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2019年10月29日 (火) 00:27時点における版
韓皇后 | |
---|---|
南宋の皇后 | |
在位 | 1194年7月25日 - 1200年12月21日 |
別称 | 恭淑皇后 |
出生 |
乾道元年(1165年) |
死去 |
慶元6年11月7日 (1200年12月21日) |
配偶者 | 寧宗 |
子女 |
趙埈 趙坦 |
父親 | 韓同卿 |
母親 | 荘氏 |
恭淑皇后(きょうしゅくこうごう、1165年 - 1200年12月21日)は、南宋寧宗の最初の皇后。姓は韓氏。
生涯
韓同卿(高宗の皇后呉氏の妹の姻戚)と正妻の荘氏の次女。寧宗の下で権勢を振るう韓侂冑の従兄の孫にあたる。
姉と共に後宮に入り、太上皇(高宗)と太上皇后(呉氏)の側にはべり、おっとりした従順な性格だったために可愛がられた。淳熙12年(1185年)8月に平陽郡王趙拡(のちの寧宗)と娶わせられ、新安郡夫人に封ぜられた。同16年(1189年)5月、趙拡の父の光宗が即位すると、趙拡は郡王から親王に上ったので韓氏は崇国夫人に進んだ。紹熙5年(1194年)、寧宗が即位すると、皇后に冊立された。寧宗の寵愛を受け、また韓侂冑の後盾になった。韓侂冑は皇后より2世代上の傍系尊属であったが、年齢は近く、外戚として権勢を高めて人々の注目を集めた。対照的に実父の韓同卿は、おとなしく慎み深い性格で目立ったことはしなかった。
韓皇后は2人の男子を産んだが、みな夭折した。後年、楊貴妃(恭聖皇后)と寵愛を争ったといわれる。慶元6年11月7日(1200年12月21日)、崩御した。「淑」と諡された。
男子
- 趙埈 (1196年生没)
- 趙坦 (1200年生没)
伝記資料
- 『宋史』
- 『宋会要輯稿』
- 『建炎以来朝野雑記』