コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「彦島」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
(他の1人の利用者による、間の3版が非表示)
14行目: 14行目:
|OSMズーム = 11
|OSMズーム = 11
}}
}}
'''彦島'''(ひこしま)は、[[日本]]の[[中国地方]]西部の、[[山口県]][[下関市]]の南端にある[[陸繋島]]{{r|kb-Brit|"kb泉"|"kb林"}}。[[本州]]最西端部の[[島]]の一つ。[[関門海峡]]に周囲を囲まれた島。かつては大瀬戸と小瀬戸の間の島であったが、小瀬戸が埋立てられた[[1937年]](昭和12年)以来、[[人工]]の陸繋島となっている{{r|kb-Brit}}。本州と[[九州]]が関門海峡によって分断されている[[地形]]にあって、九州側へ深く入り込んだ本州側の西南端部に当たる[[地域]]。


また、歴史地名としては、[[近世]]における[[長門国]][[豊浦郡]]彦島、[[江戸幕府|江戸]][[幕藩体制]]下の[[長府藩|長門府中藩]][[地方知行|知行]]彦島を指す。
'''彦島'''(ひこしま)は、[[山口県]][[下関市]]の南端にある[[島]]。


また、下関市彦島地区([[下関市役所]]支所設置[[条例]]で示された[[下関市役所#支所|下関市役所彦島支所]]の所管する区域)を指す地域名称でもある。この場合、彦島本島のほか、[[響灘]]に浮かぶ[[六連島]](むつれじま)、彦島の至近にある[[竹ノ子島]](たけのこじま、彦島と道路橋で接続)、[[巌流島]](正式名称は船島の3島を含む。
現在[[行政区画]]においては、旧・彦島村、旧・[[彦島町]]に相当する{{r|kb-Nipp}}、下関市彦島([[下関市役所]]支所設置[[条例]]で示された[[下関市役所#支所|下関市役所彦島支所]]の所管する区域)をいう。この場合、彦島本島のほか、[[響灘]]に浮かぶ[[六連島]](むつれじま)<ref group="gm">六連島({{googlemap|六連島}})※該当地域は赤色でスポット表示される。</ref>、彦島の至近にある[[竹ノ子島]](たけのこじま、彦島と道路橋で接続)<ref group="gm">竹ノ子島({{googlemap|竹ノ子島}})※上に同じ。</ref>船島([[通称]]:[[巌流島]])<ref name="船島" group="gm">下関市大字彦島 船島{{googlemap|下関市大字彦島_船島}})※上に同じ。</ref>の3島を含む。


== 地域概要 ==
== 地域概要 ==
29行目: 30行目:
|行政区 =
|行政区 =
|旧自治体 = 彦島町
|旧自治体 = 彦島町
|面積 = 11.22
|面積 = 11.26
|世帯数 = 13813
|世帯数 = 12658
|人口 = 30182
|人口 = 24979
|人口統計URL = http://www2.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/www/contents/1174003907976/html/common/other/4f3a2e39003.xls
|人口統計URL = http://www.city.shimonoseki.lg.jp/www/contents/1174003907976/index.html
|人口統計種類 = 登録人口
|人口統計種類 = 登録人口
|人口の時点 = 20111231日現在
|人口の時点 = 2020(令和2年)4末時点
|隣接 =
|隣接 =
|管轄役所 = 支所
|管轄役所 = 支所
47行目: 48行目:
|特記事項 =
|特記事項 =
}}
}}
竹の子島や船島([[巌流島]])等を含めた彦島地区の面積は11.26[[平方メートル|&nbsp;km²]] {{Sfn|下関市 20191130}}。2020年(令和2年)4月末時点での人口は 24,979人<ref name="市-人口_20200518">{{Cite web |author= |date=2020-05-18 |title=(2-1)人口と世帯数 最新データ(全市・地区別・町名別 登録人口)|url=http://www.city.shimonoseki.lg.jp/www/contents/1174003907976/index.html |publisher=下関市 |website=公式ウェブサイト |accessdate=2020-05-29 }}</ref>と、[[本州]]・[[北海道]]・[[九州]]・[[四国]]・[[沖縄本島]]などを除くと日本有数の人口の多い島で、島内には[[工業#重化学工業|重工業]]地帯が広がっている。
[[File:Suimon Shimonoseki-Hikoshima.JPG|thumb|right|220px|彦島(左手)と本州を結ぶ下関漁港閘門(小瀬戸水門)。山の上にある学校は[[山口県立下関中等教育学校|下関中等教育学校]]。]]
[[2009年]]([[平成]]21年)[[2月28日]]現在の人口は31,126人(下関市役所ホームページによる)と、[[本州]]・[[北海道]]・[[九州]]・[[四国]]・[[沖縄本島]]などを除くと[[日本]]有数の人口の多い島で、島内には重工業地帯が広がっている。


下関の本土とは、関彦橋(かんげんきょう)、下関漁港[[閘門]](小瀬戸水門)、[[彦島道路|彦島大橋]]の3ルートでつながっている。東側(関門海峡側)の彦島江の浦町には[[山口県道250号南風泊港線]]の一部をなす関彦橋が架かり、[[下関駅]]・[[唐戸]]・[[国道9号]]方面に通じる。関彦橋の250mほど北西の彦島本村町6丁目に下関漁港閘門があり、閘門の上を通行することが可能である。北端の[[響灘]]沿いの彦島迫町には[[彦島道路]]が通っており彦島大橋が架かり、[[国道191号]]・[[東駅]]・[[下関インターチェンジ|下関IC]]方面に通じる。
下関の本土とは、関彦橋(かんげんきょう)、下関漁港[[閘門]](小瀬戸水門)、[[彦島道路|彦島大橋]]の3ルートでつながっている。東側(関門海峡側)の彦島江の浦町には[[山口県道250号南風泊港線]]の一部をなす関彦橋が架かり、[[下関駅]]・[[唐戸]]・[[国道9号]]方面に通じる。関彦橋の250mほど北西の彦島本村町6丁目に下関漁港閘門があり、閘門の上を通行することが可能である。北端の[[響灘]]沿いの彦島迫町には[[彦島道路]]が通っており彦島大橋が架かり、[[国道191号]]・[[東駅]]・[[下関インターチェンジ|下関IC]]方面に通じる。


島内では[[サンデン交通]]がバスを運行している。彦島営業所があり島内各地と市中心部の唐戸・東駅・下関駅を結ぶ便がある。鉄道については、JR[[山陽本線]]の[[関門トンネル (山陽本線)|関門トンネル]]の本州側の入り口があり、線路は通るが[[鉄道駅|駅]]がない。
島内では[[サンデン交通]]がバスを運行している。彦島営業所があり島内各地と市中心部の唐戸・東駅・下関駅を結ぶ便がある。鉄道については、JR[[山陽本線]]の[[関門トンネル (山陽本線)|関門トンネル]]の本州側の入り口があり、線路は通るが[[鉄道駅|駅]]がない。


[[産業]]としては、[[造船]]業や[[重化学工業]]、水産加工業などが盛ん。主な[[企業]]として、[[三菱重工業]][[三菱重工業下関造船所|下関造船所]]・[[下関三井化学]] ([[三井化学]]関連会社、旧・三井東圧化学彦島工場)・ 彦島製錬([[三井金属]]関連会社) などがある。
産業としては、[[造船]]業や重化学工業、[[水産加工業]]などが盛ん。主な企業として、[[三菱重工業]][[三菱重工業下関造船所|下関造船所]]・[[下関三井化学]] ([[三井化学]]関連会社、旧・三井東圧化学彦島工場)・ 彦島製錬([[三井金属]]関連会社) などがある。

竹の子島や、巌流島(船島)等を含めた彦島地区の面積は11.26&nbsp;km²(下関市役所ホームページによる)。


== 地名 ==
== 地名 ==
* 地名については『[[日本書紀]]』に「'''引島'''」とあるのが初出である。鎌倉時代の文献(『[[吾妻鏡]]』など)に、「彦島」と表記されたものがあり、「引島」と「彦島」と通りの表記が共用されながら、やがて「彦島」に統一されるようになった。なぜ「彦島」に統一されたのかは諸説あるが、一例として、「[[壇ノ浦の戦い]]の時に、『引は[[武士]]にとって縁起が悪い』とされ彦島に改められた」という説がある。(参考文献『下関の地名(増補改訂版)』)
地名については『[[日本書紀]]』の「仲哀紀」に「'''引島'''」とあるのが初出である{{r|kb-Nipp|"kb平百"}}<ref name="下関の地名 2001">{{Harvnb|『下関の地名』|2001|p=}} {{要ページ番号|date=2020年5月29日}}</ref>{{Sfn|彦島八幡宮 由緒}}「引島」「'''ヒクシマ'''」の名は古代から多くの[[和歌]]や[[紀行]]に詠まれる{{r|kb-MyPedia|"kb平百"}}。[[鎌倉時代]]の文献(『[[吾妻鏡]]』など)に、「彦島」と表記されたものがあり{{Sfn|彦島八幡宮 由緒}}、「引島」と「彦島」と2通りの表記が共用されながら、やがて「彦島」に統一されるようになった{{r|"下関の地名 2001"}}。なぜ「彦島」に統一されたのかは諸説あるが、一例として、「[[壇ノ浦の戦い]]の時に、『引は[[武士]]にとって縁起が悪い』とされ彦島に改められた」という説がある{{r|"下関の地名 2001"}}。


== 史的エピソード ==
== 史的事象 ==
=== 彦島西山の化石層 ===
* [[瀬戸内海]]の制海権を握った[[伊勢平氏|平家]]にとって重要な拠点の一つであり、実際に[[壇ノ浦の戦い]]の際には平家が本陣を置いた。また、平家ゆかりの話としては、[[厳島神社]]の建設にあたって安芸[[厳島|宮島]]と並んで最終候補地になったが『七里七浦七曲がり』の条件のうち、僅かに長さが足りずに選ばれなかったとも伝えられる。(ただし、実際には厳島神社自体は平氏が社殿を築く以前から存在する。)
彦島西山の化石層は、[[新生代]][[古第三紀]][[漸新世]][[チャッティアン]](約2500万年前)の地層であり、彦島西山海岸(管理住所は彦島西山町2-6-7)に分布する<ref name="化石" group="gm">彦島西山の化石層({{googlemap|彦島西山の化石層}})※該当施設は赤色でスポット表示される。</ref>。海洋生物等の[[化石]]を多く産する。[[1971年]](昭和46年)7月22日、下関市指定文化財([[天然記念物]])となった。史跡。
* [[保元の乱]]に敗れた[[河野通次]]、[[治承・寿永の乱|源平合戦]]に敗れた平家の残党が彦島に移住し、彦島[[開拓]]の礎を築いた。彼らは、河野通次を筆頭に『彦島十二苗祖(びょうそ)』と呼ばれる。現在彦島において『河野』姓や『百合野』姓は彦島の典型で、岡野、小ケ原、和田などは、河野を大元の出自とする。
* 幕末、[[下関戦争|馬関戦争]]の[[平和条約|講和条約]]の際に[[香港]]の如く[[租借地]]になりかけたが、正使の[[高杉晋作]]が突っぱねたため助かったとされる(宍戸桂馬に扮してイギリスの[[オーガスタス・レオポルド・キューパー|キューパー]]と交渉)。実際には藩主から『租借もやむなし』と言われていたが、これを託かった通訳の[[伊藤博文]]が高杉に伝えなかったためという説(後の伊藤自身による回顧)や、そもそも[[イギリス]]側からそんな話は出なかったという説(イギリス側の会議議事録)もあり、判然としない。この話の初出が伊藤の後年の回想録であるため、古川薫はこの話が真実かどうかは不明であるとしている<ref>古川薫『幕末長州の攘夷戦争』(中央公論社)p198-205</ref>。


=== 七里七浦七曲りに足りず ===
== 観光 ==
[[瀬戸内海]]の制海権を握った平家([[伊勢平氏]])にとって重要な拠点の一つであり、実際に[[壇ノ浦の戦い]]の際には平家が[[本陣]]を置いた。また、平家ゆかりの話としては、[[厳島神社]]の建設にあたって[[安芸国]]の[[厳島]]と並んで最終候補地になったが、「七里七浦七曲り」の条件のうち、わずかに長さが足りずに選ばれなかったとも伝えられる。<!--ただし、実際には厳島神社自体は平氏が社殿を築く以前から存在する。|※以前から社があったからと言って、それは平家に選定されること関係ないはず。なので「但し」以下は不要。-->
[[File:Haedomariitiba.jpg|thumb|南風泊市場]]

* 南風泊(はえどまり)市場…[[フグ]]の取扱量全国一位。
=== 清盛塚 ===
[[ファイル:清盛塚(彦島).jpg|thumb|彦島の清盛塚につながる石標<!--コモンズの解説文「JR下関駅バス杉田停留所から」云々は日本語として不完全で表示に適さない。-->]]
{{Also|平清盛#墓所}}
彦島の清盛塚は、[[平清盛]]の[[墓所]]と伝えられている場所の一つである<ref name="PressmanUnion_彦島清盛塚">{{Cite web |author= |date= |title=彦島・清盛塚 |url=https://tabi-mag.jp/ya0321/ |publisher=一般社団法人プレスマンユニオン |work=ニッポン旅マガジン |accessdate=2020-05-29 }}</ref><ref name="源平史蹟_彦島清盛塚">{{Cite web |title=清盛塚<山口県下関市> |url=https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/kiyomoriduka_y/ |website=非公式ウェブサイト |work=源平史蹟の手引き |accessdate=2020-05-29 }}※案内看板の画像など、現地情報あり。</ref>。彦島江の浦町4-15に所在<ref group="gm">彦島 清盛塚({{googlemap|彦島_清盛塚}})※上に同じ。</ref>。[[史跡]]。

[[寿永]]3年([[1183年]])、時の[[中納言]]・[[平知盛]]は亡き父・清盛の[[遺骨]]を携えて彦島に入り、平家最後の砦・根緒城(彦島城)の築城に取りかかり、砦と定めたこの丘陵の小高い場所に納骨して[[墓碑]]を建立したとされる{{r|"PressmanUnion_彦島清盛塚"}}。知盛も平家も虚しくなった後、墓碑は永年無銘のまま荒地に放置され続けた{{r|"PressmanUnion_彦島清盛塚"}}。彦島には平家の塚が数か所あったとされる{{r|"PressmanUnion_彦島清盛塚"}}。地元の有志達が動いたのは1929年(昭和4年){{r|"PressmanUnion_彦島清盛塚"}}。道を整備し、現存する墓碑には郷土史家の指示で「清盛塚」と刻まれた{{r|"PressmanUnion_彦島清盛塚"}}。<!--JR下関駅バス杉田停留所から…には、清盛塚に係る石造の[[道標]]が遺る。-->

=== きぬかけ岩 ===
{{節スタブ|date=2020年5月29日}}
小瀬戸({{small|こせと}})に面した彦島老町2-24-7地先に所在する岩場で<ref name="きぬかけ岩" group="gm">きぬかけ岩 平家伝説({{googlemap|きぬかけ岩_平家伝説}})※上に同じ。</ref>、[[壇ノ浦の戦い]]の後、敗れた平家方の一[[武将]]とその妻がこの地で追っ手に追い詰められ、二人は最早これまでと海に身を投げたものの、妻だけは漁師に助けられて息を吹き返した。それからというもの、夫を亡くした女は魂が抜けたようになって辺りを彷徨い歩くようになったが、雨風の酷いある日、小瀬戸の岩場に立つと纏っていた衣を脱ぎ、[[合掌]]して荒れ狂う海に身を投じた。女はそのまま海中に消えてしまったが、不思議なことに衣は激しい風に吹き飛ばされることもなくいつまでも岩に掛かっていたという。それ以来、誰言うとなくこの岩を「きぬかけ岩」「きぬかけ石」「身投げ岩」などと呼ぶようになった。<!--※大勢の女官や雑仕女がここから身を投げたという解説もありますが、異伝ということでしょうか。-->

=== 彦島十二苗祖 ===
[[保元の乱]]に敗れた[[河野通次]]や、[[治承・寿永の乱]](源平合戦)に敗れた平家([[伊勢平氏]])の残党([[落武者]]達)が彦島に移住し、彦島[[開拓]]の礎を築いた{{r|"kb平百"}}<ref name="毎日_20160926">{{Cite news |和書 |date=2016-09-26 |title=支局長評論 下関 伝統の味わい /山口 |url=https://mainichi.jp/articles/20160926/ddl/k35/070/350000c |publisher=[[毎日新聞社]] |newspaper=[[毎日新聞]] |accessdate=2020-05-29 }}</ref>。彼らは、河野通次を筆頭に「彦島十二苗祖(ひこしま じゅうにびょうそ)」と呼ばれる{{r|"毎日_20160926"}}{{Sfn|彦島八幡宮 由緒}}。現在彦島において「河野」姓や「百合野」姓は彦島の典型で、岡野、小ヶ原、和田などは、河野を大元の出自とする。

=== 彦島八幡宮 ===
彦島八幡宮は彦島全島の総[[鎮守]]である。彦島迫町5-12-9に鎮座<ref name="彦島八幡宮" group="gm">彦島八幡宮({{googlemap|彦島八幡宮}})※上に同じ。</ref>。[[平安時代]]後期にあたる[[平治]]元年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]]([[1159年]][[11月26日]])のこと、[[河野通次]]自らが祭主となり、[[宇佐神宮]]より[[勧請]]されて創建された{{Sfn|彦島八幡宮 由緒}}。「灘八幡」とも呼ばれ、宮の沖合を通過する船は必ず半帆の札をとったといわれる{{Sfn|彦島八幡宮 由緒}}。このことから造船・漁業関係者からの篤い信仰を集める{{Sfn|彦島八幡宮 由緒}}。安産の神としても知られ、「子安八幡」とも呼ばれる{{Sfn|彦島八幡宮 由緒}}。

=== 貴布祢神社 ===
彦島老町1-11-13に鎮座する貴布祢神社(きふねじんじゃ)<ref name="貴布祢神社" group="gm">下関市 貴布祢神社({{googlemap|下関市_貴布祢神社}})※上に同じ。</ref>は、[[京都]]の[[貴船神社]]を[[総本社]]とする。社伝によれば[[鎌倉時代]]中期にあたる[[弘安]]元年([[1278年]])の創建という<ref name="八幡宮 廻り">{{Harvnb|彦島八幡宮 彦島めぐり}}</ref>。「牛の宮」と呼ばれ、牛馬安全を祈る社としてかつては大いに繁栄していた{{r|"八幡宮 廻り"}}。

[[ファイル:Cku-74-24 c16 25-Ganryujima.JPG|thumb|170px|巌流島/1974年(昭和49年)撮影の[[空中写真]]。]]
=== 巌流島 ===
{{Main|巌流島}}
[[関門海峡]]に浮かぶ[[無人島]]で<ref name="船島" group="gm" />、元来の名称は「船島(ふなしま)」であるが、[[安土桃山時代]]末の[[慶長]]17年([[1612年]])に[[宮本武蔵]]と[[佐々木小次郎]]の[[決闘]]が行われた島として広く知られるようになり、小次郎の[[流派]]である「岩流」(異字で巌流とも記す)にちなんだ「巌流島」という通称のほうが有名になった。

=== 塩釜神社 ===
塩浜(彦島塩浜町<ref group="gm">彦島塩浜町({{googlemap|彦島塩浜町}})※該当地域は赤色で囲い表示される。</ref>)では[[江戸時代]]後期まで[[塩田]]が営まれ、塩田の[[守護神]]として塩釜神社が祀られていた{{r|"八幡宮 廻り"}}。[[祭神]]の[[シオツチノオジ|塩土神]]({{small|しおつちのかみ}})は海の神で塩の精製法を伝授したという{{r|"八幡宮 廻り"}}。

=== 金刀比羅宮 ===
江戸時代後期、[[毛利元義]]が海防と福浦湾の繁栄を図るため、[[郡代]]・[[水野忠実]]に命じて[[長府]][[忌宮神社]]の境内[[末社]]であった金刀比羅宮を、[[文政]]3年([[1820年]])に現在の彦島福浦町湾頭兜山(富観台)へ遷座させたものである。

=== 高杉晋作 ===
[[幕末]]、馬関戦争([[下関戦争]])の[[平和条約|講和条約]]の際に彦島は[[香港]]の如く[[租借地]]になりかけたが、正使の[[高杉晋作]]が突っぱねたため助かったとされる(宍戸桂馬に扮してイギリスの[[オーガスタス・レオポルド・キューパー|キューパー]]と交渉){{Sfnp|古川|1996|pp=198-205}}。実際には藩主から「租借もやむなし」と言われていたが、これを託かった通訳の[[伊藤博文]]が高杉に伝えなかったためという説(後の伊藤自身による回顧)や、そもそも[[イギリス]]側からそのような話は出なかったという説(イギリス側の会議議事録)もあり、判然としない{{Sfnp|古川|1996|pp=198-205}}。この話の初出が伊藤の後年の回想録であるため、古川薫はこの話が真実かどうかは不明であるとしている{{Sfnp|古川|1996|pp=198-205}}。

=== 金ノ弦岬灯台 ===
{{Main|金ノ弦岬灯台}}
金ノ弦岬(かねのつるみさき)は彦島の最南端にある岬で、ここで長年稼働していたのが金ノ弦岬灯台である{{r|Lighthouse-Japan|"日本遺産_灯台"|"あまくさ_灯台"}}<ref name="灯台" group="gm">金ノ弦岬灯台({{googlemap|金ノ弦岬灯台}})※該当施設は赤色でスポット表示される。</ref>。所在地住所は彦島田の首町2-25。今はもう[[灯台]]ではないので正確には「旧金ノ弦岬灯台」という。

彦島本島は[[関門海峡]]に大きく突き出した地形になっている。北以外の三方を海峡に囲まれている島とも言えるが、その最南端付近の海域には多くの沈瀬({{small|しずみせ}})が潜んでおり、航行には厄介な場所であった。この問題を解決するべく[[明治4年]]([[1871年]])7月に岩礁の上に礁標({{small|しょうひょう}}。現代用語では俎立標〈昼標〉)が設置された{{Sfnp|『日本灯台史』|1969}}{{Sfnp|『日本航路標識便覽表』|1924|loc=「俎立標(昼標)」}}。『日本灯台史』には「わが国最初の立標は、明治4年7月完成した関門海峡にある與次兵衛、鳴瀬、俎の3立標で、いずれも石造であった」と記している{{Sfnp|『日本燈台史』|1969}}。鳴瀬は金ノ弦岬の東側の海域、俎瀬は西側の海域の名称である。與次兵衛(与次兵衛)は、鳴瀬よりずっと東の方、彦島水雷衛所跡<ref name="水雷" group="gm">彦島水雷衛所跡({{googlemap|彦島水雷衛所跡}})※上に同じ。</ref>の真東の海上に「與次兵衛岩(与次兵衛岩)」という地名があるので、その周辺であろう。設計者は「日本の灯台の父」[[リチャード・ブラントン]]。[[1890年]](明治23年)に昼夜灯の挂灯立標({{small|けいとうりっぴょう}}。現代用語では灯標)へ改変され{{Sfnp|『東洋灯台表』|1926|loc=「金ノ弦岬灯台」}}、当施設の初点灯となったが{{Sfnp|『東洋灯台表』|1926|loc=「金ノ弦岬灯台」}}<ref group="注">明治4年(1871年)7月初点灯としている資料が多いが、1890年(明治23年)まではただの立標で、灯標になって初めて点灯している。</ref>、この変更は国内2例目とおいう早さであった。その後、挂灯立標は海峡の改良工事のために撤去され、[[1920年]](大正9年)には石造の基礎を新設したうえで白塗円形石造で現在地に移築された{{Refnest|group="注"|『東洋灯台表』の「金ノ弦岬灯台」には「明暗 白/明3秒 暗3秒」「白塗圓形石造」とあり、初点灯は「大正9」とある{{Sfnp|『東洋灯台表』|1926|loc=「金ノ弦岬灯台」}}。}}。[[2000年]](平成12年)には海峡に[[灯浮標]]が整備され、灯台は役割を終えて6月8日付で消灯し、[[2002年]](平成14年)3月31日に廃灯となった。[[2003年]](平成15年)には所有者が[[海上保安庁]]から[[下関市]]に移った。下関市指定[[重要文化財]]。

=== 彦島水雷衛所 ===
[[日露戦争]]の勃発により、ロシアの[[バルチック艦隊]]が関門海峡に侵攻して来た際の備えとして、航路に設置した有線水雷を発火させるための施設(※有線水雷と呼ばれる浮漂水雷や電気触発水雷を、湾の入り口や海峡に線状に幾つか設置し、衛所から監視し、視発弧器〈照準器のような計器〉で敵艦の方位測定を行い、敵艦の真下の水雷〈管制水雷、視発水雷ともいう〉を電気的に爆破させる施設)。現在は史跡「彦島水雷衛所跡」となっている<ref name="しものせき_201606">{{Cite web |date=2016-06 |title=下関港紹介① 新港地区(長州出島)みなと歴史探訪①日露戦争の遺産 水雷防波堤 - 『しものせき Port News 平成28年6月 Vol.1』 |url=https://www.pa.qsr.mlit.go.jp/shimonoseki/img/shimonoseki_port_news_vol1.pdf |publisher=[[国土交通省]] 九州地方整備局 下関港湾事務所 |website=公式ウェブサイト |format=PDF |accessdate=2020-05-30 }}</ref><ref name="水雷" group="gm" />。所在地の現在の住所は彦島弟子待町3-1。[[1905年]](明治38年)の[[日本海海戦]]で日本艦隊がバルチック艦隊を撃破したため、彦島水雷衛所は一度も使われずに役目を終えた{{r|"しものせき_201606"}}。1991年(平成3年)の[[平成3年台風第19号|台風19号]]で大破し、その後、復元されたが、さらに時が経過して今では半壊状態になっており、[[防波堤]]と火薬庫であった[[煉瓦]]積みのトンネルだけが残っている{{r|"しものせき_201606"}}。

付近には[[文久]]3年([[1863年]])の馬関戦争([[下関戦争]])に備えて造られた[[砲台]]の遺構である石垣も見られる。

=== 門司検疫所彦島措置場 ===
海外からの入国者に対して[[伝染病]]を日本国内に持ち込まないように[[検疫]]を行う門司検疫所の一施設で、[[コレラ]]の消毒業務を行う「内務省下ノ関消毒所」として[[1885年]](明治18年)に開設された。所在していた場所は現在住所で彦島江の浦町7丁目。[[1915年]](大正4年)になって本格的施設が竣工する。[[1941年]](昭和16年)からは[[中国人]]強制連行者・[[捕虜]]検疫施設として利用された。[[1943年]](昭和18年)からは彦島疾病兵捕虜収容所として利用された。 [[第二次世界大戦後]]には[[引き上げ]]援護局として利用されている。[[1951年]](昭和26年)に門司検疫所彦島措置場となった。[[1976年]](昭和51年)にコレラ患者6人が収容されたのを最後に措置場としての機能を終え、[[1999年]](平成11年)3月に閉鎖された。[[2001年]](平成13年)末に解体され、跡地は再開発されている。

=== 下関漁港閘門 ===
{{節スタブ|date=2020年5月30日}}

== 史跡・観光地等 ==
[[ファイル:Suimon Shimonoseki-Hikoshima.JPG|thumb|right|220px|彦島(左手)と本州を結ぶ下関漁港閘門(小瀬戸水門)。山の上にある学校は[[山口県立下関中等教育学校|下関中等教育学校]]。]]
[[ファイル:Haedomariitiba.jpg|thumb|南風泊市場]]
* 彦島西山の化石層 <ref name="化石" group="gm" />
* 船島([[巌流島]])<ref name="船島" group="gm" />
* 彦島宮の原遺跡 - 彦島八幡宮境内にある[[縄文時代]]前期・中期の集落遺跡{{r|kb-Nipp}}{{Sfn|彦島八幡宮 ペトログラフ}}。
* 彦島杉田岩刻画(ペトログラフ){{Sfn|彦島八幡宮 ペトログラフ}} - 下関市指定有形文化財(考古資料)。彦島江の浦町5-12に所在<ref group="gm">彦島杉田岩刻画({{googlemap|彦島杉田岩刻画}})※上に同じ。</ref>。
* きぬかけ岩 - 「きくかけ石」「身投げ岩」ともいう。<ref name="きぬかけ岩" group="gm" />
* 小戸海岸
* 彦島八幡宮 <ref name="彦島八幡宮" group="gm" />
* 貴布祢神社 <ref name="貴布祢神社" group="gm" />
* (頭兜山の)金刀比羅宮
* 恵比須神社 - 彦島海士郷町7-6に鎮座。
* 塩釜神社
* 旧・金ノ弦岬灯台 <ref name="灯台" group="gm" />
* 彦島水雷衛所跡 <ref name="水雷" group="gm" />
* 下関漁港閘門(小瀬戸水門) - ■右に画像あり。
* 南風泊漁港
* 南風泊市場(はえどまり しじょう) - [[フグ]]の取扱量全国一位。■右に画像あり。
* 西山海水浴場(ひこっとらんどマリンビーチ)
* 西山海水浴場(ひこっとらんどマリンビーチ)
* 福浦貯木場跡
* 福浦貯木場跡
* 老の山公園
* 老の山公園
* 彦島南公園
* 彦島南公園
* 彦島八幡宮
* 貴船神社
* 海士郷 牡蠣小屋
* 海士郷 牡蠣小屋
* 身投げ岩
* 小戸海岸


== 公共施設・機関 ==
== 公共施設・機関 ==
* [[山口県立下関中等教育学校]]
* [[山陽本線]]
* [[山口県道252号福浦港金比羅線]]
* 彦島大橋
* 下関市西消防署
* [[山口県立下関中等教育学校]] - 彦島老町2-21-1に所在。
* 下関市立玄洋中学校
* 下関市立彦島中学校
* 下関市立本村小学校
* 下関市立江浦小学校
* 下関市立角倉小学校
* 下関市立向井小学校

* 下関市立彦島図書館
* 下関市立彦島図書館
* 下関漁港閘門(小瀬戸水門)
* 彦島公民館
* 彦島公民館
* 下関市西消防署
* 彦島地区公園
* 彦島地区公園
** 彦島体育館
** 彦島体育館
114行目: 186行目:


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
; Googleマップ
{{Reflist|2|group="gm"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|
<ref name=kb-Brit>{{Cite web |title=彦島 |url=https://kotobank.jp/word/彦島-119503 |author=『[[ブリタニカ百科事典|ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』|publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2020-05-30 }}</ref>
<ref name="kb泉">{{Cite web |title=彦島 |url=https://kotobank.jp/word/彦島-119503 |author=[[小学館]]『デジタル[[大辞泉]]』|publisher=コトバンク |accessdate=2020-05-30 }}</ref>
<ref name="kb林">{{Cite web |title=彦島 |url=https://kotobank.jp/word/彦島-119503 |author=[[三省堂]]『[[大辞林]]』第3版 |publisher=コトバンク |accessdate=2020-05-30 }}</ref>
<ref name=kb-MyPedia>{{Cite web |title=彦島 |url=https://kotobank.jp/word/彦島-119503 |author=[[平凡社]]『[[百科事典マイペディア]]』|publisher=コトバンク |accessdate=2020-05-30 }}</ref>
<ref name="kb平百">{{Cite web |title=彦島 |url=https://kotobank.jp/word/彦島-119503 |author=[[日立デジタル平凡社]]『[[世界大百科事典]]』第2版 |publisher=コトバンク |accessdate=2020-05-30 }}</ref>
<ref name=kb-Nipp>{{Cite web |title=彦島 |url=https://kotobank.jp/word/彦島-119503 |author=三浦肇、小学館『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』|publisher=コトバンク |accessdate=2020-05-30 }}</ref>

<ref name=Lighthouse-Japan>{{Cite web |title=5441 金ノ弦岬灯台(廃止)|url=https://lighthouse-japan.com/yamaguchi/kanenotsurumisaki/kanenotsurumisaki.html |website=Lighthouse-Japan.com |accessdate=2020-05-30 }}</ref>
<ref name="日本遺産_灯台">{{Cite web |title=No-38 旧金ノ弦岬灯台 |url=https://www.japanheritage-kannmon.jp/bunkazai/index.cfm?id=38 |website=日本遺産 関門"ノスタルジック"海峡 ~時の停車場、近代化の記憶~ |accessdate=2020-05-30 }}</ref>
<ref name="あまくさ_灯台">{{Cite web |author= |date= |title=金ノ弦岬灯台 |url=http://www.nogamidensetu.co.jp/toudai/yamaguchi/kanenotsutru.html |website=日本の宝島「あまくさ」|accessdate=2020-05-30 }}</ref>
refs=}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite book |和書 |author=[[古川薫]] |date=1996-01-01 |title=幕末長州藩の攘夷戦争―欧米連合艦隊の来襲 |publisher=[[中央公論社]] |series=[[中公新書]] 1285 |oclc=674834393 |ref={{SfnRef|古川|1996}} }}ISBN 4-12-101285-2、ISBN 978-4-12-101285-2。
* 交詢社編『日本紳士録 第35版附録』交詢社、1931年。
<!--※以下は代表編著者が法人。-->
*{{Cite book |和書 |editor=交詢社編 |date=1931 |title=日本紳士録 第35版附録 |publisher=[[交詢社]] |doi=10.11501/1145759 |ref={{SfnRef|『日本紳士録』|1931}} }}
*{{Cite book |和書 |editor=航路標識管理所編 |date=1920年8月作成、1924年3月最終改正 |title=日本航路標識便覽表 |publisher=航路標識管理所 |ncid=BA36736038 |ref={{SfnRef|『日本航路標識便覽表』|1924}} }}
*{{Cite book |和書 |editor=下関市教育委員会編 |date=2001 |title=下関の地名 |edition=増補改訂版 |publisher=下関市教育委員会 |oclc= |ref={{SfnRef|『下関の地名』|2001}} }}
*{{Cite book |和書 |editor=海軍省水路局編 |date=1908年(明治41年)|title=東洋灯台表(下巻)|publisher=[[海軍省]]水路局 |asin=B0096H6LV0 |ref={{SfnRef|『東洋灯台表(下巻)』|1908}} }}
*{{Cite book |和書 |editor=海軍省水路部編 |date=1926年1月1日(大正13年)|title=東洋灯台表 |publisher=海軍省[[水路部 (日本海軍)|水路部]] |asin=B0096H6LV0 |ref={{SfnRef|『東洋灯台表』|1926}} }}
*{{Cite book |和書 |editor=海上保安庁灯台部編 |date=1969-01-01 |title=日本燈台史―100年の歩み |publisher=灯光会、中央公論事業出版 |asin=B000JA1FXM |ref={{SfnRef|『日本灯台史』|1969}} }}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
127行目: 223行目:


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.city.shimonoseki.lg.jp/www/contents/1106280599701/index.html 彦島の概要] - 下関市
* {{Cite web |date=2019-11-30 |title=彦島の概要 |url=http://www.city.shimonoseki.lg.jp/www/contents/1106280599701/index.html |publisher=下関市 |website=公式ウェブサイト |accessdate=2020-05-29 |ref={{SfnRef|下関市 20191130}} }}
* {{Cite web |title=御由緒 |url=http://www.hikoshima-guu.net/yuisyo.html |publisher=彦島八幡宮 |website=公式ウェブサイト |accessdate=2020-05-29 |ref={{SfnRef|彦島八幡宮 由緒}} }}
* [http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/kanko/frame/mapguide_hikosima.html マップガイド] - しものせき観光ホームページ
* {{Cite web |title=彦島めぐり |url=http://www.hikoshima-guu.net/meguri.html#09 |publisher=彦島八幡宮 |website=公式ウェブサイト |accessdate=2020-05-29 |ref={{SfnRef|彦島八幡宮 彦島めぐり}} }}
* [http://www.hikoshima.com/index.htm 日子の島(※彦島を紹介した個人のページ)]
* {{Cite web |title=ペトログラフ |url=http://www.hikoshima-guu.net/petoro.html |publisher=彦島八幡宮 |website=公式ウェブサイト |accessdate=2020-05-30 |ref={{SfnRef|彦島八幡宮 ペトログラフ}} }}
* [http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/kanko/frame/mapguide_hikosima.html マップガイド] - しものせき観光ホームページ {{リンク切れ|date=2020年5月29日}}
* [http://www.hikoshima.com/index.htm 日子の島(※彦島を紹介した個人のページ)]{{リンク切れ|date=2020年5月29日}}


{{下関市の地区}}
{{下関市の地区}}

2020年6月8日 (月) 00:38時点における版

彦島
関門海峡および彦島(左端)
所在地 日本の旗 日本山口県
所在海域 関門海峡
座標 北緯33度56分14秒 東経130度54分52秒 / 北緯33.93722度 東経130.91444度 / 33.93722; 130.91444座標: 北緯33度56分14秒 東経130度54分52秒 / 北緯33.93722度 東経130.91444度 / 33.93722; 130.91444
面積 9.8 km²
最高標高 111.8 m
最高峰 大山
彦島の位置(山口県内)
彦島
彦島
彦島 (山口県)
彦島の位置(日本内)
彦島
彦島
彦島 (日本)
プロジェクト 地形
テンプレートを表示

彦島(ひこしま)は、日本中国地方西部の、山口県下関市の南端にある陸繋島[1][2][3]本州最西端部のの一つ。関門海峡に周囲を囲まれた島。かつては大瀬戸と小瀬戸の間の島であったが、小瀬戸が埋立てられた1937年(昭和12年)以来、人工の陸繋島となっている[1]。本州と九州が関門海峡によって分断されている地形にあって、九州側へ深く入り込んだ本州側の西南端部に当たる地域

また、歴史地名としては、近世における長門国豊浦郡彦島、江戸幕藩体制下の長門府中藩知行彦島を指す。

現在行政区画においては、旧・彦島村、旧・彦島町に相当する[4]、下関市彦島(下関市役所支所設置条例で示された下関市役所彦島支所の所管する区域)をいう。この場合、彦島本島のほか、響灘に浮かぶ六連島(むつれじま)[gm 1]、彦島の至近にある竹ノ子島(たけのこじま、彦島と道路橋で接続)[gm 2]、船島(通称巌流島[gm 3]の3島を含む。

地域概要

彦島
ひこしま
日章旗 日本
地方 中国地方
都道府県 山口県
自治体 下関市
旧自治体 彦島町
面積
11.26km²
世帯数
12,658世帯
総人口
24,979
登録人口、2020年(令和2年)4月末時点)
人口密度
2,218.38人/km²
下関市役所彦島支所
所在地 〒750-0075
山口県下関市彦島江の浦町一丁目3番1号
テンプレートを表示

竹の子島や船島(巌流島)等を含めた彦島地区の面積は11.26 km² [5]。2020年(令和2年)4月末時点での人口は 24,979人[6]と、本州北海道九州四国沖縄本島などを除くと日本有数の人口の多い島で、島内には重工業地帯が広がっている。

下関の本土とは、関彦橋(かんげんきょう)、下関漁港閘門(小瀬戸水門)、彦島大橋の3ルートでつながっている。東側(関門海峡側)の彦島江の浦町には山口県道250号南風泊港線の一部をなす関彦橋が架かり、下関駅唐戸国道9号方面に通じる。関彦橋の250mほど北西の彦島本村町6丁目に下関漁港閘門があり、閘門の上を通行することが可能である。北端の響灘沿いの彦島迫町には彦島道路が通っており、彦島大橋が架かり、国道191号東駅下関IC方面に通じる。

島内ではサンデン交通がバスを運行している。彦島営業所があり、島内各地と市中心部の唐戸・東駅・下関駅を結ぶ便がある。鉄道については、JR山陽本線関門トンネルの本州側の入り口があり、線路は通るががない。

産業としては、造船業や重化学工業、水産加工業などが盛ん。主な企業として、三菱重工業下関造船所下関三井化学三井化学関連会社、旧・三井東圧化学彦島工場)・ 彦島製錬(三井金属関連会社) などがある。

地名

地名については『日本書紀』の「仲哀紀」に「引島」とあるのが初出である[4][7][8][9]。「引島」「ヒクシマ」の名は古代から多くの和歌紀行に詠まれる[10][7]鎌倉時代の文献(『吾妻鏡』など)に、「彦島」と表記されたものがあり[9]、「引島」と「彦島」と2通りの表記が共用されながら、やがて「彦島」に統一されるようになった[8]。なぜ「彦島」に統一されたのかは諸説あるが、一例として、「壇ノ浦の戦いの時に、『引は武士にとって縁起が悪い』とされ彦島に改められた」という説がある[8]

歴史的事象

彦島西山の化石層

彦島西山の化石層は、新生代古第三紀漸新世チャッティアン(約2500万年前)の地層であり、彦島西山海岸(管理住所は彦島西山町2-6-7)に分布する[gm 4]。海洋生物等の化石を多く産する。1971年(昭和46年)7月22日、下関市指定文化財(天然記念物)となった。史跡。

七里七浦七曲りに足りず

瀬戸内海の制海権を握った平家(伊勢平氏)にとって重要な拠点の一つであり、実際に壇ノ浦の戦いの際には平家が本陣を置いた。また、平家ゆかりの話としては、厳島神社の建設にあたって安芸国厳島と並んで最終候補地になったが、「七里七浦七曲り」の条件のうち、わずかに長さが足りずに選ばれなかったとも伝えられる。

清盛塚

彦島の清盛塚につながる石標

彦島の清盛塚は、平清盛墓所と伝えられている場所の一つである[11][12]。彦島江の浦町4-15に所在[gm 5]史跡

寿永3年(1183年)、時の中納言平知盛は亡き父・清盛の遺骨を携えて彦島に入り、平家最後の砦・根緒城(彦島城)の築城に取りかかり、砦と定めたこの丘陵の小高い場所に納骨して墓碑を建立したとされる[11]。知盛も平家も虚しくなった後、墓碑は永年無銘のまま荒地に放置され続けた[11]。彦島には平家の塚が数か所あったとされる[11]。地元の有志達が動いたのは1929年(昭和4年)[11]。道を整備し、現存する墓碑には郷土史家の指示で「清盛塚」と刻まれた[11]

きぬかけ岩

小瀬戸(こせと)に面した彦島老町2-24-7地先に所在する岩場で[gm 6]壇ノ浦の戦いの後、敗れた平家方の一武将とその妻がこの地で追っ手に追い詰められ、二人は最早これまでと海に身を投げたものの、妻だけは漁師に助けられて息を吹き返した。それからというもの、夫を亡くした女は魂が抜けたようになって辺りを彷徨い歩くようになったが、雨風の酷いある日、小瀬戸の岩場に立つと纏っていた衣を脱ぎ、合掌して荒れ狂う海に身を投じた。女はそのまま海中に消えてしまったが、不思議なことに衣は激しい風に吹き飛ばされることもなくいつまでも岩に掛かっていたという。それ以来、誰言うとなくこの岩を「きぬかけ岩」「きぬかけ石」「身投げ岩」などと呼ぶようになった。

彦島十二苗祖

保元の乱に敗れた河野通次や、治承・寿永の乱(源平合戦)に敗れた平家(伊勢平氏)の残党(落武者達)が彦島に移住し、彦島開拓の礎を築いた[7][13]。彼らは、河野通次を筆頭に「彦島十二苗祖(ひこしま じゅうにびょうそ)」と呼ばれる[13][9]。現在彦島において「河野」姓や「百合野」姓は彦島の典型で、岡野、小ヶ原、和田などは、河野を大元の出自とする。

彦島八幡宮

彦島八幡宮は彦島全島の総鎮守である。彦島迫町5-12-9に鎮座[gm 7]平安時代後期にあたる平治元年10月15日1159年11月26日)のこと、河野通次自らが祭主となり、宇佐神宮より勧請されて創建された[9]。「灘八幡」とも呼ばれ、宮の沖合を通過する船は必ず半帆の札をとったといわれる[9]。このことから造船・漁業関係者からの篤い信仰を集める[9]。安産の神としても知られ、「子安八幡」とも呼ばれる[9]

貴布祢神社

彦島老町1-11-13に鎮座する貴布祢神社(きふねじんじゃ)[gm 8]は、京都貴船神社総本社とする。社伝によれば鎌倉時代中期にあたる弘安元年(1278年)の創建という[14]。「牛の宮」と呼ばれ、牛馬安全を祈る社としてかつては大いに繁栄していた[14]

巌流島/1974年(昭和49年)撮影の空中写真

巌流島

関門海峡に浮かぶ無人島[gm 3]、元来の名称は「船島(ふなしま)」であるが、安土桃山時代末の慶長17年(1612年)に宮本武蔵佐々木小次郎決闘が行われた島として広く知られるようになり、小次郎の流派である「岩流」(異字で巌流とも記す)にちなんだ「巌流島」という通称のほうが有名になった。

塩釜神社

塩浜(彦島塩浜町[gm 9])では江戸時代後期まで塩田が営まれ、塩田の守護神として塩釜神社が祀られていた[14]祭神塩土神しおつちのかみ)は海の神で塩の精製法を伝授したという[14]

金刀比羅宮

江戸時代後期、毛利元義が海防と福浦湾の繁栄を図るため、郡代水野忠実に命じて長府忌宮神社の境内末社であった金刀比羅宮を、文政3年(1820年)に現在の彦島福浦町湾頭兜山(富観台)へ遷座させたものである。

高杉晋作

幕末、馬関戦争(下関戦争)の講和条約の際に彦島は香港の如く租借地になりかけたが、正使の高杉晋作が突っぱねたため助かったとされる(宍戸桂馬に扮してイギリスのキューパーと交渉)[15]。実際には藩主から「租借もやむなし」と言われていたが、これを託かった通訳の伊藤博文が高杉に伝えなかったためという説(後の伊藤自身による回顧)や、そもそもイギリス側からそのような話は出なかったという説(イギリス側の会議議事録)もあり、判然としない[15]。この話の初出が伊藤の後年の回想録であるため、古川薫はこの話が真実かどうかは不明であるとしている[15]

金ノ弦岬灯台

金ノ弦岬(かねのつるみさき)は彦島の最南端にある岬で、ここで長年稼働していたのが金ノ弦岬灯台である[16][17][18][gm 10]。所在地住所は彦島田の首町2-25。今はもう灯台ではないので正確には「旧金ノ弦岬灯台」という。

彦島本島は関門海峡に大きく突き出した地形になっている。北以外の三方を海峡に囲まれている島とも言えるが、その最南端付近の海域には多くの沈瀬(しずみせ)が潜んでおり、航行には厄介な場所であった。この問題を解決するべく明治4年1871年)7月に岩礁の上に礁標(しょうひょう。現代用語では俎立標〈昼標〉)が設置された[19][20]。『日本灯台史』には「わが国最初の立標は、明治4年7月完成した関門海峡にある與次兵衛、鳴瀬、俎の3立標で、いずれも石造であった」と記している[21]。鳴瀬は金ノ弦岬の東側の海域、俎瀬は西側の海域の名称である。與次兵衛(与次兵衛)は、鳴瀬よりずっと東の方、彦島水雷衛所跡[gm 11]の真東の海上に「與次兵衛岩(与次兵衛岩)」という地名があるので、その周辺であろう。設計者は「日本の灯台の父」リチャード・ブラントン1890年(明治23年)に昼夜灯の挂灯立標(けいとうりっぴょう。現代用語では灯標)へ改変され[22]、当施設の初点灯となったが[22][注 1]、この変更は国内2例目とおいう早さであった。その後、挂灯立標は海峡の改良工事のために撤去され、1920年(大正9年)には石造の基礎を新設したうえで白塗円形石造で現在地に移築された[注 2]2000年(平成12年)には海峡に灯浮標が整備され、灯台は役割を終えて6月8日付で消灯し、2002年(平成14年)3月31日に廃灯となった。2003年(平成15年)には所有者が海上保安庁から下関市に移った。下関市指定重要文化財

彦島水雷衛所

日露戦争の勃発により、ロシアのバルチック艦隊が関門海峡に侵攻して来た際の備えとして、航路に設置した有線水雷を発火させるための施設(※有線水雷と呼ばれる浮漂水雷や電気触発水雷を、湾の入り口や海峡に線状に幾つか設置し、衛所から監視し、視発弧器〈照準器のような計器〉で敵艦の方位測定を行い、敵艦の真下の水雷〈管制水雷、視発水雷ともいう〉を電気的に爆破させる施設)。現在は史跡「彦島水雷衛所跡」となっている[23][gm 11]。所在地の現在の住所は彦島弟子待町3-1。1905年(明治38年)の日本海海戦で日本艦隊がバルチック艦隊を撃破したため、彦島水雷衛所は一度も使われずに役目を終えた[23]。1991年(平成3年)の台風19号で大破し、その後、復元されたが、さらに時が経過して今では半壊状態になっており、防波堤と火薬庫であった煉瓦積みのトンネルだけが残っている[23]

付近には文久3年(1863年)の馬関戦争(下関戦争)に備えて造られた砲台の遺構である石垣も見られる。

門司検疫所彦島措置場

海外からの入国者に対して伝染病を日本国内に持ち込まないように検疫を行う門司検疫所の一施設で、コレラの消毒業務を行う「内務省下ノ関消毒所」として1885年(明治18年)に開設された。所在していた場所は現在住所で彦島江の浦町7丁目。1915年(大正4年)になって本格的施設が竣工する。1941年(昭和16年)からは中国人強制連行者・捕虜検疫施設として利用された。1943年(昭和18年)からは彦島疾病兵捕虜収容所として利用された。 第二次世界大戦後には引き上げ援護局として利用されている。1951年(昭和26年)に門司検疫所彦島措置場となった。1976年(昭和51年)にコレラ患者6人が収容されたのを最後に措置場としての機能を終え、1999年(平成11年)3月に閉鎖された。2001年(平成13年)末に解体され、跡地は再開発されている。

下関漁港閘門

史跡・観光地等

彦島(左手)と本州を結ぶ下関漁港閘門(小瀬戸水門)。山の上にある学校は下関中等教育学校
南風泊市場
  • 彦島西山の化石層 [gm 4]
  • 船島(巌流島[gm 3]
  • 彦島宮の原遺跡 - 彦島八幡宮境内にある縄文時代前期・中期の集落遺跡[4][24]
  • 彦島杉田岩刻画(ペトログラフ)[24] - 下関市指定有形文化財(考古資料)。彦島江の浦町5-12に所在[gm 12]
  • きぬかけ岩 - 「きくかけ石」「身投げ岩」ともいう。[gm 6]
  • 小戸海岸
  • 彦島八幡宮 [gm 7]
  • 貴布祢神社 [gm 8]
  • (頭兜山の)金刀比羅宮
  • 恵比須神社 - 彦島海士郷町7-6に鎮座。
  • 塩釜神社
  • 旧・金ノ弦岬灯台 [gm 10]
  • 彦島水雷衛所跡 [gm 11]
  • 下関漁港閘門(小瀬戸水門) - ■右に画像あり。
  • 南風泊漁港
  • 南風泊市場(はえどまり しじょう) - フグの取扱量全国一位。■右に画像あり。
  • 西山海水浴場(ひこっとらんどマリンビーチ)
  • 福浦貯木場跡
  • 老の山公園
  • 彦島南公園
  • 海士郷 牡蠣小屋

公共施設・機関

  • 下関市立彦島図書館
  • 彦島公民館
  • 彦島地区公園
    • 彦島体育館

著名な出身者

政治家・経済人

芸能人

スポーツ選手

脚注

注釈

  1. ^ 明治4年(1871年)7月初点灯としている資料が多いが、1890年(明治23年)まではただの立標で、灯標になって初めて点灯している。
  2. ^ 『東洋灯台表』の「金ノ弦岬灯台」には「明暗 白/明3秒 暗3秒」「白塗圓形石造」とあり、初点灯は「大正9」とある[22]
Googleマップ
  1. ^ 六連島(地図 - Google マップ)※該当地域は赤色でスポット表示される。
  2. ^ 竹ノ子島(地図 - Google マップ)※上に同じ。
  3. ^ a b c 下関市大字彦島 船島(地図 - Google マップ)※上に同じ。
  4. ^ a b 彦島西山の化石層(地図 - Google マップ)※該当施設は赤色でスポット表示される。
  5. ^ 彦島 清盛塚(地図 - Google マップ)※上に同じ。
  6. ^ a b きぬかけ岩 平家伝説(地図 - Google マップ)※上に同じ。
  7. ^ a b 彦島八幡宮(地図 - Google マップ)※上に同じ。
  8. ^ a b 下関市 貴布祢神社(地図 - Google マップ)※上に同じ。
  9. ^ 彦島塩浜町(地図 - Google マップ)※該当地域は赤色で囲い表示される。
  10. ^ a b 金ノ弦岬灯台(地図 - Google マップ)※該当施設は赤色でスポット表示される。
  11. ^ a b c 彦島水雷衛所跡(地図 - Google マップ)※上に同じ。
  12. ^ 彦島杉田岩刻画(地図 - Google マップ)※上に同じ。

出典

  1. ^ a b c ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』. “彦島”. コトバンク. 2020年5月30日閲覧。
  2. ^ a b 小学館『デジタル大辞泉』. “彦島”. コトバンク. 2020年5月30日閲覧。
  3. ^ a b 三省堂大辞林』第3版. “彦島”. コトバンク. 2020年5月30日閲覧。
  4. ^ a b c d 三浦肇、小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』. “彦島”. コトバンク. 2020年5月30日閲覧。
  5. ^ 下関市 20191130.
  6. ^ (2-1)人口と世帯数 最新データ(全市・地区別・町名別 登録人口)”. 公式ウェブサイト. 下関市 (2020年5月18日). 2020年5月29日閲覧。
  7. ^ a b c d 日立デジタル平凡社世界大百科事典』第2版. “彦島”. コトバンク. 2020年5月30日閲覧。
  8. ^ a b c 『下関の地名』 2001 [要ページ番号]
  9. ^ a b c d e f g 彦島八幡宮 由緒.
  10. ^ a b 平凡社百科事典マイペディア』. “彦島”. コトバンク. 2020年5月30日閲覧。
  11. ^ a b c d e f 彦島・清盛塚”. ニッポン旅マガジン. 一般社団法人プレスマンユニオン. 2020年5月29日閲覧。
  12. ^ 清盛塚<山口県下関市>”. 非公式ウェブサイト. 源平史蹟の手引き. 2020年5月29日閲覧。※案内看板の画像など、現地情報あり。
  13. ^ a b 支局長評論 下関 伝統の味わい /山口」『毎日新聞毎日新聞社、2016年9月26日。2020年5月29日閲覧。
  14. ^ a b c d 彦島八幡宮 彦島めぐり
  15. ^ a b c 古川 (1996), pp. 198–205.
  16. ^ a b 5441 金ノ弦岬灯台(廃止)”. Lighthouse-Japan.com. 2020年5月30日閲覧。
  17. ^ a b No-38 旧金ノ弦岬灯台”. 日本遺産 関門"ノスタルジック"海峡 ~時の停車場、近代化の記憶~. 2020年5月30日閲覧。
  18. ^ a b 金ノ弦岬灯台”. 日本の宝島「あまくさ」. 2020年5月30日閲覧。
  19. ^ 『日本灯台史』 (1969).
  20. ^ 『日本航路標識便覽表』 (1924), 「俎立標(昼標)」.
  21. ^ 『日本燈台史』 (1969).
  22. ^ a b c 『東洋灯台表』 (1926), 「金ノ弦岬灯台」.
  23. ^ a b c 下関港紹介① 新港地区(長州出島)みなと歴史探訪①日露戦争の遺産 水雷防波堤 - 『しものせき Port News 平成28年6月 Vol.1』” (PDF). 公式ウェブサイト. 国土交通省 九州地方整備局 下関港湾事務所 (2016年6月). 2020年5月30日閲覧。
  24. ^ a b 彦島八幡宮 ペトログラフ.
  25. ^ a b 『日本紳士録 第35版附録』附録 全国多額納税者 山口県63-64頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年1月21日閲覧。

参考文献

  • 古川薫『幕末長州藩の攘夷戦争―欧米連合艦隊の来襲』中央公論社中公新書 1285〉、1996年1月1日。OCLC 674834393 ISBN 4-12-101285-2ISBN 978-4-12-101285-2
  • 交詢社編 編『日本紳士録 第35版附録』交詢社、1931年。doi:10.11501/1145759 
  • 航路標識管理所編 編『日本航路標識便覽表』航路標識管理所、1920年8月作成、1924年3月最終改正。 NCID BA36736038 
  • 下関市教育委員会編 編『下関の地名』(増補改訂版)下関市教育委員会、2001年。 
  • 海軍省水路局編 編『東洋灯台表(下巻)』海軍省水路局、1908年(明治41年)。ASIN B0096H6LV0 
  • 海軍省水路部編 編『東洋灯台表』海軍省水路部、1926年1月1日(大正13年)。ASIN B0096H6LV0 
  • 海上保安庁灯台部編 編『日本燈台史―100年の歩み』灯光会、中央公論事業出版、1969年1月1日。ASIN B000JA1FXM 

関連項目

外部リンク