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2019年10月29日 (火) 00:28時点における版
宋皇后 | |
---|---|
北宋の皇后 | |
在位 | 968年 - 976年 |
別称 | 開宝皇后、孝章皇后 |
出生 |
952年 |
死去 |
995年 |
埋葬 | 永昌陵 |
配偶者 | 太祖趙匡胤 |
父親 | 宋偓 |
母親 | 永寧公主 |
孝章皇后(こうしょうこうごう、952年 - 995年)は、北宋の太祖趙匡胤の皇后(3番目の正妻)。後唐の荘宗の外曾孫で、後漢の高祖劉知遠の外孫。姓は宋氏。
生涯
洛陽の人。父は宋偓(後唐の荘宗の娘であった義寧公主の息子)。母は後漢の高祖の娘であった永寧公主。
宋の乾徳5年(967年)、後宮に入って朝見し、太祖が気付いた。乾徳6年(968年)2月、皇后に立てられた。
開宝9年(976年)、太祖が急死し、弟の趙匡義(太宗)が即位した。太宗が即位すると、皇嫂(皇帝の兄嫁)たる開宝皇后と尊称された。太平興国2年(977年)、西宮に入住した。雍熙4年(987年)、東宮にうつった。
至道元年(995年)4月、崩じた。「孝章」と諡され、永昌陵に附葬された。
逸話
司馬光の『涑水紀聞』によると、夜分に太祖が崩御した時、皇后宋氏は宦官の王継恩を遣わし、皇子の秦王趙徳芳(太祖と孝明皇后の子)を参入させ皇位を継承させようとした。しかし王継恩は皇弟の晋王趙匡義を参入させた。皇后は趙匡義を見るや否や仰天し、号泣して「われら母子の命はひとえに貴方お一人の手にかかっている」と言った。趙匡義は「共に富貴を保とう。憂慮無きよう」と慰め、太祖の棺の前において即位した。