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2019年10月29日 (火) 00:26時点における版
李皇后 | |
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南宋の皇后 | |
慈懿皇后李鳳娘 | |
在位 | 1189年2月18日 - 1194年7月24日 |
全名 | 李鳳娘 |
別称 | 慈懿皇后 |
出生 |
紹興15年(1145年) |
死去 |
慶元6年6月4日 (1200年7月23日) |
配偶者 | 光宗 |
子女 |
趙挺 寧宗 |
父親 | 李道 |
母親 | 張氏 |
李 鳳娘(り ほうじょう、1145年 - 1200年7月23日)は、南宋光宗の皇后。慈懿皇后(じいこうごう)と諡された。
生涯
相州安陽の人。李道と妻の張氏の娘。隆興2年(1164年)4月、恭王趙惇(後の光宗)にとつぎ、栄国夫人に封ぜられた。乾道4年(1168年)、趙拡(後の寧宗)を生んだ。同7年(1171年)3月、皇太子妃となった。淳熙16年(1189年)、光宗が即位すると、皇后に冊立された。
光宗は早く即位したがったが、父の孝宗は躊躇し、光宗は恨みを抱いた。光宗が即位すると、鳳娘は趙拡を皇太子に立てるよう願ったが、太上皇の孝宗に反対された。鳳娘は「拡は長男であり、本妻である私の実の子です[1]。なぜ駄目なのですか。」と抗議した。その後、太上皇が廃立を企んでいると光宗に讒言した。光宗は皇后の言に惑わされて、父と険悪な関係になった。鳳娘はまたきわめて嫉妬深く、宮女の虐殺を行い、光宗の寵愛を受けていた黄貴妃をも殺害した。
紹熙5年(1194年)に孝宗が崩ずると、光宗が喪を執り行わなかったので、群臣らの憤りを引き起こした。老齢の太皇太后呉氏は趙汝愚、韓侂冑などと協力して垂簾聴政し、光宗の廃位を宣布の上、寧宗を立てた。鳳娘は寿仁太上皇后の号を贈られ、寿儀殿にうつった。慶元6年6月4日(1200年7月23日)、崩御した。
逸話
「黒い鳳凰」と呼ばれるほどの凶暴な美女であった。光宗が侍女の美しい手を誉めれば、李鳳娘はその手を切り取って盆に盛り、光宗に捧げた。黄貴妃を殺害した時には、光宗が官員たちと祭祀中にもかかわらず、すぐさま知らせた。これに強いショックを受けた光宗は祭祀を中止し、李鳳娘は自ら祭壇へ行って光宗と直接話した。
脚注
伝記資料
- 『宋史』
- 『宋会要輯稿』
- 『建炎以来朝野雑記』