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{{基礎情報 君主 |
{{基礎情報 君主 |
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| 人名 = アッシュ |
| 人名 = アッシュルバニパル |
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| 各国語表記 = |
| 各国語表記 = |
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| 君主号 = |
| 君主号 = {{unbulleted list |
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| [[アッシリア王]] |
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| {{仮リンク|シュメールとアッカドの王|en|King of Sumer and Akkad}} |
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| {{仮リンク|全土の王|en|King of the Lands}} |
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| {{仮リンク|四方世界の王 (メソポタミア)|label=四方世界の王|en|King of the Four Corners of the World}} |
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| [[世界の王]] |
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| 画像 = Sculpted reliefs depicting Ashurbanipal, the last great Assyrian king, hunting lions, gypsum hall relief from the North Palace of Nineveh (Irak), c. 645-635 BC, British Museum (16722368932).jpg |
| 画像 = Sculpted reliefs depicting Ashurbanipal, the last great Assyrian king, hunting lions, gypsum hall relief from the North Palace of Nineveh (Irak), c. 645-635 BC, British Museum (16722368932).jpg |
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| 画像サイズ = |
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| 画像説明 = {{仮リンク|アッシュルバニパルの獅子狩り|en|Lion Hunt of Ashurbanipal}} |
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| 画像説明 = |
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| 在位 = |
| 在位 = 前668年-前631{{Sfn|Lipschits|2005|p=13}}{{Sfn|Na’aman|1991|p=243}}{{Sfn|British Museum||p=}}/627年頃 |
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| 戴冠日 = |
| 戴冠日 = |
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| 別号 = |
| 別号 = |
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| 全名 = |
| 全名 = |
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| 出生日 = |
| 出生日 = 前685年{{sfn|Mark|2009|p=}}{{sfn|Finkel|2013|p=123}} |
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| 生地 = |
| 生地 = |
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| 死亡日 = |
| 死亡日 = 前631年{{Sfn|Ahmed|2018|p=8}}、おおよそ54歳頃 |
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| 没地 = |
| 没地 = |
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| 埋葬日 = |
| 埋葬日 = |
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| 埋葬地 = |
| 埋葬地 = |
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| 配偶者1 = |
| 配偶者1 = [[リッバリ・シャラト]](Libbali-sharrat) |
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| 配偶者2 = |
| 配偶者2 = |
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| 子女 = [[アッシュ |
| 子女 = [[アッシュル・エティル・イラニ]]<br>[[シン・シャル・イシュクン]]<br>ニヌルタ・シャル・ウツル(Ninurta-sharru-usur) |
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| 王家 = |
| 王家 = |
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| 王朝 = [[サルゴン王朝]] |
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| 王室歌 = |
| 王室歌 = |
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| 父親 = [[エサルハドン]] |
| 父親 = [[エサルハドン]] |
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| 母親 = 不明{{Sfn|Novotny|Singletary|2009|p=174–176}}、アッシリア出身の女性{{sfn|Ahmed|2018|p=65–66}} |
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| 母親 = |
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| 宗教 = |
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| サイン = |
| サイン = |
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'''アッシュルバニパル'''(''Assurbanipal''{{Sfn|Encyclopaedia Britannica||p=}}、在位:[[紀元前668年|前668年]]<ref group="注釈">統治第1年(通年通して王であった最初の年)から数える。</ref> - [[紀元前631年|前631]]/[[紀元前627年|627年]]頃)は、[[メソポタミア|古代メソポタミア]]地方の[[新アッシリア帝国]]の黄金期最後の[[アッシリアの君主一覧|王]]である。軍事遠征を積極的に行った。学問への関心も高く、[[アッシュルバニパルの図書館]]は有名。治世第17年に、バビロン王である兄、[[シャマシュ・シュム・ウキン]]が反乱を起こし、内戦が勃発。これを制した。死後、時を置かずアッシリア帝国は滅亡するが、治世末期の情報は少なくアッシュルバニパルの治世が帝国の崩壊とどのように関連するのかは不明瞭である。 |
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[[ファイル:Assurbanipal op jacht.jpg|thumb|right|350px|アッシュールバニパルの浮き彫り。腰に2本の葦ペンが挟んである。]] |
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''' アッシュールバニパル'''(Ashurbanipal)は[[アッシリア|新アッシリア王国]]時代の[[アッシリア]]の[[王]](在位:[[紀元前668年]] - [[紀元前627年]]頃)である。彼自身がアッシリア史上最後の偉大な征服者であったのみならず、古代[[オリエント]]の研究は彼が残した図書館史料の解読に大きく依存しており、古代史を語る上で欠く事のできない人物である。[[アッカド語]]ではアッシュール・バニ・アプリ(Ashur bani apli)と記述され、「[[アンシャル|アッシュール神]]は後継者を生み出した」の意味である。 |
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アッシュルバニパルは、新アッシリア時代の楔形文字表記では [[File:Ashurbanipal in Akkadian.png|59x59px]]、[[アッカド語]]では''Aššur-bāni-apli''(アッシュル・バニ・アプリ){{Sfn|Miller|Shipp|1996|p=46}}または''Aššur-bāni-habal''(アッシュル・バニ・ハバル)と綴られ、「[[アッシュル (神)|アッシュル]]神は後継者を賜れり」{{Sfn|Delaunay|1987|pages=805-806}}を意味する。 |
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== 来歴 == |
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=== 即位前~エジプト遠征 === |
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アッシリア王[[エサルハドン]]の息子として生まれた。兄の[[シン・イディナ・アパラ]]({{lang|en|Sin-iddin-apli}})が先に死去したため、皇太子となった。そしてエサルハドンの生前の取り決めにより、アッシリア王位にアッシュールバニパルが、[[バビロニア]]王位に兄の[[シャマシュ・シュム・ウキン]]が即位し、アッシリア王を上位とする事が定められていた。弟である彼が上位のアッシリア王になったのには、エサルハドンの生母[[ナキア]](ザクトゥ)の政治工作があったといわれている。 |
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== 概要 == |
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[[紀元前669年]]にエサルハドンが死去すると、翌年アッシリア王位についた。彼は父が行っていた[[古代エジプト|エジプト]]遠征を継続し、[[紀元前667年]]にエジプトの[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]を再び陥落させた。エジプト王{{仮リンク|タハルカ|en|Taharqa}}は消息不明となり、エジプトを支配下に置く事に成功した。しかしエジプトではタハルカの次王{{仮リンク|タアトアメン|en|Tantamani}}の逆襲が起きたため、第二回のエジプト遠征を行って[[紀元前663年]]には遂にエジプトの首都[[テーベ]]を陥落させた。その後彼はエジプトの統治を[[サイス]]の[[ネコ1世]]に任せた。また、[[リュディア]]の王{{仮リンク|ギュゲス (リュディア)|en|Gyges of Lydia|label=ギュゲス}}が、[[キンメリア人]]の侵入に対して援軍を要請してきたためにこれを助けてリュディアに兵を送ったが、後にギュゲス王はエジプトの{{仮リンク|プサメティコス1世|en|Psamtik I}}(ネコ1世の息子)と結んでアッシリアに敵対した。これによって[[紀元前656年]]頃にはエジプトの支配を喪失することになる。 |
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アッシュルバニパル治世中のアッシリアは世界最大の帝国であり、その首都[[ニネヴェ]]もおそらく世界最大の都市であった。アッシュルバニパルの王太子任命の頃から彼の治世前半にかけての時期は、アッシリアの歴史上最も豊富な史料が残されており、詳細な歴史が復元されている{{Sfn|伊藤|2014|p=64|ref=伊藤 2014}}。 |
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=== 第一次エラム遠征 === |
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[[画像:Assurbanipal and queen.png|thumb|800px|アッシュールバニパルの戦勝の宴。{{仮リンク|テウマン|ru|Темпти-Хумпан-Иншушинак}}の首は、祝宴の席で庭の木に吊るされたという。]] |
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[[紀元前662年]]には[[エラム]]({{仮リンク|フンバンタラ朝|ru|Новоэламская династия}})の王{{仮リンク|テウマン|ru|Темпти-Хумпан-Иншушинак}}({{lang-ru|Те-Умман}} - {{lang-en|Te-Umman}})と戦ってこれを破り、エラムを属国とした。しかしエラムはなおも反アッシリア的であり続けた。 |
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彼は長兄ではなかったが、父親のエサルハドンによって前672年に王太子に指名され、前668年にアッシリア王位を継承した。アッシュルバニパルの王位継承における大きな特徴として、彼の兄である[[シャマシュ・シュム・ウキン]]がアッシリア帝国の南部において同時に{{仮リンク|バビロン王|label=バビロンの王|en|king of Babylon}}(バビロニア王)位を継承したことがあげられる。 |
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=== 兄弟戦争 === |
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かねてよりバビロニア王たる自分の従属的地位に不満を持っていた兄シャマシュ・シュム・ウキンは当初は父エサルハドンとの誓約に従っていたかに見えたが、[[紀元前652年]]遂に反旗を翻した。アッシリアに反感を持つエラムや{{仮リンク|海の国|ru|Страна Моря}}の首長[[ナブー・ベール・シュマティ]]({{lang-ru|Набу-бел-шумате}}, {{lang-en-short|Nabu-bel-shumati}})等の支援を受けてのものであった。反乱の発生直前にアッシュールバニパルはこれを察知していたらしく、[[バビロン]]市へ向けて彼が発した手紙の写しが現存している。 |
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{{quotation| |
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バビロン市の者への王の言葉(中略)この非兄弟があなたがたに語った風(虚言)を私も全て聞いた。しかしそれは風に過ぎない。彼を信じてはいけない(後略)}} |
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アッシュルバニパルは各地に遠征を行ってアッシリアの支配地を拡大した。最も大規模な遠征は古くからの敵国[[エラム]]に対するものと、最終的には反乱を起こしたシャマシュ・シュム・ウキンに対するものである。アッシュルバニパルは前665年と前647-前646年の一連の遠征によってエラムを撃破し、その国土を破壊した。アッシュルバニパルに劣後する地位に不満を持っていたであろうシャマシュ・シュム・ウキンは前652年に反旗を翻し、アッシリアの敵国を糾合してアッシュルバニパルと戦ったが、敗れ去り自害した。 |
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アッシュルバニパルの最も有名な業績は、[[アッシュルバニパルの図書館]]と呼ばれる古代オリエントにおいて最も良く知られた[[図書館]]の建設である。彼自身、この図書館を、自分の最も偉大な業績と考えていた。宗教的文書・手引書・メソポタミアの伝統的な物語など様々なジャンルの30,000点もの粘土板文書を集めたこの図書館によって、『[[ギルガメシュ叙事詩]]』のような古代の文学作品が数多く今日に伝えられ、近現代の[[アッシリア学]]の発展に多大な影響を与えている。 |
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=== 第二次エラム遠征 === |
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ナブー・ベール・シュマティがエラムへ逃げ込んだ事や、エラム自体も反乱に手を貸した事などから、アッシュールバニパルは再びエラムとの戦いに乗り出した。アッシリア軍はここで大規模な勝利を収め、エラムの首都[[スサ]]を占領({{仮リンク|スサの戦い|en|Battle of Susa}})、これを徹底的に破壊した。この結果[[シュメール]]時代以来[[メソポタミア]]に影響力を振るったエラムはその有力国としての地位を完全に失った([[:en:Fall of Elam]])。ナブー・ベール・シュマティは従者によって殺され、彼の死体は塩漬けにされてニネヴェに送られた。この勝利によって、アッシリアの威光は[[イラン高原]]にまで広まり、多くの王がアッシリアに貢納を行った。そういった王の中には未だ小国であった[[アンシャン]](後に[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシア]])王[[キュロス1世]]もいた。 |
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=== |
=== 年表 === |
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アッシュールバニパル治世の後半は記録が乏しい。大規模な遠征は無かったと言われているが、アッシリアの国力は衰退していったと考えられる。その原因については明らかではない。死後王位継承を巡ってアッシリアの政局は混乱に陥った。[[アッシュール・エティル・イラニ]]が王位についたが、短期間に王位が交代、まもなくアッシリア自体も滅亡する事になる。なお記録の減少についてはアッシュールバニパルが首都を遷したためであるとする説もある。 |
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{| class="wikitable" |
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== 文化事業 == |
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アッシュールバニパルの治世は歴代アッシリア王に比して遠征が少なく、アッシュールバニパルに関する記録も、建築や研究、文芸に関する記録が多いので知られる。アッシュールバニパルは、歴代アッシリア王の中で最も教養豊かな王と言われ、シュメール語、アッカド語の読み書きができた。彼自身それを誇りとしていたことを示す文書も残されている。 |
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! 年(紀元前) !! 年齢(*) !! 出来事 |
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| 685年頃 || 0 || アッシュルバニパル、誕生 |
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| 672年 || 13 || エサルハドンによる後継者指名 |
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| 669年 || 16 || エサルハドン死亡。アッシュルバニパルが王となる |
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| 667年 || 18 || エジプト遠征。ネカウ1世をファラオに据える |
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| 666年 || 19 || 反乱を受け、エジプト再遠征。 |
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| 665年 || 20 || プサムテク1世をファラオに据える |
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|- |
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| 652年 || 33 || エラム遠征(1回目)。兄のシャマシュ・シュム・ウキン、反乱を起こす |
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|- |
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| 650年 || 35 || バビロンを包囲 |
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|- |
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| 648年 || 37 || バビロン陥落。シャマシュ・シュム・ウキン死亡 |
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|- |
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| 647年 || 38 || エラム遠征(2回目) |
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|- |
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| 636年 || 49 || アッシュルバニパルの年代記における記述がこの年で終わる |
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| 631年 || 54 || 死亡?(前631年死亡説) |
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|- |
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| 627年 || 57 || 死亡?(前627年死亡説) |
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|} |
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(* 生年を紀元前685年として計算した場合のおよその年齢)<br> |
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{{quotation| |
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あらゆる書記の神[[ナブー (メソポタミア神話)|ナブー]]は我に彼の知恵、即ち粘土板に文字を記す完全なる技術を与えたもうた。我は賢明な神[[アダパ]]の啓示、即ち書法の秘伝を受けた。(中略)我は博学の師について天地のことを考えた。(中略)我は透かし見ることのできない掛け算や割り算の問題を解いた。(中略)我は難解なアッカド文字を読める。アッカド語を覆い隠しているシュメール語の精緻な文書を読める。謎めいた大洪水以前の石碑の文も読める。(後略) |
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== 出自と王位継承 == |
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}} |
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[[File:Assurbanipal als hogepriester.jpg|left|thumb|王、[[神官]]として描かれたアッシュルバニパルの同時代の像。現在[[大英博物館]]で展示されている。]] |
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父親である[[エサルハドン]]には多数の息子がいたと見られ、アッシュルバニパルは恐らく4番目の息子であった。兄に王太子{{仮リンク|シン・ナディン・アプリ|en|Sin-nadin-apli}}および[[シャマシュ・シュム・ウキン]]と{{仮リンク|シャマシュ・メトゥ・ウバリト|en|Shamash-metu-uballit}}がおり{{Sfn|Novotny|Singletary|2009|p=168}}{{Sfn|伊藤|2014|p=63|ref=伊藤 2014}}、姉に[[シェルア・エテラト]]がいた{{Sfn|Novotny|Singletary|2009|p=168–173}}。王太子シン・ナディン・アプリは前674年に急死した。自らが非常に困難な王位継承争いの末に即位したエサルハドンは同じ問題を発生させないことを切望しており、すぐに新しい王位継承計画を策定し始めた{{sfn|Ahmed|2018|p=63}}。エサルハドンはこの王位継承の計画において3番目の息子シャマシュ・メトゥ・ウバリトを完全に除外しているが、これは恐らく彼が健康に恵まれなかったためであろう{{Sfn|Novotny|Singletary|2009|p=170}}。 |
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前672年5月、アッシュルバニパルはエサルハドンによって[[アッシリア]]の後継者に指名された。また、シャマシュ・シュム・ウキンも[[バビロニア]](当時アッシリアの支配下にあった)の継承者に指名された{{Sfn|Encyclopaedia Britannica||p=}}。両者は共にアッシリアの首都[[ニネヴェ]]に赴き、外国使節・アッシリア貴族・兵士たちの祝賀を受けた{{sfn|Ahmed|2018|p=64}}。過去数十年にわたり、アッシリア王は同時にバビロニア王を兼任しており、息子のうちの1人をアッシリア王に、別の1人をバビロニア王にするというのは新機軸であった{{Sfn|Radner|2003|p=170}}。 |
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アッシリア王という称号は明らかにエサルハドンにとって第一の称号であった。このアッシリアの王太子に弟であるアッシュルバニパルを就け、兄であるシャマシュ・シュム・ウキンをバビロンの王太子にした理由は、彼らの母親の出自によって説明できるかもしれない。アッシュルバニパルの母親は恐らくアッシリア出身であったが、シャマシュ・シュム・ウキンはバビロン出身の女性の息子であった(ただしこれは確実ではない。アッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンが同母兄弟であった可能もある){{Sfn|Novotny|Singletary|2009|p=174–176}}。母親の出自ゆえに、もしエサルハドンがシャマシュ・シュム・ウキンをアッシリアの後継者に指名していれば問題が起こったであろう。アッシュルバニパルはその次に年長の王子であったため、適格性の高い王位候補者であった。エサルハドンは恐らく、バビロニア人たちが自分たちの王を戴くことに満足するであろうと考え、シャマシュ・シュム・ウキンをバビロン市とアッシリア帝国の南部(即ちバビロニア)の王位継承者として設定した{{sfn|Ahmed|2018|p=65–66}}。 |
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エサルハドンはこの王位継承の取り決めを全アッシリアの人々や属国に遵守させるため誓約を結ばせた{{Sfn|伊藤|2014|p=63|ref=伊藤 2014}}。この誓約の本文はアッシリアの旧都[[ニムルド|カルフ]](ニムルド)と現在の[[トルコ]]南部にある{{仮リンク|テル・タイナト|en|Tell Tayinat}}遺跡から発見されている{{Sfn|伊藤|2014|p=63|ref=伊藤 2014}}。継承に関わる誓約の内容は、エサルハドンが2人の息子の関係をどのようなものと意図していたのか幾分不明瞭なものとなっている。アッシュルバニパルの称号には多くの場合「偉大な」という形容詞が付加される一方で、シャマシュ・シュム・ウキンにはそれがなく、アッシュルバニパルが帝国の第一の相続人であることは明確であったが、別の部位ではアッシュルバニパルがシャマシュ・シュム・ウキンの管轄に干渉しないことも明記されており、これはより平等と言える立場を示している{{sfn|Ahmed|2018|p=68}}。 |
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アッシュルバニパルは王太子に指名された後、父を注意深く観察し、作法を学び、軍事戦術を学習して、王位に就く準備を始めた。また、アッシュルバニパルは諜報組織の長も務め、アッシリア帝国全土の情報員からの情報を取りまとめて父親に報告した{{Sfn|British Museum||p=}}。そして将軍ナブー・シャル・ウツル(Nabu-shar-usur)と書記ナブー・アヒ・エリバ(Nabu-ahi-eriba)から教育を受け、文学と「歴史」への興味を深めた。彼は書記技術と宗教的学識を習得し、自らの母語である[[アッカド語]]に加え、[[シュメール語]]にも習熟した。アッシュルバニパル自身の後の記録(彼の治世の主たる史料となる彼の年代記)によれば、その知性と勇気の故に、エサルハドンはアッシュルバニパルを気に入っていたという{{Sfn|Encyclopaedia Britannica||p=}}。 |
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エサルハドンは頻繁に病を患っており、恐らくは[[膠原病]]の一種である[[全身性エリテマトーデス]]に罹患していたことから{{Sfn|Parpola|2007|pp=232-234|ref=Parpola 2007}}、その治世の最後の数年間はアッシリア帝国の行政的義務の大半がアッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンによって担われた{{Sfn|Radner|2003|p=170}}{{Sfn|伊藤|2014|p=63|ref=伊藤 2014}}。エサルハドンがエジプト遠征に出発すると、アッシュルバニパルは宮廷の一切を取り仕切り、前669年にエサルハドンが死亡すると、アッシュルバニパルの元に全権が円滑に移行した{{Sfn|Encyclopaedia Britannica||p=}}。 |
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== 治世 == |
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=== 治世初期とエジプト遠征 === |
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[[File:アッシリア帝国の版図(前9~7世紀).png|alt=|left|thumb|前671年の[[アッシリア|アッシリア帝国]]。アッシュルバニパルの父で前王の[[エサルハドン]]が[[エジプト第25王朝|エジプト]]を征服した時点。]] |
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前669年末にエサルハドンが死亡した後、彼が建てた王位継承計画のとおりにアッシュルバニパルがアッシリアの王となった。翌年の春、シャマシュ・シュム・ウキンが{{仮リンク|バビロン王|en|king of Babylon}}に即位し、20年前に[[センナケリブ]]王(アッシュルバニパルの祖父)が奪い取っていた{{仮リンク|マルドゥク像|label=ベール像|en|Statue of Marduk}}(マルドゥク、[[バビロン]]の守護神)をバビロンに戻した。シャマシュ・シュム・ウキンは以降16年間バビロンを統治し、治世の大部分においてアッシュルバニパルと平和的な関係を維持していたが、シャマシュ・シュム・ウキンの領地の正確な範囲を巡って両者は繰り返し意見を違えた{{Sfn|Ahmed|2018|p=8}}。エサルハドンの碑文はシャマシュ・シュム・ウキンがバビロニア全ての支配権を与えられるべきことを示唆しているが、同時代史料によって確実に証明されているのはシャマシュ・シュム・ウキンがバビロンとその周辺を保持していたことだけである。[[ニップル]]や[[ウルク (メソポタミア)|ウルク]]、[[ウル]]のようなバビロニアの都市の総督たちや「海の国」([[ペルシア湾]]岸に近い南[[シュメール]]の湿地帯)の支配者たちの全てがバビロン王の存在を無視し、アッシュルバニパルを自分たちの君主とみなした{{Sfn|Ahmed|2018|p=80}}。 |
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アッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンが正しく君主として即位した後、アッシュルバニパルはその関心をエジプトへと向けた{{Sfn|Mark|2009|p=}}。エジプトは前671年にエサルハドンによって征服されていた。これは彼の最大の業績の1つであった。エサルハドンは忠実な総督に新たなエジプト領土を任せ、ファラオ・[[タハルカ]]の妻と息子を含むエジプト王族の大部分を捕らえたが、タハルカ自身は南方の[[クシュ]]へと逃れた{{Sfn|Mark|2014|p=}}。 |
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前669年、タハルカは南から再び姿を現し、エジプトを揺り動かしてエサルハドンの支配を覆そうとした{{Sfn|Radner|2003|p=176–177}}。エサルハドンは反乱の報告を受け取り、彼が任命したエジプトの総督たちすらも貢納を停止して反乱に参加したことを知ると{{Sfn|Mark|2014|p=}}、反乱を鎮圧するためエジプトに進軍したが、国境に到着する前に死去した{{Sfn|Radner|2003|p=176–177}}。代わって反乱を鎮圧するため、アッシュルバニパルは前667年頃にエジプトに侵攻した。アッシリア軍は遥か南にあるエジプトの古都の1つ[[テーベ]]にまで到達し、反乱に参加した数多くの都市を攻撃・略奪した。反乱を鎮圧したアッシュルバニパルはエジプトに属王として[[ネコ1世|ネカウ1世]](ネコ1世)を据えた。彼はサイスの町の王であった人物であり、その息子[[プサムテク1世]](プサメティコス1世)はエサルハドンの治世にアッシリアの首都[[ニネヴェ]]で教育を受けていた{{Sfn|Mark|2009|p=}}。 |
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勝利の後、アッシュルバニパルはエジプトを去った。これによってエジプトの防衛が弱体化したと見た[[タヌトアメン]](タハルカの甥であり、後継者)は自らの一族に王冠を取り戻すべくエジプトへ侵攻した。彼はエジプトの首都[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]でネカウ1世と遭遇した。タヌトアメンは撃退されたが、ネカウ1世もこの時に戦死した。状況は急速にタヌトアメンに有利なものとなり、エジプト人たちは彼の側に立ってプサムテク1世に対する反乱を起こした。このためプサムテク1世は逃亡に追い込まれ姿を隠した。これを聞くと、アッシュルバニパルは前666年に再び軍を率いてエジプトに進軍し、タヌトアメンを破った。エジプトにおけるクシュ人たちの拠点であったテーベが略奪されると(これは、この10年の間にテーベで行われた3度目の略奪であった)、タヌトアメンはエジプト遠征を断念してクシュへと逃げ戻った{{Sfn|Mark|2009|p=}}。 |
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勝利を得たアッシュルバニパルは前665年にプサムテク1世を全エジプトのファラオとし、エジプト全土にアッシリアの守備隊を配置した。その後、アッシュルバニパルはアナトリアの{{仮リンク|タバル|en|Tabal}}、北方の[[ウラルトゥ]]、南東の[[エラム]]など他の地域での戦いに注力した。彼のエジプトへの関心が低下したことを受けて、エジプトは流血を伴うことなくアッシリアの支配から緩やかに離脱していった。 |
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=== 一度目のエラム遠征 === |
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[[File:Elamite archer. Alabaster. From Nineveh, Iraq. Reign of Ashurbanipal II, 668-627 BCE. The Burrell Collection, Glasgow, UK.jpg|thumb|[[ニネヴェ]]で発見されたアッシュルバニパルのレリーフの1つに描かれた[[エラム|エラム人]]弓兵。]] |
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前665年、エラムの王{{仮リンク|ウルタク|en|Urtak (king of Elam)}}はアッシリア支配下のバビロニアに突如攻撃を仕掛けたが、失敗してエラムに後退し、その後まもなく死亡した。ウルタクのエラム王位は{{仮リンク|テウマン|en|Teumman}}に引き継がれた。この人物はそれまでの君主家系と繋がりを持っておらず、政敵を殺害することで支配を安定させていた。エラム王位を巡って主に争っていた相手であるウルタクの息子たちのうち3人がアッシリアに逃亡した。テウマンが彼らの引き渡しを要求したにもかかわらず、アッシュルバニパルは彼らを庇護した{{Sfn|Carter|Stolper|p=50|1984}}。 |
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エラムに対する勝利の後、アッシュルバニパルは領内の一連の反乱に対処しなければならなかった。バビロニアにおける[[ガンブル族]]([[アラム人]]の部族)の首長ベール・イキシャ(Bel-iqisha)はエラム人の侵攻を支持していたと疑われており、権限の一部を手放すことを強要され、その後に反乱を起こした。この反乱についてはほとんど何もわかっていないが、アッシュルバニパルがウルクの総督ナブー・ウシャブシ(Nabu-ushabshi)にベール・イキシャ攻撃を命じたことが現存する当時の書簡によって知られている。これはアッシュルバニパルの攻撃命令に対するナブー・ウシャブシからの返信であり{{Sfn|Ahmed|2018|p=79}}、ナブー・ウシャブシはアッシュルバニパルに対してベール・イキシャが反乱を起こしエラム人を引き込んだと述べている{{Sfn|Ahmed|2018|p=79}}。ナブー・ウシャブシはアッカドの地の全域から兵を動員することを請け合っているが、ベール・イキシャの反乱が大きな被害を出した形跡はなく、年代記では言及されていない{{Sfn|Ahmed|2018|p=79}}。彼は間もなく殺害され、前663年にはベール・イキシャの息子ドゥナヌがアッシュルバニパルに降伏した{{Sfn|Ahmed|2018|p=80}}。 |
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シャマシュ・シュム・ウキンは前653年までにはアッシュルバニパルの支配にうんざりしていたように思われる。バビロンで発見された碑文によって、アッシュルバニパルがシャマシュ・シュム・ウキンの業務を管理し、本質的には自らの指示に従わせていたことが示されている。シャマシュ・シュム・ウキンはエラム王テウマンに使者を送りアッシュルバニパルの支配を揺るがすためにエラム軍を利用しようとした。アッシュルバニパルはシャマシュ・シュム・ウキンが関与していることを知らなかったようであるが、前652年にエラム人を打ち破り、その都市や国家自体を破壊した{{Sfn|Mark|2009|p=}}。このエラム遠征における最後の戦いはエラムの首都[[スーサ]]の近郊で行われ、アッシリアの決定的な勝利に終わった。この結果の原因の一部はエラム軍部隊が逃亡したことによる。テウマン王はこの戦いで死亡した。この勝利の余波の中で、アッシュルバニパルはウルタクの息子のうち2人、{{仮リンク|ウンマニガシュ|en|Ummanigash (son of Urtak)}}を{{仮リンク|マダクトゥ|en|Madaktu}}(エラムの王宮があった都市、正確な位置は知られていない)とスーサの王に据え、{{仮リンク|タンマリトゥ1世|en|Tammaritu I}}をヒダルの王とした{{Sfn|Carter|Stolper|p=50|1984}}。アッシュルバニパルは自身の碑文においてこの勝利を次のように描写している。 |
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{{Quote| quote = 恐るべき嵐の襲来の如く、余はエラムの全てを滅ぼした。余は、彼らの王テウマンの首を落とした。この男は、傲慢で悪事を企む者だ。余は数え切れないほどの兵士を殺した。生き残った兵士たちは余の手で捕らえた。余はスーサの平原を、まるでバルトゥ(baltu)やアシャグ(ashagu)の(木がいたるところに生えるが)ごとく彼らの死体で満たした{{refn|''Baltu''と''ashagu''は恐らく棘のある低木の品種である。|group="注釈"}}。余は彼らの血をウライ(Ulai{{refnest|group="注釈"|Ulaiは現在の[[カールーン川]]である{{Sfn|Diakonoff|1985|p=1|ref=Diakonoff 1985}}。[[イラン]]、[[フーゼスターン州]]を流れ、[[シャットゥルアラブ川]]に合流する。}})に流し、その水を羊毛の如く赤く染めた{{Sfn|Luckenbill|1927|pp=299–300}}。}} |
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以前降伏したガンブル族のドゥナヌとその兄弟のサムグヌ(Sam'gunu)は、このアッシュルバニパルとテウマンの戦いが始まる以前に再び反乱を起こしていたと見られ、対エラム戦争が始まると、エラム側に同調した。そのために彼は家族もろとも捕らえられ殺害された。懲罰として、ガンブル族の首都[[シャピベル]](Shapibel)は水没させられ、多くの住民が殺戮された。アッシュルバニパルはドゥナヌに替えてリムトゥ(Rimutu)という貴族を新たなガンブル族の族長とした。彼はかなりの金額を貢納としてアッシュルバニパルに支払うことに合意していた{{Sfn|Ahmed|2018|p=80}} 。アッシュルバニパルはドゥナヌに対する自身の報復を以下のように描写している。 |
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{{Quote| quote = 帰りの行軍において余はガンブル族の王ドゥナヌと対峙した。彼は、エラムを信じる者だった。ガンブル族の拠点シャピベル(Shapibel)を余は占領した。余はこの町に入り、その住民を子羊を屠るかのごとく殺戮した。ドゥナヌとサムグヌは私の主権の行使を妨げた者たちだが、彼らには、鉄の手かせ・足かせをはめてやった。ベール・イキシャの残りの息子たち、その家族、その父親の血を引く者、そこにいた者は全て、 ナブー・ナーイド(Nabû-nâ'id)、ベール・エティル(Bêl-êtir)、総督たるナブー・シュム・エレシュ(Nabû-shum-êresh)の息子たち、彼らを生み出した父の遺骨、ウルビ(Urbi)とテベ(Tebê)、ガンブルの民、牛、羊、ロバ、馬、ラバを、余はガンブルからアッシリアへと運んだ。彼の本拠地シャピベルを、余は完全に破壊して荒らし、がれきの山で埋め尽くした{{Sfn|Luckenbill|1927|p=300}}。}} |
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アッシリア軍がエラムに遠征している最中、[[ペルシア|ペルシア人]]、キンメリア人、[[メディア王国|メディア人]]の同盟軍がアッシリアの首都ニネヴェに進軍し、市壁にまで到達した。この脅威に対抗するためにアッシュルバニパルは同盟を結んでいたスキタイ人を呼び寄せ敵軍を撃破した。メディア王[[フラオルテス]]はこの戦闘で殺害されたと一般的に考えられている{{Sfn|Mark|2009|p=}}。この攻撃の記録は乏しく、そもそもフラオルテスがこの戦いに参加していなかった可能性もある。彼の死は、アッシュルバニパル以後のアッシリア王によるメディア遠征時の出来事かもしれない{{Sfn|Delaunay|1987|pages=805-806}}。 |
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=== リュディアとキンメリア人の処理 === |
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[[File:Palace relief from Nineveh - Pergamonmuseum - Berlin - Germany 2017.jpg|left|thumb|ニネヴェの宮殿のレリーフに描かれたアッシリアの槍兵。7世紀。[[ペルガモン博物館]]にて展示。]] |
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アッシュルバニパルが残した年代記によれば、彼の治世第3年(前665年)、ルッディ(Luddi)の王グッグ(Guggu)がギミライ(Gimirrai)の攻撃を受けた際、アッシュル神がグッグに対してアッシリアに助けを求めるよう、夢の中で神託を与えた。グッグはそれに従ってアッシュルバニパルに使者を送り、アッシュル神と[[イシュタル]]神の力を得てギミライを撃破して、捕らえたギミライの首長二人を貢物と共にアッシリアに送り届けたという<ref name="杉1969p281">[[#杉 1969|杉 1969]], p. 281</ref>。この碑文に登場するルッディは、[[ヘロドトス]]など古代ギリシアの著作家が記録に残している西[[アナトリア]]の国家[[リュディア]]に対応すると考えられる<ref name="杉1969p281"/>。同じくグッグはリュディアの伝説的な王{{仮リンク|ギュゲス (リュディア)|en|Gyges of Lydia|label=ギュゲス}}、ギミライはギュゲス王の時にリュディアを席捲したことが知られる[[キンメリア人]]に対応する<ref name="杉1969p281"/>。キンメリア人はアッシリアの北、[[カフカス]]南部に居住していた[[インド・ヨーロッパ語族|インド・ヨーロッパ語]]を話す遊牧民で、アッシュルバニパルの父エサルハドンの時代にアッシリアを侵略したが撃退され、その後矛先をリュディアへと変えていた。 |
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この年代記の記録に依れば、ギュゲスはキンメリア人を撃退した後にアッシリアとの通交を打ち切り、その代わりにエジプトの王プシャミルキ(Pušamilki、[[プサムテク1世]])との同盟を計画した。これを聞きつけたアッシュルバニパルはアッシュル神に祈ってギュゲスを呪詛し、逆にキンメリア人の側に立った。この結果としてリュディアは前652年から前650年頃にかけて再びキンメリア人に制圧されたという<ref name="杉1969p281"/>{{Sfn|Delaunay|1987|pages=805-806}}。ギュゲスの死後、リュディアの王位を継いだ息子(ヘロドトスによれば[[アルデュス]]<ref name="ヘロドトス§15">[[#ヘロドトス 1971|ヘロドトス]], 巻1§15</ref>)は再びアッシュルバニパルの支援を求めた。この時、彼は使者を通じて「あなたは、神々が見(恵み)給える王である。あなたは私の父を呪った。悪事はかれを見舞った。私は、あなたを畏れる奴隷であり、私に恵みをたれ給う。私があなたの軛を負うように」と述べたと、アッシュルバニパルの年代記は伝えている<ref name="杉1969p282">[[#杉 1969|杉 1969]], p. 282</ref>。 |
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アッシリアにとってリュディアとの接触は新しい事態であり、アッシュルバニパルの年代記においてルッディ(リュディア)は「父祖である諸王がその名をきいたことのない遠隔の地」と描写されている<ref name="杉1969p281"/>。キンメリア人のリュディア侵入についてのこの年代記の記録は概ねヘロドトスが著書『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』で記録している内容と一致しているが、ヘロドトスの記録にはアッシリアの動向についての言及はなく、キンメリア人のリュディア侵入は[[スキタイ人]]によって彼らが原住地を追われたためであるとされている<ref name="ヘロドトス§15"/>。キンメリア人とリュディアの戦いにおいて、アッシュルバニパルが実際にどのように関与したのかは不明である{{Sfn|Delaunay|1987|pages=805-806}}。ヘロドトスによればリュディアはアルデュスの孫[[アリュアッテス]]王の治世になってようやく完全にキンメリア人を撃退した<ref name="ヘロドトス§16">[[#ヘロドトス 1971 |ヘロドトス]], 巻1§16</ref>。 |
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=== シャマシュ・シュム・ウキンの反乱 === |
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[[File:Detail of a stone monument of Shamash-shum-ukin as a basket-bearer. 668-655 BCE. From the temple of Nabu at Borsippa, Iraq and is currently housed in the British Museum.jpg|thumb|カゴを運ぶ[[シャマシュ・シュム・ウキン]]の石製記念碑。前668年-前655年。[[ボルシッパ]]の[[ナブー (メソポタミア神話)|ナブー]]神殿で発見。現在[[大英博物館]]収蔵。]] |
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前650年代までには、シャマシュ・シュム・ウキンとアッシュルバニパルの間の敵対関係は彼らの家臣たちの目には明白なものとなっていた。シャマシュ・シュム・ウキンの宮廷の廷臣であったザキル(Zakir)からアッシュルバニパルへ送られた書簡では、シャマシュ・シュム・ウキンの面前で「海の国」からの使者がアッシュルバニパルを公然と非難したことを説明し、「これは王の言葉ではありません!」というフレーズを用いている。シャマシュ・シュム・ウキンはこの使者に対して怒ったが、彼とバビロンの総督ウバルはこの使者を罰しないことにしたとザキルは報告している{{Sfn|Ahmed|2018|p=88}}。恐らく、シャマシュ・シュム・ウキンの反乱の背後にある最も重要な要素は、アッシュルバニパルに対する彼の地位への不満、アッシリアに対するバビロニア人一般の不変の恨み、そしてアッシリアに対する戦争を起こす者に対してはそれが誰であれ加担するエラムの君主の不断の意欲であった{{Sfn|Ahmed|2018|p=90}}。 |
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シャマシュ・シュム・ウキンは前652年にアッシュルバニパルに対して反旗を翻した。この内戦はその後3年間続くことになる{{Sfn|Ahmed|2018|p=8}}。シャマシュ・シュム・ウキンは反乱に際してアッシュルバニパルに対する何等かの中傷をバビロンの人々に向けて行ったと見られ、アッシュルバニパルがバビロン市民に向けて、シャマシュ・シュム・ウキンの言葉を信じることのないように促し、また、反乱に加担したことの罪に対して温情をもって対応すると述べて自分の側に帰参するように呼び掛けた書簡が現存している{{Sfn|伊藤|2014|p=71|ref=伊藤 2014}}。この中で彼は「この(我が)兄弟でない者がお前たちに話した(根拠のない)風の(ような)言葉、我に関し語られたすべての言葉を我は聞いた。だがそれは風である。彼を信じてはならない」と始めている。シャマシュ・シュム・ウキンに言及するアッシュルバニパルの碑文には次のようなものがある。 |
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{{Quote| quote = 不実なる余の兄弟シャマシュ・シュム・ウキン、余が親身に取り扱い、バビロンの王に取り立てたる者 ― 王権に必要な、ありとあらゆるものを余は彼に与えた。兵士たち、馬、戦車。私がこれらの装備を調え、彼の手に与えたのだ。街や畑、農園、そこで暮らす者たち。父が命じたよりも多くのものを余は彼に与えた。しかし近頃、余が見せたこの慈愛を彼は忘れ去り、悪を企んだ。外面ではその唇で彼は正しき言葉を発していたが、内面では彼の心は殺人を企てていた。アッシリアに忠良なるバビロニア人たち、そして我が忠誠なる臣下たちを、彼は欺き、嘘を吹き込んだ{{Sfn|Luckenbill|1927|p=301}}。}} |
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[[File:Ashurbanipal in a chariot, wall relief, 7th century BC, from Nineveh, the British Museum.jpg|thumb|{{仮リンク|アッシュルバニパルの獅子狩り|en|Lion Hunt of Ashurbanipal}}に描かれた戦車の上で弓を構えるアッシュルバニパル]] |
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シャマシュ・シュム・ウキンが反乱を始めた直後、他の南部メソポタミア地域もまた彼と共にアッシュルバニパルに反乱を起こした{{Sfn|Ahmed|2018|p=91}}。さらにアッシュルバニパルの碑文によれば、シャマシュ・シュム・ウキンはアッシリアに対抗するための同盟相手を見つけることに成功していた。アッシュルバニパルはシャマシュ・シュム・ウキンの同盟者たちを3つのグループに分類している。第一に何よりも[[カルデア人]]、[[アラム人]]、その他のバビロニアの人々。第二にエラム人。第三に[[グティ人]]、[[アムル人]](アモリ人)、[[メルッハ]]の王たちである。最後のグループの王たちはおそらくメディア人を指しているが(グティ人、アムル人、そしてメルッハはこの時点ではもはや存在しない)、これははっきりしない。メルッハはエジプトのことであるかもしれないが、エジプトはこの反乱でシャマシュ・シュム・ウキンを支援してはいない。シャマシュ・シュム・ウキンがエラムに送った大使は贈り物(アッシュルバニパルはこれを「賄賂」と呼んでいる)を渡しており、エラム王ウンマニガシュはテウマンの息子ウンダシェ(Undashe)を司令官としてシャマシュ・シュム・ウキンの反乱に援軍を派遣した{{Sfn|Ahmed|2018|p=93}}。 |
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一見強力に見えるこの同盟であったが、シャマシュ・シュム・ウキンの状況は前650年までには厳しいものとなった。アッシュルバニパルの軍勢はシッパル、ボルシッパ、{{仮リンク|クタ (イラク)|en|Kutha|label=クタ}}、そしてバビロン自体をも包囲下に置いた。包囲の中、バビロンは飢えと疫病に耐えたが、ついに前648年5月頃に陥落し、アッシュルバニパルによって略奪された。シャマシュ・シュム・ウキンは宮殿で[[焼身自殺|自分と家族に火をかけ]]自殺した{{Sfn|Johns|1913|p=124–125}}{{Sfn|Ahmed|2018|p=8}}{{Sfn|伊藤|2014|p=75|ref=伊藤 2014}}。アッシュルバニパルは彼の勝利とシャマシュ・シュム・ウキンの支持者に対する復讐を碑文で次のように述べている。 |
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{{Quote| quote = アッシュル神、[[シン (メソポタミア神話)|シン]]神、[[シャマシュ]]神、[[アダド]]神、ベール([[マルドゥク]]神)、[[ナブー (メソポタミア神話)|ナブー]]神、ニネヴェの[[イシュタル]]神、キドムリ(Kidmuri)の女王、[[アルビール|アルベラ]]のイシュタル神{{Efn|新アッシリア時代のイシュタル女神の神格は複雑であり、複数の「現地化」されたイシュタル神が存在していた。アッシュルバニパルはここで言及されている3柱のイシュタル(ニネヴェのイシュタル、キドムリの女王としてのイシュタル、アルベラのイシュタル)について別の碑文でも父エサルハドンに後継者として自分を指名させた神々として言及している。これらのイシュタルはその重要性において対等ではなく、最も重要な天界のイシュタル(Ištar-of-Heaven)、次いでニネヴェのイシュタルが他のイシュタルよりも上位の存在であった。キドムリはニネヴェに存在した神殿の名前であるが、言葉の意味は不明である。アッシリアの宗教的文書においてこれらの複数のイシュタルは明らかに別々の神である。また、これらのイシュタル神は「ムリッス」という名前も共有していた。ニネヴェのイシュタル神はある賛歌において、まず表意文字(シュメログラム)においてムリッス(NrN.LiL)と呼ばれ、次いで音節表記でイシュタル(Ištar)と言及されている{{Sfn|Spencer|2015|p=141}}{{Sfn|Porter|2004|pp=43-44}}。}}、[[ニヌルタ|ウルタ]]神、[[ネルガル]]神、{{仮リンク|ヌスク|en|Nusku}}神が、我が前を行軍し我が敵を殺戮した。そして余に仇なす兄弟、我が敵となりしシャマシュ・シュム・ウキンを燃え盛る業火の中へ放り込み破滅させた。しかし、余に仇なす兄弟シャマシュ・シュム・ウキンの計画を企て悪を行ったが、死を恐れ自らの命を尊ぶ者どもは、彼らの主君シャマシュ・シュム・ウキンと共に火の中に身を投じなかった。彼らのうち、死を与える鉄剣、そして飢餓が訪れる前に逃げた者どもがいたが、我が主、大いなる神々の投網は捕らえ、法の裁きを与えた。一人として逃げ果せた者はいなかった。私の手から滑り落ちず、神々が私の手に渡した罪人、戦車、馬車、輿、彼の愛妾を我が前に運んだ。その唇から卑しさを紡ぎだし、我が神アッシュルに対し俗悪なる言葉を発し、この神を畏れる余に対して悪を行った者ども。余は彼らの舌を切り裂き、法で裁いた。残りの生きている者たちについては、彼らが切り倒した、余を生み出したる父の父センナケリブ、その巨像のそばでこれを斬り殺し、私を生み出したる父の父であるセンナケリブの遺影に捧げる犠牲とした。彼らのバラバラにした死体を、余は犬、豚、オオカミ、鷲、そして天空の鳥と深淵の魚に与えた{{Sfn|Luckenbill|1927|p=|pp=303–304}}。}} |
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シャマシュ・シュム・ウキンが敗れた後、アッシュルバニパルはバビロンの新たな王として[[カンダラヌ]]を任命した。カンダラヌは恐らくアッシュルバニパルの弟の一人であろう。シャマシュ・シュム・ウキンの領地がカンダラヌの領地とされ、同時にアッシュルバニパルはニップル市を拡張し、アッシリアの強力な要塞とした{{Sfn|Ahmed|2018|p=8}}。カンダラヌの権限は極めて限られたものであった可能性が高く、バビロンにおける彼の治世の現存史料はほとんどない。もし、カンダラヌがアッシュルバニパルの兄弟ではないとすれば、恐らく彼はシャマシュ・シュム・ウキンの反乱においてアッシュルバニパルと結んだバビロニアの貴族であり、褒章として玉座を与えられたのであろう。カンダラヌは恐らく本当の意味での政治的・軍事的な実力を欠いており、それはアッシリアの手に確固として握られていた{{Sfn|Na’aman|1991|p=254}}。 |
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=== 二度目のエラム遠征 === |
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[[File:Destruction of the Elamite city of Hamanu 645-635 BCE.jpg|left|thumb|アッシュルバニパルのエラムに対する遠征は[[スーサ]]市の破壊を描いたこのレリーフで誇らしげに記録されている。このレリーフでは街から火の手が上がり、アッシリアの兵士たちがつるはしとバールで街を破壊し、戦利品を運び去っている。現在、このレリーフは[[ルーブル美術館]]で展示されている。]] |
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ウンマニガシュ統治下のエラムはシャマシュ・シュム・ウキンの側に立って反乱に参加し、アッシュルバニパルによってアッシリア帝国に組み込まれていたエラムの一部地方に対する支配権を部分的に回復していた。しかし、ウンマニガシュの軍勢は{{仮リンク|デール (イラク)|en|Der (Sumer)|label=デール}}市の近郊で撃破され、その結果として彼は{{仮リンク|タンマリトゥ2世|en|Tammaritu II}}によってエラムから追放された。これによってタンマリトゥ2世がエラムの王となった。ウンマニガシュはアッシリアの宮廷に逃げ込みアッシュルバニパルの庇護を受けた。タンマリトゥ2世の統治は短期間であり、カルデア人の将軍ナブー・ベール・シュマティと協力して幾度かの戦闘で勝利を収めたにもかかわらず前649年の別の反乱で追放された。新たなエラム王{{仮リンク|インダビビ|en|Indabibi}}の治世も非常に短く、アッシュルバニパルが自らの敵国に対してエラムが支援を行っていることを理由にエラムに侵攻するという脅しを行った後に殺害された{{Sfn|Carter|Stolper|p=51|1984}}。 |
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インダビビに代わって{{仮リンク|フンバン・ハルタシュ3世|en|Humban-haltash III}}がエラム王となった。ナブー・ベール・シュマティはエラム内の前線基地からアッシュルバニパルに対する戦いを続けた。フンバン・ハルタシュ3世はナブー・ベール・シュマティへの支援を放棄しようとしていたが、ナブー・ベール・シュマティは無視するのが不可能なほどエラム内に非常に多くの支持者を持っていた。このような情勢の中で、アッシュルバニパルは前647年に再びエラムに侵攻した。フンバン・ハルタシュ3世は短期間の抵抗を試みて失敗した後、マダクトゥ(Madaktu)の玉座を放棄して山岳地帯へ逃げ去った{{Sfn|Carter|Stolper|p=51|1984}}。フンバン・ハルタシュ3世はタンマリトゥ2世によって王位から退けられ、タンマリトゥ2世が復位した。アッシリア軍が[[フーゼスターン]]地方を略奪した後に帰国すると、フンバン・ハルタシュ3世もエラムに戻りさらに王位を奪還した{{Sfn|Carter|Stolper|p=52|1984}}。 |
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[[File:Feldzug Assurbanipal.JPG|thumb|[[エラム]]遠征で描かれた戦車に乗るアッシリアの兵士たち。前650年頃。[[ペルガモン博物館]]で展示されている。]] |
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アッシュルバニパルが前646年にエラムに戻ったため、フンバン・ハルタシュ3世は再びマダクトゥを放棄し、まず[[ドゥル・ウンタシュ]]に逃げ、さらにエラム東方の山岳地帯へ逃げ込んだ。アッシュルバニパルの軍はその途上にある都市を略奪し破壊しながらフンバン・ハルタシュ3世を追撃した。エラムにある全ての政治的中心地が破壊され、それまではエラム王に貢納していた周辺の首長たちや小王国がアッシュルバニパルに貢納するようになった。こうした小王国の中には恐らく1世紀後に[[アケメネス朝|ハカーマニシュ朝]](アケメネス朝)によって作り上げられる帝国の前身である[[ペルシア|パルスア]](ペルシア)があった{{Sfn|Carter|Stolper|p=52|1984}}。パルスアの王クル(恐らくは大王[[キュロス2世|クル2世]]/キュロス2世の祖父[[キュロス1世|クル1世]]/キュロス1世と同一人物)は元々、アッシュルバニパルの遠征が始まった時点ではエラム側に立っていた。そのため息子の{{仮リンク|アルック|en|Arukku}}を人質として差し出すことを余儀なくされた。Ḫudimiriと呼ばれる王によって統治されていた「エラムの向こうに広がる」王国のように、それまでアッシリアと接触を持ったことのなかった国々も、初めてアッシリアに貢納するようになった{{Sfn|Delaunay|1987|pages=805-806}}。 |
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遠征からの帰途、アッシリア軍はスーサで残酷な略奪を行った。アッシュルバニパルの戦勝記念碑文では、この略奪が細部に至るまで詳細に描写されており、アッシリアによる王墓への冒涜、神殿に対する略奪と破壊、エラムの神々の像の奪取、そしてその地に塩を撒いたことが仔細に述べられている。これらの碑文の詳細さと長大さは、この出来事に文化的実体としてのエラムの打倒と根絶を宣言し、世界に衝撃を与える意図があったことを示している{{Sfn|Carter|Stolper|p=52|1984}}。この略奪についてのアッシュルバニパルの碑文の一部は以下の通りである。 |
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{{Quote| quote = 彼らの神々の住処であり、彼らの神秘の玉座である、偉大にして神聖なる都市スーサを余は征服した。余は宮殿に入り、銀・金・財宝と富とが蓄えられた宝物庫の扉を開いた...。余はスーサの[[ジッグラト]]を破壊した。余は輝く銅の角を破壊した。余はエラムの神殿を取り壊し、無に返した。余は彼らの神々と女神たちを風の中へ放り込んだ。彼らのいにしえの王たちと近年の王たちの墓を余は破壊し、太陽の下に晒し、彼らの遺骨をアッシュルの地へと運んだ。余はエラムの諸州を破壊し、余はそれらの地に塩を撒いた{{Sfn|Mark|2009|p=}}。}} |
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完膚無きまでの残忍な遠征にもかかわらず、エラムはその後しばらくの間、政治的実体を維持した。フンバン・ハルタシュ3世が帰還してマダクトゥで統治を再開し、(手遅れであったものの)アッシュルバニパルに向けてナブー・ベール・シュマティを差し向けた。しかし、ナブー・ベール・シュマティはニネヴェに向かう途中で自殺した。その後フンバン・ハルタシュ3世も反乱で退位させられ、捕らえられてアッシリアに送られた。この直後からアッシリアの史料はエラムについて語らなくなる{{Sfn|Carter|Stolper|1984|pp=52–53}}。アッシュルバニパルはエラムの諸都市に新たな総督を任命することなく、遠征の後にエラムをアッシリアの属州として組み込もうともしなかった。そうする代わりに彼はエラムを破壊したまま無防備な状態のまま放置した。エラムは荒廃した無人居となったが、アッシュルバニパルの遠征の数十年後、ペルシア人たちがこの地域に移り住み、荒れ果てた都市を再建した{{Sfn|Mark|2009|p=}}。 |
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=== アラビア遠征 === |
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[[File:Assyrian_horsemen_arabs.png|thumb|アラブ人を追うアッシリアの騎兵を描いた芸術作品。1904年のロシアの書籍『''Всемирная история (в четырёх томах) Древний мир''』より。]] |
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[[アラビア半島]]の諸部族に対するアッシュルバニパルの遠征について、現代の学者たちは比較的小さな関心しか払っていないが、彼が残した年代記の最後の版(A版)において最も長い記録がある軍事遠征である{{Sfn|Gerardi|1992|pp=67–74}}。ただし、アッシュルバニパルの年代記の記録は時系列が不確かであり、構成も複雑で史実の読み取りには多くの困難がある。編年に関する問題は歴史学者Israel Eph'Alの研究によって大部分解決されたものの{{Sfn|Gerardi|1992|pp=67–74}}、同じエピソードが複数回登場したり、文法上の誤りがあるなどの問題のほか、登場人物が物語の個々のエピソードで異なる立場を与えられているという問題もある{{Sfn|Gerardi|1992|pp=67–74}}。 |
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また、年代記の各版の作成時に記載されたアラビア遠征の物語は、その都度いくらかの改変が行われている。アラブ人{{refnest|group="注釈"|ここでいう「アラブ人」は現代の[[アラブ人]]と厳密に対応する存在ではない。「集団名としてのアラブは、早くも前9世紀の新アッシリアなどの碑文に登場する。ただし、そのアラブが、[[アラビア語]]を話す言語集団を指しているとは限らず、[[アラビア半島]]に暮らす[[遊牧民]]を指す概念であった可能性も否定できない。実際、[[セム語]]派の諸言語においてこの語は[[砂漠]]・[[遊牧民]]・[[渡り鳥]]などと関連しており、[[クルアーン]]でも『アラブ』ではなく、複数形の『アアラーブ』が遊牧民を指して用いられている」(赤堀<ref name="中東・オリエント文化事典p108">[[#中東・オリエント文化事典 2020| 中東・オリエント文化事典 2020]], p. 108 「3. 人と言語」(赤堀)</ref>)。}}に対する遠征についてのアッシュルバニパルの最初の記録は前649年に作成され、{{仮リンク|ケダル人|en|Qedarites}}の王であるハザエルの子ヤウタ(Yauta)がAmmuladdinという他のアラブの王と共にアッシュルバニパルに反乱を起こし、アッシリア帝国の西方領土を略奪したことについて記述している(ハザエルはアッシュルバニパルの父エサルハドンに貢納を行っていた)。アッシュルバニパルの記録によれば、彼の軍は[[モアブ]]の王{{仮リンク|カマス・ハルタ|en|Kamasḥalta}}の軍と共に反乱軍を打ち破った。Ammuladdinは捕らえられ鎖に繋がれてアッシリアに送られ、ヤウタは逃亡した。ヤウタに代わって、アビヤテ(Abiyate)というアッシリアに忠実なアラブ人の将軍がケダル人の王とされた。上に示したこの遠征についての最も古い記録は、「余のn番目の遠征」というフレーズが欠如し、敵対した人物を破ったとも述べず、敵の王が捕らえられて処刑されることもなく生き延びて逃亡しているという点において他の大部分のアッシュルバニパルの軍事記録と異なっている{{Sfn|Gerardi|1992|pp=67–74}} 。 |
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この遠征についての第二の物語は前648年に作成されたもので、アッシュルバニパルがアラブ人の女王アディヤ(Adiya)を破ったこと、ヤウタがNabayyateのナトゥヌ(Natnu)という別の首長の下へ逃げたこと、ナトゥヌがヤウタの受け入れを拒否しアッシュルバニパルに忠実であり続けたことが記録されている。このバージョンと更にその後に作られたバージョンの物語にはヤウタが何年も前にエサルハドンに対して反乱を起こしたことについて言及されている。これらの後から作られた記録はまた、ヤウタの反乱をシャマシュ・シュム・ウキンの反乱と明確に結びつけ、それを同時に発生したものとし、ヤウタの反乱は、シャマシュ・シュム・ウキンによるアッシリア内戦が引き起こした混乱に乗じたものであることを示唆している{{Sfn|Gerardi|1992|pp=79–81}}。 |
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短期間で終わったこの最初の遠征の後、アッシュルバニパルはアラブ人に対する2度目の遠征を実施した。アッシュルバニパルのこの戦いについての記録は大部分がシリアにおけるウイアテ(Uiate、ヤウタと混同されていたが、恐らく別人)とそのアラブ人兵士たちの捜索に関する彼の軍の動きに関するものである。この記録によれば、アッシリア軍はシリアをダマスカスに向けて行軍し、その後Hulhulitiに進み、その後アビヤテを捕らえ、さらにウショ(Uššo)とアッコ(Akko)を破った。アビヤテが反乱を起こした動機については何の言及もない。さらに、前の遠征でアッシュルバニパルを支援していたNabayyateは、この2度目の遠征では撃破した相手として言及されている。この関係の変化について明らかにするような追加の情報は存在しない{{Sfn|Gerardi|1992|pp=83–86}}。 |
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アラビア遠征の物語の最後のバージョンでは、この2度の遠征はアッシュルバニパルの9度目の遠征を構成するものとされており、その内容がさらに広げられている。このバージョンではヤウタではなくアビヤテがケダル人の王とされ、シャマシュ・シュム・ウキンの反乱に加わったアラブ人の将軍はヤウタではなくAmmuladdinとなっている。そして、アッシュルバニパルが戦利品をアッシリアに持ち帰ったことで、アッシュルバニパルの帝国におけるインフレと、アラビアにおける飢餓が引き起こされたとされている。また、アッシリア軍だけではなくアッシュルバニパル自身も、個人的に戦闘で勝利を収めたことが明らかにされている。この後から作られたバージョンの物語ではウイアテが捕らえられ、エラムでの戦争で捕らえられた捕虜と共に、ニネヴェのパレードで引き回されたと述べられている{{Sfn|Gerardi|1992|pp=89–94}}。 |
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=== 王位継承と編年 === |
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[[File:Delacroix - La Mort de Sardanapale (1827).jpg|thumb|alt=|left|[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]作、[[サルダナパールの死|サルダナパロスの死]](1827年)。侵略者が彼の都市を略奪し、彼の[[ハレム]]で虐殺を行うのを無感動に見ている様を、古代ギリシアの作家の作品に基づいて描いた作品。史実とは異なるロマン主義の作品である。アッシュルバニパルは{{仮リンク|サルダナパロス|en|Sardanapalus}}という名で知られていた。]] |
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アッシュルバニパルの治世の終わりと、その後継者[[アッシュル・エティル・イラニ]]の治世の始まりは史料の欠乏によって謎に包まれている。アッシュルバニパルが保存していた年代記は彼の治世の主たる史料であるが、恐らくは彼の病のために前636年で終わっている。アッシュル・エティル・イラニの碑文ではアッシュルバニパルが自然死したことが示されているが、その死が正確にいつのことであったかを明らかなものとはしていない{{Sfn|Ahmed|2018|p=121}}。考古学的な発掘と発見が行われる前の1800年代、アッシュルバニパルは古代ギリシアの著作から{{仮リンク|サルダナパロス|en|Sardanapalus}}という名前で知られており、アッシリア最後の王と誤認識されていた。彼の死について人気のあった物語として、前612年の[[ニネヴェの戦い (紀元前612年)|ニネヴェの陥落]]の時(実際にはアッシュルバニパルの死のほぼ20年後の出来事である)、サルダナパロスが宮殿もろとも自分自身と生き残っていた側女および下僕を焼いたというものがある{{Sfn|British Museum||p=}}。 |
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[[File:Territorial_organization_of_the_Assyrian_Empire_in_times_of_Ashurbanipal.svg|alt=|thumb|[[アッシリア|新アッシリア]]時代、アッシュルバニパルが死亡した頃の帝国の版図。深緑はアッシリアの''pahitu''/''pahutu''(属州)、黄緑色は''matu''(従属王国)、クリーム色は[[バビロニア]]の従属王国、黄緑色の点はその他の従属王国、黒い点はバビロンの王国の''pahitu''/''pahutu''(属州)、茶色の文字はかつて存在した属州。]] |
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アッシュルバニパルの最後の年を前627年とする見解が繰り返されているが{{Sfn|Encyclopaedia Britannica||p=}}{{Sfn|Mark|2009|p=}}、これは1世紀近く後の[[新バビロニア]]の王[[ナボニドゥス]]の母親がハッラーン市に作らせた碑文に基づいている。アッシュルバニパルが生きて王として統治していたことを示す最後の同時代史料は前631年に作られたニップル市の契約書である{{Sfn|Reade|1970|p=1}}。アッシュルバニパルの後継者たちの統治期間と整合させるため、アッシュルバニパルはこの前631年に死亡したか、退位したか、あるいは追放されたということが一般的に合意されている{{Sfn|Reade|1998|p=263}}。通常は前631年が彼の死亡年とされている{{Sfn|Ahmed|2018|p=8}}。もし、アッシュルバニパルの治世が前627年に終わったとすれば、バビロンから発掘された、彼の後継者であるアッシュル・エティル・イラニと[[シン・シャル・イシュクン]]の碑文の内容とつじつまが合わなくなる。バビロンは前626年に[[ナボポラッサル]]によって占領され、その後再びアッシリアの手に戻ることはなかった{{Sfn|Na’aman|1991|p=246}}。 |
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この2人の王のバビロン統治期間から逆算すれば、アッシュルバニパルのバビロン統治の終期は前631年となるはずであるが、前627年まで統治したという説を正当化する1つの可能性は、アッシュルバニパルと息子のアッシュル・エティル・イラニが共同統治を行っていたと仮定することである。しかし、それ以前のアッシリアの歴史において共同統治の実例は全く存在せず、またこの説は、アッシュル・エティル・イラニが自身の碑文で父の治世が終わった後に王位に就いたと述べていることと明白に矛盾する。在位42年という誤った説が生じた原因として、後世のメソポタミアの歴史編さんにおいて、アッシュルバニパルがバビロンをシャマシュ・シュム・ウキンやカンダラヌと共同統治したという情報が作用した可能性はある。この2人のバビロン統治期間を合計すると42年間に及ぶからである。ただし、カンダラヌが死亡したのは紀元前627年だが、アッシュルバニパルはその3年前に死亡している{{Sfn|Na’aman|1991|p=250}}。 |
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かつて支持を集めた別の説には、アッシュルバニパルとカンダラヌが同一人物であり、「カンダラヌ(Kandalanu)」は単にアッシュルバニパルがバビロンで使用した即位名であるというものがある(従って、この説ではアッシュルバニパルの治世が前627年まで続いたとする)。この見解を擁護するものには例えばポーランドの歴史学者{{仮リンク|シュテファン・ザワドスキ|en|Stefan Zawadzki}}の著書『''The Fall of Assyria''』(1988年)があるが、これは複数の理由からあり得そうもないと考えられている。それまでのアッシリア王の中にバビロンにおいて別名を使用していた王は知られていない。バビロニアから発見された碑文でもまた、アッシュルバニパルとカンダラヌの治世期間の長さは異なっており、アッシュルバニパルの治世は彼が年間を通して王であった最初の年(前668年)を起点とし、カンダラヌの治世はやはり彼が年間を通して王であった最初の年(前647年)を起点として数えられている。個人としてバビロンを統治していた全てのアッシリア王が「バビロンの王」という称号を自らの碑文で用いているが、アッシュルバニパルの碑文では前648年以降に作られたものでさえこの称号は使用されていない。最も重要なことは、バビロニアの史料がアッシュルバニパルとカンダラヌを2人の別の人物として取り扱っていることである。同時代のバビロニア史料も、アッシュルバニパルをバビロンの王として描写していない{{Sfn|Na’aman|1991|p=|pp=251–252}}。 |
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アッシュルバニパルの地位は息子のアッシュル・エティル・イラニに継承された。また別の息子、シン・シャル・イシュクンには要塞都市ニップルが与えられ、カンダラヌが死亡した時にはバビロンにおけるカンダラヌの後継者となることが定められた。この決定は、アッシュルバニパルの父エサルハドンの王位継承計画の影響を受けたものと思われる{{Sfn|Ahmed|2018|p=8}}。 |
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== 家族と子供たち == |
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[[File:Ashurbanipal and his queen dining with city of gold emphasized.jpg|thumb|食事をするアッシュルバニパル(右)と王妃リッバリ・シャラト(Libbali-sharrat、左)]] |
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アッシュルバニパルの王妃の名は'''[[リッバリ・シャラト]]'''{{sfn|Collins|2004|p=1}}(アッカド語:''Libbali-šarrat''{{Sfn|Kertai|2013|p=118}}{{refnest|group="注釈"|リッバリ・シャラトの名前はかつてはアッシュル・シャラト(''Ashur-šarrat'')と読まれていた{{Sfn|Collins|2004|p=5|ref=Collins 2004}}。佐藤 1991においてもアシュル=シャルラトとカナ転写されている{{Sfn|佐藤|1991|p=118|ref=佐藤 1991}}。}})である。彼女についてはあまりよくわかっていないが、アッシュルバニパルが王となった時には既に結婚していた。結婚の時期は前673年頃、エサルハドンの妻エシャラ・ハンマト(''Esharra-hammat'')が死亡した頃のことであったとも考えられる{{Sfn|Kertai|2013|p=119}}。 |
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3人のアッシュルバニパルの子供の名前がわかっている |
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* '''[[アッシュル・エティル・イラニ]]'''(アッカド語:''Aššur-etil-ilāni''{{Sfn|Na’aman|1991|p=248}}):前631年から前627年までアッシリア王として統治した{{Sfn|Na’aman|1991|p=243}}。 |
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* '''[[シン・シャル・イシュクン]]'''(アッカド語:''Sîn-šar-iškun''{{Sfn|Tallqvist|1914|p=201}}):前627年から前612年までアッシリア王として統治した{{Sfn|Na’aman|1991|p=243}}。 |
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* '''ニヌルタ・シャル・ウツル'''(アッカド語:''Ninurta-šarru-uṣur''{{Sfn|Frahm|1999|p=322}}):下位の王妃(リッバリ・シャラトではない)の息子。政治的な役割は果たしていなかったと思われる{{Sfn|Frahm|1999|p=322}}。 |
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シン・シャル・イシュクンの碑文では、彼は「同等者たち(例えば兄弟など)の中から」王権に選ばれたと述べている。これはアッシュルバニパルには上記の3人のほかにもさらに別の息子たちがいたことを示している{{Sfn|Na’aman|1991|p=255}}。 |
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アッシリアが前612年から前609年にかけて滅亡した後、アッシュルバニパルの血脈はメソポタミアの権力の座に舞い戻った可能性もある。新バビロニア最後の王ナボニドゥス(在位:前556年-前539年)の母はハッラーン出身であり、アッシリア人の祖先を持っていた。この女性、{{仮リンク|アッダゴッペ|en|Addagoppe of Harran}}は、彼女自身の碑文によればアッシュルバニパルの統治第20年(前648年、アッシュルバニパルが通年で王であった最初の年を起点とする)に生まれたという。イギリスの学者[[ステファニー・ダリー]]は、ナボニドゥスがアッシュルバニパルの系譜に連なるという彼女の碑文の主張に基づいて、「ほぼ確実に」アッダゴッペがアッシュルバニパルの娘であったと考えている{{Sfn|Dalley|2003|p=177}}。アメリカの聖書研究者マイケル・B・ディック(Michael B. Dick)はこれに反論し、ナボニドゥスはかなりの期間をかけて古いアッシリアのシンボルを復活させ(例えば、彼は自分自身の姿を外套にくるまれた姿で描かせている。このような描写は他の新バビロニア王のものには存在しないが、アッシリアの芸術作品には登場する)、アッシリアの[[サルゴン王朝]]と自分自身を関連付けようとしてはいるものの、「ナボニドゥスがサルゴン王朝と関係があったという何らの証拠も存在しない」と述べている{{Sfn|Dick|2004|p=15}}。 |
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== 遺産 == |
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=== アッシュルバニパルの図書館 === |
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{{Main|アッシュルバニパルの図書館}} |
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[[File:British Museum Flood Tablet.jpg|thumb|『[[ギルガメシュ叙事詩]]』の一部を含む粘土板文書。[[アッシュルバニパルの図書館]]で発見された。現在は[[大英博物館]]で展示されている。]] |
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[[アッシュルバニパルの図書館]]は世界で初めて体系的に組織された図書館であった{{Sfn|British Museum||p=}}{{Sfn|Encyclopaedia Britannica||p=}}。この図書館はアッシュルバニパルの最も良く知られた業績であり、この王自身も自らの最も偉大な業績であると考えていた{{Sfn|Mark|2009|p=}}。この図書館はアッシュルバニパルの命令によって整備され、各地の神殿の図書館からあらゆる種類とジャンルの文書を収集し複写するために帝国全土に書記が派遣された。集められた文書の大半は出来事の前兆の観察文書、人物や動物の詳細な行動記録、天体観測文書などであった。またこの図書館には、シュメール語とアッカド語やその他の言語の辞書、儀式、寓話、祈祷、呪文のような多くの宗教的文書もあった{{Sfn|Encyclopaedia Britannica||p=}}。 |
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『[[ギルガメシュ叙事詩]]』『[[エヌマ・エリシュ]]』(バビロニアの創世神話)『{{仮リンク|エッラ (神)|label=エッラ|en|Erra (god)}}』、『[[エタナ|エタナ物語]]』、『[[ズー|アンズー鳥の物語]]』のような、今日知られている伝統的なメソポタミアの物語の大半は、アッシュルバニパルの図書館に収蔵されていたことによって現代に残されたものである。この図書館はアッシュルバニパルの文学的関心の全てを網羅し、民話(『[[千夜一夜物語]]』の前身の一つである『{{仮リンク|ニップルの貧者|en|Poor Man of Nippur}}』など)、手引書、そして科学的文書も収蔵していた{{Sfn|Encyclopaedia Britannica||p=}}。 |
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アッシュルバニパルは30,000枚以上に及ぶ{{Sfn|Mark|2009|p=}}、膨大な粘土板文書の蔵書を収集する理由を次のように述べている。 |
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{{Quote| quote = 余はアッシュルバニパル。[[世界の王]]。神々が叡智を授け給うた者。学識の最も難解なる内容についての明敏なる見識を獲得した者(余の前任者にそのような知識を得ていた者はいない)。余は将来のためにニネヴェの図書館にこれらの粘土板文書を置いた。余の人生と我が魂の幸福のために。我が王室の名の基礎を保つために{{Sfn|Mark|2009|p=}}。}} |
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ニネヴェは前612年に破壊され、アッシュルバニパルの図書館はアッシュルバニパルの焼け落ちた宮殿の壁の下に埋まり、その後2千年の間、歴史から失われた。19世紀に[[オースティン・ヘンリー・レヤード]]と{{仮リンク|ホルムズド・ラッサム|en|Hormuzd Rassam}}によって発掘され、[[ジョージ・スミス (考古学者)|ジョージ・スミス]]によってその蔵書が翻訳されたことで古代メソポタミアの文書が現代にもたらされた。この図書館の発見以前には、『[[聖書]]』が最古の本であるという広く普及していた概念があった。この考えはアッシュルバニパルの図書館の発見によって決定的に反証された{{Sfn|Mark|2009|p=}}。 |
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=== 歴史学者による評価 === |
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[[File:Ashurbanipal II, detail of a lion-hunt scene from Nineveh, 7th century BC, the British Museum.jpg|left|thumb|{{仮リンク|アッシュルバニパルの獅子狩り|en|Lion Hunt of Ashurbanipal}}に描かれたアッシュルバニパル。]] |
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アッシュルバニパルの治世においてアッシリアは世界史上最大の帝国であり、首都ニネヴェは約120,000人の住民を持ち{{Sfn|Chandler|Fox|p=362|2013}}、恐らくは世界最大の都市であった{{Sfn|British Museum||p=}}。その治世の間、アッシリア帝国は領土拡大を続けつつも経済的に繁栄した{{Sfn|Encyclopaedia Britannica||p=}}。アッシュルバニパルはしばしばアッシリア最後の偉大な王であるとみなされ{{Sfn|Encyclopaedia Britannica||p=}}{{Sfn|Delaunay|1987|pages=805-806}}{{Sfn|Mark|2009|p=}}、前王エサルハドン、さらにその前の王センナケリブと共に、最も偉大なアッシリア王の一人であると認識されている{{Sfn|Budge|1880|p=xii}}。 |
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アッシュルバニパルは時に狂信者という評価を与えられている。彼は帝国全土において主要な神殿の大部分を再建・修復し、その治世の間にとった行動の多くが、彼が強い関心を持っていた前兆の報告を受けてのものであった{{Sfn|Encyclopaedia Britannica||p=}}。彼は二人の弟、{{仮リンク|アッシュル・ムキン・パレヤ|en|Ashur-mukin-paleya}}と{{仮リンク|アッシュル・エテル・シャメ・エルセティ・ムバッリッス|en|Ashur-etel-shame-erseti-muballissu}}をそれぞれ[[アッシュル]]市と[[ハッラーン]]市の神官に任命した{{Sfn|Novotny|Singletary|2009|p=171}}。彼はまた、ニネヴェにある自身の宮殿内にその長い治世の間に起きた重要な出来事を描いた多くの彫刻とレリーフを作らせたため、芸術の庇護者とも見られる。これらの芸術作品で用いられた様式は、彼の前任者たちの下で作成された芸術作品と異なり、「叙事的性格」を備えている{{Sfn|Encyclopaedia Britannica||p=}}。 |
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アッシュルバニパルに対する評価は、単に肯定的なものだけとは限らない。前639年、アッシュルバニパルは{{仮リンク|アッシリアの紀年法|label=その年の名前|en|Eponym dating system}}を、楽士の長であったBulluṭuにちなんで命名した(年名は一般的に古代アッシリアの人々、しばしば軍関係者にちなんで名付けられた)。これを、アッシリア学者ジュリアン・E・リーズ(Julian E. Reade)は「無責任かつ自分に甘い」王の行動であると評した{{Sfn|Reade|1998|p=263}}。アッシリアはアッシュルバニパルの支配の下でその力の頂点に達したが、彼の死後急速に崩壊した。アッシュルバニパルがアッシリアの没落の責任の一部を負うかどうかについては議論の中にある。『[[イラン百科事典|エンサイクロペディア・イラニカ]]』におけるこの王の記事を書いたJ・A・ドロネー(J. A. Delaunay)は、その記事の中で、アッシリア帝国はアッシュルバニパルの下で既に「差し迫った混乱と凋落の明らかな兆しを示し」始めていたと記している{{Sfn|Delaunay|1987|pages=805-806}}。一方で{{仮リンク|ドナルド・ジョン・ワイズマン|en|Donald John Wiseman}}は『[[ブリタニカ百科事典|エンサイクロペディア・ブリタニカ]]』のこの王の記事に「これは彼の死後20年以内にアッシリア帝国が崩壊したことについて、彼の支配を告発するものではない。その崩壊は内紛ではなく、外部からの圧力によるものである」としている{{Sfn|Encyclopaedia Britannica||p=}}。 |
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=== 芸術と大衆文化 === |
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[[File:San Francisco Civic Center Historic District 09.jpg|thumb|[[サンフランシスコ]]の{{仮リンク|シビック・センター (サンフランシスコ)|label=シビック・センター|en|Civic Center, San Francisco}}にある、{{仮リンク|フレッド・パーハード|en|Fred Parhad}}作のブロンズ製{{仮リンク|アッシュルバニパル (像)|label=アッシュルバニパル像|en|Ashurbanipal (sculpture)}}。]] |
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芸術作品におけるアッシュルバニパルの描写は彼の治世から今日まで生き残っている。アッシュルバニパルの宮殿から見つかった一式の{{仮リンク|アッシリアの彫刻|label=宮廷彫刻|en|Assyrian sculpture}}である{{仮リンク|アッシュルバニパルの獅子狩り|en|Lion Hunt of Ashurbanipal}}は、[[ロンドン]]の[[大英博物館]]で見ることができる。これらの彫刻には[[インドライオン|メソポタミアライオン]]を狩って殺すアッシュルバニパルが描かれている{{Sfn|Ashrafian|2011|pp=47–49}}。アッシリアの王はしばしば「羊飼い」として自らの民を庇護する義務を負っていた。この庇護には外敵に対する防衛と、危険な野生動物から市民を守ることが含まれた。あらゆる野生動物の中で最も危険なものはライオンであり、(外国の脅威と同様に)その攻撃的な性質から、混沌と無秩序の象徴とされた。自分たちが支配者として相応しいことを証明し、有能な庇護者であることを示すため、アッシリアの王は{{仮リンク|獅子狩り|en|Lion hunting}}の儀式を行った。獅子狩りはアッシリア王室にのみ許されたものであり、アッシリアの都市周辺か庭園で開催された公的行事であった{{Sfn|Introducing the Assyrians||p=}}。 |
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[[1942年]]、[[中島敦]]はアッシュルバニパルの時代を舞台とした[[文字禍]]を発表した。 |
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アッシュルバニパルは現代の芸術作品の主題でもある。1958年、シュルレアリストの画家[[レオノーラ・キャリントン]]は[[イスラエル博物館]]のキャンバスに『''Assurbanipal Abluting Harpies''』と題する[[油絵]]を描いた。これは人間のような顔を持つ鳩に似た生き物の頭に白い物を注ぐアッシュルバニパルを描いている{{Sfn|Assurbanipal Abluting Harpies||p=}}。1988年には{{仮リンク|フレッド・パーハード|en|Fred Parhad}}が{{仮リンク|アッシュルバニパル (像)|label=アッシュルバニパル|en|Ashurbanipal (sculpture)}}像を作り、これは[[サンフランシスコ市庁舎]]そばの通りに設置された。この像の値段は100,000ドルで、「初のアッシュルバニパルの巨大な銅像(first sizable bronze statue of Ashurbanipal)」と形容された。フレッド・パーハードは[[現代アッシリア人]]の祖先を持っており、この像は1988年5月29日に現代アッシリア人からの贈り物としてサンフランシスコ市へ贈与された。現地在住のアッシリア人からは、この像はアッシュルバニパルよりもメソポタミアの伝説的な英雄である[[ギルガメシュ]]の方に似ているという懸念を表明する人もいた。パーハードはこの像はアッシュルバニパルを象ったものだと弁明したが、いくらかの芸術的表現を用いたとも説明している{{Sfn|Fernandez|1987|p=}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.google.com/newspapers?nid=2209&dat=19871228&id=1v4yAAAAIBAJ&sjid=efwFAAAAIBAJ&pg=6964,9530701|title=Statue of Assyrian king in skirt stirs controversy(衣服の裾がなびくアッシリア王の像をめぐる論争)|last=Fernandez|first=Elizabeth|date=1987-12-31|work=The Telegraph(テレグラフ紙)|accessdate=2019-12-05|ref=CITEREFFernandez1987}}</ref>。 |
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アッシュルバニパルはまた、様々なメディアで大衆文化の中に時折登場している。[[ロバート・E・ハワード]]は『''The Fire of Asshurbanipal''』と題する短編小説を書いた。これは『[[ウィアード・テイルズ]]』誌の1936年12月号で初めて出版されたもので、「ギリシア人がサルダナパロスと呼び、セム系の人々がアッシュルバニパルと呼んだ遠い昔の王に属する呪われた宝石」についての話である{{Sfn|Price|2001|pp=99–118}}。[[ゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツ]]の2007年の歌、『[[:en:The Mesopotamians|The Mesopotamians]]』はギルガメシュ、[[サルゴン (アッカド王)|サルゴン]]、[[ハンムラビ]]と共にアッシュルバニパルに言及している{{Sfn|Nardo|2012|p=88}}。また、シミュレーションゲームの[[シヴィライゼーション#シヴィライゼーションV|シヴィライゼーションV]]ではアッシリアの支配者としてアッシュルバニパルが採用されている{{Sfn|Pitts|2013}}。 |
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== 称号 == |
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{{See also|{{仮リンク|アッカド語の王号|en|Akkadian royal titulary}}}} |
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前648年の日付を持つ円筒形碑文{{Sfn|Luckenbill|1927|p=323}}では、アッシュルバニパルは以下のような称号を用いている。 |
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{{Quote| quote = 余はアッシュルバニパル、大王、強き王、世界の王、アッシリアの王、{{仮リンク|四方世界の王 (メソポタミア)|label=四方世界の王|en|King of the Four Corners of the World}}。世界の王にしてアッシリアの王、バビロンの副王、{{仮リンク|シュメールとアッカドの王|en|king of Sumer and Akkad}}であったエサルハドンの子孫。世界の王にしてアッシリアの王であったセンナケリブの孫{{Sfn|Luckenbill|1927|p=323}}。}} |
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同様の称号の数々はアッシュルバニパルの多くの粘土板文書の一つでも使用されている。 |
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{{Quote| quote = 余、アッシュルバニパル、大王、強き王、世界の王、アッシリアの王、四方世界の王。世界の王にしてアッシリアの王。世界の王にしてアッシリアの王であったエサルハドンの息子。世界の王にしてアッシリアの王、王族の永遠の起源であるセンナケリブの孫・・・{{Sfn|Luckenbill|1927|p=356}}。}} |
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より長大な変化形がアッシュルバニパルがバビロンに建てた碑文に登場している。 |
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{{Quote| quote = アッシュルバニパル。強き王、世界の王、アッシリアの王、四方世界の王、諸王の王、無比の君侯。上の海から下の海までを支配し、全ての支配者たちを足元に跪かせる者。大王にして強き王、世界の王、アッシリアの王、バビロンの副王、シュメールとアッカドの王であったエサルハドンの子。強き王にして世界の王、アッシリアの王であったセンナケリブの孫。それが余である{{Sfn|Luckenbill|1927|p=369}}。}} |
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この好学のアッシリア王は自らのライオン狩りの姿を写した浮き彫りにさえ帯に葦のペンを挟んだ姿で表現させた。 |
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== 関連項目 == |
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アッシュールバニパル王は文書収集に熱中した王として知られる。彼は[[アッシリア]]全土に書記を派遣し[[神話]]・[[医学]]・[[宗教]]・[[言語]]などの学術書、果てには商業証書や一般人の手紙までを集めさせた。全国の蔵書家に文書の供出を命じ、複写させた(しかも原本の返却をしなかった)。これが、オリエント世界の知識の集大成とも言える図書館を建設へと繋がった。これは現在'''[[アッシュールバニパルの図書館]]'''、または'''ニネヴェ図書館'''として知られている。最も残存率の高い[[ギルガメシュ叙事詩]]の版本もこの図書館に保存されていた。また、こうした文書収集に関するアッシュールバニパルの命令書も保存されていた。 |
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{{quotation| |
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(前略)汝が余の手紙を見たら、シュマ、彼の弟のベール・エティル、アプラと[[ボルシッパ]]の書記達、そして汝の知人達の家にある全ての文書と、エ・ジダ神殿にある全ての文書を持ってくるように。アッシリアに写本の無い貴重な文書を探して持ってくるように。(中略)汝は集めた文書を倉庫に保管しておき、何人にも決して渡してはならない。他に王宮に相応しい何らかの文書を見つけたならば、それもこちらに持ってくるように。 |
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|バビロンに駐在する臣下シャドゥーヌに対する命令書}} |
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* [[アッシリアの君主一覧]] |
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ニネヴェ図書館の母体となったのは、アッシュールバニパルの臣下であったナブー・ズクプ・ケーヌの蔵書であった。代々続く学者の家に生まれた彼は、家に伝わっていた蔵書をアッシュールバニパルに献上し、アッシュールバニパルはこれらの文書を母体に図書館を建設した。 |
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* [[新アッシリア帝国の軍事史]] |
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* [[アッシュルバニパルのライオン狩り (浮き彫り)]] |
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== 注釈 == |
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この時集められた[[楔形文字]]による25357点の粘土板は現在、その大半が[[大英博物館]]に保管されている。古代メソポタミアの研究において、この図書館の文書群は圧倒的な意味を持つ。そのうち、[[ジョージ・スミス (アッシリア学者)|ジョージ・スミス]]らによる[[洪水伝説]]の発見は[[旧約聖書|聖書]]研究に新たな局面をもたらした。 |
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<references group="注釈"></references> |
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== 出典 == |
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一枚の粘土板にアッシュールでシマヌの月に日食が起こったという記事がある。これは[[紀元前763年]]6月15日のことと思われる。 |
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{{Reflist|20em}} |
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=== 史料 === |
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* {{Cite book |和書 |author=ヘロドトス|authorlink=ヘロドトス |translator=[[松平千秋]] |title=[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]] 上 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波文庫]] |date=1971-12 |isbn=978-4-00-334051-6 |ref=ヘロドトス 1971 }} |
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=== 参考文献 === |
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*{{Cite book|url=https://www.degruyter.com/document/doi/10.1515/9781614512363/html|title=The Splintered Divine - A Study of Istar, Baal, and Yahweh Divine Names and Divine Multiplicity in the Ancient Near East|last=Spencer|first=Allen |publisher=De Gruyter |year=2015|isbn=978-1614512363|location=|pages=|ref=CITEREFSpencer2015}} |
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父王エサルハドンの時代からアッシュールバニパルの時代にかけて、[[生贄]]の動物から内臓を取り出してその状態によって未来を占う内臓[[占い]]が多数行われた。この占いに関する文書が数百点残されており、しかも王が重大局面に差し掛かった時その吉凶を占った記録であるために当時の政治情勢を知る上で重要な史料となる。 |
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*{{Cite journal|last=Porter|first=Barbara Nevling |date=2004|title=Ishtar of Nineveh and Her Collaborator, Ishtar of Arbela, in the Reign of Assurbanipal|journal=Iraq|publisher=British Institute for the Study of Iraq|volume=66|issue=|pages=41-44|ref=CITEREFPorter2004|via=}} |
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*{{Cite book|url=https://books.google.com/?id=ibF6DwAAQBAJ&dq=Sin-apla-iddina|title=Southern Mesopotamia in the time of Ashurbanipal|last=Ahmed|first=Sami Said|publisher=Walter de Gruyter GmbH & Co KG|year=2018|isbn=978-3111033587|location=The Hague|pages=|ref=CITEREFAhmed2018}}<br>(『アッシュルバニパルの時代の南部メソポタミア』(著:サミ・セッド・アーメド、ウォルター・ド・グルーター出版(ドイツ)、2018年)) |
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*{{Cite journal|last=Ashrafian|first=Hutan|date=2011|title=An extinct Mesopotamian lion subspecies|journal=Veterinary Heritage|publisher=American Veterinary Medical History Society|volume=34|issue=2|pages=47–49|ref=CITEREFAshrafian2011|via=}}<br>(『獣医学の遺産』(編:アメリカ獣医学史協会)第34号第2巻(2011年)p.47-49に収録されている『絶滅したメソポタミアライオンの亜種』(著:フタン・アシュラフィアン)) |
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*{{Cite book|url=https://content.taylorfrancis.com/books/download?dac=C2004-0-25603-8&isbn=9781315011660&format=googlePreviewPdf|title=The History of Esarhaddon|last=Budge|first=Ernest Alfred Wallis|publisher=Routledge|year=2007|isbn=978-1136373213|location=|publication-place=Oxford|pages=|ref=CITEREFBudge1880|orig-year=1880}}<br>(『エサルハドンの生涯』(著:アルフレッド・ウォーリス・バッジ、初版1880年、2007年にラウトリッジ出版(英国)により電子再出版)) |
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*{{Cite book|url=https://books.google.com/?id=W4qa2v804N0C|title=Elam: Surveys of Political History and Archaeology|last=Carter|first=Elizabeth|publisher=University of California Press|year=1984|isbn=978-0520099500|location=Los Angeles|pages=|ref=CITEREFCarterStolper1984|last2=Stolper|first2=Matthew W.}}<br>(『エラム:政治史と考古学についての研究』(著:エリザベス・カーター、マシュー・ストルパー、1984年、カリフォルニア大学出版)) |
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*{{Cite book|url=https://books.google.se/books?id=XiGLBQAAQBAJ&hl=sv&source=gbs_book_other_versions|title=3000 Years of Urban Growth|last2=Fox|first2=Gerald|last=Chandler|first=Tertius|publisher=Elsevier|year=2013|isbn=978-1483248899|location=|publication-place=New York|pages=|ref=CITEREFChandlerFox2013|orig-year=1974}}<br>(『3000年間における都市の成長』(著:ターシャス・チャンドラー、ジェラルド・フォックス、2013年、英語版記事ではエルゼビア出版としているが、アカデミック出版(米国)?)) |
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*{{Cite journal|last=Collins|first=Paul|date=2004|title=The Symbolic Landscape of Ashurbanipal|journal=Notes in the History of Art|volume=23|issue=3|pages=1–6|ref=CITEREFCollins2004|doi=10.1086/sou.23.3.23206845}}<br>(『アッシュルバニパルの象徴的風景画』(著:ポール・コリンズ、2004年、シカゴ大学季刊誌「美術史論文集」第23号第3冊p.1-6) |
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*{{Cite book|chapter-url=https://books.google.se/books?id=aBg8TqiCZb8C&pg=PA177&lpg=PA177&dq=%22daughter+of+Assurbanipal%22&source=bl&ots=Ywpp0AYrVA&sig=ACfU3U2C-75-fyZnMZ4GufpRRrUytzQkqg&hl=sv&sa=X&ved=2ahUKEwiqxaGGoY_mAhXHtYsKHQFzAkIQ6AEwAHoECAYQAQ#v=onepage&q&f=false|title=Herodotus and His World: Essays from a Conference in Memory of George Forrest|last=Dalley|first=Stephanie|publisher=Oxford University Press|year=2003|isbn=978-0199253746|location=Oxford|pages=|ref=CITEREFDalley2003|chapter=The Hanging Gardens of Babylon?}}<br>(『ジョージ・フォレスト追悼記念会議における随筆集:ヘロドトスの世界』(2003年、オックスフォード大学出版)に収録されている『なぜヘロドトスはバビロンの空中庭園に言及しなかったのか』(著:ステファニー・ダリー)) |
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*{{cite encyclopedia | title = AŠŠURBANIPAL | last = Delaunay | first = J. A. | authorlink = | url = http://www.iranicaonline.org/articles/assurbanipal-king-of-assyria-666-25-bc | editor-last = | editor-first = | editor-link = | encyclopedia = Encyclopaedia Iranica, Vol. II, Fasc. 8 | pages = 805-806 | location = | publisher = | year = 1987 | isbn = }}<br>(『アッシュルバニパル』(著:ジャック・アモリ・ドロネー、イラン百科事典第2巻第8分冊、p805-806)) |
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*{{Cite book|chapter-url=https://books.google.se/books?id=Vlkb0cSBGlIC&pg=PA15&lpg=PA15&dq=Nabonidus+sargonid+dynasty&source=bl&ots=ggLD59Pn0a&sig=ACfU3U0G6OV_c1olF4_KDCjxhVrX5eelRA&hl=sv&sa=X&ved=2ahUKEwiW18Oz84_mAhWBuIsKHV-gAyUQ6AEwAXoECAYQAQ#v=onepage&q=Nabonidus%20sargonid%20dynasty&f=false|title=David and Zion: Biblical Studies in Honor of J.J.M. Roberts|last=Dick|first=Michael B.|publisher=Eisenbrauns|year=2004|isbn=978-1575060927|location=Winona Lake|pages=|ref=CITEREFDick2004|chapter="David's Rise to Power" and the Neo-Babylonian Succession Apologies}}<br>(『ダビデとシオン:聖書研究 - J・J・M・ロバーツをたたえて』(アイゼンブラウン社、2004年)に収録されている『“ダビデの台頭”と新バビロニア帝国における権力継承の正当化』(著:ミカエル・B・ディック)) |
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*{{Cite book|url=https://books.google.se/books?id=OhGMDwAAQBAJ&pg=PA123&lpg=PA123&dq=ashurbanipal+%22685%22&source=bl&ots=PKD3x2FiYH&sig=ACfU3U1shpcMGu02VT7qsy9M_CqeqwL2_A&hl=sv&sa=X&ved=2ahUKEwjhtc-U57fnAhUy_CoKHWuCDfAQ6AEwEXoECAkQAQ#v=onepage&q=ashurbanipal%20%22685%22&f=false|title=The Cyrus Cylinder: The Great Persian Edict from Babylon|last=Finkel|first=Irving|publisher=Bloomsbury Publishing|year=2013|isbn=978-1780760636|location=New York|pages=|ref=CITEREFFinkel2013}}<br>(『キュロスの円筒形碑文:バビロン発のペルシア大布告』(著:アーヴィング・フィンケル、2013年、ブルームズベリー出版(英国))) |
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*{{Cite book|chapter-url=https://www.academia.edu/1011803|title=Von Babylon bis Jerusalem: Die Welt der altorientalischen Königsstädte|last=Frahm|first=Eckhart|publisher=Reiss-Museum Mannheim|year=1999|isbn=|location=|pages=|ref=CITEREFFrahm1999|chapter=Kabale und Liebe: Die königliche Familie am Hof zu Ninive}}<br>(『陰謀と愛:ニネヴェの宮廷における王室』(著:エッカート・フラーム、1999年、マンハイム・ライス博物館(ドイツ))) |
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*{{Cite journal|last=Gerardi|first=Pamela|date=1992|title=The Arab Campaigns of Aššurbanipal: Scribal Reconstruction of the Past|url=http://www.helsinki.fi/science/saa/6.2%2001%20Gerardi.pdf|journal=State Archives of Assyria Bulletin|volume=6|issue=2|pages=67–103|ref=CITEREFGerardi1992|via=}}<br>(『アッシュルバニパルのアラビア遠征:筆記による過去の復元』(著:パメラ・ジェラルディ、1992年、ヘルシンキ大学(フィンランド)アッシリア学会報公式記録 第6号第2分冊p.67-103) |
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*{{Cite book|url=https://books.google.com/?id=Cw89AAAAIAAJ&pg=PA124&dq=Shamash-shum-ukin#v=onepage&q=Shamash-shum-ukin&f=false|title=Ancient Babylonia|last=Johns|first=Claude Hermann Walter|publisher=Cambridge University Press|year=1913|isbn=|location=Cambridge|pages=|oclc=1027304|ref=CITEREFJohns1913}}<br>(『古代バビロニア』(著:クロード・ハーマン・ウォルター・ジョンズ、1913年、ケンブリッジ大学出版)) |
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*{{Cite journal|last=Kertai|first=David|date=2013|title=The Queens of the Neo-Assyrian Empire|url=https://www.academia.edu/5410565|journal=Altorientalische Forschungen|volume=40|issue=1|pages=108–124|ref=CITEREFKertai2013|via=}}<br>(『新アッシリア帝国の王妃たち』(著:デイヴィッド・ケルタイ、2013年、雑誌「古代東洋研究」(ドイツ)第40号第1冊p.108-124) |
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*{{Cite book|url=https://books.google.com/?id=78nRWgb-rp8C&pg=PA18&lpg=PA18&dq=fall+of+nimrud+medes#v=onepage&q=fall%20of%20nimrud%20medes&f=true|title=The Fall and Rise of Jerusalem: Judah under Babylonian Rule|last=Lipschits|first=Oled|publisher=Eisenbrauns|year=2005|isbn=978-1575060958|location=Winona Lake|pages=|ref=CITEREFLipschits2005}}<br>(『エルサレムの陥落と復興:新バビロニア帝国統治下のユダ』(著:オデド・リプシッツ、2005年、アイゼンブラウン社(米国))) |
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*{{Cite book|url=https://oi.uchicago.edu/research/publications/misc/ancient-records-assyria-and-babylonia-volume-2-historical-records-assyria|title=Ancient Records of Assyria and Babylonia Volume 2: Historical Records of Assyria From Sargon to the End|last=Luckenbill|first=Daniel David|publisher=University of Chicago Press|year=1927|isbn=|location=Chicago|pages=|oclc=926853184|ref=CITEREFLuckenbill1927}}<br>(『アッシリアとバビロニアの古代の記録』第2巻『サルゴンから滅亡までの期間におけるアッシリアの史料』(著:ダニエル・デーヴィッド・ラッケンビル、1927年、シカゴ大学出版)) |
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*{{Cite book|url=https://books.google.com/?id=27m3y6MNRzYC&dq=%22A%C5%A1%C5%A1ur-b%C4%81ni-apli%22|title=An Akkadian Handbook: Paradigms, Helps, Glossary, Logograms, and Sign List|last=Miller|first=Douglas B.|last2=Shipp|first2=R. Mark|publisher=Eisenbrauns|year=1996|isbn=978-0931464867|location=Winona Lake|pages=|ref=CITEREFMillerShipp1996|orig-year=1886}}<br>(『アッカド入門:語形変化、手引き、用語集、記号と符号』(著:ダグラス・B・ミラー、R・マーク・シップ、1996年、アイゼンブラウン社(米国))) |
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*{{Cite journal|last=Na’aman|first=Nadav|date=1991|title=Chronology and History in the Late Assyrian Empire (631—619 B.C.)|url=https://www.academia.edu/13458703|journal=Zeitschrift für Assyriologie|volume=81|issue=|pages=243–267|ref=CITEREFNa’aman1991|via=}}<br>(「アッシリア・近東考古学学術誌」第81号(1991年)p.243-367に収録されている、『アッシリア帝国の年代記と歴史(紀元前631~619年)』(ナダブ・ナーマン)) |
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*{{Cite book|title=Babylonian Mythology|last=Nardo|first=Don|publisher=Greenhaven Publishing|year=2012|location=|pages=|ref=CITEREFNardo2012|asin=B00MMP7YC8}}<br>(『バビロニアの神話』(著:ドン・ナルド、2012年、グリーンヘブン出版(米国))) |
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*{{Cite journal|last=Novotny|first=Jamie|last2=Singletary|first2=Jennifer|date=2009|title=Family Ties: Assurbanipal's Family Revisited|url=https://journal.fi/store/article/view/52460|journal=Studia Orientalia Electronica|volume=106|issue=|pages=167–177|ref=CITEREFNovotnySingletary2009|via=}}<br>(『家族の絆:アッシュルバニパルの家族再考』(著:ジェイミー・ノヴォトニー、ジェニファー・シングルタリー、2009年、電子版東洋研究(訳語疑問)、第106号、p167-177)) |
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*{{Cite book|title=Nameless Cults: The Cthulhu Mythos Fiction of Robert E. Howard|last=Price|first=Robert M.|publisher=Chaosium|year=2001|isbn=978-1568821306|location=Ann Arbor|ref = harv}}<br>(『名もなき異教:ロバート・E・ハワードのクトゥルフ神の虚構』(ロバート・M・プライス、2001年、ケイオシアム社(米国)) |
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*{{Cite journal|last=Radner|first=Karen|date=2003|title=The Trials of Esarhaddon: The Conspiracy of 670 BC|url=https://repositorio.uam.es/handle/10486/3476|journal=ISIMU: Revista sobre Oriente Próximo y Egipto en la antigüedad|publisher=Universidad Autónoma de Madrid|volume=6|pages=165–183|ref=CITEREFRadner2003|via=}}<br>(ISIMU(マドリード自治大学の古代中東・エジプト専門誌)第6号(2003年)p.165-183に収録されている『エサルハドンの試練:前670年の陰謀』(著:カレン・ラドナー)) |
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*{{Cite journal|last=Reade|first=J. E.|date=1970|title=The Accession of Sinsharishkun|journal=Journal of Cuneiform Studies|volume=23|issue=1|pages=1–9|ref=CITEREFReade1970|doi=10.2307/1359277|jstor=1359277}}<br>(『楔形文字研究誌』第23号(1970年、シカゴ大学出版)第1分冊p.1-9に収録されている『シンシャンイクシュンの王位継承』(著:ジュリアン・エジウォース・リード)) |
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*{{Cite journal|last=Reade|first=J. E.|date=1998|title=Assyrian eponyms, kings and pretenders, 648-605 BC|journal=Orientalia (NOVA Series)|volume=67|issue=2|pages=255–265|ref=CITEREFReade1998|jstor=43076393}}<br>(『オリエンタリア』(グレゴリアン大学聖書出版(イタリア))第67号(1998年)第2分冊p.255-265に収録されている『アッシリアの名祖、王、王位詐称者:前648-605年』(著:ジュリアン・エジウォース・リード)) |
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*{{Cite book|url=https://www.atour.com/education/pdf/Knut-L-Tallquist-AssyrianPersonalNames.pdf|title=Assyrian Personal Names|last=Tallqvist|first=Knut Leonard|publisher=August Pries|year=1914|isbn=|location=Leipzig|pages=|oclc=6057301|ref=CITEREFTallqvist1914}}<br>(『アッシリアの人名』(著:クヌート・レオナルド・タールクヴィスト、1914年、アウグスト・プライス出版(ドイツ)) |
|||
* {{Cite book |洋書 |author={{仮リンク|シモ・パルポラ |en|Simo Parpola}}(Simo Parpola) |title=Letters from Assyrian Scholars to the Kings Esarhaddon and Assurbanipal II: Commentary and Appendices|series=State Archives of Assyria |date=2007-6 |publisher=Eisenbrauns |isbn=978-1-57506137-5 |ref=Parpola 2007}}<br>(『アッシリア学者からエサルハドン王とアッシュルバニパル王への手紙:論評と補遺』(アイゼンブラウン社)) |
|||
* {{Cite book |洋書 |author={{仮リンク|イゴール・ミハイロヴィチ・ディアコノフ|en|Igor M. Diakonoff}} |chapter=CHAPTER I ELAM |title=The Cambridge History of Iran|date=1985-6 |publisher=[[ケンブリッジ大学出版局|Cambridge University Press]] |isbn=978-0-52120091-2 |ref=Diakonoff 1985}}<br>(『ケンブリッジ イランの歴史 第1章 エラム』) |
|||
* {{Cite book |和書 |author=伊藤早苗|authorlink=伊藤早苗 |chapter=第三章 アッシュルバニパル王の書簡とバビロン |title=楔形文字文化の世界 |series=月本昭男先生退職記念献呈論文集第3巻 |publisher=[[聖公会出版]] |date=2014-3 |pages=00-00|isbn=978-4-88274-261-6 |ref=伊藤 2014 }} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=佐藤進|authorlink=佐藤進 (歴史学者) |chapter=選ばれてあることの恍惚と不安-エサルハドンの場合 |title=古代オリエントの生活|series=生活の世界歴史1 |publisher=[[河出書房新社]] |date=1991-5 |pages=107-168|isbn=978-4-309-47211-9 |ref=佐藤 1991 }} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=杉勇|authorlink=杉勇 |chapter=二 四国対立時代 |title=岩波講座世界歴史1 古代1|date=1969-5 |publisher=[[岩波書店]] |asin=B000J9ENI2 |ref=杉 1969 }}(旧版) |
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* {{Cite book |和書 |author=赤堀雅幸|authorlink=赤堀雅幸 |chapter=3. 人と言語 アラビア語とアラブ|title=中東・オリエント文化事典 |date=2020-10 |publisher=[[丸善]] |pages=106-109|isbn=978-4-621-30553-9 |ref=丸善 2020 }} |
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=== 参考Webサイト === |
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* {{Cite web|url=https://www.britannica.com/biography/Ashurbanipal|title=Ashurbanipal|last=|first=|date=|website=Encyclopaedia Britannica|url-status=live|archive-url=|archive-date=|access-date=28 November 2019|ref=CITEREFEncyclopaedia_Britannica}}<br>(『アッシュルバニパル』(ブリタニカ百科事典)) |
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{{Reflist}} |
|||
*{{Cite web|url=https://www.imj.org.il/en/collections/192995|title=Assurbanipal Abluting Harpies|last=|first=|date=|website=The Israel Museum, Jerusalem|url-status=live|archive-url=|archive-date=|access-date=5 December 2019|ref=CITEREFAssurbanipal_Abluting_Harpies}}<br>(『ハーピーを清めるアッシュルバニパル』(イスラエル博物館)) |
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* {{Cite web|url=https://www.ancient.eu/Ashurbanipal/|title=Ashurbanipal|last=Mark|first=Joshua J.|date=2009|website=Ancient History Encyclopedia|url-status=live|archive-url=|archive-date=|access-date=28 November 2019|ref=CITEREFMark2009}}<br>(『アッシュルバニパル』(「古代史百科事典」に収録。記事はジョシュア・J・マークによる)) |
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*{{Cite web|url=https://www.ancient.eu/Esarhaddon/|title=Esarhaddon|last=Mark|first=Joshua J.|date=2014|website=Ancient History Encyclopedia|url-status=live|archive-url=|archive-date=|access-date=23 November 2019|ref=CITEREFMark2014}}<br>(『エサルハドン』(「古代史百科事典」に収録。記事はジョシュア・J・マークによる)) |
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*{{Cite web|url=https://blog.britishmuseum.org/introducing-the-assyrians/|title=Introducing the Assyrians|last=|first=|date=|website=The British Museum|url-status=live|archive-url=|archive-date=|access-date=5 December 2019|ref=CITEREFIntroducing_the_Assyrians}}<br>(『アッシリア人について』(大英博物館)) |
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*{{Cite web|url=https://blog.britishmuseum.org/who-was-ashurbanipal/|title=Who was Ashurbanipal?|last=|first=|date=|website=The British Museum|url-status=live|archive-url=|archive-date=|access-date=28 November 2019|ref=CITEREFBritish_Museum}}<br>(『アッシュルバニパルとは、どんな人物か』(大英博物館)) |
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== 外部リンク == |
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{{Commons category|Ashurbanipal}} |
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* {{仮リンク|ダニエル・デーヴィッド・ラッケンビル|en|Daniel David Luckenbill}}:''[https://oi.uchicago.edu/research/publications/misc/ancient-records-assyria-and-babylonia-volume-2-historical-records-assyria Ancient Records of Assyria and Babylonia Volume 2: Historical Records of Assyria From Sargon to the End]''。アッシュルバニパルの多数の碑文の英訳を見ることができる。 |
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* {{Cite news|url=https://www.polygon.com/features/2013/6/27/4453070/civ-the-making-of-brave-new-world|title=Knowing history: Behind Civ 5's Brave New World|last=Pitts|first=Russ|date=27 June 2013|work=Polygon|access-date=5 December 2019|ref=CITEREFPitts2013}}<br>(『歴史を知る:シヴィライゼーションV(素晴らしき新世界)の舞台』(著:ラス・ピッツ)) |
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{{先代次代|[[アッシリアの君主一覧#新アッシリア時代|新アッシリア王]]|前668年 - 前627年|[[エサルハドン]]|[[アッシュル・エティル・イラニ]]}} |
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{{commons|Category:Ashurbanipal}} |
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{{Normdaten}} |
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{{先代次代|[[アッシリアの君主一覧#新アッシリア時代|新アッシリア王]]|前669年 - 前627年|[[エサルハドン]]|[[アッシュール・エティル・イラニ]]}} |
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{{Good article}} |
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{{DEFAULTSORT:あつしゆるはにはる}} |
{{DEFAULTSORT:あつしゆるはにはる}} |
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[[Category:アッシュルバニパル|*]] |
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[[Category:アッシリアの君主]] |
[[Category:アッシリアの君主]] |
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[[Category:紀元前7世紀の君主]] |
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[[Category:エサルハドンの子女]] |
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[[Category:生没年不詳]] |
2024年11月7日 (木) 03:09時点における最新版
アッシュルバニパル | |
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在位 | 前668年-前631[1][2][3]/627年頃 |
出生 |
前685年[4][5] |
死去 |
前631年[6]、おおよそ54歳頃 |
配偶者 | リッバリ・シャラト(Libbali-sharrat) |
子女 |
アッシュル・エティル・イラニ シン・シャル・イシュクン ニヌルタ・シャル・ウツル(Ninurta-sharru-usur) |
王朝 | サルゴン王朝 |
父親 | エサルハドン |
母親 | 不明[7]、アッシリア出身の女性[8] |
アッシュルバニパル(Assurbanipal[9]、在位:前668年[注釈 1] - 前631/627年頃)は、古代メソポタミア地方の新アッシリア帝国の黄金期最後の王である。軍事遠征を積極的に行った。学問への関心も高く、アッシュルバニパルの図書館は有名。治世第17年に、バビロン王である兄、シャマシュ・シュム・ウキンが反乱を起こし、内戦が勃発。これを制した。死後、時を置かずアッシリア帝国は滅亡するが、治世末期の情報は少なくアッシュルバニパルの治世が帝国の崩壊とどのように関連するのかは不明瞭である。
アッシュルバニパルは、新アッシリア時代の楔形文字表記では 、アッカド語ではAššur-bāni-apli(アッシュル・バニ・アプリ)[10]またはAššur-bāni-habal(アッシュル・バニ・ハバル)と綴られ、「アッシュル神は後継者を賜れり」[11]を意味する。
概要
[編集]アッシュルバニパル治世中のアッシリアは世界最大の帝国であり、その首都ニネヴェもおそらく世界最大の都市であった。アッシュルバニパルの王太子任命の頃から彼の治世前半にかけての時期は、アッシリアの歴史上最も豊富な史料が残されており、詳細な歴史が復元されている[12]。
彼は長兄ではなかったが、父親のエサルハドンによって前672年に王太子に指名され、前668年にアッシリア王位を継承した。アッシュルバニパルの王位継承における大きな特徴として、彼の兄であるシャマシュ・シュム・ウキンがアッシリア帝国の南部において同時にバビロンの王(バビロニア王)位を継承したことがあげられる。
アッシュルバニパルは各地に遠征を行ってアッシリアの支配地を拡大した。最も大規模な遠征は古くからの敵国エラムに対するものと、最終的には反乱を起こしたシャマシュ・シュム・ウキンに対するものである。アッシュルバニパルは前665年と前647-前646年の一連の遠征によってエラムを撃破し、その国土を破壊した。アッシュルバニパルに劣後する地位に不満を持っていたであろうシャマシュ・シュム・ウキンは前652年に反旗を翻し、アッシリアの敵国を糾合してアッシュルバニパルと戦ったが、敗れ去り自害した。
アッシュルバニパルの最も有名な業績は、アッシュルバニパルの図書館と呼ばれる古代オリエントにおいて最も良く知られた図書館の建設である。彼自身、この図書館を、自分の最も偉大な業績と考えていた。宗教的文書・手引書・メソポタミアの伝統的な物語など様々なジャンルの30,000点もの粘土板文書を集めたこの図書館によって、『ギルガメシュ叙事詩』のような古代の文学作品が数多く今日に伝えられ、近現代のアッシリア学の発展に多大な影響を与えている。
年表
[編集]年(紀元前) | 年齢(*) | 出来事 |
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685年頃 | 0 | アッシュルバニパル、誕生 |
672年 | 13 | エサルハドンによる後継者指名 |
669年 | 16 | エサルハドン死亡。アッシュルバニパルが王となる |
667年 | 18 | エジプト遠征。ネカウ1世をファラオに据える |
666年 | 19 | 反乱を受け、エジプト再遠征。 |
665年 | 20 | プサムテク1世をファラオに据える |
652年 | 33 | エラム遠征(1回目)。兄のシャマシュ・シュム・ウキン、反乱を起こす |
650年 | 35 | バビロンを包囲 |
648年 | 37 | バビロン陥落。シャマシュ・シュム・ウキン死亡 |
647年 | 38 | エラム遠征(2回目) |
636年 | 49 | アッシュルバニパルの年代記における記述がこの年で終わる |
631年 | 54 | 死亡?(前631年死亡説) |
627年 | 57 | 死亡?(前627年死亡説) |
(* 生年を紀元前685年として計算した場合のおよその年齢)
出自と王位継承
[編集]父親であるエサルハドンには多数の息子がいたと見られ、アッシュルバニパルは恐らく4番目の息子であった。兄に王太子シン・ナディン・アプリおよびシャマシュ・シュム・ウキンとシャマシュ・メトゥ・ウバリトがおり[13][14]、姉にシェルア・エテラトがいた[15]。王太子シン・ナディン・アプリは前674年に急死した。自らが非常に困難な王位継承争いの末に即位したエサルハドンは同じ問題を発生させないことを切望しており、すぐに新しい王位継承計画を策定し始めた[16]。エサルハドンはこの王位継承の計画において3番目の息子シャマシュ・メトゥ・ウバリトを完全に除外しているが、これは恐らく彼が健康に恵まれなかったためであろう[17]。
前672年5月、アッシュルバニパルはエサルハドンによってアッシリアの後継者に指名された。また、シャマシュ・シュム・ウキンもバビロニア(当時アッシリアの支配下にあった)の継承者に指名された[9]。両者は共にアッシリアの首都ニネヴェに赴き、外国使節・アッシリア貴族・兵士たちの祝賀を受けた[18]。過去数十年にわたり、アッシリア王は同時にバビロニア王を兼任しており、息子のうちの1人をアッシリア王に、別の1人をバビロニア王にするというのは新機軸であった[19]。
アッシリア王という称号は明らかにエサルハドンにとって第一の称号であった。このアッシリアの王太子に弟であるアッシュルバニパルを就け、兄であるシャマシュ・シュム・ウキンをバビロンの王太子にした理由は、彼らの母親の出自によって説明できるかもしれない。アッシュルバニパルの母親は恐らくアッシリア出身であったが、シャマシュ・シュム・ウキンはバビロン出身の女性の息子であった(ただしこれは確実ではない。アッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンが同母兄弟であった可能もある)[7]。母親の出自ゆえに、もしエサルハドンがシャマシュ・シュム・ウキンをアッシリアの後継者に指名していれば問題が起こったであろう。アッシュルバニパルはその次に年長の王子であったため、適格性の高い王位候補者であった。エサルハドンは恐らく、バビロニア人たちが自分たちの王を戴くことに満足するであろうと考え、シャマシュ・シュム・ウキンをバビロン市とアッシリア帝国の南部(即ちバビロニア)の王位継承者として設定した[8]。
エサルハドンはこの王位継承の取り決めを全アッシリアの人々や属国に遵守させるため誓約を結ばせた[14]。この誓約の本文はアッシリアの旧都カルフ(ニムルド)と現在のトルコ南部にあるテル・タイナト遺跡から発見されている[14]。継承に関わる誓約の内容は、エサルハドンが2人の息子の関係をどのようなものと意図していたのか幾分不明瞭なものとなっている。アッシュルバニパルの称号には多くの場合「偉大な」という形容詞が付加される一方で、シャマシュ・シュム・ウキンにはそれがなく、アッシュルバニパルが帝国の第一の相続人であることは明確であったが、別の部位ではアッシュルバニパルがシャマシュ・シュム・ウキンの管轄に干渉しないことも明記されており、これはより平等と言える立場を示している[20]。
アッシュルバニパルは王太子に指名された後、父を注意深く観察し、作法を学び、軍事戦術を学習して、王位に就く準備を始めた。また、アッシュルバニパルは諜報組織の長も務め、アッシリア帝国全土の情報員からの情報を取りまとめて父親に報告した[3]。そして将軍ナブー・シャル・ウツル(Nabu-shar-usur)と書記ナブー・アヒ・エリバ(Nabu-ahi-eriba)から教育を受け、文学と「歴史」への興味を深めた。彼は書記技術と宗教的学識を習得し、自らの母語であるアッカド語に加え、シュメール語にも習熟した。アッシュルバニパル自身の後の記録(彼の治世の主たる史料となる彼の年代記)によれば、その知性と勇気の故に、エサルハドンはアッシュルバニパルを気に入っていたという[9]。
エサルハドンは頻繁に病を患っており、恐らくは膠原病の一種である全身性エリテマトーデスに罹患していたことから[21]、その治世の最後の数年間はアッシリア帝国の行政的義務の大半がアッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンによって担われた[19][14]。エサルハドンがエジプト遠征に出発すると、アッシュルバニパルは宮廷の一切を取り仕切り、前669年にエサルハドンが死亡すると、アッシュルバニパルの元に全権が円滑に移行した[9]。
治世
[編集]治世初期とエジプト遠征
[編集]前669年末にエサルハドンが死亡した後、彼が建てた王位継承計画のとおりにアッシュルバニパルがアッシリアの王となった。翌年の春、シャマシュ・シュム・ウキンがバビロン王に即位し、20年前にセンナケリブ王(アッシュルバニパルの祖父)が奪い取っていたベール像(マルドゥク、バビロンの守護神)をバビロンに戻した。シャマシュ・シュム・ウキンは以降16年間バビロンを統治し、治世の大部分においてアッシュルバニパルと平和的な関係を維持していたが、シャマシュ・シュム・ウキンの領地の正確な範囲を巡って両者は繰り返し意見を違えた[6]。エサルハドンの碑文はシャマシュ・シュム・ウキンがバビロニア全ての支配権を与えられるべきことを示唆しているが、同時代史料によって確実に証明されているのはシャマシュ・シュム・ウキンがバビロンとその周辺を保持していたことだけである。ニップルやウルク、ウルのようなバビロニアの都市の総督たちや「海の国」(ペルシア湾岸に近い南シュメールの湿地帯)の支配者たちの全てがバビロン王の存在を無視し、アッシュルバニパルを自分たちの君主とみなした[22]。
アッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンが正しく君主として即位した後、アッシュルバニパルはその関心をエジプトへと向けた[4]。エジプトは前671年にエサルハドンによって征服されていた。これは彼の最大の業績の1つであった。エサルハドンは忠実な総督に新たなエジプト領土を任せ、ファラオ・タハルカの妻と息子を含むエジプト王族の大部分を捕らえたが、タハルカ自身は南方のクシュへと逃れた[23]。
前669年、タハルカは南から再び姿を現し、エジプトを揺り動かしてエサルハドンの支配を覆そうとした[24]。エサルハドンは反乱の報告を受け取り、彼が任命したエジプトの総督たちすらも貢納を停止して反乱に参加したことを知ると[23]、反乱を鎮圧するためエジプトに進軍したが、国境に到着する前に死去した[24]。代わって反乱を鎮圧するため、アッシュルバニパルは前667年頃にエジプトに侵攻した。アッシリア軍は遥か南にあるエジプトの古都の1つテーベにまで到達し、反乱に参加した数多くの都市を攻撃・略奪した。反乱を鎮圧したアッシュルバニパルはエジプトに属王としてネカウ1世(ネコ1世)を据えた。彼はサイスの町の王であった人物であり、その息子プサムテク1世(プサメティコス1世)はエサルハドンの治世にアッシリアの首都ニネヴェで教育を受けていた[4]。
勝利の後、アッシュルバニパルはエジプトを去った。これによってエジプトの防衛が弱体化したと見たタヌトアメン(タハルカの甥であり、後継者)は自らの一族に王冠を取り戻すべくエジプトへ侵攻した。彼はエジプトの首都メンフィスでネカウ1世と遭遇した。タヌトアメンは撃退されたが、ネカウ1世もこの時に戦死した。状況は急速にタヌトアメンに有利なものとなり、エジプト人たちは彼の側に立ってプサムテク1世に対する反乱を起こした。このためプサムテク1世は逃亡に追い込まれ姿を隠した。これを聞くと、アッシュルバニパルは前666年に再び軍を率いてエジプトに進軍し、タヌトアメンを破った。エジプトにおけるクシュ人たちの拠点であったテーベが略奪されると(これは、この10年の間にテーベで行われた3度目の略奪であった)、タヌトアメンはエジプト遠征を断念してクシュへと逃げ戻った[4]。
勝利を得たアッシュルバニパルは前665年にプサムテク1世を全エジプトのファラオとし、エジプト全土にアッシリアの守備隊を配置した。その後、アッシュルバニパルはアナトリアのタバル、北方のウラルトゥ、南東のエラムなど他の地域での戦いに注力した。彼のエジプトへの関心が低下したことを受けて、エジプトは流血を伴うことなくアッシリアの支配から緩やかに離脱していった。
一度目のエラム遠征
[編集]前665年、エラムの王ウルタクはアッシリア支配下のバビロニアに突如攻撃を仕掛けたが、失敗してエラムに後退し、その後まもなく死亡した。ウルタクのエラム王位はテウマンに引き継がれた。この人物はそれまでの君主家系と繋がりを持っておらず、政敵を殺害することで支配を安定させていた。エラム王位を巡って主に争っていた相手であるウルタクの息子たちのうち3人がアッシリアに逃亡した。テウマンが彼らの引き渡しを要求したにもかかわらず、アッシュルバニパルは彼らを庇護した[25]。
エラムに対する勝利の後、アッシュルバニパルは領内の一連の反乱に対処しなければならなかった。バビロニアにおけるガンブル族(アラム人の部族)の首長ベール・イキシャ(Bel-iqisha)はエラム人の侵攻を支持していたと疑われており、権限の一部を手放すことを強要され、その後に反乱を起こした。この反乱についてはほとんど何もわかっていないが、アッシュルバニパルがウルクの総督ナブー・ウシャブシ(Nabu-ushabshi)にベール・イキシャ攻撃を命じたことが現存する当時の書簡によって知られている。これはアッシュルバニパルの攻撃命令に対するナブー・ウシャブシからの返信であり[26]、ナブー・ウシャブシはアッシュルバニパルに対してベール・イキシャが反乱を起こしエラム人を引き込んだと述べている[26]。ナブー・ウシャブシはアッカドの地の全域から兵を動員することを請け合っているが、ベール・イキシャの反乱が大きな被害を出した形跡はなく、年代記では言及されていない[26]。彼は間もなく殺害され、前663年にはベール・イキシャの息子ドゥナヌがアッシュルバニパルに降伏した[22]。
シャマシュ・シュム・ウキンは前653年までにはアッシュルバニパルの支配にうんざりしていたように思われる。バビロンで発見された碑文によって、アッシュルバニパルがシャマシュ・シュム・ウキンの業務を管理し、本質的には自らの指示に従わせていたことが示されている。シャマシュ・シュム・ウキンはエラム王テウマンに使者を送りアッシュルバニパルの支配を揺るがすためにエラム軍を利用しようとした。アッシュルバニパルはシャマシュ・シュム・ウキンが関与していることを知らなかったようであるが、前652年にエラム人を打ち破り、その都市や国家自体を破壊した[4]。このエラム遠征における最後の戦いはエラムの首都スーサの近郊で行われ、アッシリアの決定的な勝利に終わった。この結果の原因の一部はエラム軍部隊が逃亡したことによる。テウマン王はこの戦いで死亡した。この勝利の余波の中で、アッシュルバニパルはウルタクの息子のうち2人、ウンマニガシュをマダクトゥ(エラムの王宮があった都市、正確な位置は知られていない)とスーサの王に据え、タンマリトゥ1世をヒダルの王とした[25]。アッシュルバニパルは自身の碑文においてこの勝利を次のように描写している。
以前降伏したガンブル族のドゥナヌとその兄弟のサムグヌ(Sam'gunu)は、このアッシュルバニパルとテウマンの戦いが始まる以前に再び反乱を起こしていたと見られ、対エラム戦争が始まると、エラム側に同調した。そのために彼は家族もろとも捕らえられ殺害された。懲罰として、ガンブル族の首都シャピベル(Shapibel)は水没させられ、多くの住民が殺戮された。アッシュルバニパルはドゥナヌに替えてリムトゥ(Rimutu)という貴族を新たなガンブル族の族長とした。彼はかなりの金額を貢納としてアッシュルバニパルに支払うことに合意していた[22] 。アッシュルバニパルはドゥナヌに対する自身の報復を以下のように描写している。
帰りの行軍において余はガンブル族の王ドゥナヌと対峙した。彼は、エラムを信じる者だった。ガンブル族の拠点シャピベル(Shapibel)を余は占領した。余はこの町に入り、その住民を子羊を屠るかのごとく殺戮した。ドゥナヌとサムグヌは私の主権の行使を妨げた者たちだが、彼らには、鉄の手かせ・足かせをはめてやった。ベール・イキシャの残りの息子たち、その家族、その父親の血を引く者、そこにいた者は全て、 ナブー・ナーイド(Nabû-nâ'id)、ベール・エティル(Bêl-êtir)、総督たるナブー・シュム・エレシュ(Nabû-shum-êresh)の息子たち、彼らを生み出した父の遺骨、ウルビ(Urbi)とテベ(Tebê)、ガンブルの民、牛、羊、ロバ、馬、ラバを、余はガンブルからアッシリアへと運んだ。彼の本拠地シャピベルを、余は完全に破壊して荒らし、がれきの山で埋め尽くした[29]。
アッシリア軍がエラムに遠征している最中、ペルシア人、キンメリア人、メディア人の同盟軍がアッシリアの首都ニネヴェに進軍し、市壁にまで到達した。この脅威に対抗するためにアッシュルバニパルは同盟を結んでいたスキタイ人を呼び寄せ敵軍を撃破した。メディア王フラオルテスはこの戦闘で殺害されたと一般的に考えられている[4]。この攻撃の記録は乏しく、そもそもフラオルテスがこの戦いに参加していなかった可能性もある。彼の死は、アッシュルバニパル以後のアッシリア王によるメディア遠征時の出来事かもしれない[11]。
リュディアとキンメリア人の処理
[編集]アッシュルバニパルが残した年代記によれば、彼の治世第3年(前665年)、ルッディ(Luddi)の王グッグ(Guggu)がギミライ(Gimirrai)の攻撃を受けた際、アッシュル神がグッグに対してアッシリアに助けを求めるよう、夢の中で神託を与えた。グッグはそれに従ってアッシュルバニパルに使者を送り、アッシュル神とイシュタル神の力を得てギミライを撃破して、捕らえたギミライの首長二人を貢物と共にアッシリアに送り届けたという[30]。この碑文に登場するルッディは、ヘロドトスなど古代ギリシアの著作家が記録に残している西アナトリアの国家リュディアに対応すると考えられる[30]。同じくグッグはリュディアの伝説的な王ギュゲス、ギミライはギュゲス王の時にリュディアを席捲したことが知られるキンメリア人に対応する[30]。キンメリア人はアッシリアの北、カフカス南部に居住していたインド・ヨーロッパ語を話す遊牧民で、アッシュルバニパルの父エサルハドンの時代にアッシリアを侵略したが撃退され、その後矛先をリュディアへと変えていた。
この年代記の記録に依れば、ギュゲスはキンメリア人を撃退した後にアッシリアとの通交を打ち切り、その代わりにエジプトの王プシャミルキ(Pušamilki、プサムテク1世)との同盟を計画した。これを聞きつけたアッシュルバニパルはアッシュル神に祈ってギュゲスを呪詛し、逆にキンメリア人の側に立った。この結果としてリュディアは前652年から前650年頃にかけて再びキンメリア人に制圧されたという[30][11]。ギュゲスの死後、リュディアの王位を継いだ息子(ヘロドトスによればアルデュス[31])は再びアッシュルバニパルの支援を求めた。この時、彼は使者を通じて「あなたは、神々が見(恵み)給える王である。あなたは私の父を呪った。悪事はかれを見舞った。私は、あなたを畏れる奴隷であり、私に恵みをたれ給う。私があなたの軛を負うように」と述べたと、アッシュルバニパルの年代記は伝えている[32]。
アッシリアにとってリュディアとの接触は新しい事態であり、アッシュルバニパルの年代記においてルッディ(リュディア)は「父祖である諸王がその名をきいたことのない遠隔の地」と描写されている[30]。キンメリア人のリュディア侵入についてのこの年代記の記録は概ねヘロドトスが著書『歴史』で記録している内容と一致しているが、ヘロドトスの記録にはアッシリアの動向についての言及はなく、キンメリア人のリュディア侵入はスキタイ人によって彼らが原住地を追われたためであるとされている[31]。キンメリア人とリュディアの戦いにおいて、アッシュルバニパルが実際にどのように関与したのかは不明である[11]。ヘロドトスによればリュディアはアルデュスの孫アリュアッテス王の治世になってようやく完全にキンメリア人を撃退した[33]。
シャマシュ・シュム・ウキンの反乱
[編集]前650年代までには、シャマシュ・シュム・ウキンとアッシュルバニパルの間の敵対関係は彼らの家臣たちの目には明白なものとなっていた。シャマシュ・シュム・ウキンの宮廷の廷臣であったザキル(Zakir)からアッシュルバニパルへ送られた書簡では、シャマシュ・シュム・ウキンの面前で「海の国」からの使者がアッシュルバニパルを公然と非難したことを説明し、「これは王の言葉ではありません!」というフレーズを用いている。シャマシュ・シュム・ウキンはこの使者に対して怒ったが、彼とバビロンの総督ウバルはこの使者を罰しないことにしたとザキルは報告している[34]。恐らく、シャマシュ・シュム・ウキンの反乱の背後にある最も重要な要素は、アッシュルバニパルに対する彼の地位への不満、アッシリアに対するバビロニア人一般の不変の恨み、そしてアッシリアに対する戦争を起こす者に対してはそれが誰であれ加担するエラムの君主の不断の意欲であった[35]。
シャマシュ・シュム・ウキンは前652年にアッシュルバニパルに対して反旗を翻した。この内戦はその後3年間続くことになる[6]。シャマシュ・シュム・ウキンは反乱に際してアッシュルバニパルに対する何等かの中傷をバビロンの人々に向けて行ったと見られ、アッシュルバニパルがバビロン市民に向けて、シャマシュ・シュム・ウキンの言葉を信じることのないように促し、また、反乱に加担したことの罪に対して温情をもって対応すると述べて自分の側に帰参するように呼び掛けた書簡が現存している[36]。この中で彼は「この(我が)兄弟でない者がお前たちに話した(根拠のない)風の(ような)言葉、我に関し語られたすべての言葉を我は聞いた。だがそれは風である。彼を信じてはならない」と始めている。シャマシュ・シュム・ウキンに言及するアッシュルバニパルの碑文には次のようなものがある。
不実なる余の兄弟シャマシュ・シュム・ウキン、余が親身に取り扱い、バビロンの王に取り立てたる者 ― 王権に必要な、ありとあらゆるものを余は彼に与えた。兵士たち、馬、戦車。私がこれらの装備を調え、彼の手に与えたのだ。街や畑、農園、そこで暮らす者たち。父が命じたよりも多くのものを余は彼に与えた。しかし近頃、余が見せたこの慈愛を彼は忘れ去り、悪を企んだ。外面ではその唇で彼は正しき言葉を発していたが、内面では彼の心は殺人を企てていた。アッシリアに忠良なるバビロニア人たち、そして我が忠誠なる臣下たちを、彼は欺き、嘘を吹き込んだ[37]。
シャマシュ・シュム・ウキンが反乱を始めた直後、他の南部メソポタミア地域もまた彼と共にアッシュルバニパルに反乱を起こした[38]。さらにアッシュルバニパルの碑文によれば、シャマシュ・シュム・ウキンはアッシリアに対抗するための同盟相手を見つけることに成功していた。アッシュルバニパルはシャマシュ・シュム・ウキンの同盟者たちを3つのグループに分類している。第一に何よりもカルデア人、アラム人、その他のバビロニアの人々。第二にエラム人。第三にグティ人、アムル人(アモリ人)、メルッハの王たちである。最後のグループの王たちはおそらくメディア人を指しているが(グティ人、アムル人、そしてメルッハはこの時点ではもはや存在しない)、これははっきりしない。メルッハはエジプトのことであるかもしれないが、エジプトはこの反乱でシャマシュ・シュム・ウキンを支援してはいない。シャマシュ・シュム・ウキンがエラムに送った大使は贈り物(アッシュルバニパルはこれを「賄賂」と呼んでいる)を渡しており、エラム王ウンマニガシュはテウマンの息子ウンダシェ(Undashe)を司令官としてシャマシュ・シュム・ウキンの反乱に援軍を派遣した[39]。
一見強力に見えるこの同盟であったが、シャマシュ・シュム・ウキンの状況は前650年までには厳しいものとなった。アッシュルバニパルの軍勢はシッパル、ボルシッパ、クタ、そしてバビロン自体をも包囲下に置いた。包囲の中、バビロンは飢えと疫病に耐えたが、ついに前648年5月頃に陥落し、アッシュルバニパルによって略奪された。シャマシュ・シュム・ウキンは宮殿で自分と家族に火をかけ自殺した[40][6][41]。アッシュルバニパルは彼の勝利とシャマシュ・シュム・ウキンの支持者に対する復讐を碑文で次のように述べている。
アッシュル神、シン神、シャマシュ神、アダド神、ベール(マルドゥク神)、ナブー神、ニネヴェのイシュタル神、キドムリ(Kidmuri)の女王、アルベラのイシュタル神[注釈 4]、ウルタ神、ネルガル神、ヌスク神が、我が前を行軍し我が敵を殺戮した。そして余に仇なす兄弟、我が敵となりしシャマシュ・シュム・ウキンを燃え盛る業火の中へ放り込み破滅させた。しかし、余に仇なす兄弟シャマシュ・シュム・ウキンの計画を企て悪を行ったが、死を恐れ自らの命を尊ぶ者どもは、彼らの主君シャマシュ・シュム・ウキンと共に火の中に身を投じなかった。彼らのうち、死を与える鉄剣、そして飢餓が訪れる前に逃げた者どもがいたが、我が主、大いなる神々の投網は捕らえ、法の裁きを与えた。一人として逃げ果せた者はいなかった。私の手から滑り落ちず、神々が私の手に渡した罪人、戦車、馬車、輿、彼の愛妾を我が前に運んだ。その唇から卑しさを紡ぎだし、我が神アッシュルに対し俗悪なる言葉を発し、この神を畏れる余に対して悪を行った者ども。余は彼らの舌を切り裂き、法で裁いた。残りの生きている者たちについては、彼らが切り倒した、余を生み出したる父の父センナケリブ、その巨像のそばでこれを斬り殺し、私を生み出したる父の父であるセンナケリブの遺影に捧げる犠牲とした。彼らのバラバラにした死体を、余は犬、豚、オオカミ、鷲、そして天空の鳥と深淵の魚に与えた[44]。
シャマシュ・シュム・ウキンが敗れた後、アッシュルバニパルはバビロンの新たな王としてカンダラヌを任命した。カンダラヌは恐らくアッシュルバニパルの弟の一人であろう。シャマシュ・シュム・ウキンの領地がカンダラヌの領地とされ、同時にアッシュルバニパルはニップル市を拡張し、アッシリアの強力な要塞とした[6]。カンダラヌの権限は極めて限られたものであった可能性が高く、バビロンにおける彼の治世の現存史料はほとんどない。もし、カンダラヌがアッシュルバニパルの兄弟ではないとすれば、恐らく彼はシャマシュ・シュム・ウキンの反乱においてアッシュルバニパルと結んだバビロニアの貴族であり、褒章として玉座を与えられたのであろう。カンダラヌは恐らく本当の意味での政治的・軍事的な実力を欠いており、それはアッシリアの手に確固として握られていた[45]。
二度目のエラム遠征
[編集]ウンマニガシュ統治下のエラムはシャマシュ・シュム・ウキンの側に立って反乱に参加し、アッシュルバニパルによってアッシリア帝国に組み込まれていたエラムの一部地方に対する支配権を部分的に回復していた。しかし、ウンマニガシュの軍勢はデール市の近郊で撃破され、その結果として彼はタンマリトゥ2世によってエラムから追放された。これによってタンマリトゥ2世がエラムの王となった。ウンマニガシュはアッシリアの宮廷に逃げ込みアッシュルバニパルの庇護を受けた。タンマリトゥ2世の統治は短期間であり、カルデア人の将軍ナブー・ベール・シュマティと協力して幾度かの戦闘で勝利を収めたにもかかわらず前649年の別の反乱で追放された。新たなエラム王インダビビの治世も非常に短く、アッシュルバニパルが自らの敵国に対してエラムが支援を行っていることを理由にエラムに侵攻するという脅しを行った後に殺害された[46]。
インダビビに代わってフンバン・ハルタシュ3世がエラム王となった。ナブー・ベール・シュマティはエラム内の前線基地からアッシュルバニパルに対する戦いを続けた。フンバン・ハルタシュ3世はナブー・ベール・シュマティへの支援を放棄しようとしていたが、ナブー・ベール・シュマティは無視するのが不可能なほどエラム内に非常に多くの支持者を持っていた。このような情勢の中で、アッシュルバニパルは前647年に再びエラムに侵攻した。フンバン・ハルタシュ3世は短期間の抵抗を試みて失敗した後、マダクトゥ(Madaktu)の玉座を放棄して山岳地帯へ逃げ去った[46]。フンバン・ハルタシュ3世はタンマリトゥ2世によって王位から退けられ、タンマリトゥ2世が復位した。アッシリア軍がフーゼスターン地方を略奪した後に帰国すると、フンバン・ハルタシュ3世もエラムに戻りさらに王位を奪還した[47]。
アッシュルバニパルが前646年にエラムに戻ったため、フンバン・ハルタシュ3世は再びマダクトゥを放棄し、まずドゥル・ウンタシュに逃げ、さらにエラム東方の山岳地帯へ逃げ込んだ。アッシュルバニパルの軍はその途上にある都市を略奪し破壊しながらフンバン・ハルタシュ3世を追撃した。エラムにある全ての政治的中心地が破壊され、それまではエラム王に貢納していた周辺の首長たちや小王国がアッシュルバニパルに貢納するようになった。こうした小王国の中には恐らく1世紀後にハカーマニシュ朝(アケメネス朝)によって作り上げられる帝国の前身であるパルスア(ペルシア)があった[47]。パルスアの王クル(恐らくは大王クル2世/キュロス2世の祖父クル1世/キュロス1世と同一人物)は元々、アッシュルバニパルの遠征が始まった時点ではエラム側に立っていた。そのため息子のアルックを人質として差し出すことを余儀なくされた。Ḫudimiriと呼ばれる王によって統治されていた「エラムの向こうに広がる」王国のように、それまでアッシリアと接触を持ったことのなかった国々も、初めてアッシリアに貢納するようになった[11]。
遠征からの帰途、アッシリア軍はスーサで残酷な略奪を行った。アッシュルバニパルの戦勝記念碑文では、この略奪が細部に至るまで詳細に描写されており、アッシリアによる王墓への冒涜、神殿に対する略奪と破壊、エラムの神々の像の奪取、そしてその地に塩を撒いたことが仔細に述べられている。これらの碑文の詳細さと長大さは、この出来事に文化的実体としてのエラムの打倒と根絶を宣言し、世界に衝撃を与える意図があったことを示している[47]。この略奪についてのアッシュルバニパルの碑文の一部は以下の通りである。
完膚無きまでの残忍な遠征にもかかわらず、エラムはその後しばらくの間、政治的実体を維持した。フンバン・ハルタシュ3世が帰還してマダクトゥで統治を再開し、(手遅れであったものの)アッシュルバニパルに向けてナブー・ベール・シュマティを差し向けた。しかし、ナブー・ベール・シュマティはニネヴェに向かう途中で自殺した。その後フンバン・ハルタシュ3世も反乱で退位させられ、捕らえられてアッシリアに送られた。この直後からアッシリアの史料はエラムについて語らなくなる[48]。アッシュルバニパルはエラムの諸都市に新たな総督を任命することなく、遠征の後にエラムをアッシリアの属州として組み込もうともしなかった。そうする代わりに彼はエラムを破壊したまま無防備な状態のまま放置した。エラムは荒廃した無人居となったが、アッシュルバニパルの遠征の数十年後、ペルシア人たちがこの地域に移り住み、荒れ果てた都市を再建した[4]。
アラビア遠征
[編集]アラビア半島の諸部族に対するアッシュルバニパルの遠征について、現代の学者たちは比較的小さな関心しか払っていないが、彼が残した年代記の最後の版(A版)において最も長い記録がある軍事遠征である[49]。ただし、アッシュルバニパルの年代記の記録は時系列が不確かであり、構成も複雑で史実の読み取りには多くの困難がある。編年に関する問題は歴史学者Israel Eph'Alの研究によって大部分解決されたものの[49]、同じエピソードが複数回登場したり、文法上の誤りがあるなどの問題のほか、登場人物が物語の個々のエピソードで異なる立場を与えられているという問題もある[49]。
また、年代記の各版の作成時に記載されたアラビア遠征の物語は、その都度いくらかの改変が行われている。アラブ人[注釈 5]に対する遠征についてのアッシュルバニパルの最初の記録は前649年に作成され、ケダル人の王であるハザエルの子ヤウタ(Yauta)がAmmuladdinという他のアラブの王と共にアッシュルバニパルに反乱を起こし、アッシリア帝国の西方領土を略奪したことについて記述している(ハザエルはアッシュルバニパルの父エサルハドンに貢納を行っていた)。アッシュルバニパルの記録によれば、彼の軍はモアブの王カマス・ハルタの軍と共に反乱軍を打ち破った。Ammuladdinは捕らえられ鎖に繋がれてアッシリアに送られ、ヤウタは逃亡した。ヤウタに代わって、アビヤテ(Abiyate)というアッシリアに忠実なアラブ人の将軍がケダル人の王とされた。上に示したこの遠征についての最も古い記録は、「余のn番目の遠征」というフレーズが欠如し、敵対した人物を破ったとも述べず、敵の王が捕らえられて処刑されることもなく生き延びて逃亡しているという点において他の大部分のアッシュルバニパルの軍事記録と異なっている[49] 。
この遠征についての第二の物語は前648年に作成されたもので、アッシュルバニパルがアラブ人の女王アディヤ(Adiya)を破ったこと、ヤウタがNabayyateのナトゥヌ(Natnu)という別の首長の下へ逃げたこと、ナトゥヌがヤウタの受け入れを拒否しアッシュルバニパルに忠実であり続けたことが記録されている。このバージョンと更にその後に作られたバージョンの物語にはヤウタが何年も前にエサルハドンに対して反乱を起こしたことについて言及されている。これらの後から作られた記録はまた、ヤウタの反乱をシャマシュ・シュム・ウキンの反乱と明確に結びつけ、それを同時に発生したものとし、ヤウタの反乱は、シャマシュ・シュム・ウキンによるアッシリア内戦が引き起こした混乱に乗じたものであることを示唆している[51]。
短期間で終わったこの最初の遠征の後、アッシュルバニパルはアラブ人に対する2度目の遠征を実施した。アッシュルバニパルのこの戦いについての記録は大部分がシリアにおけるウイアテ(Uiate、ヤウタと混同されていたが、恐らく別人)とそのアラブ人兵士たちの捜索に関する彼の軍の動きに関するものである。この記録によれば、アッシリア軍はシリアをダマスカスに向けて行軍し、その後Hulhulitiに進み、その後アビヤテを捕らえ、さらにウショ(Uššo)とアッコ(Akko)を破った。アビヤテが反乱を起こした動機については何の言及もない。さらに、前の遠征でアッシュルバニパルを支援していたNabayyateは、この2度目の遠征では撃破した相手として言及されている。この関係の変化について明らかにするような追加の情報は存在しない[52]。
アラビア遠征の物語の最後のバージョンでは、この2度の遠征はアッシュルバニパルの9度目の遠征を構成するものとされており、その内容がさらに広げられている。このバージョンではヤウタではなくアビヤテがケダル人の王とされ、シャマシュ・シュム・ウキンの反乱に加わったアラブ人の将軍はヤウタではなくAmmuladdinとなっている。そして、アッシュルバニパルが戦利品をアッシリアに持ち帰ったことで、アッシュルバニパルの帝国におけるインフレと、アラビアにおける飢餓が引き起こされたとされている。また、アッシリア軍だけではなくアッシュルバニパル自身も、個人的に戦闘で勝利を収めたことが明らかにされている。この後から作られたバージョンの物語ではウイアテが捕らえられ、エラムでの戦争で捕らえられた捕虜と共に、ニネヴェのパレードで引き回されたと述べられている[53]。
王位継承と編年
[編集]アッシュルバニパルの治世の終わりと、その後継者アッシュル・エティル・イラニの治世の始まりは史料の欠乏によって謎に包まれている。アッシュルバニパルが保存していた年代記は彼の治世の主たる史料であるが、恐らくは彼の病のために前636年で終わっている。アッシュル・エティル・イラニの碑文ではアッシュルバニパルが自然死したことが示されているが、その死が正確にいつのことであったかを明らかなものとはしていない[54]。考古学的な発掘と発見が行われる前の1800年代、アッシュルバニパルは古代ギリシアの著作からサルダナパロスという名前で知られており、アッシリア最後の王と誤認識されていた。彼の死について人気のあった物語として、前612年のニネヴェの陥落の時(実際にはアッシュルバニパルの死のほぼ20年後の出来事である)、サルダナパロスが宮殿もろとも自分自身と生き残っていた側女および下僕を焼いたというものがある[3]。
アッシュルバニパルの最後の年を前627年とする見解が繰り返されているが[9][4]、これは1世紀近く後の新バビロニアの王ナボニドゥスの母親がハッラーン市に作らせた碑文に基づいている。アッシュルバニパルが生きて王として統治していたことを示す最後の同時代史料は前631年に作られたニップル市の契約書である[55]。アッシュルバニパルの後継者たちの統治期間と整合させるため、アッシュルバニパルはこの前631年に死亡したか、退位したか、あるいは追放されたということが一般的に合意されている[56]。通常は前631年が彼の死亡年とされている[6]。もし、アッシュルバニパルの治世が前627年に終わったとすれば、バビロンから発掘された、彼の後継者であるアッシュル・エティル・イラニとシン・シャル・イシュクンの碑文の内容とつじつまが合わなくなる。バビロンは前626年にナボポラッサルによって占領され、その後再びアッシリアの手に戻ることはなかった[57]。
この2人の王のバビロン統治期間から逆算すれば、アッシュルバニパルのバビロン統治の終期は前631年となるはずであるが、前627年まで統治したという説を正当化する1つの可能性は、アッシュルバニパルと息子のアッシュル・エティル・イラニが共同統治を行っていたと仮定することである。しかし、それ以前のアッシリアの歴史において共同統治の実例は全く存在せず、またこの説は、アッシュル・エティル・イラニが自身の碑文で父の治世が終わった後に王位に就いたと述べていることと明白に矛盾する。在位42年という誤った説が生じた原因として、後世のメソポタミアの歴史編さんにおいて、アッシュルバニパルがバビロンをシャマシュ・シュム・ウキンやカンダラヌと共同統治したという情報が作用した可能性はある。この2人のバビロン統治期間を合計すると42年間に及ぶからである。ただし、カンダラヌが死亡したのは紀元前627年だが、アッシュルバニパルはその3年前に死亡している[58]。
かつて支持を集めた別の説には、アッシュルバニパルとカンダラヌが同一人物であり、「カンダラヌ(Kandalanu)」は単にアッシュルバニパルがバビロンで使用した即位名であるというものがある(従って、この説ではアッシュルバニパルの治世が前627年まで続いたとする)。この見解を擁護するものには例えばポーランドの歴史学者シュテファン・ザワドスキの著書『The Fall of Assyria』(1988年)があるが、これは複数の理由からあり得そうもないと考えられている。それまでのアッシリア王の中にバビロンにおいて別名を使用していた王は知られていない。バビロニアから発見された碑文でもまた、アッシュルバニパルとカンダラヌの治世期間の長さは異なっており、アッシュルバニパルの治世は彼が年間を通して王であった最初の年(前668年)を起点とし、カンダラヌの治世はやはり彼が年間を通して王であった最初の年(前647年)を起点として数えられている。個人としてバビロンを統治していた全てのアッシリア王が「バビロンの王」という称号を自らの碑文で用いているが、アッシュルバニパルの碑文では前648年以降に作られたものでさえこの称号は使用されていない。最も重要なことは、バビロニアの史料がアッシュルバニパルとカンダラヌを2人の別の人物として取り扱っていることである。同時代のバビロニア史料も、アッシュルバニパルをバビロンの王として描写していない[59]。
アッシュルバニパルの地位は息子のアッシュル・エティル・イラニに継承された。また別の息子、シン・シャル・イシュクンには要塞都市ニップルが与えられ、カンダラヌが死亡した時にはバビロンにおけるカンダラヌの後継者となることが定められた。この決定は、アッシュルバニパルの父エサルハドンの王位継承計画の影響を受けたものと思われる[6]。
家族と子供たち
[編集]アッシュルバニパルの王妃の名はリッバリ・シャラト[60](アッカド語:Libbali-šarrat[61][注釈 6])である。彼女についてはあまりよくわかっていないが、アッシュルバニパルが王となった時には既に結婚していた。結婚の時期は前673年頃、エサルハドンの妻エシャラ・ハンマト(Esharra-hammat)が死亡した頃のことであったとも考えられる[64]。
3人のアッシュルバニパルの子供の名前がわかっている
- アッシュル・エティル・イラニ(アッカド語:Aššur-etil-ilāni[65]):前631年から前627年までアッシリア王として統治した[2]。
- シン・シャル・イシュクン(アッカド語:Sîn-šar-iškun[66]):前627年から前612年までアッシリア王として統治した[2]。
- ニヌルタ・シャル・ウツル(アッカド語:Ninurta-šarru-uṣur[67]):下位の王妃(リッバリ・シャラトではない)の息子。政治的な役割は果たしていなかったと思われる[67]。
シン・シャル・イシュクンの碑文では、彼は「同等者たち(例えば兄弟など)の中から」王権に選ばれたと述べている。これはアッシュルバニパルには上記の3人のほかにもさらに別の息子たちがいたことを示している[68]。
アッシリアが前612年から前609年にかけて滅亡した後、アッシュルバニパルの血脈はメソポタミアの権力の座に舞い戻った可能性もある。新バビロニア最後の王ナボニドゥス(在位:前556年-前539年)の母はハッラーン出身であり、アッシリア人の祖先を持っていた。この女性、アッダゴッペは、彼女自身の碑文によればアッシュルバニパルの統治第20年(前648年、アッシュルバニパルが通年で王であった最初の年を起点とする)に生まれたという。イギリスの学者ステファニー・ダリーは、ナボニドゥスがアッシュルバニパルの系譜に連なるという彼女の碑文の主張に基づいて、「ほぼ確実に」アッダゴッペがアッシュルバニパルの娘であったと考えている[69]。アメリカの聖書研究者マイケル・B・ディック(Michael B. Dick)はこれに反論し、ナボニドゥスはかなりの期間をかけて古いアッシリアのシンボルを復活させ(例えば、彼は自分自身の姿を外套にくるまれた姿で描かせている。このような描写は他の新バビロニア王のものには存在しないが、アッシリアの芸術作品には登場する)、アッシリアのサルゴン王朝と自分自身を関連付けようとしてはいるものの、「ナボニドゥスがサルゴン王朝と関係があったという何らの証拠も存在しない」と述べている[70]。
遺産
[編集]アッシュルバニパルの図書館
[編集]アッシュルバニパルの図書館は世界で初めて体系的に組織された図書館であった[3][9]。この図書館はアッシュルバニパルの最も良く知られた業績であり、この王自身も自らの最も偉大な業績であると考えていた[4]。この図書館はアッシュルバニパルの命令によって整備され、各地の神殿の図書館からあらゆる種類とジャンルの文書を収集し複写するために帝国全土に書記が派遣された。集められた文書の大半は出来事の前兆の観察文書、人物や動物の詳細な行動記録、天体観測文書などであった。またこの図書館には、シュメール語とアッカド語やその他の言語の辞書、儀式、寓話、祈祷、呪文のような多くの宗教的文書もあった[9]。
『ギルガメシュ叙事詩』『エヌマ・エリシュ』(バビロニアの創世神話)『エッラ』、『エタナ物語』、『アンズー鳥の物語』のような、今日知られている伝統的なメソポタミアの物語の大半は、アッシュルバニパルの図書館に収蔵されていたことによって現代に残されたものである。この図書館はアッシュルバニパルの文学的関心の全てを網羅し、民話(『千夜一夜物語』の前身の一つである『ニップルの貧者』など)、手引書、そして科学的文書も収蔵していた[9]。
アッシュルバニパルは30,000枚以上に及ぶ[4]、膨大な粘土板文書の蔵書を収集する理由を次のように述べている。
ニネヴェは前612年に破壊され、アッシュルバニパルの図書館はアッシュルバニパルの焼け落ちた宮殿の壁の下に埋まり、その後2千年の間、歴史から失われた。19世紀にオースティン・ヘンリー・レヤードとホルムズド・ラッサムによって発掘され、ジョージ・スミスによってその蔵書が翻訳されたことで古代メソポタミアの文書が現代にもたらされた。この図書館の発見以前には、『聖書』が最古の本であるという広く普及していた概念があった。この考えはアッシュルバニパルの図書館の発見によって決定的に反証された[4]。
歴史学者による評価
[編集]アッシュルバニパルの治世においてアッシリアは世界史上最大の帝国であり、首都ニネヴェは約120,000人の住民を持ち[71]、恐らくは世界最大の都市であった[3]。その治世の間、アッシリア帝国は領土拡大を続けつつも経済的に繁栄した[9]。アッシュルバニパルはしばしばアッシリア最後の偉大な王であるとみなされ[9][11][4]、前王エサルハドン、さらにその前の王センナケリブと共に、最も偉大なアッシリア王の一人であると認識されている[72]。
アッシュルバニパルは時に狂信者という評価を与えられている。彼は帝国全土において主要な神殿の大部分を再建・修復し、その治世の間にとった行動の多くが、彼が強い関心を持っていた前兆の報告を受けてのものであった[9]。彼は二人の弟、アッシュル・ムキン・パレヤとアッシュル・エテル・シャメ・エルセティ・ムバッリッスをそれぞれアッシュル市とハッラーン市の神官に任命した[73]。彼はまた、ニネヴェにある自身の宮殿内にその長い治世の間に起きた重要な出来事を描いた多くの彫刻とレリーフを作らせたため、芸術の庇護者とも見られる。これらの芸術作品で用いられた様式は、彼の前任者たちの下で作成された芸術作品と異なり、「叙事的性格」を備えている[9]。
アッシュルバニパルに対する評価は、単に肯定的なものだけとは限らない。前639年、アッシュルバニパルはその年の名前を、楽士の長であったBulluṭuにちなんで命名した(年名は一般的に古代アッシリアの人々、しばしば軍関係者にちなんで名付けられた)。これを、アッシリア学者ジュリアン・E・リーズ(Julian E. Reade)は「無責任かつ自分に甘い」王の行動であると評した[56]。アッシリアはアッシュルバニパルの支配の下でその力の頂点に達したが、彼の死後急速に崩壊した。アッシュルバニパルがアッシリアの没落の責任の一部を負うかどうかについては議論の中にある。『エンサイクロペディア・イラニカ』におけるこの王の記事を書いたJ・A・ドロネー(J. A. Delaunay)は、その記事の中で、アッシリア帝国はアッシュルバニパルの下で既に「差し迫った混乱と凋落の明らかな兆しを示し」始めていたと記している[11]。一方でドナルド・ジョン・ワイズマンは『エンサイクロペディア・ブリタニカ』のこの王の記事に「これは彼の死後20年以内にアッシリア帝国が崩壊したことについて、彼の支配を告発するものではない。その崩壊は内紛ではなく、外部からの圧力によるものである」としている[9]。
芸術と大衆文化
[編集]芸術作品におけるアッシュルバニパルの描写は彼の治世から今日まで生き残っている。アッシュルバニパルの宮殿から見つかった一式の宮廷彫刻であるアッシュルバニパルの獅子狩りは、ロンドンの大英博物館で見ることができる。これらの彫刻にはメソポタミアライオンを狩って殺すアッシュルバニパルが描かれている[74]。アッシリアの王はしばしば「羊飼い」として自らの民を庇護する義務を負っていた。この庇護には外敵に対する防衛と、危険な野生動物から市民を守ることが含まれた。あらゆる野生動物の中で最も危険なものはライオンであり、(外国の脅威と同様に)その攻撃的な性質から、混沌と無秩序の象徴とされた。自分たちが支配者として相応しいことを証明し、有能な庇護者であることを示すため、アッシリアの王は獅子狩りの儀式を行った。獅子狩りはアッシリア王室にのみ許されたものであり、アッシリアの都市周辺か庭園で開催された公的行事であった[75]。
1942年、中島敦はアッシュルバニパルの時代を舞台とした文字禍を発表した。
アッシュルバニパルは現代の芸術作品の主題でもある。1958年、シュルレアリストの画家レオノーラ・キャリントンはイスラエル博物館のキャンバスに『Assurbanipal Abluting Harpies』と題する油絵を描いた。これは人間のような顔を持つ鳩に似た生き物の頭に白い物を注ぐアッシュルバニパルを描いている[76]。1988年にはフレッド・パーハードがアッシュルバニパル像を作り、これはサンフランシスコ市庁舎そばの通りに設置された。この像の値段は100,000ドルで、「初のアッシュルバニパルの巨大な銅像(first sizable bronze statue of Ashurbanipal)」と形容された。フレッド・パーハードは現代アッシリア人の祖先を持っており、この像は1988年5月29日に現代アッシリア人からの贈り物としてサンフランシスコ市へ贈与された。現地在住のアッシリア人からは、この像はアッシュルバニパルよりもメソポタミアの伝説的な英雄であるギルガメシュの方に似ているという懸念を表明する人もいた。パーハードはこの像はアッシュルバニパルを象ったものだと弁明したが、いくらかの芸術的表現を用いたとも説明している[77][78]。
アッシュルバニパルはまた、様々なメディアで大衆文化の中に時折登場している。ロバート・E・ハワードは『The Fire of Asshurbanipal』と題する短編小説を書いた。これは『ウィアード・テイルズ』誌の1936年12月号で初めて出版されたもので、「ギリシア人がサルダナパロスと呼び、セム系の人々がアッシュルバニパルと呼んだ遠い昔の王に属する呪われた宝石」についての話である[79]。ゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツの2007年の歌、『The Mesopotamians』はギルガメシュ、サルゴン、ハンムラビと共にアッシュルバニパルに言及している[80]。また、シミュレーションゲームのシヴィライゼーションVではアッシリアの支配者としてアッシュルバニパルが採用されている[81]。
称号
[編集]前648年の日付を持つ円筒形碑文[82]では、アッシュルバニパルは以下のような称号を用いている。
余はアッシュルバニパル、大王、強き王、世界の王、アッシリアの王、四方世界の王。世界の王にしてアッシリアの王、バビロンの副王、シュメールとアッカドの王であったエサルハドンの子孫。世界の王にしてアッシリアの王であったセンナケリブの孫[82]。
同様の称号の数々はアッシュルバニパルの多くの粘土板文書の一つでも使用されている。
余、アッシュルバニパル、大王、強き王、世界の王、アッシリアの王、四方世界の王。世界の王にしてアッシリアの王。世界の王にしてアッシリアの王であったエサルハドンの息子。世界の王にしてアッシリアの王、王族の永遠の起源であるセンナケリブの孫・・・[83]。
より長大な変化形がアッシュルバニパルがバビロンに建てた碑文に登場している。
アッシュルバニパル。強き王、世界の王、アッシリアの王、四方世界の王、諸王の王、無比の君侯。上の海から下の海までを支配し、全ての支配者たちを足元に跪かせる者。大王にして強き王、世界の王、アッシリアの王、バビロンの副王、シュメールとアッカドの王であったエサルハドンの子。強き王にして世界の王、アッシリアの王であったセンナケリブの孫。それが余である[84]。
関連項目
[編集]注釈
[編集]- ^ 統治第1年(通年通して王であった最初の年)から数える。
- ^ Baltuとashaguは恐らく棘のある低木の品種である。
- ^ Ulaiは現在のカールーン川である[27]。イラン、フーゼスターン州を流れ、シャットゥルアラブ川に合流する。
- ^ 新アッシリア時代のイシュタル女神の神格は複雑であり、複数の「現地化」されたイシュタル神が存在していた。アッシュルバニパルはここで言及されている3柱のイシュタル(ニネヴェのイシュタル、キドムリの女王としてのイシュタル、アルベラのイシュタル)について別の碑文でも父エサルハドンに後継者として自分を指名させた神々として言及している。これらのイシュタルはその重要性において対等ではなく、最も重要な天界のイシュタル(Ištar-of-Heaven)、次いでニネヴェのイシュタルが他のイシュタルよりも上位の存在であった。キドムリはニネヴェに存在した神殿の名前であるが、言葉の意味は不明である。アッシリアの宗教的文書においてこれらの複数のイシュタルは明らかに別々の神である。また、これらのイシュタル神は「ムリッス」という名前も共有していた。ニネヴェのイシュタル神はある賛歌において、まず表意文字(シュメログラム)においてムリッス(NrN.LiL)と呼ばれ、次いで音節表記でイシュタル(Ištar)と言及されている[42][43]。
- ^ ここでいう「アラブ人」は現代のアラブ人と厳密に対応する存在ではない。「集団名としてのアラブは、早くも前9世紀の新アッシリアなどの碑文に登場する。ただし、そのアラブが、アラビア語を話す言語集団を指しているとは限らず、アラビア半島に暮らす遊牧民を指す概念であった可能性も否定できない。実際、セム語派の諸言語においてこの語は砂漠・遊牧民・渡り鳥などと関連しており、クルアーンでも『アラブ』ではなく、複数形の『アアラーブ』が遊牧民を指して用いられている」(赤堀[50])。
- ^ リッバリ・シャラトの名前はかつてはアッシュル・シャラト(Ashur-šarrat)と読まれていた[62]。佐藤 1991においてもアシュル=シャルラトとカナ転写されている[63]。
出典
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参考Webサイト
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(『エサルハドン』(「古代史百科事典」に収録。記事はジョシュア・J・マークによる)) - “Introducing the Assyrians”. The British Museum. 5 December 2019閲覧。
(『アッシリア人について』(大英博物館)) - “Who was Ashurbanipal?”. The British Museum. 28 November 2019閲覧。
(『アッシュルバニパルとは、どんな人物か』(大英博物館))
外部リンク
[編集]- ダニエル・デーヴィッド・ラッケンビル:Ancient Records of Assyria and Babylonia Volume 2: Historical Records of Assyria From Sargon to the End。アッシュルバニパルの多数の碑文の英訳を見ることができる。
- Pitts, Russ (27 June 2013). “Knowing history: Behind Civ 5's Brave New World”. Polygon 5 December 2019閲覧。
(『歴史を知る:シヴィライゼーションV(素晴らしき新世界)の舞台』(著:ラス・ピッツ))
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