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「白雲 (吹雪型駆逐艦)」の版間の差分

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{{Infobox 艦艇
<div class="thumb tright">
| 名称 = 白雲
{| class="wikitable" style="margin: 0em; width: 300px; background:#ffffff"
|colspan="2"|[[Image:Sirakumo.jpg|300px|]]
| 画像 = Sirakumo.jpg
| 画像幅 = 300px
|-
| 建造所 = [[藤永田造船所]]
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|艦歴
| 運用者 = {{海軍|大日本帝国}}
|-
| 艦種 = [[駆逐艦]]
|発注||大正15年度計画([[昭和2年度艦艇補充計画]])
| 級名 = [[吹雪型駆逐艦]]
|-
| 発注 = 大正15年度計画([[昭和2年度艦艇補充計画]])
|起工||[[1926年]]10月27日
| 起工 = [[1926年]]10月27日
|-
|進水||[[1927年]]12月27日
| 進水 = [[1927年]]12月27日
| 竣工 = [[1928年]]7月28日
|-
|竣工||[[1928年]]728
| 最後 = [[1944年]]316戦没
| 除籍 = 1944年3月31日
|-
| 基準排水量 = 1,680 [[トン|t]]
|その後||[[1944年]]3月16日戦没
| 公試排水量 = 1,980 [[トン|t]]
|-
| 全長 = 118.5 [[メートル|m]]
|除籍||1944年3月31日
| 全幅 = 10.36 m
|-
| 吃水 = 3.19 m
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|性能諸元
| 機関 = [[艦本式タービン]]2基2軸<br />[[艦本式ボイラー#ロ号艦本式缶|ロ号艦本式重油専焼缶]]4基<br />50,000[[馬力]]
|-
| 最大速力 = 38.0[[ノット]]
|[[排水量]]||基準:1,680t<br />公試:1,980t
| 航続距離 = 5,000[[浬]]/14ノット
|-
| 乗員 = 219人
|全長||118.5[[メートル]]
| 兵装 = [[五十口径三年式十二糎七砲|12.7cm50口径連装砲]]3基6門<br />[[ルイス軽機関銃|7.7mm機関砲(機銃)]]2挺<br />61cm[[魚雷発射管]]3基9門 他
|-
}}
|全幅||10.36メートル
'''白雲'''(しらくも)は<ref name="S03達80">[[#達昭和3年6月]] pp.7-8〔 達第八十號 驅逐艦及掃海艇中左ノ通改名ス 本達ハ昭和三年八月一日ヨリ之ヲ施行ス|昭和三年六月二十日 海軍大臣 岡田啓介|(略)第四十二號驅逐艦 ヲ 驅逐艦 白雲(シラクモ)トス 〕</ref>、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[駆逐艦]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=88a|ps=白雲(しらくも)}}。[[吹雪型駆逐艦]]の8番艦<ref>[[#艦艇類別等級表(1941年12月31日)]] p.3〔 艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|吹雪型|吹雪、白雪、初雪、叢雲、東雲、薄雲、白雲、磯波、浦波、綾波、敷波、天霧、狭霧、夕霧、朧、曙、漣、潮、暁、響、雷、電、朝霧 〕(4番艦の深雪は除籍済)</ref>。日本海軍の艦船名としては、[[日露戦争]]直前に[[イギリス]]で建造された[[白雲型駆逐艦]]「[[白雲 (白雲型駆逐艦)|白雲]]」<ref>[https://hojishinbun.hoover.org/en/newspapers/yms19020627-01.1.3 Hoji Shinbun Digital Collection、Yamato Shinbun, 1902.06.27、2023年7月10日閲覧] p.3〔 ●白雲艦の横須賀回航/●白雲艦の撿閲 〕</ref>に続いて2隻目。
|-
|吃水||3.19
|-
|機関||艦本式タービン2基2軸<br />艦本式ロ号専焼缶4基<br />50,000[[馬力]]
|-
|最大速||38.0[[ノット]]
|-
|航続距離||5,000[[浬]]/14ノット
|-
|兵員||219人
|-
|兵装||12.7cm50口径連装砲×3<br />7.7mm機関砲(機銃)×2<br />61cm[[魚雷発射管]]×9 他
|}
</div>
'''白雲'''(しらくも)は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[吹雪型駆逐艦]]8番艦<ref>[[#艦艇類別等級表(1941年12月31日)]]p.3『艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|吹雪型|吹雪、白雪、初雪、叢雲、東雲、薄雲、白雲、磯波、浦波、綾波、敷波、天霧、狭霧、夕霧、朧、曙、漣、潮、暁、響、雷、電、朝霧』(4番艦の深雪は除籍済)</ref>。1928年(昭和3年)7月に竣工した。日本海軍の艦船名としては1902年(明治35年)竣工の[[白雲型駆逐艦]][[白雲 (白雲型駆逐艦)|白雲]]に続いて2隻目。1944年(昭和19年)3月、船団護衛中に[[釧路]]沖の太平洋で米潜水艦の雷撃を受け沈没した<ref>[[#S1809一水戦日誌(5)]]p.7『(2)第九駆逐隊(不知火欠)第二十一駆逐隊ハ北方部隊指揮官直接指揮下ニ月頭來千島方面作戰輸送ニ従事シアリタル處十六日二三三五白雲釧路南東海面ニテ被雷沈没セリ』</ref>。


==艦歴==
== 概要 ==
駆逐艦'''白雲'''(しらくも)は、日本海軍の駆逐艦{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=275a|ps=白雲(しらくも)}}。[[吹雪型駆逐艦]]の8番艦。吹雪型の5番艦から8番艦までは艦名に「[[雲]]」が含まれるため、雲級(くもクラス)と呼称されることもある{{Efn|name="叢雲(P年鑑1937)"|一等驅逐艦 "[[叢雲 (吹雪型駆逐艦)|叢雲 むらくも]]"<ref name="ポケット1937叢雲">[[#P年鑑1937|ポケット海軍年鑑(1937)]]、p.47〔 叢雲(むらくも) 〕</ref> 全要目{排水量1,700頓 速力34.0節 備砲12.7糎砲6門 魚雷發射管9門 起工昭和2年4月 竣工昭和4年5月 建造所 藤永田造船所} 一等驅逐艦中、特型と呼ばれるのがこの1,700頓驅逐艦である。12.7糎砲は6門、魚雷發射管は實に9門を有つてゐる大型驅逐艦である。長さ113.2米、幅10.3米、平均吃水2.97米。近頃は驅逐艦も航空機に對する兵装を改善し、更に新鋭なる武器を装備し、空中からの攻撃を反撃しつゝ戦闘をつゞけなければならない。水上にあつては隊伍を組んで主力艦に肉薄し魚雷戦を挑む外に水中の敵潜水艦を驅つて輕快なる運動と機敏なる操縦によつて爆雷をもつて戦ふのである。驅逐艦生活も亦、限りなく男兒を魅するかずかずの壮烈さをもつてゐる。雲級には"[[薄雲 (吹雪型駆逐艦)|薄雲 うすぐも]]" "白雲 しらくも" "[[東雲 (吹雪型駆逐艦)|東雲 しののめ]]"がある。}}。1928年(昭和3年)7月28日の竣工時は'''第42号駆逐艦'''だったが、8月1日に「'''白雲'''」と改名された{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=88a|ps=白雲(しらくも)}}。


[[太平洋戦争]]開戦時、引き続き[[水雷戦隊#第三水雷戦隊|第三水雷戦隊]]麾下の'''第12駆逐隊'''に所属し、[[南方作戦]]にともなう[[マレー作戦]]や[[蘭印作戦]]に従事した{{Efn|1941年(昭和16年)12月17日、[[ボルネオ島]][[ミリ (サラワク州)|ミリ]]で12駆僚艦「[[東雲 (吹雪型駆逐艦)|東雲]]」が撃沈され{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=88c|ps=東雲(しののめ)}}、12駆(白雲、叢雲)となった<ref name="S17内令70">内令昭和17年3月(2) pp.15-19〔 内令第七十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十七年一月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第十二驅逐隊ノ項中「東雲、」ヲ削ル|第二十驅逐隊ノ項中「、狭霧」ヲ削ル|第二十九驅逐隊ノ項中「疾風、」ヲ削ル|第三十驅逐隊ノ項中「如月、」ヲ削ル 〕</ref>。}}。[[1942年]](昭和17年)3月1日、[[バタビア沖海戦]]に参加した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=88a|ps=白雲(しらくも)}}。3月10日に第12駆逐隊が解隊され、「白雲」は'''第20駆逐隊'''に編入された{{Efn|姉妹艦「[[叢雲 (吹雪型駆逐艦)|叢雲]]」は{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=88d|ps=叢雲(むらくも)}}、第11駆逐隊に編入された<ref name="S17内令413号">[[#内令昭和17年3月(1)]] p.35〔 内令第四百十三號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年三月十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第十一驅逐隊ノ項中「初雪」ノ下ニ「、叢雲」ヲ加フ |第十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十驅逐隊ノ項中「夕霧」ノ下ニ「、白雲」ヲ加フ 〕</ref>。}}。20駆は[[セイロン沖海戦|ベンガル湾機動作戦]]{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=275a|ps=白雲(しらくも)}}、[[MI作戦|ミッドウェー作戦]]に従事した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=88a|ps=白雲(しらくも)}}。7月中旬以降、[[セイロン沖海戦#海戦後|B作戦]]に従事した{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=54-55|ps=B作戦}}。

連合軍のソロモン諸島反攻作戦開始にともないB作戦は中止され{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=32}}、三水戦も[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル島攻防戦]]に投入される。同年8月28日{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=24a-29|ps=第一次輸送の挫折}}、第20駆逐隊は[[第18師団 (日本軍)#川口支隊|川口支隊]]先遣隊を[[ガダルカナル島]]へ輸送中{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=10|ps=〔川口支隊〕}}{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|pp=101-108|ps=混乱した海軍部隊の指揮・陸軍部隊との連携}}、[[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]より飛来した[[SBD (航空機)|SBD ドーントレス]](空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]所属機)の空襲を受けて「白雲」は損傷した{{Sfn|第二次大戦のSBD部隊と戦歴|2003|p=52a|ps=「フライト300」とその他の飛行隊の活躍 Flight 300 and Friends}}{{Efn|第20駆逐隊(朝霧、夕霧、天霧、白雲)のうち「朝霧」は沈没{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|pp=88e-89|ps=朝霧(あさぎり)}}、「白雲」と「夕霧」が大破{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=89a|ps=夕霧(ゆうぎり)}}、無傷は「天霧」だけだった<ref name="外南洋増援(1)20">[[#外南洋増援部隊(1)]] pp.20-21〔 一四三〇20dgハ「イサベル」島北方海面ニ於テ敵飛行機十籔機ノ攻撃ヲ受ケ之ト交戰敵數機ヲ撃墜我亦敵機ノ爆撃ニ依リ20dg司令戰死 朝霧沈没 白雲航行不能 夕霧亦相當ノ損傷ヲ受ケタリシヲ以テ一九二五24dg(凉風缺)磯風ハ本日ノ揚陸ヲ断念シ引返セリ 〕</ref>。}}。第20駆逐隊は10月1日に解隊され<ref name="S17内令1824">[[#内令昭和17年10月(1)]] pp.1-2〔 内令第千八百二十四号 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第二十驅逐隊ノ項ヲ削ル(略)〕</ref><ref name="S1709呉鎮(3)p4">[[#S1709呉鎮日誌(3)]] p.4〔 一日 夕霧及白雲(二十驅解隊)呉鎮部隊ニ編入 〕</ref>、「白雲」は警備駆逐艦となった<ref name="S17内令1825">[[#内令昭和17年10月(1)]] pp.2-3〔 内令第千八百二十五號/横須賀鎮守府豫備驅逐艦 驅逐艦 [[山雲 (駆逐艦)|山雲]] 呉鎮守府豫備驅逐艦 驅逐艦 夕霧 驅逐艦 白雲 右警備驅逐艦ト定メラル|昭和十七年十月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎 〕</ref>。「白雲」は呉や大阪で修理をおこなう{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=275a|ps=白雲(しらくも)}}<ref name="S1709呉鎮(8)1">[[#S1709呉鎮日誌(8)]] p.1〔 四.参考(イ)部下艦船(特設艦船ヲ含ム)ノ行動|白雲|大阪藤永田造船所修理中 〕</ref>。

1943年(昭和18年)4月1日、「白雲」は'''第9駆逐隊'''に編入され{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=88a|ps=白雲(しらくも)}}{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=88b|ps=薄雲(うすぐも)}}、駆逐艦3隻<ref name="S18内令579号">[[#内令昭和18年4月(1)]] p.26〔 内令第五百七十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年四月一日海軍大臣嶋田繁太郎|第二驅逐隊ノ項中「村雨、」ヲ削ル|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、峯雲」ヲ「朝雲、薄雲、白雲」ニ改ム(略)〕</ref>(朝雲{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=91a|ps=朝雲(あさぐも)}}、白雲、薄雲)となって[[第五艦隊 (日本海軍)|第五艦隊]]隷下の[[水雷戦隊#第一水雷戦隊|第一水雷戦隊]]に所属した{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=275a|ps=白雲(しらくも)}}{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=523a-526|ps=北方情勢と北方部隊の概況}}。6月6日深夜<ref name="S1806一水戦(1)18a">[[#S1806一水戦日誌(1)]] p.18〔 六日 白雲(宛略)白雲機密第062308番電 我沼風ト衝突地点[[ロパートカ岬|ロハッカ岬]]ノ122度12浬 〕</ref>、「白雲」は駆逐艦「[[沼風 (駆逐艦)|沼風]]」と衝突し{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|pp=260-261|ps=沼風(ぬまかぜ)}}、艦首部を損傷した{{Efn|(昭和18年6月7日項){{Sfn|高松宮日記6巻|1997|pp=341-342}}○第一水雷戦隊(六-一九四五)一七四五「[[ロパートカ岬|ロポッカ]]」岬ノ143°附近ニテ「神風」敵潜ヲ制圧中ナリ。「白雲」「薄雲」ハ直ニ出撃、之ニ協同セヨ。/○「白雲」(六-二三〇八)我、「沼風」ト衝突、「[[ロパートカ岬|ロパッカ]]」ノ122°12′。/○「白雲」(七-〇〇一〇)「沼風」自力航行可能(微速)、本艦艦首切断部ノ為、舵キカズ、漂泊作業中。(中略)《「薄雲」ハ視界不良ニテ第一駆逐隊トノ合同困難ト思ヒ「ロパッカ」岬ノ143°17′(E点)ヲ通ズル315°線ニテ以東ヲ、「白雲」ハ以西ヲ行動スルコトヽセル後、視界雨ニテ衝突セルモノナリ》}}。[[大湊港|大湊]]や[[函館港|函館]]で修理した後は、[[千島列島]]や[[北海道]]周辺での哨戒や船団護衛任務に従事した{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=275a|ps=白雲(しらくも)}}。1944年(昭和19年)3月16日<ref>[[#S1809一水戦日誌(5)]] p.7〔 (2)第九駆逐隊(不知火欠)第二十一駆逐隊ハ北方部隊指揮官直接指揮下ニ月頭來千島方面作戰輸送ニ従事シアリタル處十六日二三三五 白雲釧路南東海面ニテ被雷沈没セリ 〕</ref>、第9駆逐隊<!-- 霞、白雲、薄雲)-->は陸軍輸送船4隻を護衛中<ref>[[#S1809一水戦日誌(5)]] p.23〔 機密第170015番電 2335北緯42度18分東経145度11分ニ於テ白雲雷撃ヲ受ケ轟沈 船團ハ薄雲護衛シ釧路ニ避退セシム霞ハ附近制圧中 〕</ref>、[[釧路]]沖の太平洋で米潜水艦{{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=446a-447|ps=米潜水艦に撃沈されたわが駆逐艦一覧表}}[[トートグ (潜水艦)|トートグ]]に襲撃される{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=88a|ps=白雲(しらくも)}}。魚雷攻撃により「白雲」は沈没<ref>{{アジア歴史資料センター|C16120659400|昭和19.1~昭和20.2 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和19年3月 p.6}}、{{アジア歴史資料センター|C16120640100|昭和19.1.1~昭和19.3.31 太平洋戦争経過概要 その7(防衛省防衛研究所)19年3月15日~19年3月28日 }} p.6(19-3)|16|2335|北海道厚岸ノS約40′附近ニ於テ船団護衛中ノ[[駆逐艦|d]]白雲ハ敵(潜)ノ雷撃ヲ受ク|内地|沈没 〕</ref>、全乗組員が戦死した{{Sfn|戦史叢書44|1971|pp=142a-143|ps=日蓮丸の遭難}}。

== 艦歴 ==
=== 太平洋戦争まで ===
=== 太平洋戦争まで ===
[[1926年]](大正15年)9月29日、建造予定の駆逐艦に第四十二号駆逐艦の艦名が与えられる<ref>[[#達大正15年9月]]p.15達第九十三號 艦艇製造費ヲ以テ大正十五年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ一等驅逐艦四隻ニ左ノ通命名ス|大正十五年九月二十九日 海軍大臣財部彪|舞鶴要港工作部ニ於テ建造 第三十七號驅逐艦|石川島造船所ニ於テ建造 第四十一號驅逐艦|藤永田造船所ニ於テ建造 第四十二驅逐艦|浦賀船渠ニ於テ建造 第四十三號驅逐艦</ref><ref>[[#達大正15年9月]]p.16達第九十四號 艦艇類別等級表中驅逐艦一等ノ項「第三十五號」ノ下ニ「第三十七號」ヲ、「第四十號」ノ下ニ「第四十一號」「第四十二號」「第四十三號」ヲ加フ|大正十五年九月二十九日 海軍大臣財部彪</ref>。[[藤永田造船所]]で10月27日に起工[[1927年]](昭和2年)12月27日に進水し[[1928年]](昭和3年)7月28日竣工した<ref name="艦船要目白雲">[[#艦船要目公表範囲(1937年12月1日)]]p.4白雲|(艦要目略)|藤永田造船所|大正15-10-27|昭和2-12-27|3-7-28|(装備略)</ref>。8月1日で白雲と改名され、第12駆逐隊に編入した<ref>[[#達昭和3年6月]]pp7-8『達第八十號 驅逐艦及掃海艇中左ノ通改名ス 本ハ昭和三年八月一日ヨリ之ヲ施行ス|昭和三年六月二十日 海軍大臣岡田啓介|(略)第四十二號驅逐艦 ヲ 驅逐艦 白雲(シラクモ)トス』</ref>吹雪型5-8番は艦名に雲がつき、4隻を雲級とする記述もある<ref>[[#P年鑑1937|ポケット海軍年鑑(1937)]]p.47 叢雲『略)級には薄雲 白雲 東雲がある。』</ref>。12月1日、第12駆逐隊は[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]][[第二水雷戦隊]]に編入された。
[[1926年]](大正15年)9月29日、藤永田造船所で建造予定の駆逐艦に第四十二号駆逐艦の艦名が与えられる<ref>[[#達大正15年9月]] p.15達第九十三號 艦艇製造費ヲ以テ大正十五年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ一等驅逐艦四隻ニ左ノ通命名ス|大正十五年九月二十九日 海軍大臣 財部彪|舞鶴要港工作部ニ於テ建造 第三十七號驅逐艦|石川島造船所ニ於テ建造 第四十一號驅逐艦|藤永田造船所ニ於テ建造 第四十二驅逐艦|浦賀船渠ニ於テ建造 第四十三號驅逐艦</ref><ref>[[#達大正15年9月]]p.16達第九十四號 艦艇類別等級表中驅逐艦一等ノ項「第三十五號」ノ下ニ「第三十七號」ヲ、「第四十號」ノ下ニ「第四十一號」「第四十二號」「第四十三號」ヲ加フ|大正十五年九月二十九日 海軍大臣 財部彪</ref>。第42号駆逐艦は[[藤永田造船所]]で10月27日に起工<ref name="艦船要目白雲" />。[[1927年]](昭和2年)[[12月27日]]に進水した<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070311400|昭和2年12月28日(水)海軍公報 第298号 p.24}}〔 ○驅逐艦進水 株式會社藤永田造船所ニ於テ建造ノ第四十二號驅逐艦本月二十七日午前十時進水セリ 〕</ref>。[[1928年]](昭和3年)7月28日竣工した<ref name="艦船要目白雲">[[#艦船要目公表範囲(1937年12月1日)]] p.4白雲|(艦要目略)|藤永田造船所|大正15-10-27|昭和2-12-27|3-7-28|(装備略)</ref>。8月1日白雲と改名され<ref name="S0380" />、新編の'''[[吹雪型駆逐艦#第十二駆逐隊|第12駆逐隊]]'''薄雲東雲)に所属した。12月1日、第12駆逐隊は[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]][[第二水雷戦隊]]に編入された。


[[1935年]](昭和10年)4月、[[満州国]]皇帝の[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]が戦艦[[比叡 (戦艦)|比叡]]を御召艦として来日することになり、第12駆逐隊([[叢雲 (吹雪型駆逐艦)|叢雲]]、[[薄雲 (吹雪型駆逐艦)|薄雲]]、白雲)は比叡の供奉艦に指定された<ref>[[#満洲国皇帝御行動に関する件]]p.9二.御召艦及供奉艦 御召艦 軍艦比叡 供奉艦 第十二駆逐隊(叢雲、薄雲、白雲)</ref>。第12駆逐隊は比叡を護衛して日本と中国大陸を往復した。9月26日、白雲は[[三陸]]沖で台風により多数の艦が損傷する[[第四艦隊事件]]に遭遇し、魚雷格納庫などに軽微な損傷を受けた<ref>[[#夕霧初雪遭難事件報告(1)]]p.44十二驅|白雲|一.第一聯管楯魚雷格納庫蓋破損、發煙蓋筒流出/二.舵頭室水雷科倉庫進水</ref>。[[1940年]](昭和15年)以降は中国南部での沿岸作戦、北部[[仏印進駐]]作戦に参加した
[[1935年]](昭和10年)4月、[[満州国]]皇帝の[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]が練習戦艦[[比叡 (戦艦)|比叡]]を御召艦として来日することになり、第12駆逐隊([[叢雲 (吹雪型駆逐艦)|叢雲]]、[[薄雲 (吹雪型駆逐艦)|薄雲]]、白雲)は比叡」(艦長[[井上成美]]大佐)の供奉艦に指定された<ref>[[#満洲国皇帝御行動に関する件]] p.9二.御召艦及供奉艦 御召艦 軍艦比叡 供奉艦 第十二駆逐隊(叢雲、薄雲、白雲)</ref>。第12駆逐隊は御召艦を護衛して<ref>{{アジア歴史資料センター|J21022030800|Shin Sekai Nichi Nichi Shinbun 1935.04.05、新世界日日新聞/nwd_19350405(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.3〔 海國日本の威容 艦上から御展望 波靜な九州西南方面で聯合艦隊と遭遇!!/御召艦「比叡」土佐沖に向ふ 〕</ref>、日本と中国大陸を往復した<ref>{{アジア歴史資料センター|J20011614000|Nichibei Shinbun_1935.04.03、日米新聞/jan_19350403(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.3(溥儀の比叡乗艦と大連出港記事)</ref>。任務期間中に座礁事故を起こしたが損傷軽微だったので、「比叡」の協力を得て応急修理をおこない、御召艦護衛には支障をきたさなかった<ref>[[#白雲触洲薄雲触岸]] pp.3-10〔 驅逐艦白雲触洲事故報告 〕</ref>。9月26日、第12駆逐隊は[[三陸]]沖で台風により多数の艦が損傷する[[第四艦隊事件]]に遭遇し、「白雲」は魚雷格納庫などに軽微な損傷を受けた<ref>[[#夕霧初雪遭難事件報告(1)]] p.44十二驅|白雲|一.第一聯管楯魚雷格納庫蓋破損、發煙蓋筒流出/二.舵頭室水雷科倉庫進水</ref>。


[[1936年]](昭和11年)2月5日、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]][[海軍兵学校卒業生一覧_(日本)#64期|64期生]]乗艦実習のため<ref>[[#S11.2.12白雲天山丸]] p.2</ref>、[[球磨型軽巡洋艦|軽巡洋艦]]「[[大井 (軽巡洋艦)|大井]]」と共に[[関門海峡]]を航行していた<ref>[[#S11.2.12白雲天山丸]] pp.12-22〔 驅逐艦白雲天山丸衝突顛末明細書 白雲驅逐艦長海軍少佐安武史郎 〕</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|J20011673900|Nichibei Shinbun_19360206、日米新聞/jan_19360206(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.3〔 驅逐艦「白雲」と天山丸衝突 下關海峡潮流の爲(門司五日電通)〕</ref>。午前11時すぎ<ref>[[#S11.2.12白雲天山丸]] pp.8-9〔 駆逐艦白雲天山丸衝突経過圖 〕</ref>、「白雲」(艦長[[安武史郎 (海軍軍人)|安武史郎]]少佐)は[[彦島]]沖合いで汽船「天山丸」(大連汽船、2,755トン)と衝突した{{Efn|驅逐艦白雲 天山丸と衝突 但し損傷輕微<ref>{{アジア歴史資料センター|J21022090800|Shin Sekai Asahi Shinbun 1936.02.06、新世界朝日新聞/nws_19360206(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.1</ref>(門司五日同盟)五日午前十一時十分頃、一等驅逐艦白雲及巡洋艦大井(五一〇〇トン)が關門海峡彦島沖にさしかかつたとき、大連から神戸へ向け航行中の大連汽船天山丸(二七五五噸)が潮流のため押流され、白雲の左舷に衝突したとの急報があつたので、門司税關港務部より救助艇が急行したが、白雲は左舷、天山丸は右舷首に損傷をうけしも大したことなく、應急修理後それぞれ目的地に向つた(記事おわり)}}。「大井」の支援も受けて応急処置に努めたが<ref>[[#S11.2.12白雲天山丸]] p.4〔 二、衝突后ニ於ケル處置 〕</ref>、損傷は意外に大きく<ref>[[#S11.2.5白雲天山丸]] pp.6-8</ref>、入渠修理を余儀なくされた{{Efn|驅逐艦白雲 ドック入渠 {{smaller|損害意外に多し}}<ref>{{アジア歴史資料センター|J20011674100|Nichibei Shinbun_19360207、日米新聞/jan_19360207(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.3</ref>(門司六日電通)五日午前十一時十分頃門司港外彦島沖で大連汽船天山丸と衝突左舷を大破した驅逐艦「白雲」は自力で、呉へ航行の豫定なりしが、損害意外に大きく、自力廻航危險のため、六日午後二時門司に引返し、彦島の三菱ドツクに入渠した。(記事おわり)}}{{Efn|太平洋戦争勃発後、安武(元白雲艦長)は[[ラビの戦い]]で第30駆逐隊司令として駆逐艦「[[弥生 (睦月型駆逐艦)|弥生]]」沈没時に戦死した{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=634-636|ps=「彌生」の沈没と乗員の救出}}(任海軍少将)<ref>{{アジア歴史資料センター|A11115346700|「海軍少将安武史郎外一名叙位ノ件」、叙位裁可書・昭和十七年・叙位巻八十八(国立公文書館)}} p.1</ref>。}}。
=== 太平洋戦争開戦~昭和17年まで ===
白雲は[[太平洋戦争]]開戦時、叢雲 、[[東雲 (吹雪型駆逐艦)|東雲]]と共に第三水雷戦隊第12駆逐隊に所属していた。12月15日、[[東雲 (吹雪型駆逐艦)|東雲]]が[[ボルネオ島]]攻略作戦で沈没した<ref>[[#内令昭和17年3月(2)]]pp.15-19『内令第七十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十七年一月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第十二驅逐隊ノ項中「東雲、」ヲ削ル|第二十驅逐隊ノ項中「、狭霧」ヲ削ル|第二十九驅逐隊ノ項中「疾風、」ヲ削ル|第三十驅逐隊ノ項中「如月、」ヲ削ル』</ref>。[[南方作戦|南方進攻]]や[[蘭印作戦]]に従事し、1942年(昭和17年)3月1日には[[バタビア沖海戦]]に参加。重巡[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]、重巡[[最上 (重巡洋艦)|最上]]と共に米重巡洋艦[[ヒューストン (重巡洋艦)|ヒューストン]]、オーストラリア軽巡[[パース (軽巡洋艦)|パース]]、オランダ駆逐艦[[:en:HNLMS Evertsen (1926)|エヴェルトセン(エベルツェン)]]の撃沈に貢献した。


[[1940年]](昭和15年)5月1日、日本海軍は軽巡洋艦「[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]」および第12駆逐隊(叢雲、東雲、薄雲、白雲)と第20駆逐隊([[天霧 (駆逐艦)|天霧]]、[[朝霧 (吹雪型駆逐艦)|朝霧]]、[[夕霧 (吹雪型駆逐艦)|夕霧]]、[[狭霧 (駆逐艦)|狭霧]])により[[水雷戦隊#第三水雷戦隊|第三水雷戦隊]]を新編した{{Sfn|戦史叢書38|1970|pp=73-77|ps=昭和十五年度艦隊編制(抜粋)(昭和14.11.15付)}}([[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]所属){{Sfn|戦史叢書91|1975|p=002b}}{{Efn|第三水雷戦隊が4個駆逐隊(11駆、12駆、19駆、20駆)を揃えるのは1940年(昭和15年)11月15日実施の艦隊編制からである{{Sfn|戦史叢書91|1975|p=002b}}{{Sfn|戦史叢書38|1970|pp=80-82|ps=昭和十六年度艦隊編制(外戦部隊)(昭和15.11.15付)}}。}}。同年7月以降、第三水雷戦隊は[[遣支艦隊#第二遣支艦隊|第二遣支艦隊]](司令長官[[高須四郎]]中将)<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070389500|昭和15年8月14日(水)海軍公報(部内限)3579号 p.9}}〔 ○将旗一時移揚 第二遣支艦隊司令長官ハ八月十一日将旗ヲ一時[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]ニ移揚同日[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]ニ復歸セリ 〕</ref> に編入され、中国大陸へ進出する。[[日中戦争]]における[[華中]]での沿岸作戦{{Sfn|戦史叢書79|1975|pp=145-146|ps=K作戦}}、北部[[仏印進駐]]作戦などに参加した{{Sfn|戦史叢書79|1975|pp=195-196}}{{Efn|同年8月、姉妹艦「薄雲」が[[機雷]]で損傷し{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=88b|ps=薄雲(うすぐも)}}、第12駆逐隊から除かれた{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|pp=276-277|ps=薄雲(うすぐも)}}。}}。同年11月15日、白雲駆逐艦長は前川新一郎中佐から[[人見豊治]]中佐に交代した{{Efn|前川中佐(前白雲駆逐艦長)は「[[黒潮 (駆逐艦)|黒潮]]」駆逐艦長に転じた<ref name="jirei555" />。後任の白雲駆逐艦長[[人見豊治]]中佐は、「[[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]]」駆逐艦長であった<ref name="jirei555">{{アジア歴史資料センター|C13072079500|海軍辞令公報(部内限)第555号 昭和15年11月15日 p.12前川(補黒潮艦長)、p.13人見(補白雲艦長)}}</ref>。}}。
3月10日に第12駆逐隊は解隊され<ref name="S17内令413号">[[#内令昭和17年3月(1)]]p.35『内令第四百十三號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年三月十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第十一驅逐隊ノ項中「初雪」ノ下ニ「、叢雲」ヲ加フ |第十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十驅逐隊ノ項中「夕霧」ノ下ニ「、白雲」ヲ加フ』</ref>、白雲は第20駆逐隊([[朝霧 (吹雪型駆逐艦)|朝霧]]、[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]、[[夕霧 (吹雪型駆逐艦)|夕霧]])に編入された<ref name="S17内令413号" />。3月下旬、南遣艦隊指揮官[[小沢治三郎]]中将は臨時部隊を編制し、[[ベンガル湾]]で独自の作戦を行う方針を示した<ref name="叢書(26)590">[[#叢書26海軍進攻作戦]]590頁『ベンガル湾機動作戦』</ref>。南遣艦隊は5分割され、白雲は[[栗田健男]]少将の指揮下で重巡[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]、重巡[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]と共に北方隊に配属された<ref>[[#叢書26海軍進攻作戦]]636頁</ref>。4月1日、白雲を含む南遣艦隊は[[ミェイク|メルギー]]から出撃<ref name="叢書(26)663">[[#叢書26海軍進攻作戦]]663-669頁</ref>し、北方隊は輸送船8隻を撃沈した<ref name="叢書(26)663" />。6月の[[ミッドウェー海戦]]、7月のインド洋方面通商破壊作戦(B作戦)などの諸作戦に参加した。


1941年(昭和16年)9月12日に内示された昭和17年度海軍戦時編制によれば、駆逐艦「白雲」は姉妹艦「薄雲」と第51駆逐隊を編制する<ref>昭和17年度帝国海軍戦時編制・駆逐隊他 p.1〔 呉|第五十一驅逐隊|薄雲、白雲|(戦時編制ニ依ル所属)第五航空戦隊 〕</ref>。さらに第51駆逐隊(薄雲、白雲)は空母「[[赤城 (空母)|赤城]]」および「[[加賀 (空母)|加賀]]」と共に[[第五航空戦隊]]を編制する予定とされた<ref>[[#昭和17年度帝国海軍戦時編制]] p.5〔 艦隊|第一航空艦隊|第一航空戦隊/翔鶴、瑞鶴、第十一驅逐隊|第二航空戦隊/蒼龍・飛龍・第十二驅逐隊|第四航空戦隊/龍驤、《飛鷹》、《隼鷹》、第三驅逐隊|第五航空戦隊/赤城、加賀、第五十一驅逐隊|第六航空戦隊/《第三十一驅逐隊》/特設航空母艦三 〕</ref>。しかし[[太平洋戦争]]の勃発により本編制は実現せず、第51駆逐隊(薄雲、白雲)が[[正規空母|大型空母]]2隻と行動する事はなかった。
連合軍は8月7日に[[ガダルカナル島]]と[[フロリダ諸島]]に上陸し、[[ガダルカナル島の戦い]]が始まった。8月20日に同島[[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]が稼働し、23-24日の[[第二次ソロモン海戦]]後も、連合軍が同島周辺の制空権を支配していた。白雲など第三水雷戦隊(司令官[[橋本信太郎]]少将)は8月24日、南方海域を担務する外南洋部隊に編入され<ref>[[#S1709八艦隊日誌(1)]]p.9『八月二十四日鳴戸外南洋部隊ノ指揮下ニ入ル/第三水雷戰隊(第十九駆逐隊缺)外南洋部隊ニ編入』</ref>、陸軍[[川口清健]]少将の支隊を乗せた佐渡丸、浅香丸を護衛し、トラック泊地を出発した。しかし25日には、ガダルカナル島へ向かった第二水雷戦隊と輸送船団が航空攻撃で駆逐艦[[睦月 (駆逐艦)|睦月]]と輸送船[[金龍丸 (特設巡洋艦)|金龍丸]]を失い、揚陸を断念する事態となった。


=== 太平洋戦争開戦~1942年中盤まで ===
このため橋本少将と川口少将が協議し、26日夜半に洋上({{coord|1|5|N|156|35|E|}})で陸兵一個大隊約600名を第20駆逐隊4隻に移乗させ、軽巡[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]が輸送船を護衛してラバウルに送り、高速の駆逐艦のみで27日夜に揚陸する方針を決めた<ref name="叢書(83)21" />。しかし27日午前7時、外南洋部隊から揚陸を28日夜に変更し、第20駆逐隊はショートランド泊地に寄港して第24駆逐隊司令の村上暢之助大佐が指揮する駆逐艦[[海風 (白露型駆逐艦)|海風]]、駆逐艦[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]]、駆逐艦[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]の輸送隊と合同するよう指令された<ref name="叢書(83)21">[[#戦史叢書83ガ島戦]]21-22頁</ref><ref>[[#外南洋増援部隊(1)]]pp.19-20『又(司令官)3sdノ護衛セル川口支隊ハ洋上ニ於テ輸送船ヨリ20dgニ移乗2sd司令官ノ指揮下ニ入リ同夜二一〇〇「タイボ」岬附近ニ揚陸ノ豫定ヲ以テ「ガダルカナル」ニ向ヒツツアリシモ20dgハ敵「コンソリデット」ノ觸接ヲ受ケ一方「ガダルカナル」ニ對スル航空攻撃行ハレザリシ爲二十七日ノ揚陸ハ二十八日夜ニ延期セラレタルヲ以テ24dg(凉風缺)磯風ハ「ショートランド」ニ引返シ20dgハ燃料ノ関係上「ショートランド」歸着ヲ断念シ二十八日Y婁ノ揚陸ニ応ゼン爲「イサベル」島附近ヲ適宜行動セリ』</ref>。
[[太平洋戦争]]開戦時、第12駆逐隊(白雲、[[叢雲 (吹雪型駆逐艦)|叢雲]]、[[東雲 (吹雪型駆逐艦)|東雲]])は引き続き[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]隷下の第三水雷戦隊(司令官:[[橋本信太郎]]少将)に所属していた{{Sfn|戦史叢書38|1970|pp=87-94|ps=戦時艦隊編制の改定(抜粋)(昭和16.12.10付)}}。三水戦は馬来部隊に所属し{{Sfn|戦場の将器|1997|p=27}}{{Efn|馬來部隊指揮官は、[[南遣艦隊]]司令長官[[小沢治三郎]]海軍中将であった{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|pp=21-24}}。}}、[[南方作戦]]にともなう[[マレー作戦]]に従事した{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=275b|ps=叢雲(むらくも)}}{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|pp=275c-276|ps=東雲(しののめ)}}。


12月17日、12駆僚艦「[[東雲 (吹雪型駆逐艦)|東雲]]」が[[ボルネオ島]]攻略作戦で空襲により沈没{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|pp=275c-276|ps=東雲(しののめ)}}{{Efn|このボルネオ攻略作戦では12月24日に駆逐艦「[[狭霧 (駆逐艦)|狭霧]]」がオランダ潜水艦{{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=446b-447}}[[K XVI (潜水艦)|K XVI]]に撃沈され{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=89b|ps=狭霧(さぎり)}}、「東雲」と同日付で第20駆逐隊から削除された<ref name="S17内令70" />。}}、翌年1月15日に12駆から除かれた<ref name="S17内令70" />。12駆(白雲、叢雲)は引き続き馬來部隊として[[シンガポールの戦い|シンガポール周辺掃蕩戦]]や[[蘭印作戦]]に従事し、1942年(昭和17年)3月1日には[[バタビア沖海戦]]に参加する{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=275a|ps=白雲(しらくも)}}{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=275b|ps=叢雲(むらくも)}}。重巡「[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]」と「[[最上 (重巡洋艦)|最上]]」<!-- 第七戦隊第2小隊、三隈艦長指揮 -->を含む馬來部隊からの派遣部隊は[[水雷戦隊#第五水雷戦隊|第五水雷戦隊]]と協力し{{Sfn|戦史叢書26|1969|p=482|ps=四 バタビア沖の海戦(二月二十八日~三月一日)}}、米重巡洋艦[[ヒューストン (重巡洋艦)|ヒューストン]] (''{{lang|en|USS Houston, CA-30}}'') 、オーストラリア軽巡[[パース (軽巡洋艦)|パース]] (''{{lang|en|HMAS Perth, D29}}'') 、オランダ駆逐艦[[:en:HNLMS Evertsen (1926)|エヴェルトセン]] (''[[:nl:Hr.Ms. Evertsen (1929)|Hr.Ms. Evertsen]]'') を撃沈した{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|p=65}}{{Sfn|ニミッツ|1962|p=40}}。
この時、第20駆逐隊は[[サンタイサベル島]]北方沖まで移動しており、ショートランド泊地に寄港すると燃料が不足した。そのため第20駆逐隊司令の山田雄二大佐は、同島北側で待機し、28日午後にフロリダ諸島周辺で合流する方針を伝えた<ref name="叢書(83)24">[[#戦史叢書83ガ島戦]]24-25頁『第一次輸送の挫折』</ref><ref>[[#外南洋増援部隊(1)]]p.20『(ニ七)八月二十八日〇六〇〇24dg(凉風缺)磯風(陸兵計四五〇名分乗)ハ24dg司令指揮ノ下ニ「ショートランド」ヲ出撃「フロリダ」島北方海面ニ於テ20dgヲ合同同夜「ガダルカナル」島「タイボ」岬附近ニ揚陸ヲ決行セントセシモ…』</ref>。第20駆逐隊は28日にフロリダ諸島沖の合流海域をめざしたが<ref name="叢書(83)24" />、8時20分に[[B-17 (航空機)|B-17]]に触接され、午後2時30分に同島東海上のラモス島附近でヘンダーソン飛行場の[[SBD (航空機)|SBDドーントレス急降下爆撃機]](米軍の記録で11機)の攻撃を受けた<ref name="叢書(83)26">[[#戦史叢書83ガ島戦]]26頁</ref><ref>[[#外南洋増援部隊(5)]]pp.27-28『天霧駆逐艦長(宛略)被害ノ状況』</ref><ref>[[#外南洋増援部隊(1)]]pp.20-21『一四三〇20dgハ「イサベル」島北方海面ニ於テ敵飛行機十籔機ノ攻撃ヲ受ケ之ト交戰敵數機ヲ撃墜我亦敵機ノ爆撃ニ依リ20dg司令戰死朝霧沈没白雲航行不能夕霧亦相當ノ損傷ヲ受ケタリシヲ以テ一九二五24dg(凉風缺)磯風ハ本日ノ揚陸ヲ断念シ引返セリ』</ref>。約2時間の戦闘で白雲は軽負傷2名だったが機関室浸水により航行不能に陥った<ref name="叢書(83)26" /><ref>[[#外南洋増援部隊(5)]]p.11『天霧駆逐艦長(宛略)20dg戦斗概報 一.一四〇〇ヨリ一六〇〇ノ間敵二〇機ノ雲間ヨリスル執拗ナル空爆ヲ受ク全砲撃ヲ集中撃攘セリ/二.戰果 撃墜五機他ニ不確實ナルモノ二機/三.天霧機密第四〇番電ノ通』</ref>。また朝霧が沈没、夕霧も至近弾で損傷し<ref>[[#S1709八艦隊日誌(1)]]p.60『二十八日(天候略)一木川口支隊ノ第一回増援隊発進シタルモ敵機ノ空襲ニ依リ中止朝霧沈没夕霧白雲大破ス』</ref><ref>[[#外南洋増援部隊(1)]]p.8『20dg|(始)八月二十七日|(終)八月三十一日(朝霧白雲八月二十八日)|二十八日敵機ノ爆撃ニ依リ朝霧沈没白雲航行不能夕霧相當ノ損傷ヲ受ク』</ref>、山田司令らが戦死した<ref>[[#外南洋増援部隊(5)]]p.17『20dg司令|二十九日一四二八3sd参謀、八通司令(2sd参謀)|發鷹松少佐、宛川口支隊長 一.朝霧沈没ニ伴フ戰死六十二名(本中隊将校全部及大隊砲小隊手柴中尉ヲ含ム)他ハ全部収容セリ/二.大隊砲二門及弾薬全部沈没/三.重傷三軽傷二』</ref><ref name="叢書(83)26" /><ref>[[#外南洋増援部隊(1)]]pp.20-21『一四三〇20dgハ「イサベル」島北方海面ニ於テ敵飛行機十籔機ノ攻撃ヲ受ケ之ト交戰敵數機ヲ撃墜我亦敵機ノ爆撃ニ依リ20dg司令戰死朝霧沈没白雲航行不能夕霧亦相當ノ損傷ヲ受ケタリシヲ以テ一九二五24dg(凉風缺)磯風ハ本日ノ揚陸ヲ断念シ引返セリ』</ref>。


3月10日、第12駆逐隊は解隊された<ref name="S17内令413号" />。「叢雲」は[[吹雪型駆逐艦#第十一駆逐隊|第11駆逐隊]]に{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=275b|ps=叢雲(むらくも)}}、「白雲」は'''[[吹雪型駆逐艦#第二十駆逐隊(I)|第20駆逐隊]]'''に編入された<ref name="S17内令413号" />。第20駆逐隊([[朝霧 (吹雪型駆逐艦)|朝霧]]、[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]、[[夕霧 (吹雪型駆逐艦)|夕霧]]、白雲)を含め馬來部隊は[[スマトラ島]]攻略作戦と{{Sfn|戦史叢書26|1969|pp=596-602|ps=三 北部スマトラ攻略作戦}}、[[アンダマン・ニコバル諸島]][[日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領#日本軍の諸島占領|攻略作戦]]{{Sfn|戦史叢書26|1969|pp=602-609|ps=四 アンダマンの攻略}}、ビルマ輸送作戦{{Sfn|戦史叢書26|1969|pp=609-613|ps=五 ビルマ輸送作戦}}等を実施した{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|pp=68-69}}。
3隻となった第20駆逐隊は揚陸を断念し、白雲は天霧に曳航され、夕霧と共にイサベル島北側からショートランドへ向かった<ref name="叢書(83)26" /><ref>[[#外南洋増援部隊(1)]]p.21『天霧ハ白雲ヲ曳航夕霧護衛ノ下ニ「ショートランド」ニ向フ』</ref>。駆逐艦[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]が8月29日昼に合流し、30日朝に4隻でショートランド泊地に到着した<ref>[[#戦史叢書83ガ島戦]]30-31頁</ref>。海風など3隻も揚陸を中止して輸送作戦は失敗し、[[宇垣纏]]連合艦隊参謀長は陣中日誌[[戦藻録]]に『茲に鼠上陸の第一日は見事に失敗せり。如何にするとも此敵機を壊滅するに非ざれば目的を達し難し』と記した<ref>[[#戦史叢書83ガ島戦]]27頁</ref>。
3月下旬、<!-- 南遣艦隊指揮官  第一南遣艦隊司令長官=馬來部隊指揮官 -->小沢中将<!-- 馬來部隊指揮官/第一南遣艦隊司令長官[[小沢治三郎]]中将 -->は臨時部隊を編制し{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|p=70}}、[[ベンガル湾]]で独自の作戦を行う方針を示した([[セイロン沖海戦#馬来部隊の通商破壊作戦|ベンガル湾機動作戦]]){{Sfn|戦史叢書26|1969|p=590|ps=ベンガル湾機動作戦}}。馬來部隊は5分割され、北方隊は第七戦隊司令官[[栗田健男]]少将の指揮する重巡「[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]」と「[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]」<!-- 当時の鈴谷艦長は、[[木村昌福]]大佐であった。-->{{Sfn|戦場の将器|1997|pp=32-33}}および駆逐艦「白雲」であった{{Efn|馬来部隊の兵力部署は、第一南遣艦隊司令長官直率の中央隊(鳥海、由良、龍驤、朝霧、夕霧)、北方隊、南方隊(三隈、最上、天霧)、補給隊(綾波、汐風、日栄丸)、警戒隊(川内、第11駆逐隊、第19駆逐隊)であった{{Sfn|戦史叢書26|1969|pp=635-636|ps=馬來部隊}}。}}。4月1日、[[機動部隊|馬來部隊機動部隊]]は[[ミェイク|メルギー]]から出撃する{{Sfn|戦史叢書26|1969|pp=663-669|ps=馬來部隊機動部隊、ベンガル湾制圧(自4月1日 至4月11日)}}。北方隊は輸送船8隻を撃沈した{{Sfn|戦史叢書26|1969|p=669}}。


4月10日、第二段作戦第一期兵力部署の発動により馬來部隊に派遣されていた部隊や艦艇は小沢長官の指揮下を離れ{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|p=71}}、三水戦も内地にもどった{{Sfn|戦史叢書26|1969|p=669}}。5月下旬から6月上旬の[[MI作戦|ミッドウェー作戦]]における第三水雷戦隊は、連合艦隊司令長官[[山本五十六]]大将と第一艦隊司令長官[[高須四郎]]中将の戦艦部隊を護衛した{{Sfn|写真太平洋戦争(3)|1995|pp=164-168|ps=作戦の要領}}。この頃、[[舞鶴海軍工廠]]では夕雲型駆逐艦「[[巻波 (駆逐艦)|巻波]]」を建造していた{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94a|ps=巻波(まきなみ)}}{{Sfn|舞廠造機部|2014|pp=186,215}}。6月30日、白雲駆逐艦長[[人見豊治]]中佐は巻波艤装員長に任命される<ref name="jirei891">{{アジア歴史資料センター|C13072085900|昭和17年6月30日(発令6月30日付)海軍辞令公報(部内限)第891号 p.33}}</ref>。後任の白雲艦長は佐藤重吉少佐であった<ref name="jirei891" />。[[ミッドウェー海戦]]の敗北後、第七戦隊や第三水雷戦隊は7月下旬のインド洋方面通商破壊作戦([[セイロン沖海戦#海戦後|B作戦]])に転用された{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=54-55|ps=B作戦}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=130|ps=聯合艦隊/水上部隊}}。
10月1日、第20駆逐隊は解隊され<ref>[[#内令昭和17年10月(1)]]pp.1-2『内令第千八百二十四号 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第二十驅逐隊ノ項ヲ削ル(略)』</ref>、白雲は夕霧と共に[[呉鎮守府]]警備駆逐艦となり<ref name="S17内令1825">[[#内令昭和17年10月(1)]]pp.2-3『内令第千八百二十五號/横須賀鎮守府豫備驅逐艦 驅逐艦 山雲|呉鎮守府豫備驅逐艦 驅逐艦 夕霧 驅逐艦 白雲 右警備驅逐艦ト定メラル|昭和十七年十月一日 海軍大臣嶋田繁太郎』</ref><ref>[[#S1709呉鎮日誌(3)]]p.4『一日 夕霧及白雲(二十驅解隊)呉鎮部隊ニ編入』</ref>、修理のため日本に戻った<ref>[[#S1709呉鎮日誌(4)]]p.17『一日(天候略)一.戦時編制一部改定(イ)夕霧及白雲ヲ呉鎮部隊ニ編入 (ロ)朝霧及金龍丸ヲ戦時編制ヨリ除カル/二.夕霧及白雲ヲ警備驅逐艦ト定メラル(以下略)』</ref><ref>[[#S1709呉鎮日誌(3)]]p.19『二日0910呉鎮長官(宛略)夕霧及白雲ハ呉歸着後整備作業ニ従事スベシ』</ref>。白雲の修理は12月10日から藤永田造船所で行われた<ref>[[#S1709呉鎮日誌(8)]]p.1『四.参考(イ)部下艦船(特設艦船ヲ含ム)ノ行動|白雲|大阪藤永田造船所修理中』</ref>。


=== 1942年中盤以降の行動 ===
*[[戦史叢書]]で1942年10月11日-12日に白雲がソロモン海で輸送艦隊を護衛し、駆逐艦叢雲の雷撃処分をしたとあるのは、白雪の誤り<ref name="叢書(83)200">[[#叢書83ガ島戦]]200-202頁</ref><ref>[[#S1710四水戦日誌(3)]]pp.17-18『15日1800(将旗)3sd(宛略)3sd機密第151800番電 SNB ZOB戦斗概報第三號/一.十一日夜6Sノ夜戦ニ際シ直衛d吹雪沈没初雪被弾前部水線上破口荒天航行竝ニ二十四節以上ノ航行危険/二.日進千歳11dg(2D欠)9dg(峯雲欠)ハ増援兵力ヲ「ガ」島ニ揚陸シタル後11dgハ古鷹救援ニ赴キ「ソロモン」諸島南方海面ヲ経テ避退中(2/3未着)一四二〇夏雲沈没叢雲大火災爆發収拾ノ途ナク朝雲白雪乗員ヲ収容シテ一旦避退夜陰ニ乗ジ更ニ叢雲ヲ曳航セントセシモ大火災艦尾切断シテ見込ナク遂ニ之ヲ処分セリ』</ref>。
連合軍は1942年(昭和17年)8月7日に[[ガダルカナル島]]と[[フロリダ諸島]]に上陸し{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=438-439|ps=ガダルカナル島及びツラギ上陸}}、[[ガダルカナル島の戦い]]が始まった{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=108-112|ps=連合軍の上陸}}{{Sfn|ソロモン海戦闘旗|2018|pp=220-224|ps=米軍ガダルカナル大反攻}}。連合艦隊はB作戦を中止し、南東方面部隊を編成した{{Efn|南東方面部隊指揮官(基地航空部隊指揮官/第十一航空艦隊司令長官:[[塚原二四三]]海軍中将)が外南洋部隊(指揮官:第八艦隊司令長官)と内南洋部隊(指揮官:第四艦隊司令長官)を指揮する{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=446-448|ps=聯合艦隊}}。}}。[[大本営]](陸軍部、海軍部)と現地陸海軍([[第十一航空艦隊 (日本海軍)|第十一航空艦隊]]、[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]、[[第17軍 (日本軍)|第十七軍]])は各種状況を検討し{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=140-141|ps=第十七軍}}、[[グアム島]]所在の[[一木清直|一木支隊]]と、[[パラオ諸島]]所在の歩兵第35旅団([[第18師団 (日本軍)#川口支隊|川口支隊]])および[[海軍陸戦隊]]をガ島奪回のため投入することにした{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=448-451|ps=大本營海軍部及び陸軍部}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=516-518|ps=陸海軍現地協定}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=143-146|ps=大本營の作戦指導}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=3-4|ps=ガ島奪回作戦の開始}}。三水戦は、川口支隊の輸送船の護衛を命じられた{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=521-524|ps=川口支隊のガダルカナル島派遣計画}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=158-160|ps=川口支隊のガ島派遣計画}}。


B作戦のため[[マレー半島]]メルギーに進出していた各部隊(第七戦隊、三水戦、第2駆逐隊、第15駆逐隊、タンカー2隻)は、作戦中止によりトラック泊地に向け移動を開始した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=522}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=23-24|ps=外南洋部隊の増援輸送計画}}。[[スラウェシ島]]や[[ミンダナオ島]]を経由してトラック泊地にむかった{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=164}}。8月19日午後2時、外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官[[三川軍一]]海軍中将)は、川口支隊輸送船のガ島輸送と護衛を三水戦がおこなうよう下令した{{Efn|外南洋部隊電令作第三六号{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=523}}一 外南洋部隊ハ第十七軍ト協同シテ陸軍後続部隊ヲ速ニ「ガダルカナル」島附近迄護送、同地ヲ確保シ次デ「ツラギ」ヲ攻略セントス/二 第三水雷戦隊(駆逐隊二隊欠)ハ陸軍川口支隊(二大隊ヲ基幹トシ輸送船二隻ニ乗船)ヲ護衛、八月二十四日「トラック」発北緯三度三四分、東経一六〇度二六分ヲ通ズル航路ヲ執リ八月二十八日日没後「ガダルカナル」島ニ達シ之ヲ揚陸セシムベシ、川口支隊ノ揚陸終了セバ駆逐艦二ヲ残シテは泊地警戒ニ任ゼシメ、爾余ノ兵力ヲ以テ輸送船ヲ「ラバウル」迄護送スベシ/三 第三水雷戦隊ノ駆逐隊一隊ハ「トラック」着補給ノ上速ニ「ラバウル」ニ進出スベシ }}。
=== 昭和18年~沈没 ===
[[1943年]](昭和18年)3月上旬に修理が終わり、訓練に従事した<ref>[[#S1801呉鎮日誌(6)]]p.60『五(天候略)驅逐艦白雲ハ艦長所定ニ依リ三月八日ヨリ三月十一日マデ伊予灘ニ於テ單獨訓練ヲ實施セシム』</ref>。4月1日、白雲は薄雲、[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]と共に第9駆逐隊に編入し<ref name="S18内令579号">[[#内令昭和18年4月(1)]]p.26『内令第五百七十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年四月一日海軍大臣嶋田繁太郎|第二驅逐隊ノ項中「村雨、」ヲ削ル|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、峯雲」ヲ「朝雲、薄雲、白雲」ニ改ム(略)』</ref>、[[第五艦隊 (日本海軍)|第五艦隊]]第一水雷戦隊の指揮下で[[アリューシャン列島]]や[[千島列島]]などを担当する北東方面の海域に投入された。白雲は呉から横須賀に回航した後、重巡[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]を護衛して北方に向かった<ref name="叢書(29)523">[[#叢書29北東方面]]523-524頁</ref><ref>[[#第五艦隊AL作戦(3)]]p.27『麾下艦船部隊ノ行動|第九駆逐隊|白雲』</ref><ref>[[#S1803一水戦日誌(3)]]p.34『一五(天候略)摩耶白雲、陸奥湾ニ向ケ横須賀発』</ref>。白雲は摩耶、駆逐艦[[若葉 (初春型駆逐艦)|若葉]]、駆逐艦[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]等と共に[[アッツ島の戦い]]に伴う迎撃作戦や輸送作戦に従事した<ref>[[#S1803一水戦日誌(3)]]p.25『51cg熱田分遣隊機密第270432番電 敵艦六隻砲撃中』-p.27『5F機密第270501番電 摩耶若葉白雲ヲ率ヰ陸奥海湾出撃』</ref><ref>[[#S1803一水戦日誌(4)]]pp.9-11『(二)配備』</ref>。


{{seealso|[[:en:Cactus_Air_Force|カクタス空軍]]}}
6月6日夜、千島列島で行動中の駆逐艦[[沼風 (駆逐艦)|沼風]]が対潜攻撃し、白雲と薄雲が支援に向かった<ref>[[#S1806一水戦日誌(1)]]p.37『六日(天候略)2030薄雲白雲出撃』</ref>。深夜、白雲は沼風と衝突し<ref>[[#S1806一水戦日誌(1)]]p.18『六日 白雲(宛略)白雲機密第062308番電 我沼風ト衝突地点ロハッカ岬ノ122度12浬』</ref>、沼風は大破<ref>[[#S1806一水戦日誌(1)]]p.18『一.沼風士官室右舷大破全部浸水第一缶室以後無事自力航行不能/二.白雲艦首右舷ニ湾曲錨鎖庫塗具庫ニ浸水航行差支ナシ』</ref>、白雲も艦首を一部切断した<ref>[[#S1806一水戦日誌(1)]]p.20『白雲機密第070230番電沼風自力航行可能(微速)本艦艦首切断ノ為舵利カズ漂白作業中』</ref>。両艦は応急修理で自力航行が可能となり<ref>[[#S1806一水戦日誌(1)]]p.21『9dg機密第070400番電 沼風士官室右舷及艦橋下部大破六節ニテ自力航行可能白雲ハ0415頃應急修理完成六節程度ニテ自力航行可能ノ見込 若葉ハ合同後沼風ヲ朝雲ハ白雲ヲ護衛幌筵海峡通過幌筵ニ帰投ス』</ref>、白雲は朝雲、沼風は若葉に護衛されて[[幌筵島]]に帰投した<ref name="叢書(29)598">[[#叢書29北東方面]]598-599頁</ref>。白雲は摩耶に接舷して修理を行った<ref>[[#S1806一水戦日誌(1)]]p.38『七日(天候略)0115朝雲出撃/0210若葉出撃/0900阿武隈大湊ニ向ケ幌筵出撃|0030朝雲ニ出撃ヲ命ズ/0129若葉ニ出撃発令(通信0150)/0120朝雲出撃/0200若葉出撃/0800若葉幌筵皈着/0900頃朝雲白雲沼風ヲ護衛シ幌筵ニ皈投/0930薄雲幌筵皈着|一.白雲ハ上甲板線ヨリ下方艦首ヨリ九米迄切断屈曲塗具庫錨鎖庫ニ浸水セリ人員異常ナシ/二.白雲摩耶ニテ応急処理』</ref>。その後、第五戦隊と共に幌筵を出発し<ref name="叢書(29)598" />、大湊を経て函館に回航され、本格的な修理に入った<ref>[[#S1806一水戦日誌(1)]]p.40『一二(天候略)0600二十一駆(欠初春)五戦隊ヲ護衛大湊ニ向ケ幌筵発/0630白雲修理ノ為大湊ニ向ケ幌筵発(第二天洋丸護衛)』</ref><ref>[[#S1806一水戦日誌(1)]]p.2『白雲ハ十二日幌莚海峡発大湊爾後函館ニテ修理』</ref>。このため第9駆逐隊の僚艦が参加した[[キスカ島撤退作戦]]に加わらなかった。


ガダルカナル島では[[アメリカ海兵隊]]が[[:en:Henderson Field (Guadalcanal)|ヘンダーソン飛行場基地]]の整備を急いでおり{{Sfn|ソロモン海戦闘旗|2018|pp=258-259}}{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=118-119|ps=小休止}}、8月20日に急降下爆撃機と戦闘機が[[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]に進出した{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=537-540|ps=敵機動部隊の発見と敵機のガダルカナル島進出}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=163-164|ps=敵機動部隊の発見と敵機のガ島進出}}{{Efn|[[:en:Richard_C._Mangrum|リチャード・マングラム]]中佐が率いる[[:en:VMFA-232|第232海兵偵察爆撃飛行隊]]のSBDドーントレス12機、[[:en:John_Smith_(flying_ace)|ジョン・スミス]]少佐が率いる[[:en:VMA-223|第223海兵偵察爆撃飛行隊]]のワイルドキャット18機である{{Sfn|第二次大戦のSBD部隊と戦歴|2003|pp=44-47|ps=リチャード・マングラム中佐の活躍 Mangrum at Guadalcanal}}。彼等はカクタス(サボテン)・エア・フォースと呼ばれた{{Sfn|ワイルドキャットエース|2001|p=19|ps=「カクタス空軍」での戦闘 Cactus Air Force}}。}}。ガ島に上陸した[[歩兵第28連隊|一木支隊]]先遣隊(約900名)は飛行場奪回を目指したが、[[イル川渡河戦]]で全滅状態となり[[一木清直]]大佐も戦死した{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=102}}{{Sfn|ソロモン海戦闘旗|2018|pp=274-276}}。8月24日の[[第二次ソロモン海戦]]で日本海軍機動部隊は米軍機動部隊の撃滅に失敗し{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|pp=113-114}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=565|ps=挿図第四十二 第二次ソロモン海海戦各隊行動図}}、連合軍はヘンダーソン基地を拠点に同島周辺の制空権を握っていた{{Sfn|ニミッツ|1962|p=123}}。また第二次ソロモン海戦で損傷した空母[[エンタープライズ_(CV-6)|エンタープライズ]] (''{{lang|en|USS Enterprise, CV-6}}'') から、第6爆撃飛行隊のSBD 3機と、第5偵察飛行隊のSBD 8機が、ヘンダーソン飛行場に派遣された{{Sfn|第二次大戦のSBD部隊と戦歴|2003|pp=51-52|ps=ギブソン大尉の回想 Gibson's View}}。この混成部隊は「フライト300」と呼ばれた{{Sfn|第二次大戦のSBD部隊と戦歴|2003|p=52a|ps=「フライト300」とその他の飛行隊の活躍 Flight 300 and Friends}}。
第9駆逐隊は9月1日に[[霞 (駆逐艦)|霞]]が編入し<ref>[[#内令昭和18年9月(1)]]p.26『内令第千八百十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年九月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「白雲」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ』</ref>、10月31日に朝雲が転出した<ref name="S18内令2245号">[[#内令昭和18年10月(5)]]p.38『内令第二千二百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、」ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「風雲」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|(略)』</ref>。修理完了後の白雲は北方に戻り、船団護衛や警戒任務に従事した。[[1944年]](昭和19年)2月上旬、重巡[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]等と共に空母[[雲鷹 (空母)|雲鷹]]の救援に協力した<ref>[[#第五艦隊AL作戦(5)]]p.9『麾下艦船部隊ノ行動|1sd|9dg|白雲|横須賀2月2日1321/横須賀雲鷹護衛/2月7日0005大湊』</ref><ref>[[#第五艦隊AL作戦(5)]]p.11『五(天候略)0743白雲 雲鷹護衛ヲ止メ大湊ニ向ケ発』</ref>。
*3月1日、第9駆逐隊に[[不知火 (陽炎型駆逐艦)|不知火]]が編入したが、不知火は台湾方面の船団護衛中で、白雲と合流することはなかった<ref>[[#内令昭和19年3月(1)]]p.17『内令第三百八十八号 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年三月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「霞」ノ下ニ「、不知火」ヲ加フ|第十九驅逐隊ノ項中「敷波」ノ下ニ「、天霧」ヲ加フ』</ref><ref>[[#S1809一水戦日誌(6)]]p.48『一五(天候略)1000不知火【タモ11】船團ヲ護衛門司ニ向ケ高雄發』</ref>。


一方、三水戦(川内、夕霧、朝霧、天霧、白雲)は8月23日トラック泊地に到着した{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=194a-195|ps=第一次艦艇輸送}}。歩兵第35旅団長[[川口清健]]陸軍少将が率いる川口支隊約5,000名を乗せた輸送船2隻(佐渡丸、浅香丸)は、既にトラック泊地に到着していた{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=194b-195}}。24日、三水戦(川内、第20駆逐隊)は川口支隊輸送船2隻<!-- 佐渡丸、浅香丸 -->を護衛し、トラック泊地を出発した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=10|ps=〔川口支隊〕}}。だが25日、ガダルカナル島へ向かった第二水雷戦隊(司令官[[田中頼三]]少将)と輸送船団が{{Sfn|ソロモン海戦闘旗|2018|pp=398-402}}、ヘンダーソン基地の[[SBD (航空機)|SBD ドーントレス]]と[[エスピリトゥサント島]]の[[B-17 (航空機)|B-17重爆]]から攻撃される{{Sfn|ニミッツ|1962|p=122}}{{Sfn|ソロモン海戦闘旗|2018|pp=404-406}}。駆逐艦「[[睦月 (駆逐艦)|睦月]]」と輸送船「[[金龍丸 (特設巡洋艦)|金龍丸]]」が沈没し、軽巡「[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]」も中破{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=104}}、[[第7師団 (日本軍)|一木支隊]]第二梯団と[[海軍陸戦隊]]の揚陸を断念する事態となっていた{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=586-588|ps=金龍丸及び「睦月」の沈没}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=5-6|ps=船団によるガ島輸送の挫折}}。連合艦隊は一木支隊第二梯団のガ島直行を中止し{{Sfn|ソロモン海戦闘旗|2018|p=408}}、軽快艦艇によるガ島急速輸送「[[鼠輸送]]」の実施を決定した{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=176|ps=第二梯団の輸送失敗}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=12-15|ps=聯合艦隊}}{{Efn|(二水戦8月25日1200受信){{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=589-591|ps=輸送方式の転換}}「カ」号作戦ハ左ニ依リ実施ノ方針ナルニ付、至急陸軍ト協定準備ヲ進メラレ度。 一 一木支隊川口支隊ノ輸送船ハ一時「ボーゲンビル」方面ニ避退ナルベク多兵力ヲ軽快艦艇ニテ逐次「ガ」島ニ輸送「ガ」島守備兵力ノ増強ヲ俟テ飛行場ヲ奪回/二 基地航空部隊、軽快艦艇、潜水艦等ニ依リ「ガ」島ノ空襲攻撃ヲ昼夜反覆シテ敵機並ニ飛行場ヲ撃砕スルト共ニ敵ノ増援ヲ阻止ス/三 飛行場ヲ奪回セバ速ニ飛行機ヲ進出、次イデ陸軍輸送船ヲ「ガ」島ニ入泊セシム/四 機動部隊、前進部隊ハ「ソロモン」諸島北方海域ヲ機宜行動シテ敵機動部隊ニ備フ }}。
3月15日、白雲など第9駆逐隊3隻は輸送船4隻(山菊丸、慶安丸、梅川丸、日連丸)を護衛して小樽を出撃、[[得撫島]]に向かった<ref name="叢書四四142">[[#叢書44|戦史叢書44巻]]142-143頁</ref>。対潜警報により[[釧路港]]に避難したあと、[[3月16日]]午後4時に釧路を出発した<ref name="叢書四四142" /><ref>[[#S1809一水戦日誌(6)]]p.48『一六(天候略)1600九駆山菊丸慶安丸梅川丸日連丸ヲ護衛釧路發2335薄雲ハ船團ヲ護衛反轉釧路ニ向フ|2335白雲被害ニ即應霞附近敵潜制圧ニ任ズ』</ref><ref>[[#S1809一水戦日誌(5)]]p.22『機密第151259番電 (ヘ乙)船團(山菊丸慶安丸梅川丸)(ホ)船團(日連丸)護衛艦九駆(霞白雲薄雲)三月十六日一六〇〇釧路發速力7.5節(以下略)』</ref>。同日午後11時35分、愛冠岬60km沖で米潜水艦[[トートグ (潜水艦)|トートグ]] の雷撃を受けた。白雲は轟沈し、日蓮丸も魚雷をうけて沈没した<ref name=":0">{{Cite book|author=田上俊三|title=昨日の敵は今日の友|date=|year=2004|accessdate=|publisher=聖公会出版|pages=25-29}}</ref>。白雲は橋本正雄艦長ら全乗員が戦死した<ref name="叢書四四142" />。日本軍記録 {{coord|42|18|N|145|11|E|}}<ref name="叢書四四142" /><ref>[[#第五艦隊AL作戦(5)]]p.29『十六(天候略)2335 N42°18′E145°11′白雲雷撃ヲ受ケ轟沈』</ref>。米軍記録 {{coord|42|25|N|144|55|E|}}。霞が[[爆雷]]投下による対潜攻撃を行ったがトートグを撃沈できず、薄雲は船団を護衛して釧路に退避した<ref name=":0" /><ref>[[#S1809一水戦日誌(5)]]p.23『機密第170015番電 2335北緯42度18分東経145度11分ニ於テ白雲雷撃ヲ受ケ轟沈船團ハ薄雲護衛シ釧路ニ避退セシム霞ハ附近制圧中』</ref><ref>[[#S1809一水戦日誌(5)]]pp.26-27『機密第171133番電 日連丸生存者少尉三名准尉一命見習士官一名下士官兵四二名(内死亡者二名)船員一名ガ0730頃北緯42度38分東経144度38分ニ於テ救助白雲乗員ハ總員壮烈ナル戦死ヲ遂ゲタルモノト認ム/一一三〇波風ヲ合同霞薄雲波風ハ現場附近ヲ掃蕩中』</ref>。


[[8月26日]]午前7時50分{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=15-17|ps=南東方面部隊及び第十七軍}}、南東方面部隊指揮官(十一航艦長官)は三水戦にガ島直行中止と、川口支隊一個大隊の27日夜ガ島揚陸を命じた{{Efn|一 川口支隊ハ予定変更シ直ニ「ラバウル」ニ回航、海軍艦艇ニ分乗ノ上「ガ」島ニ上陸セシムルニ決ス/二 川口支隊ノ約一個大隊(約六〇〇名)「ラバウル」ニ回航ノ途次洋上ニテ第二十駆逐隊ニ移乗ノ上二十七日「ガ」島ニ上陸セシムベシ 但シ海上模様右ノ移乗ニ適セザル場合「ラバウル」ニ回航スベシ/三 直接護衛兵力ハ直ニ別途手配ス{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=16}}。}}。また外南洋部隊および同部隊増援部隊(指揮官:[[第二水雷戦隊]]司令官[[田中頼三]]海軍少将)にも鼠輸送と27日夜ガ島揚陸を命じた{{Efn|(一木支隊)第二梯団ハ予定ヲ変更直ニ「ショートランド」ニ回航乗船中ノ陸軍兵力ヲ海軍艦艇ヲ以テ輸送「ガ」島ニ上陸セシムベシ 右ニ依ル第一次上陸ヲ二十七日夜ト予定{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=16}}。}}。南東方面部隊の命令をうけた三水戦と川口支隊は協議をおこなう{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=21a-23|ps=輸送開始と外南洋部隊の延期命令}}。26日夜半に洋上({{coord|1|5|N|156|35|E|}})で陸兵一個大隊約600名を輸送船から第20駆逐隊に移乗させ、軽巡「[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]」(第三水雷戦隊旗艦)が輸送船2隻<!-- 佐渡丸、浅香丸 -->を護衛してラバウルに送り、高速の駆逐艦4隻は27日夜にガ島揚陸をおこなう事になった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=22}}{{Efn|○第三水雷戦隊(二六-一六〇〇)地点「ケオニ」ニテ第二十駆逐隊ニ陸兵移乗終リ〔行間書込〕川口支隊600名三艦分乗 ガダルカナルニ向ケ発、二十七日二一〇〇着予定。第三水雷戦隊(駆逐隊欠)、輸送船ヲ護衛、ラボールニ向フ、28日〇三〇〇着予定{{Sfn|高松宮日記4巻|1996|p=463|ps=(昭和17年8月27日項)}}。}}。
*第一水雷戦隊の戦時日誌によると、3月13-15日に陸軍航空隊が北海道南方沖に米潜水艦数隻を発見しており、海軍への情報伝達の不備が白雲など喪失の一因と指摘している<ref>[[#S1809一水戦日誌(6)]]pp.18-19『(2)敵潜情報ノ入手及警報發令ニ関シテハ凡有手段ヲ講ズルヲ要ス特ニ陸軍航空部隊ノ發見情報ノ迅速入手ニ関シ準備アルヲ要ス (i)三月十三日乃至三月十五日北海道南方海面ニ於テ陸軍航空部隊ノ發見セル敵潜水艦情報ハ十六日0100頃陸軍計根別航空隊将校ノ釧路出張ニ依リ九駆司令発電ヲ経テ同海域ニ敵潜數隻存在シアルコト初メテ明トナレリ右情況ニ於テ釧路ヲ出撃セル「ヘ乙」船團ハ十六日夜日連丸白雲ノ被害ヲ惹起セリ』。</ref>。
*霞の砲術長であった田上俊三([[雷 (吹雪型駆逐艦)|雷]]での敵兵救助経験があり、白雲には海兵学校同期や直前まで部下だった者がいた)によれば、白雲轟沈直後に海上に投げ出された生存者の「オーイ」「オーイ」と叫ぶ声が聞こえていたが、敵潜水艦が海域にいたことや船団の護衛任務があったため、霞は救助を行うことができなかった。一旦小樽に戻った霞は再び現場に戻ったが、生存者の姿は既に全くいなくなっていた。この時期の釧路沖の[[海水温]]は低く、途中で力尽きたものと思われる<ref name=":0" />。
*日蓮丸の生存者も僅か46人<ref name=":1">{{Cite news|title=隠された「日連丸撃沈」|date=2015-08-16|url=https://www.yomiuri.co.jp/local/miyagi/feature/CO018253/20150815-OYTAT50094.html|accessdate=2018-09-20|language=ja|work=YOMIURI ONLINE(読売新聞)}}</ref>または47人<ref name=":0" />であり(轟沈した白雲に比べて沈没まで多少時間があり、[[いかだ|筏]]で漂流していたところを霞に救助された<ref name=":0" />)、大量の犠牲者を出した日蓮丸沈没の事実は遺族たちに伏せられた。真相が明らかになるのは戦後40年余りが経過してからのことであった<ref name=":1" />。


[[8月27日]]朝、第20駆逐隊は[[PBY (航空機)|飛行艇]]に触接された{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=194b-195}}。外南洋部隊指揮官(第八艦隊長官)は日本軍基地航空隊(第十一航空艦隊)のヘンダーソン基地空襲が不徹底と判断しており{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=194b-195}}「川口支隊の揚陸を28日夜に変更し、第20駆逐隊は[[ブーゲンビル島]][[ショートランド諸島|ショートランド泊地]]に寄港、第24駆逐隊司令[[村上暢之助]]大佐の駆逐艦3隻と合同せよ」と下令した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=22}}<ref name="外南洋(1)19">[[#外南洋増援部隊(1)]] pp.19-20〔 又(司令官)3sdノ護衛セル川口支隊ハ洋上ニ於テ輸送船ヨリ20dgニ移乗2sd司令官ノ指揮下ニ入リ同夜二一〇〇「タイボ」岬附近ニ揚陸ノ豫定ヲ以テ「ガダルカナル」ニ向ヒツツアリシモ20dgハ敵「コンソリデット」ノ觸接ヲ受ケ一方「ガダルカナル」ニ對スル航空攻撃行ハレザリシ爲二十七日ノ揚陸ハ二十八日夜ニ延期セラレタルヲ以テ24dg(凉風缺)磯風ハ「ショートランド」ニ引返シ20dgハ燃料ノ関係上「ショートランド」歸着ヲ断念シ二十八日Y婁ノ揚陸ニ応ゼン爲「イサベル」島附近ヲ適宜行動セリ 〕</ref>。この時、第20駆逐隊は[[サンタイサベル島]]北方沖まで移動しており、ショートランド泊地に寄港すると燃料が不足する状態だった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=22}}。そのため第20駆逐隊司令[[山田雄二]]大佐は、イサベル島北側で適宜待機し、28日午後にフロリダ諸島周辺で合流する方針を伝えた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=22}}<ref>[[#外南洋増援部隊(1)]] p.20〔 (ニ七)八月二十八日〇六〇〇24dg(凉風缺)磯風(陸兵計四五〇名分乗)ハ24dg司令指揮ノ下ニ「ショートランド」ヲ出撃「フロリダ」島北方海面ニ於テ20dgヲ合同同夜「ガダルカナル」島「タイボ」岬附近ニ揚陸ヲ決行セントセシモ… 〕</ref>。
3月31日、白雲は除籍された<ref>[[#内令昭和19年3月(5)]]p.41『内令第五百十三号|横須賀鎮守府在籍 軍艦 那珂 軍艦 香取|呉鎮守府在籍 軍艦 阿賀野 右帝国海軍籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 舞風|呉鎮守府在籍 驅逐艦 白雲|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 峯風 驅逐艦 追風 驅逐艦 文月 驅逐艦 海風|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 太刀風|右帝国驅逐艦籍ヨリ除カル(略)|昭和十九年三月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎』</ref>。同日附で第9駆逐隊は解隊され、薄雲と霞、不知火は新設の第18駆逐隊に編入した<ref>[[#内令昭和19年3月(5)]]p.39『内令第五百十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年三月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|(略)第九驅逐隊ノ項ヲ削ル|(略)第十八驅逐隊/薄雲、霞、不知火|(略)』</ref>。


[[8月28日]]午前6時、第24駆逐隊司令指揮下の輸送隊<ref name="外南洋(1)19" />([[海風 (白露型駆逐艦)|海風]]、[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]]、[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]])と{{Efn|第24駆逐隊所属の駆逐艦「[[涼風 (駆逐艦)|涼風]]」は損傷した軽巡「[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]」を護衛しており{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=586-588|ps=金龍丸及び「睦月」の沈没}}、[[陽炎型駆逐艦#第十七駆逐隊|第17駆逐隊]]所属の陽炎型駆逐艦「[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]」が24駆の指揮下に入っていた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=21b}}。}}、第六戦隊司令官[[五藤存知]]少将が指揮する重巡「[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]」と「[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]」はショートランド泊地を出撃した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=25}}{{Efn|第六戦隊の重巡洋艦「[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]」は8月28日午前2時過ぎショートランド泊地に到着した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=24b}}。同日午前7時15分、第二水雷戦隊司令官[[田中頼三]]少将(増援部隊指揮官)は駆逐艦「[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]」から「衣笠」に旗艦を変更した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=24b}}。}}。第20駆逐隊は、フロリダ諸島沖で第24駆逐隊と合流すべく南下を開始した{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=24a-29|ps=第一次輸送の挫折}}。燃料不足のため低速で行動を開始したが{{Efn|(昭和17年9月10日記事){{Sfn|高松宮日記4巻|1996|pp=552-553|ps=〔上欄〕〇八〇〇軍令部。佐薙中佐、報告(佐薙毅〈海兵50〉軍令部第一部第一課)}}第二水雷戦隊ガ陸兵輸送ヲグズグズシテヰタノト、川口支隊長ガ第二十駆逐隊ノ損害ヲキイテ、駆逐艦デハヤレヌ、南西方面ノ経験ニテ舟艇機動デヤレトテ動カズ、兵器ヲ主トシテ舟艇デヤルコトニシテ併用スルコトニテ、ヤットヤツタトノコト《陸軍バカリノ責任トハ誰レモ考ヘズ》。/第二十駆逐隊ハ燃料少ク低速ニテ行ツタタメ早ク敵航空圏内ニ入リ爆撃サレテ損害ヲウケタ(12k)。第二十四駆逐隊ガ揚陸ヲヤメテ引返シタコトハ、当時第八艦隊幕僚ハ損傷ナケレバ揚陸決行ノ電ヲ暗号ニツクラセ長官ニ伺ツタ処、長官ハ情況ガワカラヌカラ止メヨトノコトナリシモ、電信室デ打ツテシマツタノデ、ソレヲ取消シタコトアリ。(以下略)}}、これが敵機の空襲を受ける要因となった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=26}}。
==歴代艦長==

午前8時、第24駆逐隊司令は第20駆逐隊に対し、ガ島での揚陸方法を下令した{{Efn|第24駆逐隊司令(28日0800)一 当隊(涼風欠)磯風二十八日〇二〇〇「タイボ」岬ノ六〇度一五,五浬ヨリ針路二四〇度速力三〇節 二〇一〇減速二〇三〇「タイボ」岬ノ六〇度二、三浬ヨリ針路二七〇度八八〇〇米前進後左斉動ニテ錨地進入 距岸約六〇〇米水深二〇米ニテ投錨ノ予定/二 二〇〇〇頃ヨリ磯風分離視界内ニアリテ東口ノ警戒ニ当リ、海風作業終了後之ト交替陸兵ヲ揚陸/三 貴隊ハ合同後概ネ八〇〇米ニテ当隊ニ続行陸兵揚陸後便宜帰投「ショートランド」ニテあけぼの丸ヨリ補給スベシ/四 (通信件、以下略){{Sfn|戦史叢書83|1975|p=25}}。}}。直後の午前8時20分、第20駆逐隊は[[B-17 (航空機)|B-17]]に触接される{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=25}}。午後2時30分、イサベル島東海上のラモス島付近でヘンダーソン飛行場から飛来した[[SBD (航空機)|SBDドーントレス]]{{Sfn|ニミッツ|1962|p=123}}(米軍の記録では11機)の攻撃を受けた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=26}}{{Efn|攻撃隊指揮官は[[アメリカ海兵隊]]の[[:en:Richard C. Mangrum|リチャード・C・マングラム]]中佐であったという{{Sfn|ソロモン海戦闘旗|2018|p=431}}。}}。ドーントレス1機撃墜と引き換えに{{Sfn|ソロモン海戦闘旗|2018|p=431}}、第20駆逐隊は大損害をうける<ref name="外南洋増援(1)20" /><ref>[[#外南洋増援部隊(5)]] pp.27-28〔 天霧駆逐艦長(宛略)被害ノ状況 〕</ref>。「白雲」は軽負傷2名だったが機関室浸水により航行不能に陥った{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=26}}<ref>[[#外南洋増援部隊(5)]] p.11〔 天霧駆逐艦長(宛略)20dg戦斗概報 一.一四〇〇ヨリ一六〇〇ノ間敵二〇機ノ雲間ヨリスル執拗ナル空爆ヲ受ク全砲撃ヲ集中撃攘セリ/二.戰果 撃墜五機他ニ不確實ナルモノ二機/三.天霧機密第四〇番電ノ通 〕</ref>。また「朝霧」が沈没{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=280a|ps=朝霧(あさぎり)}}、「夕霧」も至近弾で損傷し<ref>[[#S1709八艦隊日誌(1)]] p.60〔 二十八日(天候略)一木川口支隊ノ第一回増援隊発進シタルモ敵機ノ空襲ニ依リ中止朝霧沈没夕霧白雲大破ス 〕、[[#外南洋増援部隊(1)]] p.8〔 20dg|(始)八月二十七日|(終)八月三十一日(朝霧白雲八月二十八日)|二十八日敵機ノ爆撃ニ依リ朝霧沈没白雲航行不能夕霧相當ノ損傷ヲ受ク 〕</ref>、山田司令らが戦死した<ref>[[#外南洋増援部隊(5)]] p.17〔 20dg司令|二十九日一四二八3sd参謀、八通司令(2sd参謀)|發鷹松少佐、宛川口支隊長 一.朝霧沈没ニ伴フ戰死六十二名(本中隊将校全部及大隊砲小隊手柴中尉ヲ含ム)他ハ全部収容セリ/二.大隊砲二門及弾薬全部沈没/三.重傷三軽傷二 〕</ref>。第20駆逐隊の苦境は青葉偵察機も報告している{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=26}}。アメリカ側の記録では、「朝霧」を撃沈して「白雲」を撃破したのはフライト300(エンタープライズ混成部隊)、「夕霧」に損傷を与えたのは海兵隊機であったという{{Sfn|第二次大戦のSBD部隊と戦歴|2003|p=52b}}。

大損害をうけた第20駆逐隊はガ島揚陸を断念した{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=107}}。「白雲」は「天霧」に曳航され、「夕霧」と共にイサベル島北側からショートランドへ向かった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=26}}<ref>[[#外南洋増援部隊(1)]] p.21〔 天霧ハ白雲ヲ曳航夕霧護衛ノ下ニ「ショートランド」ニ向フ 〕</ref>。救援の駆逐艦「[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]」(二水戦、第15駆逐隊)は[[8月29日]]昼に第20駆逐隊と合流し{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=27}}、30日朝に4隻でショートランド泊地に到着した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=30}}。この状況を受けて、第24駆逐隊司令は指揮下3隻(海風、江風、磯風)のガ島行を中止した{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=194b-195}}{{Sfn|高松宮日記4巻|1996|pp=480-481|ps=(昭和17年8月28日項)}}。輸送作戦は失敗し、当時の連合艦隊参謀長[[宇垣纏]]少将は陣中日誌『[[戦藻録]]』に「 別働隊たる二十四駆逐隊は敵に発見せらるる所なかりしも、右報に依り引返し、第八艦隊は強行を下令、又之を取消す等の挙に出で茲に鼠上陸の第一日は見事に失敗せり。如何にするとも此敵機を壊滅するに非ざれば目的を達し難し 」と記述した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=27}}。連合艦隊は第20駆逐隊の陸兵を健在の「陽炎」と「天霧」に移すよう命令していたので{{Efn|第六戦隊ノ一艦ヲ以テ白雲ヲ曳航、陸兵ハ他ノ二艦ニ収容今夜第二十四駆逐隊 第十一駆逐隊ト共ニ上陸ヲ結構セシメラルルヲ適当ト認ム{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=30}}(二水戦29日1524受信)。}}、外南洋部隊指揮官は敷設艦「[[津軽 (敷設艦)|津軽]]」に「白雲」曳航を命じた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=30}}{{Sfn|高松宮日記4巻|1996|pp=487-488|ps=(昭和17年8月30日項)}}。このあと損傷艦はトラック泊地での応急修理と内地回航を下令された{{Sfn|高松宮日記4巻|1996|p=558|ps=○第三水雷戦隊(七-一三四七)「夕霧」「白雲」ハ第八艦隊作一〇号通行動スベシ《「トラック」ニテ応急修理内地回航ノ電令ナリ》}}。

10月1日、第20駆逐隊は解隊された<ref name="S17内令1824" /><ref>[[#S1709呉鎮日誌(3)]] pp.17-18〔 一日〇一四〇海軍大臣(宛略)官房機密第一〇一四〇〇五番電 一、驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 第二十驅逐隊ノ項ヲ削リ第三十驅逐隊ノ項中睦月ヲ削リ第三十一驅逐隊ノ項中ニ[[高波 (駆逐艦)|高波]]ヲ加フ/二、朝霧及睦月ヲ驅逐艦籍ヨリ除カル|無電 〕</ref>。「白雲」と「夕霧」は共に[[呉鎮守府]]警備駆逐艦となり<ref name="S17内令1825" /><ref>[[#S1709呉鎮日誌(4)]] p.17〔 一日(天候略)一.戦時編制一部改定(イ)夕霧及白雲ヲ呉鎮部隊ニ編入 (ロ)朝霧及金龍丸ヲ戦時編制ヨリ除カル/二.夕霧及白雲ヲ警備驅逐艦ト定メラル(以下略) 〕</ref>、呉鎮守府部隊に編入される<ref name="S1709呉鎮(3)p4" /><ref>[[#S1709呉鎮日誌(3)]] p.18〔 一日〇一〇八軍令部總長(宛略)大海機密第〇一〇一〇八六三番電(中略)一、第二十驅逐隊ヲ解隊シ天霧ヲ第八艦隊ニ夕霧及白雲ヲ呉鎭守府部隊ニ編入/二、朝霧及金龍丸ヲ戰時編制ヨリ除ク|無電 〕</ref>。2隻は修理のため日本に戻ることになった<ref>[[#S1709呉鎮日誌(3)]] p.19〔 二日0910呉鎮長官(宛略)夕霧及白雲ハ呉歸着後整備作業ニ従事スベシ 〕</ref>。10月7日、軽巡洋艦「[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]」と駆逐艦「白雲」は入泊した<ref>[[#S1707呉防戦(4)]] p.13〔 (ホ)十月七日 神通 白雲入泊 〕</ref>。翌8日、[[呉港|呉軍港]]に到着した<ref>[[#S1709呉鎮日誌(4)]] pp.1-2〔 四参考(イ)部下艦船(特設艦船ヲ含ム)ノ行動/神通〕〔 四参考(イ)部下艦船(特設艦船ヲ含ム)ノ行動/白雲 〕</ref>。「白雲」の修理は[[呉海軍工廠]]と、[[藤永田造船所]]で行われた<ref name="S1709呉鎮(8)1" />。この頃、藤永田造船所では夕雲型駆逐艦「[[大波 (駆逐艦)|大波]]」を建造していた{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94b|ps=大波(おおなみ)}}。11月15日、[[平山敏夫]]少佐は白雲駆逐艦長と大波艤装員長の兼務を命じられた<ref name="jirei988">{{アジア歴史資料センター|C13072088200|昭和17年11月16日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第988号 p.12佐藤免職(軍政本部出仕)、p.13平山補職}}</ref>。11月23日、大波艤装員事務所は事務を開始する<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070415400|昭和17年11月30日(月)海軍公報(部内限)第4254号 p.42}}〔 ○事務所設置 大波艤装員事務所ヲ十一月二十三日大阪藤永田造船所内ニ設置シ事務ヲ開始セリ 〕</ref>。
12月20日、[[吉川潔]]中佐が大波艤装員長に任命される<ref name="jirei1017">{{アジア歴史資料センター|C13072088600|昭和17年12月21日(発令12月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1017号 p.32吉川(補職)、p.33平山(免兼職)}}</ref>{{Efn|吉川潔中佐は、白露型駆逐艦「[[夕立 (白露型駆逐艦)|夕立]]」が[[第三次ソロモン海戦]]で活躍・沈没した時の夕立駆逐艦長である{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=293|ps=夕立(ゆうだち)}}{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=180}}。}}。平山少佐(白雲駆逐艦長、大波艤装員長)は兼務を解かれた<ref name="jirei1017" />。

なお『[[戦史叢書]]83巻』200-202ページでは『 1942年10月11日-12日の[[サボ島沖海戦]]に「白雲」が参加し、輸送隊の「[[夏雲 (駆逐艦)|夏雲]]」が沈没したあと{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=91c|ps=夏雲(なつぐも)}}、「白雲」と「朝雲」が「叢雲」の救援と処分を行った 』としている{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=200-202|ps=「叢雲、夏雲」の沈没}}。このうち「白雲」は修理が必要な状態であり<ref>[[#S1709呉鎮日誌(4)]] p.35〔 廿七(略)官房機密第一三一三五號ニ依リ白雲及夕霧損傷部復舊大修理竝ニ其ノ他整備ノ件指令 〕</ref>、実際にサボ島沖海戦に参加したのは「白雪」であった{{Efn|〔 15日1800(将旗)3sd(宛略)<ref>S1710四水戦日誌(3) pp.17-18</ref> 3sd機密第151800番電 SNB ZOB戦斗概報第三號/一.十一日夜6Sノ夜戦ニ際シ直衛d[[吹雪 (吹雪型駆逐艦)|吹雪]]沈没[[初雪 (吹雪型駆逐艦)|初雪]]被弾前部水線上破口荒天航行竝ニ二十四節以上ノ航行危険/二.[[日進 (水上機母艦)|日進]] [[千歳 (空母)|千歳]]11dg(2D欠)9dg([[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]]欠)ハ増援兵力ヲ「ガ」島ニ揚陸シタル後11dgハ[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]救援ニ赴キ「ソロモン」諸島南方海面ヲ経テ避退中(2/3未着)一四二〇夏雲沈没叢雲大火災爆發収拾ノ途ナク朝雲白雪乗員ヲ収容シテ一旦避退夜陰ニ乗ジ更ニ叢雲ヲ曳航セントセシモ大火災艦尾切断シテ見込ナク遂ニ之ヲ処分セリ 〕}}。「白雲」と「叢雲」は吹雪型駆逐艦{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=275b|ps=叢雲(むらくも)}}、「朝雲」と「夏雲」は[[朝潮型駆逐艦]]である{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|pp=300-301|ps=朝雲(あさぐも)}}。さらに「白雲」と「白雪」は字体が似ている{{Efn|○書類竝ニ郵便物表記方ニ關スル件<ref name="S16海軍公報(限)3825">{{アジア歴史資料センター|C12070395800|昭和16年6月21日(土)海軍公報(部内限)第3825号 p.19}}</ref> 驅逐艦白雲ト白雪トハ字體見誤易キ爲メ從來モ書類ノ誤送等不尠候處最近其ノ數激増シ重要書類ノ不達、誤達、延着益々多ク甚シキモノハ准士官以上ノ誤着任等アリカクテハ事務處理上遺憾ニ不尠候條書類及郵便物ノ發送ニ當リテハ其ノ表記ニ十分注意相成度/追テ事故防止ノ爲自今左ノ通 雲ノ字ニ振假名ヲ添付相成度<br/>「 驅逐艦 白<ruby><rb>雲</rb><rt>クモ</rt></ruby> 」(第十二驅逐隊) }}。
<!-- このサボ島沖海戦で駆逐艦「[[吹雪 (吹雪型駆逐艦)|吹雪]]」が沈没し{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=273a|ps=吹雪(ふぶき)}}、[[ネームシップ]]を失った吹雪型駆逐艦は「[[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪型駆逐艦]]」に改称された<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070173700|昭和17年11月(4) 内令(昭和17年11月17日~昭和17年11月25日) }} p.24〔 内令第二千百十五號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年十一月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等ノ部中「吹雪型」ヲ「白雪型」ニ改メ同項中「、吹雪」「、叢雲」「、[[朧 (吹雪型駆逐艦)|朧]]」ヲ、同朝潮型ノ項中「、[[夏雲 (駆逐艦)|夏雲]]」ヲ削ル 〕</ref>。-->

=== 1943年の行動 ===
[[1943年]](昭和18年)3月上旬、修理を終えた「白雲」は訓練に従事した<ref>[[#S1801呉鎮日誌(6)]] p.60〔 五(天候略)驅逐艦白雲ハ艦長所定ニ依リ三月八日ヨリ三月十一日マデ伊予灘ニ於テ單獨訓練ヲ實施セシム 〕</ref>。4月1日、駆逐艦「白雲」と「薄雲」は'''[[朝潮型駆逐艦#第四十一駆逐隊→第九駆逐隊|第9駆逐隊]]'''に編入され、9駆は3隻編制(朝雲、薄雲、白雲)となった<ref name="S18内令579号" />{{Efn|ビスマルク海海戦でネームシップの駆逐艦「[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]」が沈没し{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=297|ps=朝潮(あさしお)}}、朝潮型駆逐艦は4月1日付で「[[満潮 (駆逐艦)|満潮型駆逐艦]]」と改定されていた<ref name="S18内令568号">[[#内令昭和18年4月(1)]] p.20(内令第五百六十八號)</ref>。「薄雲」と「白雲」が編入されるまで、第9駆逐隊は「[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]」単艦であった{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=91a|ps=朝雲(あさぐも)}}。}}。
第9駆逐隊は北方部隊に編入され{{Efn|北方部隊指揮官は、第五艦隊司令長官[[河瀬四郎]]海軍中将であった{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=446}}。}}、戦時編制の改定により[[水雷戦隊#第一水雷戦隊|第一水雷戦隊]](軽巡[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]{{Efn|一水戦旗艦を「木曾」に譲り4月13日[[占守島]]片岡湾発{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=446}}、17日以降は[[舞鶴海軍工廠|舞鶴工廠]]で修理をおこなう{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=524}}。北方情勢急変のため急速修理をおこない{{Sfn|舞廠造機部|2014|pp=255-259|ps=「多摩」「阿武隈」を急ぎ出港させよ}}、5月17日舞鶴発、20日に到着して一水戦旗艦に戻る{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=545b}}。}}、軽巡「[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]」{{Efn|舞鶴で修理中の4月28日、第一水雷戦隊に編入され旗艦となる{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=446}}。5月3日、幌筵着{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=446}}。5月20日、阿武隈の復帰にともない第21戦隊に戻る{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=545b}}。}}、第6駆逐隊{{Efn|4月15日より内南洋部隊編入{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=446}}。}}、第9駆逐隊、第21駆逐隊)となった{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=523a-526|ps=北方情勢と北方部隊の概況}}。当時の第9駆逐隊司令は、[[小西要人]]大佐であった{{Sfn|戦場の将器|1997|p=155}}。「白雲」は呉から横須賀に移動したあと、重巡洋艦「[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]」を護衛して北方に向かった{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=524}}<ref>[[#第五艦隊AL作戦(3)]] p.27〔 麾下艦船部隊ノ行動|第九駆逐隊|白雲 〕、[[#S1803一水戦日誌(3)]] p.34〔 一五(天候略)摩耶白雲、陸奥湾ニ向ケ横須賀発 〕</ref>。[[青森県]][[大湊 (むつ市)|大湊]]からは3隻(摩耶、白雲、若葉)で[[幌筵島]]に向かった{{Sfn|高松宮日記6巻|1997|p=212|ps=○〔空白〕(二七-〇六二〇)一、「摩耶」「白雲」「若葉」、〇五〇〇大湊出撃《幌筵ニ進出》。○第五艦隊(二七-〇四一二)第一水雷戦隊司令官ハ「木曽」ヲ率ヰ、準備出来次第舞鶴発、幌筵ニ進出セヨ。}}。この頃、[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル島攻防戦]]や[[ニューギニアの戦い#ラエ・フォン半島をめぐる戦い(東部ニューギニア)|ニューギニア方面輸送作戦]]で最前線を奔走してきた「朝雲」は{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|pp=300-301|ps=朝雲(あさぐも)}}、5月下旬まで横須賀で修理と整備をおこなった<ref>[[#第五艦隊AL作戦(3)]] pp.33-34〔 別紙第二 〕(昭和18年5月)</ref>。「朝雲」の修理が完了して北方に進出するまで<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070432000|海軍公報(部内限)第4418号 昭和18年6月19日(土) p.3}}〔 ○司令驅逐艦復歸 第九驅逐隊司令ハ五月二十五日司令驅逐艦ヲ朝雲ニ復歸セリ 〕</ref>、「薄雲」{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=524}}や「白雲」が臨時の司令駆逐艦となった<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070431200|海軍公報(部内限)第4383号 昭和18年5月8日(土) p.36}}〔 ○司令驅逐艦變更 第九驅逐隊司令ハ四月三十日司令驅逐艦ヲ薄雲ニ變更セリ 〕</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C12070431300|海軍公報(部内限)第4387号 昭和18年5月13日(木) p.16}}〔 ○司令驅逐艦變更 第九驅逐隊司令ハ五月八日司令驅逐艦ヲ白雲ニ變更セリ 〕</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C12070431700|海軍公報(部内限)第4402号 昭和18年6月1日(火) p.8}}〔 ○司令驅逐艦復皈 第九驅逐隊司令ハ司令驅逐艦ヲ一時白雲ニ變更中ノ處五月十五日薄雲ニ復皈セリ 〕</ref>。

5月11日1400、護衛隊(木曾、白雲、若葉)は特設水上機母艦「[[君川丸 (特設水上機母艦)|君川丸]]」を護衛し{{Sfn|青春の棺|1979|pp=161-162}}、[[千島列島]]北東端の[[幌筵島]]を出撃して[[アッツ島]]へむかった{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=526}}{{Sfn|市川、キスカ|1983|pp=39-40|ps=(市川は当時の君川丸主計長)}}。[[5月12日]]午前0時、「白雲」は解列して幌筵にむかった{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=526}}。同12日午前10日、アメリカ軍はアッツ島に上陸を開始、[[アッツ島の戦い]]が始まった{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=529|ps=五月十二日の状況}}{{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=243-244}}。連合国軍のアッツ島来襲時{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=524}}、幌筵在泊の大型艦は第五艦隊旗艦「[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]」しかいなかった{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=535-537|ps=北方部隊の作戦}}{{Sfn|高松宮日記6巻|1997|p=252|ps=○「那智」「初霜」、幌筵ニ向ケ「横」発(一一-〇〇一四)}}。北方部隊指揮官(第五艦隊司令長官)は修理中や移動中の各艦を幌筵に進出させるとともに、君川丸水偵による空襲、現有水上兵力による敵撃滅を試みた{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=536}}{{Sfn|高松宮日記6巻|1997|pp=257-258}}。同12日2000、「摩耶」は「白雲」を率いて幌筵を出撃した{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=536}}。だが悪天候と濃霧により護衛隊と会合できず、君川丸の水偵も発進できず{{Sfn|市川、キスカ|1983|pp=41-42}}、14日朝になり各部隊の幌筵帰投を命じた{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=537}}{{Sfn|青春の棺|1979|pp=165-166}}。ちょうど重巡「[[那智 (重巡洋艦)|那智]]」と駆逐艦「[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]」が幌筵に到着したので、第五艦隊旗艦は「那智」に戻った{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=537}}{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=545a-547|ps=北方部隊の状況}}。

連合艦隊からの増援部隊が加わり、5月15日時点の「白雲」は軍隊区分において北方部隊の水雷部隊に所属していた{{Efn|北方部隊電令作第312号による軍隊区分は{{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=263-264}}、主隊(那智、木曾、[[多摩 (軽巡洋艦)|多摩]]、摩耶)、支援部隊([[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]、[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]])、水雷部隊(阿武隈、第9駆逐隊〈朝雲、白雲、薄雲〉、第21駆逐隊〈[[若葉_(初春型駆逐艦)|若葉]]、[[初霜_(初春型駆逐艦)|初霜]]〉、駆逐艦〈[[長波 (駆逐艦)|長波]]、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]、[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]〉)、潜水部隊、航空部隊、附属部隊、17日付で第五艦隊編入の第1駆逐隊([[神風 (2代神風型駆逐艦)|神風]]、[[沼風 (駆逐艦)|沼風]])となっていた{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=546}}。}}。

20日、北方部隊はアッツ島を包囲する米艦隊を奇襲すると共に、第1駆逐隊(神風、沼風)によるアッツ島輸送を発令したが、出撃は延期された{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=546}}{{Sfn|五月雨出撃す|2010|p=215}}。「神風」と「沼風」は弾薬や糧食を満載し、[[ウェーク島の戦い|ウェーク島攻略戦]]における[[葵 (駆逐艦)|第32号哨戒艇]]と[[萩 (樅型駆逐艦)|第33号哨戒艇]]のように{{Sfn|戦史叢書38|1970|pp=204-205|ps=哨戒艇の擱坐}}、アッツ島に[[座礁|擱坐]]揚陸する予定であったという{{Sfn|青春の棺|1979|pp=169-170}}{{Efn|〔上欄〕〇八〇〇軍令部{{Sfn|高松宮日記6巻|1997|p=266|ps=(昭和18年5月14日項)}}(中略)敵ノ上陸戦ハ積極的ニシテ楽観ヲ許サズ。一~二日間ガ大切ナリ。緊急増援ハ小数ニテモ補充、士気振作ニ必要ナリ。/一案「神風」「沼風」ニテ擱坐ノツモリニテ進入セシム。(極メテ困難ナレバ、有力ナル駆逐艦ニ皈リノ燃料モモタシテ会敵セバ、敵ヲ撃破シ、最後ニハ擱坐モスルツモリデヤルヲ可トス。艦隊決戦デナクテモ敵ヲヤツツケルコトハ大切ナリト云フモアリ)(以下略)}}。

5月25日、北方部隊の軍隊区分が変更され、「白雲」は第一水雷戦隊司令官が指揮する前衛部隊に所属した{{Efn|前衛部隊の編成は、一水戦司令官直率(阿武隈、木曾、朝雲、白雲、薄雲、長波)、挺身隊(若葉、初霜)、輸送隊(沼風、神風 ){{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=554-557|ps=北方部隊の作戦/水上部隊}}。}}。北方部隊は、前衛部隊によるアッツ島緊急輸送作戦を命じた{{Efn|北方部隊信電令第四四号{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=556}}(5月25日1315)一 第二軍隊区分トシ長波ヲ前衛部隊ニ響ヲ主隊ニ編入ス/二 前衛部隊ハ成ル可ク速ニ出動 天象ヲ利シ熱田湾方面ニ進出敵ヲ奇襲シナシ得レバ好機駆逐艦ニ依ル緊急輸送連絡員ノ収容ヲ行フベシ/三 主隊ハ幌筵方面ニ於テ待機敵情ニ応ジ出撃之ヲ支援シ爾余ノ部隊ニ関シテハ別令ス/四 X日ヲ五月二十五日トシY日ヲ二十七日ト予定ス }}。同25日夕刻{{Sfn|五月雨出撃す|2010|p=216|ps=五月二十五日(幌筵海峡)}}、前衛部隊は幌筵海峡を出撃してアッツ島へむかった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=300}}{{Sfn|高松宮日記6巻|1997|pp=332-333|ps=(昭和18年6月3日項)○第五艦隊司令長官(二-一七五二)}}。だが悪天候のため、旧式駆逐艦の航行は困難であった{{Sfn|青春の棺|1979|pp=169-170}}。一水戦司令官は28日0145に第1駆逐隊の幌筵帰投を命じる{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=556}}{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=302}}。5月29日{{Sfn|舞廠造機部|2014|p=264}}、アッツ島守備隊は守備隊長[[山崎保代]]陸軍大佐を含め[[玉砕]]した{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=549-550|ps=アッツ島における状況}}{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=158-159}}。前衛部隊は洋上で玉砕電を受信し、幌筵に帰投した{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=306}}{{Sfn|青春の棺|1979|pp=171-172}}。

アッツ島玉砕後の6月6日、[[幌筵島]]泊地に停泊中の第一水雷戦隊旗艦「[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]」において、一水戦司令官[[森友一]]少将が[[脳溢血]]で倒れた{{Sfn|市川、キスカ|1983|p=64}}{{Sfn|戦場の将器|1997|p=150}}。同6日夜、[[カムチャッカ半島]][[ロパートカ岬]]南方海面で行動中の第1駆逐隊(神風、沼風)が対潜攻撃をおこない{{Sfn|高松宮日記6巻|1997|pp=341-342}}、「白雲」と「薄雲」が支援に向かった<ref>[[#S1806一水戦日誌(1)]] p.37〔 六日(天候略)2030薄雲白雲出撃 〕</ref>{{Efn|同方面では潜水艦[[ランナー (SS-275)|ランナー]] (''{{lang|en|USS Runner, SS-275}}'') が行動していた。}}。同日深夜<ref name="S1806一水戦(1)18a" />、「白雲」は「沼風」と衝突した{{Efn|(昭和18年6月6日)<ref>{{アジア歴史資料センター|C16120658200|昭和16.12~昭和18.12 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の1/昭和18年6月 pp.2-3}}、{{アジア歴史資料センター|C16120635900|昭和18.2.1~昭和18.8.14 太平洋戦争経過概要 その5(防衛省防衛研究所)18年6月1日~19年6月12日 pp.6-7}}</ref>〔 1745|「カムチャツカ」半島ノ南端143°17′ニテ1dg(神風 沼風)ハ敵(潜水艦)発見制圧中更ニ徹底的攻撃ノ爲(司令官)1Sdハd×2(白雲、薄雲)ヲ増援下令/2200|薄雲、白雲(薄雲艦長指揮)1dgト会合ノ予定ニテ行動 霧ニ雨ヲ交ヘ視界500-1000ニテ合同断念/2250|以後別ニ(潜水艦)発見地点ヲ中心トシテ10′圏内ノ敵(潜水艦)掃蕩中/2308|「ロパッカ」岬ノ122°12′ニ霧中白雲ノ艦首ヲ以ツテ沼風ノ右舷前部ニ衝突 1Sd(司令官)ハ直ニd×2ヲ救援セシム(朝雲/9dg 若葉/21dg)|北方 5F|敵(潜水艦)×1ハ一旦潜没セシモ潜望鏡ノ根元迄浮上後後方ニ傾キタル儘沈下多量ノ油湧出撃沈確実/沼風士官室右舷大破前部浸水 微速力ニテ航行可能/白雲ハ艦首湾曲一部切断操舵困難自力航行可能幌筵ニ向フ 〕}}。「沼風」は大破した<ref>[[#S1806一水戦日誌(1)]] p.18〔 一.沼風士官室右舷大破全部浸水第一缶室以後無事自力航行不能/二.白雲艦首右舷ニ湾曲錨鎖庫塗具庫ニ浸水航行差支ナシ 〕</ref>。「白雲」も艦首一部切断の損傷を受けた<ref>[[#S1806一水戦日誌(1)]] p.20〔 白雲機密第070230番電沼風自力航行可能(微速)本艦艦首切断ノ為舵利カズ漂泊作業中 〕</ref>。乗組員に異常はなかった<ref name="S1806一水戦(1)38" />。両艦は応急修理で自力航行が可能となり<ref>[[#S1806一水戦日誌(1)]] p.21〔 9dg機密第070400番電 沼風士官室右舷及艦橋下部大破六節ニテ自力航行可能白雲ハ0415頃應急修理完成六節程度ニテ自力航行可能ノ見込 若葉ハ合同後沼風ヲ朝雲ハ白雲ヲ護衛幌筵海峡通過幌筵ニ帰投ス 〕</ref>、「白雲」は「朝雲」に、「沼風」は「若葉」に護衛されて[[幌筵島]]に帰投した{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=599}}。

翌7日朝、「阿武隈」は森少将を[[大湊警備府]]に移送するため幌筵を出発した{{Sfn|市川、キスカ|1983|pp=65-66}}{{Efn|6月8日付で[[木村昌福]]少将が第一水雷戦隊司令官に任命され{{Sfn|戦場の将器|1997|p=71}}、6月11日に大湊の「阿武隈」に箸任した{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=315}}{{Sfn|市川、キスカ|1983|pp=68-69}}。}}。「白雲」は幌筵に戻ってきており、「阿武隈」や「五月雨」など在泊艦艇からは「白雲」の損傷具合がよく見えたという{{Sfn|市川、キスカ|1983|pp=65-66}}{{Sfn|五月雨出撃す|2010|p=220|ps=六月七日(幌筵海峡)}}。「白雲」は在泊の[[重巡洋艦]]に接舷して修理を行った<ref name="S1806一水戦(1)38">[[#S1806一水戦日誌(1)]] p.38〔 七日(天候略)0115朝雲出撃/0210若葉出撃/0900阿武隈大湊ニ向ケ幌筵出撃|0030朝雲ニ出撃ヲ命ズ/0129若葉ニ出撃発令(通信0150)/0120朝雲出撃/0200若葉出撃/0800若葉幌筵皈着/0900頃 朝雲 白雲 沼風ヲ護衛シ幌筵ニ皈投/0930薄雲幌筵皈着|一.白雲ハ上甲板線ヨリ下方艦首ヨリ九米迄切断屈曲塗具庫錨鎖庫ニ浸水セリ人員異常ナシ/二.白雲[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]ニテ応急処理 〕</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C16120635900|昭和18.2.1~昭和18.8.14 太平洋戦争経過概要 その5(防衛省防衛研究所)18年6月1日~19年6月12日 }} p.9(昭和18年6月)|8|沼風(1dg)白雲(9dg)ハ幌筵ニテ応急修理|北方 5F|[[那智 (重巡洋艦)|那智]](21S)[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]](5S)ニ横付 十二日頃ニ概ネ原速ニテ内地回航可能ノ見込 〕</ref>。6月12日、第五戦隊は北方部隊からのぞかれ、「白雲」も北方部隊・水雷部隊から除かれた{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=598}}。同日、第五戦隊と共に幌筵を出発し{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=599}}、「白雲」のみ大湊へ移動した<ref>[[#第五艦隊AL作戦(3)]] pp.38-41〔 別紙第二 〕(昭和18年6月)、[[#S1806一水戦日誌(1)]] p.40〔 一二(天候略)0600二十一駆(欠初春)五戦隊ヲ護衛大湊ニ向ケ幌筵発/0630白雲修理ノ為大湊ニ向ケ幌筵発(第二天洋丸護衛) 〕</ref>。続いて大湊から[[函館港]]に回航され、本格的な修理に入った<ref>[[#S1806一水戦日誌(1)]] p.2〔 白雲ハ十二日幌莚海峡発大湊爾後函館ニテ修理 〕、[[#S1806一水戦日誌(2)]] pp.36-37〔 (二)麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和18年7月)</ref><ref name="05F(3)44">[[#第五艦隊AL作戦(3)]] pp.44-47〔 別紙第二 麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和18年7月)</ref>。このため第9駆逐隊の「朝雲」と「薄雲」{{Sfn|戦場の将器|1997|pp=166-167}}が参加した[[キスカ島撤退作戦]]には加わっていない<ref name="05F(3)44" />。

「白雲」が[[函館市]]で修理中の同年8月5日<ref>[[#第五艦隊AL作戦(4)]] pp.7-8〔 別紙第一 麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和18年8月)、[[#S1808一水戦日誌(4)]] pp.9-10〔(二)麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和18年8月)</ref>、日本海軍は第十二航空艦隊と第五艦隊により[[北東方面艦隊]]を新編した{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=666-669|ps=北東方面艦隊の編成}}{{Sfn|戦史叢書85|1975|pp=160-161|ps=北東方面艦隊新編}}。第五艦隊麾下の各部隊・各艦は「北東方面部隊」として、引き続き[[千島列島]]や[[北海道]]周辺での作戦に従事する{{Sfn|戦史叢書85|1975|p=161|ps=兵力部署の変更}}。
この頃、舞鶴海軍工廠で満潮型駆逐艦<ref name="S18内令568号" />「[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]」の修理が完成し{{Sfn|舞廠造機部|2014|pp=260-261|ps=駆逐艦霞 実験のため北洋へ}}{{Efn|[[陽炎型駆逐艦#第十八駆逐隊|第18駆逐隊]]の駆逐艦3隻は1942年(昭和17年)7月5日に[[キスカ島]]でアメリカ潜水艦[[グロウラー (潜水艦)|グロウラー]]に襲われる([[7月5日の海戦 (1942年)|7月5日の海戦]]){{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=326-327|ps=米潜水艦の作戦}}。駆逐艦[[霰 (朝潮型駆逐艦)|霰]]が沈没{{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=446b-447}}、駆逐艦2隻(霞、不知火)が大破して船体切断に至るという大被害を受けた{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=272-274}}。2隻は舞鶴海軍工廠で修理をおこなっていた{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=287-288}}{{Sfn|不知火の軌跡|2016|pp=81-84|ps=バックで舞鶴に向かう}}。}}、9月1日付で第9駆逐隊に編入された<ref>[[#内令昭和18年9月(1)]] p.26〔 内令第千八百十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年九月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「白雲」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ 〕、[[#S1809一水戦日誌(1)]] p.6〔(三)水雷部隊ノ行動(1)九月一日霞ハ第九駆逐隊ニ編入セラレ陸奥海湾ヲ經テ那智ヲ護衛六日幌筵海峡ニ進出シ阿武隈及第九駆逐隊(白雲欠)ハ北方海上防衛主兵力トシテ幌筵海峡ニ在リ傍ラ訓練ニ從事ス 〕</ref>。9月21日、「白雲」の修理が終わる<ref>[[#S1809一水戦日誌(1)]] p.7〔(7)白雲ハ二十二日修理完成函館発大湊小樽ヲ經テ幌筵海峡ニ進出 薄雲ハ三十日出撃武呂頃湾ニ行動 第三十六共同丸ノ護衛及測量協力ニ任ズ 〕</ref><ref name="S1809一水戦(1)8">[[#S1809一水戦日誌(1)]] pp.8-10〔(二)麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和18年9月)</ref>。大湊と小樽を経由して幌筵に進出した<ref name="S1809一水戦(1)8" /><ref>[[#第五艦隊AL作戦(4)]] p.15〔 別紙第一 麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一) 〕(昭和18年9月)</ref>。第9駆逐隊(朝雲、霞、薄雲、白雲)は幌筵海峡を拠点に行動した<ref name="S1809一水戦(2)14">[[#S1809一水戦日誌(2)]] pp.14-18〔 (二)麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和18年10月~11月)</ref>。

10月31日、「朝雲」は[[夕雲型駆逐艦#第十駆逐隊|第10駆逐隊]]に転出した<ref>[[#S1809一水戦日誌(2)]] p.33〔 三十一日大臣(宛略)機密第三一〇〇〇五番電 三十一日附 一、駆逐隊編制中左ノ通改定セラル 九駆ノ項朝雲ヲ削リ十駆ノ項ニ朝雲ヲ 二十四駆ノ項ニ満潮ヲ 六十一駆ノ項ニ秋月ヲクワフ 二、省略 〕</ref><ref name="S18内令2245号" />。9駆は3隻編制(霞、薄雲、白雲)となった<ref name="S18内令2245号">[[#内令昭和18年10月(5)]] p.38〔 内令第二千二百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、」ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「風雲」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|(略) 〕</ref><ref>[[#S1809一水戦日誌(2)]] p.9〔 備考(イ)一〇月三一日附朝雲ハ第一〇駆逐隊ニ編入セラレ本軍隊区分ヨリ除ク 〕、[[#第五艦隊AL作戦(4)]] p.19-20〔 別紙第一 麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和18年10月)</ref>。
司令駆逐艦は「霞」に変更される<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070442500|海軍公報(部内限)第4536号 昭和18年11月9日(火) p.34}}〔 ○司令驅逐艦變更 第九驅逐隊司令ハ十月二十九日司令驅逐艦ヲ霞ニ變更セリ 〕、[[#S1809一水戦日誌(2)]] p.21〔 二十九日(司令)9dg(宛略)機密第二九一五四五番電 司令駆逐艦ヲ朝雲ヨリ霞ニ変更ス 〕</ref>。11月になると「薄雲」と「白雲」は修理と整備を行うことになった<ref name="S1809一水戦(2)12">[[#S1809一水戦日誌(2)]] p.12〔 (c)薄雲 白雲ハ十一月一日夫々那智 赤城丸ヲ護衛大湊ニ帰投 同二〇日薄雲ハ大湊発呉ニ回航 白雲ハ大湊ニ於テ修理整備ニ從事ス 〕</ref>。「薄雲」は呉工廠に移動し、「白雲」は大湊に残った<ref name="S1809一水戦(2)14" /><ref name="S1809一水戦(2)12" />。防凍工事や応急舵などの整備をおこなう<ref>[[#S1809一水戦日誌(2)]] p.44〔 十七日白雲駆逐艦長(宛略)機密第一七一一〇七番電 今期修理工事豫定左ノ通 一、実施工事前檣改装哨信儀 二十糎信號燈 發射管防凍装置 應急舵/二、十二月十三日公試 十三日完成 〕</ref>。12月末まで「白雲」は大湊で修理と整備をおこなった<ref>[[#第五艦隊AL作戦(4)]] p.22〔 別紙第一 麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和18年11月)、[[#第五艦隊AL作戦(4)]] p.31〔 別紙第一 麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和18年12月)、[[#S1809一水戦日誌(3)]] pp.12-13〔 (二)麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和18年12月)</ref><ref name="S1809一水戦(3)10">[[#S1809一水戦日誌(3)]] p.10〔 2.白雲ハ大湊ニ於テ修理整備ニ從事 二九日帝洋丸ヲ護衛北千島ニ進出(一月一日着)霞ハ所定ノ輸送及護衛ヲ終了シ二二日舞鶴着修理整備ニ從事/薄雲ハ呉ニ於テ修理整備ニ從事中ナリ 〕</ref>。

=== 1944年の行動 ===
[[1944年]](昭和19年)1月1日、「白雲」はタンカー「[[帝洋丸 (タンカー)|帝洋丸]]」を護衛して[[占守島]]片岡湾に進出した<ref name="S1809一水戦(3)10" /><ref>[[#第五艦隊AL作戦(4)]] p.37(作戦経過概要)(昭和19年1月1日)</ref>。7日、2隻は幌筵海峡を出発する<ref>[[#第五艦隊AL作戦(4)]] p.37(作戦経過概要)(昭和19年1月7日)|一一〇〇 白雲帝洋丸幌筵海峡発 〕、[[#S1809一水戦日誌(4)]] p.16〔 七日 白雲駆逐艦長(宛略)機密第〇七一〇三九番電 横須賀ニ向ケ幌筵海峡發 十二日着ノ豫定 〕</ref>。[[流氷]]の危機を脱したが<ref>[[#S1809一水戦日誌(4)]] pp.17-18</ref>、「白雲」は若干の浸水被害を受けた<ref>[[#S1809一水戦日誌(4)]] pp.18-19〔 十日 白雲駆逐艦長(宛略)白雲機密第一〇一八三〇番電 帝洋丸指揮官所報ノ通 大氷原ニ出會セル爲横須賀入港ハ!?若ハ十四日トナル見込 氷原航行時ノ被害前部釣合タンク及空所水線附近ノ鋲弛ミ漏水!?他異状ナシ 〕</ref>。
「帝洋丸」を[[室蘭港|室蘭]]まで護衛したあと<ref>[[#S1809一水戦日誌(4)]] p.19〔 十一日 帝洋丸指揮官(宛略)機密第四二番電 本船(護衛駆逐艦白雲)本十一日一八〇〇小島(北東側)十二日恵山岬通過〇三〇〇室蘭着ノ豫定 〕〔 十二日 白雲駆逐艦長(宛略)機密第一二〇六五八番電 〇一三〇室蘭港外ニ於テ帝洋丸ノ護衛ヲ止メ一三日一〇〇〇横須賀着ノ豫定 〕、同戦時日誌 p.40(経過概要、昭和19年1月12日)</ref>、「白雲」は[[横須賀港|横須賀軍港]]に帰投した<ref>[[#S1809一水戦日誌(4)]] p.21〔 十三日 白雲駆逐艦長(宛略)機密第一三一〇〇五番電 横須賀着 〕</ref><ref name="S1809一水戦(4)8">[[#S1809一水戦日誌(4)]] pp.8-10〔 (2)水雷部隊ノ行動 〕(昭和19年1月)</ref>。その後は横須賀で修理と工事をおこなう<ref name="S1809一水戦(4)8" /><ref>[[#第五艦隊AL作戦(4)]] p.46〔 別紙第二 麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和19年1月)、[[#S1809一水戦日誌(4)]] p.44(経過概要、昭和19年1月31日)</ref>。

この頃、[[藤永田造船所]]では夕雲型駆逐艦「[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]」を建造していた{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94c|ps=秋霜(あきしも)}}。1月22日、平山敏夫(白雲駆逐艦長)は秋霜艤装員長に任命される<ref name="jirei1303">{{アジア歴史資料センター|C13072095400|昭和19年1月22日付 海軍辞令公報(部内限)第1303号 p.35}}</ref>{{Efn|その後、平山(秋霜艦長)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072096600|昭和19年3月11日付 海軍辞令公報(部内限)第1369号 p.11}}</ref> は駆逐艦「[[早霜 (駆逐艦)|早霜]]」艦長となり<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072097100|昭和19年4月4日(発令4月2日付)海軍辞令公報(部内限)第1406号 p.19}}</ref>、[[レイテ沖海戦]]から生還した(早霜沈没{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94d|ps=早霜(はやしも)}}により11月25日附で免職)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072102000|昭和19年11月25日付 海軍辞令公報(部内限)第1654号 p.50}}</ref>。続いて秋月型駆逐艦 「[[涼月 (駆逐艦)|涼月]]」艦長に任命され<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072103800|昭和20年3月18日(発令3月10日付)海軍辞令公報(甲)第1749号 p.35}}</ref>{{Sfn|歴群23、秋月型|1999|p=175|ps=表1 防空駆逐隊の司令と艦長}}、[[坊ノ岬沖海戦]]から生還した{{Sfn|歴群23、秋月型|1999|pp=179-181|ps=平山「凉月」艦長と山名「冬月」艦長}}。}}。
同時期、橋本正雄少佐は1月1日付で第7駆逐隊所属の駆逐艦「[[漣 (吹雪型駆逐艦)|漣]]」艦長に任命されていたが<ref name="jrei1292">{{アジア歴史資料センター|C13072095200|昭和19年1月1日(発令1月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1292号 p.4}}</ref>、「漣」は中部太平洋方面輸送作戦従事中の1月14日{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=89c|ps=漣(さざなみ)}}、米潜水艦{{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=446b-447}}[[アルバコア (SS-218)|アルバコア]]{{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=446b-447}} (''{{lang|en|USS Albacore, SS-218}}'') に撃沈された{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=282|ps=漣(さざなみ)}}{{Efn|前漣艦長の菅明次少佐は<ref name="jrei1292" /> 1月10日付で駆逐艦「[[天津風 (陽炎型駆逐艦)|天津風]]」艦長に任命されていたが<ref name="jirei1296">{{アジア歴史資料センター|C13072095200|昭和19年1月10日(発令1月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1296号 p.46}}</ref>、漣沈没時に戦死した<ref>[[#S1812三水戦日誌(5)]] pp.67-72</ref><!-- 1月17日1055曙(宛略)漣被雷状況 一.14日1200北緯5度30分東経141度34分ニ於テ漣曙右戦闘単梯陣開距離5000速力十六節針路七十度ニテ國洋丸船団捜索中漣左正横約?米ノ至近距離ヨリ雷撃(約六本)ヲ受ケ前部ニ2本後部ニ1本命中何レモ爆発次デ前部火薬庫誘発艦橋前並ニ後部五区附近ヨリ切断シ約二分ニテ沈没セリ/二.曙制圧中1215至近距離ニ潜望鏡発見突入攻撃セルモ繰返シ故障(過日ノ爆撃ニ依ル)ノ為掃蕩意ノ如クナラズ効果不明使用爆雷29個/三.(イ)救助人員(機密第141708番訂正)准士官以上機関長軍医長航海長通信士機関長附(隊附)以下五名(何レモ健)下士官兵八四名(内死亡三名重傷者九名軽傷者二二名)/(ホ)戦死 准士官以上菅少佐(二四六五)以下十一名隊附候補生高原哲史(六五八三)ヲ含ミ下士官兵一四三名 -->。}}。秋霜艤装員長に任命された平山少佐の後任として、橋本正雄少佐は白雲駆逐艦長に任命された<ref name="jirei1303" />。

2月上旬、「白雲」は重巡「[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]」等と共に空母「[[雲鷹 (空母)|雲鷹]]」の救援に協力した<ref>[[#第五艦隊AL作戦(5)]] p.9〔 麾下艦船部隊ノ行動|1sd|9dg|白雲|横須賀2月2日1321/横須賀雲鷹護衛/2月7日0005大湊 〕、同部隊戦時日誌 p.11〔 五(天候略)0743白雲 雲鷹護衛ヲ止メ大湊ニ向ケ発 〕</ref><ref name="S1809一水戦(4)52">[[#S1809一水戦日誌(4)]] pp.52-53〔 (二)水雷部隊ノ行動 〕(昭和19年2月)</ref>。7日、大湊に到着する<ref>[[#第五艦隊AL作戦(4)]] p.46〔 別紙第二 麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和19年1月)、[[#第五艦隊AL作戦(5)]] p.11(作戦経過概要)(昭和19年2月7日)|〇〇〇五 白雲大湊着着 |</ref>。第9駆逐隊(霞、白雲、薄雲)が揃い、訓練をおこなった<ref name="S1809一水戦(4)52" />。2月末、幌筵へ進出した<ref name="S1809一水戦(4)52" /><ref>[[#第五艦隊AL作戦(5)]] p.15(作戦経過概要)(昭和19年2月25日)|〇四〇〇 9dg(霞、白雲)大湊発 |、同戦時日誌 pp.16-17(昭和19年2月29日)|〇六〇八白雲幌筵海峡着 一三〇〇9dg(霞)幌筵海峡着|</ref>。3月1日、第9駆逐隊に駆逐艦「[[不知火 (陽炎型駆逐艦)|不知火]]」が編入された<ref>内令昭和19年3月(1) p.17〔 内令第三百八十八号 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年三月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「霞」ノ下ニ「、不知火」ヲ加フ|第十九驅逐隊ノ項中「敷波」ノ下ニ「、天霧」ヲ加フ 〕</ref>。この時点の「不知火」は輸送船団を護衛しながら内地に向け航行中であり<ref>[[#S1809一水戦日誌(6)]] p.48〔 一五(天候略)1000不知火【タモ11】船團ヲ護衛門司ニ向ケ高雄發 〕</ref>、「白雲」と合流することはなかった<ref>[[#第五艦隊AL作戦(5)]] p.24〔 二.麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和19年3月)、[[#S1809一水戦日誌(5)]] p.8〔 (備考)(4)一日第九駆逐隊ニ編入セラレタル不知火ハ五日パラオ発高雄ニ回航同地ヨリ船團ヲ護衛シ十五日発門司経由ニテ二十二日呉着 爾後同地ニ在リテ北方作戰準備中 〕</ref>。

戦前の[[プロパガンダ|宣伝]]とは裏腹に{{Efn|name="叢雲(P年鑑1937)"}}{{Efn|一等驅逐艦 "東雲 しののめ"<ref>[[#P年鑑1935|ポケット海軍年鑑(1935)]] p.48〔 東雲(しののめ) 〕</ref> 全要目{排水量1,700噸 速力34.0節 備砲12.7糎砲6門 魚雷發射管9門 起工大正15年8月 竣工昭和3年7月 建造所佐世保海軍工廠}東雲も浦波と同型の1,700噸級の驅逐艦である。浦波のところで驅逐艦の使命とするところは魚雷襲撃にあると云つたが、その外に驅逐艦は種々の重用任務に使用される。その中第一に擧ぐべきは潜水艦撃攘である。その得意とする快速力と輕快極まる操縦性及び潜水艦の魚雷を恐れぬ吃水の淺少さ等を利して敵潜水艦のゐる海上を爆雷を投射しつゝ縦横無盡に走りまはる驅逐艦は潜水艦にとつては何よりも恐るべき敵であらう。故に驅逐艦に襲はれたら最後潜水艦は上記の如き驅逐艦の特長と全然相反する弱點をもつため到底これに刄向ふ力はなく、うまく逃げをはせることが出來れば僥倖と云ふところである。}}、日本海軍の対潜兵器と対潜戦術は問題を抱えていた{{Sfn|森田友幸|2000|pp=29-31}}。3月15日、第9駆逐隊3隻(霞、白雲、薄雲)は輸送船4隻(山菊丸、慶安丸、梅川丸、日連丸)を護衛して[[北海道]]から[[千島列島]]の[[得撫島]]に向かった{{Sfn|戦史叢書44|1971|pp=142a-143|ps=日蓮丸の遭難}}{{Efn|『戦史叢書44巻 北東方面陸軍作戦<2>』142頁では「日蓮丸」と表記している{{Sfn|戦史叢書44|1971|pp=142b-143}}。}}。対潜警報により[[釧路港]]に避難したあと、[[3月16日]]午後4時に釧路を出発した<ref>[[#S1809一水戦日誌(5)]] p.22〔 機密第151259番電 (ヘ乙)船團(山菊丸慶安丸梅川丸)(ホ)船團(日連丸)護衛艦九駆(霞 白雲 薄雲)三月十六日一六〇〇釧路發速力7.5節(以下略) 〕、[[#S1809一水戦日誌(6)]] p.48〔 一六(天候略)1600九駆 山菊丸 慶安丸 梅川丸 日連丸ヲ護衛釧路發2335薄雲ハ船團ヲ護衛反轉釧路ニ向フ|2335白雲被害ニ即應霞附近敵潜制圧ニ任ズ 〕</ref>。日没後、「白雲」は「日連丸」から誤射された模様で、灯火を点じて敵味方を確認させた{{Sfn|戦史叢書44|1971|pp=142b-143}}。
同日午後11時35分、北海道[[愛冠岬]]約60[[キロメートル|km]]沖でアメリカ潜水艦[[トートグ (潜水艦)|トートグ]]{{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=446b-447}} (''{{lang|en|USS Tautog, SS-199}}'') が船団部隊を襲撃する{{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=446b-447}}。魚雷が命中し、「白雲」は轟沈した<ref>[[#第五艦隊AL作戦(5)]] p.29〔 十六(天候略)2335 N42°18′E145°11′白雲雷撃ヲ受ケ轟沈 〕</ref>。「白雲」後方約500[[メートル|m]]にいた「霞」は白雲沈没現場で乗組員数名を認めたが、対潜行動と船団護衛続行のため救助活動を断念した{{Sfn|土井全二郎|2005|pp=225-228|ps=ワレシラクモ}}。「白雲」では、橋本正雄艦長ら全乗員が戦死した<ref name="S1809一水戦(5)26">[[#S1809一水戦日誌(5)]] pp.26-27〔 機密第171133番電 日連丸生存者少尉三名准尉一命見習士官一名下士官兵四二名(内死亡者二名)船員一名ガ0730頃北緯42度38分東経144度38分ニ於テ救助 白雲乗員ハ總員壮烈ナル戦死ヲ遂ゲタルモノト認ム/一一三〇波風ヲ合同霞薄雲波風ハ現場附近ヲ掃蕩中 〕</ref>。日本軍記録 {{coord|42|18|N|145|11|E|}}{{Sfn|戦史叢書44|1971|p=142a}}。米軍記録 {{coord|42|25|N|144|55|E|}}。トートグによる被害は白雲轟沈にとどまらず、「日蓮丸」も魚雷をうけて沈没した<ref>{{アジア歴史資料センター|C16120681500|昭和18年11月 昭和19年6月 各護衛担任部隊 指定航路と敵潜に依る被害一覧図(防衛省防衛研究所)/各護衛担任部隊指定航路と敵潜に依る被害一覧図(3月分)(昭和19年4月7日調製) p.2}}</ref><ref name=":0">{{Cite book|author=田上俊三|title=昨日の敵は今日の友|date=|year=2004|accessdate=|publisher=聖公会出版|pages=25-29}}</ref>。「霞」が[[爆雷]]投下による対潜攻撃を行ったがトートグを撃沈できず、「薄雲」は船団を護衛して釧路に退避した<ref name=":0" />。駆逐艦「[[神風 (2代神風型駆逐艦)|神風]]」と「[[波風 (駆逐艦)|波風]]」が9駆司令の指揮下に入り、対潜掃蕩をおこなった{{Efn|『戦史叢書44巻』142頁では「北方部隊は十七日〇七三五、「神風」「沼風」を第九駆逐隊司令の指揮下に入れ、特令あるまで「白雲」が雷撃された海面付近の対潜掃蕩を命じ(以下略)」と記述するが、「沼風」は1943年(昭和18年)12月18日にアメリカ潜水艦「[[グレイバック (SS-208)|グレイバック]]」により{{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=446b-447}}、撃沈されている{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|pp=260-261|ps=沼風(ぬまかぜ)}}。}}。第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将は駆逐艦「[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]」に将旗を掲げ、麾下駆逐艦<!-- 霞、薄雲、若葉、初霜、神風、波風 -->と海防艦「[[国後 (海防艦)|国後]]」を率いて対潜掃蕩をおこなうが{{Efn|駆逐艦の内訳は、第21駆逐隊(初春、若葉、初霜)、第9駆逐隊(霞、薄雲)<!-- 不知火欠 -->、第1駆逐隊(神風、波風)<ref>[[#S1809一水戦日誌(5)]] p.7</ref>。}}{{Efn| (備考)<ref>[[#S1809一水戦日誌(5)]] p.7</ref>(3)十七日北方部隊電令作第一七號ニ依リ初春ニ将旗ヲ移揚大湊出撃 九駆(不知火欠)二十一駆 神風 波風 國後ヲ指揮シ厚岸南東方海面対潜掃蕩ヲ實施 二十二日以後更ニ快鳳丸ヲ指揮下ニ加ヘ掃蕩ヲ兼ネ海軍船團(北進丸、新羅丸)陸軍船團(山菊丸 梅川丸 慶安丸)ノ天寧 得撫及松輪島護衛回航ニ任ズ 〕}}、戦果はなかった。

第一水雷戦隊の戦時日誌によると、3月13-15日に陸軍航空隊が北海道南方沖に米潜水艦数隻を発見しており、海軍への情報伝達の不備が「白雲」と「日連丸」喪失の一因と指摘している{{Efn|(2)<ref>[[#S1809一水戦日誌(6)]] pp.18-19</ref> 敵潜情報ノ入手及警報發令ニ関シテハ凡有手段ヲ講ズルヲ要ス特ニ陸軍航空部隊ノ發見情報ノ迅速入手ニ関シ準備アルヲ要ス (i)三月十三日乃至三月十五日北海道南方海面ニ於テ陸軍航空部隊ノ發見セル敵潜水艦情報ハ十六日0100頃陸軍計根別航空隊将校ノ釧路出張ニ依リ九駆司令発電ヲ経テ同海域ニ敵潜數隻存在シアルコト初メテ明トナレリ右情況ニ於テ釧路ヲ出撃セル「ヘ乙」船團ハ十六日夜日連丸白雲ノ被害ヲ惹起セリ }}。当時、霞砲術長であった田上俊三{{Efn|[[スラバヤ沖海戦]]時、駆逐艦「[[雷 (吹雪型駆逐艦)|雷]]」において敵兵救助経験があり、「白雲」には海兵学校同期や直前まで部下だった者がいた。}}によれば、「白雲」轟沈直後に海上に投げ出された生存者の「オーイ」「オーイ」と叫ぶ声が聞こえていたが、敵潜水艦が海域にいたことや船団の護衛任務があったため、「霞」は救助を行うことができなかった。一旦小樽に戻った「霞」は再び現場に戻ったが、生存者の姿は既に全くいなくなっていた<ref name=":0" />。この時期の釧路沖の[[海水温]]は低く、途中で力尽きたものと思われる{{Sfn|森田友幸|2000|pp=29-31}}。
<!--
「日連丸」の生存者も僅か46人<ref name=":1">{{Cite news|title=隠された「日連丸撃沈」|date=2015-08-16|url=https://www.yomiuri.co.jp/local/miyagi/feature/CO018253/20150815-OYTAT50094.html|accessdate=2018-09-20|language=ja|work=YOMIURI ONLINE(読売新聞)}}</ref> または47人であった<ref name="S1809一水戦(5)26" /><ref name=":0" />。轟沈した「白雲」に比べて沈没まで多少時間があり、[[いかだ|筏]]で漂流していたところを「霞」に救助された<ref name=":0" />。大量の犠牲者を出した「日連丸」沈没の事実は遺族たちに伏せられた。真相が明らかになるのは戦後40年余りが経過してからのことであった<ref name=":1" />。-->

3月31日、白雲は除籍された<ref>[[#内令昭和19年3月(5)]] p.41〔 内令第五百十三号|横須賀鎮守府在籍 軍艦 那珂 軍艦 香取|呉鎮守府在籍 軍艦 阿賀野 右帝国海軍籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 舞風|呉鎮守府在籍 驅逐艦 白雲|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 峯風 驅逐艦 追風 驅逐艦 文月 驅逐艦 海風|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 太刀風|右帝国驅逐艦籍ヨリ除カル(略)|昭和十九年三月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎 〕</ref>。
同日付で第9駆逐隊は第18駆逐隊に改編された<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070462400|海軍公報(部内限)第4677号 昭和19年5月1日(月) pp.7-8}}〔 ○司令驅逐艦變更 第十八驅逐隊司令ハ四月二十二日司令驅逐艦ヲ不知火ニ變更セリ(第十八驅逐隊)|○書類移管 當隊三月三十一日附第十八驅逐隊ト改編ニ付各部ヨリ第九驅逐隊ニ配布中ノ軍機、軍極秘書類ハ總テ第十八驅逐隊ニ移管致候條了知ノ上處理相成度(第九驅逐隊) 〕</ref><ref>[[#S1809一水戦日誌(5)]] p.6〔 (備考)(1)三十一日附九駆ヲ十八駆ト改稱同隊ヨリ白雲ヲ除カル 〕(昭和19年2月)</ref>。残存3隻(薄雲、霞、不知火){{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|pp=122-123|ps=第十八駆逐隊(陽炎・不知火)}}は引き続き第18駆逐隊に所属した<ref>[[#内令昭和19年3月(5)]] p.39〔 内令第五百十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年三月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|(略)第九驅逐隊ノ項ヲ削ル|(略)第十八驅逐隊/薄雲、霞、不知火|(略)〕</ref>。

== 歴代艦長 ==
<small>※『艦長たちの軍艦史』271-273頁による。階級は就任時。</small>
<small>※『艦長たちの軍艦史』271-273頁による。階級は就任時。</small>

===艤装員長===
=== 艤装員長 ===
*若木元次 中佐:1927年12月15日 -
*若木元次 中佐:1927年12月15日 -

===艦長===
=== 艦長 ===
*若木元次 中佐:1928年7月28日 - 1929年11月30日
*若木元次 中佐:1928年7月28日 - 1929年11月30日
*小林徹理 中佐:1929年11月30日 - 1930年11月15日
*小林徹理 中佐:1929年11月30日 - 1930年11月15日
96行目: 143行目:
*山本皓 少佐:1937年10月20日<ref name="C13072072400"/> - 1937年12月1日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072072700|海軍辞令公報 号外 第99号 昭和12年12月1日}}</ref>
*山本皓 少佐:1937年10月20日<ref name="C13072072400"/> - 1937年12月1日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072072700|海軍辞令公報 号外 第99号 昭和12年12月1日}}</ref>
*[[小川莚喜]] 中佐:1937年12月1日 - 1939年11月20日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072076900|海軍辞令公報(部内限)第405号 昭和14年11月20日}}</ref>
*[[小川莚喜]] 中佐:1937年12月1日 - 1939年11月20日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072076900|海軍辞令公報(部内限)第405号 昭和14年11月20日}}</ref>
*前川新一郎 中佐:1939年11月20日 - 1940年11月15日<ref name="C13072079500">{{アジア歴史資料センター|C13072079500|海軍辞令公報(部内限)第555号 昭和15年11月15日}}</ref>
*前川新一郎 中佐:1939年11月20日 - 1940年11月15日<ref name="jirei555" />
*[[人見豊治]] 中佐:1940年11月15日<ref name="C13072079500"/> -
*[[人見豊治]] 中佐:1940年11月15日<ref name="jirei555" /> - 1942年6月30日<ref name="jirei891" />
*佐藤重吉 少佐:1942年6月30日 -
*佐藤重吉 少佐/中佐:1942年6月30日<ref name="jirei891" /> - 1942年11月15日<ref name="jirei988" />
*平山敏夫 少佐:1942年11月15日(大波艤装員長兼務)<ref name="jirei988" /> - 1942年12月20日(免大波艤装員長)<ref name="jirei1017" /> - 1944年1月22日<ref name="jirei1303" />
*平山敏夫 少佐:1942年12月29日 -
*橋本正雄 少佐:1944年1月22日 - 3月16日戦死
*橋本正雄 少佐:1944年1月22日<ref name="jirei1303" /> - 3月16日戦死


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
<!-- 著者五十音順 -->
* 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。
*<!-- イチカワコウノスケ1983 -->{{Cite book|和書|author=(元「阿武隈」主計長 海軍主計少佐)市川浩之介|date=1983-08|title=キスカ {{small|日本海軍の栄光}}|publisher=コンパニオン出版|isbn=4-906121-29-2|ref={{SfnRef|市川、キスカ|1983}}}}
* 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集16 駆逐艦 吹雪型[特型]』光人社、1997年。
*<!-- オイデ1997 -->{{Cite book|和書|author=生出寿|authorlink=生出寿|year=1997|month=12|title={{small|連合艦隊・名指揮官の生涯}} 戦場の将器 木村昌福|publisher=光人社|isbn=4-7698-0835-6|ref={{SfnRef|戦場の将器|1997}}}}
*<!-- オイデ2017 -->{{Cite book|和書|author=生出寿|chapter=|title=智将小沢治三郎 {{small|沈黙の提督 その戦術と人格}}|publisher=潮書房光人社|series=光人社NF文庫|date=2017-07|origyear=1988|ISBN=978-4-7698-3017-7|ref={{SfnRef|智将小沢治三郎|2017}}}}
*<!-- オカムラ1979 -->{{Cite book|和書|author=岡村治信|coauthors=|authorlink=|year=1979|month=12|title=青春の棺 {{small|生と死の航跡}}|chapter=第四章 暗黒の怒濤|publisher=光人社|ISBN=|ref={{SfnRef|青春の棺|1979}}}}(岡村は木曾主計長としてアッツ島の戦いに参加)
*<!-- オカモト2014 -->{{Cite book|和書|author=岡本孝太郎|authorlink=|date=2014-05|title=舞廠造機部の昭和史|publisher=文芸社|isbn=978-4-286-14246-3|ref={{SfnRef|舞廠造機部|2014}}}}
*<!-- オクミヤ2001 -->{{Cite book|和書|author=奥宮正武|authorlink=奥宮正武|date=2001-03|origyear=1992|title=ラバウル海軍航空隊|chapter=第2部 ガダルカナル島の攻防戦(昭和17年8月~昭和18年2月)|publisher=学習研究社|series=学研M文庫|isbn=4-05-901045-6|ref={{SfnRef|ラバウル海軍航空隊|2001}}}}
*<!-- カイグン1995 -->海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。
*<!-- キマタ1977 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|date=1977-07|title=日本空母戦史|publisher=図書出版社|ref={{SfnRef|日本空母戦史|1977}}}}
* 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
* 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
*<!-- シゲモト2014-10 -->{{Cite book|和書|author=重本俊一ほか|year=2014|month=10|title=陽炎型駆逐艦 {{small|水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1577-8|ref={{SfnRef|陽炎型(光人社)|2014}}}}
* {{Cite book|和書|author=藤原盛宏|coauthors=岡武文発行人|year=1974|month=3|title=わが青春と海軍|publisher=株式会社トムス出版部|isbn=|ref=わが青春と海軍}}<br />藤原は当時海軍主計少尉、昭和17年3月より11月まで第11駆逐隊庶務主任。サボ島沖海戦時、第11駆逐隊司令駆逐艦「白雪」乗艦。
**(109-123頁){{small|戦史研究家}}落合康夫『駆逐隊別「陽炎型駆逐艦」全作戦行動ダイアリィ {{small|第四、第十五、第十六、第十七、第十八駆逐隊 太平洋奮迅録}}』
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1969|month=5|title=戦史叢書26 {{small|蘭印・ベンガル湾方面}} 海軍進攻作戦|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書26海軍進攻作戦}}
**(255-342頁){{small|戦史研究家}}伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 {{small|太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後}}』
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1969|month=8|title=戦史叢書29 北東方面海軍作戦|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書29北東方面}}
*<!--ホウエイチョウ -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 北東方面陸軍作戦(2) {{small|千島・樺太・北防衛}}|volume=第44巻|year=1971|month=3|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書44}}
*<!-- スド 2010 -->{{Cite book|和書|author=須藤幸助|coauthors=|year=2010|month=01|origyear=1956|chapter=|title=駆逐艦「五月雨」出撃す {{small|ソロモン海の火柱}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2630-9|ref={{SfnRef|五月雨出撃す|2010}} }}
*<!-- タカマツミヤ04巻 -->{{Cite book|和書|author1=高松宮宣仁親王|authorlink1=高松宮宣仁親王|editor=大井篤ほか|editor-link=大井篤|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮日記 第四巻 {{small|昭和十七年一月一日〜昭和十七年九月三十日}}|publisher=中央公論社|date=1996-07|ISBN=4-12-403394-X|ref={{SfnRef|高松宮日記4巻|1996}}}}
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1971|month=9|title=戦史叢書49 南東方面海軍作戦(1) {{small|ガ島奪還作戦開始まで}}|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書49ガ島以前}}
*<!-- タカマツミヤ06巻 -->{{Cite book|和書|author1=高松宮宣仁親王|authorlink1=高松宮宣仁親王|editor=大井篤ほか|editor-link=大井篤|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮日記 第六巻 {{small|昭和十八年二月十二日〜九月}}|publisher=中央公論社|date=1997-03|ISBN=4-12-403396-6|ref={{SfnRef|高松宮日記6巻|1997}}}}
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1975|month=8|title=戦史叢書83 南東方面海軍作戦(2) {{small|ガ島撤収まで}}|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書83ガ島戦}}
* <!-- ティルマン2001 -->{{Cite book|和書|author=バレット・ティルマン|coauthors=|others=岩重多四郎 訳 |date=2001-03|chapter=|title=第二次大戦のワイルドキャットエース|publisher=株式会社大日本絵画|series=オスプレイ・ミリタリー・シリーズ〔世界の戦闘機エース8〕|isbn=4-499-22742-9|ref={{SfnRef|ワイルドキャットエース|2001}}}}
* <!-- ティルマン2003 -->{{Cite book|和書|author=バレット・ティルマン|coauthors=|others=富成太郎 訳 |date=2003-08|chapter=|title=第二次大戦のSBDドーントレス部隊と戦歴 {{lang|en|SBD Dauntless Units of World War 2}}|publisher=株式会社大日本絵画|series=オスプレイ軍用機シリーズ36|isbn=4-499-22815-8|ref={{SfnRef|第二次大戦のSBD部隊と戦歴|2003}}}}
*<!-- ドイゼンジロウ2005 -->{{Cite book|和書|author=土井全二郎|date=2005-04|title=歴史から消された兵士の記録 {{small|戦争の底辺で働いた輸送船の戦い}}|chapter=第七章 戦火の彼方から|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2453-X|ref={{SfnRef|土井全二郎|2005}}}}
*<!-- ニミッツ1962 -->{{Cite book|和書|author1=C・W・ニミッツ|author2=E・B・ポッター|authorlink=|year=1962|month=12|origyear=|title=ニミッツの太平洋海戦史|publisher=恒文社|ref={{SfnRef|ニミッツ|1962}} }}
*<!-- フクダキヨシ2016 -->{{Cite book|和書|author=福田靖|date=2016-08|title=駆逐艦「不知火」の軌跡 {{smaller|レイテ沖海戦最後の沈没艦}}|chapter=|publisher=株式会社ブレーン|isbn=978-4-86427-217-9|ref={{SfnRef|不知火の軌跡|2016}}}}
*<!-- フジワラ1974 -->{{Cite book|和書|author=藤原盛宏(著)|coauthors=岡武文(発行人)|year=1974|month=3|title=わが青春と海軍|publisher=株式会社トムス出版部|isbn=|ref={{SfnRef|わが青春と海軍|1974}}}}<br />藤原は当時海軍主計少尉、昭和17年3月より11月まで第11駆逐隊庶務主任。サボ島沖海戦時、第11駆逐隊司令駆逐艦「白雪」乗艦。
*<!--ホウエイチョウ26 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|date=1969-05|title=戦史叢書26 {{smaller|蘭印・ベンガル湾方面}} 海軍進攻作戦|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書26|1969}}}}
*<!--ホウエイチョウ29 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 北東方面海軍作戦|volume=第29巻|date=1969-08|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書29|1969}}}}
*<!--ホウエイチョウ38 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<1> {{smaller|昭和17年5月まで}}|volume=第38巻|year=1970|month=10|publisher=[[朝雲新聞社]]|ref={{SfnRef|戦史叢書38|1970}}}}
*<!--ホウエイチョウ39 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<4> {{smaller|―第三段作戦前期―}}|volume=第39巻|year=1970|month=10|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書39|1970}}}}
*<!--ホウエイチョウ44 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 北東方面陸軍作戦(2) {{smaller|千島・樺太・北海道の防衛}}|volume=第44巻|year=1971|month=3|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書44|1971}}}}
*<!--ホウエイチョウ46 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 海上護衛戦|volume=第46巻|year=1971|month=5|publisher=朝雲新聞社|isbn=|ref={{SfnRef|戦史叢書46|1971}}}}
*<!--ホウエイチョウ49 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1971|month=9|title=戦史叢書49 南東方面海軍作戦(1) {{smaller|ガ島奪還作戦開始まで}}|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書49|1971}}}}
*<!--ホウエイチョウ77 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<3> {{smaller|―昭和18年2月まで―}}|volume=第77巻|year=1974|month=9|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書77|1974}}}}
*<!--ホウエイチョウ83 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1975|month=8|title=戦史叢書83 南東方面海軍作戦(2) {{smaller|ガ島撤収まで}}|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書83|1975}}}}
*<!--ホウエイチョウ85 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 本土方面海軍作戦|volume=第85巻|year=1975|month=6|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書85|1975}}}}
*<!--ホウエイチョウ91 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<1> {{smaller|―開戦まで―}}|volume=第91巻|year=1975|month=12|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書91|1975}}}}
*<!-- マル1997 -->雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集16 駆逐艦 吹雪型[特型]』光人社、1997年。
*<!--マル1995-2-->{{Cite book|和書|author=雑誌「丸」編集部|year=1995|month=2|title=写真 太平洋戦争<第三巻> {{small|ドーリットル空襲/珊瑚海海戦/ミッドウェー海戦}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2073-9|ref={{SfnRef|写真太平洋戦争(3)|1995}}}}
*<!-- モリ -->{{Cite book|和書|author=森史郎|coauthors=|date=2018-12|origyear=2013|chapter=|title={{smaller|空母瑞鶴戦史[ソロモン攻防篇]}} ソロモン海の戦闘旗|publisher=潮書房光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-3098-6|ref={{SfnRef|ソロモン海戦闘旗|2018}}}}
*<!-- モリタ2000 -->{{Cite book|和書|author=森田友幸|authorlink=|date=2000-03|title=25歳の艦長海戦記 {{small|駆逐艦「天津風」かく戦えり}}|chapter=第二章 開戦(森田は1943年5月から霞水雷長)|publisher=光人社|isbn=4-7698-0953-0|ref={{SfnRef|森田友幸|2000}}}}
*<!-- レキシグンゾウ1998-8 -->{{Cite book|和書|author=歴史群像編集部編|year=1998|month=8|chapter=|pages=|title=水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦 {{small|究極の艦隊型駆逐艦が辿った栄光と悲劇の航跡}}|series=歴史群像 太平洋戦史シリーズ|volume=第19巻|publisher=学習研究社|editor=|isbn=4-05-601918-5|ref={{SfnRef|歴群19、水雷戦隊II|1998}} }}
**(85-94頁)向井学「艦隊型駆逐艦全131隻行動データ」
*<!-- レキシグンゾウ1999-10vol23 -->{{Cite book|和書|author=歴史群像編集部編|year=1999|month=10|chapter=|pages=|title=秋月型駆逐艦 {{small|対空戦に威力を発揮した空母直衛艦の勇姿}}|series=歴史群像 太平洋戦史シリーズ|volume=第23巻|publisher=学習研究社|editor=|isbn=4-05-602063-9|ref={{SfnRef|歴群23、秋月型|1999}} }}
**(173-181頁)雨倉孝之『{{small|人物抄伝}} 太平洋戦争の群像「秋月型駆逐艦」の戦士たち』


*[http://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]]
*[https://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]]
**{{Cite book|和書|author=海軍有終会編|year=1935|month=11|title=幕末以降帝国軍艦写真と史実|publisher=海軍有終会|url={{NDLDC|1466489}}|ref=幕末軍艦史実}}
**{{Cite book|和書|author=海軍有終会編|year=1935|month=11|title=幕末以降帝国軍艦写真と史実|publisher=海軍有終会|url={{NDLDC|1466489}}|ref=幕末軍艦史実}}
**{{Cite book|和書|author=海軍研究社編輯部 編|year=1935|month=5|title=ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊軍艦集. 1935年版|publisher=海軍研究社|url={{NDLDC|1109500}}|ref=P年鑑1935}}
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**{{Cite book|和書|author=海軍研究社編輯部 編|year=1937|month=2|title=ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版|publisher=海軍研究社|url={{NDLDC|1231209}}|ref=P年鑑1937}}
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**{{Cite book|和書|author=海軍研究社編輯部 編|year=1940|month=7|title=日本軍艦集 2600年版|publisher=海軍研究社|url={{NDLDC|1903831}}|ref=軍艦2600年}}
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* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070086900|title=自大正15年至昭和1年達完/9月|ref=達大正15年9月}}
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**Ref.{{Cite book|和書|author=C05034647900|title=呉警戦機密第29号 10.5.14 第12駆逐隊白雲触洲事件並に同隊薄雲触岸事件に対する処分の件|ref=白雲触洲薄雲触岸}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C05034650000|title=赤軍4水戦機密第6号 10.9.29夕霧、初雪遭難事件報告(1)|ref=夕霧初雪遭難事件報告(1)}}
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**Ref.{{Cite book|和書|author=C05035393600|title=「11.2.5 駆逐艦白雲、天山丸衝突事件」、公文備考 昭和11年 T 事件 巻6(防衛省防衛研究所)|ref=S11.2.5白雲天山丸}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C05035386600|title=「11.2.12 駆逐艦白雲、天山丸衝突事件」、公文備考 昭和11年 T 事件 巻4(防衛省防衛研究所)|ref=S11.2.12白雲天山丸}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C13071974300|title=昭和12年12月1日現在10版内令提要追録第3号原稿/ 巻1追録/第6類機密保護|ref=艦船要目公表範囲(1937年12月1日)}}
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**Ref.{{Cite book|和書|author=C13072003500|title=昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3/ 巻3追録/第13類艦船(1)|ref=艦艇類別等級表(1941年12月31日)}}
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**Ref.{{Cite book|和書|author=C14121196200|title=昭和17年度 帝国海軍戦時編制(内示案) 昭和16.9.12/ 昭和17年度帝国海軍戦時編制/附表|ref=昭和17年度帝国海軍戦時編制}}
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**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030084500|title=昭和18年6月1日〜昭和18年7月31日第1水雷戦隊戦時日誌(2)|ref=S1806一水戦日誌(2)}}
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[白雲型駆逐艦]]
* [[木村昌福]]


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2024年5月31日 (金) 03:19時点における最新版

白雲
基本情報
建造所 藤永田造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 駆逐艦
級名 吹雪型駆逐艦
艦歴
発注 大正15年度計画(昭和2年度艦艇補充計画
起工 1926年10月27日
進水 1927年12月27日
竣工 1928年7月28日
最期 1944年3月16日戦没
除籍 1944年3月31日
要目
基準排水量 1,680 t
公試排水量 1,980 t
全長 118.5 m
最大幅 10.36 m
吃水 3.19 m
機関 艦本式タービン2基2軸
ロ号艦本式重油専焼缶4基
50,000馬力
最大速力 38.0ノット
航続距離 5,000/14ノット
乗員 219人
兵装 12.7cm50口径連装砲3基6門
7.7mm機関砲(機銃)2挺
61cm魚雷発射管3基9門 他
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白雲(しらくも)は[1]日本海軍駆逐艦[2]吹雪型駆逐艦の8番艦[3]。日本海軍の艦船名としては、日露戦争直前にイギリスで建造された白雲型駆逐艦白雲[4]に続いて2隻目。

概要

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駆逐艦白雲(しらくも)は、日本海軍の駆逐艦[5]吹雪型駆逐艦の8番艦。吹雪型の5番艦から8番艦までは艦名に「」が含まれるため、雲級(くもクラス)と呼称されることもある[注釈 1]。1928年(昭和3年)7月28日の竣工時は第42号駆逐艦だったが、8月1日に「白雲」と改名された[2]

太平洋戦争開戦時、引き続き第三水雷戦隊麾下の第12駆逐隊に所属し、南方作戦にともなうマレー作戦蘭印作戦に従事した[注釈 2]1942年(昭和17年)3月1日、バタビア沖海戦に参加した[2]。3月10日に第12駆逐隊が解隊され、「白雲」は第20駆逐隊に編入された[注釈 3]。20駆はベンガル湾機動作戦[5]ミッドウェー作戦に従事した[2]。7月中旬以降、B作戦に従事した[11]

連合軍のソロモン諸島反攻作戦開始にともないB作戦は中止され[12]、三水戦もガダルカナル島攻防戦に投入される。同年8月28日[13]、第20駆逐隊は川口支隊先遣隊をガダルカナル島へ輸送中[14][15]ヘンダーソン飛行場より飛来したSBD ドーントレス(空母エンタープライズ所属機)の空襲を受けて「白雲」は損傷した[16][注釈 4]。第20駆逐隊は10月1日に解隊され[20][21]、「白雲」は警備駆逐艦となった[22]。「白雲」は呉や大阪で修理をおこなう[5][23]

1943年(昭和18年)4月1日、「白雲」は第9駆逐隊に編入され[2][24]、駆逐艦3隻[25](朝雲[26]、白雲、薄雲)となって第五艦隊隷下の第一水雷戦隊に所属した[5][27]。6月6日深夜[28]、「白雲」は駆逐艦「沼風」と衝突し[29]、艦首部を損傷した[注釈 5]大湊函館で修理した後は、千島列島北海道周辺での哨戒や船団護衛任務に従事した[5]。1944年(昭和19年)3月16日[31]、第9駆逐隊は陸軍輸送船4隻を護衛中[32]釧路沖の太平洋で米潜水艦[33]トートグに襲撃される[2]。魚雷攻撃により「白雲」は沈没[34]、全乗組員が戦死した[35]

艦歴

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太平洋戦争まで

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1926年(大正15年)9月29日、藤永田造船所で建造予定の駆逐艦に第四十二号駆逐艦の艦名が与えられる[36][37]。第42号駆逐艦は藤永田造船所で10月27日に起工[38]1927年(昭和2年)12月27日に進水した[39]1928年(昭和3年)7月28日、竣工した[38]。8月1日付で「白雲」と改名され[1]、新編の第12駆逐隊(白雲、薄雲、東雲)に所属した。12月1日、第12駆逐隊は第二艦隊第二水雷戦隊に編入された。

1935年(昭和10年)4月、満州国皇帝の溥儀が練習戦艦「比叡」を御召艦として来日することになり、第12駆逐隊(叢雲薄雲、白雲)は「比叡」(艦長井上成美大佐)の供奉艦に指定された[40]。第12駆逐隊は御召艦を護衛して[41]、日本と中国大陸を往復した[42]。任務期間中に座礁事故を起こしたが損傷軽微だったので、「比叡」の協力を得て応急修理をおこない、御召艦護衛には支障をきたさなかった[43]。9月26日、第12駆逐隊は三陸沖で台風により多数の艦が損傷する第四艦隊事件に遭遇し、「白雲」は魚雷格納庫などに軽微な損傷を受けた[44]

1936年(昭和11年)2月5日、海軍兵学校64期生乗艦実習のため[45]軽巡洋艦大井」と共に関門海峡を航行していた[46][47]。午前11時すぎ[48]、「白雲」(艦長安武史郎少佐)は彦島沖合いで汽船「天山丸」(大連汽船、2,755トン)と衝突した[注釈 6]。「大井」の支援も受けて応急処置に努めたが[50]、損傷は意外に大きく[51]、入渠修理を余儀なくされた[注釈 7][注釈 8]

1940年(昭和15年)5月1日、日本海軍は軽巡洋艦「川内」および第12駆逐隊(叢雲、東雲、薄雲、白雲)と第20駆逐隊(天霧朝霧夕霧狭霧)により第三水雷戦隊を新編した[55]第一艦隊所属)[56][注釈 9]。同年7月以降、第三水雷戦隊は第二遣支艦隊(司令長官高須四郎中将)[58] に編入され、中国大陸へ進出する。日中戦争における華中での沿岸作戦[59]、北部仏印進駐作戦などに参加した[60][注釈 10]。同年11月15日、白雲駆逐艦長は前川新一郎中佐から人見豊治中佐に交代した[注釈 11]

1941年(昭和16年)9月12日に内示された昭和17年度海軍戦時編制によれば、駆逐艦「白雲」は姉妹艦「薄雲」と第51駆逐隊を編制する[63]。さらに第51駆逐隊(薄雲、白雲)は空母「赤城」および「加賀」と共に第五航空戦隊を編制する予定とされた[64]。しかし太平洋戦争の勃発により本編制は実現せず、第51駆逐隊(薄雲、白雲)が大型空母2隻と行動する事はなかった。

太平洋戦争開戦~1942年中盤まで

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太平洋戦争開戦時、第12駆逐隊(白雲、叢雲東雲)は引き続き第一艦隊隷下の第三水雷戦隊(司令官:橋本信太郎少将)に所属していた[65]。三水戦は馬来部隊に所属し[66][注釈 12]南方作戦にともなうマレー作戦に従事した[68][69]

12月17日、12駆僚艦「東雲」がボルネオ島攻略作戦で空襲により沈没[69][注釈 13]、翌年1月15日に12駆から除かれた[8]。12駆(白雲、叢雲)は引き続き馬來部隊としてシンガポール周辺掃蕩戦蘭印作戦に従事し、1942年(昭和17年)3月1日にはバタビア沖海戦に参加する[5][68]。重巡「三隈」と「最上」を含む馬來部隊からの派遣部隊は第五水雷戦隊と協力し[72]、米重巡洋艦ヒューストン (USS Houston, CA-30) 、オーストラリア軽巡パース (HMAS Perth, D29) 、オランダ駆逐艦エヴェルトセン (Hr.Ms. Evertsen) を撃沈した[73][74]

3月10日、第12駆逐隊は解隊された[10]。「叢雲」は第11駆逐隊[68]、「白雲」は第20駆逐隊に編入された[10]。第20駆逐隊(朝霧天霧夕霧、白雲)を含め馬來部隊はスマトラ島攻略作戦と[75]アンダマン・ニコバル諸島攻略作戦[76]、ビルマ輸送作戦[77]等を実施した[78]。 3月下旬、小沢中将は臨時部隊を編制し[79]ベンガル湾で独自の作戦を行う方針を示した(ベンガル湾機動作戦[80]。馬來部隊は5分割され、北方隊は第七戦隊司令官栗田健男少将の指揮する重巡「熊野」と「鈴谷[81]および駆逐艦「白雲」であった[注釈 14]。4月1日、馬來部隊機動部隊メルギーから出撃する[83]。北方隊は輸送船8隻を撃沈した[84]

4月10日、第二段作戦第一期兵力部署の発動により馬來部隊に派遣されていた部隊や艦艇は小沢長官の指揮下を離れ[85]、三水戦も内地にもどった[84]。5月下旬から6月上旬のミッドウェー作戦における第三水雷戦隊は、連合艦隊司令長官山本五十六大将と第一艦隊司令長官高須四郎中将の戦艦部隊を護衛した[86]。この頃、舞鶴海軍工廠では夕雲型駆逐艦「巻波」を建造していた[87][88]。6月30日、白雲駆逐艦長人見豊治中佐は巻波艤装員長に任命される[89]。後任の白雲艦長は佐藤重吉少佐であった[89]ミッドウェー海戦の敗北後、第七戦隊や第三水雷戦隊は7月下旬のインド洋方面通商破壊作戦(B作戦)に転用された[11][90]

1942年中盤以降の行動

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連合軍は1942年(昭和17年)8月7日にガダルカナル島フロリダ諸島に上陸し[91]ガダルカナル島の戦いが始まった[92][93]。連合艦隊はB作戦を中止し、南東方面部隊を編成した[注釈 15]大本営(陸軍部、海軍部)と現地陸海軍(第十一航空艦隊第八艦隊第十七軍)は各種状況を検討し[95]グアム島所在の一木支隊と、パラオ諸島所在の歩兵第35旅団(川口支隊)および海軍陸戦隊をガ島奪回のため投入することにした[96][97][98][99]。三水戦は、川口支隊の輸送船の護衛を命じられた[100][101]

B作戦のためマレー半島メルギーに進出していた各部隊(第七戦隊、三水戦、第2駆逐隊、第15駆逐隊、タンカー2隻)は、作戦中止によりトラック泊地に向け移動を開始した[102][103]スラウェシ島ミンダナオ島を経由してトラック泊地にむかった[104]。8月19日午後2時、外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官三川軍一海軍中将)は、川口支隊輸送船のガ島輸送と護衛を三水戦がおこなうよう下令した[注釈 16]

ガダルカナル島ではアメリカ海兵隊ヘンダーソン飛行場基地の整備を急いでおり[106][107]、8月20日に急降下爆撃機と戦闘機がヘンダーソン飛行場に進出した[108][109][注釈 17]。ガ島に上陸した一木支隊先遣隊(約900名)は飛行場奪回を目指したが、イル川渡河戦で全滅状態となり一木清直大佐も戦死した[112][113]。8月24日の第二次ソロモン海戦で日本海軍機動部隊は米軍機動部隊の撃滅に失敗し[114][115]、連合軍はヘンダーソン基地を拠点に同島周辺の制空権を握っていた[116]。また第二次ソロモン海戦で損傷した空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) から、第6爆撃飛行隊のSBD 3機と、第5偵察飛行隊のSBD 8機が、ヘンダーソン飛行場に派遣された[117]。この混成部隊は「フライト300」と呼ばれた[16]

一方、三水戦(川内、夕霧、朝霧、天霧、白雲)は8月23日トラック泊地に到着した[118]。歩兵第35旅団長川口清健陸軍少将が率いる川口支隊約5,000名を乗せた輸送船2隻(佐渡丸、浅香丸)は、既にトラック泊地に到着していた[119]。24日、三水戦(川内、第20駆逐隊)は川口支隊輸送船2隻を護衛し、トラック泊地を出発した[14]。だが25日、ガダルカナル島へ向かった第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)と輸送船団が[120]、ヘンダーソン基地のSBD ドーントレスエスピリトゥサント島B-17重爆から攻撃される[121][122]。駆逐艦「睦月」と輸送船「金龍丸」が沈没し、軽巡「神通」も中破[123]一木支隊第二梯団と海軍陸戦隊の揚陸を断念する事態となっていた[124][125]。連合艦隊は一木支隊第二梯団のガ島直行を中止し[126]、軽快艦艇によるガ島急速輸送「鼠輸送」の実施を決定した[127][128][注釈 18]

8月26日午前7時50分[130]、南東方面部隊指揮官(十一航艦長官)は三水戦にガ島直行中止と、川口支隊一個大隊の27日夜ガ島揚陸を命じた[注釈 19]。また外南洋部隊および同部隊増援部隊(指揮官:第二水雷戦隊司令官田中頼三海軍少将)にも鼠輸送と27日夜ガ島揚陸を命じた[注釈 20]。南東方面部隊の命令をうけた三水戦と川口支隊は協議をおこなう[132]。26日夜半に洋上(北緯1度5分 東経156度35分 / 北緯1.083度 東経156.583度 / 1.083; 156.583)で陸兵一個大隊約600名を輸送船から第20駆逐隊に移乗させ、軽巡「川内」(第三水雷戦隊旗艦)が輸送船2隻を護衛してラバウルに送り、高速の駆逐艦4隻は27日夜にガ島揚陸をおこなう事になった[133][注釈 21]

8月27日朝、第20駆逐隊は飛行艇に触接された[119]。外南洋部隊指揮官(第八艦隊長官)は日本軍基地航空隊(第十一航空艦隊)のヘンダーソン基地空襲が不徹底と判断しており[119]「川口支隊の揚陸を28日夜に変更し、第20駆逐隊はブーゲンビル島ショートランド泊地に寄港、第24駆逐隊司令村上暢之助大佐の駆逐艦3隻と合同せよ」と下令した[133][135]。この時、第20駆逐隊はサンタイサベル島北方沖まで移動しており、ショートランド泊地に寄港すると燃料が不足する状態だった[133]。そのため第20駆逐隊司令山田雄二大佐は、イサベル島北側で適宜待機し、28日午後にフロリダ諸島周辺で合流する方針を伝えた[133][136]

8月28日午前6時、第24駆逐隊司令指揮下の輸送隊[135]海風江風磯風)と[注釈 22]、第六戦隊司令官五藤存知少将が指揮する重巡「青葉」と「古鷹」はショートランド泊地を出撃した[138][注釈 23]。第20駆逐隊は、フロリダ諸島沖で第24駆逐隊と合流すべく南下を開始した[13]。燃料不足のため低速で行動を開始したが[注釈 24]、これが敵機の空襲を受ける要因となった[141]

午前8時、第24駆逐隊司令は第20駆逐隊に対し、ガ島での揚陸方法を下令した[注釈 25]。直後の午前8時20分、第20駆逐隊はB-17に触接される[138]。午後2時30分、イサベル島東海上のラモス島付近でヘンダーソン飛行場から飛来したSBDドーントレス[116](米軍の記録では11機)の攻撃を受けた[141][注釈 26]。ドーントレス1機撃墜と引き換えに[142]、第20駆逐隊は大損害をうける[19][143]。「白雲」は軽負傷2名だったが機関室浸水により航行不能に陥った[141][144]。また「朝霧」が沈没[145]、「夕霧」も至近弾で損傷し[146]、山田司令らが戦死した[147]。第20駆逐隊の苦境は青葉偵察機も報告している[141]。アメリカ側の記録では、「朝霧」を撃沈して「白雲」を撃破したのはフライト300(エンタープライズ混成部隊)、「夕霧」に損傷を与えたのは海兵隊機であったという[148]

大損害をうけた第20駆逐隊はガ島揚陸を断念した[149]。「白雲」は「天霧」に曳航され、「夕霧」と共にイサベル島北側からショートランドへ向かった[141][150]。救援の駆逐艦「陽炎」(二水戦、第15駆逐隊)は8月29日昼に第20駆逐隊と合流し[151]、30日朝に4隻でショートランド泊地に到着した[152]。この状況を受けて、第24駆逐隊司令は指揮下3隻(海風、江風、磯風)のガ島行を中止した[119][153]。輸送作戦は失敗し、当時の連合艦隊参謀長宇垣纏少将は陣中日誌『戦藻録』に「 別働隊たる二十四駆逐隊は敵に発見せらるる所なかりしも、右報に依り引返し、第八艦隊は強行を下令、又之を取消す等の挙に出で茲に鼠上陸の第一日は見事に失敗せり。如何にするとも此敵機を壊滅するに非ざれば目的を達し難し 」と記述した[151]。連合艦隊は第20駆逐隊の陸兵を健在の「陽炎」と「天霧」に移すよう命令していたので[注釈 27]、外南洋部隊指揮官は敷設艦「津軽」に「白雲」曳航を命じた[152][154]。このあと損傷艦はトラック泊地での応急修理と内地回航を下令された[155]

10月1日、第20駆逐隊は解隊された[20][156]。「白雲」と「夕霧」は共に呉鎮守府警備駆逐艦となり[22][157]、呉鎮守府部隊に編入される[21][158]。2隻は修理のため日本に戻ることになった[159]。10月7日、軽巡洋艦「神通」と駆逐艦「白雲」は入泊した[160]。翌8日、呉軍港に到着した[161]。「白雲」の修理は呉海軍工廠と、藤永田造船所で行われた[23]。この頃、藤永田造船所では夕雲型駆逐艦「大波」を建造していた[162]。11月15日、平山敏夫少佐は白雲駆逐艦長と大波艤装員長の兼務を命じられた[163]。11月23日、大波艤装員事務所は事務を開始する[164]。 12月20日、吉川潔中佐が大波艤装員長に任命される[165][注釈 28]。平山少佐(白雲駆逐艦長、大波艤装員長)は兼務を解かれた[165]

なお『戦史叢書83巻』200-202ページでは『 1942年10月11日-12日のサボ島沖海戦に「白雲」が参加し、輸送隊の「夏雲」が沈没したあと[168]、「白雲」と「朝雲」が「叢雲」の救援と処分を行った 』としている[169]。このうち「白雲」は修理が必要な状態であり[170]、実際にサボ島沖海戦に参加したのは「白雪」であった[注釈 29]。「白雲」と「叢雲」は吹雪型駆逐艦[68]、「朝雲」と「夏雲」は朝潮型駆逐艦である[172]。さらに「白雲」と「白雪」は字体が似ている[注釈 30]

1943年の行動

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1943年(昭和18年)3月上旬、修理を終えた「白雲」は訓練に従事した[174]。4月1日、駆逐艦「白雲」と「薄雲」は第9駆逐隊に編入され、9駆は3隻編制(朝雲、薄雲、白雲)となった[25][注釈 31]。 第9駆逐隊は北方部隊に編入され[注釈 32]、戦時編制の改定により第一水雷戦隊(軽巡阿武隈[注釈 33]、軽巡「木曾[注釈 34]、第6駆逐隊[注釈 35]、第9駆逐隊、第21駆逐隊)となった[27]。当時の第9駆逐隊司令は、小西要人大佐であった[181]。「白雲」は呉から横須賀に移動したあと、重巡洋艦「摩耶」を護衛して北方に向かった[178][182]青森県大湊からは3隻(摩耶、白雲、若葉)で幌筵島に向かった[183]。この頃、ガダルカナル島攻防戦ニューギニア方面輸送作戦で最前線を奔走してきた「朝雲」は[172]、5月下旬まで横須賀で修理と整備をおこなった[184]。「朝雲」の修理が完了して北方に進出するまで[185]、「薄雲」[178]や「白雲」が臨時の司令駆逐艦となった[186][187][188]

5月11日1400、護衛隊(木曾、白雲、若葉)は特設水上機母艦「君川丸」を護衛し[189]千島列島北東端の幌筵島を出撃してアッツ島へむかった[190][191]5月12日午前0時、「白雲」は解列して幌筵にむかった[190]。同12日午前10日、アメリカ軍はアッツ島に上陸を開始、アッツ島の戦いが始まった[192][193]。連合国軍のアッツ島来襲時[178]、幌筵在泊の大型艦は第五艦隊旗艦「摩耶」しかいなかった[194][195]。北方部隊指揮官(第五艦隊司令長官)は修理中や移動中の各艦を幌筵に進出させるとともに、君川丸水偵による空襲、現有水上兵力による敵撃滅を試みた[196][197]。同12日2000、「摩耶」は「白雲」を率いて幌筵を出撃した[196]。だが悪天候と濃霧により護衛隊と会合できず、君川丸の水偵も発進できず[198]、14日朝になり各部隊の幌筵帰投を命じた[199][200]。ちょうど重巡「那智」と駆逐艦「初霜」が幌筵に到着したので、第五艦隊旗艦は「那智」に戻った[199][201]

連合艦隊からの増援部隊が加わり、5月15日時点の「白雲」は軍隊区分において北方部隊の水雷部隊に所属していた[注釈 36]

20日、北方部隊はアッツ島を包囲する米艦隊を奇襲すると共に、第1駆逐隊(神風、沼風)によるアッツ島輸送を発令したが、出撃は延期された[203][204]。「神風」と「沼風」は弾薬や糧食を満載し、ウェーク島攻略戦における第32号哨戒艇第33号哨戒艇のように[205]、アッツ島に擱坐揚陸する予定であったという[206][注釈 37]

5月25日、北方部隊の軍隊区分が変更され、「白雲」は第一水雷戦隊司令官が指揮する前衛部隊に所属した[注釈 38]。北方部隊は、前衛部隊によるアッツ島緊急輸送作戦を命じた[注釈 39]。同25日夕刻[210]、前衛部隊は幌筵海峡を出撃してアッツ島へむかった[211][212]。だが悪天候のため、旧式駆逐艦の航行は困難であった[206]。一水戦司令官は28日0145に第1駆逐隊の幌筵帰投を命じる[209][213]。5月29日[214]、アッツ島守備隊は守備隊長山崎保代陸軍大佐を含め玉砕した[215][216]。前衛部隊は洋上で玉砕電を受信し、幌筵に帰投した[217][218]

アッツ島玉砕後の6月6日、幌筵島泊地に停泊中の第一水雷戦隊旗艦「阿武隈」において、一水戦司令官森友一少将が脳溢血で倒れた[219][220]。同6日夜、カムチャッカ半島ロパートカ岬南方海面で行動中の第1駆逐隊(神風、沼風)が対潜攻撃をおこない[30]、「白雲」と「薄雲」が支援に向かった[221][注釈 40]。同日深夜[28]、「白雲」は「沼風」と衝突した[注釈 41]。「沼風」は大破した[223]。「白雲」も艦首一部切断の損傷を受けた[224]。乗組員に異常はなかった[225]。両艦は応急修理で自力航行が可能となり[226]、「白雲」は「朝雲」に、「沼風」は「若葉」に護衛されて幌筵島に帰投した[227]

翌7日朝、「阿武隈」は森少将を大湊警備府に移送するため幌筵を出発した[228][注釈 42]。「白雲」は幌筵に戻ってきており、「阿武隈」や「五月雨」など在泊艦艇からは「白雲」の損傷具合がよく見えたという[228][232]。「白雲」は在泊の重巡洋艦に接舷して修理を行った[225][233]。6月12日、第五戦隊は北方部隊からのぞかれ、「白雲」も北方部隊・水雷部隊から除かれた[234]。同日、第五戦隊と共に幌筵を出発し[227]、「白雲」のみ大湊へ移動した[235]。続いて大湊から函館港に回航され、本格的な修理に入った[236][237]。このため第9駆逐隊の「朝雲」と「薄雲」[238]が参加したキスカ島撤退作戦には加わっていない[237]

「白雲」が函館市で修理中の同年8月5日[239]、日本海軍は第十二航空艦隊と第五艦隊により北東方面艦隊を新編した[240][241]。第五艦隊麾下の各部隊・各艦は「北東方面部隊」として、引き続き千島列島北海道周辺での作戦に従事する[242]。 この頃、舞鶴海軍工廠で満潮型駆逐艦[176]」の修理が完成し[243][注釈 43]、9月1日付で第9駆逐隊に編入された[248]。9月21日、「白雲」の修理が終わる[249][250]。大湊と小樽を経由して幌筵に進出した[250][251]。第9駆逐隊(朝雲、霞、薄雲、白雲)は幌筵海峡を拠点に行動した[252]

10月31日、「朝雲」は第10駆逐隊に転出した[253][254]。9駆は3隻編制(霞、薄雲、白雲)となった[254][255]。 司令駆逐艦は「霞」に変更される[256]。11月になると「薄雲」と「白雲」は修理と整備を行うことになった[257]。「薄雲」は呉工廠に移動し、「白雲」は大湊に残った[252][257]。防凍工事や応急舵などの整備をおこなう[258]。12月末まで「白雲」は大湊で修理と整備をおこなった[259][260]

1944年の行動

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1944年(昭和19年)1月1日、「白雲」はタンカー「帝洋丸」を護衛して占守島片岡湾に進出した[260][261]。7日、2隻は幌筵海峡を出発する[262]流氷の危機を脱したが[263]、「白雲」は若干の浸水被害を受けた[264]。 「帝洋丸」を室蘭まで護衛したあと[265]、「白雲」は横須賀軍港に帰投した[266][267]。その後は横須賀で修理と工事をおこなう[267][268]

この頃、藤永田造船所では夕雲型駆逐艦「秋霜」を建造していた[269]。1月22日、平山敏夫(白雲駆逐艦長)は秋霜艤装員長に任命される[270][注釈 44]。 同時期、橋本正雄少佐は1月1日付で第7駆逐隊所属の駆逐艦「」艦長に任命されていたが[278]、「漣」は中部太平洋方面輸送作戦従事中の1月14日[279]、米潜水艦[70]アルバコア[70] (USS Albacore, SS-218) に撃沈された[280][注釈 45]。秋霜艤装員長に任命された平山少佐の後任として、橋本正雄少佐は白雲駆逐艦長に任命された[270]

2月上旬、「白雲」は重巡「高雄」等と共に空母「雲鷹」の救援に協力した[283][284]。7日、大湊に到着する[285]。第9駆逐隊(霞、白雲、薄雲)が揃い、訓練をおこなった[284]。2月末、幌筵へ進出した[284][286]。3月1日、第9駆逐隊に駆逐艦「不知火」が編入された[287]。この時点の「不知火」は輸送船団を護衛しながら内地に向け航行中であり[288]、「白雲」と合流することはなかった[289]

戦前の宣伝とは裏腹に[注釈 1][注釈 46]、日本海軍の対潜兵器と対潜戦術は問題を抱えていた[291]。3月15日、第9駆逐隊3隻(霞、白雲、薄雲)は輸送船4隻(山菊丸、慶安丸、梅川丸、日連丸)を護衛して北海道から千島列島得撫島に向かった[35][注釈 47]。対潜警報により釧路港に避難したあと、3月16日午後4時に釧路を出発した[293]。日没後、「白雲」は「日連丸」から誤射された模様で、灯火を点じて敵味方を確認させた[292]。 同日午後11時35分、北海道愛冠岬約60km沖でアメリカ潜水艦トートグ[70] (USS Tautog, SS-199) が船団部隊を襲撃する[70]。魚雷が命中し、「白雲」は轟沈した[294]。「白雲」後方約500にいた「霞」は白雲沈没現場で乗組員数名を認めたが、対潜行動と船団護衛続行のため救助活動を断念した[295]。「白雲」では、橋本正雄艦長ら全乗員が戦死した[296]。日本軍記録 北緯42度18分 東経145度11分 / 北緯42.300度 東経145.183度 / 42.300; 145.183[297]。米軍記録 北緯42度25分 東経144度55分 / 北緯42.417度 東経144.917度 / 42.417; 144.917。トートグによる被害は白雲轟沈にとどまらず、「日蓮丸」も魚雷をうけて沈没した[298][299]。「霞」が爆雷投下による対潜攻撃を行ったがトートグを撃沈できず、「薄雲」は船団を護衛して釧路に退避した[299]。駆逐艦「神風」と「波風」が9駆司令の指揮下に入り、対潜掃蕩をおこなった[注釈 48]。第一水雷戦隊司令官木村昌福少将は駆逐艦「初春」に将旗を掲げ、麾下駆逐艦と海防艦「国後」を率いて対潜掃蕩をおこなうが[注釈 49][注釈 50]、戦果はなかった。

第一水雷戦隊の戦時日誌によると、3月13-15日に陸軍航空隊が北海道南方沖に米潜水艦数隻を発見しており、海軍への情報伝達の不備が「白雲」と「日連丸」喪失の一因と指摘している[注釈 51]。当時、霞砲術長であった田上俊三[注釈 52]によれば、「白雲」轟沈直後に海上に投げ出された生存者の「オーイ」「オーイ」と叫ぶ声が聞こえていたが、敵潜水艦が海域にいたことや船団の護衛任務があったため、「霞」は救助を行うことができなかった。一旦小樽に戻った「霞」は再び現場に戻ったが、生存者の姿は既に全くいなくなっていた[299]。この時期の釧路沖の海水温は低く、途中で力尽きたものと思われる[291]

3月31日、白雲は除籍された[303]。 同日付で第9駆逐隊は第18駆逐隊に改編された[304][305]。残存3隻(薄雲、霞、不知火)[306]は引き続き第18駆逐隊に所属した[307]

歴代艦長

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※『艦長たちの軍艦史』271-273頁による。階級は就任時。

艤装員長

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  • 若木元次 中佐:1927年12月15日 -

艦長

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  • 若木元次 中佐:1928年7月28日 - 1929年11月30日
  • 小林徹理 中佐:1929年11月30日 - 1930年11月15日
  • 西村祥治 中佐:1930年11月15日 - 1931年11月2日
  • 酒井一雄 少佐:1931年11月2日[308] - 1933年11月15日
  • 岡野慶三郎 中佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日
  • 阪匡身 中佐:1934年11月15日 - 1935年11月21日
  • 安武史郎 少佐:1935年11月21日 - 1936年12月1日
  • 山隈和喜人 少佐:1936年12月1日 - 1937年7月15日[309]
  • (兼)山本岩多 中佐:1937年7月15日 - 1937年10月20日[310]
  • 山本皓 少佐:1937年10月20日[310] - 1937年12月1日[311]
  • 小川莚喜 中佐:1937年12月1日 - 1939年11月20日[312]
  • 前川新一郎 中佐:1939年11月20日 - 1940年11月15日[62]
  • 人見豊治 中佐:1940年11月15日[62] - 1942年6月30日[89]
  • 佐藤重吉 少佐/中佐:1942年6月30日[89] - 1942年11月15日[163]
  • 平山敏夫 少佐:1942年11月15日(大波艤装員長兼務)[163] - 1942年12月20日(免大波艤装員長)[165] - 1944年1月22日[270]
  • 橋本正雄 少佐:1944年1月22日[270] - 3月16日戦死

参考文献

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    藤原は当時海軍主計少尉、昭和17年3月より11月まで第11駆逐隊庶務主任。サボ島沖海戦時、第11駆逐隊司令駆逐艦「白雪」乗艦。
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    • Ref.C08030019200『昭和16年12月1日〜昭和19年6月30日第5艦隊戦時日誌AL作戦(3)』。 
    • Ref.C08030019300『昭和16年12月1日〜昭和19年6月30日第5艦隊戦時日誌AL作戦(4)』。 
    • Ref.C08030019400『昭和16年12月1日〜昭和19年6月30日第5艦隊戦時日誌AL作戦(5)』。 
    • Ref.C08030019500『昭和16年12月1日〜昭和19年6月30日第5艦隊戦時日誌AL作戦(6)』。 
    • Ref.C08030083900『昭和18年3月1日〜昭和18年5月31日第1水雷戦隊戦時日誌(3)』。 
    • Ref.C08030084000『昭和18年3月1日〜昭和18年5月31日第1水雷戦隊戦時日誌(4)』。 
    • Ref.C08030084400『昭和18年6月1日〜昭和18年7月31日第1水雷戦隊戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030084500『昭和18年6月1日〜昭和18年7月31日第1水雷戦隊戦時日誌(2)』。 
    • Ref.C08030084600『昭和18年6月1日〜昭和18年7月31日第1水雷戦隊戦時日誌(3)』。 
    • Ref.C08030085200『昭和18年7月22日〜昭和18年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。 
    • Ref.C08030085600『昭和18年9月1日〜昭和19年3月31日第1水雷戦隊戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030085700『昭和18年9月1日〜昭和19年3月31日第1水雷戦隊戦時日誌(2)』。 
    • Ref.C08030085800『昭和18年9月1日〜昭和19年3月31日第1水雷戦隊戦時日誌(3)』。 
    • Ref.C08030085900『昭和18年9月1日〜昭和19年3月31日第1水雷戦隊戦時日誌(4)』。 
    • Ref.C08030086000『昭和18年9月1日〜昭和19年3月31日第1水雷戦隊戦時日誌(5)』。 
    • Ref.C08030086100『昭和18年9月1日〜昭和19年3月31日第1水雷戦隊戦時日誌(6)』。 
    • Ref.C08030106900『昭和18年12月1日~昭和19年2月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。 

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 一等驅逐艦 "叢雲 むらくも"[6] 全要目{排水量1,700頓 速力34.0節 備砲12.7糎砲6門 魚雷發射管9門 起工昭和2年4月 竣工昭和4年5月 建造所 藤永田造船所} 一等驅逐艦中、特型と呼ばれるのがこの1,700頓驅逐艦である。12.7糎砲は6門、魚雷發射管は實に9門を有つてゐる大型驅逐艦である。長さ113.2米、幅10.3米、平均吃水2.97米。近頃は驅逐艦も航空機に對する兵装を改善し、更に新鋭なる武器を装備し、空中からの攻撃を反撃しつゝ戦闘をつゞけなければならない。水上にあつては隊伍を組んで主力艦に肉薄し魚雷戦を挑む外に水中の敵潜水艦を驅つて輕快なる運動と機敏なる操縦によつて爆雷をもつて戦ふのである。驅逐艦生活も亦、限りなく男兒を魅するかずかずの壮烈さをもつてゐる。雲級には"薄雲 うすぐも" "白雲 しらくも" "東雲 しののめ"がある。
  2. ^ 1941年(昭和16年)12月17日、ボルネオ島ミリで12駆僚艦「東雲」が撃沈され[7]、12駆(白雲、叢雲)となった[8]
  3. ^ 姉妹艦「叢雲」は[9]、第11駆逐隊に編入された[10]
  4. ^ 第20駆逐隊(朝霧、夕霧、天霧、白雲)のうち「朝霧」は沈没[17]、「白雲」と「夕霧」が大破[18]、無傷は「天霧」だけだった[19]
  5. ^ (昭和18年6月7日項)[30]○第一水雷戦隊(六-一九四五)一七四五「ロポッカ」岬ノ143°附近ニテ「神風」敵潜ヲ制圧中ナリ。「白雲」「薄雲」ハ直ニ出撃、之ニ協同セヨ。/○「白雲」(六-二三〇八)我、「沼風」ト衝突、「ロパッカ」ノ122°12′。/○「白雲」(七-〇〇一〇)「沼風」自力航行可能(微速)、本艦艦首切断部ノ為、舵キカズ、漂泊作業中。(中略)《「薄雲」ハ視界不良ニテ第一駆逐隊トノ合同困難ト思ヒ「ロパッカ」岬ノ143°17′(E点)ヲ通ズル315°線ニテ以東ヲ、「白雲」ハ以西ヲ行動スルコトヽセル後、視界雨ニテ衝突セルモノナリ》
  6. ^ 驅逐艦白雲 天山丸と衝突 但し損傷輕微[49](門司五日同盟)五日午前十一時十分頃、一等驅逐艦白雲及巡洋艦大井(五一〇〇トン)が關門海峡彦島沖にさしかかつたとき、大連から神戸へ向け航行中の大連汽船天山丸(二七五五噸)が潮流のため押流され、白雲の左舷に衝突したとの急報があつたので、門司税關港務部より救助艇が急行したが、白雲は左舷、天山丸は右舷首に損傷をうけしも大したことなく、應急修理後それぞれ目的地に向つた(記事おわり)
  7. ^ 驅逐艦白雲 ドック入渠 損害意外に多し[52](門司六日電通)五日午前十一時十分頃門司港外彦島沖で大連汽船天山丸と衝突左舷を大破した驅逐艦「白雲」は自力で、呉へ航行の豫定なりしが、損害意外に大きく、自力廻航危險のため、六日午後二時門司に引返し、彦島の三菱ドツクに入渠した。(記事おわり)
  8. ^ 太平洋戦争勃発後、安武(元白雲艦長)はラビの戦いで第30駆逐隊司令として駆逐艦「弥生」沈没時に戦死した[53](任海軍少将)[54]
  9. ^ 第三水雷戦隊が4個駆逐隊(11駆、12駆、19駆、20駆)を揃えるのは1940年(昭和15年)11月15日実施の艦隊編制からである[56][57]
  10. ^ 同年8月、姉妹艦「薄雲」が機雷で損傷し[24]、第12駆逐隊から除かれた[61]
  11. ^ 前川中佐(前白雲駆逐艦長)は「黒潮」駆逐艦長に転じた[62]。後任の白雲駆逐艦長人見豊治中佐は、「村雨」駆逐艦長であった[62]
  12. ^ 馬來部隊指揮官は、南遣艦隊司令長官小沢治三郎海軍中将であった[67]
  13. ^ このボルネオ攻略作戦では12月24日に駆逐艦「狭霧」がオランダ潜水艦[70]K XVIに撃沈され[71]、「東雲」と同日付で第20駆逐隊から削除された[8]
  14. ^ 馬来部隊の兵力部署は、第一南遣艦隊司令長官直率の中央隊(鳥海、由良、龍驤、朝霧、夕霧)、北方隊、南方隊(三隈、最上、天霧)、補給隊(綾波、汐風、日栄丸)、警戒隊(川内、第11駆逐隊、第19駆逐隊)であった[82]
  15. ^ 南東方面部隊指揮官(基地航空部隊指揮官/第十一航空艦隊司令長官:塚原二四三海軍中将)が外南洋部隊(指揮官:第八艦隊司令長官)と内南洋部隊(指揮官:第四艦隊司令長官)を指揮する[94]
  16. ^ 外南洋部隊電令作第三六号[105]一 外南洋部隊ハ第十七軍ト協同シテ陸軍後続部隊ヲ速ニ「ガダルカナル」島附近迄護送、同地ヲ確保シ次デ「ツラギ」ヲ攻略セントス/二 第三水雷戦隊(駆逐隊二隊欠)ハ陸軍川口支隊(二大隊ヲ基幹トシ輸送船二隻ニ乗船)ヲ護衛、八月二十四日「トラック」発北緯三度三四分、東経一六〇度二六分ヲ通ズル航路ヲ執リ八月二十八日日没後「ガダルカナル」島ニ達シ之ヲ揚陸セシムベシ、川口支隊ノ揚陸終了セバ駆逐艦二ヲ残シテは泊地警戒ニ任ゼシメ、爾余ノ兵力ヲ以テ輸送船ヲ「ラバウル」迄護送スベシ/三 第三水雷戦隊ノ駆逐隊一隊ハ「トラック」着補給ノ上速ニ「ラバウル」ニ進出スベシ 
  17. ^ リチャード・マングラム中佐が率いる第232海兵偵察爆撃飛行隊のSBDドーントレス12機、ジョン・スミス少佐が率いる第223海兵偵察爆撃飛行隊のワイルドキャット18機である[110]。彼等はカクタス(サボテン)・エア・フォースと呼ばれた[111]
  18. ^ (二水戦8月25日1200受信)[129]「カ」号作戦ハ左ニ依リ実施ノ方針ナルニ付、至急陸軍ト協定準備ヲ進メラレ度。 一 一木支隊川口支隊ノ輸送船ハ一時「ボーゲンビル」方面ニ避退ナルベク多兵力ヲ軽快艦艇ニテ逐次「ガ」島ニ輸送「ガ」島守備兵力ノ増強ヲ俟テ飛行場ヲ奪回/二 基地航空部隊、軽快艦艇、潜水艦等ニ依リ「ガ」島ノ空襲攻撃ヲ昼夜反覆シテ敵機並ニ飛行場ヲ撃砕スルト共ニ敵ノ増援ヲ阻止ス/三 飛行場ヲ奪回セバ速ニ飛行機ヲ進出、次イデ陸軍輸送船ヲ「ガ」島ニ入泊セシム/四 機動部隊、前進部隊ハ「ソロモン」諸島北方海域ヲ機宜行動シテ敵機動部隊ニ備フ
  19. ^ 一 川口支隊ハ予定変更シ直ニ「ラバウル」ニ回航、海軍艦艇ニ分乗ノ上「ガ」島ニ上陸セシムルニ決ス/二 川口支隊ノ約一個大隊(約六〇〇名)「ラバウル」ニ回航ノ途次洋上ニテ第二十駆逐隊ニ移乗ノ上二十七日「ガ」島ニ上陸セシムベシ 但シ海上模様右ノ移乗ニ適セザル場合「ラバウル」ニ回航スベシ/三 直接護衛兵力ハ直ニ別途手配ス[131]
  20. ^ (一木支隊)第二梯団ハ予定ヲ変更直ニ「ショートランド」ニ回航乗船中ノ陸軍兵力ヲ海軍艦艇ヲ以テ輸送「ガ」島ニ上陸セシムベシ 右ニ依ル第一次上陸ヲ二十七日夜ト予定[131]
  21. ^ ○第三水雷戦隊(二六-一六〇〇)地点「ケオニ」ニテ第二十駆逐隊ニ陸兵移乗終リ〔行間書込〕川口支隊600名三艦分乗 ガダルカナルニ向ケ発、二十七日二一〇〇着予定。第三水雷戦隊(駆逐隊欠)、輸送船ヲ護衛、ラボールニ向フ、28日〇三〇〇着予定[134]
  22. ^ 第24駆逐隊所属の駆逐艦「涼風」は損傷した軽巡「神通」を護衛しており[124]第17駆逐隊所属の陽炎型駆逐艦「磯風」が24駆の指揮下に入っていた[137]
  23. ^ 第六戦隊の重巡洋艦「衣笠」は8月28日午前2時過ぎショートランド泊地に到着した[139]。同日午前7時15分、第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(増援部隊指揮官)は駆逐艦「陽炎」から「衣笠」に旗艦を変更した[139]
  24. ^ (昭和17年9月10日記事)[140]第二水雷戦隊ガ陸兵輸送ヲグズグズシテヰタノト、川口支隊長ガ第二十駆逐隊ノ損害ヲキイテ、駆逐艦デハヤレヌ、南西方面ノ経験ニテ舟艇機動デヤレトテ動カズ、兵器ヲ主トシテ舟艇デヤルコトニシテ併用スルコトニテ、ヤットヤツタトノコト《陸軍バカリノ責任トハ誰レモ考ヘズ》。/第二十駆逐隊ハ燃料少ク低速ニテ行ツタタメ早ク敵航空圏内ニ入リ爆撃サレテ損害ヲウケタ(12k)。第二十四駆逐隊ガ揚陸ヲヤメテ引返シタコトハ、当時第八艦隊幕僚ハ損傷ナケレバ揚陸決行ノ電ヲ暗号ニツクラセ長官ニ伺ツタ処、長官ハ情況ガワカラヌカラ止メヨトノコトナリシモ、電信室デ打ツテシマツタノデ、ソレヲ取消シタコトアリ。(以下略)
  25. ^ 第24駆逐隊司令(28日0800)一 当隊(涼風欠)磯風二十八日〇二〇〇「タイボ」岬ノ六〇度一五,五浬ヨリ針路二四〇度速力三〇節 二〇一〇減速二〇三〇「タイボ」岬ノ六〇度二、三浬ヨリ針路二七〇度八八〇〇米前進後左斉動ニテ錨地進入 距岸約六〇〇米水深二〇米ニテ投錨ノ予定/二 二〇〇〇頃ヨリ磯風分離視界内ニアリテ東口ノ警戒ニ当リ、海風作業終了後之ト交替陸兵ヲ揚陸/三 貴隊ハ合同後概ネ八〇〇米ニテ当隊ニ続行陸兵揚陸後便宜帰投「ショートランド」ニテあけぼの丸ヨリ補給スベシ/四 (通信件、以下略)[138]
  26. ^ 攻撃隊指揮官はアメリカ海兵隊リチャード・C・マングラム中佐であったという[142]
  27. ^ 第六戦隊ノ一艦ヲ以テ白雲ヲ曳航、陸兵ハ他ノ二艦ニ収容今夜第二十四駆逐隊 第十一駆逐隊ト共ニ上陸ヲ結構セシメラルルヲ適当ト認ム[152](二水戦29日1524受信)。
  28. ^ 吉川潔中佐は、白露型駆逐艦「夕立」が第三次ソロモン海戦で活躍・沈没した時の夕立駆逐艦長である[166][167]
  29. ^ 〔 15日1800(将旗)3sd(宛略)[171] 3sd機密第151800番電 SNB ZOB戦斗概報第三號/一.十一日夜6Sノ夜戦ニ際シ直衛d吹雪沈没初雪被弾前部水線上破口荒天航行竝ニ二十四節以上ノ航行危険/二.日進 千歳11dg(2D欠)9dg(峯雲欠)ハ増援兵力ヲ「ガ」島ニ揚陸シタル後11dgハ古鷹救援ニ赴キ「ソロモン」諸島南方海面ヲ経テ避退中(2/3未着)一四二〇夏雲沈没叢雲大火災爆發収拾ノ途ナク朝雲白雪乗員ヲ収容シテ一旦避退夜陰ニ乗ジ更ニ叢雲ヲ曳航セントセシモ大火災艦尾切断シテ見込ナク遂ニ之ヲ処分セリ 〕
  30. ^ ○書類竝ニ郵便物表記方ニ關スル件[173] 驅逐艦白雲ト白雪トハ字體見誤易キ爲メ從來モ書類ノ誤送等不尠候處最近其ノ數激増シ重要書類ノ不達、誤達、延着益々多ク甚シキモノハ准士官以上ノ誤着任等アリカクテハ事務處理上遺憾ニ不尠候條書類及郵便物ノ發送ニ當リテハ其ノ表記ニ十分注意相成度/追テ事故防止ノ爲自今左ノ通 雲ノ字ニ振假名ヲ添付相成度
    「 驅逐艦 白クモ 」(第十二驅逐隊)
  31. ^ ビスマルク海海戦でネームシップの駆逐艦「朝潮」が沈没し[175]、朝潮型駆逐艦は4月1日付で「満潮型駆逐艦」と改定されていた[176]。「薄雲」と「白雲」が編入されるまで、第9駆逐隊は「朝雲」単艦であった[26]
  32. ^ 北方部隊指揮官は、第五艦隊司令長官河瀬四郎海軍中将であった[177]
  33. ^ 一水戦旗艦を「木曾」に譲り4月13日占守島片岡湾発[177]、17日以降は舞鶴工廠で修理をおこなう[178]。北方情勢急変のため急速修理をおこない[179]、5月17日舞鶴発、20日に到着して一水戦旗艦に戻る[180]
  34. ^ 舞鶴で修理中の4月28日、第一水雷戦隊に編入され旗艦となる[177]。5月3日、幌筵着[177]。5月20日、阿武隈の復帰にともない第21戦隊に戻る[180]
  35. ^ 4月15日より内南洋部隊編入[177]
  36. ^ 北方部隊電令作第312号による軍隊区分は[202]、主隊(那智、木曾、多摩、摩耶)、支援部隊(妙高羽黒)、水雷部隊(阿武隈、第9駆逐隊〈朝雲、白雲、薄雲〉、第21駆逐隊〈若葉初霜〉、駆逐艦〈長波五月雨〉)、潜水部隊、航空部隊、附属部隊、17日付で第五艦隊編入の第1駆逐隊(神風沼風)となっていた[203]
  37. ^ 〔上欄〕〇八〇〇軍令部[207](中略)敵ノ上陸戦ハ積極的ニシテ楽観ヲ許サズ。一~二日間ガ大切ナリ。緊急増援ハ小数ニテモ補充、士気振作ニ必要ナリ。/一案「神風」「沼風」ニテ擱坐ノツモリニテ進入セシム。(極メテ困難ナレバ、有力ナル駆逐艦ニ皈リノ燃料モモタシテ会敵セバ、敵ヲ撃破シ、最後ニハ擱坐モスルツモリデヤルヲ可トス。艦隊決戦デナクテモ敵ヲヤツツケルコトハ大切ナリト云フモアリ)(以下略)
  38. ^ 前衛部隊の編成は、一水戦司令官直率(阿武隈、木曾、朝雲、白雲、薄雲、長波)、挺身隊(若葉、初霜)、輸送隊(沼風、神風 )[208]
  39. ^ 北方部隊信電令第四四号[209](5月25日1315)一 第二軍隊区分トシ長波ヲ前衛部隊ニ響ヲ主隊ニ編入ス/二 前衛部隊ハ成ル可ク速ニ出動 天象ヲ利シ熱田湾方面ニ進出敵ヲ奇襲シナシ得レバ好機駆逐艦ニ依ル緊急輸送連絡員ノ収容ヲ行フベシ/三 主隊ハ幌筵方面ニ於テ待機敵情ニ応ジ出撃之ヲ支援シ爾余ノ部隊ニ関シテハ別令ス/四 X日ヲ五月二十五日トシY日ヲ二十七日ト予定ス 
  40. ^ 同方面では潜水艦ランナー (USS Runner, SS-275) が行動していた。
  41. ^ (昭和18年6月6日)[222]〔 1745|「カムチャツカ」半島ノ南端143°17′ニテ1dg(神風 沼風)ハ敵(潜水艦)発見制圧中更ニ徹底的攻撃ノ爲(司令官)1Sdハd×2(白雲、薄雲)ヲ増援下令/2200|薄雲、白雲(薄雲艦長指揮)1dgト会合ノ予定ニテ行動 霧ニ雨ヲ交ヘ視界500-1000ニテ合同断念/2250|以後別ニ(潜水艦)発見地点ヲ中心トシテ10′圏内ノ敵(潜水艦)掃蕩中/2308|「ロパッカ」岬ノ122°12′ニ霧中白雲ノ艦首ヲ以ツテ沼風ノ右舷前部ニ衝突 1Sd(司令官)ハ直ニd×2ヲ救援セシム(朝雲/9dg 若葉/21dg)|北方 5F|敵(潜水艦)×1ハ一旦潜没セシモ潜望鏡ノ根元迄浮上後後方ニ傾キタル儘沈下多量ノ油湧出撃沈確実/沼風士官室右舷大破前部浸水 微速力ニテ航行可能/白雲ハ艦首湾曲一部切断操舵困難自力航行可能幌筵ニ向フ 〕
  42. ^ 6月8日付で木村昌福少将が第一水雷戦隊司令官に任命され[229]、6月11日に大湊の「阿武隈」に箸任した[230][231]
  43. ^ 第18駆逐隊の駆逐艦3隻は1942年(昭和17年)7月5日にキスカ島でアメリカ潜水艦グロウラーに襲われる(7月5日の海戦[244]。駆逐艦が沈没[70]、駆逐艦2隻(霞、不知火)が大破して船体切断に至るという大被害を受けた[245]。2隻は舞鶴海軍工廠で修理をおこなっていた[246][247]
  44. ^ その後、平山(秋霜艦長)[271] は駆逐艦「早霜」艦長となり[272]レイテ沖海戦から生還した(早霜沈没[273]により11月25日附で免職)[274]。続いて秋月型駆逐艦 「涼月」艦長に任命され[275][276]坊ノ岬沖海戦から生還した[277]
  45. ^ 前漣艦長の菅明次少佐は[278] 1月10日付で駆逐艦「天津風」艦長に任命されていたが[281]、漣沈没時に戦死した[282]
  46. ^ 一等驅逐艦 "東雲 しののめ"[290] 全要目{排水量1,700噸 速力34.0節 備砲12.7糎砲6門 魚雷發射管9門 起工大正15年8月 竣工昭和3年7月 建造所佐世保海軍工廠}東雲も浦波と同型の1,700噸級の驅逐艦である。浦波のところで驅逐艦の使命とするところは魚雷襲撃にあると云つたが、その外に驅逐艦は種々の重用任務に使用される。その中第一に擧ぐべきは潜水艦撃攘である。その得意とする快速力と輕快極まる操縦性及び潜水艦の魚雷を恐れぬ吃水の淺少さ等を利して敵潜水艦のゐる海上を爆雷を投射しつゝ縦横無盡に走りまはる驅逐艦は潜水艦にとつては何よりも恐るべき敵であらう。故に驅逐艦に襲はれたら最後潜水艦は上記の如き驅逐艦の特長と全然相反する弱點をもつため到底これに刄向ふ力はなく、うまく逃げをはせることが出來れば僥倖と云ふところである。
  47. ^ 『戦史叢書44巻 北東方面陸軍作戦<2>』142頁では「日蓮丸」と表記している[292]
  48. ^ 『戦史叢書44巻』142頁では「北方部隊は十七日〇七三五、「神風」「沼風」を第九駆逐隊司令の指揮下に入れ、特令あるまで「白雲」が雷撃された海面付近の対潜掃蕩を命じ(以下略)」と記述するが、「沼風」は1943年(昭和18年)12月18日にアメリカ潜水艦「グレイバック」により[70]、撃沈されている[29]
  49. ^ 駆逐艦の内訳は、第21駆逐隊(初春、若葉、初霜)、第9駆逐隊(霞、薄雲)、第1駆逐隊(神風、波風)[300]
  50. ^ (備考)[301](3)十七日北方部隊電令作第一七號ニ依リ初春ニ将旗ヲ移揚大湊出撃 九駆(不知火欠)二十一駆 神風 波風 國後ヲ指揮シ厚岸南東方海面対潜掃蕩ヲ實施 二十二日以後更ニ快鳳丸ヲ指揮下ニ加ヘ掃蕩ヲ兼ネ海軍船團(北進丸、新羅丸)陸軍船團(山菊丸 梅川丸 慶安丸)ノ天寧 得撫及松輪島護衛回航ニ任ズ 〕
  51. ^ (2)[302] 敵潜情報ノ入手及警報發令ニ関シテハ凡有手段ヲ講ズルヲ要ス特ニ陸軍航空部隊ノ發見情報ノ迅速入手ニ関シ準備アルヲ要ス (i)三月十三日乃至三月十五日北海道南方海面ニ於テ陸軍航空部隊ノ發見セル敵潜水艦情報ハ十六日0100頃陸軍計根別航空隊将校ノ釧路出張ニ依リ九駆司令発電ヲ経テ同海域ニ敵潜數隻存在シアルコト初メテ明トナレリ右情況ニ於テ釧路ヲ出撃セル「ヘ乙」船團ハ十六日夜日連丸白雲ノ被害ヲ惹起セリ
  52. ^ スラバヤ沖海戦時、駆逐艦「」において敵兵救助経験があり、「白雲」には海兵学校同期や直前まで部下だった者がいた。

出典

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  1. ^ a b #達昭和3年6月 pp.7-8〔 達第八十號 驅逐艦及掃海艇中左ノ通改名ス 本達ハ昭和三年八月一日ヨリ之ヲ施行ス|昭和三年六月二十日 海軍大臣 岡田啓介|(略)第四十二號驅逐艦 ヲ 驅逐艦 白雲(シラクモ)トス 〕
  2. ^ a b c d e f 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 88a白雲(しらくも)
  3. ^ #艦艇類別等級表(1941年12月31日) p.3〔 艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|吹雪型|吹雪、白雪、初雪、叢雲、東雲、薄雲、白雲、磯波、浦波、綾波、敷波、天霧、狭霧、夕霧、朧、曙、漣、潮、暁、響、雷、電、朝霧 〕(4番艦の深雪は除籍済)
  4. ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Yamato Shinbun, 1902.06.27、2023年7月10日閲覧 p.3〔 ●白雲艦の横須賀回航/●白雲艦の撿閲 〕
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  9. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 88d叢雲(むらくも)
  10. ^ a b c #内令昭和17年3月(1) p.35〔 内令第四百十三號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年三月十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第十一驅逐隊ノ項中「初雪」ノ下ニ「、叢雲」ヲ加フ |第十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十驅逐隊ノ項中「夕霧」ノ下ニ「、白雲」ヲ加フ 〕
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  136. ^ #外南洋増援部隊(1) p.20〔 (ニ七)八月二十八日〇六〇〇24dg(凉風缺)磯風(陸兵計四五〇名分乗)ハ24dg司令指揮ノ下ニ「ショートランド」ヲ出撃「フロリダ」島北方海面ニ於テ20dgヲ合同同夜「ガダルカナル」島「タイボ」岬附近ニ揚陸ヲ決行セントセシモ… 〕
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  145. ^ 陽炎型(光人社) 2014, p. 280a朝霧(あさぎり)
  146. ^ #S1709八艦隊日誌(1) p.60〔 二十八日(天候略)一木川口支隊ノ第一回増援隊発進シタルモ敵機ノ空襲ニ依リ中止朝霧沈没夕霧白雲大破ス 〕、#外南洋増援部隊(1) p.8〔 20dg|(始)八月二十七日|(終)八月三十一日(朝霧白雲八月二十八日)|二十八日敵機ノ爆撃ニ依リ朝霧沈没白雲航行不能夕霧相當ノ損傷ヲ受ク 〕
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  156. ^ #S1709呉鎮日誌(3) pp.17-18〔 一日〇一四〇海軍大臣(宛略)官房機密第一〇一四〇〇五番電 一、驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 第二十驅逐隊ノ項ヲ削リ第三十驅逐隊ノ項中睦月ヲ削リ第三十一驅逐隊ノ項中ニ高波ヲ加フ/二、朝霧及睦月ヲ驅逐艦籍ヨリ除カル|無電 〕
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  158. ^ #S1709呉鎮日誌(3) p.18〔 一日〇一〇八軍令部總長(宛略)大海機密第〇一〇一〇八六三番電(中略)一、第二十驅逐隊ヲ解隊シ天霧ヲ第八艦隊ニ夕霧及白雲ヲ呉鎭守府部隊ニ編入/二、朝霧及金龍丸ヲ戰時編制ヨリ除ク|無電 〕
  159. ^ #S1709呉鎮日誌(3) p.19〔 二日0910呉鎮長官(宛略)夕霧及白雲ハ呉歸着後整備作業ニ従事スベシ 〕
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  188. ^ 海軍公報(部内限)第4402号 昭和18年6月1日(火) p.8」 アジア歴史資料センター Ref.C12070431700 〔 ○司令驅逐艦復皈 第九驅逐隊司令ハ司令驅逐艦ヲ一時白雲ニ變更中ノ處五月十五日薄雲ニ復皈セリ 〕
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  224. ^ #S1806一水戦日誌(1) p.20〔 白雲機密第070230番電沼風自力航行可能(微速)本艦艦首切断ノ為舵利カズ漂泊作業中 〕
  225. ^ a b #S1806一水戦日誌(1) p.38〔 七日(天候略)0115朝雲出撃/0210若葉出撃/0900阿武隈大湊ニ向ケ幌筵出撃|0030朝雲ニ出撃ヲ命ズ/0129若葉ニ出撃発令(通信0150)/0120朝雲出撃/0200若葉出撃/0800若葉幌筵皈着/0900頃 朝雲 白雲 沼風ヲ護衛シ幌筵ニ皈投/0930薄雲幌筵皈着|一.白雲ハ上甲板線ヨリ下方艦首ヨリ九米迄切断屈曲塗具庫錨鎖庫ニ浸水セリ人員異常ナシ/二.白雲摩耶ニテ応急処理 〕
  226. ^ #S1806一水戦日誌(1) p.21〔 9dg機密第070400番電 沼風士官室右舷及艦橋下部大破六節ニテ自力航行可能白雲ハ0415頃應急修理完成六節程度ニテ自力航行可能ノ見込 若葉ハ合同後沼風ヲ朝雲ハ白雲ヲ護衛幌筵海峡通過幌筵ニ帰投ス 〕
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  233. ^ 昭和18.2.1~昭和18.8.14 太平洋戦争経過概要 その5(防衛省防衛研究所)18年6月1日~19年6月12日 」 アジア歴史資料センター Ref.C16120635900  p.9(昭和18年6月)|8|沼風(1dg)白雲(9dg)ハ幌筵ニテ応急修理|北方 5F|那智(21S)羽黒(5S)ニ横付 十二日頃ニ概ネ原速ニテ内地回航可能ノ見込 〕
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  236. ^ #S1806一水戦日誌(1) p.2〔 白雲ハ十二日幌莚海峡発大湊爾後函館ニテ修理 〕、#S1806一水戦日誌(2) pp.36-37〔 (二)麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和18年7月)
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  248. ^ #内令昭和18年9月(1) p.26〔 内令第千八百十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年九月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「白雲」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ 〕、#S1809一水戦日誌(1) p.6〔(三)水雷部隊ノ行動(1)九月一日霞ハ第九駆逐隊ニ編入セラレ陸奥海湾ヲ經テ那智ヲ護衛六日幌筵海峡ニ進出シ阿武隈及第九駆逐隊(白雲欠)ハ北方海上防衛主兵力トシテ幌筵海峡ニ在リ傍ラ訓練ニ從事ス 〕
  249. ^ #S1809一水戦日誌(1) p.7〔(7)白雲ハ二十二日修理完成函館発大湊小樽ヲ經テ幌筵海峡ニ進出 薄雲ハ三十日出撃武呂頃湾ニ行動 第三十六共同丸ノ護衛及測量協力ニ任ズ 〕
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  253. ^ #S1809一水戦日誌(2) p.33〔 三十一日大臣(宛略)機密第三一〇〇〇五番電 三十一日附 一、駆逐隊編制中左ノ通改定セラル 九駆ノ項朝雲ヲ削リ十駆ノ項ニ朝雲ヲ 二十四駆ノ項ニ満潮ヲ 六十一駆ノ項ニ秋月ヲクワフ 二、省略 〕
  254. ^ a b #内令昭和18年10月(5) p.38〔 内令第二千二百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、」ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「風雲」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|(略) 〕
  255. ^ #S1809一水戦日誌(2) p.9〔 備考(イ)一〇月三一日附朝雲ハ第一〇駆逐隊ニ編入セラレ本軍隊区分ヨリ除ク 〕、#第五艦隊AL作戦(4) p.19-20〔 別紙第一 麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和18年10月)
  256. ^ 海軍公報(部内限)第4536号 昭和18年11月9日(火) p.34」 アジア歴史資料センター Ref.C12070442500 〔 ○司令驅逐艦變更 第九驅逐隊司令ハ十月二十九日司令驅逐艦ヲ霞ニ變更セリ 〕、#S1809一水戦日誌(2) p.21〔 二十九日(司令)9dg(宛略)機密第二九一五四五番電 司令駆逐艦ヲ朝雲ヨリ霞ニ変更ス 〕
  257. ^ a b #S1809一水戦日誌(2) p.12〔 (c)薄雲 白雲ハ十一月一日夫々那智 赤城丸ヲ護衛大湊ニ帰投 同二〇日薄雲ハ大湊発呉ニ回航 白雲ハ大湊ニ於テ修理整備ニ從事ス 〕
  258. ^ #S1809一水戦日誌(2) p.44〔 十七日白雲駆逐艦長(宛略)機密第一七一一〇七番電 今期修理工事豫定左ノ通 一、実施工事前檣改装哨信儀 二十糎信號燈 發射管防凍装置 應急舵/二、十二月十三日公試 十三日完成 〕
  259. ^ #第五艦隊AL作戦(4) p.22〔 別紙第一 麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和18年11月)、#第五艦隊AL作戦(4) p.31〔 別紙第一 麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和18年12月)、#S1809一水戦日誌(3) pp.12-13〔 (二)麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和18年12月)
  260. ^ a b #S1809一水戦日誌(3) p.10〔 2.白雲ハ大湊ニ於テ修理整備ニ從事 二九日帝洋丸ヲ護衛北千島ニ進出(一月一日着)霞ハ所定ノ輸送及護衛ヲ終了シ二二日舞鶴着修理整備ニ從事/薄雲ハ呉ニ於テ修理整備ニ從事中ナリ 〕
  261. ^ #第五艦隊AL作戦(4) p.37(作戦経過概要)(昭和19年1月1日)
  262. ^ #第五艦隊AL作戦(4) p.37(作戦経過概要)(昭和19年1月7日)|一一〇〇 白雲帝洋丸幌筵海峡発 〕、#S1809一水戦日誌(4) p.16〔 七日 白雲駆逐艦長(宛略)機密第〇七一〇三九番電 横須賀ニ向ケ幌筵海峡發 十二日着ノ豫定 〕
  263. ^ #S1809一水戦日誌(4) pp.17-18
  264. ^ #S1809一水戦日誌(4) pp.18-19〔 十日 白雲駆逐艦長(宛略)白雲機密第一〇一八三〇番電 帝洋丸指揮官所報ノ通 大氷原ニ出會セル爲横須賀入港ハ!?若ハ十四日トナル見込 氷原航行時ノ被害前部釣合タンク及空所水線附近ノ鋲弛ミ漏水!?他異状ナシ 〕
  265. ^ #S1809一水戦日誌(4) p.19〔 十一日 帝洋丸指揮官(宛略)機密第四二番電 本船(護衛駆逐艦白雲)本十一日一八〇〇小島(北東側)十二日恵山岬通過〇三〇〇室蘭着ノ豫定 〕〔 十二日 白雲駆逐艦長(宛略)機密第一二〇六五八番電 〇一三〇室蘭港外ニ於テ帝洋丸ノ護衛ヲ止メ一三日一〇〇〇横須賀着ノ豫定 〕、同戦時日誌 p.40(経過概要、昭和19年1月12日)
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  282. ^ #S1812三水戦日誌(5) pp.67-72
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  285. ^ #第五艦隊AL作戦(4) p.46〔 別紙第二 麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和19年1月)、#第五艦隊AL作戦(5) p.11(作戦経過概要)(昭和19年2月7日)|〇〇〇五 白雲大湊着着 |
  286. ^ #第五艦隊AL作戦(5) p.15(作戦経過概要)(昭和19年2月25日)|〇四〇〇 9dg(霞、白雲)大湊発 |、同戦時日誌 pp.16-17(昭和19年2月29日)|〇六〇八白雲幌筵海峡着 一三〇〇9dg(霞)幌筵海峡着|
  287. ^ 内令昭和19年3月(1) p.17〔 内令第三百八十八号 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年三月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「霞」ノ下ニ「、不知火」ヲ加フ|第十九驅逐隊ノ項中「敷波」ノ下ニ「、天霧」ヲ加フ 〕
  288. ^ #S1809一水戦日誌(6) p.48〔 一五(天候略)1000不知火【タモ11】船團ヲ護衛門司ニ向ケ高雄發 〕
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  302. ^ #S1809一水戦日誌(6) pp.18-19
  303. ^ #内令昭和19年3月(5) p.41〔 内令第五百十三号|横須賀鎮守府在籍 軍艦 那珂 軍艦 香取|呉鎮守府在籍 軍艦 阿賀野 右帝国海軍籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 舞風|呉鎮守府在籍 驅逐艦 白雲|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 峯風 驅逐艦 追風 驅逐艦 文月 驅逐艦 海風|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 太刀風|右帝国驅逐艦籍ヨリ除カル(略)|昭和十九年三月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎 〕
  304. ^ 海軍公報(部内限)第4677号 昭和19年5月1日(月) pp.7-8」 アジア歴史資料センター Ref.C12070462400 〔 ○司令驅逐艦變更 第十八驅逐隊司令ハ四月二十二日司令驅逐艦ヲ不知火ニ變更セリ(第十八驅逐隊)|○書類移管 當隊三月三十一日附第十八驅逐隊ト改編ニ付各部ヨリ第九驅逐隊ニ配布中ノ軍機、軍極秘書類ハ總テ第十八驅逐隊ニ移管致候條了知ノ上處理相成度(第九驅逐隊) 〕
  305. ^ #S1809一水戦日誌(5) p.6〔 (備考)(1)三十一日附九駆ヲ十八駆ト改稱同隊ヨリ白雲ヲ除カル 〕(昭和19年2月)
  306. ^ 陽炎型(光人社) 2014, pp. 122–123第十八駆逐隊(陽炎・不知火)
  307. ^ #内令昭和19年3月(5) p.39〔 内令第五百十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年三月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|(略)第九驅逐隊ノ項ヲ削ル|(略)第十八驅逐隊/薄雲、霞、不知火|(略)〕
  308. ^ 『官報』第1455号、昭和6年11月4日。
  309. ^ 海軍辞令公報 号外 第4号 昭和12年7月15日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072100 
  310. ^ a b 海軍辞令公報 号外 第78号 昭和12年10月20日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072400 
  311. ^ 海軍辞令公報 号外 第99号 昭和12年12月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700 
  312. ^ 海軍辞令公報(部内限)第405号 昭和14年11月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076900 

関連項目

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