが、三条は受け入れなかった。しかし対朝鮮戦争が考えられる以上、もう一度閣議を行う必要があると合意し、10月17日にもう一度閣議を行うことで合意した。しかし17日に岩倉・大久保・木戸が辞表を提出したことで閣議は行われなかった。三条は大木喬任とともに岩倉邸を訪れて10月18日の閣議に出席するように説得したが、岩倉は受け入れず両者は決裂した{{sfn|高橋秀直|1993|p=694-695}}。夜になって三条は自邸に西郷を呼び、決定の変更を示唆したが、西郷はこれに反発していた{{sfn|高橋秀直|1993|p=695}}。

10月18日、三条は病に倒れた{{sfn|高橋秀直|1993|p=695}}。10月19日、副島・江藤・後藤・大木の四人で行われた閣議は岩倉を太政大臣摂行(代理)とすることを[[徳大寺実則]]に要望し、明治天皇に奏上された{{sfn|佐々木克|2010|p=23}}。また反征韓派に対する配慮としてもう一度閣議を行う方針を決めている{{sfn|高橋秀直|1993|p=697}}。副島らは閣議の決定を早く上奏させるために岩倉を代理に就任させようとしたと見られている{{sfn|佐々木克|2010|p=23}}。


===無期延期の決定===
===無期延期の決定===
しかし大久保は挽回のための「秘策」があると見出した。[[黒田清隆]]を通じて宮内少輔[[吉井友実]]に働きかけ、明治天皇が三条邸への見舞いを行った後に岩倉邸に行幸させ、岩倉への太政大臣摂行就任を命じさせるというものだった{{sfn|佐々木克|2010|p=26}}。10月20日、明治天皇の行幸は実行され、岩倉は太政大臣摂行に就任した。[[佐々木克]]は明治天皇が岩倉邸訪問によって三条発病の経緯と遣使による西郷への危害が及ぶ可能性を深く知った上で岩倉の懸念を共有し、また岩倉も明治天皇の意思を確認できたとしている{{sfn|佐々木克|2010|p=26}}。10月22日、西郷・板垣・副島・江藤の四参議が岩倉邸を訪問し、明日にも遣使を発令するべきであると主張したが、岩倉は自らが太政大臣摂行となっているから、三条の意見ではなく自分の意見を奏上するとして引かなかった{{sfn|佐々木克|2010|p=27、30-31}}。四参議は「致シ方ナシ」として退去した{{sfn|佐々木克|2010|p=31}}。
しかし大久保は挽回のための「秘策」があると見出した。[[黒田清隆]]を通じて宮内少輔[[吉井友実]]に働きかけ、明治天皇が三条邸への見舞いを行った後に岩倉邸に行幸させ、岩倉への太政大臣摂行就任を命じさせるというものだった{{sfn|佐々木克|2010|p=26}}。10月20日、明治天皇の行幸は実行され、岩倉は太政大臣摂行に就任した。[[佐々木克]]は明治天皇が岩倉邸訪問によって三条発病の経緯と遣使による西郷への危害が及ぶ可能性を深く知った上で岩倉の懸念を共有し、また岩倉も明治天皇の意思を確認できたとしている{{sfn|佐々木克|2010|p=26}}。10月22日、西郷・板垣・副島・江藤の四参議が岩倉邸を訪問し、明日にも遣使を発令するべきであると主張したが、岩倉は自らが太政大臣摂行となっているから、三条の意見ではなく自分の意見を奏上するとして引かなかった{{sfn|佐々木克|2010|p=27、30-31}}。四参議は「致シ方ナシ」として退去した{{sfn|佐々木克|2010|p=31}}{{sfn|高橋秀直|1993|p=702}}。


===西郷らの辞任===
===西郷らの辞任===
岩倉は10月23日に参内し、決定の経緯と閣議による決定と自分の意見を述べた上で、明治天皇の[[聖断]]で遣使を決めると奏上した{{sfn|佐々木克|2010|p=31}}。岩倉と大久保らは宮中工作を行っており、西郷ら征韓派が参内して意見を述べることはできなかった{{sfn|佐々木克|2010|p=27}}{{sfn|内藤一成|2019|p=166}}。この日、西郷は参議などを含む官職からの辞表を提出し{{sfn|佐々木克|2010|p=32-33}}。10月24日、岩倉による派遣延期の意見が通り、西郷の辞表は受理され、参議を辞職した{{sfn|内藤一成|2019|p=164}}{{sfn|佐々木克|2010|p=32}}。ただし西郷の[[陸軍大将]]と[[近衛都督]]については却下され、大久保・木戸らの辞表も却下されている{{sfn|佐々木克|2010|p=32}}。24日には板垣・江藤・後藤・副島らが辞表を提出し、25日に受理された{{sfn|佐々木克|2010|p=32}}。更に下野した参議が[[近衛都督]]の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷を咎めず、逆に西郷に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣・後藤に近い官僚・軍人も辞職した。
岩倉は10月23日に参内し、決定の経緯と閣議による決定と自分の意見を述べた上で、明治天皇の[[聖断]]で遣使を決めると奏上した{{sfn|佐々木克|2010|p=31}}。岩倉と大久保らは宮中工作を行っており、西郷ら征韓派が参内して意見を述べることはできなかった{{sfn|佐々木克|2010|p=27}}{{sfn|内藤一成|2019|p=166}}。しかし天皇は重大事であるから明日回答すると返答し、岩倉は不安におちいっている{{sfn|高橋秀直|1993|p=703}}。この日、西郷は参議などを含む官職からの辞表を提出し、帰郷の途につ{{sfn|佐々木克|2010|p=32-33}}{{sfn|高橋秀直|1993|p=703}}。10月24日、岩倉による派遣延期の意見が通り、西郷の辞表は受理され、参議を辞職した{{sfn|内藤一成|2019|p=164}}{{sfn|佐々木克|2010|p=32}}。ただし西郷の[[陸軍大将]]と[[近衛都督]]については却下され、大久保・木戸らの辞表も却下されている{{sfn|佐々木克|2010|p=32}}。24日には板垣・江藤・後藤・副島らが辞表を提出し、25日に受理された{{sfn|佐々木克|2010|p=32}}。更に西郷板垣・後藤に近い官僚・軍人も辞職した。特に[[近衛]]の将兵が大量に離脱したため、事実上解体に追い込まれた{{sfn|笠原英彦|2001|p=99}}


*[[前島密]] 「『五年前西郷が東京を去るの日、(大久保)公は之を留めんと欲せしや。また手段の出づる所なかりしや。しかして別時に臨み相語りしことなかりしや』と問いしに、大久保之に答えて曰く『予が西郷と分るるに臨み、別に言う所なく、また争うの事もなかりき。彼はただ「何でもイヤダ」と云いしを以て、予も「然らば勝手にせよ」と言いたる位の物別れなり。彼は予の畏友なり。また信友なり。故に私情に於てもまた相離隔するを欲せず。これを以て予は力を盡してその西郷を止めたり。しかして彼唯イヤダの一言を以て一貫し去り、遂に去年の惨劇(西南戦争)を演出せるは誠に残念至極なり。アア西郷が当年イヤダの一言、今なお予をしてまたイヤダの威を抱かしむ。片言といえどもイヤナ言もあるものかな」<ref>『大久保利通之一生』]近代デジタルライブラリー</ref>
[[前島密]] は以下のように回想している「『五年前西郷が東京を去るの日、(大久保)公は之を留めんと欲せしや。また手段の出づる所なかりしや。しかして別時に臨み相語りしことなかりしや』と問いしに、大久保之に答えて曰く『予が西郷と分るるに臨み、別に言う所なく、また争うの事もなかりき。彼はただ「何でもイヤダ」と云いしを以て、予も「然らば勝手にせよ」と言いたる位の物別れなり。彼は予の畏友なり。また信友なり。故に私情に於てもまた相離隔するを欲せず。これを以て予は力を盡してその西郷を止めたり。しかして彼唯イヤダの一言を以て一貫し去り、遂に去年の惨劇(西南戦争)を演出せるは誠に残念至極なり。アア西郷が当年イヤダの一言、今なお予をしてまたイヤダの威を抱かしむ。片言といえどもイヤナ言もあるものかな」<ref>『大久保利通之一生』]近代デジタルライブラリー</ref>


この後、江藤新平によって失脚に追い込まれていた[[山縣有朋]]と[[井上馨]]は西郷、江藤らの辞任後しばらくしてから公職に復帰を果たす。この政変が[[士族反乱]]や[[自由民権運動]]の発端ともなった。



== 後日譚 ==
==影響==
=== 政府の再編成 ===
{{see also|大久保政権}}
参議の大半を失った政府は再編成を余儀なくされた。大久保は「[[立憲政体に関する意見書]]」を提出し、将来の政府構想を語っている。また[[内務省 (日本)|内務省]]を設置し、自ら内務卿となることで、強い権力を握ることとなる。一方で木戸は病気が悪化しつつあり、指導力を示せなくなりつつあった。このため政変の中で伊藤博文が見せた動きは長州閥内でも評価され、次代の実力者として認められるようになる{{sfn|笠原英彦|2001|p=107}}。また、木戸が西郷と親しかった山縣の参議就任に難色を示す一方で、大久保が山縣を参議に就任させ、軍の混乱を決着させる政治力を見た伊藤は次第に木戸から離反して大久保に接近し、大久保による専制が確立していくことになる{{sfn|笠原英彦|2001|p=105-106}}。

また大久保と西郷の決裂は[[藩閥]]の分裂をもたらした。破れた西郷隆盛・江藤新平は後に[[士族反乱]]を起こし、板垣退助は一時復帰したものの、後に[[自由民権運動]]のもとに政府の敵対者となる。

=== 朝鮮との再交渉と「九月協定」 ===
=== 朝鮮との再交渉と「九月協定」 ===

もっとも、この政変によって征韓論争が終わった訳ではない。なぜなら、朝鮮との国交問題そのものは未解決であること、[[伊地知正治]]のように征韓派でも政府に残留した者も存在すること、そして天皇の勅裁には朝鮮遣使を「中止」するとは書かれず、単に「延期」するとなっており、その理由も当時もっとも紛糾していたロシアとの問題のみを理由として掲げていたからである。つまり、ロシアとの国境問題が解決した場合には、改めて朝鮮への遣使が行われるという解釈も成立する可能性があった。そして、それは[[千島樺太交換条約]]の締結によって、政府内に残留した征韓派は今度こそ朝鮮遣使を実現するようにという意見を上げ始めたのである。
朝鮮との国交問題そのものは依然未解決であ、[[伊地知正治]]のように征韓派でも政府に残留した者も存在すること、そして天皇の勅裁には朝鮮遣使を「中止」するとは書かれず、単に「延期」するとなっており、その理由も当時もっとも紛糾していたロシアとの問題のみを理由として掲げていたからである。つまり、ロシアとの国境問題が解決した場合には、改めて朝鮮への遣使が行われるという解釈も成立する可能性があった。そして、それは[[千島樺太交換条約]]の締結によって、政府内に残留した征韓派は今度こそ朝鮮遣使を実現するようにという意見を上げ始めたのである。


ところが、台湾出兵の発生と大院君の失脚によって征韓を視野に入れた朝鮮遣使論は下火となり、代わりに純粋な外交による国交回復のための特使として外務省の担当官であった[[森山茂]](後に[[外務少丞]])が倭館に派遣され、朝鮮政府代表との交渉が行われることとなった。[[1874年]]9月に開始された交渉は一旦は実務レベルの関係を回復して然るべき後に正式な国交を回復する交渉を行うという基本方針の合意が成立(「九月協定」)して、一旦両国政府からの方針の了承を得た後で細部の交渉をまとめるというものであった。
ところが、台湾出兵の発生と大院君の失脚によって征韓を視野に入れた朝鮮遣使論は下火となり、代わりに純粋な外交による国交回復のための特使として外務省の担当官であった[[森山茂]](後に[[外務少丞]])が倭館に派遣され、朝鮮政府代表との交渉が行われることとなった。[[1874年]]9月に開始された交渉は一旦は実務レベルの関係を回復して然るべき後に正式な国交を回復する交渉を行うという基本方針の合意が成立(「九月協定」)して、一旦両国政府からの方針の了承を得た後で細部の交渉をまとめるというものであった。
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=== 台湾出兵と江華島事件 ===
=== 台湾出兵と江華島事件 ===
明治政府はこの政変で西郷らを退けたが、翌年の明治7年([[1874年]])には[[宮古島島民遭難事件]]を発端とした初の海外出兵となる[[台湾出兵]]を行った。(特に木戸孝允征韓論を否定しておきながら、台湾への海外派を行うのは矛盾であるとして反対した結果参議辞任して下野したまた、翌々年の明治8年([[1875年]])には[[李氏朝鮮]]に対して軍艦を派遣し、武力衝突となった[[江華島事件]]の末、[[日朝修好条規]]を締結することになる。
明治政府はこの政変で西郷らを退けたが、翌年の明治7年([[1874年]])には[[宮古島島民遭難事件]]を発端とした初の海外出兵となる[[台湾出兵]]を行った。木戸は台湾にも反対し、政府去ることとなる。また、翌々年の明治8年([[1875年]])には[[李氏朝鮮]]に対して軍艦を派遣し、武力衝突となった[[江華島事件]]の末、[[日朝修好条規]]を締結することになる。


== 研究史 ==
政変の原因は征韓を主張する留守政府と、内地優先を主張する大久保利通らの政治的路線の違いが起こったというのが通説であったが{{sfn|高橋秀直|1993|p=674}}、1970年代に[[毛利敏彦]]が西郷の意図は征韓にはなく、政変の主因は長州派・大久保派による江藤新平の追い落としが目的である権力闘争であるという主張を行い、議論が活発になった{{sfn|高橋秀直|1993|p=674}}{{sfn|吉野誠|2000|p=5}}。[[姜範錫]]は西郷に自殺願望があったとしながらも、薩長派と[[土佐藩|土]][[肥前藩|肥]]派の対立に主因があったと見ている{{sfn|吉野誠|2000|p=5}}。[[田村貞雄]]は毛利の論に反対してあくまで西郷は征韓論者であったとし、政変の本質は朝鮮問題であるとしている{{sfn|吉野誠|2000|p=5}}。

==注釈 ==

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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite journal|和書|author=笠原英彦|authorlink=笠原英彦|year=2007|title=廃藩政権と留守政府--明治四年の政治動向|journal=|volume=80|issue=4|pages=95-130|publisher=東海大学|naid=120005819832|ref=harv}}
*{{Cite journal|和書|author=笠原英彦|authorlink=笠原英彦|year=2007|title=廃藩政権と留守政府--明治四年の政治動向|journal=法学研究|volume=80|issue=4|pages=95-130|publisher=慶應義塾大学研究会|naid=120005819832|ref=harv}}
*{{Cite journal|和書|author=吉野誠|authorlink=吉野誠|year=2000|title=明治6年の征韓論争|journal=東海大学紀要 文学部|issue=第73輯|pages=1-18|publisher=東海大学文学部|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110000195520|ref=harv}}
*{{Cite journal|和書|author=吉野誠|authorlink=吉野誠|year=2000|title=明治6年の征韓論争|journal=東海大学紀要 文学部|issue=第73輯|pages=1-18|publisher=東海大学文学部|naid=110000195520|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=内藤一成|authorlink=内藤一成|date=2019|title=三条実美 維新政権の「有徳の為政者」|series=中公新書|publisher=中央公論社|isbn=978-4121025289|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=内藤一成|authorlink=内藤一成|date=2019|title=三条実美 維新政権の「有徳の為政者」|series=中公新書|publisher=中央公論社|isbn=978-4121025289|ref=harv}}
*{{Cite journal|和書|author=佐々木克|authorlink=佐々木克|date=2010|title=明治六年政変と大久保利通|journal=奈良史学|issue=28|pages=1-37|publisher=奈良大学史学会|naid=120004793933|ref=harv}}
*{{Cite journal|和書|author=佐々木克|authorlink=佐々木克|date=2010|title=明治六年政変と大久保利通|journal=奈良史学|issue=28|pages=1-37|publisher=奈良大学史学会|naid=120004793933|ref=harv}}
*{{Cite journal|和書|author=高橋秀直|authorlink=高橋秀直|date=1993|title=征韓論政変の政治過程|journal=史林|volume=76|issue=5|pages=673-709|publisher=史学研究会 (京都大学文学部内)|naid=110000235395|ref=harv}}

*{{Cite journal|和書|author=笠原英彦|authorlink=笠原英彦|year=2001|title=大久保政権の成立をめぐる一考察 |journal=法学研究|volume=74|issue=6|pages=93-118|publisher=慶應義塾大学法学研究会|naid=120005819832|ref=harv}}
Sub Title A Study on the ...
== 関連文献 ==
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*{{Cite journal|和書|author=吉野誠|authorlink=吉野誠|year=1999|month=2|title=明治初期における外務省の朝鮮政策――朝廷直交論のゆくえ|journal=東海大学紀要 文学部|issue=第72輯|pages=1-18|publisher=東海大学文学部|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110000195512|ref=harv}}
*{{Cite journal|和書|author=吉野誠|authorlink=吉野誠|year=1999|month=2|title=明治初期における外務省の朝鮮政策――朝廷直交論のゆくえ|journal=東海大学紀要 文学部|issue=第72輯|pages=1-18|publisher=東海大学文学部|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110000195512|ref=harv}}

2019年8月11日 (日) 09:47時点における版

明治六年政変(めいじろくねんせいへん)は、明治6年(1873年)に発生した政変。西郷隆盛をはじめとする参議の半数が辞職したのみならず、軍人、官僚約600人が職を辞することとなった。

直接の原因が征韓論にあったため、征韓論政変(せいかんろんせいへん)とも称される。


背景

日朝関係の断絶と緊張

明治維新により王政復古した日本は、明治元年(1871年)、対馬藩を通じて李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を派遣した。しかし、従来天皇の臣下である江戸幕府将軍と対等の関係にあった朝鮮政府を格下と見る風潮があり、この国書には従来の江戸幕府との国書になかった「」「皇」の文字が入っていた[1]。このため朝鮮側はこの国書を受け取らなかった[1]。その後交わされた国書では勅の文字は使用されなかったが、明治4年(1871年)に朝鮮の宗主国であると対等な関係である日清修好条規を締結したことにより、再び上下関係を明確化させようとする動きが強まり、「天子」の文字が入った国書が送られたことで日朝関係は断絶状態となった[1]

また当時の朝鮮において興宣大院君が政権を掌握して儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始めたため、これを理由に日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるようになった。

留守政府の成立

明治維新後、政府は度々改造が行われていたが、廃藩置県後の明治4年8月には、太政官の構成を正院左院右院とする三院制度が開始された[2]。正院は太政大臣である三条実美が天皇を輔弼し、参議がそれに参与するというものであった。このとき参議となったのは西郷隆盛木戸孝允板垣退助大隈重信であり、大久保利通大蔵省のトップとなっていたが、大蔵省内部の官僚や木戸ら有力者との軋轢を抱えていた[2]。9月12日、木戸派の井上馨が大久保の洋行を提案し、大久保のみならず大納言岩倉具視・木戸といった実力者を加えた大使節団の派遣へと展開していった。11月7日、木戸らと留守政府の代表は洋行中に「大規模な内政改革は行わないこと」などを取り決めた12ヶ条の約定をとりかわした[3][4]11月9日の会議では、板垣が朝鮮に使節を送って開国を促し、応じなければ戦争に訴えるべきと主張したが、朝鮮問題には手を付けないことなどが合意された[5]。岩倉を代表とし、木戸・大久保・伊藤博文らも加わった使節団は11月11日に出国した[5]

留守政府の政策

大きな改革を行わないという合意は行われたものの、留守政府の各省庁はそれぞれ大規模な改革を主張し、政策を進展させていった[5]学制秩禄処分などの大改革は留守政府の期間に決定されたものである。また11月には宮古島島民遭難事件が発生し、台湾征討を主張する声が高まった。折から士族の新政府に対する不満が高まっており、士族で構成された軍、そして西郷隆盛を中心とする薩摩藩派も征討を主張していた[6]。木戸派の井上馨らを中心とする大蔵省が内治優先を主張し強く反対したことで出兵は行われず、副島種臣を清に派遣して交渉を行わせることとなった[6]

留守政府の権力構造

明治6年(1873年)になると、大蔵省とその他官庁の軋轢は、予算を巡ってますます強くなった。あまりの混乱に1月19日には木戸・大久保に対して早期帰国の命令額だった[7]。4月、井上は正院を改革して大蔵省の権力を強めようともくろんだが、4月19日に新たな参議となったのは司法卿江藤新平文部卿大木喬任・左院議長後藤象二郎という反大蔵省の人物ばかりであり、井上は参議となれなかっただけでなく、各省の権限が正院に移されたことで、大蔵省の権力はかえって弱まった[8]。これをうけて井上と井上の腹心渋沢栄一は大蔵省を辞任し、また従来木戸派であった大隈重信が留守政府に接近し、また陸軍で木戸派を代表していた山縣有朋が一時失脚したことで、木戸派が中央政界に与える影響力は著しく減退した[8]

しかし留守政府派といっても反大蔵省以外の結束理由があったわけではなく、また西郷隆盛も病気がちで青山の別荘に籠もりきりで、各参議はそれぞれ勝手な行動を行う上京であった[9]。大久保は5月29日に帰国したが、留守政府に不満を持っていたため意図的に復帰せず、岩倉の帰国まで様子見をするため国内の視察旅行に出かけている[7]

西郷の朝鮮使節派遣案

5月31日、釜山に設置されていた大日本公館代表広津弘信より、朝鮮政府が日本人の密貿易を取り締まる布告の中で、日本に対する無礼な字があったと報告した。 参議板垣退助は居留民保護を理由に派兵し、その上で使節を派遣することを主張した[10]。西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した[11]。西郷の意見には後藤象二郎江藤新平らが賛成した。太政大臣三条実美は丸腰では危険であり、兵を同行するべきとしたが、西郷は拒絶した[11]。ただし決定は清に出張中の副島の帰国を待ってから行うこととなった[11]。中国から帰国した副島は西郷の主張に賛成はしたが西郷ではなく自らが赴く事を主張した。7月23日、木戸が帰国したが留守政府の現状に激怒し、大久保同様政府への復帰をボイコットし、政府打倒を目指して裏面で活動を行っていた[12]。また征韓論に対して木戸は「朝鮮の我が交款を受けざる其無礼なる固り兵を挙げて伐つへし」としながらも、「力を養ふより先なるはなし」という意見書を提出している[13]

7月末より西郷は三条に遣使を強く要求したが、三条は西郷が必ず殺害されると見ていたためこれを許そうとはしなかった[14]。一方西郷は8月17日の板垣宛書簡で「朝鮮が使者を暴殺するに違いないから、そうなれば天下の人は朝鮮を『討つべきの罪』を知ることができ、いよいよ戦いに持ち込むことができる」と述べたように、自らが殺害されることも織り込み済みであった[15][10][注釈 1]

一方で、高島鞆之助が「西郷を殺してまで朝鮮のカタをつけなければならぬことはない」と回想したように朝鮮問題がそこまで大きな問題と考えられていたわけではなく、朝鮮と戦争になれば宗主国のとの戦争になる危険もあったが、西郷はこれに対して何ら発言を残していない[16]。また副島が対応していた宮古島島民遭難事件や樺太出兵問題なども並行して起こっていた情勢であった[17]

8月16日、西郷は三条の元を訪れ、岩倉の帰国前に遣使だけは承認するべきと強く要請した。このため翌8月17日の閣議で西郷の遣使は決定されたが、詳細については決まっていなかった[14]。三条は箱根で静養中の明治天皇の元を訪れ、決定を奏上したが、「岩倉の帰国を待ってから熟議するべき」という回答が下された。明治天皇は当時20歳そこそこであり、内藤一成は三条の意見をなぞったものに過ぎないと見ている[18]

岩倉の帰国による巻き返し

9月13日、岩倉が帰国し、三条とともに木戸・大久保の復帰に向けて運動を開始した[19]。岩倉は帰国早々「専ら国政を整え民力を厚すべき」という質問書を各参議に送っており、内治優先の考えを持っていた[20]。また西郷遣使についても即時に行われることではないと主張している[20]。しかし木戸は9月16日から病気となり、参議復帰を拒んだ[19]。木戸は伊藤博文とともに新任参議の罷免を求め、大隈もこれに賛同したが、三条と岩倉はこれは困難であると見ていた[21]

朝鮮問題の討議は、木戸・大久保の復帰問題が片付いてからということになり、岩倉復帰後も討議は行われなかった[22]。西郷は事態が進展しないことに苛立ち、自殺をほのめかして三条に圧力をかけている[23][24]。三条は海軍卿勝安芳の軍備が整っていないという意見をあげ、岩倉ととともに遣使の延期方針を合意した[25]

伊藤の奔走により大久保は10月12日に参議に復帰したものの、木戸は応諾しなかった[26]。大久保は厳しい財政状況の中で戦端を開くのは困難であり、まずは国力を充実させるべきと考えており[27]、維新前からの盟友である西郷と対決する意志を固め、子供たちに当てた遺書を残している[28]。10月14日、岩倉は閣議の席で遣使の延期を主張した。板垣・江藤・後藤・副島らは遣使の延期については同意していたものの、西郷は即時派遣を主張した[29]。このため15日の閣議では、板垣・江藤・後藤・副島らは西郷を支持し、即時遣使を要求した[30]決定は太政大臣の三条と右大臣の岩倉に一任されたが、三条はここで西郷の派遣自体は認める決定を行った[31]。しかし期日等詳細は依然として定まっておらず、単に8月17日の決定を再確認したもののにとどまった[32]。三条は自ら軍事権を握ることで、「軍備が整っていない」ことを口実にし、西郷の派遣を遅らせる考えを持っていたが、これを「変説」と受け取った岩倉・大久保・木戸は反発した[33][34]

10月16日、岩倉は三条の元を訪れ、決断の変更を求めたが、三条は受け入れなかった。しかし対朝鮮戦争が考えられる以上、もう一度閣議を行う必要があると合意し、10月17日にもう一度閣議を行うことで合意した。しかし17日に岩倉・大久保・木戸が辞表を提出したことで閣議は行われなかった。三条は大木喬任とともに岩倉邸を訪れて10月18日の閣議に出席するように説得したが、岩倉は受け入れず両者は決裂した[35]。夜になって三条は自邸に西郷を呼び、決定の変更を示唆したが、西郷はこれに反発していた[36]

10月18日、三条は病に倒れた[36]。10月19日、副島・江藤・後藤・大木の四人で行われた閣議は岩倉を太政大臣摂行(代理)とすることを徳大寺実則に要望し、明治天皇に奏上された[37]。また反征韓派に対する配慮としてもう一度閣議を行う方針を決めている[38]。副島らは閣議の決定を早く上奏させるために岩倉を代理に就任させようとしたと見られている[37]

無期延期の決定

しかし大久保は挽回のための「秘策」があると見出した。黒田清隆を通じて宮内少輔吉井友実に働きかけ、明治天皇が三条邸への見舞いを行った後に岩倉邸に行幸させ、岩倉への太政大臣摂行就任を命じさせるというものだった[39]。10月20日、明治天皇の行幸は実行され、岩倉は太政大臣摂行に就任した。佐々木克は明治天皇が岩倉邸訪問によって三条発病の経緯と遣使による西郷への危害が及ぶ可能性を深く知った上で岩倉の懸念を共有し、また岩倉も明治天皇の意思を確認できたとしている[39]。10月22日、西郷・板垣・副島・江藤の四参議が岩倉邸を訪問し、明日にも遣使を発令するべきであると主張したが、岩倉は自らが太政大臣摂行となっているから、三条の意見ではなく自分の意見を奏上するとして引かなかった[40]。四参議は「致シ方ナシ」として退去した[41][42]

西郷らの辞任

岩倉は10月23日に参内し、決定の経緯と閣議による決定と自分の意見を述べた上で、明治天皇の聖断で遣使を決めると奏上した[41]。岩倉と大久保らは宮中工作を行っており、西郷ら征韓派が参内して意見を述べることはできなかった[43][44]。しかし天皇は重大事であるから明日回答すると返答し、岩倉は不安におちいっている[45]。この日、西郷は参議などを含む官職からの辞表を提出し、帰郷の途についた[46][45]。10月24日、岩倉による派遣延期の意見が通り、西郷の辞表は受理され、参議を辞職した[33][47]。ただし西郷の陸軍大将近衛都督については却下され、大久保・木戸らの辞表も却下されている[47]。24日には板垣・江藤・後藤・副島らが辞表を提出し、25日に受理された[47]。更に西郷・板垣・後藤に近い官僚・軍人も辞職した。特に近衛の将兵が大量に離脱したため、事実上解体に追い込まれた[48]

前島密 は以下のように回想している「『五年前西郷が東京を去るの日、(大久保)公は之を留めんと欲せしや。また手段の出づる所なかりしや。しかして別時に臨み相語りしことなかりしや』と問いしに、大久保之に答えて曰く『予が西郷と分るるに臨み、別に言う所なく、また争うの事もなかりき。彼はただ「何でもイヤダ」と云いしを以て、予も「然らば勝手にせよ」と言いたる位の物別れなり。彼は予の畏友なり。また信友なり。故に私情に於てもまた相離隔するを欲せず。これを以て予は力を盡してその西郷を止めたり。しかして彼唯イヤダの一言を以て一貫し去り、遂に去年の惨劇(西南戦争)を演出せるは誠に残念至極なり。アア西郷が当年イヤダの一言、今なお予をしてまたイヤダの威を抱かしむ。片言といえどもイヤナ言もあるものかな」[49]


影響

政府の再編成

参議の大半を失った政府は再編成を余儀なくされた。大久保は「立憲政体に関する意見書」を提出し、将来の政府構想を語っている。また内務省を設置し、自ら内務卿となることで、強い権力を握ることとなる。一方で木戸は病気が悪化しつつあり、指導力を示せなくなりつつあった。このため政変の中で伊藤博文が見せた動きは長州閥内でも評価され、次代の実力者として認められるようになる[50]。また、木戸が西郷と親しかった山縣の参議就任に難色を示す一方で、大久保が山縣を参議に就任させ、軍の混乱を決着させる政治力を見た伊藤は次第に木戸から離反して大久保に接近し、大久保による専制が確立していくことになる[51]

また大久保と西郷の決裂は藩閥の分裂をもたらした。破れた西郷隆盛・江藤新平は後に士族反乱を起こし、板垣退助は一時復帰したものの、後に自由民権運動のもとに政府の敵対者となる。

朝鮮との再交渉と「九月協定」

朝鮮との国交問題そのものは依然未解決であり、伊地知正治のように征韓派でも政府に残留した者も存在すること、そして天皇の勅裁には朝鮮遣使を「中止」するとは書かれず、単に「延期」するとなっており、その理由も当時もっとも紛糾していたロシアとの問題のみを理由として掲げていたからである。つまり、ロシアとの国境問題が解決した場合には、改めて朝鮮への遣使が行われるという解釈も成立する可能性があった。そして、それは千島樺太交換条約の締結によって、政府内に残留した征韓派は今度こそ朝鮮遣使を実現するようにという意見を上げ始めたのである。

ところが、台湾出兵の発生と大院君の失脚によって征韓を視野に入れた朝鮮遣使論は下火となり、代わりに純粋な外交による国交回復のための特使として外務省の担当官であった森山茂(後に外務少丞)が倭館に派遣され、朝鮮政府代表との交渉が行われることとなった。1874年9月に開始された交渉は一旦は実務レベルの関係を回復して然るべき後に正式な国交を回復する交渉を行うという基本方針の合意が成立(「九月協定」)して、一旦両国政府からの方針の了承を得た後で細部の交渉をまとめるというものであった。

しかし、日本側が一旦帰国した森山からの報告を受けた後に、大阪会議や佐賀の乱への対応で朝鮮問題が後回しにされて「九月協定」への了承を先延ばしにしているうちに、朝鮮では大院君側が巻き返しを図り再び攘夷論が巻き起こったのである。このため、翌1875年2月から始められた細部を詰めるための2次交渉は全く噛み合わない物になってしまった。しかも交渉は双方の首都から離れた倭館のある釜山で開かれ、相手側政府の状況は勿論、担当者が自国政府の状況も十分把握できない状況下で交渉が行われたために相互ともに相手側が「九月協定」の合意内容を破ったと非難を始めて、6月には決裂した。

一方、日本政府と国内世論は士族反乱や立憲制確立を巡る議論に注目が移り、かつての征韓派も朝鮮問題への関心を失いつつあった。このため、8月27日に森山特使に引上げを命じて当面様子見を行うことが決定したのである。その直後に江華島事件が発生、日朝交渉は新たな段階を迎えることになる。

天皇と政府の関係

またこれにより、天皇の意思が政府の正式決定に勝るという前例が出来上がってしまった。これの危険な点は、例えば天皇に取り入った者が天皇の名を借りて実状にそぐわない法令をだしても、そのまま施行されてしまうというように、天皇を個人的に手に入れた者が政策の意思決定を可能にするところにある。そして、西南戦争直後に形成された侍補を中心とする宮中保守派の台頭がその懸念を現実のものとした。その危険性に気づいた伊藤博文らは大日本帝国憲法制定時に天皇の神格化を図り、「神棚に祭る」ことで第三者が容易に関与できないようにし、合法的に天皇権限を押さえ込んだ。

台湾出兵と江華島事件

明治政府はこの政変で西郷らを退けたが、翌年の明治7年(1874年)には宮古島島民遭難事件を発端とした初の海外出兵となる台湾出兵を行った。木戸は台湾出兵にも反対し、政府を去ることとなる。また、翌々年の明治8年(1875年)には李氏朝鮮に対して軍艦を派遣し、武力衝突となった江華島事件の末、日朝修好条規を締結することになる。

研究史

政変の原因は征韓を主張する留守政府と、内地優先を主張する大久保利通らの政治的路線の違いが起こったというのが通説であったが[52]、1970年代に毛利敏彦が西郷の意図は征韓にはなく、政変の主因は長州派・大久保派による江藤新平の追い落としが目的である権力闘争であるという主張を行い、議論が活発になった[52][53]姜範錫は西郷に自殺願望があったとしながらも、薩長派と派の対立に主因があったと見ている[53]田村貞雄は毛利の論に反対してあくまで西郷は征韓論者であったとし、政変の本質は朝鮮問題であるとしている[53]

注釈

  1. ^ 毛利敏彦はこれらの言動は征韓派の板垣を説得するための方便としている。(吉野誠 2000, p. 4)

脚注

  1. ^ a b c 吉野誠 2000, p. 1.
  2. ^ a b 笠原英彦 2007, p. 105-106.
  3. ^ 笠原英彦 2007, p. 110.
  4. ^ 高橋秀直 1993, p. 678.
  5. ^ a b c 高橋秀直 1993, p. 679.
  6. ^ a b 高橋秀直 1993, p. 680.
  7. ^ a b 高橋秀直 1993, p. 684.
  8. ^ a b 高橋秀直 1993, p. 681.
  9. ^ 高橋秀直 1993, p. 682.
  10. ^ a b 高橋秀直 1993, p. 683.
  11. ^ a b c 内藤一成 2019, p. 155.
  12. ^ 高橋秀直 1993, p. 684-685.
  13. ^ 吉野誠 2000, p. 6.
  14. ^ a b 内藤一成 2019, p. 156-157.
  15. ^ 佐々木克 2010, p. 3.
  16. ^ 佐々木克 2010, p. 5.
  17. ^ 佐々木克 2010, p. 3-6.
  18. ^ 内藤一成 2019, p. 157.
  19. ^ a b 高橋秀直 1993, p. 685.
  20. ^ a b 高橋秀直 1993, p. 687.
  21. ^ 高橋秀直 1993, p. 685-686.
  22. ^ 高橋秀直 1993, p. 688.
  23. ^ 佐々木克 2010, p. 8.
  24. ^ 内藤一成 2019, p. 159-160.
  25. ^ 内藤一成 2019, p. 161.
  26. ^ 内藤一成 2019, p. 159.
  27. ^ 佐々木克 2010, p. 10.
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参考文献

  • 笠原英彦「廃藩政権と留守政府--明治四年の政治動向」『法学研究』第80巻第4号、慶應義塾大学法学研究会、2007年、95-130頁、NAID 120005819832 
  • 吉野誠「明治6年の征韓論争」『東海大学紀要 文学部』第73輯、東海大学文学部、2000年、1-18頁、NAID 110000195520 
  • 内藤一成『三条実美 維新政権の「有徳の為政者」』中央公論社〈中公新書〉、2019年。ISBN 978-4121025289 
  • 佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号、奈良大学史学会、2010年、1-37頁、NAID 120004793933 
  • 高橋秀直「征韓論政変の政治過程」『史林』第76巻第5号、史学研究会 (京都大学文学部内)、1993年、673-709頁、NAID 110000235395 
  • 笠原英彦「大久保政権の成立をめぐる一考察」『法学研究』第74巻第6号、慶應義塾大学法学研究会、2001年、93-118頁、NAID 120005819832 

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関連文献

  • 諸星秀俊「明治六年「征韓論」における軍事構想」『軍事史学』第45巻(1) (通号 177)、錦正社、2009年6月、43-62頁。 
  • 高橋秀直「明治維新期の朝鮮政策 大久保政権期を中心に」(山本四郎 編『日本近代国家の形成と展開』(吉川弘文館1996年 ISBN 4642036644))
  • 田保橋潔『近代日鮮関係の研究 上』(朝鮮総督府中枢院、1940年

関連項目