コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

リッバリ・シャラト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
リッバリ・シャラト
宮廷夫人[注釈 1][注釈 2]
ニネヴェで発見されたリッバリ・シャラトのレリーフ。食事の風景を描いている。

死亡 前631年以降
配偶者 アッシュルバニパル
子女
アッシュル・エティル・イラニ
シン・シャル・イシュクン
テンプレートを表示

リッバリ・シャラトLibbali-sharratアッカド語Libbāli-šarrat[3][注釈 3]、「内の町〈=イシュタル?〉は女王なり[6]」)は 古代メソポタミア地方の新アッシリア帝国の王妃。アッシリア王アッシュルバニパル(在位:前669年-前631年)の第一の配偶者である[注釈 4]。彼女はアッシュルバニパルが王になる前、恐らく前672年に結婚し、「王母」に言及するアッシュル・エティル・イラニ(在位:前631年-627年、彼女の息子と推定される)の文書から判断してアッシュルバニパルよりも長く生きていた可能性がある。リッバリ・シャラトはアッシュルバニパルのレリーフの1つで宮殿の庭園での夕食で女中たちに囲まれ、ホストとしてアッシュルバニパルを迎え入れている様が描かれている。古代アッシリアにおいて王以外の人物が宮廷にいる様を個人として描かれている例は彼女しか知られていない。

生涯

[編集]

王太子の妻

[編集]
リッバリ・シャラトを描いた石碑の細部。

リッバリ・シャラトがアッシュルバニパルといつ結婚したのかは不明である。アッシュルバニパルの父、エサルハドン(在位:前681年-669年)の王妃であるエシャラ・ハンマトは前672年2月に死亡している。エシャラ・ハンマトの葬儀準備を記録した同時代史料には「王妃の王女」と「義理の娘」の記録が残されている。このことから、リッバリ・シャラトとアッシュルバニパルの結婚はエシャラ・ハンマトの生前に行われたと見られる。しかし、この「義理の娘」がエサルハドンの別の息子たちの妻である可能性もある。アッシリア学者シモ・パルポラ英語版はリッバリ・シャラトが結婚したのはアッシュルバニパルが前672年5月に王太子となった頃より後であるとしている[8]

リッバリ・シャラト(Libbāli-šarrat)の名前はユニークで、他に同名の人物は知られていない。名前の構成要素にシャラトゥム(šarratum、王妃)が含まれていることから、これは誕生名ではなくアッシュルバニパルとの結婚時、またはエサルハドンがアッシュルバニパルと共に後継者に任命された時に付けられた名前である可能性がある。文字通りに翻訳するならば、リッバリ・シャラト(Libbāli-šarrat)は「内の町は女王なり」という意味である。「内の町」は女神イシュタルを意味する用語かもしれない。あるいは、「内の町(において、女神イシュタル)は女王である」と解釈し得る[6]。また、リッバリ(Libbāli)はアッシリアの宗教的中心であったアッシュル市の古代の神殿地区の名前でもあった[9]

リッバリ・シャラトとアッシュルバニパルの姉妹シェルア・エテラトの間にはある程度の緊張関係があったかもしれない[10]。前670年頃、エサルハドンの治世末期、シェルア・エテラトはリッバリ・シャラトに宛てて手紙を書いている。この手紙でシェルア・エテラトは将来の王妃たるリッバリ・シャラトが勉学を怠っていることを叱責し、また、いずれリッバリ・シャラトが王妃になるとしても、王女であるが故に自分の方が格上であることを伝えている[11][12][13]。この手紙の別の解釈として、これはリッバリ・シャラトが宮廷生活に適応できるように助けようとしたやや無遠慮な試みであり、シェルア・エテラトが彼女に対して宮廷における上位を主張したものではないというものがある[14]。この手紙は、当時恐らくリッバリ・シャラトは文字の読み書きができず、また王妃となった後もそのままであったならば、王家にとっての恥であったことも示している[14]。リッバリ・シャラトはアッシリア王族の妻として彼女の役割を果たすべく長く花嫁修業を施されてきたと考えられるが、この手紙は王太子の妻としてかなり遅い段階においてさえ大きな調整が必要であったことを示している[15]。リッバリ・シャラトは正しく読み書きを習得し、やがて夫アッシュルバニパルと学術・文学への興味を共有したことが後の文書から推測される。アッシュルバニパルはアッシュルバニパルの図書館を作ったことで有名である[16]

アッシリアの王妃

[編集]
アッシュルバニパルの「園遊会」のレリーフ。食事をするアッシュルバニパル夫妻が中央に描かれている。

サルゴン2世(前722年-前705年)によって始められた改革以来、サルゴン王朝のアッシリア王たちの王妃は自身に直接従う軍部隊を保有していた[17]。リッバリ・シャラトの軍の中には前652年から前648年にかけてのアッシュルバニパルの兄弟シャマシュ・シュム・ウキンとの内戦で活躍した戦車(チャリオット)の運転手、マルドゥク・シャル・ウツル(Marduk-šarru-uṣur)がいた[3]

リッバリ・シャラトはアッシュルバニパルの「園遊会」のレリーフでアッシュルバニパルと共に描かれていることで有名である。このレリーフではリッバリ・シャラトは彼女の女中たちに囲まれて二人で食事しており、彼女自身はアッシュルバニパルに対面して高い背もたれのある椅子に座っている。一方のアッシュルバニパルは寝台(couch)に寝そべっている。エラム王テウマン英語版の頭が木から吊るされており、夫妻は前653年のエラムに対する戦勝を記念して祝杯を挙げている[18][19]。リッバリ・シャラトが王の配偶者として高い地位を持っていたことは、このレリーフにおいて彼女が王に非常に近い位置に描かれていることと、彼女のドレスや宝石からわかる。アッシュルバニパルはリッバリ・シャラトよりもさらにやや大きく、また高い位置に描かれており、より大きな力を持っていることが示されている[19]。この「園遊会」のレリーフの際立った特徴の1つは何といってもアッシュルバニパルが王冠を被っていないのに対し、リッバリ・シャラトは被っていることである。またリッバリ・シャラトが座っているのに対し、アッシュルバニパルは寝そべっている事実も重要である。なぜなら、玉座に座ることは神聖な王家の特権であったためである[注釈 5]。このことは、場面全体がアッシュルバニパルではなくリッバリ・シャラトを中心として構成されていることを意味する。このレリーフは古代アッシリアにおいて王以外の個人が実質的に宮廷を所有し、さらには王をもてなす場面を描いた現存する唯一の図像である[21][注釈 6]

「園遊会」のレリーフに加えて、石碑に描かれたリッバリ・シャラトの同時代の描写が知られている。この肖像では、リッバリ・シャラトが植物を用いてある種の儀式的な仕草をしつつ公的な姿勢をとっている[22]。王妃を含むアッシリアの高貴な女性たちは神の好意と加護を得るために定期的に諸神殿への布施と神々への奉納を行った[23]。リッバリ・シャラトによって書かれた奉納碑文の1つでは次のように書かれている[24]

女神 [...] 偉大なる [淑女]、彼女の淑女に。世界の王、アッシリアの王、[アッシュルバ]ニパル[の王妃、リッバリ・シャラト]。彼女は赤い金の[...]作った。彼女の最愛の人、アッシュルバニパルの[生命と健康のために]。彼の長寿、彼の王位の末永きこと(のために)、そして彼女自身のために、彼女の生命のために、彼女の長命のために、彼女の王朝に幸あらんことを。(女神)は彼女の夫である王に彼女の言葉を喜ばせ給え。そして彼女(女神)は二人を共に老いさせ給え。(そのために)彼女は(それを)立たせ(それを)奉納するものなり[訳語疑問点][24]

ニヌルタ・シャル・ウツル(Ninurta-sharru-usur)のようなアッシュルバニパルの下位の妻たちの息子が何らかの政治的役割を果たすことはなかったと見られることから、リッバリ・シャラトは恐らくアッシュルバニパルの次の王であるアッシュル・エティル・イラニ(在位:前631年頃-前627年頃)とシン・シャル・イシュクン(在位:前627年頃-前612年)の母親であると思われる[25]。アッシュル・エティル・イラニの治世に年代付けられる粘土板で「王母」への言及があることから、リッバリ・シャラトは前631年にアッシュルバニパルが死亡した後も生きていた可能性がある[26]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 「王妃」(Queen)という称号は今日の歴史学者によって通例として使用されているが、このような称号は新アッシリア帝国には存在しなかった。王(シャルム šarrum)に対応する用語の女性形はシャラトゥム(šarratum)であるが、この称号は女神、または自らを権力を行使する外国の女王に対して与えられるものであった。アッシリアの王の配偶者が自ら支配することはなかったため、彼女たちはこのような女神・外国の女性支配者たちと同格と見なされることは無く、シャラトゥムと呼ばれることはなかった。王の第一の配偶者に与えられる称号は「宮廷夫人」であった[1]。この用語はシュメログラム(楔形文字)でMUNUS É.GALと綴られ、アッシリア語ではissi ekalliと読まれた。後にはsēgalluと略された[2]
  2. ^ 宮廷夫人という訳語は「Woman of the Palace」という英訳に基づいており、学術的な訳語でないことに注意。
  3. ^ リッバリ・シャラトの名前は古い学説では誤ってアッシュル・シャラト(Ashur-sharratAššur-šarrat)と転写されていることがある[4]。また、šarratをシャラトとカナ転写するのはアルファベット表記からのものであり、学術的裏付けを持ったものではないことに注意。佐藤進は彼女の名前をアシュル・シャルラトとカナ転写している[5]。アシュル=アッシュルは前述の通り、古い読解に基づくものである。
  4. ^ 当時のアッシリア王たちは同時に複数の妻を持っていた。しかし、全ての妻たちが「王妃(宮廷夫人)」と認識されていたわけではない。この点についてはかつて論争があったが[2][7]、「宮廷夫人」という称号は限定詞(qualifier)なしで使用されており(これは曖昧さがなく、この用語が誰を示すのか明確であったことを示す)、この称号を負う女性は同時期にただ一人であったと思われる[2]
  5. ^ 恐らく、アッシュルバニパルが寝そべっているのは、アッシュルバニパルが立っている構図(これは、座っている妻より彼を下位の存在として描くものであることから不可能な描写であった)と、アッシュルバニパルが座っている構図(これは芸術作品において通常、玉座はただ一つだけであったことから不適切であった)の折衷案であった[20]
  6. ^ アッシュルバニパルが王座に座っている、あるいは宮廷にいる場面を描いた図像は実際には知られていない。このことは恐らく、彼の治世中に玉座という象徴が芸術表現としての意味合いを喪失しつつあり、同様に宮廷内でも象徴的意味合いが薄れていたことを意味するものであろう[20]

出典

[編集]
  1. ^ Spurrier 2017, p. 173.
  2. ^ a b c Kertai 2013, p. 109.
  3. ^ a b Svärd 2015, p. 164.
  4. ^ Álvarez-Mon 2009, p. 147.
  5. ^ 佐藤 1991, p. 118.
  6. ^ a b Frahm 2014, p. 189.
  7. ^ Spurrier 2017, p. 166.
  8. ^ Kertai 2013, p. 119.
  9. ^ Radner 2015, pp. 18–19.
  10. ^ Teppo 2007, p. 395.
  11. ^ Teppo 2007, p. 394.
  12. ^ Novotny & Singletary 2009, pp. 172–173.
  13. ^ Melville 2004, p. 42.
  14. ^ a b Novotny & Singletary 2009, p. 168.
  15. ^ Chavalas 2014, p. 214.
  16. ^ Frahm 2004, p. 45.
  17. ^ Svärd 2015, p. 163.
  18. ^ Kertai 2020, p. 209.
  19. ^ a b Gansell 2018, p. 163.
  20. ^ a b Kertai 2020, p. 215.
  21. ^ Kertai 2020, p. 213.
  22. ^ Chavalas 2014, p. 233.
  23. ^ Chavalas 2014, p. 234.
  24. ^ a b Chavalas 2014, p. 235.
  25. ^ Frahm 1999, p. 322.
  26. ^ Svärd 2015, p. 161.

参考文献

[編集]
  • Álvarez-Mon, Javier (2009). “Ashurbanipal's Feast: a View from Elam”. Iranica Antiqua 44: 131–180. doi:10.2143/IA.44.0.2034378. 
    (学術誌『古代イラン』(第44号、2009年、ベルギー)p.131-180に収録されている『アッシュルバニパルの祝宴:エラムからの視点』(著:ジャヴィア・アルバレス・モン)
  • Chavalas, Mark (2014). Women in the Ancient Near East: a Sourcebook. Oxford: Routledge. ISBN 978-0415448550 
    (『古代近東の女性:史料集』(著:マーク・チャバラス、2014年、ラウトリッジ出版(英国)))
  • Frahm, Eckart (1999). “Kabale und Liebe: Die königliche Familie am Hof zu Ninive” (German). Von Babylon bis Jerusalem: Die Welt der altorientalischen Königsstädte. Reiss-Museum Mannheim. https://www.academia.edu/1011803 
    (『陰謀と愛:ニネヴェの宮廷における王室』(著:エッカート・フラーム、1999年、マンハイム・ライス博物館(ドイツ)))
  • Frahm, Eckart (2004). “Royal Hermeneutics: Observations on the Commentaries from Ashurbanipal's Libraries at Nineveh”. Iraq 66: 45–50. JSTOR 4200557. https://www.jstor.org/stable/4200557. 
    (ケンブリッジ大学年報「イラク」第66号(2004年)p.45~50に収録されている『王家の解釈:ニネヴェにあったアッシュルバニパルの図書館の論評についての批評』(著:エッカート・フラーム)
  • Frahm, Eckart (2014). “Family Matters: Psychohistorical Reflections on Sennacherib and His Times”. In Kalimi, Isaac. Sennacherib at the Gates of Jerusalem: Story, History and Historiography. Leiden: BRILL. ISBN 978-9004265615. https://books.google.com/books?id=bF_bAgAAQBAJ 
    (『エルサレムの門におけるセンナケリブ:物語、歴史と編纂』(著:アイザック・カミリ、セス・リチャードソン(Seth Richardson)、2014年、ブリル出版(オランダ))に収録されている『家族に関すること:センナケリブとその時代について、心理歴史学的考察』(著:エッカート・フラーム))
  • Gansell, Amy Rebecca (2018). “In Pursuit of Neo-Assyrian Queens: An Interdisciplinary Model for Researching Ancient Women and Engendering Ancient History”. In Svärd, Saana. Studying Gender in the Ancient Near East. University Park: Eisenbrauns. ISBN 978-1575067704 
    (『古代近東におけるジェンダーの研究』(編:サンナ・サヴァード、2018年、アイゼンブラウン社(米国))に収録されている『新アッシリアの女王の追究:古代女性と古代史の生産の研究における学際的なモデル』(著:アミー・レベッカ・ガンセル))
  • Kertai, David (2013). “The Queens of the Neo-Assyrian Empire”. Altorientalische Forschungen 40 (1): 108–124. doi:10.1524/aof.2013.0006. 
    (『古代東洋研究』(ドイツ)第40号第1冊(2013年)p.108-124に収録されている『新アッシリア帝国の王妃たち』(著:デイヴィッド・ケルタイ)
  • Kertai, David (2020). “Libbali-sharrat in the Garden: An Assyrian Queen Holding Court”. Source: Notes in the History of Art 39 (4): 209–218. doi:10.1086/709188. https://www.journals.uchicago.edu/doi/abs/10.1086/709188?journalCode=sou. 
    (シカゴ大学季刊誌「美術史論文集」第39号第4分冊(2020年)p.209~218に収録されている『庭園の中のリッバリ・シャラト:庭を持つアッシリアの王妃』(著:デイヴィッド・ケルタイ))
  • Melville, Sarah C. (2004). “Neo-Assyrian Royal Women and Male Identity: Status as a Social Tool”. Journal of the American Oriental Society 124 (1): 37–57. doi:10.2307/4132152. JSTOR 4132152. 
    (アメリカ東洋学会誌第124号第1巻(2004年)、37~57ページに収録されている『新アッシリア王家の女性と男性のアイデンティティ:社会的手段としての地位』(著:サラ・C・メルヴィル)
  • Novotny, Jamie; Singletary, Jennifer (2009). “Family Ties: Assurbanipal's Family Revisited”. Studia Orientalia Electronica 106: 167–177. https://journal.fi/store/article/view/52460. 
    (電子版東洋研究第106号(2009年)p167-177に収録されている『家族の絆:アッシュルバニパルの家族再考』(著:ジェイミー・ノヴォトニー、ジェニファー・シングルタリー)
  • Radner, Karen (2015). Ancient Assyria: A Very Short Introduction. Oxford University Press. ISBN 978-0198715900 
    (『古代アッシリアの、非常に簡単な手引き』(著:カレン・ラドナー、2015年、オックスフォード大学出版))
  • Spurrier, Tracy L. (2017). “Finding Hama: On the Identification of a Forgotten Queen Buried in the Nimrud Tombs”. Journal of Near Eastern Studies 76 (1): 149–174. doi:10.1086/690911. https://www.journals.uchicago.edu/doi/full/10.1086/690911. 
    (近東研究誌(シカゴ大学)第76巻第1分冊(2017年)p. 149~174に収録されている『ハマの発見:ニムルドの墓に葬られた、忘れ去られた女王の特定』(著:トレイシー・L・スパリアー))
  • Svärd, Saana (2015). “Changes in Neo-Assyrian Queenship”. State Archives of Assyria Bulletin XXI: 157–171. 
    (ヘルシンキ大学(フィンランド)アッシリア学会報第21号p.157-171に収録されている『新アッシリア帝国における王妃のあり方の変化』(著:サーナ・サヴァード))
  • Teppo, Saana (2007). “Agency and the Neo-Assyrian Women of the Palace”. Studia Orientalia Electronica 101: 381–420. https://journal.fi/store/article/view/52624. 
    (電子版東洋研究101号(2007年)p381-420に収録されている『宮殿における作用と新アッシリアの女性』(著:サーナ・テッポ)
  • 佐藤, 進「選ばれてあることの恍惚と不安-エサルハドンの場合」『古代オリエントの生活』河出書房新社〈生活の世界歴史1〉、1991年5月、107-168頁。ISBN 978-4-309-47211-9