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「竹 (松型駆逐艦)」の版間の差分

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{{Infobox 艦艇
{{Infobox 艦艇
|名称 = 竹
|名称 = 竹
|画像 = [[Image:Japanese destroyer Take 1944.jpg|300px|竹]]
|画像 = Japanese destroyer Take 1944.jpg
|画像幅=300
|運用者 = {{navy|大日本帝国}}
|画像説明=竹
|建造所 = [[横須賀海軍工廠]]
|建造所 = [[横須賀海軍工廠]]
|運用者 = {{IJNAVY}}
|発注 = 1942年戦時建造補充([[改マル5計画|改マル5]])追加計画
|艦種=[[駆逐艦]](一等駆逐艦)
|クラス = [[松型駆逐艦|松型]]
|発注 = 1942年戦時建造補充([[改⑤計画|改⑤]])追加計画
|起工 = [[1943年]]10月15日
|起工 = [[1943年]]10月15日
|進水 = [[1944年]]3月28日
|進水 = [[1944年]]3月28日
|就役 = 1944年6月16日
|竣工 = 1944年6月16日
|除籍 = [[1945年]]10月25日
|除籍 = [[1945年]]10月25日
|後 = 1945年12月1日[[復員輸送艦|特別輸送艦]]指定<br />その後イギリスに賠償艦として引き渡し解体
|その後 = 1945年12月1日[[復員輸送艦|特別輸送艦]]指定<br />その後イギリスに賠償艦として引き渡し解体
|基準排水量 = 1,262 トン
|クラス = [[松型駆逐艦]]
|基準排水量 = 1,262t
|公試排水量 = 1,530 トン
|全長 = 100.00 [[メートル|m]]
|公試排水量 = 1,530t
|全 = 100.00m
|全 = 9.35 m
|全幅 = 9.35m
|吃水 = 3.30 m
|ボイラー = [[ロ号艦本式缶]]×2基
|吃水 = 3.30m
|ボイラー = [[ロ号艦本式]]2
|主機 = [[艦本式タービン]]×2
|主機 = [[艦本式タービン]]2基2軸 19,000[[馬力|hp]]
|出力=19,000 [[馬力]]
|推進器=[[スクリュープロペラ]]×2軸
|速力 = 27.8[[ノット|kt]]
|速力 = 27.8 [[ノット]]
|航続距離 = 18ktで3,500[[海里|浬]]
|航続距離 = 3,500[[海里]]/18ノット
|燃料 = [[重油]]370t
|燃料 = [[重油]]:370[[トン|t]]
|乗員 = 211名/248名<ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 7頁</ref>
|乗員 = 211名/248名<ref>[[#S1906十一水戦日誌(3)]], p.7</ref>(後日、323名){{Sfn|南海の死闘|1994|pp=81-82|ps=「竹」の性能}}
|兵装 = [[四〇口径八九式十二糎七高角砲|40口径12.7cm単装高角砲]] 1基<br />[[四〇口径八九式十二糎七高角砲|40口径12.7cm連装高角砲]] 1基<br />[[九六式二十五粍高角機銃|25mm連装機銃]] 4基<br />[[九六式二十五粍高角機銃|25mm単装機銃]] 12基<br />[[酸素魚雷|61cm]]4連装九二式[[魚雷発射管]] 1基4門(予備魚雷なし)<br />九四式爆雷投射機 2基、爆雷投下軌条×2、(二式爆雷 36発)
|兵装 = {{ubl|[[四十口径八九式十二糎七高角砲|40口径12.7cm単装高角砲]]×1基
|40口径12.7cm連装高角砲×1基
|[[九六式二十五粍高角機銃|25mm連装機銃]]×4基
|25mm単装機銃×12基
|[[酸素魚雷|61cm]]4連装九二式[[魚雷発射管]]×1基(予備魚雷なし)
|九四式爆雷投射機×2基、爆雷投下軌条×2軌、(二式爆雷×36発)}}
|レーダー = [[仮称二号電波探信儀二型|二号二型]](対水上用)
|ソナー = {{ubl|[[九三式水中探信儀|九三式探信儀]]|[[九三式水中聴音機]]}}
}}
}}
'''竹''' (たけ) は、[[大日本帝国海軍]]の[[駆逐艦]]<ref name="S19達17号">[[#達昭和19年1月(2)]] pp.31-33</ref>。
'''竹''' (たけ) は、[[大日本帝国海軍]]の[[駆逐艦]]<ref name="S19達17号">[[#達昭和19年1月(2)]]pp.31-33『達第十七號 昭和十八年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻、潜水艦三隻、海防艦七隻、掃海艇一隻、驅潜艇一隻及特務艦一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十九年一月二十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 <strong>驅逐艦 竹(タケ)</strong> 伊號第三百六十八號潜水艦 伊號第三百六十九號潜水艦|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 梅(ウメ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 桃(モモ)|川崎重工業株式會社ニ於テ建造 伊號第十五潜水艦|日立造船株式會社ニ於テ建造 海防艦 屋代(ヤシロ) 海防艦 日振(ヒブリ)|日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造 海防艦 鵜来(ウクル) 第十三號海防艦 第十五號海防艦 第十七號海防艦 第十九號海防艦|株式會社東京石川島造船所ニ於テ建造 第三十四號掃海艇|株式會社新潟鐡工所ニ於テ建造 第六十三號駆先手|三菱重工業株式會社横濱船渠ニ於テ建造 特務艦 大濱(オホハマ)』</ref>。


== 概要 ==
== 概要 ==
一等駆逐艦'''竹'''(たけ)は、日本海軍が[[太平洋戦争]]中に[[横須賀海軍工廠]]で建造した駆逐艦<ref name="S19達17号" /><ref name="重本2014竹">[[#重本2014|陽炎型(2014)]]331頁『竹(たけ)』</ref>。戦時量産型駆逐艦である[[松型駆逐艦|松型駆逐艦(丁型駆逐艦)]]の2番艦であり、日本海軍の艦名としては[[樅型駆逐艦]]の「[[竹 (樅型駆逐艦)|竹]]」に続いて2代目である。戦時量産型のため「雑木林」と渾名され<ref>[[#南海の死闘]]71頁</ref>、速力や火力などの諸性能は限定されていたが、生存性(被害極限性)は従来の日本海軍駆逐艦に比べて格段に向上していた<ref>[[#志賀1985|海軍兵科将校]]136-137頁</ref>
[[大日本帝国海軍|日本海軍]]が[[大東亜戦争]]中に[[横須賀海軍工廠]]で建造した駆逐艦{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=331|ps=竹(たけ)}}。戦時量産型駆逐艦である[[松型駆逐艦|松型駆逐艦(丁型駆逐艦)]]の2番艦であり{{Sfn|戦史叢書88|1975|pp=52-56|ps=駆逐艦(丁)}}、日本海軍の艦名としては[[樅型駆逐艦]]の「[[竹 (樅型駆逐艦)|竹]]」に続いて2代目である{{Sfn|日本駆逐艦物語|1993|p=295|ps=日本海軍駆逐艦艦名一覧/Ⅱ二等駆逐艦}}松型は戦時量産型のため「雑木林」と渾名され{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=71,86-87}}{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=133a-134|ps=雑木林の真価}}、速力や火力などの諸性能は限定されていたが、生存性(被害極限性)は従来の日本海軍駆逐艦に比べて格段に向上していた{{Sfn|日本駆逐艦物語|1993|pp=235-237|ps=新機軸をもつ小兵「松型」}}


[[1944年]](昭和19年)[[6月16日]]に竣工後<ref name=":0">[[#S1906十一水戦日誌(1)]] p.42(作戦経過概要、昭和19年6月16日</ref>、「竹」は訓練部隊の[[水雷戦隊#第十一水雷戦隊|第十一水雷戦隊]]に所属して訓練や[[南西諸島]]への輸送任務{{Sfn|戦史叢書17|1968|pp=48-49|ps=海軍艦艇をもってする兵力展開輸送}}に従事した<ref name="ハンディ18写真52">[[#ハンディ判艦艇写真集18]] p.52〔 駆逐艦(丁型)一覧表 〕</ref>。7月15日、新編された'''第43駆逐隊'''に所属<ref name="S19内令865" />。8月からは[[台湾]]・[[マニラ]]・[[パラオ諸島]]方面での輸送や船団護衛任務に従事した{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=331|ps=竹(たけ)}}。8月20日、新編の[[第三十一戦隊]]に編入される<ref name="S190819護衛対潜">[[#S1908経過(護衛対潜)]] p.4(昭和19年8月)</ref>。同月中旬には、軽巡洋艦「[[名取 (軽巡洋艦)|名取]]」や{{efn|パラオ方面輸送任務従事中の「名取」は{{Sfn|軽巡海戦史|2017|pp=271-272|ps=名取(なとり)}}、[[8月18日]]に潜水艦の雷撃で沈没した<ref name="S190818a護衛対潜">[[#S1908経過(護衛対潜)]] p.3(昭和19年8月)</ref>。「竹」を含む名取捜索隊は遭難者を発見できず、8月20日に[[セブ島]]へ帰投した<ref name="S190820護衛対潜">[[#S1908経過(護衛対潜)]] p.4(昭和19年8月)</ref>。}}や駆逐艦「[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]」の救難に従事した{{efn|輸送作戦中の「五月雨」は[[8月18日]]未明に[[パラオ諸島]]で座礁した<ref name="S190818a護衛対潜" />。その後、米潜水艦の雷撃で破壊される{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=294|ps=五月雨(さみだれ)}}。8月26日、「竹」は放棄された「五月雨」から乗組員を収容した<ref name="S190825護衛対潜">[[#S1908経過(護衛対潜)]] pp.5-6(昭和19年8月)</ref>。}}。
[[1944年]](昭和19年)[[6月16日]]に竣工後、「竹」は訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属して訓練や輸送任務に従事<ref name="重本2014竹" /><ref name="ハンディ18写真52">[[#ハンディ判艦艇写真集18]]p.52『駆逐艦(丁型)一覧表』</ref>。
7月15日、新編された'''第43駆逐隊'''に所属<ref name="S19内令865" />。8月からは[[台湾]]・[[マニラ]]・[[パラオ諸島]]方面での輸送や船団護衛任務に従事した<ref name="重本2014竹" />。10月下旬より[[レイテ島]]輸送作戦([[多号作戦]])に従事し<ref name="重本2014竹" />、幾度か損傷しながら生還<ref name="志賀兵科212">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]212-213頁『蟷螂の斧』</ref>。特に[[12月3日]]の[[オルモック湾]]における夜戦では、姉妹艦「[[桑 (松型駆逐艦)|桑]]」と共に[[アレン・M・サムナー級駆逐艦|米軍大型駆逐艦]]3隻と交戦<ref>[[#重本2014|陽炎型(2014)]]332頁『桑(くわ)』</ref>、「竹」は魚雷攻撃で駆逐艦「[[クーパー (駆逐艦)|クーパー]]」を撃沈した(第七次多号作戦)<ref>[[#松永、三号|三号輸送艦帰投せず]]107-108頁</ref>。
内地帰投後の「竹」は、[[瀬戸内海]]にあって[[終戦]]まで生き残る<ref name="志賀兵科212" />。戦後は[[復員輸送艦]]としての任務にあたった。


10月下旬より実施された[[レイテ島]]増援輸送作戦([[多号作戦]])では{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=448-449|ps=増援兵力の輸送}}、第三次/第四次、第五次、第七次作戦に参加した{{Sfn|秋月型(潮書房)|2015|pp=333-334}}。「竹」は幾度か損傷しながら生還した{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=26-27|ps=多号作戦(昭和19年マニラよりレイテ島に対する輸送作戦)の経過概要}}。特に[[12月3日]]の[[オルモック湾]]における夜戦では、姉妹艦「[[桑 (松型駆逐艦)|桑]]」と共に[[アレン・M・サムナー級駆逐艦|米軍大型駆逐艦]]3隻と交戦し{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=332|ps=桑(くわ)}}、「竹」は魚雷攻撃で駆逐艦「[[クーパー (駆逐艦)|クーパー]]」を撃沈した{{Sfn|駆逐艦入門|2006|pp=333-336|ps=レイテ沖の駆逐艦戦}}(第七次多号作戦)<ref name="S191203護衛対潜a">[[#S1912経過(護衛対潜)]] p.2(昭和19年12月)</ref>。
==戦歴==
[[Image:Fig_of_IJN_DD_Take_1944-1945.gif|thumb|right|300px|竹の艦型図。上は竣工時(1944年6月)、下は終戦時(1945年8月)の竹。終戦時の単装機銃の配置と回天の架台は推定。]]
===レイテ島の戦いまで===
[[横須賀海軍工廠]]で建造<ref name="ハンディ18写真52" />。[[1943年]](昭和18年)[[10月15日]]、起工。
[[1944年]](昭和19年)1月25日「竹」と命名される<ref name="S19達17号" />。
同日附で駆逐艦一等松型に類別<ref>[[#内令昭和19年1月(5)]]pp.17-18『内令第二百號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十九年一月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等松型ノ項中「松」ノ下ニ「、竹、梅、桃」ヲ加フ|潜水艦、一等伊十型ノ項中「伊號第十四」ノ下ニ「、伊號第十五」ヲ、同伊三百六十一型ノ項中「伊號三百六十六」ノ下ニ「、伊號三百六十八、伊號三百六十九」ヲ加フ|海防艦、占守型ノ項中「笠戸」ノ下ニ「、日振、鵜来」ヲ、同三御藏型ノ項中「倉橋」ノ下ニ「、屋代」ヲ、同第一號型ノ項中「第十一號」ノ下ニ「、第十三號、第十五號、第十七號、第十九號」ヲ加フ|掃海艇、第十九號型ノ項中「第三十三號」ノ下ニ「、第三十四號」ヲ加フ|驅潜艇、第十四號型ノ項中「第六十一號」ノ下ニ「、第六十三號」ヲ加フ』</ref>。
3月28日、進水<ref name="志賀兵科133">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]133-134頁『雑木林の真価』</ref>。本籍を[[横須賀鎮守府]]に定められる<ref>[[#内令昭和19年3月(2)]]p.18『内令第四百八十號|驅逐艦 竹 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル|第二十四號海防艦 右本籍ヲ舞鶴鎮守府ト定メラル|舞鶴鎮守府在籍 第二十四號海防艦 右警備海防艦ト定メラル|第六十號驅潜艇 右本籍ヲ佐世保鎮守府ト定メラル|佐世保鎮守府在籍 第六十號驅潜艇 右警備驅潜艇ト定メラル|昭和十九年三月二十八日 海軍大臣嶋田繁太郎』</ref>。
4月15日、日本海軍は重巡洋艦[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]水雷長(昭和17年4月〜沈没時)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072085000|昭和17年4月1日(発令4月1日付)海軍辞令公報(部内限)第837号 p.9田中補職}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072088500|昭和17年12月15日(発令12月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1013号 p.11}}</ref>、駆逐艦[[呉竹 (駆逐艦)|呉竹]]艦長<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072089000|昭和18年1月15日(発令1月13日付)海軍辞令公報(部内限)第1030号 p.37}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072096500|昭和19年3月10日(発令3月10日)海軍辞令公報(部内限)第1365号 p.41}}</ref> 等を歴任した[[田中弘国]]少佐を、竹艤装員長に任命する<ref name="jirei1426">{{アジア歴史資料センター|C13072097300|昭和19年4月15日(発令4月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1426号 p.35}}</ref>。
4月20日、横須賀海軍工廠に竹艤装員事務所を設置し、事務を開始<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070462400|昭和19年5月1日(月)海軍公報(部内限)第4677号 p.8}}『○事務開始(略)驅逐艦竹艤装員事務所ハ横須賀海軍工廠内ニ於テ四月二十日事務ヲ開始セリ』</ref>。
5月6日、[[可兒祥男]]大尉(当時、戦艦[[山城 (戦艦)|山城]]分隊長)が竹艤装員として着任<ref name="jirei1466">{{アジア歴史資料センター|C13072098100|昭和19年5月8日(発令5月6日付)海軍辞令公報(部内限)第1466号 p.24}}</ref>。駆逐艦[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]沈没(4月23日)後、5月16日附で横須賀鎮守府附となった天霧水雷長[[志賀博]]大尉(旧姓保坂)も<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072098200|昭和19年5月17日(発令5月16日付)海軍辞令公報(部内限)第1473号 p.24}}</ref>、5月20日附で竹艤装員に補職<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072098200|昭和19年5月20日(発令5月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1475号 p.33}}</ref>。当時の松型2隻(松、竹)は[[横須賀海軍工廠]]の[[浮桟橋|ポンツーン]]で艤装工事中であり、元天霧艦長の[[吉永源]]少佐は「[[松 (松型駆逐艦)|松]]」に、元天霧水雷長の志賀は隣の「竹」に着任したという<ref name="志賀兵科133" />。「松」が出撃したあとは、松型3番艦「[[桐 (松型駆逐艦)|桐]]」が係留されることになった<ref name="志賀兵科133" />。
6月16日、「竹」は竣工<ref name="ハンディ18写真52" /><ref name="志賀兵科138">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]138-139頁(第十一戦隊所属と回想するが、第十一水雷戦隊の誤記)</ref>。同日附で艤装員事務所を撤去<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070479400|昭和19年6月27日(火)海軍公報(部内限)第4724号 p.34}}『○事務所撤去(略)驅逐艦竹艤装員事務所ハ六月十六日之ヲ撤去セリ』</ref>。田中少佐は制式に竹駆逐艦長となる<ref name="jirei1518">{{アジア歴史資料センター|C13072099600|昭和19年6月22日(発令6月16日付)海軍辞令公報甲(部内限)第1518号 p.7}}</ref>。主要初代幹部は、航海長高井義助中尉、砲術長可兒祥男大尉、水雷長志賀博大尉(先任将校)、機関長桜井達也中尉、主計長小林義治主計少尉、軍医長湯川真治軍医少尉<ref name="志賀兵科133" /><ref name="jirei1518" />。


内地帰投後の「竹」は、[[瀬戸内海]]にあって[[終戦]]まで生き残る{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=212-213|ps=蟷螂の斧}}。戦後は[[復員輸送艦]]としての任務にあたった{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=208-209|ps=復員開始、残務整理}}。
竣工後の「竹」は、訓練部隊の[[水雷戦隊#第十一水雷戦隊|第十一水雷戦隊]](司令官[[高間完]][[少将]]・[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]41期)に編入<ref name="志賀兵科138" />。[[瀬戸内海]]で訓練の後<ref name="志賀兵科142">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]142-143頁</ref>、7月12日に[[北九州港#門司港地区|門司]]で物資を搭載、[[南大東島]]への輸送作戦に参加する<ref>[[#南海の死闘]]86頁</ref>。
[[7月15日]]附で、[[秋月型駆逐艦]]2隻([[霜月 (駆逐艦)|霜月]]、[[冬月 (駆逐艦)|冬月]])により第41駆逐隊が、松型駆逐艦4隻([[梅 (松型駆逐艦)|梅]]、'''竹'''、[[松 (松型駆逐艦)|松]]、[[桃 (松型駆逐艦)|桃]])により'''第43駆逐隊'''(駆逐隊司令[[菅間良吉]]中佐)<ref name="jirei1541">{{アジア歴史資料センター|C13072100100|昭和19年7月21日(発令7月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1541号 p.7}}</ref> が、それぞれ編制される<ref name="S19内令865">[[#内令昭和19年7月]]p.21『内令第八百六十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年七月十五日 海軍大臣|第三十二驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ二項ヲ加フ |第四十一驅逐隊|霜月、冬月|・|第四十三驅逐隊|梅、竹、松、桃|』</ref><ref>[[#南海の死闘]]87頁、『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 31頁</ref>。


== 戦歴 ==
翌7月16日、軽巡洋艦「[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]」(第十一水雷戦隊旗艦)、重巡洋艦「[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]」(第四戦隊)、練習巡洋艦「[[鹿島 (練習巡洋艦)|鹿島]]」<ref>[[#S1904呉鎮日誌(4)]]p.50『一一(天候略)鹿島ハGF指揮下ニ入リ「ロ」號作戰輸送部隊ニ編入セラル』</ref>、駆逐艦複数隻(満潮型〈[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]〉、不知火型〈[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]〉、秋月型〈[[冬月 (駆逐艦)|冬月]]〉、夕雲型〈[[清霜 (駆逐艦)|清霜]]〉、松型〈'''竹'''〉)は[[沖縄県|沖縄]]方面への輸送作戦『ろ号作戦』に従事することになり、[[中津市|中津]]沖を出撃<ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 37頁</ref><ref>[[#S1804呉防戦(7)]]p.27『一六(天候略)引續キ各隊対潜警戒及掃蕩実施「ロ」號作戰輸送部隊出撃』</ref>。7月17日に[[中城湾]]に到着<ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 38頁</ref>。
[[Image:Fig_of_IJN_DD_Take_1944-1945.gif|thumb|right|300px|「竹」の艦型図。上は竣工時(1944年6月)、下は終戦時(1945年8月)の竹。終戦時の単装機銃の配置と回天の架台は推定。]]
[[宮古島]]に向かった第二輸送隊(摩耶、朝雲、浦風)は内地に帰投せず、そのままリンガ泊地へ向かった<ref>[[#S1907十戦隊日誌(1)]]p.5『(2)朝雲 月頭ヨリ呉ニ於テ整備補給ニ従事中ノ所四日附属部隊ニ編入十日附第十駆逐隊解隊ニ伴ヒ第四駆逐隊ニ編入十四日浦風ト共ニ同地発即日門司着「ロ」號作戰輸送部隊第二輸送隊トシテ陸軍部隊竝ニ物件搭載ノ上同地発中津沖及中城湾ヲ経テ十八日宮古島着陸軍部隊竝ニ物件ノ揚陸ヲ終了「ロ」號作戰輸送部隊ノ編制ヲ解カレ即日同地発二十日「マニラ」着補給ノ上二十三日同地発二十六日「リンガ」着…』</ref><ref>[[#S1907十戦隊日誌(1)]]p.37『一八(天候略)〇七二一朝雲〇九五二浦風宮古着/〇八四五雪風因島船渠出渠/〇九二五朝雲一〇三〇浦風摩耶護衛「マニラ」ニ向ケ宮古発』</ref>。
駆逐艦3隻(冬月、清霜、竹)は[[南大東島]]への緊急輸送任務を行う<ref name="志賀兵科142" /><ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 39頁</ref>。
その後、第二輸送隊を除く各艦は予定の輸送任務を終えて19日に中城湾を出港し、20日-21日に[[呉市|呉]]へ帰投<ref name="志賀兵科142" /><ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 39、45頁</ref><ref>[[#S1907十戦隊日誌(1)]]p.8『(2)冬月 十五日附霜月ト共ニ第四十一駆逐隊ニ編入南西諸島方面陸軍部隊輸送ニ従事中ノ所二十一日右任務終了内地着二十二日司令駆逐艦トナリ爾後月末迄内海西部ニ於テ諸訓練ニ従事ス』</ref>。
「ロ」号作戦輸送部隊は解散した<ref>[[#S1904呉鎮日誌(4)]]p.39『十九日一八一四GF|十九日二二五〇鹿島 11sd(呉鎮)(外)|GF電令作第三一八號 「ロ」號作戰輸送部隊ノ内海西部着以後同部隊ノ編制ヲ解ク 11sdハ内海西部ニ於テ訓練整備ニ從事シ鹿島ハ原隊ニ復歸スベシ』</ref><ref>[[#S1812呉練習戦隊(2)]]p.15『(二)鹿島七月九日附一時聯合艦隊司令長官ノ指揮下ニ入レラレタルニ依リ旗艦ヲ出雲ニ變更實務練習ノ爲鹿島ニ配乗スベキ海軍豫備學生出身海軍少尉(實習員)ヲ出雲磐手八雲ニ分乗セシム、七月二十日鹿島任務解除ニ依リ同艦ニ復皈セシメタルノ外實務練習教育ハ順調ニ行ハレツツアリ』</ref>。
同任務終了後の8月4日、硫黄島方面輸送作戦中の姉妹艦「[[松 (松型駆逐艦)|松]]」(第二護衛船団司令官[[高橋一松]]少将<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072100000|昭和19年7月14日(発令7月8日付)海軍辞令公報甲(部内限)第1535号 p.16}}</ref> 旗艦。松駆逐艦長[[吉永源]]少佐〈天霧沈没時艦長〉<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072099400|昭和19年6月3日(発令6月2日付)海軍辞令公報(部内限)第1502号 p.45}}</ref>)は米海軍水上艦艇と交戦、沈没した([[スカベンジャー作戦]])<ref name="志賀兵科142" />。


=== レイテ島の戦いまで ===
8月10日、駆逐艦2隻(清霜、竹)は[[柱島泊地]]を出港し<ref>[[#南海の死闘]]88頁、『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 16、20頁</ref>、[[馬公市]]を経由してフィリピンに進出<ref name="志賀兵科144">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]144-145頁</ref>。8月16日に[[マニラ]]に到着<ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 25頁</ref>。8月17日からの本艦は「清霜」の指揮を受けて[[パラオ]]方面への輸送作戦と[[セブ]]への引揚者輸送任務に就く<ref>[[#南海の死闘]]87頁、『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 26頁</ref>。ちょうど、米潜水艦の雷撃により沈没した軽巡洋艦「[[名取 (軽巡洋艦)|名取]]」の救援を命じられ2日間捜索するも発見できず<ref>[[#南海の死闘]]88頁</ref>、「清霜」はパラオへ、「竹」は燃料補給のためセブ島に移動した<ref name="志賀兵科144" />。この後、[[南西方面艦隊]]の指揮下で船団護衛任務に従事<ref name="志賀兵科142" />。
仮称艦名第5482号艦として、[[横須賀海軍工廠]]で建造される{{Sfn|日本駆逐艦物語|1993|p=291|ps=(I 一等駆逐艦つづき)竹(II)Take}}。[[1943年]](昭和18年)[[10月15日]]、起工{{Sfn|戦史叢書88|1975|p=54|ps=第5482号艦 竹(たけ)}}。[[1944年]](昭和19年)1月25日、「[[竹]]」と命名される<ref name="S19達17号" />。同日付で松型駆逐艦(一等駆逐艦)に類別<ref>[[#内令昭和19年1月(5)]] pp.17-18</ref>。[[3月28日]]、進水{{Sfn|戦史叢書88|1975|p=54|ps=第5482号艦 竹(たけ)}}。本籍を[[横須賀鎮守府]]に定められる<ref>[[#内令(秘)昭和19年10月(2)]] p.18</ref>。4月15日、日本海軍は[[田中弘国]]少佐を{{Sfn|最後のネービーブルー|1989|p=31}}、竹艤装員長に任命する<ref name="jirei1426">{{アジア歴史資料センター|C13072097300|昭和19年4月15日(発令4月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1426号 p.35}}</ref>{{efn|田中少佐は<ref name="jirei1426" />、重巡洋艦「[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]」水雷長(昭和17年4月<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072085000|昭和17年4月1日(発令4月1日付)海軍辞令公報(部内限)第837号 p.9田中補職}}</ref>~[[第三次ソロモン海戦]]での沈没時)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072088500|昭和17年12月15日(発令12月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1013号 p.11}}</ref>、駆逐艦「[[呉竹 (駆逐艦)|呉竹]]」艦長<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072089000|昭和18年1月15日(発令1月13日付)海軍辞令公報(部内限)第1030号 p.37}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072096500|昭和19年3月10日(発令3月10日)海軍辞令公報(部内限)第1365号 p.41}}</ref> 等を歴任していた。}}。
8月26日夜には、[[ガルワングル環礁]](パラオ諸島北部)で座礁中にアメリカ潜水艦[[バットフィッシュ (潜水艦)|バットフィッシュ]] (''USS Batfish, SS-310'') の雷撃を受けて船体が切断・座礁した駆逐艦「[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]」(第27駆逐隊)の救援に向かい<ref name="志賀兵科146">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]146-147頁</ref>、五月雨生存者を収容した<ref>[[#南海の死闘]]88-89頁、『戦闘詳報』、25、43頁</ref><ref>[[#秋月型(潮2015)]]266-267頁</ref>。
雨駆逐艦長[[大熊安之助]]少佐<ref name="jirei1528" /><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072100800|昭和19年92日(発令831日付)海軍辞令公報()第1582号 p.4}}</ref> の前職は松型5艦「[[ (松型駆逐艦)|]]」艤装員<ref name="jirei1528">{{アジア歴史資料センター|C13072099900|昭和19年77日(発令72日付)海軍辞令公報(甲)第1528号 p.40}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072099600|昭和19年6月26日(発令6月20日付)海軍辞令公報()第1520号 p.17}}</ref> であり、五月雨艦長の後は[[初春型駆逐艦]]1番艦「[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]」艦長<ref name="jirei1612">{{アジア歴史資料センター|C13072101400|昭和19年106日(発令101日付)海軍辞令公報()第1612号 p.29}}</ref><ref name="jirei1649">{{アジア歴史資料センター|C13072102000|昭和19年1121日(発令1115日付)海軍辞令公報()第1649号 p.25}}</ref>、同艦沈没後は松型14番艦「[[ (松型駆逐艦)|]]」艤装員<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072102200|昭和19年12月7日(発令12月1日付)海軍辞令公報(甲)第1662号 p.13}}</ref> 及び長<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072103100|昭和20年1月29日(発令1月18日付)海軍辞令公報(甲)第1706号 p.38}}</ref> を務めた
420日、横須賀海軍工廠に竹艤装員事務所を設置し、事務を開始した<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070462400|昭和19年51日(月)海軍公報(部内限)第4677号 p.8}}</ref>5月6日、[[可兒祥男]]大尉(当時、戦艦「[[山城 (艦)|山城]]」分隊長)が艤装員として着任<ref name="jirei1466">{{アジア歴史資料センター|C13072098100|昭和19年58日(発令5月6日付)海軍辞令公報(部内限)第1466号 p.24}}</ref>駆逐艦「[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]」沈没後{{efn|駆逐「天霧」は南西方面で輸送任務中の[[4月23日]]、機雷によって沈没した{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=280|ps=天霧(あまぎり)}}。}}、5月16日付で横須賀鎮守府付となった「天霧」水雷[[志賀博]]大尉(旧姓保坂)も<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072098200|昭和19年517日(発令516日付)海軍辞令公報(部内限)第1473号 p.24}}</ref>、5月20日付で艤装員に補職される<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072098200|昭和19年520日(発令520日付)海軍辞令公報(部内限)第1475号 p.33}}</ref>。当時の松型2隻(松、竹)は[[横須賀海軍工廠]]の[[浮桟橋|ポンツーン]]で艤装工事中であり、元「天霧」長の[[吉永源]]少佐は「[[ (松型駆逐艦)|]]」に、元天霧水雷の志賀は隣の「竹」に着任したという{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=133b-134}}。「松」が出撃したあとは、浮桟橋に松型3番艦「[[桐 (松型駆逐)|桐]]」が係留されることになった{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=133b-134}}。


輸送作戦中の820日、第43駆逐隊新編され[[第三十一隊]](司令官[[江戸兵太郎]]少将・海兵40期)に編入される<ref>『第十一水雷戦隊戦時誌』C08030127600, 27頁</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072100600|昭和19年8月22日(発令820日付)海軍辞令公報(部内限)第1571号 p.40}}</ref>。「竹」燃料補給と「五月雨」乗組員を降ろすためセブ島に立ち寄りその後パラオに向った<ref name="志賀兵科146" /><ref>[[#南海の死闘]]89頁</ref>
[[616]]「竹」竣工し{{Sfn|史叢書88|1975|p=54|ps=第5482号艦 竹(たけ)}}。同日付で艤装員事務所を撤去する<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070479400|昭和19年6月27(火)海軍公報(部内限)第4724号 p.34}}</ref>。田中少佐は制式に「竹」艦長となる<ref name="jirei1518">{{アジア歴史資料センター|C13072099600|昭和19年6月22日(発令616日付)海軍辞令公報(部内限)第1518号 p.7}}</ref>。主要初代幹部は、航海長・高井義助中尉、砲術長・可兒祥男大尉、水雷長・志賀博大尉(先任将校)、機関長・桜井達也中尉、主計長・小林義治主計少尉、軍医長・湯川真治軍医少尉など<ref name="jirei1518" />{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=76-80|ps=「竹」の内部編成}}

竣工後の「竹」は、訓練部隊の[[水雷戦隊#第十一水雷戦隊|第十一水雷戦隊]]{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=138-139|ps=(第十一戦隊所属と回想するが、第十一水雷戦隊の誤記)}}(司令官[[高間完]]少将。当時の旗艦は「[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]」)に編入される<ref>[[#S1906十一水戦日誌(1)]] pp.16-17</ref>。6月中は横須賀から動かなかった<ref>[[#S1906十一水戦日誌(1)]] p.6〔 (四)麾下艦船竝ニ訓練部隊一時加入艦船ノ行動(其ノ一) 〕(昭和19年6月)</ref>。7月初旬に横須賀から[[瀬戸内海]]へ移動し、駆逐艦「[[冬月 (駆逐艦)|冬月]]」や駆逐艦「[[清霜 (駆逐艦)|清霜]]」および松型姉妹艦と訓練をおこなう<ref>[[#S1906十一水戦日誌(2)]], p,5</ref>。7月中旬、[[北九州港#門司港地区|門司]]で物資を搭載、[[南大東島]]への輸送作戦に参加する{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=86-87|ps=「竹」の初陣}}(詳細後述)。[[7月15日]]付で、[[秋月型駆逐艦]]2隻([[霜月 (駆逐艦)|霜月]]、冬月)により第41駆逐隊が、松型駆逐艦4隻([[梅 (松型駆逐艦)|梅]]、'''竹'''、松、[[桃 (松型駆逐艦)|桃]])により'''第43駆逐隊'''(駆逐隊司令[[菅間良吉]]中佐)<ref name="jirei1541">{{アジア歴史資料センター|C13072100100|昭和19年7月21日(発令7月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1541号 p.7}}</ref> が、それぞれ編制される<ref name="S19内令865">[[#内令昭和19年7月]] p.21</ref><ref>[[#S1906十一水戦日誌(2)]], p.31</ref>。

7月8日、大本営海軍部は大海指第421号により、連合艦隊に対し陸軍兵力の[[南西諸島]]方面輸送を命じた{{Sfn|戦史叢書17|1968|pp=49a-50|ps=「呂」号作戦輸送}}。これを「呂号輸送」(ろ号作戦輸送)と呼称する{{Sfn|戦史叢書17|1968|p=49b}}。輸送部隊指揮官は、第十一水雷戦隊司令官であった{{Sfn|戦史叢書37|1970|p=387a|ps=「摩耶」等}}。[[7月16日]]、軽巡洋艦「[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]」(第十一水雷戦隊旗艦)、重巡洋艦「[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]」<!--{{efn|3隻(摩耶、朝雲、浦風)は7月9日をもって呂号作戦輸送部隊に加えられた{{Sfn|戦史叢書37|1970|p=387b}}。7月12日、「摩耶」は護衛2隻(冬月、皐月)と共に横須賀を出発、14日門司に進出した{{Sfn|戦史叢書37|1970|p=387b}}。}} -->、練習巡洋艦「[[鹿島 (練習巡洋艦)|鹿島]]」<ref>[[#S1904呉鎮日誌(4)]] p.50〔 一一(天候略)鹿島ハGF指揮下ニ入リ「ロ」號作戰輸送部隊ニ編入セラル 〕</ref>、駆逐艦5隻{{efn|[[陽炎型駆逐艦|浦風型駆逐艦]]<ref name="ろ号26">[[#ろ号作戦]] p.26</ref>([[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]、[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]、清霜)、十一水戦(冬月、竹)。}}は[[中津市|中津]]沖を出撃する<ref>[[#S1906十一水戦日誌(2)]], p.37、[[#S1804呉防戦(7)]] p.27</ref><ref name="S1907十戦隊(1)5朝雲" />。輸送部隊は、第一輸送隊(長良、鹿島、冬月、清霜、竹)、第二輸送隊(摩耶、[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]、浦風){{Sfn|戦史叢書37|1970|p=387b}}、沖縄~大東島輸送の第三輸送隊(冬月、清霜、竹)にわかれていた{{Sfn|戦史叢書17|1968|p=50}}。

7月17日、呂号作戦部隊は[[沖縄県|沖縄]][[中城湾]]に到着した<ref>[[#S1906十一水戦日誌(2)]], p.38</ref>{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|pp=539-540|ps=ロ号輸送の鹿島(八月)}}。
[[宮古島]]に向かった第二輸送隊は内地に帰投せず{{Sfn|戦史叢書17|1968|p=50}}、そのままマニラ経由で[[リンガ泊地]]へ向かった<ref name="S1907十戦隊(1)5朝雲">[[#S1907十戦隊日誌(1)]] p.5</ref>。「冬月」艦長指揮下の第三輸送隊は[[南大東島]]への緊急輸送任務を行う{{Sfn|戦史叢書17|1968|p=50}}<ref>[[#S1906十一水戦日誌(2)]], p.39</ref>。
その後、第二輸送隊を除く各艦は予定の輸送任務を終えて7月19日午前1時に中城湾を出港し{{Sfn|戦史叢書17|1968|p=50}}、7月20日~21日に[[呉市|呉]]へ帰投した<ref>[[#S1906十一水戦日誌(2)]], pp.39,45、[[#S1907十戦隊日誌(1)]] p.8</ref>。 任務を完遂し、呂号作戦輸送部隊は解散した<ref>[[#S1904呉鎮日誌(4)]] p.39、[[#S1812呉練習戦隊(2)]] p.15</ref>

8月1日、連合艦隊は[[第五艦隊 (日本海軍)|第五艦隊]](第二十一戦隊、第一水雷戦隊)と第十一水雷戦隊等により第二遊撃部隊(指揮官は第五艦隊司令長官[[志摩清英]]中将)を新編し、機動部隊に編入した{{Sfn|戦史叢書37|1970|p=370|ps=第二遊撃部隊(第五艦隊)/編成}}。沖縄方面輸送を終えた「竹」と「[[清霜 (駆逐艦)|清霜]]」に対し、[[パラオ]]方面緊急輸送の任務が与えられる{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=87-95|ps=パラオ島緊急輸送と不測の事態}}。
8月10日、「清霜」「竹」は[[柱島泊地]]を出港し<ref>[[#S1906十一水戦日誌(3)]], pp.16,20</ref>、[[馬公市|馬公]]を経由してフィリピンに進出する{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=144-145}}。8月16日に[[マニラ]]に到着<ref>[[#S1906十一水戦日誌(3)]], p.25</ref>。8月17日からの「竹」は「清霜」の指揮を受けてパラオ方面への輸送作戦と[[セブ]]への引揚者輸送任務に就く<ref>[[#S1906十一水戦日誌(3)]], p.26</ref>。
翌8月18日午前3時頃、パラオ方面輸送作戦従事中の軽巡洋艦「[[名取 (軽巡洋艦)|名取]]」が{{Sfn|戦史叢書37|1970|p=80}}、[[ミンダナオ島]][[ダバオ]]北東<!-- {{coor dm|12|15|N|129|21|E|}} -->で<ref>[[#S1907十六戦隊日誌(1)]] p.28</ref>、アメリカ潜水艦「[[ハードヘッド (潜水艦)|ハードヘッド]] (''{{lang|en|USS Hardhead, SS-365}}'') 」の雷撃で大破{{Sfn|軽巡海戦史|2017|pp=124-126|ps=▽名取}}、避退中に沈没した<ref name="S190818a護衛対潜" />。「竹」を含む5隻(清霜、竹{{Sfn|南海の死闘|1994|p=88}}、[[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]]、[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]、[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]])が「名取」救援を命じられて現場にむかった<ref name="S190818a護衛対潜" />。名取捜索隊は遭難者を発見できず、セブ島に帰投した<ref name="S190820護衛対潜" />。
<!--{{#efn|8月30日、名取将兵を乗せた[[カッターボート]]3隻が[[ミンダナオ島]][[スリガオ]]に到着した<ref>[[#S1908経過(護衛対潜)]] p.6(昭和19年8月)</ref>。}}。 -->
「清霜」はパラオにむかい{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=144-145}}、「竹」は[[南西方面艦隊]]の指揮下で船団護衛任務に従事する{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=144-146}}。

つづいて「竹」は、別艦の救援任務に従事する。[[パラオ諸島]]北部の[[ガルワングル環礁]]で座礁中して行動不能になった駆逐艦「[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]」の救援を命じられた{{efn|パラオの邦人引き揚げ任務についていた5隻(重巡「[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]」、軽巡「[[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]]」、駆逐艦「[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]」「[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]」「五月雨」)のうち3隻(鬼怒、時雨、五月雨)で別動中{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|pp=543-545}}、[[8月18日]]未明に[[ガルワングル環礁]]で「五月雨」が座礁した{{Sfn|五月雨出撃す|2010|pp=296-299}}。離礁作業に手間取るうちにアメリカ潜水艦「[[バットフィッシュ (潜水艦)|バットフィッシュ]]」 (''{{lang|en|USS Batfish, SS-310}}'') の雷撃で船体が断裂した{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=294|ps=五月雨(さみだれ)}}<ref name="S190825護衛対潜" />。}}。
8月26日夜、ガルワングル環礁に到着した「竹」は「五月雨」より生存者を収容した{{Sfn|五月雨出撃す|2010|pp=303a-311|ps=座礁、総員退去}}。「五月雨」艦長・大熊安之助少佐と「竹」艦長・田中少佐は[[海軍兵学校 (日本)|海兵]]同期(60期)であり、田中の説得により大熊も退艦して「竹」に移乗した{{Sfn|秋月型(潮書房)|2015|pp=266-267}}

輸送作戦中の8月20日、日本海軍は[[水雷戦隊#第三水雷戦隊|第三水雷戦隊]]の残余と松型駆逐艦を基幹として<ref name="S190819護衛対潜" />、[[第三十一戦隊]](司令官[[江戸兵太郎]]少将<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072100600|昭和19年8月22日(発令8月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1571号 p.40}}</ref>)を新編した{{Sfn|戦史叢書37|1970|pp=76-81|ps=対潜撃滅部隊の創設}}。第43駆逐隊も第三十一戦隊に編入される<ref>[[#S1906十一水戦日誌(3)]], p.27</ref>。「竹」は燃料補給と「五月雨」乗組員を降ろすためセブ島に立ち寄り、その後パラオに向った{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=146-147}}。


{{See also|マタ30船団|スヌーク (潜水艦)}}
{{See also|マタ30船団|スヌーク (潜水艦)}}


8月30日からは[[南西方面艦隊]](司令長官[[三川軍一]]中将。[[南遣艦隊#第三南遣艦隊|第三南遣艦隊司令長官]]兼務)の指揮下に入り、[[マニラ]]と各地との間で船団護衛に従事した{{Sfn|雨倉|2003|p=95}}{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=91-93}}。
8月30日からは[[南西方面艦隊]](司令長官[[三川軍一]][[中将]]・海兵38期)の指揮下に入り、[[マニラ]]と各地との間で船団護衛に従事した<ref>雨倉、95頁</ref>。10月4日、「竹」は[[ミリ (サラワク州)|ミリ]]行きのマミ11船団を護衛してマニラを出港したが、翌5日に[[ミンドロ海峡]]でアメリカ潜水艦[[コッド (潜水艦)|コッド]] (''USS Cod, SS-224'') の雷撃により「辰城丸」(辰馬汽船、6,886トン)を失った<ref>『第一海上護衛隊戦時日誌』、67頁、駒宮『戦時輸送船団史』、273頁</ref>。10月14日にミリに到着して<ref>『第一海上護衛隊戦時日誌』、67頁</ref> マニラに帰投後、10月20日深夜23時40分には[[高雄市|高雄]]行きの[[マタ30船団]]の護衛でマニラを出港した<ref>『第一海上護衛隊戦時日誌』、60頁;駒宮『戦時輸送船団史』、279頁</ref>。この船団は指揮艦である駆逐艦「[[春風 (2代神風型駆逐艦)|春風]]」の名前を取って別名「春風船団」と呼称されていた<ref name="z">木俣『敵潜水艦攻撃』、130頁</ref>。10月23日夕方、マタ30船団は[[ルソン島]]ボヘヤドール岬北西沖で元[[水上機母艦|特設水上機母艦]]「[[君川丸 (特設水上機母艦)|君川丸]]」([[川崎汽船]]、6,863トン)がアメリカ潜水艦[[ソーフィッシュ (潜水艦)|ソーフィッシュ]] (''USS Sawfish, SS-276'') の雷撃で沈没したのを手始めに、船団加入船12隻のうち9隻が潜水艦の波状攻撃により沈没する惨敗を喫した。このうち「[[阿里山丸]]」には捕虜1500名が乗船していたが、米潜水艦に撃沈されてしまった<ref>[[#志賀1985|海軍兵科将校]]147-149頁『無念の歯がみ』</ref><ref>[[#最後のネイビーブルー]]97-98頁(志賀によれば船体に緑十字が描かれていた)</ref>。「竹」は残存船舶を誘導して損害を食い止め<ref>木俣『日本水雷戦史』、581頁</ref>、また遭難者の救助に従事した<ref>[[#最後のネイビーブルー]]99頁</ref>。「春風」はアメリカ潜水艦[[シャーク (SS-314)|シャーク]] (''USS Shark, SS-314'') を撃沈して一矢報いた<ref name="z" />。「竹」水雷科の茂呂(水兵長)によれば、「春風」より輸送船曳航の命令があり、救助活動を打ち切って捜索したものの輸送船を発見できず、単艦で高雄へ向ったとしている<ref>[[#南海の死闘]]98-100頁</ref>。
10月4日、「竹」は[[ミリ (サラワク州)|ミリ]]行きのマミ11船団を護衛してマニラを出港したが、翌10月5日に[[ミンドロ海峡]]でアメリカ潜水艦「[[コッド (潜水艦)|コッド]] (''{{lang|en|USS Cod, SS-224}}'') 」の雷撃により「辰城丸」<ref>[[#S1910経過(護衛対潜)]] p.2(昭和19年10月)</ref>(辰馬汽船、6,886トン)を失った<ref>[[#S1908第1海上護衛隊日誌(3)]], p. 67、{{Harvnb|駒宮|1987|p=273}}</ref>。10月14日、ミリに到着して<ref>[[#S1908第1海上護衛隊日誌(3)]], p.67</ref>、マニラに帰投後、10月20日深夜23時40分には[[高雄市|高雄]]行きの[[マタ30船団]]の護衛でマニラを出港した<ref>[[#S1908第1海上護衛隊日誌(3)]], p.60;{{Harvnb|駒宮|1987|p=279}}</ref>。この船団部隊は指揮官が座乗する駆逐艦「[[春風 (2代神風型駆逐艦)|春風]]」{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=94-97|ps=悲惨、痛恨の「マタ」船団}}の名前を取って別名「春風船団」と呼称されていた{{Sfn|敵潜水艦攻撃|1989|p=130}}。
[[10月23日]]夕方<ref>[[#S1910経過(護衛対潜)]] p.6(昭和19年10月)</ref>、マタ30船団は[[ルソン島]]ボヘヤドール岬北西沖で元[[水上機母艦|特設水上機母艦]]「[[君川丸 (特設水上機母艦)|君川丸]]」([[川崎汽船]]、6,863トン)がアメリカ潜水艦「[[ソーフィッシュ (潜水艦)|ソーフィッシュ]] (''{{lang|en|USS Sawfish, SS-276}}'') 」の雷撃で沈没したのを手始めに、船団加入船12隻のうち9隻が潜水艦の波状攻撃により沈没する惨敗を喫した。このうち「[[阿里山丸]]」には捕虜1500名が乗船していたが{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=97-98|ps=遭難捕虜の心情は…}}、米潜水艦に撃沈されてしまった{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=147-149|ps=無念の歯がみ}}{{Sfn|最後のネービーブルー|1989|pp=97-98|ps=(志賀によれば船体に緑十字が描かれていた)}}。「竹」は残存船舶を誘導して損害を食い止め{{sfn|日本水雷戦史|1986|p=581}}、また遭難者の救助に従事した{{Sfn|最後のネービーブルー|1989|p=99}}。「春風」はアメリカ潜水艦「[[シャーク (SS-314)|シャーク]] (''{{lang|en|USS Shark, SS-314}}'') 」を撃沈して一矢報いた{{Sfn|駆逐艦入門|2006|pp=294-295}}。「竹」水雷科の茂呂(水兵長)によれば、「春風」より輸送船(艦名不詳)曳航の命令があったが、曳航作業前に対象の輸送船を見失い、単艦で高雄へ向ったとしている{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=98-100|ps=遭難船を曳航せよ!!}}。また高雄到着後もバシー海峡に出動し、遭難者約400 - 500名を救助して[[ルソン島]][[サンフェルナンド (ラウニオン州)|サンフェルナンド]]に送り届けたと回想している{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=100-102|ps=またしても遭難船救助命令}}。


===多号作戦===
=== 多号作戦 ===
====第三次・第五次多号作戦====
「竹」が作戦に従事していた9月30日と10月10日、第43駆逐隊に松型2隻(槇、桐)が編入される<ref>[[#内令(秘)昭和19年10月(1)]]p.6『内令第一一二一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年九月三十日 海軍大臣 第四十三驅逐隊ノ項中「桃」ノ下ニ「、槇」ヲ加フ』</ref><ref name="S19内令1162">[[#内令(秘)昭和19年10月(2)]]pp.35-36『内令第一一六二號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年十月十日海軍大臣|第十九驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十七驅逐隊ノ項ヲ削ル|第三十驅逐隊ノ項中「、夕凪」ヲ削ル|第四十三驅逐隊ノ項中「松、」ヲ削リ「槇」ノ下ニ「、桐」ヲ加フ』</ref>。
最前線にいた「竹」は10月20日から始まった[[レイテ島の戦い]]に関わる事となり、三度にわたって[[レイテ島]][[オルモック湾]]への輸送作戦([[多号作戦]])に参加することとなった<ref>[[#南海の死闘]]101頁</ref><ref name="志賀兵科154">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]154-156頁</ref>。作戦直前、[[田中弘国]]少佐(竹駆逐艦長)が病気([[肺結核]]、[[肋膜炎]]とも)で退艦(マニラ海軍病院へ入院)<ref name="志賀兵科154" />、11月3日に飯村忠彦少佐(海兵65期)が竹臨時艦長に任命される<ref>[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]187頁、[[#南海の死闘]]104頁</ref>。飯村少佐は、[[レイテ島]]輸送作戦で沈没した軽巡洋艦[[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]]の航海長である<ref name="志賀兵科154" /><ref name="松田軽巡66">[[#松田、軽巡|軽巡海戦史]]66頁</ref>。
一方、田中少佐(竹駆逐艦長)は呉鎮守府附となる<ref name="jirei1636" />。
日本海軍は、駆逐艦[[旗風 (駆逐艦)|旗風]]航海長<ref name="jirei550">{{アジア歴史資料センター|C13072079300|昭和15年11月1日(発令11月1日付)海軍辞令公報(部内限)第550号 p.18宇那木補職}}</ref>、吹雪型駆逐艦2隻([[磯波 (吹雪型駆逐艦)|磯波]]、[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]])の水雷長<ref name="jirei550" /><ref name="jirei840">{{アジア歴史資料センター|C13072085100|昭和17年4月7日(発令4月6日付)海軍辞令公報(部内限)第840号 p.8宇那木補職}}</ref> 等を歴任した[[宇那木勁]]少佐(当時、松型駆逐艦[[椿 (松型駆逐艦)|椿]]艤装員長)を「竹」駆逐艦長に任命<ref name="jirei1636">{{アジア歴史資料センター|C13072101800|昭和19年11月6日(発令11月1日付)海軍辞令公報(甲)第1636号 p.18}}</ref>。宇那木は軽巡「[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]」や松型3番艦「[[梅 (松型駆逐艦)|梅]]」を乗り継いで内地からマニラへ移動しており、実際の着任は遅れた<ref>[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]186頁</ref>。このため「竹」は飯村駆逐艦長の指揮下で[[多号作戦]]に従事する<ref name="松田軽巡66" />。


==== 第三次・第五次多号作戦 ====<!-- 「竹」が作戦に従事していた9月30日と10月10日、第43駆逐隊に松型2隻(槇、桐)が編入される<ref>[[#内令(秘)昭和19年10月(1)]] p.6</ref><ref name="S19内令1162">[[#内令(秘)昭和19年10月(2)]] pp.35-36</ref>。 -->
飯村新艦長を迎えた翌日以降、米軍機動部隊艦載機のマニラ湾空襲により重巡「[[那智 (重巡洋艦)|那智]]」が沈没、駆逐艦「[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]]」(第7駆逐隊)が大破した<ref name="松田軽巡66" />。駆逐艦「[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]」も損傷して作戦から外された。
最前線にいた「竹」は[[10月18日]]夕刻発動の[[捷号作戦|捷一号作戦]]{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=33-36|ps=大本營、比島方面決戦実施を指示}}と[[10月20日]]から始まった[[レイテ島の戦い|レイテ島地上戦]]{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=39-43|ps=レイテ島への本格的上陸}}に関わる事となり{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=519-521|ps=新実施計画(第三次~第七次)}}、三度にわたって[[レイテ島]]西岸[[オルモック]]への陸軍兵力輸送作戦([[多号作戦]])に参加することとなった{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=102-103|ps=多号作戦発令「竹」参戦せよ!!}}。作戦直前、艦長・田中少佐が病気で退艦し、マニラ海軍病院へ入院した{{efn|[[肺結核]]もしくは[[肋膜炎]]であったという{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=154-156}}。}}。11月3日、飯村忠彦少佐が臨時艦長に任命される{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=187}}{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=104a-105|ps=田中艦長退艦?飯村少佐臨時艦長?}}。飯村は、レイテ島輸送作戦で沈没した軽巡洋艦「鬼怒」{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|pp=585-587|ps=鬼怒、沈没(十月二十六日)}}<ref>[[#S1910経過(護衛対潜)]] p.8(昭和19年10月、レイテ沖海戦)</ref>の航海長であった{{Sfn|軽巡海戦史|2017|p=66}}{{Sfn|岸見勇美|2010|p=28}}。一方、田中少佐は[[呉鎮守府]]付となる<ref name="jirei1636" />。日本海軍は、[[宇那木勁]]少佐{{Sfn|最後のネービーブルー|1989|p=31}}を「竹」艦長に任命した<ref name="jirei1636">{{アジア歴史資料センター|C13072101800|昭和19年11月6日(発令11月1日付)海軍辞令公報(甲)第1636号 p.18}}</ref>{{efn|宇那木は、駆逐艦「[[旗風 (駆逐艦)|旗風]]」航海長<ref name="jirei550">{{アジア歴史資料センター|C13072079300|昭和15年11月1日(発令11月1日付)海軍辞令公報(部内限)第550号 p.18宇那木補職}}</ref>、吹雪型駆逐艦2隻([[磯波 (吹雪型駆逐艦)|磯波]]、[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]])の水雷長<ref name="jirei550" /><ref name="jirei840">{{アジア歴史資料センター|C13072085100|昭和17年4月7日(発令4月6日付)海軍辞令公報(部内限)第840号 p.8宇那木補職}}</ref>等を歴任していた。当時は松型駆逐艦「[[椿 (松型駆逐艦)|椿]]」艤装員長であった<ref name="jirei1636" />。}}。宇那木は軽巡「[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]」や松型3番艦「梅」を乗り継いで内地からマニラへ移動しており、実際の着任は遅れた{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=186}}。このため「竹」は飯村少佐の指揮下で多号作戦に従事する{{Sfn|軽巡海戦史|2017|p=66}}。
11月9日未明3時、「竹」は第三次多号作戦に加わり、駆逐艦4隻([[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]〈[[第二水雷戦隊]]旗艦。司令官[[早川幹夫]]少将・海兵44期〉、[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]〈駆逐艦長[[大熊安之助]]少佐〉<ref name="jirei1612" />、[[浜波 (駆逐艦)|浜波]]、竹)、[[第二八号型駆潜艇#同型艦|第46号駆潜艇]]および[[第一九号型掃海艇#同型艦|第30号掃海艇]]と共に5隻の船団を護衛してマニラを出港した<ref name="志賀兵科154" />。
翌10日午後、帰投中の第四次多号作戦部隊(第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将。駆逐艦〈[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]、[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]、[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]、[[長波 (駆逐艦)|長波]]、[[若月 (駆逐艦)|若月]]〉等)の戦力から駆逐艦3隻(夕雲型2隻〈[[長波 (駆逐艦)|長波]]、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]〉、秋月型〈[[若月 (駆逐艦)|若月]]〉)を分離、第三次多号作戦部隊の駆逐艦2隻(竹、初春)と入れ替えることになった<ref>『多号作戦戦闘詳報第二号』、38頁</ref><ref name="戦場将器249">[[#戦場の将器]]249-250頁</ref>。11日5時ごろに第四次多号作戦部隊と合同して、18時30分にマニラに帰投した<ref>[[#南海の死闘]]108頁、『多号作戦戦闘詳報第二号』、16、17頁</ref>。
なお「竹」と「初春」が当初参加していた第三次輸送船団は、この日の空襲によって駆逐艦「[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]」を残して全滅(島風沈没時に[[早川幹夫]]第二水雷戦隊司令官戦死)<ref>[[#連合軍艦艇撃沈す]]190頁</ref><ref name="秋月型267">[[#秋月型(潮2015)]]267-269頁『炎の海にのまれた初春』</ref>。乗組員の間では「竹」は「強運の艦」としての噂が広まった<ref name="南海死闘110">[[#南海の死闘]]110-111頁『間一髪の強運』</ref>。


新艦長を迎えた翌日以降{{Sfn|岸見勇美|2010|p=38}}、米軍機動部隊艦上機のマニラ湾空襲により第二遊撃部隊([[第五艦隊 (日本海軍)|第五艦隊]])旗艦の重巡「[[那智 (重巡洋艦)|那智]]」が沈没した{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=105-106|ps=多号作戦準備急げ!!}}{{efn|「那智」救援中の駆逐艦「[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]]」(第7駆逐隊)が大破した{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=163-166|ps=マニラ湾燃ゆ}}{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=521-524|ps=米機動部隊のルソン来襲}}。駆逐艦「[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]」も損傷して作戦から外された<ref name="S士官22、11月5日空襲">[[#S士官の手記]] pp.22-23</ref>。}}。
11月12日、マニラに到着していた隼鷹輸送隊(空母〈[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]〉、重巡〈[[利根 (重巡洋艦)|利根]]〉、第30駆逐隊〈[[卯月 (睦月型駆逐艦)|卯月]]、[[夕月 (駆逐艦)|夕月]]〉)は同行していた軽巡洋艦「[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]」を分離、代艦として駆逐艦「[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]」を編入し、内地へ帰投する<ref>[[#S1906第30駆日誌(3)]]p.13『12日/1100時雨ト共ニ隼鷹筑摩護衛「マニラ」出港』(筑摩は既に沈没)</ref>。2隻(軽巡〈木曾〉、秋月型〈[[霜月 (駆逐艦)|霜月]]〉)は多号作戦部隊第一警戒部隊に編入された<ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]]pp.42-43『十日一一〇九(長官)NSB|十日一五四〇捷號作戰部隊桑霜月(司令官)4sf(司令官)31S(六海一部及GF)|機密第一〇一一〇九番電 南西方面部隊電令作第七四一號 一.マニラ着後第四航空戰隊(日向伊勢)ヲ多號作戰部隊支援部隊ニ木曽霜月ヲ第一警戒部隊ニ第三十一戰隊(五十鈴梅桃桐)桑杉ヲ護衛部隊ニ編入/二.沖波曙早霜ヲ多號作戰部隊警戒部隊ヨリ除キ支援部隊ニ編入 以下略』</ref>。
11月9日午前3時、「竹」は第三次多号作戦部隊に加わってマニラを出撃する{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=536}}{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=107-109|ps=「竹」多号作戦初出撃}}。第三次多号作戦部隊の指揮官は{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=535-541|ps=第三次輸送部隊の行動、船団全滅す}}、[[第二水雷戦隊]]司令官[[早川幹夫]]少将であった<ref>[[#S1911経過(護衛対潜)]] p.3(昭和19年11月)</ref>。駆逐艦4隻([[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]{{efn|第二水雷戦隊旗艦。}}、[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]{{efn|艦長は大熊安之助少佐<ref name="jirei1612">{{アジア歴史資料センター|C13072101400|昭和19年10月6日(発令10月1日付)海軍辞令公報(甲)第1612号 p.29}}</ref>、8月26日に「竹」が救助した「五月雨」艦長である。}}、[[浜波 (駆逐艦)|浜波]]{{efn|第32駆逐隊司令[[大島一太郎]]大佐座乗{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=539}}。}}、竹 )、「[[第二八号型駆潜艇#同型艦|第46号駆潜艇]]」および「[[第一九号型掃海艇#同型艦|第30号掃海艇]]」と共に輸送船5隻{{efn|内訳:せれべす丸、泰山丸、西豊丸、天照丸、三笠丸{{Sfn|戦史叢書41|1970|p=413|ps=(第三次多号船一覧)}}。[[第26師団 (日本軍)|第26師団]]将兵約2,000名と軍需品を輸送する{{Sfn|戦史叢書41|1970|pp=429-430|ps=第四次、第三次多号経過概要}}。}}を護衛してマニラを出港した{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=43-46|ps=壮絶、第三次輸送部隊}}。
11月13日、[[マニラ湾]]は再び空襲をうける<ref name="志賀兵科154" />。水雷戦隊だけでも5隻(木曾、曙、沖波、秋霜、初春)は沈没もしくは大破着底状態となる<ref>[[#霞詳報(マニラ空襲)]]p.7『木曾沈没着底、沖波沈没着底』</ref><ref>[[#捷1号作戦2YB作戦経過概要]]pp.32-33『11・13|0730敵KdBノ艦上機「マニラ」船舶空襲三次ニ亘リ来襲、沖波初春被弾大火災沈没、潮擱座、木曾沈没「カビテ」曙秋霜大破 商船殆ド全部火災トナル』</ref><ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]]p.11『(4)…翌13日朝来敵艦上機群及反復来襲「マニラ」港及「キャビテ」港在泊艦船ヲ攻撃所在麾下艦艇全砲火ヲ以テ之ニ對セルモ及バズ初春曙大破潮中破〔外ニ秋霜中破木曾大破〕ノ被害アリ…』</ref>。
本艦は港外に退避しており、損害はなかった<ref>[[#南海の死闘]]109頁</ref>。
第五艦隊司令長官[[志摩清英]]司令長官は残存艦艇の退避を南西方面艦隊(司令長官[[大川内伝七]]中将)に進言。同日深夜、残存艦艇(霞、初霜、朝霜、潮〈左舷一軸運転〉、竹)は第五艦隊司令部を便乗させ、マニラを脱出した<ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]]p.11『敵情尚翌14日来襲ノ算アリタルヲ以テ急遽「ブルネー」ニ回航待機スルコトトナリ第一警戒部隊[霞(将旗)、七駆(潮)《応急修復左舷一軸航行可能》二十一駆(初霜)《第五艦隊司令部移乗》三十一駆(朝霜)及竹ヲ率ヰ13日2330「マニラ」ヲ出撃セリ』</ref>。
「竹」はマニラから[[ブルネイ]]に移動する第一水雷戦隊(司令官[[木村昌福]]少将・海兵41期)とともに[[南沙諸島]][[太平島|長島]]に向かい、長島で南方に進出途上の[[第四航空戦隊]](司令官[[松田千秋]]少将。戦艦[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]、[[日向 (戦艦)|日向]])などと会合<ref>野村、10頁;宇那木、6頁</ref>。飯村駆逐艦長が退艦し、宇那木少佐は便乗中の戦艦「[[日向 (戦艦)|日向]]」から「竹」に移乗、新任駆逐艦長となる<ref name="南海死闘111">[[#南海の死闘]]111-112頁『艦長宇那木少佐着任』</ref><ref name="志賀兵科157">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]157-158頁</ref>。本艦はアメリカ潜水艦[[ヘイク (潜水艦)|ヘイク]] (''USS Hake, SS-256'') の雷撃で損傷した第三十一戦隊旗艦の軽巡「[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]」と途中ですれ違いつつ<ref>宇那木、6頁;木俣『日本水雷戦史』、586頁</ref>、マニラに引き返した(11月15日、マニラ入港)<ref name="志賀兵科157" /><ref>[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]187頁</ref>。


翌11月10日午前10時、南西方面艦隊司令長官は「初春」と「竹」の所属部隊を入れ替えるよう下令した{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=537}}。同日午後、レイテ島からマニラへ帰投中の第四次多号作戦部隊{{efn|指揮官は第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将:駆逐艦([[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]〈一水戦旗艦〉、[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]〈中破、艦首切断〉{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=534}}、[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]、[[長波 (駆逐艦)|長波]]、[[若月 (駆逐艦)|若月]]){{Sfn|戦史叢書56|1972|p=532}}、第四護衛船団司令官[[松山光治]]少将が指揮する海防艦([[占守 (海防艦)|占守]]、[[沖縄 (海防艦)|沖縄]]、[[第十三号海防艦|第13号海防艦]])など{{Sfn|日本海防艦戦史|1994|p=106}}。[[オルモック湾]]での対空戦闘で、輸送船2隻と[[第十一号海防艦|第11号海防艦]]が沈没していた{{Sfn|戦場の将器|1997|p=248}}{{Sfn|日本海防艦戦史|1994|pp=111-114|ps=第四次多号輸送}}。}}から駆逐艦3隻([[長波 (駆逐艦)|長波]]、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]、[[若月 (駆逐艦)|若月]])を分離、第三次多号作戦部隊の駆逐艦2隻(竹、初春)と入れ替えることになった{{Sfn|戦場の将器|1997|p=249}}{{Sfn|岸見勇美|2010|p=44}}。
11月24日、「竹」は第一輸送戦隊(司令官[[曾爾章]]少将・海兵44期)の指揮下に入り<ref>ただし、本来「竹」に乗艦する予定であった曾爾章少将は後の船の段取りを取るためマニラに残り、代わりに宇那木勁艦長が指揮官を任されている。[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]188頁</ref><ref>[[#戦隊行動調書]]p.48『第一輸送戰隊』</ref>、第五次多号作戦第二梯団<ref>第一梯団は[[第一〇三号型輸送艦|二等輸送艦]]3隻(111号、141号、160号)で編成</ref> として[[第一号型輸送艦#同型艦|第6号輸送艦]]、[[第一号型輸送艦#同型艦|第9号輸送艦]]および[[第一号型輸送艦#同型艦|第10号輸送艦]]と共にマニラを出撃した<ref name="志賀兵科157" /><ref>[[#南海の死闘]]115頁</ref>。
11月11日午前5時ごろ、「初春」と「竹」は第四次多号作戦部隊と合同した{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=537}}。7隻(霞、潮、[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]、初春、竹、[[沖縄 (海防艦)|沖縄]]、金華丸)は18時30分、「せれべす丸」や輸送艦救援に従事した2隻([[占守 (海防艦)|占守]]、[[第十三号型駆潜艇|第13号]])は同日深夜{{Sfn|第13号海防艦戦記|2014|p=19}}、それぞれマニラに帰投した{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=541-542|ps=第四次、第三次部隊のマニラ帰投}}<ref>「多号作戦戦闘詳報第二号」[[#S1909一水戦日誌(5)]], pp.16,17,38</ref>。なお「竹」と「初春」が当初参加していた第三次輸送船団は、[[オルモック湾]]での対空戦闘で駆逐艦「朝霜」を残して壊滅した<ref>[[#S1911経過(護衛対潜)]] p.4(昭和19年11月)</ref>{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=47-50|ps=漂流と彷徨}}{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=538-539|ps=二水戦司令官戦死、第二船団全滅}}{{efn|「島風」沈没時に[[早川幹夫]]第二水雷戦隊司令官も戦死した{{Sfn|戦史叢書93|1973|pp=62-64|ps=軍需品搭載船団の全滅}}。「朝霜」は11月12日、マニラに帰投した{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=542}}。}}。
翌11月25日、「米機動部隊が接近中」との情報で[[ボアク島|マリンドケ島]]北西部のバラナカン湾に避泊したが<ref>[[#南海の死闘]]116頁、宇那木、8頁</ref><ref name="志賀兵科159">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]159-162頁</ref>、間もなく空襲を受けて第6号輸送艦と第10号輸送艦が沈没<ref>[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]191頁</ref>。第9号輸送艦も損傷(航海長袴田徳男大尉戦死、砲術長負傷、荷役装置故障)<ref name="最後ネイビー18">[[#最後のネイビーブルー]]18-19頁(飯田博通航海士談。戦後、巨済通信士)</ref><ref name="松永三号118">[[#松永、三号|三号輸送艦帰投せず]]118-119頁</ref>。「竹」も至近弾と機銃掃射で損傷し戦死者15名・負傷者60名余を出した他<ref name="志賀兵科159" /><ref>[[#南海の死闘]]125頁</ref>、[[ジャイロコンパス]]が吹き飛ばされて使用不能となった<ref name="a">宇那木、10頁</ref><ref name="佐藤艦長続193">[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]193-195頁</ref>。レイテ島オルモック湾への突入を命じられ、先任将校(志賀)は任務遂行を進言、高井義助航海長は『[[方位磁針]]を駆使してオルモック湾に向かう覚悟がある』と具申した<ref name="佐藤艦長続193" /><ref name="志賀兵科162">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]162-166頁『良識ある判断』</ref>。機関長は燃料流出を懸念したが、命令なら突入すると進言<ref name="佐藤艦長続193" />。砲術長は反対した<ref name="佐藤艦長続193" /><ref name="志賀兵科162" />。
しかし、第9号輸送艦(艦長[[赤木毅]]予備少佐)より『砲術長戦死、航海長負傷、[[大発動艇]]卸用ワイヤ切断』との報告を受け、命令違反を承知で再挙を期してマニラに引き返すこととした<ref>[[#南海の死闘]]頁126-127頁</ref><ref>[[#最後のネイビーブルー]]32頁</ref>。生存者を救助しつつ<ref name="志賀兵科162" />、11月26日にマニラに帰投<ref name="佐藤艦長続193" /><ref name="志賀兵科166">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]166-169頁『不退転の決意』</ref>。宇那木艦長は[[南西方面艦隊]]司令部(参謀長[[有馬馨]]少将、先任参謀[[高間正義]]大佐)に出頭して詫びを入れた<ref name="志賀兵科166" /><ref>[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]196-197頁</ref>。「竹」は昼夜兼行で応急修理を行って次期作戦に備えたが、ジャイロコンパスは復旧されずじまいだった<ref name="志賀兵科166" /><ref>宇那木、13頁</ref>。第九号輸送艦では、沈没した駆逐艦[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]の航海長だった佐々木幸康大尉より新航海長を迎え、作戦準備を整えた<ref name="松永三号118" />。


11月12日、マニラに到着していた[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]輸送隊は{{efn|空母「[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]」、重巡「[[利根 (重巡洋艦)|利根]]」(ブルネイから同行)、軽巡「[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]」、第30駆逐隊([[卯月 (睦月型駆逐艦)|卯月]]、[[夕月 (駆逐艦)|夕月]]){{Sfn|戦史叢書56|1972|p=544}}。}}、同行していた軽巡洋艦「[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]」を分離する{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=544}}{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|pp=603-605|ps=木曽、マニラに死す(十一月)}}。かわりに駆逐艦「時雨」<ref>[[#S1910経過(護衛対潜)]] p.8〔 1YB 時雨(1YB第三部隊)唯一ノ生還艦コロンニ向ケ帰投 〕</ref>を編入し、内地へ帰投する<ref>[[#S1906第30駆日誌(3)]] p.13〔 12日/1100時雨ト共ニ隼鷹筑摩護衛「マニラ」出港 〕(註:重巡[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]は既に沈没している)</ref>。「木曾」と駆逐艦「[[霜月 (駆逐艦)|霜月]]」は多号作戦部隊第一警戒部隊に編入された<ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]] pp.42-43</ref>。
====第七次多号作戦・クーパー撃沈====
11月13日、[[マニラ湾]]は再び空襲をうける{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=50-54|ps=マニラ湾の地獄}}{{Sfn|戦史叢書93|1973|pp=65-66|ps=マニラ在泊艦船の被害甚大}}。水雷戦隊だけでも5隻(木曾、曙、[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]、秋霜、初春{{Sfn|秋月型(潮書房)|2015|pp=267-269|ps=炎の海にのまれた初春}})が沈没もしくは大破着底状態となる{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=543-546|ps=十一月十三日の空襲、「木曾」、駆逐艦等の沈没}}<ref>[[#霞詳報(マニラ空襲)]] p.7、[[#捷1号作戦2YB作戦経過概要]] pp.32-33、[[#S1909一水戦日誌(2)]] p.11</ref>。「竹」乗組員達は「マニラに帰投して大空襲に出くわした。『島風』と一緒にレイテに行けば良かった。本艦は運が悪い」と自嘲したが、第三次多号船団部隊が「朝霜」を除いて全滅した事を知り、逆に「強運の艦だ」という印象が広まった{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=110-111|ps=間一髪の幸運}}。

マニラ大空襲をうけて、第五艦隊司令長官・志摩中将は残存艦艇の退避を南西方面艦隊(司令長官[[大川内傳七]]中将)に進言した{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=548a-549|ps=第二遊撃部隊のマニラ撤退/ブルネイに避退す}}{{Sfn|戦史叢書93|1973|p=67a|ps=第二遊撃部隊のマニラ撤退と第一遊撃部隊の内地回航}}。
11月13日深夜、第一水雷戦隊司令官が指揮する残存艦艇(霞、初霜{{efn|志摩長官以下、第五艦隊司令部は「初霜」に乗艦した{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=548b-549}}。「初霜」と「朝霜」は[[ブルネイ]]に直行し{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=548b-549}}、同地で第五艦隊旗艦は重巡「[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]]」となった<ref name="S191116護衛対潜" />。}}、朝霜、潮、竹 ){{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=451-452}}はマニラを脱出した<ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]] p.11</ref>{{efn|第四次多号作戦に参加した海防艦達も11月14日午前2時にマニラを出発{{Sfn|第13号海防艦戦記|2014|p=20}}、[[ボルネオ島]]北西の[[ラブアン]]にむかった{{Sfn|占守電探室異状なし|2012|pp=61-62}}。}}。「竹」はマニラから[[ブルネイ]]に移動する第一水雷戦隊(司令官[[木村昌福]]少将・海兵41期、旗艦「霞」)および「潮」と共に[[南沙諸島]][[太平島|長島]]に向かい、同地で南方に進出途上の[[第四航空戦隊]](<!-- 司令官[[松田千秋]]少将: -->[[日向 (戦艦)|日向]]<!-- 四航戦旗艦 -->、[[伊勢 (戦艦)|伊勢]])や護衛艦(霜月、梅、桐)などと会合{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=548b-549}}、燃料を補給してもらう{{Sfn|日向、追憶|1977|p=92}}<ref name=":0" />。同地で臨時艦長の飯村少佐が退艦し、宇那木少佐が便乗中の戦艦「[[日向 (戦艦)|日向]]」から「竹」に移乗し、着任する{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=111-113|ps=艦長宇那木少佐着任}}{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=157-158}}{{efn|飯村少佐は11月15日付で「鬼怒」航海長の職務を解かれた<ref name="jirei1646">{{アジア歴史資料センター|C13072102000|昭和19年11月18日(発令11月15日付)海軍辞令公報(甲)第1646号 p.10}}</ref>。}}。

宇那木艦長を迎えた「竹」は、リンガ泊地へむかう第五艦隊とわかれた<ref name="S191116護衛対潜">[[#S1911経過(護衛対潜)]] p.6(昭和19年11月)</ref>。[[コレヒドール島]]沖合でアメリカ潜水艦「[[ヘイク (潜水艦)|ヘイク]] (''{{lang|en|USS Hake, SS-256}}'') 」の雷撃で損傷した第三十一戦隊旗艦の軽巡「五十鈴」と途中ですれ違いつつ<ref>{{Harvnb|宇那木||p=6}}、{{Harvnb|日本水雷戦史|1986|p=586}}、[[#S1911経過(護衛対潜)]] p. 7(昭和19年11月)</ref>、マニラに引き返した{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=113-114}}
<!-- {{efn|第三十一戦隊司令部はシンガポールで秋月型駆逐艦「[[霜月 (駆逐艦)|霜月]]」に旗艦を変更した{{Sfn|戦史叢書93|1973|pp=73-74|ps=南西方面部隊、駆逐艦の不足を訴う}}。直後の[[11月25日]]未明、「霜月」は潜水艦「[[カヴァラ (潜水艦)|カヴァラ]]」に撃沈され、第三十一戦隊司令部は全滅した<ref name="S191125護衛対潜">[[#S1911経過(護衛対潜)]] p.9(昭和19年11月)</ref>。新たな第三十一戦隊司令部は内地で編成され(司令官[[鶴岡信道]]少将)、12月22日に空路でマニラへ進出した{{Sfn|戦史叢書93|1973|pp=128-129|ps=水上部隊}}{{Sfn|戦史叢書54|1972|p=454|ps=水上兵力の漸減}}。}}。 -->

11月20日付で第一水雷戦隊は解隊され{{Sfn|戦場の将器|1997|p=254}}、一水戦司令官・木村少将は第二水雷戦隊司令官に補職される{{Sfn|戦史叢書93|1973|pp=67b-69|ps=第一水雷戦隊の解隊と第三十一戦隊の第五艦隊編入}}。同日付で第三十一戦隊は第五艦隊に編入された{{Sfn|戦史叢書54|1972|p=453}}{{Sfn|戦史叢書93|1973|p=68}}。11月21日、マニラの日本陸海軍は、レイテ島への輸送に第三十一戦隊と高速輸送艦を活用することで一致した{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=552|ps=ブラウエン攻略の企図と軍需品勇戦輸送の要/作戦方針の既定}}{{Sfn|戦史叢書41|1970|pp=492-494|ps=義号、和号、テ号計画の決定}}。

11月24日、「竹」は第一輸送戦隊(司令官[[曾爾章]]少将)の指揮下に入り{{efn|ただし、本来「竹」に乗艦する予定であった曾爾少将は後の船の段取りを取るためマニラに残り、代わりに宇那木勁艦長が指揮官を任されている{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=61-63|ps=第五次輸送第一梯団全滅}}。}}<ref>[[#戦隊行動調書]]p.48『第一輸送戰隊』</ref>、第五次多号作戦に参加する{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=554a|ps=第五次多号作戦}}。第一梯団{{efn|第一梯団は[[第一〇三号型輸送艦|二等輸送艦]]3隻(111号、141号、160号)と「第46号駆潜艇」で編成されていた{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=554b}}。}}と第二梯団(竹、[[第一号型輸送艦#同型艦|第6号輸送艦]]、[[第一号型輸送艦#同型艦|第9号輸送艦]]、[[第一号型輸送艦#同型艦|第10号輸送艦]])としてマニラを出撃した{{Sfn|南海の死闘|1994|p=115|ps=再度レイテ島への出撃}}{{efn|輸送物件は、第三次多号作戦で座礁した「せれべす丸」等の陸軍部隊や、軍需品であった{{Sfn|戦史叢書41|1970|pp=494-497|ps=航空攻撃再興、多号第五次進発}}。}}。
ところが先発した第一梯団は[[マスバテ島]]南東部カタイガンに避泊中で空襲をうけ{{Sfn|回想レイテ作戦|2005|pp=162-164}}、全滅した{{Sfn|戦史叢書41|1970|p=499a|ps=多号第五次の挫折と二十五日の艦載機}}<ref>[[#S1911経過(護衛対潜)]] p.8(昭和19年11月)</ref>{{efn|マニラへ帰投中の「第46号駆潜艇」も、翌25日に空襲で沈没した{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=554b}}。}}。

翌11月25日昼{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=116-117|ps=運命のバラナカン避泊}}、「米機動部隊が接近中」との情報で輸送部隊は{{仮リンク|タヤバス湾|en|Tayabas Bay}}に浮かぶ[[ボアク島|マリンドケ島]]北西部のバラナカン湾に避泊した{{Sfn|岸見勇美|2010|p=62|ps=第5図、マリンドーケ島バナラカン湾避泊図}}<ref>[[#S1911経過(護衛対潜)]] p.9(昭和19年11月)</ref>。
間もなく空襲を受けて「第6号輸送艦」と「第10号輸送艦」が沈没する{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=554b}}{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=64-66|ps=猛爆受けた第二梯団}}。「第9号輸送艦」も損傷(航海長・袴田徳男大尉戦死、砲術長負傷、荷役装置故障){{Sfn|最後のネービーブルー|1989|pp=18-19|ps=(飯田博通航海士談。戦後、巨済通信士)}}{{Sfn|三号輸送艦帰投せず|1986|pp=118-119}}。「竹」も至近弾と機銃掃射で損傷し戦死者15名{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=124-127|ps=艦長、苦悩の決断(バラナカン対空戦闘戦死者氏名一覧)}}・負傷者60名余を出した他{{Sfn|南海の死闘|1994|p=129}}{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=159-162}}、[[ジャイロコンパス]]が吹き飛ばされて使用不能となった{{Sfn|宇那木||p=10}}{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|pp=193-195}}。レイテ島オルモック湾への突入を命じられていたため「竹」幹部は協議をおこなう{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|pp=193-195}}。先任将校(志賀)は任務遂行を進言、高井義助航海長は「[[方位磁針]]を駆使してオルモック湾に向かう覚悟がある」と具申した{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=162-166|ps=良識ある判断}}。機関長は燃料流出を懸念したが「命令なら突入する」と進言、砲術長は反対した{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|pp=193-195}}。しかし、「第9号輸送艦」(艦長[[赤木毅]]予備少佐)より「砲術長戦死、航海長負傷、[[大発動艇]]卸用ワイヤ切断」との報告を受け{{Sfn|最後のネービーブルー|1989|p=32}}、再挙を期してマニラに引き返すことにした<ref>[[#S1911経過(護衛対潜)]] p.9(昭和19年11月)</ref>。沈没艦の生存者を収容し、11月26日マニラに帰投した{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=127-130|ps=再度「マニラ」帰港}}{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=166a-169|ps=不退転の決意}}。こうして第五次多号作戦は失敗した{{Sfn|戦史叢書41|1970|p=486}}{{Sfn|戦史叢書93|1973|pp=76-77|ps=第五次~第七次多号作戦}}{{efn|この時期、僅かながらレイテ島輸送に成功したのは陸軍潜水艦「[[三式潜航輸送艇|マルゆ]]」のみであった{{Sfn|戦史叢書41|1970|pp=501-502|ps=「マルゆ」初成功}}。}}。
<!-- {{efn|ルソン島西岸では<ref name="S191125護衛対潜" />、南下中の軽巡洋艦「[[平海 (巡洋艦)|八十島]]」と輸送艦3隻および重巡「[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]」が撃沈された{{Sfn|戦史叢書41|1970|p=499b}}{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=182-183|ps=米空母機により沈没}}。}}。 -->
宇那木艦長は南西方面艦隊司令部(参謀長[[有馬馨]]少将、先任参謀[[高間正義]]大佐)に出頭して詫びを入れた{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=166b-169}}{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=67-72|ps=命令違反}}。「竹」は昼夜兼行で応急修理を行って次期作戦に備えたが、ジャイロコンパスは復旧されずじまいだった{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=166b-169}}{{efn|「第九号輸送艦」では、マニラ空襲で沈没した駆逐艦「沖波」の航海長だった佐々木幸康大尉が新航海長に任命され<ref>[[#S士官の手記]] p.2(沖波准士官以上名簿)</ref>、作戦準備を整えた{{Sfn|三号輸送艦帰投せず|1986|pp=118-119}}。}}。

==== 第七次多号作戦・クーパー撃沈 ====
{{seealso|クーパー (駆逐艦)}}
{{seealso|クーパー (駆逐艦)}}


第六次多号作戦が予想以上の成功をおさめたので{{Sfn|戦史叢書41|1970|pp=488-489}}、日本軍は第七次多号作戦を実施した{{Sfn|戦史叢書41|1970|pp=510-512|ps=成功の報到り上下ともに積極化}}{{Sfn|戦史叢書41|1970|p=514a|ps=多号第七、第八次}}{{efn|ただし第六次多号作戦部隊は揚陸地点および帰路に魚雷艇と空襲により全滅した{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=555a|ps=第六次多号作戦}}。}}。
11月30日、本艦は第七次多号作戦において松型駆逐艦5番艦「[[桑 (松型駆逐艦)|桑]]」(駆逐艦長[[山下正倫]]中佐、海兵53期)の指揮下に入り<ref>[[#秋月型(潮2015)]]302頁『決死のオルモック湾突入作戦』</ref><ref>[[#地獄のレイテ輸送作戦]]75-76頁『悲壮!第七次輸送作戦』</ref>、駆逐艦2隻(桑、竹)、第9号輸送艦、[[第一〇三号型輸送艦#同型艦|第140号輸送艦]]、[[第一〇三号型輸送艦#同型艦|第159号輸送艦]]という戦力でマニラを出撃した<ref>[[#南海の死闘]]131頁、[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]198頁</ref><ref name="志賀兵科169">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]169-171頁『柔軟なる思考』</ref>。「竹」には方面軍作戦参謀[[田中光祐]]少佐他数名の陸軍将校が乗艦していたという<ref name="志賀兵科169" />。
航行中、[[酸素魚雷]]点検中および訓練中の[[ヒューマンエラー|事故]]により魚雷1本を誤って投棄、「竹」の残魚雷は3本となった<ref>[[#南海の死闘]]134-135頁</ref><ref name="志賀兵科175" />。
この頃になると、アメリカ軍は妨害のためにレイテから[[魚雷艇]]隊をはるばるオルモック方面に派遣するようになっており、[[多号作戦#第6次作戦|11月28日夜半のオルモック襲撃]]に成功するなど戦果を挙げていた<ref name="aa">ニミッツ、ポッター、401頁</ref>。[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]]司令官[[トーマス・C・キンケイド]][[中将]]は、続いてオルモック方面に駆逐艦と[[掃海艇]]を派遣することとし<ref name="aa" />、これも過去二度の作戦で潜水艦と小型貨物船を破壊する戦果を挙げていた<ref name="aa" />。そして、三度目の作戦<ref name="aa" /> として[[:en:USS Allen M. Sumner (DD-692)|アレン・M・サムナー]] (''USS Allen M. Sumner, DD-692'')、[[:en:USS Moale (DD-693)|モール]] (''USS Moale, DD-693'') そして'''[[クーパー (駆逐艦)|クーパー]]''' (''USS Cooper, DD-695'') がオルモック湾に差し向けられる事となったのである<ref>[[#連合軍艦艇撃沈す]]193頁『米駆逐隊の迎撃』</ref>。
アレン・M・サムナー、モールおよびクーパーの第120駆逐群(ジョン・C・ザーム大佐)<ref name="b">木俣『日本水雷戦史』、565頁</ref> は18時30分にレイテ湾を出撃し<ref name="b" />、オルモック湾に急行した<ref name="志賀兵科173">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]173-174頁</ref>。出撃して間もなく、[[セブ]]から飛来してきた[[第一五三海軍航空隊|戦闘八〇四飛行隊]]の[[月光 (航空機)|月光]]や第一四一航空隊の[[瑞雲 (航空機)|瑞雲]](水上爆撃機)に付きまとわれ<ref>[[#連合軍艦艇撃沈す]]194頁</ref>、爆撃と機銃掃射によりモールは2名の戦死者と22名の負傷者を出した<ref>木俣『日本水雷戦史』、565、566頁;ニミッツ、ポッター、401頁;渡辺、319頁、[[#南海の死闘]]152頁</ref>。また、アレン・M・サムナーおよびモールの船体にも若干の損傷が生じた<ref name="b" /><ref name="志賀兵科173" />。


第七次多号作戦部隊は{{efn|第一梯団:陸軍SB艇3隻(5号、11号、12号)、第20号駆潜艇<ref name="#1">[[#S1910-12経過概要]] p.13(昭和19年11月)</ref>。11月29日マニラ発、5号がマスバテ島に座礁したが<ref>[[#S1911経過(護衛対潜)]] p.10(昭和19年11月)</ref>、他は[[セブ島]]を経由して11月30日、レイテ島オルモック南方4kmのイピル着、揚陸成功<ref>[[#S1912経過(護衛対潜)]] p.1(昭和19年11月)</ref>(第20号駆潜艇は駆逐艦「長波」生存者72名を収容){{Sfn|戦史叢書56|1972|p=555c}}<br/>第二梯団:陸軍SB艇2隻(10号、14号)、11月30日マニラ発、12月1日レイテ島[[:en:Palompon|パロンポン]]北方のシラド湾着{{Sfn|戦史叢書41|1970|p=514b|ps=多号第七次}}。<br/>第三梯団:海軍輸送艦2隻(140号、159号)<br/>第四梯団:第9号輸送艦、駆逐艦2隻(桑、竹){{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=555b-556|ps=第七次多号作戦}}。}}、第一梯団<ref name="#1"/>、第二梯団、第三梯団と第四梯団にわかれていた<ref name="S191203護衛対潜a" /><ref name="S191202経過概要">[[#S1910-12経過概要]] p.14(昭和19年12月)</ref>。「竹」は第七次多号作戦において駆逐艦「[[桑 (松型駆逐艦)|桑]]」(駆逐艦長[[山下正倫]]中佐)の指揮下に入った{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=75-77|ps=悲壮!第七次輸送作戦}}。
[[File:USS Cooper (DD-695).jpg|thumb|left|駆逐艦クーパー]]
[[12月1日]]午後6時{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=555c}}、駆逐艦2隻(桑、竹)、「第9号輸送艦」「[[第一〇三号型輸送艦#同型艦|第140号輸送艦]]」「[[第一〇三号型輸送艦#同型艦|第159号輸送艦]]」という第三梯団/第四梯団でマニラを出撃した{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=198}}{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=131-133|ps=レイテ島へ最後の出撃}}。「竹」には方面軍作戦参謀[[田中光祐]]少佐他数名の陸軍将校が乗艦していたという{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=169-171|ps=柔軟なる思考}}{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=78-80|ps=別れの杯酌み交わし}}。マニラ湾口で船団部隊は陸軍潜水艦([[三式潜航輸送艇|マルゆ]])と遭遇した{{Sfn|秋月型(潮書房)|2015|pp=302-305|ps=決死のオルモック湾突入作戦}}{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=91-92}}。
12月2日夜、船団はオルモック湾に到着して揚陸を開始<ref name="志賀兵科169" />。[[大発動艇|大発]]が輸送艦と陸上を往復して物資を揚陸させている頃、「竹」には第三次多号作戦で沈没した「島風」の上井宏艦長(海兵51期)や機関長上村嵐大尉、第二水雷戦隊の松原瀧三郎先任参謀(海兵52期)などが収容されていた<ref name="志賀兵科173" /><ref>[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]202頁</ref>。その後、「竹」は南西方向の、「桑」は南方の哨戒を開始した<ref name="志賀兵科175">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]175-177頁『無心の大戦果』</ref><ref name="aaa">宇那木、16頁</ref>。「桑」が担当していた南方の海上では第120駆逐群がオルモック湾に入りつつあり、ザーム大佐は日本側の雷撃を警戒して、艦を横に広がらせた横陣の隊形で湾内に入っていった<ref>木俣『日本水雷戦史』、566頁、[[#南海の死闘]]161頁</ref>。オルモック湾に入った第120駆逐群は11,000メートル先の目標を狙い、まずクーパーが砲撃を開始した<ref name="c">木俣『日本水雷戦史』、566頁</ref>。この時までに「桑」も第120駆逐群を発見し、発光信号で敵艦発見を「竹」に知らせた<ref name="志賀兵科175" /><ref name="d">宇那木、17頁</ref>。「桑」側は敵戦力を[[軽巡洋艦]]3隻と判断、照射砲撃と魚雷戦を開始した<ref name="回想レイテ164">[[#回想レイテ作戦]]164-166頁『オルモック沖の海戦絵巻』</ref>。
最初の交戦はおよそ9分で決着がつき<ref name="e">木俣『日本水雷戦史』、567頁</ref>、駆逐艦主砲弾多数を被弾した「桑」は沈没した。第120駆逐群は次の目標を「竹」と定め、モール、アレン・M・サムナー、クーパーの順番で砲撃を開始した<ref name="e" />。「竹」は[[四〇口径八九式十二糎七高角砲|12.7cm 高角砲]]、[[九六式二十五粍高角機銃|25mm 機銃]]、[[酸素魚雷]]で「敵巡洋艦(駆逐艦の誤認)」に反撃を行った<ref>[[#南海の死闘]]138頁</ref>。オルモック湾内を24ノットで航行しながらの機動するため、座礁を懸念しながらの戦闘であった<ref name="佐藤艦長続204">[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]204-205頁</ref><ref name="志賀兵科178">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]178-180頁</ref>。


[[12月2日]]昼間、敵小数機に触接されたが、空襲はなかった<ref>[[#S1912経過(護衛対潜)]] p.1(昭和19年12月)</ref>。航行中、[[酸素魚雷]]点検および訓練時の[[ヒューマンエラー|事故]]により魚雷1本を投棄、「竹」の残魚雷は3本となった{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=133-135|ps=聯管員不測の大事故}}。この頃になると、アメリカ軍は妨害のためにレイテ島から[[魚雷艇]]隊をはるばるオルモック方面に派遣するようになっており、[[多号作戦#第6次作戦|11月28日夜半のオルモック襲撃]]に成功するなど戦果を挙げていた{{Sfn|ニミッツ、ポッター|1992|p=401}}。[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]]司令官[[トーマス・C・キンケイド]]中将は、続いてオルモック方面に駆逐艦と[[掃海艇]]を派遣することとし{{Sfn|ニミッツ、ポッター|1992|p=401}}、これも過去二度の作戦で日本軍潜水艦と小型貨物船を破壊する戦果を挙げていた{{Sfn|ニミッツ、ポッター|1992|p=401}}。そして、三度目の作戦{{Sfn|ニミッツ、ポッター|1992|p=401}} として駆逐艦「[[アレン・M・サムナー (駆逐艦)|アレン・M・サムナー]] (''{{lang|en|USS Allen M. Sumner, DD-692}}'') 」「[[モール (駆逐艦)|モール]] (''{{lang|en|USS Moale, DD-693}}'') 」そして「[[クーパー (駆逐艦)|クーパー]] (''{{lang|en|USS Cooper, DD-695}}'') 」がオルモック湾に差し向けられる事となった<ref>[[#連合軍艦艇撃沈す]]193頁『米駆逐隊の迎撃』</ref>。「アレン・M・サムナー」「モール」および「クーパー」の第120駆逐群(ジョン・C・ザーム大佐){{sfn|木俣|1986|p=565}}は18時30分にレイテ湾を出撃し{{sfn|木俣|1986|p=565}}、オルモック湾に急行した{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=173-174}}。出撃して間もなく、セブから飛来してきた[[第一五三海軍航空隊|戦闘八〇四飛行隊]]の[[月光 (航空機)|月光]]や第一四一航空隊の[[瑞雲 (航空機)|瑞雲]](水上爆撃機)に付きまとわれ<ref>[[#連合軍艦艇撃沈す]]194頁</ref>、爆撃と機銃掃射により「モール」は2名の戦死者と22名の負傷者を出した<ref>{{Harvnb|木俣|1986|p=565-566}}、{{Harvnb|ニミッツ、ポッター|1992|p=401}}、{{Harvnb|渡辺|1993|p=319}}</ref>{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=151-155}}。また、「アレン・M・サムナー」および「モール」の船体にも若干の損傷が生じた{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=173-174}}。
最初の雷撃態勢は、宇那木艦長が砲撃による閃光で目がくらみ<ref name="d" />、また電気機器の故障により発射の機会を逃した<ref name="佐藤艦長続204" /><ref name="志賀兵科178" />。二度目の機会を得て魚雷2本を発射<ref name="志賀兵科178" />、四番連管は起動弁の故障で発射できなかった<ref>[[#南海の死闘]]140-141頁</ref>。「竹」の水雷長志賀博大尉(海兵68期)が双眼鏡で第120駆逐群を観測していたが、やがて視界内の左端にいた駆逐艦が大きな火柱を吹き上げるのを目撃した<ref name="志賀兵科178" /><ref name="f">雨倉、99頁</ref>。魚雷はクーパーの右舷に命中し、船体をV字に折られたクーパーは1分以内に沈没した<ref>[[#南海の死闘]]152頁</ref><ref>[[#連合軍艦艇撃沈す]]196-197頁</ref>。この後、「竹」は修理が終わった四番連管から魚雷1本を単独発射したが、こちらは命中しなかった<ref name="志賀兵科178" /><ref>[[#南海の死闘]]143頁</ref>。
一方、モールは「竹」の前部機械室に命中弾を与えた(負傷者1名)<ref name="佐藤艦長続207">[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]207頁</ref>。不発だったが浸水のため右舷1軸運転となり<ref>[[#南海の死闘]]145-146頁</ref>、「竹」は最大で左舷に30度も傾いた<ref name="佐藤艦長続207" /><ref name="志賀兵科180">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]180-185頁『苦境をひらく』</ref>。しかし、「竹」もモールに高角砲弾を複数発命中させた<ref name="f" />。クーパー轟沈を「潜水艦からの雷撃」と錯覚していた米駆逐艦2隻(モール、サムナー)は戦場から避退<ref name="志賀兵科178" />。これ以上の戦闘は行われなかった。


[[File:USS Cooper (DD-695) underway in New York Harbor (USA) on 25 March 1944 (19-N-64350).jpg|thumb|left|駆逐艦「クーパー」|250px]]
やがて第9号輸送艦から揚陸完了の報告を受け、缶に使用する[[真水]]の在庫が底を尽こうとしていた「竹」は30度傾いた状態のまま、第9号輸送艦から真水の供給を受けた<ref>宇那木、19頁、[[#南海の死闘]]147頁</ref><ref>[[#松永、三号|三号輸送艦帰投せず]]116-117頁</ref>。同時に二水戦参謀が第9号輸送艦に移乗した<ref name="志賀兵科180" /><ref name="佐藤艦長続209">[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]209頁</ref>。
同日夜、船団はオルモック湾に到着して揚陸を開始した{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=555c}}。大発動艇が輸送艦と陸上を往復して物資を揚陸させている頃、「竹」には第三次多号作戦で沈没した「島風」の上井宏艦長や機関長・上村嵐大尉、第二水雷戦隊の松原瀧三郎先任参謀などが収容されていた{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=173-174}}{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=202}}。その後、「竹」は南西方向の、「桑」は南方の哨戒を開始した{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=175a-177|ps=無心の大戦果}}{{Sfn|宇那木||p=16}}。「桑」が担当していた南方の海上では第120駆逐群がオルモック湾に入りつつあり、ザーム大佐は日本側の雷撃を警戒して、艦を横に広がらせた横陣の隊形で湾内に入っていった{{sfn|木俣|1986|p=566}}。オルモック湾に入った第120駆逐群は11,000メートル先の目標を狙い、まず「クーパー」が砲撃を開始した{{sfn|木俣|1986|p=566}}。この時までに「桑」も第120駆逐群を発見し、発光信号で敵艦発見を「竹」に知らせた{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=175b-177}}{{Sfn|宇那木||p=17}}。「桑」側は敵戦力を[[軽巡洋艦]]3隻と判断、照射砲撃と魚雷戦を開始した{{Sfn|回想レイテ作戦|2005|pp=164-166|ps=オルモック沖の海戦絵巻}}。
夜明けまで残2時間となった時、第140号輸送艦および第159号輸送艦からも揚陸完了の報告を受けた「竹」は、第140号輸送艦および第159号輸送艦を先発させる<ref name="佐藤艦長続209" />。宇那木艦長は[[オルモック]]の陸上部隊に「桑」の生存者救助を要請した<ref name="佐藤艦長続209" />。
[[12月3日]]3時に第9号輸送艦を率いてオルモック湾を出発<ref>宇那木、21頁</ref>。「桑」の生存者救助は、「竹」が中破して片舷航行の上、[[サーチライト]]を使わずに作業する事の難しさや、日が昇ってからの空襲を避けることを考慮して断念された<ref>宇那木、20-21頁、[[#南海の死闘]]147-148頁</ref>。海面の桑生存者は通り過ぎる「竹」に救助を要請したが、竹側は「[[大発動艇]]がくるから頑張れ」と返答<ref name="秋月型305">[[#秋月型(潮2015)]]305-307頁『小さな勇者「桑」よ永遠なれ』</ref>。すると第159号輸送艦(もしくは第140号輸送艦)<ref>[[#地獄のレイテ輸送作戦]]98頁では140号輸送艦</ref> が反転し、桑生存者8名を収容した<ref name="秋月型305" />。また生存者の一部は[[カッターボート]]で上陸、現地の[[海軍陸戦隊]]に合流した<ref name="回想レイテ164" />。


[[12月3日]]午前0時30分頃より交戦がはじまる{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=555c}}。最初の交戦はおよそ9分で決着がつき{{sfn|日本水雷戦史|1986|p=567}}、主砲弾多数を被弾した「桑」は沈没した{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=85-88|ps=漂流海面の日米交流}}。第120駆逐群は次の目標を「竹」と定め、「モール」「アレン・M・サムナー」「クーパー」の順番で砲撃を開始した{{sfn|日本水雷戦史|1986|p=567}}。「竹」は[[四十口径八九式十二糎七高角砲|12.7センチ高角砲]]、[[九六式二十五粍機銃|25ミリ機銃]]、[[酸素魚雷]]で「敵巡洋艦」に反撃を行った{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=81-85|ps=オルモック湾の夜戦「竹」の殊勲}}。オルモック湾内を24ノットで航行・機動するため、座礁を懸念しながら戦闘をおこなった{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=204}}{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=178-180}}。
途中で傾斜を回復させた「竹」は、12月4日午後にマニラに帰投した<ref>[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]212頁、[[#南海の死闘]]149頁</ref>。マニラ港では、曾爾少将(輸送戦隊司令官)が桟橋まで出迎え、宇那木艦長と握手を交わした<ref name="志賀兵科180" />。続いて宇那木艦長は[[南西方面艦隊]]司令長官[[大川内傳七]]中将(海兵37期)から賞詞を受け、さらに差し向かいで夕食を馳走になった<ref name="志賀兵科180" /><ref name="ee">宇那木、23頁</ref>。宇那木艦長は後に、クーパー撃沈の戦いを「オルモック夜戦」と呼ぶ事を提唱した<ref name="ee" />。また、宇那木艦長が、収容した便乗者の中に「島風」や第二水雷戦隊の関係者の名前があることを知ったのは、[[1968年]](昭和43年)のことだった<ref name="aaa" />。なお、クーパー撃沈は日本駆逐艦が雷撃によって敵艦を撃沈した最後となった<ref>[[#連合軍艦艇撃沈す]]198頁</ref>。
12月5日から14日まで応急修理を行ったが<ref>田村、133頁</ref>、機関が修復できなかったために船速が上がらず、このことから作戦への再投入を免れて[[佐世保]]での回航修理が命ぜられた<ref>[[#南海の死闘]]167頁</ref>。


最初の雷撃態勢は、宇那木艦長が砲撃による閃光で目がくらみ{{Sfn|宇那木||p=17}}、また電気機器の故障により発射の機会を逃した{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=178-180}}。二度目の機会を得て魚雷2本を発射する{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=178-180}}。四番連管は起動弁の故障で発射できなかった{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=140-141}}。「竹」の水雷長・志賀博大尉が双眼鏡で第120駆逐群を観測していたが、やがて視界内の左端にいた駆逐艦が大きな火柱を吹き上げるのを目撃した{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=178-180}}{{Sfn|雨倉|2003|p=99}}。魚雷は「クーパー」の右舷に命中し、船体をV字に折られた「クーパー」は1分以内に沈没した<ref>[[#連合軍艦艇撃沈す]]196-197頁</ref>。この後、「竹」は修理が終わった四番連管から魚雷1本を単独発射したが、こちらは命中しなかった{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=178-180}}{{Sfn|南海の死闘|1994|p=143}}。
===終戦まで===
「竹」は本格的な修理を受けるため、12月15日にマニラを出港<ref>[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]213頁</ref><ref name="志賀兵科192">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]192-195頁『傷ついてもなお』</ref>。この時猛烈な[[台風]]([[コブラ台風]])に遭遇、付近では[[ウィリアム・ハルゼー]]提督率いる[[第3艦隊 (アメリカ軍)]]が嵐に翻弄され、駆逐艦3隻が転覆するなど大損害を受けている<ref>[[#南海の死闘]]172頁</ref>。12月18日に高雄に寄港し、次いで12月21日に[[基隆市|基隆]]に寄港<ref>宇那木、26-27頁、[[#南海の死闘]]174-175頁</ref>。同日夜、「竹」は同地からの「辰春丸」(辰馬汽船、6,344トン)他2隻の輸送船団(タモ船団)を護衛して基隆を出港<ref name="志賀兵科192" /><ref>宇那木、29頁</ref>。[[中国大陸]]沿岸部や[[朝鮮半島]]南岸部の島々の間を縫って北上し、[[1945年]](昭和20年)1月1日に[[門司港]]外に到着した<ref name="志賀兵科192" /><ref name="佐藤艦長続214">[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]214頁</ref>。
翌1月2日、「竹」は[[呉海軍工廠]]に回航<ref name="佐藤艦長続214" />。当初の予定では1月末から2月初頭<ref>『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, 38-39頁</ref>、次いで2月16日に修理完了となって10日程度で出撃準備が整う事になっていたが<ref>『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 19頁</ref>、予定は延びて3月15日まで修理を行った<ref name="志賀兵科195">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]195-197頁『はかない望み』</ref><ref>田村、134頁。ただし、『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 6-9、53-56頁 では3月15日の時点で修理は終わらず、4月28日まで継続されている書き方となっており、『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 65頁 にも「修理ヲ続行中」とある</ref>。4月16日から26日にかけての工事では、[[三式探信儀]]などが装備された<ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030128000, 17-18頁</ref>。その間、2月28日から3月18日まで臨時に第三十一戦隊の旗艦を務めた<ref>『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 23、29、41、44頁</ref>。3月19日の[[呉軍港空襲]]では10名余の負傷者を出した<ref>[[#南海の死闘]]185頁</ref>。


一方、「モール」は「竹」の前部機械室に命中弾を与えた(負傷者1名){{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=207}}。不発だったが浸水のため右舷1軸運転となり{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=145-146|ps=「竹」被弾}}、「竹」は最大で左舷に30度も傾いた{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=88-91|ps=「竹」の危機}}{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=180a-185|ps=苦境をひらく}}。しかし、「竹」も「モール」に高角砲弾を複数発命中させた{{Sfn|雨倉|2003|p=99}}。クーパー轟沈を「潜水艦からの雷撃」と錯覚していた米駆逐艦2隻{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=178-180}}(モール、サムナー)は戦場から避退した{{efn|オルモック対岸のセブ島には第33特別根拠地隊{{Sfn|回想レイテ作戦|2005|p=41|ps=第三十三特別根拠地隊幹部}}(司令官[[原田覚]]少将){{Sfn|戦史叢書98|1979|pp=383-384|ps=セブ基地特殊潜航艇の作戦}}があり、特殊潜航艇[[甲標的]]による作戦を実施していた{{Sfn|回想レイテ作戦|2005|pp=144-145}}{{Sfn|戦史叢書54|1972|p=461|ps=航空兵力の比島撤収}}。}}{{efn|11月27日未明には、レイテ島近海で[[フレッチャー級駆逐艦]]4隻が「マルゆ2号艇」と交戦、撃沈している{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=101-103|ps=駆逐艦対陸軍潜水艦}}。}}。
1944年(昭和19年)末より第43駆逐隊は所属艦2隻(桃、梅)を喪失<ref>[[#秘公報昭和20年2月(2)]]pp.20-21『内令第一一一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年二月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「時雨」ノ下ニ「、朝霜」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項中「桃、」ヲ削ル|第五十二驅逐隊ノ項中「桑、」ヲ削ル』</ref><ref>[[#秘海軍公報昭和20年3月(2)]]p.15『内令第二二一號 驅逐隊編制中左ノ通リ改定セラル|昭和二十年三月十日 海軍大臣|第七驅逐隊ノ項中「、霞」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初霜、時雨、朝霜」ヲ「初霜、朝霜、霞」ニ改ム|第四十三驅逐隊ノ項中「梅、」ヲ削ル|第五十二驅逐隊ノ項中「樅、」ヲ削ル』</ref>、松型11番艦「[[榧 (松型駆逐艦)|榧]]」を編入<ref>[[#内令(秘)昭和19年11月(4)]]p.1『内令第一二九一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月二十五日 海軍大臣 第四十三驅逐隊ノ項中「桃、竹、桃、槇、桐」ヲ「梅、竹、桐、桃、槇、榧」ニ改ム』</ref>。
これ以上の戦闘は行われなかった。
また駆逐隊司令も菅間大佐から[[吉田正義]]大佐<ref name="jirei1693">{{アジア歴史資料センター|C13072144100|昭和20年1月15日(発令1月9日付)海軍辞令公報(甲)第1693号 p.14}}</ref>、続いて吉田から[[作間英邇]]大佐に交代していた<ref name="志賀兵科195" /><ref name="jirei1741">{{アジア歴史資料センター|C13072103700|昭和20年3月9日(発令3月1日付)海軍辞令公報(甲)第1741号 p.32}}</ref>。
4月25日、第43駆逐隊に駆逐艦「[[蔦 (橘型駆逐艦)|蔦]]」を編入<ref name="S20内令355">{{アジア歴史資料センター|C12070504800|昭和20年5月5日(土)海軍公報 第五〇〇二號 p.30}}『内令第三五五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年四月二十五日 海軍大臣|第四十三驅逐隊ノ項中「桐、」ノ下ニ「蔦、」ヲ加フ|第五十二驅逐隊ノ項中「樫、」ノ下ニ「、楡」ヲ加フ』</ref>
4月29日から「[[楓 (松型駆逐艦)|楓]]」とともに回天との訓練に参加した後<ref name="g">宇那木、35頁</ref><ref>『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 84頁</ref>、「竹」は後甲板に[[回天]]の発射台を設置する工事を行った<ref>[[#南海の死闘]]188頁。田村、134頁。136頁では、その期間を5月から6月25日までの間と推定している</ref>。
5月20日、第43駆逐隊に松型「[[椎 (駆逐艦)|椎]]」を編入<ref name="S20内令447">{{アジア歴史資料センター|C12070505100|昭和20年5月28日(月)海軍公報 第五〇二四號 p.22}}『内令第四四七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年五月二十日 海軍大臣|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月、」ノ下ニ「宵月、」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項中「榧、」ノ下ニ「椎、」ヲ加フ|第五十二驅逐隊ノ項中「楓、」ノ下ニ「梨、萩、」ヲ加フ』</ref>。
しかし、戦況悪化によって温存策が取られる事となり、「竹」は第43駆逐隊各艦([[榧 (松型駆逐艦)|榧]]、[[槇 (松型駆逐艦)|槇]])等とともに[[屋代島]]日見海岸に偽装係留し、最後の出撃の時まで待機することとなった<ref name="佐藤艦長続332">[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]332-333頁『最後に快適な艦内生活』</ref><ref name="志賀兵科201">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]201-202頁『創意工夫の潜伏』</ref>。屋代島柳井側には僚艦([[花月 (駆逐艦)|花月]]、桐、蔦)も艤装繋留されていた<ref name="佐藤艦長続332" /><ref name="志賀兵科201" />。
樹木と網で偽装した3隻(竹、槇、榧)はついに攻撃される事なく<ref name="佐藤艦長続332" /><ref>宇那木、36-37頁、[[#南海の死闘]]194-195頁</ref>、8月15日の終戦時には航行可能な状態で残存した<ref name="志賀兵科206">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]206-208頁『止めどなき涙』</ref>。「竹」は僚艦とともに呉に回航されてアメリカ海軍に接収された後<ref name="志賀兵科206" /><ref>宇那木、40頁</ref>、10月25日に除籍<ref name="ハンディ18写真52" />。本艦竣工時より竹水雷長だった[[志賀博]](旧姓保坂)大尉は<ref name="jirei1518" />、敷設艇「[[巨済 (敷設艇)|巨済]]」艦長に転じた<ref name="志賀兵科206" /><ref>[[#最後のネイビーブルー]]15頁</ref>。


やがて「第9号輸送艦」から揚陸完了の報告を受け、ボイラーに使用する真水の在庫が底を突こうとしていた「竹」は30度傾いた状態のまま、「第9号輸送艦」から真水の供給を受けた{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=146-148|ps=オルモック湾脱出}}{{Sfn|三号輸送艦帰投せず|1986|pp=116-117}}。同時に二水戦参謀が「第9号輸送艦」に移乗した{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=180b-185}}{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=209}}。
===戦後===

戦後の「竹」は1945年(昭和20年)12月1日、横須賀地方復員局所管の[[復員輸送艦|特別輸送艦]]に定められ<ref>昭和20年12月1日付 第二復員省 内令第6号。</ref>、行動可能な他の艦船と同様復員輸送に従事し、第1回から第4回の輸送では[[ポンペイ島]]と[[浦賀]]間を二度往復し<ref name="h">宇那木、42頁</ref>、次いで[[パラオ]]と浦賀間を一往復<ref name="h" />、[[サイパン島]]から同島在住の[[沖縄県]]民を[[沖縄本島]]まで輸送した<ref>宇那木、42-43頁</ref>。第5回輸送からは[[上海市|上海]]および[[葫芦島市|葫芦島]]と日本の間を往復し、中国大陸および[[満州国|旧満州国]]方面からの復員輸送に従事した<ref>宇那木、43頁</ref>。葫芦島からの輸送の際、艦内に[[コレラ]]患者が出て病死する引揚者が出たため、[[検疫|防疫]]のため1ヵ月間隔離された事もあった<ref>宇那木、44-45頁</ref>。1946年に復員輸送を終え同年7月26日に特別保管艦に指定<ref>昭和21年9月5日付 復員庁 復二第230号。</ref> され、横須賀地方復員局特別保管艦艇第三保管群に属して横須賀に繋留<ref>昭和21年8月23日付 復員庁第二復員局総務部 二復総第187号。</ref> された。[[1947年]](昭和22年)7月16日には特別輸送艦の定めを解かれ<ref>昭和22年7月16日付 復員庁 復二第500号。</ref>、[[イギリス]]に賠償艦として引き渡され解体された。
夜明けまで残り2時間となった時、「第140号輸送艦」および「第159号輸送艦」からも揚陸完了の報告を受けた「竹」は、「第140号輸送艦」および「第159号輸送艦」を先発させる{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=209}}。宇那木艦長はオルモックの陸上部隊に「桑」の生存者救助を要請した{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=209}}。

「竹」は同日3時に「第9号輸送艦」を率いてオルモック湾を出発<ref>宇那木、21頁</ref>。「桑」の生存者救助は、「竹」が中破して片舷航行の上、[[サーチライト]]を使わずに作業する事の難しさや、日が昇ってからの空襲を避けることを考慮して断念された{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=146-148|ps=オルモック湾脱出}}。海面の桑生存者は通り過ぎる「竹」に救助を要請したが、「竹」側は「大発動艇がくるから頑張れ」と返答して過ぎ去った{{Sfn|秋月型(潮書房)|2015|pp=305-307|ps=小さな勇者「桑」よ永遠なれ}}。すると最後尾の輸送艦{{efn|『地獄のレイテ輸送作戦』98ページでは140号輸送艦が救助と記述する{{Sfn|岸見勇美|2010|p=98}}。}}が反転し、「桑」生存者8名を収容した{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=97-98|ps=「桑」の最後}}。また生存者の一部は[[カッターボート]]で上陸、現地の[[海軍陸戦隊]]に合流した{{Sfn|回想レイテ作戦|2005|p=165}}。

途中で傾斜を回復させた「竹」は[[12月4日]]午後、マニラに帰投した{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=212}}{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=148-150|ps=奇跡の生還}}。マニラでは松型姉妹艦3隻(梅、桃、[[杉 (松型駆逐艦)|杉]])が第八次多号作戦の出撃準備をおこなっており、「杉」では満身創痍の「竹」をみて作戦の困難さを悟ったという{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=100-101}}。マニラ港では、曾爾少将(輸送戦隊司令官)が桟橋まで出迎え、宇那木艦長と握手を交わした{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=180b-185}}。続いて宇那木艦長は南西方面艦隊司令長官・大川内中将から賞詞を受け、さらに差し向かいで夕食を馳走になった{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=180b-185}}{{Sfn|宇那木||p=23}}。宇那木艦長は後に、「クーパー」撃沈の戦いを「オルモック夜戦」と呼ぶ事を提唱した{{Sfn|宇那木||p=23}}。また、宇那木艦長が、収容した便乗者の中に「島風」や第二水雷戦隊の関係者の名前があることを知ったのは、[[1968年]](昭和43年)のことだった{{Sfn|宇那木||p=16}}。なお、「クーパー」撃沈は日本駆逐艦が雷撃によって敵艦を撃沈した最後となった<ref>[[#連合軍艦艇撃沈す]]198頁</ref>。

「竹」は12月5日から14日まで応急修理を行ったが{{Sfn|田村|2003|p=133}}、機関が修復できなかったために船速が上がらず、このことから作戦への再投入を免れて[[佐世保海軍工廠|佐世保]]での回航修理が命ぜられた{{Sfn|南海の死闘|1994|p=167}}。

=== 終戦まで ===
12月14日以降、米軍機動部隊は[[ルソン島]]各地に空襲をおこなった{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=573a|ps=連合軍の比島空襲、激化す}}
<!-- {{efn|多号作戦に従事するためマニラ在泊中の松型各艦(梅、桃、杉、榧、樫、桐)はそれぞれ同地を脱出する。艦首損傷の「梅」は[[海南島]]経由で[[香港]]に退避{{Sfn|秋月型(潮書房)|2015|pp=314-315|ps=難をのがれ香港で修理}}、駆逐艦突入作戦のため第43駆逐隊司令指揮下3隻(杉、榧、樫)は[[南沙諸島|新南群島]]に移動{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=575|ps=南西方面部隊の処置}}、「桃」は翌[[12月15日|15日]]に潜水艦[[ホークビル (潜水艦)|ホークビル]] (''{{lang|en|USS Hawkbill, SS-366}}'') に撃沈された{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=573b}}。}}。 -->
本格的な修理を受けるため「竹」も12月15日にマニラを出港する{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=213}}{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=192a-195|ps=傷ついてもなお}}。この時猛烈な台風([[コブラ台風]])に遭遇した{{Sfn|南海の死闘|1994|p=171}}{{efn|付近では[[ウィリアム・ハルゼー]]提督率いる[[第3艦隊 (アメリカ軍)]]が嵐に翻弄され、駆逐艦3隻が転覆するなど大損害を受けている{{Sfn|南海の死闘|1994|p=172}}。}}。
12月18日に高雄に寄港し、次いで12月21日に[[基隆市|基隆]]に寄港する{{Sfn|宇那木||pp=26-27}}{{Sfn|南海の死闘|1994|p=174}}。同日夜、「竹」は同地からの「辰春丸」(辰馬汽船、6,344トン)他2隻の輸送船団(タモ船団)を護衛して基隆を出港した{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=192b-195}}{{Sfn|宇那木||p=29}}。[[中国大陸]]沿岸部や[[朝鮮半島]]南岸部の島々の間を縫って北上し、[[1945年]](昭和20年)1月1日に[[門司港]]外に到着した{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=214}}。

翌1月2日、「竹」は[[呉海軍工廠]]に移動する{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=214}}。当初の予定では1月末から2月初頭<ref>[[#S1912三一戦日誌(1)]], pp.38-39</ref>、次いで2月16日に修理完了となって10日程度で出撃準備が整う事になっていたが<ref>[[#S1912三一戦日誌(2)]], p.19</ref>、予定は延びて3月15日まで修理を行った{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=195-197|ps=はかない望み}}{{Sfn|田村|2003|p=134}}{{efn|ただし、『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 6-9、53-56頁 では3月15日の時点で修理は終わらず、4月28日まで継続されている書き方となっており、『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 65頁 にも「修理ヲ続行中」とある。}}。

「竹」が修理中の1月中旬、第三十一戦隊司令部(司令官[[鶴岡信道]]少将)はマニラから台湾の高雄に移転していた{{Sfn|戦史叢書93|1973|pp=128-129|ps=水上部隊}}。
2月5日付で第五艦隊が解隊されて[[第十方面艦隊]]が新編され{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=539-542|ps=西部方面部隊、第十方面艦隊の新設}}、第一輸送戦隊と第三十一戦隊は連合艦隊付属となった{{Sfn|戦史叢書93|1973|pp=128-129|ps=水上部隊}}{{Sfn|戦史叢書93|1976|pp=178-179|ps=第五艦隊の解隊}}。第43駆逐隊司令も菅間良吉大佐から[[吉田正義]]大佐<ref name="jirei1693">{{アジア歴史資料センター|C13072144100|昭和20年1月15日(発令1月9日付)海軍辞令公報(甲)第1693号 p.14}}</ref>を経て[[作間英邇]]大佐に交代していた<ref name="jirei1741">{{アジア歴史資料センター|C13072103700|昭和20年3月9日(発令3月1日付)海軍辞令公報(甲)第1741号 p.32}}</ref>。第三十一戦隊司令部も内地にもどった。
3月15日、第三十一戦隊は[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]に編入された{{Sfn|戦史叢書93|1976|pp=179a-180|ps=第三十一戦隊の第二艦隊編入}}。その間、「竹」は2月28日から3月18日まで臨時に第三十一戦隊の旗艦を務めた<ref>[[#S1912三一戦日誌(2)]], pp.23,29,41,44</ref>。これ以降、第三十一戦隊旗艦は駆逐艦「[[花月 (駆逐艦)|花月]]」となった{{Sfn|戦史叢書93|1976|p=180}}。
3月19日の[[呉軍港空襲]]で、「竹」は10名余の負傷者を出した{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=184-186|ps=「呉」空襲「竹」修理 完成後の初任務}}。4月16日から26日にかけての修理工事では、[[三式探信儀]]などが装備された<ref>[[#S1906十一水戦日誌(7)]], pp.17-18</ref>。

4月20日、第二艦隊と第二水雷戦隊が解隊され、第三十一戦隊は連合艦隊付属にもどった{{Sfn|戦史叢書93|1976|pp=283-284|ps=第二艦隊、第二水雷戦隊の解隊}}。
4月29日から「[[楓 (松型駆逐艦)|楓]]」とともに回天との訓練に参加した後{{Sfn|宇那木||p=35}}<ref>[[#S1912三一戦日誌(2)]], p.84</ref>、「竹」は後甲板に[[回天]]の発射台を設置する工事を行った{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=187-189|ps=文字どおりの「回天」作戦計画}}{{Sfn|田村|2003|p=134}}{{efn|工事の期間については5月から6月25日までの間と推定されている{{Sfn|田村|2003|p=136}}。}}。5月上旬、[[B-29 (航空機)|B-29]]の水平爆撃を受ける{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=192-193|ps=B29恐怖の水平爆撃}}。
5月20日、連合艦隊は第三十一戦隊と軽巡洋艦「[[北上 (軽巡洋艦)|北上]]」(回天母艦)を基幹として[[海上挺進部隊]]を新編、第43駆逐隊も同部隊に所属した{{Sfn|戦史叢書93|1976|pp=396a-397|ps=海上挺進隊の編成}}。戦況悪化によって温存策が取られる事となり、「竹」は第43駆逐隊各艦([[榧 (松型駆逐艦)|榧]]、[[槇 (松型駆逐艦)|槇]])等とともに[[屋代島]]日見海岸に偽装係留し、最後の出撃の時まで待機することとなった{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|pp=332-333}}{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=201-202|ps=創意工夫の潜伏}}。屋代島柳井側には僚艦([[花月 (駆逐艦)|花月]]、桐、蔦)も艤装繋留されていた{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|pp=332-333}}。樹木と網で偽装した3隻(竹、槇、榧)はついに攻撃される事なく{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|pp=332-333}}{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=194-195|ps=成功した工夫と研究の偽装}}、8月15日の終戦時には航行可能な状態で残存した{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=206a-208|ps=止めどなき涙}}。「竹」は僚艦とともに呉に回航されてアメリカ海軍に接収された後{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=206b-208}}{{Sfn|宇那木||p=40}}、10月25日に除籍された<ref name="ハンディ18写真52" />{{efn|本艦竣工時より竹水雷長だった志賀博(旧姓保坂)大尉は<ref name="jirei1518" />、敷設艇「[[巨済 (敷設艇)|巨済]]」艦長に転じた{{Sfn|最後のネービーブルー|1989|p=16}}。}}。

=== 戦後 ===
戦後の「竹」は1945年(昭和20年)12月1日、横須賀地方復員局所管の[[復員輸送艦|特別輸送艦]]に定められ<ref>昭和20年12月1日付 第二復員省 内令第6号。</ref>、行動可能な他の艦船と同様復員輸送に従事し、第1回から第4回の輸送では[[ポンペイ島]](ポナペ島)- [[浦賀]]間を二度往復し{{Sfn|宇那木||p=42}}{{efn|第一回:10月25日に呉出発、グアムで燃料補給し、11月6日ポナペ島着、11月8日発、グアム経由、11月16日浦賀着{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=214-216|ps=ポナペ島への復員輸送}}。第二回:12月4日浦賀発、グアム経由、12月12日着(浦賀着日時不明){{Sfn|南海の死闘|1994|p=216|ps=第二次ポナペ島復員輸送}}。}}、次いで[[パラオ]] - 浦賀間を一往復{{Sfn|宇那木||p=42}}、[[サイパン島]]から同島在住の[[沖縄県]]民を[[沖縄本島]]まで輸送した{{Sfn|宇那木||pp=42-43}}。第5回輸送からは[[上海市|上海]]および[[葫芦島市|葫芦島]]と日本の間を往復し、中国大陸および[[満州国|旧満州国]]方面からの復員輸送に従事した{{Sfn|宇那木||p=43}}。葫芦島からの輸送の際、艦内に[[コレラ]]患者が出て病死する引揚者が出たため、[[検疫|防疫]]のため1ヵ月間隔離された事もあった{{Sfn|宇那木||pp=44-45}}。1946年に復員輸送を終え同年7月26日に特別保管艦に指定<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070537600|昭和21年10月4日付 復員庁第二復員局公報, p. 30}}</ref> され、横須賀地方復員局特別保管艦艇第三保管群に属して横須賀に繋留<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070537400|昭和21年8月23日付 復員庁第二復員局公報 第30号}}, pp. 33-37</ref> された。[[1947年]](昭和22年)7月16日には特別輸送艦の定めを解かれ<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070538600|昭和22年7月16日付 復員庁第二復員局公報 第126号}}, p. 11</ref>、[[イギリス]]に賠償艦として引き渡され解体された。


==歴代艦長==
==歴代艦長==
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#田中弘國 少佐:1944年4月15日<ref name="jirei1426" /> - 1944年6月16日<ref name="jirei1518" />
#田中弘國 少佐:1944年4月15日<ref name="jirei1426" /> - 1944年6月16日<ref name="jirei1518" />
;駆逐艦長/艦長
;駆逐艦長/艦長
#田中弘國 少佐:1944年6月16日<ref name="jirei1518" /> - 1944年11月1日<ref name="jirei1636" />(マニラ海軍病院入院)<ref name="志賀兵科154" />
#田中弘國 少佐:1944年6月16日<ref name="jirei1518" /> - 1944年11月1日<ref name="jirei1636" />(マニラ海軍病院入院)
#(臨時)飯村忠彦 少佐:1944年11月3日(着任4日)<ref name="松田軽巡66" /> - 1944年11月14日<ref name="志賀兵科157" />
#(臨時)飯村忠彦 少佐:1944年11月3日(着任4日){{Sfn|軽巡海戦史|2017|p=66}} - 1944年11月14日(11月15日付で鬼怒航海長免職)<ref name="jirei1646" />
#宇那木勁 少佐/第二復員官:1944年11月1日任命<ref name="jirei1636" />、着任11月14日<ref name="南海死闘111" /> - 艦長 1945年12月20日<ref>昭和20年12月20日付 第二復員省 官房人第19号による職名の自動変更。</ref> - 退任年月日不明<ref name="jirei-fumei">現在公開中の第二復員省辞令公報および復員庁第二復員局辞令公報では、宇那木第二復員官の退任発令と伊東復員事務官の就任発令は確認できない。なお、宇那木復員事務官は1946年9月27日付で退官している。</ref>
#宇那木勁 少佐/第二復員官:1944年11月1日任命<ref name="jirei1636" /> - 艦長 1945年12月20日{{Efn|昭和20年12月20日付 第二復員省 官房人第19号による職名の自動変更。}} - 退任年月日不明{{Efn|name="jirei-fumei"|現在公開中の第二復員省辞令公報および復員庁第二復員局辞令公報では、宇那木第二復員官の退任発令と伊東復員事務官の就任発令は確認できない。なお、宇那木復員事務官は1946年9月27日付で退官している。}}
#伊東謹之助<ref>昭和21年11月12日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第86号「正誤」。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072159800 で閲覧可能。</ref> 復員事務官:就任年月日不明<ref name="jirei-fumei" /> - 1946年10月30日<ref name="jirei0083">昭和21年11月6日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第83号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072159800 で閲覧可能。</ref>
#伊東謹之助<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072159800|昭和21年11月12日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第86号「正誤」}}p. 16</ref> 復員事務官:就任年月日不明{{Efn|name="jirei-fumei"}} - 1946年10月30日<ref name="jirei0083">{{アジア歴史資料センター|C13072159800|昭和21年11月6日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第83号}}pp. 4-3</ref>
#市來崎秀丸 復員事務官:1946年10月30日<ref name="jirei0083" /> - 1947年2月20日<ref name="jirei0141">昭和22年3月3日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第141号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072160300 で閲覧可能。</ref>
#市來崎秀丸 復員事務官:1946年10月30日<ref name="jirei0083" /> - 1947年2月20日<ref name="jirei0141">{{アジア歴史資料センター|C13072160300|昭和22年3月3日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第141号}}pp. 1-2</ref>
#南部伸清 復員事務官:1947年2月20日<ref name="jirei0141" /> - 1947年3月10日<ref name="jirei0147">昭和22年3月18日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第147。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072160300 で閲覧可能。</ref>
#南部伸清 復員事務官:1947年2月20日<ref name="jirei0141" /> - 1947年3月10日<ref name="jirei0147">{{アジア歴史資料センター|C13072160300|昭和22年3月18日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第141}}昭和22年3月18日付 復員庁第二復員局辞令公報 第147号pp. 15-16</ref>
#福島榮吉 復員事務官:1947年3月10日<ref name="jirei0147" /> - 1947年7月16日<ref>昭和21年7月1日付 復員庁 復二第67号の定めによる自動解職。</ref>
#福島榮吉 復員事務官:1947年3月10日<ref name="jirei0147" /> - 1947年7月16日{{Efn|昭和21年7月1日付 復員庁 復二第67号の定めによる自動解職。}}


==脚注==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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*<!-- オイデ1997 -->{{Cite book|和書 |author=生出寿 |authorlink=生出寿 |title=戦場の将器 木村昌福 |publisher=[[光人社]] |isbn=4-7698-0835-6 |ref={{SfnRef|戦場の将器|1997}} |date=1997-12}}
* 雨倉孝之「松型駆逐艦長の奮戦記」『<span style="font-size:90%;">歴史群像 太平洋戦史シリーズ43</span> 松型駆逐艦』学習研究社、2003年、ISBN 4-05-603251-3
* {{Cite book|和書|author=[[生出寿]]|year=1997|month=12|title={{small|連合艦隊・名指揮官生涯}} 場の将器 木村昌福|publisher=光人社|isbn=4-7698-0835-6|ref=戦場の将器}}
*<!-- キシミ2010 -->{{Cite book|和書 |author=岸見勇美 |date=2010-12 |title=地獄レイテ輸送作 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 666 |isbn=978-4-7698-2666-8 |ref={{SfnRef|岸見勇美|2010}}}}
* {{Cite book|和書 |author=木俣滋郎 |title=日本水雷戦史 |publisher=図書出版社 |ref={{SfnRef|日本水雷戦史|1986}} |isbn=978-4809901089 |date=1986-03 |author-link=木俣滋郎}}
* {{Cite book|和書|author=[[岸見勇美]]|year=2010|month=12|title=地獄のレイテ輸送作戦 {{small|敵制空権下の多号作戦の全貌}}|publisher=[[光人社]]|isbn=978-4-7698-2666-8|ref=地獄のレイテ輸送作戦}}
* 木俣滋郎日本水雷戦史図書出版社、1986年
*<!-- キマタ1989 -->{{Cite book|和書 |author=木俣滋郎 |year=1989 |month=03 |title=日本軽巡戦史 |publisher=図書出版社 |ref={{SfnRef|日本軽巡戦史|1989}} |isbn=978-4809901331}}
* 木俣滋郎『敵潜水艦攻撃[[朝日ソノラマ]]1989年、ISBN 4-257-17218-5
* {{Cite book|和書 |title=敵潜水艦攻撃 |year=1989 |publisher=[[朝日ソノラマ]] |ref={{SfnRef|敵潜水艦攻撃|1989}} |author=木俣滋郎 |isbn=4-257-17218-5}}
* {{Cite book|和書|author=[[木俣滋郎]]|authorlink=|year=2013|month=8|chapter=15 アメリカ駆逐艦「クーパー」|title=連合軍艦艇撃沈す {{small|日本海軍が沈めた船21隻の航跡}}|isbn=978-4-7698-2794-8|publisher=光人社NF文庫|ref=連合軍艇撃沈す}}
*<!-- キマタ1994 -->{{Cite book|和書 |author=木俣滋郎 |date=1994-09 |title=日本海戦史 |publisher=図書出版社 |isbn=4-8099-0192-0 |ref={{SfnRef|日本海防戦史|1994}}}}
*<!-- キマタ2006 -->{{Cite book|和書 |author=木俣滋郎 |authorlink= |date=2006-07 |title=駆逐艦入門 |chapter=第8章 護送駆逐艦の登場 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 217 |isbn=4-7698-2217-0 |ref={{SfnRef|駆逐艦入門|2006}}}}
*<!-- キマタ2013-06 -->{{Cite book|和書 |author=木俣滋郎 |date=2013-06 |title=撃沈戦記 |chapter=7.陸軍潜水艦二号 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 786 |isbn=978-4-7698-2786-3 |ref={{SfnRef|撃沈戦記|2013}}}}
*<!-- キマタ2013-08 -->{{Cite book|和書 |author=木俣滋郎 |authorlink=木俣滋郎 |date=2013-08 |chapter=15 アメリカ駆逐艦「クーパー」 |title=連合軍艦艇撃沈す |isbn=978-4-7698-2794-8 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 794 |ref=連合軍艦艇撃沈す}}
* 駒宮真七郎『続・船舶砲兵 <span style="font-size:90%;">救いなき戦時輸送船の悲録</span>』出版協同社、1981年
* 駒宮真七郎『続・船舶砲兵 <span style="font-size:90%;">救いなき戦時輸送船の悲録</span>』出版協同社、1981年
* 駒宮真七郎『戦時輸送船団史出版協同社1987年、ISBN 4-87970-047-9
* {{Cite book|和書 |title=戦時輸送船団史 |year=1987 |publisher=出版協同社 |ref={{SfnRef|駒宮|1987}} |author=駒宮真七郎 |isbn=4-87970-047-9}}
* {{Cite book|和書|author=[[佐藤和正]]|year=1995|month=12|title=艦長たちの太平洋戦争 続編 {{small|17の艦長が語った勝者の条件}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2106-9|ref=佐藤 艦長続編(文庫)}}
*<!-- サトウカズマサ1995 -->{{Cite book|和書 |author=佐藤和正 |authorlink=佐藤和正 |title=艦長たちの太平洋戦争 続|publisher=光|series=光人社NF文庫 |isbn=4-7698-2106-9 |ref={{SfnRef|佐藤艦長続篇|1995}} |date=1995-12}}
**「幸運と不運」<駆逐艦「竹」艦長・宇那木勁少佐の証言>(太平洋戦争時、磯波水雷長、海軍兵学校教官、椿艤装員長、竹艦長等)
**「幸運と不運」<駆逐艦「竹」艦長・宇那木勁少佐の証言
**「縁の下の役割」<駆逐艦「春風」艦長・森本義久中佐の証言>
**「縁の下の役割」<駆逐艦「春風」艦長・森本義久中佐の証言><!--<br />森本は、[[神風 (2代神風型駆逐艦)|神風]]航海長、[[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]]航海長、[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]航海長、[[白雲 (吹雪型駆逐艦)|白雲]]水雷長、[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]水雷長、[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]]水雷長、[[春風 (2代神風型駆逐艦)|春風]]艦長、[[榧 (松型駆逐艦)|榧]]艦長等を歴任。 -->
* 珊瑚会編『あ復員船 引揚げの哀歓と掃海の秘録』騒人社、1991年
* 珊瑚会編『あ復員船 引揚げの哀歓と掃海の秘録』騒人社、1991年。ISBN 978-4882900115

*<!-- シガ1985 -->{{Cite book|和書|author={{small|駆逐艦「天霧」先任将校}}[[志賀博]]|year=1985|month=3|title=海軍兵科将校|publisher=光人社|isbn=4-7698-0264-1|ref=志賀1985}}
* {{Cite book|和書 |author=志賀博 |title=海軍兵科将校 |publisher=光人社 |isbn=4-7698-0264-1 |ref={{SfnRef|海軍兵科将校|1985}}|chapter=雑木林の真価|date=1985-03}}
*<!-- シガ1989 -->{{Cite book|和書|author=[[志賀博]]|chapter=|title=最後のネイビーブルー {{small|回想の復員輸送艦秘話}}|publisher=光人社|year=1989|month=9|origyear=|ISBN=4-7698-0472-5|ref=最後のネイビーブルー}} 志賀(旧姓保坂)は「[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]」水雷長を経て、「竹」竣工から除籍まで竹水雷長。
*<!-- シガ2016 -->{{Cite book|和書|author=志賀博ほか|year=2016|month=4|title=駆逐艦物語 {{small|車引きを自称した駆逐艦乗りたち心意気}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1615-7|ref=駆逐艦物語}}
* {{Cite book|和書 |author=志賀博 |title=最後ネービーブルー |publisher=光人社 |date=1989-09 |ISBN=4-7698-0472-5 |ref={{SfnRef|最後のネービーブルー|1989}}}}
* {{Cite book|和書 |author=志賀博 ほか |title=駆逐艦物語 |publisher=潮書房光人社 |isbn=978-4-7698-1615-7 |ref={{SfnRef|駆逐艦物語|2016}} |date=2016-04}}
**{{small|元三十五突撃隊・海軍二等兵曹}}正岡勝直『されど"雑木林艦隊"恥ずることなかれ {{small|雑木林といわれた松型十八隻、橘型十四隻、樅型三隻、若竹型六隻の闘魂}}』
**正岡勝直「されど "雑木林艦隊" 恥ずることなかれ」
*<!-- シガキ2005 -->{{Cite book|和書|author=[[志柿謙吉]]|authorlink=|year=2005|month=7|chapter=|title={{small|海軍参謀のフィリピン戦記}} 回想レイテ作戦|isbn=4-7698-2462-9|publisher=光人社NF文庫|ref=回想レイテ作戦}}
*<!-- シガキ2005 -->{{Cite book|和書 |author1=志柿謙吉 |title=回想レイテ作戦 |isbn=4-7698-2462-9 |publisher=光人社 |ref={{SfnRef|回想レイテ作戦|2005}} |date=2005-07 |series=光人社NF文庫 462}}
*<!-- シゲモト2014 -->{{Cite book|和書|author=重本俊一ほか|year=2014|month=10|title=陽炎型駆逐艦 {{small|水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1577-8|ref=重本2014}}
*<!-- シゲモト2014 -->{{Cite book|和書 |author=重本俊一 ほか|date=2014-10|title=陽炎型駆逐艦|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1577-8|ref={{SfnRef|陽炎型(光人社)|2014}}}}
**{{small|戦史研究家}}伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 {{small|太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後}}』
**伊達久「日本海軍駆逐艦戦歴一覧」
* {{Cite book|和書|author=須藤幸助|year=1988|month=1|title=駆逐艦五月雨|publisher=朝日ソノラマ|isbn=4-257-17097-2|ref=須藤.五月雨}}
*<!-- スゲノアキラ2014 -->{{Cite book|和書 |author=菅野昭 |title=最後の戦没艦・第13号海防艦戦記 |publisher=ブイツーソリューション |date=2014-02 |ISBN=978-4-86476-177-2 |ref={{SfnRef|第13号海防艦戦記|2014}} |editor=嶋田潤}}
* {{Cite book|和書|author=須藤幸助|coauthors=|year=2010|month=1|title=駆逐艦「五月雨」出撃す {{small|ソロモン海の火柱}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2630-9|ref=五月雨出撃す}}
*<!-- スドウ1988 -->{{Cite book|和書|author=須藤幸助|year=1988|month=1|title=駆逐艦五月雨|publisher=朝日ソノラマ|isbn=4-257-17097-2|ref=須藤.五月雨}}
* 田村俊夫「「竹」の兵装増備状況」『<span style="font-size:90%;">歴史群像 太平洋戦史シリーズ43</span> 松型駆逐艦』学習研究社
*<!-- スドウ2010 -->{{Cite book|和書 |author=須藤幸助|date=2010-01|title=駆逐艦「五月雨」出撃す|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2630-9|ref={{SfnRef|五月雨出撃す|2010}}}}
* 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
* 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
* C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/[[実松譲]]、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2
* {{Cite book|和書 |title=ニミッツの太平洋海戦史 |year=1992 |publisher=[[恒文社]] |ref={{SfnRef|ニミッツポッター|1992}} |author=C. W. ニミッツ |isbn=4-7704-0757-2 |translator=実松譲、冨永謙吾 |author2=E. B. ポッター}}
*<!-- ヒュウガ1977 -->{{Cite book|和書 |author=日向会事務局 |year=1977 |month=7 |title=軍艦日向栄光の追憶 |publisher=日向会事務局 |isbn= |ref={{SfnRef|日向、追憶|1977}}}}
*<!--マツダ2017-->{{Cite book|和書|author=松田源吾ほか|title=軽巡海戦史 {{small|駆逐艦を率いて突撃した戦隊旗艦の奮戦と最後}}|editor=|publisher=潮書房光人社|date=2017-3|isbn=978-4-7698-1639-3|ref=松田、軽巡}}
*<!--フクイ1993-->{{Cite book|和書 |title=日本駆逐艦物語 |date=1993-01 |publisher=光人社 |ref={{SfnRef|日本駆逐艦物語|1993}} |author=福井静夫 |author-link=福井静夫 |editor=阿部安雄・戸高一成 |series=福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 5 |isbn=4-7698-0611-6}}
**{{small|当時「鬼怒」航海長・海軍大尉}}飯村忠彦『十六戦隊「鬼怒」オルモック輸送に潰ゆ {{small|レイテ海戦の舞台裏で兵器人員輸送に苦闘した航海長の血涙の手記}}』
*<!--ホウエイチョウ17 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 沖縄方面海軍作戦|volume=第17巻|year=1968|month=7|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書17|1968}}}}
* <!--マツナガ1986-->{{Cite book|和書|author=[[松永市郎]]|year=1986|month=10|title=三号輸送艦帰投せず {{small|『先任将校』後日物語}}|chapter=輸送艦かく戦えり|publisher=光人社|isbn=4-7698-0325-7|ref=松永、三号}}
*<!--ホウエイチョウ37 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 海軍捷号作戦<1> {{small|臺灣沖航空戦まで}}|volume=第37巻|year=1970|month=8|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書37|1970}}}}
*<!--マル1997-->{{Cite book|和書|editor=雑誌『[[丸 (雑誌)|丸]]』編集部/編|year=1997|month=11|title={{small|ハンディ判日本海軍艦艇写真集18}} 駆逐艦秋月型・松型・橘型・睦月型・神風型・峯風型|chapter=|publisher=光人社|isbn=4-7698-0819-4|ref=ハンディ判艦艇写真集18}}
*<!--ホウエイチョウ41 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 捷号陸軍作戦(1) {{small|レイテ決戦}}|volume=第41巻|year=1970|month=12|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書41|1970}}}}
*{{Cite book|和書|author=[[茂呂計造]]|year=1994|month=9|title=南海の死闘 {{small|少年水兵の海戦記}}|publisher=近代文藝社|isbn=4-7733-3262-X|ref=南海の死闘}} 「竹」水雷科連管手。
*<!--ホウエイチョウ45 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<6> {{small|―第三段作戦後期―}}|volume=第45巻|year=1971|month=4|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書45|1971}}}}
*{{Cite book|和書|author=山本平弥ほか|coauthors=|year=2015||month=03|title=秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型> {{small|戦時に竣工した最新鋭駆逐艦の実力と全貌}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1584-6|ref=秋月型(潮2015)}}
*<!--ボウエイチョウ54 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南西方面海軍作戦 {{small|第二段作戦以降}}|volume=第54巻|year=1972|month=3|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書54|1972}}}}
**{{small|戦史研究家}}伊達久『夕雲型駆逐艦十九隻&島風の太平洋戦争』
*<!--ホウエイチョウ56 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 海軍捷号作戦<2> {{small|フィリピン沖海戦}}|volume=第56巻|year=1972|month=6|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書56|1972}}}}
**{{small|当時艦政本部部員・海軍技術中佐}}遠山光一『マスプロ防空駆逐艦"松型"の誕生と背景 {{small|駆逐艦発達史の中に位置づけた丁型=松型十八隻と橘型十四隻の新機軸}}』
*<!--ホウエイチョウ88 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 海軍戦備<2> {{small|― 開戦以後 ―}}|volume=第88巻|year=1975|month=10|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書88|1975}}}}
**{{small|戦史研究家}}伊達久『丁型駆逐艦船団護衛ダイアリィ {{small|松型十八隻と橘型十四隻の太平洋戦争}}』
*<!--ホウエイチョウ93 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<7> {{small|―戦争最終期―}}|volume=第93巻|year=1976|month=3|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書93|1976}}}}
**{{small|元「柳」艦長・海軍少佐}}大熊安之助『松型「柳」艦長三たび痛恨の海に没したけれど {{small|乗艦三隻の最期をみとった駆逐艦長が綴る海の勇者たちへの鎮魂歌}}』<!--<br />太平洋戦争時、軽巡[[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]]水雷長、重巡[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]水雷長、[[芙蓉 (駆逐艦)|芙蓉]]駆逐艦長、海軍兵学校教官、[[桑 (松型駆逐艦)|桑]]艤装員長、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]駆逐艦長、[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]駆逐艦長、[[柳 (松型駆逐艦)|柳]]駆逐艦長。-->
*<!--ホウエイチョウ98 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 潜水艦史|volume=第98巻|year=1979|month=6|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書98|1979}}}}
**{{small|当時「桑」一番高角砲射手・海軍上等兵曹}}山本貢『小さな勇者「桑」オルモックに死すとも {{small|瑞鳳直衛の比島沖海戦をへて七次多号作戦に果敢な砲戦を演じた勇者の最後}}』
*<!--マツダ2017-->{{Cite book|和書 |author=松田源吾 ほか|title=軽巡海戦史|editor=|publisher=潮書房光人社|date=2017-3|isbn=978-4-7698-1639-3|ref={{SfnRef|軽巡海戦史|2017}}}}
* 渡辺洋二『夜間戦闘機「月光」』[[朝日ソノラマ]]新装版戦記文庫、1993年、ISBN 4-257-17278-9
**飯村忠彦「十六戦隊『鬼怒』オルモック輸送に潰ゆ」
*<!--マツナガ1986-->{{Cite book|和書 |author=松永市郎 |authorlink=松永市郎 |title=三号輸送艦帰投せず |chapter=輸送艦かく戦えり |publisher=光人社 |isbn=4-7698-0325-7 |ref={{SfnRef|三号輸送艦帰投せず|1986}} |date=1986-10}}
*<!--マル1997-->{{Cite book|和書 |editor=雑誌『丸』編集部 |editor-link=丸 (雑誌) |date=1997-11 |title=駆逐艦秋月型・松型・橘型・睦月型・神風型・峯風型 |chapter= |publisher=光人社 |isbn=4-7698-0819-4 |ref=ハンディ判艦艇写真集18 |series=ハンディ判日本海軍艦艇写真集 18}}
*<!-- マル2012 -->{{Cite book|和書 |title=海防艦「占守」電探室異状なし |publisher=潮書房光人社 |series=光人社NF文庫 756 |isbn=978-4-7698-2756-6 |ref={{SfnRef|占守電探室異状なし|2012}} |date=2012-10 |editor=「丸」編集部}}
**北村栄作「"学徒兵かく戦へり" 電探員が見た船団護衛始末記」(15-72頁)
*<!-- モロケイゾウ1994 -->{{Cite book|和書 |author=茂呂計造 |date=1994-09 |title=南海の死闘 |publisher=[[近代文藝社]] |isbn=4-7733-3262-X |ref={{SfnRef|南海の死闘|1994}}}}
*<!-- ヤマモトヘイヤ2015 -->{{Cite book|和書 |author=山本平弥 ほか |title=秋月型駆逐艦(付・夕雲型・島風・丁型) |publisher=潮書房光人社 |isbn=978-4-7698-1584-6 |ref={{SfnRef|秋月型(潮書房)|2015}} |date=2015-03}}
**伊達久「夕雲型駆逐艦十九隻&島風の太平洋戦争」
**伊達久「丁型駆逐艦船団護衛ダイアリィ」
**遠山光一「マスプロ防空駆逐艦 "松型" の誕生と背景」
**大熊安之助「松型『柳』艦長三たび痛恨の海に没したけれど」
**山本貢「小さな勇者『桑』オルモックに死すとも」
* {{Cite book|和書 |title=松型駆逐艦 |year=2003 |publisher=[[学習研究社]] |series=歴史群像太平洋戦史シリーズ43 |isbn=4-05-603251-3}}
** {{Cite journal|和書|author=雨倉孝之|title=松型駆逐艦長の奮戦記|journal=|ref={{SfnRef|雨倉|2003}}}}
** {{Cite journal|和書|author=田村俊夫|title=『竹』の兵装増備状況|journal=<!--歴史群像 太平洋戦史シリーズ43 松型駆逐艦-->|ref={{SfnRef|田村|2003}}}}
* {{Cite book|和書 |title=夜間戦闘機「月光」 |year=1993 |publisher=朝日ソノラマ |ref={{SfnRef|渡辺|1993}} |author=渡辺洋二 |series=新装版戦記文庫 |isbn=4-257-17278-9}}

* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)]
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)]
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070124100|title=昭和191月6月達/1月(2)|ref=達昭和191月(2)}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C08051772000}} |title=昭和16年〜昭和20 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書 |ref=戦隊行動調書}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070194200|title=昭和19年1月 至昭和197月内令/昭和19年1月(5)|ref=内令昭和19年1月(5)}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C08030369900}} |title=昭和1812月1日〜昭和2046日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(7) |ref=S1804呉防戦(7)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070195500|title=昭和19年1月至昭和197月内令/昭和19年7月|ref=内令昭和19年7月}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C08030078900}} |title=昭和1812月1日〜昭和20531日 呉練習戦隊戦時日誌(2) |ref=S1812呉練習戦隊(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070496600|title=昭和19年8月〜9 秘海軍公報/9月(1)|ref=昭和19年8月〜9月秘海軍公報9月(1)}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C12070124100}} |title=昭和19年1月〜6/1月(2) |ref=昭和19年1月(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070497300|title=昭和19年9月〜12秘海軍公報 号外/10月(1)|ref=内令(秘)昭和19年10月(1)}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C12070194200}} |title=昭和19年1至昭和19年7月内令/昭和19年1月(5) |ref=内令昭和19年1月(5)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070497400|title=昭和19年9〜12 秘海軍公報 号外/10(2)|ref=内令(秘)昭和19年10(2)}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C12070195500}} |title=昭和19年1至昭和19年7内令/昭和19年7 |ref=内令昭和19年7月}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070497900|title=昭和19年9月〜12月 秘海軍公報号外/11月(3)|ref=秘海軍公報昭和19年11月(3)}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C08030329600}} |title=昭和19年41日昭和20年228日 呉鎮守府戦時日誌(4) |ref=S1904呉鎮日誌(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070498000|title=昭和19年9〜12月 秘海軍公報 号外/11月(4)|ref=内令(秘)昭和19年11月(4)}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C08030086800}} |title=昭和19年41日~昭和19年831日 第1水雷戦隊戦時日誌(5) |ref=ろ号作戦}}
***「ろ号作戦輸送部隊任務報告 門司-中城湾宮古島南大東島間作戦輸送 自昭和十九年七月十四日 至昭和十九年七月二十日」
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***「昭和十九年九月十日 戦闘詳報 (坐礁被雷報告)」
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** 駆逐艦五月雨『昭和十九年九月十日 戦闘詳報 (坐礁被雷報告)』『戦闘詳報』(昭和19年6月1日〜昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030148600
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** 宇那木勁「T型駆逐艦(竹)戦誌」(昭和19年11月〜終戦時 T型駆逐艦(竹)戦誌) [[アジア歴史資料センター]] レファレンスコード:C08030751400
** 野村留吉『第四航空戦隊 戦時日誌抜粋』(昭和19年5月1日〜昭和2031 4航空戦隊戦時日誌抜粋 (旗艦日向行動等)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030742100
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** 第十一水雷戦隊司令部『自昭十九年七月一日至昭和十九年七月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日〜昭和20630 11水雷戦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127500
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** 第十一水雷戦隊司令部『ろ号作戦輸送部隊任務報告 門司-中城湾宮古島南大東島間作戦輸送 自昭和十九年七月十四日 至昭和十九年七月二十日』(昭和19年4月1日〜昭和19年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030086800
** 第十一水雷戦隊司令部『自昭十九年八月一日至昭和十九年八月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日〜昭和20630 11水雷戦隊戦時日誌(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127600
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** 一海上護衛隊司令部『自昭和十九年十一日至昭和十九年十月十一日 一海上護衛隊時日誌』(昭和19年8月1日〜昭和19年11月30日 第1海上護衛隊戦時日誌(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030141600
***「多号作戦戦闘詳報二号(自昭和十九年十一月八日至昭和十九年十月十一日第四次輸送作)」
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** 第一水雷戦隊司令部『多号作戦戦闘詳報第二号(自昭和十九年十一月八日至昭和十九年十一月十一日第四次輸送作戦)』(昭和19年9月1日〜昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030087600
** 第十一水雷戦隊司令部『自昭二十年四月一日至昭和二十年四月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年61日〜昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(7)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030128000
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** 第三十一戦隊司令部『自昭十九年十二月二十二日至昭和二十年一月三十一日 第三十一戦隊戦時日誌』(昭和19年12月22日〜昭和204月30日 第31戦隊戦時日誌(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030074800
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** 第三十一戦隊司令部『自昭和二十年二月一日至昭和二十年三月三十一日 第三十一戦隊戦時日誌』『自昭和二十年四月一日至昭和二十年四月三十日 第三十一戦隊戦時日誌』(昭和19年12月22日〜昭和20年4月30日 第31戦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030074900
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2024年10月1日 (火) 03:56時点における最新版

竹
基本情報
建造所 横須賀海軍工廠
運用者  大日本帝国海軍
艦種 駆逐艦(一等駆逐艦)
級名 松型
艦歴
発注 1942年戦時建造補充(改⑤)追加計画
起工 1943年10月15日
進水 1944年3月28日
竣工 1944年6月16日
除籍 1945年10月25日
その後 1945年12月1日、特別輸送艦指定
その後イギリスに賠償艦として引き渡し解体
要目
基準排水量 1,262 トン
公試排水量 1,530 トン
全長 100.00 m
最大幅 9.35 m
吃水 3.30 m
ボイラー ロ号艦本式缶×2基
主機 艦本式タービン×2基
出力 19,000 馬力
推進器 スクリュープロペラ×2軸
速力 27.8 ノット
燃料 重油:370t
航続距離 3,500海里/18ノット
乗員 211名/248名[1](後日、323名)[2]
兵装
レーダー 二号二型(対水上用)
ソナー
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(たけ) は、大日本帝国海軍駆逐艦[3]

概要

[編集]

日本海軍大東亜戦争中に横須賀海軍工廠で建造した駆逐艦[4]。戦時量産型駆逐艦である松型駆逐艦(丁型駆逐艦)の2番艦であり[5]、日本海軍の艦名としては樅型駆逐艦の「」に続いて2代目である[6]。松型は戦時量産型のため「雑木林」と渾名され[7][8]、速力や火力などの諸性能は限定されていたが、生存性(被害極限性)は従来の日本海軍駆逐艦に比べて格段に向上していた[9]

1944年(昭和19年)6月16日に竣工後[10]、「竹」は訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属して訓練や南西諸島への輸送任務[11]に従事した[12]。7月15日、新編された第43駆逐隊に所属[13]。8月からは台湾マニラパラオ諸島方面での輸送や船団護衛任務に従事した[4]。8月20日、新編の第三十一戦隊に編入される[14]。同月中旬には、軽巡洋艦「名取」や[注釈 1]や駆逐艦「五月雨」の救難に従事した[注釈 2]

10月下旬より実施されたレイテ島増援輸送作戦(多号作戦)では[20]、第三次/第四次、第五次、第七次作戦に参加した[21]。「竹」は幾度か損傷しながら生還した[22]。特に12月3日オルモック湾における夜戦では、姉妹艦「」と共に米軍大型駆逐艦3隻と交戦し[23]、「竹」は魚雷攻撃で駆逐艦「クーパー」を撃沈した[24](第七次多号作戦)[25]

内地帰投後の「竹」は、瀬戸内海にあって終戦まで生き残る[26]。戦後は復員輸送艦としての任務にあたった[27]

戦歴

[編集]
「竹」の艦型図。上は竣工時(1944年6月)、下は終戦時(1945年8月)の竹。終戦時の単装機銃の配置と回天の架台は推定。

レイテ島の戦いまで

[編集]

仮称艦名第5482号艦として、横須賀海軍工廠で建造される[28]1943年(昭和18年)10月15日、起工[29]1944年(昭和19年)1月25日、「」と命名される[3]。同日付で松型駆逐艦(一等駆逐艦)に類別[30]3月28日、進水[29]。本籍を横須賀鎮守府に定められる[31]。4月15日、日本海軍は田中弘国少佐を[32]、竹艤装員長に任命する[33][注釈 3]。 4月20日、横須賀海軍工廠に竹艤装員事務所を設置し、事務を開始した[38]。5月6日、可兒祥男大尉(当時、戦艦「山城」分隊長)が艤装員として着任[39]。駆逐艦「天霧」沈没後[注釈 4]、5月16日付で横須賀鎮守府付となった「天霧」水雷長志賀博大尉(旧姓保坂)も[41]、5月20日付で艤装員に補職される[42]。当時の松型2隻(松、竹)は横須賀海軍工廠ポンツーンで艤装工事中であり、元「天霧」艦長の吉永源少佐は「」に、元天霧水雷長の志賀は隣の「竹」に着任したという[43]。「松」が出撃したあとは、浮桟橋に松型3番艦「」が係留されることになった[43]

6月16日、「竹」は竣工した[29]。同日付で艤装員事務所を撤去する[44]。田中少佐は制式に「竹」艦長となる[45]。主要初代幹部は、航海長・高井義助中尉、砲術長・可兒祥男大尉、水雷長・志賀博大尉(先任将校)、機関長・桜井達也中尉、主計長・小林義治主計少尉、軍医長・湯川真治軍医少尉など[45][46]

竣工後の「竹」は、訓練部隊の第十一水雷戦隊[47](司令官高間完少将。当時の旗艦は「長良」)に編入される[48]。6月中は横須賀から動かなかった[49]。7月初旬に横須賀から瀬戸内海へ移動し、駆逐艦「冬月」や駆逐艦「清霜」および松型姉妹艦と訓練をおこなう[50]。7月中旬、門司で物資を搭載、南大東島への輸送作戦に参加する[51](詳細後述)。7月15日付で、秋月型駆逐艦2隻(霜月、冬月)により第41駆逐隊が、松型駆逐艦4隻(、松、)により第43駆逐隊(駆逐隊司令菅間良吉中佐)[52] が、それぞれ編制される[13][53]

7月8日、大本営海軍部は大海指第421号により、連合艦隊に対し陸軍兵力の南西諸島方面輸送を命じた[54]。これを「呂号輸送」(ろ号作戦輸送)と呼称する[55]。輸送部隊指揮官は、第十一水雷戦隊司令官であった[56]7月16日、軽巡洋艦「長良」(第十一水雷戦隊旗艦)、重巡洋艦「摩耶」、練習巡洋艦「鹿島[57]、駆逐艦5隻[注釈 5]中津沖を出撃する[59][60]。輸送部隊は、第一輸送隊(長良、鹿島、冬月、清霜、竹)、第二輸送隊(摩耶、朝雲、浦風)[61]、沖縄~大東島輸送の第三輸送隊(冬月、清霜、竹)にわかれていた[62]

7月17日、呂号作戦部隊は沖縄中城湾に到着した[63][64]宮古島に向かった第二輸送隊は内地に帰投せず[62]、そのままマニラ経由でリンガ泊地へ向かった[60]。「冬月」艦長指揮下の第三輸送隊は南大東島への緊急輸送任務を行う[62][65]。 その後、第二輸送隊を除く各艦は予定の輸送任務を終えて7月19日午前1時に中城湾を出港し[62]、7月20日~21日にへ帰投した[66]。 任務を完遂し、呂号作戦輸送部隊は解散した[67]

8月1日、連合艦隊は第五艦隊(第二十一戦隊、第一水雷戦隊)と第十一水雷戦隊等により第二遊撃部隊(指揮官は第五艦隊司令長官志摩清英中将)を新編し、機動部隊に編入した[68]。沖縄方面輸送を終えた「竹」と「清霜」に対し、パラオ方面緊急輸送の任務が与えられる[69]。 8月10日、「清霜」「竹」は柱島泊地を出港し[70]馬公を経由してフィリピンに進出する[71]。8月16日にマニラに到着[72]。8月17日からの「竹」は「清霜」の指揮を受けてパラオ方面への輸送作戦とセブへの引揚者輸送任務に就く[73]。 翌8月18日午前3時頃、パラオ方面輸送作戦従事中の軽巡洋艦「名取」が[74]ミンダナオ島ダバオ北東で[75]、アメリカ潜水艦「ハードヘッド (USS Hardhead, SS-365) 」の雷撃で大破[76]、避退中に沈没した[16]。「竹」を含む5隻(清霜、竹[77]鬼怒時雨浦波)が「名取」救援を命じられて現場にむかった[16]。名取捜索隊は遭難者を発見できず、セブ島に帰投した[17]。 「清霜」はパラオにむかい[71]、「竹」は南西方面艦隊の指揮下で船団護衛任務に従事する[78]

つづいて「竹」は、別艦の救援任務に従事する。パラオ諸島北部のガルワングル環礁で座礁中して行動不能になった駆逐艦「五月雨」の救援を命じられた[注釈 6]。 8月26日夜、ガルワングル環礁に到着した「竹」は「五月雨」より生存者を収容した[81]。「五月雨」艦長・大熊安之助少佐と「竹」艦長・田中少佐は海兵同期(60期)であり、田中の説得により大熊も退艦して「竹」に移乗した[82]

輸送作戦中の8月20日、日本海軍は第三水雷戦隊の残余と松型駆逐艦を基幹として[14]第三十一戦隊(司令官江戸兵太郎少将[83])を新編した[84]。第43駆逐隊も第三十一戦隊に編入される[85]。「竹」は燃料補給と「五月雨」乗組員を降ろすためセブ島に立ち寄り、その後パラオに向った[86]

8月30日からは南西方面艦隊(司令長官三川軍一中将。第三南遣艦隊司令長官兼務)の指揮下に入り、マニラと各地との間で船団護衛に従事した[87][88]。 10月4日、「竹」はミリ行きのマミ11船団を護衛してマニラを出港したが、翌10月5日にミンドロ海峡でアメリカ潜水艦「コッド (USS Cod, SS-224) 」の雷撃により「辰城丸」[89](辰馬汽船、6,886トン)を失った[90]。10月14日、ミリに到着して[91]、マニラに帰投後、10月20日深夜23時40分には高雄行きのマタ30船団の護衛でマニラを出港した[92]。この船団部隊は指揮官が座乗する駆逐艦「春風[93]の名前を取って別名「春風船団」と呼称されていた[94]10月23日夕方[95]、マタ30船団はルソン島ボヘヤドール岬北西沖で元特設水上機母艦君川丸」(川崎汽船、6,863トン)がアメリカ潜水艦「ソーフィッシュ (USS Sawfish, SS-276) 」の雷撃で沈没したのを手始めに、船団加入船12隻のうち9隻が潜水艦の波状攻撃により沈没する惨敗を喫した。このうち「阿里山丸」には捕虜1500名が乗船していたが[96]、米潜水艦に撃沈されてしまった[97][98]。「竹」は残存船舶を誘導して損害を食い止め[99]、また遭難者の救助に従事した[100]。「春風」はアメリカ潜水艦「シャーク (USS Shark, SS-314) 」を撃沈して一矢報いた[101]。「竹」水雷科の茂呂(水兵長)によれば、「春風」より輸送船(艦名不詳)曳航の命令があったが、曳航作業前に対象の輸送船を見失い、単艦で高雄へ向ったとしている[102]。また高雄到着後もバシー海峡に出動し、遭難者約400 - 500名を救助してルソン島サンフェルナンドに送り届けたと回想している[103]

多号作戦

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第三次・第五次多号作戦

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最前線にいた「竹」は10月18日夕刻発動の捷一号作戦[104]10月20日から始まったレイテ島地上戦[105]に関わる事となり[106]、三度にわたってレイテ島西岸オルモックへの陸軍兵力輸送作戦(多号作戦)に参加することとなった[107]。作戦直前、艦長・田中少佐が病気で退艦し、マニラ海軍病院へ入院した[注釈 7]。11月3日、飯村忠彦少佐が臨時艦長に任命される[109][110]。飯村は、レイテ島輸送作戦で沈没した軽巡洋艦「鬼怒」[111][112]の航海長であった[113][114]。一方、田中少佐は呉鎮守府付となる[115]。日本海軍は、宇那木勁少佐[32]を「竹」艦長に任命した[115][注釈 8]。宇那木は軽巡「五十鈴」や松型3番艦「梅」を乗り継いで内地からマニラへ移動しており、実際の着任は遅れた[118]。このため「竹」は飯村少佐の指揮下で多号作戦に従事する[113]

新艦長を迎えた翌日以降[119]、米軍機動部隊艦上機のマニラ湾空襲により第二遊撃部隊(第五艦隊)旗艦の重巡「那智」が沈没した[120][注釈 9]。 11月9日午前3時、「竹」は第三次多号作戦部隊に加わってマニラを出撃する[124][125]。第三次多号作戦部隊の指揮官は[126]第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将であった[127]。駆逐艦4隻(島風[注釈 10]初春[注釈 11]浜波[注釈 12]、竹 )、「第46号駆潜艇」および「第30号掃海艇」と共に輸送船5隻[注釈 13]を護衛してマニラを出港した[132]

翌11月10日午前10時、南西方面艦隊司令長官は「初春」と「竹」の所属部隊を入れ替えるよう下令した[133]。同日午後、レイテ島からマニラへ帰投中の第四次多号作戦部隊[注釈 14]から駆逐艦3隻(長波朝霜若月)を分離、第三次多号作戦部隊の駆逐艦2隻(竹、初春)と入れ替えることになった[139][140]。 11月11日午前5時ごろ、「初春」と「竹」は第四次多号作戦部隊と合同した[133]。7隻(霞、潮、秋霜、初春、竹、沖縄、金華丸)は18時30分、「せれべす丸」や輸送艦救援に従事した2隻(占守第13号)は同日深夜[141]、それぞれマニラに帰投した[142][143]。なお「竹」と「初春」が当初参加していた第三次輸送船団は、オルモック湾での対空戦闘で駆逐艦「朝霜」を残して壊滅した[144][145][146][注釈 15]

11月12日、マニラに到着していた隼鷹輸送隊は[注釈 16]、同行していた軽巡洋艦「木曾」を分離する[149][150]。かわりに駆逐艦「時雨」[151]を編入し、内地へ帰投する[152]。「木曾」と駆逐艦「霜月」は多号作戦部隊第一警戒部隊に編入された[153]。 11月13日、マニラ湾は再び空襲をうける[154][155]。水雷戦隊だけでも5隻(木曾、曙、沖波、秋霜、初春[156])が沈没もしくは大破着底状態となる[157][158]。「竹」乗組員達は「マニラに帰投して大空襲に出くわした。『島風』と一緒にレイテに行けば良かった。本艦は運が悪い」と自嘲したが、第三次多号船団部隊が「朝霜」を除いて全滅した事を知り、逆に「強運の艦だ」という印象が広まった[159]

マニラ大空襲をうけて、第五艦隊司令長官・志摩中将は残存艦艇の退避を南西方面艦隊(司令長官大川内傳七中将)に進言した[160][161]。 11月13日深夜、第一水雷戦隊司令官が指揮する残存艦艇(霞、初霜[注釈 17]、朝霜、潮、竹 )[164]はマニラを脱出した[165][注釈 18]。「竹」はマニラからブルネイに移動する第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将・海兵41期、旗艦「霞」)および「潮」と共に南沙諸島長島に向かい、同地で南方に進出途上の第四航空戦隊日向伊勢)や護衛艦(霜月、梅、桐)などと会合[162]、燃料を補給してもらう[168][10]。同地で臨時艦長の飯村少佐が退艦し、宇那木少佐が便乗中の戦艦「日向」から「竹」に移乗し、着任する[169][170][注釈 19]

宇那木艦長を迎えた「竹」は、リンガ泊地へむかう第五艦隊とわかれた[163]コレヒドール島沖合でアメリカ潜水艦「ヘイク (USS Hake, SS-256) 」の雷撃で損傷した第三十一戦隊旗艦の軽巡「五十鈴」と途中ですれ違いつつ[172]、マニラに引き返した[173]

11月20日付で第一水雷戦隊は解隊され[174]、一水戦司令官・木村少将は第二水雷戦隊司令官に補職される[175]。同日付で第三十一戦隊は第五艦隊に編入された[176][177]。11月21日、マニラの日本陸海軍は、レイテ島への輸送に第三十一戦隊と高速輸送艦を活用することで一致した[178][179]

11月24日、「竹」は第一輸送戦隊(司令官曾爾章少将)の指揮下に入り[注釈 20][181]、第五次多号作戦に参加する[182]。第一梯団[注釈 21]と第二梯団(竹、第6号輸送艦第9号輸送艦第10号輸送艦)としてマニラを出撃した[184][注釈 22]。 ところが先発した第一梯団はマスバテ島南東部カタイガンに避泊中で空襲をうけ[186]、全滅した[187][188][注釈 23]

翌11月25日昼[189]、「米機動部隊が接近中」との情報で輸送部隊はタヤバス湾英語版に浮かぶマリンドケ島北西部のバラナカン湾に避泊した[190][191]。 間もなく空襲を受けて「第6号輸送艦」と「第10号輸送艦」が沈没する[183][192]。「第9号輸送艦」も損傷(航海長・袴田徳男大尉戦死、砲術長負傷、荷役装置故障)[193][194]。「竹」も至近弾と機銃掃射で損傷し戦死者15名[195]・負傷者60名余を出した他[196][197]ジャイロコンパスが吹き飛ばされて使用不能となった[198][199]。レイテ島オルモック湾への突入を命じられていたため「竹」幹部は協議をおこなう[199]。先任将校(志賀)は任務遂行を進言、高井義助航海長は「方位磁針を駆使してオルモック湾に向かう覚悟がある」と具申した[200]。機関長は燃料流出を懸念したが「命令なら突入する」と進言、砲術長は反対した[199]。しかし、「第9号輸送艦」(艦長赤木毅予備少佐)より「砲術長戦死、航海長負傷、大発動艇卸用ワイヤ切断」との報告を受け[201]、再挙を期してマニラに引き返すことにした[202]。沈没艦の生存者を収容し、11月26日マニラに帰投した[203][204]。こうして第五次多号作戦は失敗した[205][206][注釈 24]。 宇那木艦長は南西方面艦隊司令部(参謀長有馬馨少将、先任参謀高間正義大佐)に出頭して詫びを入れた[208][209]。「竹」は昼夜兼行で応急修理を行って次期作戦に備えたが、ジャイロコンパスは復旧されずじまいだった[208][注釈 25]

第七次多号作戦・クーパー撃沈

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第六次多号作戦が予想以上の成功をおさめたので[211]、日本軍は第七次多号作戦を実施した[212][213][注釈 26]

第七次多号作戦部隊は[注釈 27]、第一梯団[215]、第二梯団、第三梯団と第四梯団にわかれていた[25][221]。「竹」は第七次多号作戦において駆逐艦「」(駆逐艦長山下正倫中佐)の指揮下に入った[222]12月1日午後6時[218]、駆逐艦2隻(桑、竹)、「第9号輸送艦」「第140号輸送艦」「第159号輸送艦」という第三梯団/第四梯団でマニラを出撃した[223][224]。「竹」には方面軍作戦参謀田中光祐少佐他数名の陸軍将校が乗艦していたという[225][226]。マニラ湾口で船団部隊は陸軍潜水艦(マルゆ)と遭遇した[227][228]

12月2日昼間、敵小数機に触接されたが、空襲はなかった[229]。航行中、酸素魚雷点検および訓練時の事故により魚雷1本を投棄、「竹」の残魚雷は3本となった[230]。この頃になると、アメリカ軍は妨害のためにレイテ島から魚雷艇隊をはるばるオルモック方面に派遣するようになっており、11月28日夜半のオルモック襲撃に成功するなど戦果を挙げていた[231]第7艦隊司令官トーマス・C・キンケイド中将は、続いてオルモック方面に駆逐艦と掃海艇を派遣することとし[231]、これも過去二度の作戦で日本軍潜水艦と小型貨物船を破壊する戦果を挙げていた[231]。そして、三度目の作戦[231] として駆逐艦「アレン・M・サムナー (USS Allen M. Sumner, DD-692) 」「モール (USS Moale, DD-693) 」そして「クーパー (USS Cooper, DD-695) 」がオルモック湾に差し向けられる事となった[232]。「アレン・M・サムナー」「モール」および「クーパー」の第120駆逐群(ジョン・C・ザーム大佐)[233]は18時30分にレイテ湾を出撃し[233]、オルモック湾に急行した[234]。出撃して間もなく、セブから飛来してきた戦闘八〇四飛行隊月光や第一四一航空隊の瑞雲(水上爆撃機)に付きまとわれ[235]、爆撃と機銃掃射により「モール」は2名の戦死者と22名の負傷者を出した[236][237]。また、「アレン・M・サムナー」および「モール」の船体にも若干の損傷が生じた[234]

駆逐艦「クーパー」

同日夜、船団はオルモック湾に到着して揚陸を開始した[218]。大発動艇が輸送艦と陸上を往復して物資を揚陸させている頃、「竹」には第三次多号作戦で沈没した「島風」の上井宏艦長や機関長・上村嵐大尉、第二水雷戦隊の松原瀧三郎先任参謀などが収容されていた[234][238]。その後、「竹」は南西方向の、「桑」は南方の哨戒を開始した[239][240]。「桑」が担当していた南方の海上では第120駆逐群がオルモック湾に入りつつあり、ザーム大佐は日本側の雷撃を警戒して、艦を横に広がらせた横陣の隊形で湾内に入っていった[241]。オルモック湾に入った第120駆逐群は11,000メートル先の目標を狙い、まず「クーパー」が砲撃を開始した[241]。この時までに「桑」も第120駆逐群を発見し、発光信号で敵艦発見を「竹」に知らせた[242][243]。「桑」側は敵戦力を軽巡洋艦3隻と判断、照射砲撃と魚雷戦を開始した[244]

12月3日午前0時30分頃より交戦がはじまる[218]。最初の交戦はおよそ9分で決着がつき[245]、主砲弾多数を被弾した「桑」は沈没した[246]。第120駆逐群は次の目標を「竹」と定め、「モール」「アレン・M・サムナー」「クーパー」の順番で砲撃を開始した[245]。「竹」は12.7センチ高角砲25ミリ機銃酸素魚雷で「敵巡洋艦」に反撃を行った[247]。オルモック湾内を24ノットで航行・機動するため、座礁を懸念しながら戦闘をおこなった[248][249]

最初の雷撃態勢は、宇那木艦長が砲撃による閃光で目がくらみ[243]、また電気機器の故障により発射の機会を逃した[249]。二度目の機会を得て魚雷2本を発射する[249]。四番連管は起動弁の故障で発射できなかった[250]。「竹」の水雷長・志賀博大尉が双眼鏡で第120駆逐群を観測していたが、やがて視界内の左端にいた駆逐艦が大きな火柱を吹き上げるのを目撃した[249][251]。魚雷は「クーパー」の右舷に命中し、船体をV字に折られた「クーパー」は1分以内に沈没した[252]。この後、「竹」は修理が終わった四番連管から魚雷1本を単独発射したが、こちらは命中しなかった[249][253]

一方、「モール」は「竹」の前部機械室に命中弾を与えた(負傷者1名)[254]。不発だったが浸水のため右舷1軸運転となり[255]、「竹」は最大で左舷に30度も傾いた[256][257]。しかし、「竹」も「モール」に高角砲弾を複数発命中させた[251]。クーパー轟沈を「潜水艦からの雷撃」と錯覚していた米駆逐艦2隻[249](モール、サムナー)は戦場から避退した[注釈 28][注釈 29]。 これ以上の戦闘は行われなかった。

やがて「第9号輸送艦」から揚陸完了の報告を受け、ボイラーに使用する真水の在庫が底を突こうとしていた「竹」は30度傾いた状態のまま、「第9号輸送艦」から真水の供給を受けた[263][264]。同時に二水戦参謀が「第9号輸送艦」に移乗した[265][266]

夜明けまで残り2時間となった時、「第140号輸送艦」および「第159号輸送艦」からも揚陸完了の報告を受けた「竹」は、「第140号輸送艦」および「第159号輸送艦」を先発させる[266]。宇那木艦長はオルモックの陸上部隊に「桑」の生存者救助を要請した[266]

「竹」は同日3時に「第9号輸送艦」を率いてオルモック湾を出発[267]。「桑」の生存者救助は、「竹」が中破して片舷航行の上、サーチライトを使わずに作業する事の難しさや、日が昇ってからの空襲を避けることを考慮して断念された[263]。海面の桑生存者は通り過ぎる「竹」に救助を要請したが、「竹」側は「大発動艇がくるから頑張れ」と返答して過ぎ去った[268]。すると最後尾の輸送艦[注釈 30]が反転し、「桑」生存者8名を収容した[270]。また生存者の一部はカッターボートで上陸、現地の海軍陸戦隊に合流した[271]

途中で傾斜を回復させた「竹」は12月4日午後、マニラに帰投した[272][273]。マニラでは松型姉妹艦3隻(梅、桃、)が第八次多号作戦の出撃準備をおこなっており、「杉」では満身創痍の「竹」をみて作戦の困難さを悟ったという[274]。マニラ港では、曾爾少将(輸送戦隊司令官)が桟橋まで出迎え、宇那木艦長と握手を交わした[265]。続いて宇那木艦長は南西方面艦隊司令長官・大川内中将から賞詞を受け、さらに差し向かいで夕食を馳走になった[265][275]。宇那木艦長は後に、「クーパー」撃沈の戦いを「オルモック夜戦」と呼ぶ事を提唱した[275]。また、宇那木艦長が、収容した便乗者の中に「島風」や第二水雷戦隊の関係者の名前があることを知ったのは、1968年(昭和43年)のことだった[240]。なお、「クーパー」撃沈は日本駆逐艦が雷撃によって敵艦を撃沈した最後となった[276]

「竹」は12月5日から14日まで応急修理を行ったが[277]、機関が修復できなかったために船速が上がらず、このことから作戦への再投入を免れて佐世保での回航修理が命ぜられた[278]

終戦まで

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12月14日以降、米軍機動部隊はルソン島各地に空襲をおこなった[279] 本格的な修理を受けるため「竹」も12月15日にマニラを出港する[280][281]。この時猛烈な台風(コブラ台風)に遭遇した[282][注釈 31]。 12月18日に高雄に寄港し、次いで12月21日に基隆に寄港する[284][285]。同日夜、「竹」は同地からの「辰春丸」(辰馬汽船、6,344トン)他2隻の輸送船団(タモ船団)を護衛して基隆を出港した[286][287]中国大陸沿岸部や朝鮮半島南岸部の島々の間を縫って北上し、1945年(昭和20年)1月1日に門司港外に到着した[288]

翌1月2日、「竹」は呉海軍工廠に移動する[288]。当初の予定では1月末から2月初頭[289]、次いで2月16日に修理完了となって10日程度で出撃準備が整う事になっていたが[290]、予定は延びて3月15日まで修理を行った[291][292][注釈 32]

「竹」が修理中の1月中旬、第三十一戦隊司令部(司令官鶴岡信道少将)はマニラから台湾の高雄に移転していた[293]。 2月5日付で第五艦隊が解隊されて第十方面艦隊が新編され[294]、第一輸送戦隊と第三十一戦隊は連合艦隊付属となった[293][295]。第43駆逐隊司令も菅間良吉大佐から吉田正義大佐[296]を経て作間英邇大佐に交代していた[297]。第三十一戦隊司令部も内地にもどった。 3月15日、第三十一戦隊は第二艦隊に編入された[298]。その間、「竹」は2月28日から3月18日まで臨時に第三十一戦隊の旗艦を務めた[299]。これ以降、第三十一戦隊旗艦は駆逐艦「花月」となった[300]。 3月19日の呉軍港空襲で、「竹」は10名余の負傷者を出した[301]。4月16日から26日にかけての修理工事では、三式探信儀などが装備された[302]

4月20日、第二艦隊と第二水雷戦隊が解隊され、第三十一戦隊は連合艦隊付属にもどった[303]。 4月29日から「」とともに回天との訓練に参加した後[304][305]、「竹」は後甲板に回天の発射台を設置する工事を行った[306][292][注釈 33]。5月上旬、B-29の水平爆撃を受ける[308]。 5月20日、連合艦隊は第三十一戦隊と軽巡洋艦「北上」(回天母艦)を基幹として海上挺進部隊を新編、第43駆逐隊も同部隊に所属した[309]。戦況悪化によって温存策が取られる事となり、「竹」は第43駆逐隊各艦()等とともに屋代島日見海岸に偽装係留し、最後の出撃の時まで待機することとなった[310][311]。屋代島柳井側には僚艦(花月、桐、蔦)も艤装繋留されていた[310]。樹木と網で偽装した3隻(竹、槇、榧)はついに攻撃される事なく[310][312]、8月15日の終戦時には航行可能な状態で残存した[313]。「竹」は僚艦とともに呉に回航されてアメリカ海軍に接収された後[314][315]、10月25日に除籍された[12][注釈 34]

戦後

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戦後の「竹」は1945年(昭和20年)12月1日、横須賀地方復員局所管の特別輸送艦に定められ[317]、行動可能な他の艦船と同様復員輸送に従事し、第1回から第4回の輸送ではポンペイ島(ポナペ島)- 浦賀間を二度往復し[318][注釈 35]、次いでパラオ - 浦賀間を一往復[318]サイパン島から同島在住の沖縄県民を沖縄本島まで輸送した[321]。第5回輸送からは上海および葫芦島と日本の間を往復し、中国大陸および旧満州国方面からの復員輸送に従事した[322]。葫芦島からの輸送の際、艦内にコレラ患者が出て病死する引揚者が出たため、防疫のため1ヵ月間隔離された事もあった[323]。1946年に復員輸送を終え同年7月26日に特別保管艦に指定[324] され、横須賀地方復員局特別保管艦艇第三保管群に属して横須賀に繋留[325] された。1947年(昭和22年)7月16日には特別輸送艦の定めを解かれ[326]イギリスに賠償艦として引き渡され解体された。

歴代艦長

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艤装員長
  1. 田中弘國 少佐:1944年4月15日[33] - 1944年6月16日[45]
駆逐艦長/艦長
  1. 田中弘國 少佐:1944年6月16日[45] - 1944年11月1日[115](マニラ海軍病院入院)
  2. (臨時)飯村忠彦 少佐:1944年11月3日(着任4日)[113] - 1944年11月14日(11月15日付で鬼怒航海長免職)[171]
  3. 宇那木勁 少佐/第二復員官:1944年11月1日任命[115] - 艦長 1945年12月20日[注釈 36] - 退任年月日不明[注釈 37]
  4. 伊東謹之助[327] 復員事務官:就任年月日不明[注釈 37] - 1946年10月30日[328]
  5. 市來崎秀丸 復員事務官:1946年10月30日[328] - 1947年2月20日[329]
  6. 南部伸清 復員事務官:1947年2月20日[329] - 1947年3月10日[330]
  7. 福島榮吉 復員事務官:1947年3月10日[330] - 1947年7月16日[注釈 38]

脚注

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注釈

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  1. ^ パラオ方面輸送任務従事中の「名取」は[15]8月18日に潜水艦の雷撃で沈没した[16]。「竹」を含む名取捜索隊は遭難者を発見できず、8月20日にセブ島へ帰投した[17]
  2. ^ 輸送作戦中の「五月雨」は8月18日未明にパラオ諸島で座礁した[16]。その後、米潜水艦の雷撃で破壊される[18]。8月26日、「竹」は放棄された「五月雨」から乗組員を収容した[19]
  3. ^ 田中少佐は[33]、重巡洋艦「衣笠」水雷長(昭和17年4月[34]第三次ソロモン海戦での沈没時)[35]、駆逐艦「呉竹」艦長[36][37] 等を歴任していた。
  4. ^ 駆逐艦「天霧」は南西方面で輸送任務中の4月23日、機雷によって沈没した[40]
  5. ^ 浦風型駆逐艦[58]浦風朝雲、清霜)、十一水戦(冬月、竹)。
  6. ^ パラオの邦人引き揚げ任務についていた5隻(重巡「青葉」、軽巡「鬼怒」、駆逐艦「浦波」「時雨」「五月雨」)のうち3隻(鬼怒、時雨、五月雨)で別動中[79]8月18日未明にガルワングル環礁で「五月雨」が座礁した[80]。離礁作業に手間取るうちにアメリカ潜水艦「バットフィッシュ」 (USS Batfish, SS-310) の雷撃で船体が断裂した[18][19]
  7. ^ 肺結核もしくは肋膜炎であったという[108]
  8. ^ 宇那木は、駆逐艦「旗風」航海長[116]、吹雪型駆逐艦2隻(磯波浦波)の水雷長[116][117]等を歴任していた。当時は松型駆逐艦「椿」艤装員長であった[115]
  9. ^ 「那智」救援中の駆逐艦「」(第7駆逐隊)が大破した[121][122]。駆逐艦「沖波」も損傷して作戦から外された[123]
  10. ^ 第二水雷戦隊旗艦。
  11. ^ 艦長は大熊安之助少佐[128]、8月26日に「竹」が救助した「五月雨」艦長である。
  12. ^ 第32駆逐隊司令大島一太郎大佐座乗[129]
  13. ^ 内訳:せれべす丸、泰山丸、西豊丸、天照丸、三笠丸[130]第26師団将兵約2,000名と軍需品を輸送する[131]
  14. ^ 指揮官は第一水雷戦隊司令官木村昌福少将:駆逐艦(〈一水戦旗艦〉、秋霜〈中破、艦首切断〉[134]朝霜長波若月[135]、第四護衛船団司令官松山光治少将が指揮する海防艦(占守沖縄第13号海防艦)など[136]オルモック湾での対空戦闘で、輸送船2隻と第11号海防艦が沈没していた[137][138]
  15. ^ 「島風」沈没時に早川幹夫第二水雷戦隊司令官も戦死した[147]。「朝霜」は11月12日、マニラに帰投した[148]
  16. ^ 空母「隼鷹」、重巡「利根」(ブルネイから同行)、軽巡「木曾」、第30駆逐隊(卯月夕月[149]
  17. ^ 志摩長官以下、第五艦隊司令部は「初霜」に乗艦した[162]。「初霜」と「朝霜」はブルネイに直行し[162]、同地で第五艦隊旗艦は重巡「足柄」となった[163]
  18. ^ 第四次多号作戦に参加した海防艦達も11月14日午前2時にマニラを出発[166]ボルネオ島北西のラブアンにむかった[167]
  19. ^ 飯村少佐は11月15日付で「鬼怒」航海長の職務を解かれた[171]
  20. ^ ただし、本来「竹」に乗艦する予定であった曾爾少将は後の船の段取りを取るためマニラに残り、代わりに宇那木勁艦長が指揮官を任されている[180]
  21. ^ 第一梯団は二等輸送艦3隻(111号、141号、160号)と「第46号駆潜艇」で編成されていた[183]
  22. ^ 輸送物件は、第三次多号作戦で座礁した「せれべす丸」等の陸軍部隊や、軍需品であった[185]
  23. ^ マニラへ帰投中の「第46号駆潜艇」も、翌25日に空襲で沈没した[183]
  24. ^ この時期、僅かながらレイテ島輸送に成功したのは陸軍潜水艦「マルゆ」のみであった[207]
  25. ^ 「第九号輸送艦」では、マニラ空襲で沈没した駆逐艦「沖波」の航海長だった佐々木幸康大尉が新航海長に任命され[210]、作戦準備を整えた[194]
  26. ^ ただし第六次多号作戦部隊は揚陸地点および帰路に魚雷艇と空襲により全滅した[214]
  27. ^ 第一梯団:陸軍SB艇3隻(5号、11号、12号)、第20号駆潜艇[215]。11月29日マニラ発、5号がマスバテ島に座礁したが[216]、他はセブ島を経由して11月30日、レイテ島オルモック南方4kmのイピル着、揚陸成功[217](第20号駆潜艇は駆逐艦「長波」生存者72名を収容)[218]
    第二梯団:陸軍SB艇2隻(10号、14号)、11月30日マニラ発、12月1日レイテ島パロンポン北方のシラド湾着[219]
    第三梯団:海軍輸送艦2隻(140号、159号)
    第四梯団:第9号輸送艦、駆逐艦2隻(桑、竹)[220]
  28. ^ オルモック対岸のセブ島には第33特別根拠地隊[258](司令官原田覚少将)[259]があり、特殊潜航艇甲標的による作戦を実施していた[260][261]
  29. ^ 11月27日未明には、レイテ島近海でフレッチャー級駆逐艦4隻が「マルゆ2号艇」と交戦、撃沈している[262]
  30. ^ 『地獄のレイテ輸送作戦』98ページでは140号輸送艦が救助と記述する[269]
  31. ^ 付近ではウィリアム・ハルゼー提督率いる第3艦隊 (アメリカ軍)が嵐に翻弄され、駆逐艦3隻が転覆するなど大損害を受けている[283]
  32. ^ ただし、『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 6-9、53-56頁 では3月15日の時点で修理は終わらず、4月28日まで継続されている書き方となっており、『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 65頁 にも「修理ヲ続行中」とある。
  33. ^ 工事の期間については5月から6月25日までの間と推定されている[307]
  34. ^ 本艦竣工時より竹水雷長だった志賀博(旧姓保坂)大尉は[45]、敷設艇「巨済」艦長に転じた[316]
  35. ^ 第一回:10月25日に呉出発、グアムで燃料補給し、11月6日ポナペ島着、11月8日発、グアム経由、11月16日浦賀着[319]。第二回:12月4日浦賀発、グアム経由、12月12日着(浦賀着日時不明)[320]
  36. ^ 昭和20年12月20日付 第二復員省 官房人第19号による職名の自動変更。
  37. ^ a b 現在公開中の第二復員省辞令公報および復員庁第二復員局辞令公報では、宇那木第二復員官の退任発令と伊東復員事務官の就任発令は確認できない。なお、宇那木復員事務官は1946年9月27日付で退官している。
  38. ^ 昭和21年7月1日付 復員庁 復二第67号の定めによる自動解職。

出典

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  • アジア歴史資料センター(公式)
    • 『昭和16年〜昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。JACAR:C08051772000 
    • 『昭和18年12月1日〜昭和20年4月6日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)』。JACAR:C08030369900 
    • 『昭和18年12月1日〜昭和20年5月31日 呉練習戦隊戦時日誌(2)』。JACAR:C08030078900 
    • 『昭和19年1月〜6月達/1月(2)』。JACAR:C12070124100 
    • 『自昭和19年1月 至昭和19年7月内令/昭和19年1月(5)』。JACAR:C12070194200 
    • 『自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年7月』。JACAR:C12070195500 
    • 『昭和19年4月1日〜昭和20年2月28日 呉鎮守府戦時日誌(4)』。JACAR:C08030329600 
    • 『昭和19年4月1日~昭和19年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(5)』。JACAR:C08030086800 
      • 「ろ号作戦輸送部隊任務報告 門司-中城湾宮古島南大東島間作戦輸送 自昭和十九年七月十四日 至昭和十九年七月二十日」
    • 『昭和19年6月1日〜昭和20月6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(1)』。JACAR:C08030127400 
    • 『昭和19年6月1日〜昭和20月6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(2)』。JACAR:C08030127500 
    • 『昭和19年6月1日〜昭和20月6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(3)』。JACAR:C08030127600 
    • 『昭和19年6月1日〜昭和20月6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(7)』。JACAR:C08030128000 
    • 『昭和19年6月1日〜昭和19年12月13日 第30駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。JACAR:C08030149800 
    • 『昭和19年6月1日〜昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。JACAR:C08030148600
      • 「昭和十九年九月十日 戦闘詳報 (坐礁被雷報告)」
    • 『昭和19年7月1日〜昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(1)』。JACAR:C08030050800 
    • 『昭和19年7月1日〜昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(2)』。JACAR:C08030050900 
    • 『昭和19年7月1日〜昭和19年11月15日 第16戦隊戦時日誌(1)』。JACAR:C08030057100 
    • 『昭和19年7月1日〜昭和19年11月15日 第16戦隊戦時日誌(2)』。JACAR:C08030057200 
    • 『昭和19年8月〜9月 秘海軍公報/9月(1)』。JACAR:C12070496600 
    • 『昭和19年8月1日〜昭和20月11月30日 第1海上護衛隊戦時日誌(3)』。JACAR:C08030141600 
    • 『昭和19年9月〜12月 秘海軍公報 号外/10月(1)』。JACAR:C12070497300 
    • 『昭和19年9月〜12月 秘海軍公報 号外/10月(2)』。JACAR:C12070497400 
    • 『昭和19年9月〜12月 秘海軍公報号外/11月(3)』。JACAR:C12070497900 
    • 『昭和19年9月〜12月 秘海軍公報 号外/11月(4)』。JACAR:C12070498000 
    • 『昭和19年9月1日〜昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。JACAR:C08030087200 
    • 『昭和19年9月1日〜昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。JACAR:C08030087300 
    • 『昭和19年9月1日〜昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。JACAR:C08030087400 
    • 『昭和19年9月1日〜昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。JACAR:C08030087600 
      • 「多号作戦戦闘詳報第二号(自昭和十九年十一月八日至昭和十九年十一月十一日第四次輸送作戦)」
    • 『昭和19年10月29日〜昭和19年11月13日 第18駆逐隊 (霞) 戦闘詳報』。JACAR:C08030590200 
    • 『昭和19年12月22日〜昭和20月4月30日 第31戦隊戦時日誌(1)』。JACAR:C08030074800 
    • 『昭和19年12月22日〜昭和20月4月30日 第31戦隊戦時日誌(2)』。JACAR:C08030074900 
    • 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/1月(3)』。JACAR:C12070503700 
    • 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/2月(2)』。JACAR:C12070503900 
    • 『昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報号外/3月(2)』。JACAR:C12070504300 
    • 『昭和20年1月2日 昭和20年8月30日秘海軍公報/昭和20年8月(2)』。JACAR:C12070530000 
    • 宇那木勁『昭和19年11月~終戦時 T型駆逐艦(竹)戦誌』。JACAR:C08030751400 
    • 野村留吉『第四航空戦隊 戦時日誌抜粋』(昭和19年5月1日〜昭和20年3月1日 第4航空戦隊戦時日誌抜粋 (旗艦日向行動等))JACAR:C08030742100
    • 『S士官の手記 史実調査部/沖波戦闘行動関係』。JACAR:C14061106300 
    • 『昭和19.1~昭和20.2大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2(防衛省防衛研究所)/昭和19年8月』。JACAR:C16120659900 
    • 『昭和19.1~昭和20.2大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2(防衛省防衛研究所)/昭和19年9月』。JACAR:C16120660000 
    • 『昭和19.1~昭和20.2大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2(防衛省防衛研究所)/昭和19年10月』。JACAR:C16120660100 
    • 『昭和19.1~昭和20.2大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2(防衛省防衛研究所)/昭和19年11月』。JACAR:C16120660200 
    • 『昭和19.1~昭和20.2大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2(防衛省防衛研究所)/昭和19年12月』。JACAR:C16120660300 
    • 『第2次世界大戦略歴大東亜戦争経過概要(防衛省防衛研究所)昭和19年10月経過概要~昭和19年12月経過概要』。JACAR:C16120725100 

関連項目

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