河野久蔵
表示
河野 久蔵(こうの きゅうぞう、1865年3月21日(慶應元年2月24日)[1] - 没年不明)は、日本の政治家(下関市会議員)[1]、商人(仲買商)、山口県多額納税者[2][3]、下関米取引所取引員[3]、家主[4]。
人物
[編集]山口県豊浦郡彦島町(現・下関市)出身。河野仁左衛門の二男、同徳之助の兄[3]。父祖の農業を助け傍ら勉学に余念がなかった[1]。幼い頃より大志を懐いて下関市に来て、米穀取引が有望なことを洞察し、あるいは店員となり小僧となり、あらゆる刻苦勉励すること10年、転んでは起き、起きては転び1905年、独立して仲買店を設け以来堅実に精励信用を博した[1]。
数年ならずして仲買人部長となり、組合委員長となり、1909年には下関商業会議所議員に選ばれ、1910年より下関市会議員に選出される事実に4回、1917年には市参事会員の名誉職に挙げられた[1]。その他公私団体の各重役に任ぜられた[1]。弟徳之助と共に山口県多額納税者であった[1][2]。郷土彦島のためには大いに誇りとされた[1]。愛郷の念は厚かった[1]。住所は山口県下関市丸山町[1][4]、関後地村[3]。
家族・親族
[編集]- 河野家
- 妻・シマ子[1](1877年 - ?、あるいはシマ[3]、山口、富田清太郎の三女[3])
- 嗣子・久馬三(1909年 - ?)[1][3]
- 男・紀久彦[1][3]
- 長女・信子(陸軍砲兵少佐、河内権五郎の妻)[1]
- 親戚
- 弟・河野徳之助(山口県多額納税者、米穀商)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 加瀬谷弥一『彦島大観』関門報知新聞社、1926年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 交詢社編『日本紳士録 第35版』交詢社、1931年。
- 交詢社編『日本紳士録 第35版附録』交詢社、1931年。