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{{Infobox graphic novel
『'''フロム・ヘル'''』(''From Hell'')は、[[アラン・ムーア]]原作、エディ・キャンベル作画の[[グラフィックノベル]]。及びそれを原作とした[[2001年]]製作の[[アメリカ合衆国の映画|映画]]。[[切り裂きジャック]]を作品の題材に使用している。
|title=フロム・ヘル
| foreigntitle =From Hell
|image= From Hell - Logo.jpg
|publisher={{USA}}<br> エディ・キャンベル・コミックス<br> [[トップシェルフ・プロダクションズ|トップシェルフ]]<br>{{GBR}}<br> [[ノックアバウト・コミックス|ノックアバウト]]
|pages=572
|date=1999(単行本)
|origpublication={{plainlist|
*''Taboo''
*''From Hell''}}
|issues=10号(コミックブック版)
|origdate=1989–1996
|writers=[[アラン・ムーア]]
|artists=[[エディ・キャンベル]]
|language=英語
| transpublisher = [[みすず書房]]
| transdate = 2019年11月11日(新装合本)
| transisbn = 978-4622088592
| transpages = 592
| translator = [[柳下毅一郎]]}}
『'''フロム・ヘル'''』({{Lang-en-short|''From Hell''}})とは、[[アラン・ムーア]]原作、{{仮リンク|エディ・キャンベル|en|Eddie Campbell}}作画の[[グラフィックノベル]]作品。英語圏のコミックを大きく発展させたムーアの代表作の一つ。19世紀末に起きた「[[切り裂きジャック]]」[[ホワイトチャペル殺人事件|事件]]を題材としており、事件の核心を除けば内容は厳密に史実に基づいている。「殺人の謎を解くために全宇宙の謎を解くようなミステリ<ref name=mmm>{{cite web|url=https://allreviews.jp/review/3904|accessdate=2020-01-30|title=<nowiki>『フロム・ヘル [新装合本]』(みすず書房)</nowiki>|author=柳下毅一郎|website=ALL REVIEWS|date=2019-11-08}}</ref>」として構想され、魔術的な世界観を背景に、後期[[ヴィクトリア朝]]当時のイギリス社会と20世紀への移り変わりを総体として描くテーマがある。題名は真犯人が送ったとされる{{仮リンク|フロム・ヘル・レター|en|From Hell letter|label=「地獄より」と署名された手紙}}から{{sfn|Parkin|2013|p=249/427}}。


1989年から1998年にかけて小出版社から雑誌連載やコミックブックとして発表され、1999年に単行本化された。[[アイズナー賞]]複数部門など多くの受賞がある。2001年には同題で[[フロム・ヘル (映画)|映画化]]された。日本語版は2009年に[[みすず書房]]から刊行された。
== 概要 ==
原本は1999年に単行本発売。日本語版は2009年10月に[[みすず書房]]から上下巻で刊行([[柳下毅一郎]]翻訳)。


== 作品内容 ==
[[コリン・ウィルソン]]が紹介した新説を元としており、切り裂きジャックの正体はヴィクトリア女王の侍医のウィリアム・ガル博士。しかしガル医師は脳溢血の発作で1887年から体の自由が利かない状態であり、犯行が可能とは考えにくい。
物語本編は全14章およびプロローグ・エピローグで構成されている。単行本の補遺Iはそれらの注解である。補遺II「カモメ捕りのダンス」は24ページの独立した漫画作品で、切り裂きジャック現象についての考察が描かれている<ref name=tor2>{{cite web|url=https://www.tor.com/2012/04/30/the-great-alan-moore-reread-from-hell-part-2/|accessdate=2020-01-31|title=The Great Alan Moore Reread: From Hell, Part 2|publisher= Tor.com|date=2012-04-30|author=Tim Callahan}}</ref>。


=== あらすじ ===
また、ウィルソン自身も、犯人についてはガル博士のようなひとかどの人物ではなく、現代の連続殺人犯にありがちな取るに足らない人間であろうとしている。
1923年、互いを「アバーライン」「リーズ殿」と呼び合う老人が海辺を散策している。二人はかつて関わった何らかの不正について述懐する<ref name=tor1/>{{sfn|ムーア|2009a|loc=プロローグ}}。

1884年、[[ロンドン]]。[[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|クラレンス公爵アルバート・ヴィクター王子]]は庶人を装って貧困地区[[イーストエンド・オブ・ロンドン|イーストエンド]]に出入りし、菓子店員アニー・クルックと結婚して子まで儲けていた。王子の祖母[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]は事態に気づくと、アニーを[[精神科|精神病院]]に幽閉し{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.1}}、王室付きの医師{{仮リンク|ウィリアム・ガル|en|William Gull|label=ウィリアム・ガル}}博士に命じて正気を失わせる{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.2}}。醜聞は露見を免れたかに見えたが、アニーの友人だった売春婦[[メアリー・ジェーン・ケリー|メアリー・ケリー]]が赤ん坊と王家のつながりを知ってしまう。ケリーは同業の[[メアリー・アン・ニコルズ|ポリー・ニコルズ]]、[[アニー・チャップマン]]、[[エリザベス・ストライド|リズ・ストライド]]らと共謀し、王子の世話役だった画家[[ウォルター・シッカート]]を恐喝する{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.3}}。ヴィクトリア女王は王室を脅かす4人の女を排除すべく再びガルに密命を下す{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.4}}。

[[ファイル:Sir William Withey Gull. Photogravure by Duclaud after Ellio Wellcome L0017010.jpg|thumb|実在のウィリアム・ガルを写した{{仮リンク|フォトグラヴュール|en|Photogravure|label=グラビア写真}}(1973年)<ref>{{cite web|url=http://catalogue.wellcomelibrary.org/record=b1167091|accessdate=2020-02-09|title=Wellcome Library Catalogue - Search results for "b1167091"}}</ref>。このとき57歳。作中の事件は15年後の出来事である。]]
ガルは幼いころから崇高な使命に身を捧げる望みを持っており、卓越した医師・[[フリーメイソン]]の高位者として女王の信任を得るまでになってなお飽き足りないものを感じていた。しかし老境に至って、発作で意識朦朧とする中でフリーメイソンの神格「{{仮リンク|ヤー・ブル・オン|en|Jahbulon}}」の顕現を目撃し、啓示を受けたと信じる{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.2}}。神秘思想にのめりこんでいったガルは、女王の命令を契機に「大いなる業」を企図する。それは、男性が女性を支配する社会構造を次の時代まで存続させるための精緻な魔術儀式だった。ガルは手始めに、助手に付けられた御者{{仮リンク|ジョン・ネトリー|en|John Netley}}とともにロンドン市内の歴史的建造物を巡って回り、古代の女権文化が男権文化に征服され、月が太陽に追い落とされ、無意識が理性の虜とされてきた歴史を説き明かしていく{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.4}}。

ガルは売春婦の巣窟[[ホワイトチャペル]]で女たちを惨殺していく{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.5}}。殺人を繰り返すガルは現実とも妄想ともつかない[[超越|超越体験]]に遭遇し{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.5, p.33, ch.7, p.24}}、夜空にそびえたつ異界の高層建築を垣間見る{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.8, p.40}}。新聞社が名づけた「[[切り裂きジャック]]」による凶行はロンドン全体を恐怖に陥れ、女王やフリーメイソンの支援者たちもガルの暴走を憂慮し始める。取り違えによって予定外の犠牲者([[キャサリン・エドウッズ]])が出たためさらなる殺人が必要となり、心神耗弱に陥りつつあるネトリーをガルは「ここは地獄であり、出口はその最深奥にしかない」と説きつける。ガルは浅薄な物語を書き立てる新聞社を嘲弄するため、ネトリーに筆記させて「地獄より」と署名された手紙を書く{{sfn|ムーア|2009b|loc=ch.9, pp.31-36}}。

最後の殺人によって「大いなる業」は絶頂を迎える。一種の[[解離性障害|乖離状態]]で死体を解体するガルの前に、異なる時代のヴィジョンが現れては消える。不意にガルは未来のロンドンにいる自分に気付き、己の行為が20世紀の在りようを定めたことを悟る。しかし、OA機器が並ぶオフィスで生気なく仕事に勤しむ人間たちはガルに目をくれようとしない。苦痛と恐怖に満ちた歴史を失認する未来人をガルは言葉の限りに罵り、慨嘆し、無残な姿となった遺体を抱擁する。やがて奇跡は過ぎ去り、ガルはネトリーに仕事の終わりを告げる{{sfn|ムーア|2009b|loc=ch.10}}。

霊能者を自称して女王に取り入った{{仮リンク|ロバート・ジェームズ・リーズ|en|Robert James Lees|label=ロバート・リーズ}}はガルに個人的な恨みを持っていた。リーズはガルに疑いをかけさせようと考え、捜査に当たっていた[[フレデリック・アバーライン]]警部に犯人の正体を霊視したと告げる。アバーラインとリーズに面会したガルはもはや保身など頭になく、即座に罪を認めて二人を驚愕させる。フリーメイソンの影響下にある[[スコットランドヤード]]はアバーラインの報告を握り潰す。メイソンの審問会に引き出されたガルは列席者を愚弄して己の業を誇り、精神病院に幽閉されることになる{{sfn|ムーア|2009b|loc=ch.12}}。アバーラインは事件の裏に王室の意思があったことを突き止めて憤るが、リーズとともに沈黙を保ち{{sfn|ムーア|2009b|loc=ch.13}}、潤沢な恩給を受けながら次の世紀まで生き永らえる。

数年が経ち、独房で死に瀕したガルは束の間の神秘体験を迎える。ガルの霊体は黒い波紋となって歴史構造の隅々まで広がっていき、その存在を感知した各時代の幻視者、芸術家、[[シリアルキラー]]らに霊感を与えていく。神々の座に向かって上昇を続けるガルは、最後に[[アイルランド島|アイルランド]]で暮らす一人の母親を見る。殺された娼婦の名を娘たちに与えた女は、偶然に助けられてガルの手を逃れた娼婦の一人なのかもしれない。女はガルの霊魂を見返し、「地獄に戻れ」と吐き捨てる{{sfn|ムーア|2009b|loc=ch.14}}。

再び1923年、アバーラインとリーズは真犯人に偽装されて殺された{{仮リンク|モンタギュー・ドルーイット|en|Montague Druitt}}の墓を弔い、さらに浜辺で語り合う。暗い記憶を共有する二人は、新しい世紀に待ち受ける騒乱を感じ取っている<ref name=tor2/>{{sfn|ムーア|2009b|loc=エピローグ}}。
=== 第4章「王は汝に何を求めたるや?」 ===
第4章において、ガルは馬車でロンドンを一周しながら、無学な御者ネトリーに歴史的な建造物の由来を語って聞かせる。石造りの建築を背景にした会話シーンが30ページ以上続く、視覚的に単調な構成はストーリー漫画として異色であり<ref name=hasted>{{cite news|newspaper=The Independent|date=2000-05-21|p=46|author=Nick Hasted|title=Books:Ripperology debunking Nick Hasted is awed by a grave and eerie graphic novel From Hell By Alan Moore and Eddie Campbell KNOCKABOUT pounds 25}}</ref>、作者たちも制作中に成否を危ぶむほどだった{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=1245/5478}}。しかし、実在のランドマークと饒舌な[[引喩]]によってオカルト的歴史観が展開されるこの章は、作品の重要な一部<ref name=sulmicki/>、「最も効果的な章の一つ」<ref name=ho/>と評されている。ミステリ評論家[[千街晶之]]は「偏執狂的なまでの史実へのリサーチからオカルティックな幻視を騙し絵的に浮かび上がらせる技巧」が本作の「真骨頂」だと呼んだ<ref name=sengai>{{cite journal|和書|title=Mystery アラン・ムーアの代表作、ついに刊行!|author=千街晶之|journal=SFマガジン|year=2009|volume=50|issue=13|page=120}}</ref>。

ガルが読み解く歴史の根幹には、男性=太陽が女性=月に取って代わる「原初の陰謀」がある<ref name=ho/>。先史時代に800万年にわたって女性が占めてきた支配的地位は、6000年前に男性が象徴という武器を手にしたことで覆ったのだという<ref name=takimoto/>{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.4, p.25, pnl.1}}。「象徴によって男性は女性を引きずりおろし、象徴によって押さえこんだ。何と強力な魔法だろうか!{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.4, p.25, pnl.1}}」象徴的な戦いの一例として、月の女神[[ディアーナ]]への信仰がキリスト教や、イギリスの民間伝承に見られる{{仮リンク|狩人ハーン|en|Herne the Hunter}}に置き換えられたことが挙げられる<ref name=ho/>。ガルが売春婦を殺害するのも、出産の神秘に支えられた女性の権威を失墜させて男性の力を再確認するという、古代から続く生贄儀式の一種である<ref name=ho/>。大きな時代の変わり目が近づき、女性・労働者の[[参政権]]運動や[[社会主義]]の台頭を前にしたガルは、男性による支配の象徴を再生しなければならないと考えたのだった{{sfn|ムーア2009a|loc=ch.4, pp.30-31}}<ref name=prince>{{cite journal|author=Michael Prince|journal=Journal of Graphic Novels and Comics|year=2017|volume=8|issue=3|doi=10.1080/21504857.2017.1307241|title= The magic of patriarchal oppression in Alan Moore and Eddie Campbell’s From Hell}}</ref>。ガルはロンドンの各地に眠る歴史を掘り起こすことで、国家の安定の名のもとに犠牲にされてきた異教の力にアクセスするのと同時に、暴力による支配を維持しようと試みる。作者ムーアはこれらの発想を{{仮リンク|イアン・シンクレア (作家)|en|Iain Sinclair|label=イアン・シンクレア}}の著作『[[ルッド]]の熱<ref group=†>原題 ''Lud Heat: A Book of the Dead Hamlets''</ref>』(1975年)や『[[ホワイトチャペル]]、緋の痕跡<ref group=†>原題 ''White Chappell, Scarlet Tracings''</ref>』(1987年){{sfn|Parkin|2013|273/427}}、および[[ロバート・グレーヴス]]から示唆されたという<ref name=simmoore1/>。

この章では{{仮リンク|ニコラス・ホークスムア|en|Nicholas Hawksmoor}}の建築作品が中心的に扱われている。ホークスムアはフリーメイソンの一員であり、教会建築に異教の意匠を取り入れたことからオカルティストの間で関心が高く、本作以前にもシンクレアや{{仮リンク|ピーター・アクロイド|en|Peter Ackroyd}}の小説で取り上げられている<ref name=guardian2006/>。ガルの説によると、ホークスムアは「[[ディオニュソス]]建築家」を手本にしていた{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.4, p.13, pnl.1}}。もともとフリーメイソンという団体自体、古代[[クレタ文明]]の流れを汲むディオニュソス建築家が中世の建築家ギルドに迎え入れられて成立したものである{{sfn|ムーア|2009b|loc=appx.I, p.12}}。ガルはそこに、ディオニュソス的な非理性と建築家としての[[アポロン]]的な理性を兼ね備えた「矛盾した存在」を見る{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.4, p.23}}。理性と非理性・狂気・無意識との対立もまた、男性原理と女性原理の二元論の一部とされる。

作中で訪問される数々のランドマークは、地図上で禍々しい[[五芒星]]を描き出す。この図形は後の章で一種の[[レイライン]]としてガルの昇天を導く{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=1963/5478}}。ガルによると五芒星の中央にある[[セント・ポール大聖堂]]は男性原理の核心的な象徴であり、その建築構造に埋め込まれた鉄鎖([[クリストファー・レン|レン]]の鎖<ref>{{cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82-88763|accessdate=2020-02-21|title=セント・ポール大聖堂(セント・ポールだいせいどう)とは|publisher=コトバンク|work=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|date=}}</ref>)が「無意識、月、女性性」をその内に縛り付けている<ref name=ho/>。

原作者アラン・ムーアはこの章を、過去の時代に視点を移動させることなく、建造物の描写と登場人物による解説だけで構成しようとした{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=1257/5478 }}。場面転換のない単調なプロットを作品として成立させた作画家エディ・キャンベルをムーアは称賛している<ref naMe=simmoore1/>。キャンベルは少しでも緩急をつけるため、ガルらが立ち止まっているときは背景を写実的に描き、馬車で移動している間はスケッチ風のタッチに変えて細部に目が留まらないようにした<ref name=campbellphoto3>{{cite web|url=http://eddiecampbell.blogspot.com/2006/12/alan-moores-london-part-3.html |accessdate=2020-02-21|title=Eddie Campbell: Alan Moore's London. part 3|author=Eddie Campbell|date=2006-12-23}}</ref>。また余計な部分で読者が混乱しないように、馬車が東に向かうシーンでは人物は右を向き、西に向かうシーンでは左を向いている<ref name=tcj145/>。この章は丸1日の出来事であり、太陽の動きを計算に入れて絵の光源が設定されている<ref name=campbellphoto5>{{cite web|url=http://eddiecampbell.blogspot.com/2006/12/alan-moores-london-part-5.html|accessdate=2020-02-22|title=Eddie Campbell: Alan Moore's London. part 5|author=Eddie Campbell|date=2006-12-26}}</ref>。

{{Gallery
|height=140
|file: Derelict Warehousing, Battle Bridge Road - geograph.org.uk - 976963.jpg |バトル・ブリッジ・ロード。何の変哲もない裏通りだが、[[ケルト人|ケルト]]の女王[[ブーディカ|ボアディケア]]がローマ軍に敗れた場所とされる{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.4, p.8, pnl.7}}{{sfn|ムーア|2009b|loc=appx.I, p.10}}。「これこそが女どもの最後の希望と夢が潰えた場所なのだ」{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.4, p.7, pnl.5}}
|file: Daniel Defoe Memorial, Bunhill Fields - geograph.org.uk - 1036927.jpg |{{仮リンク|バンヒル・フィールズ|en|Bunhill Fields}}。幻視者[[ウィリアム・ブレイク]]は、男性原理と理性を象徴する「太陽神の[[オベリスク]]<ref group=†>このオベリスク自体は[[ダニエル・デフォー]]を記念して建立されたものである。</ref>」の根元に葬られている{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.4, p.12, pnl.5}}。
| file: London-St Lukes LSO-2004.jpg|{{仮リンク|LSOセント・ルークス|en|St Luke Old Street|label=セント・ルーク教会}}。オベリスクのような尖塔は建築家[[ニコラス・ホークスムア]]の特徴である<ref name=guardian2006/>。「ありゃあバンヒル・フィールズの奴と同じもんだ! でもあんなかたちの尖塔があるわけない」{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.4, p.13, pnl.2}}
|file: St George's Church, Bloomsbury.jpg|ホークスムアの{{仮リンク|セント・ジョージ教会 (ブルームズベリー)|en|St George's, Bloomsbury|label=セント・ジョージ教会}}。尖塔は[[マウソロス霊廟]]の影響を受けている<ref name=guardian2006>{{cite web|url=https://www.theguardian.com/artanddesign/2006/sep/25/architecture|accessdate=2020-02-21|title=Hawksmoor's churches|publisher=The Guardian|date=2006-09-25}}</ref>。「巨大で暗く精巧な聖堂の精神、鳥糞に染まった石積みが今世紀を定義した……」{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.4, p.15, pnl.5}}
|file:Cleopatra's Needle - London 2016.JPG| 太陽神[[アトゥム]]を称えるオベリスク「[[クレオパトラの針]]」。「すべてに共通するものが何か、わかるか? 太陽と月との戦いだ」{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.4, p.21, pnl.4}}
|file:Herne Hill and Half Moon Lane in 1823.jpg|半神[[狩人ハーン]]と縁のある{{仮リンク|ハーン・ヒル|en|Herne Hill}}。ガルはハーンが月の女神[[ディアーナ]]の王座を簒奪したという{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.4, p.24, pnl.2}}。
|file: The Tower of London from Tower Hill EC3 - geograph.org.uk - 1275401.jpg|ロンドンを代表する名所、[[ロンドン塔]]。ガルは暴力と怪奇に満ちたその歴史を暴き出してみせる<ref name=ho/>。
|file: Paul's Cathedral Dome at Sunset.jpg|[[ディアーナ]]神殿の跡地に建てられた[[セント・ポール大聖堂]]{{sfn|ムーア|2009b|loc=appx.I, p.10}}。「ディアーナは縛められ/その住み家は、[[パウロ]]の名によって神に捧げられた」{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.4, p.35, pnl.2}}{{refnest|作者は執筆当時の[[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ウェールズ公妃ダイアナ]]がセント・ポール大聖堂で皇太子と結婚式を挙げたことを意識していた<ref name=brather1>{{cite web|url=http://www.blather.net/projects/alan-moore-interview/from-hell/|accessdate=2020-02-24|title=<nowiki>The Alan Moore Interview: From Hell [warning: spoilers]</nowiki>|date=2000-10-17|publisher=Blather.net}}</ref>。|group=†}}}}{{clear}}
=== 第14章「ガル昇天す」 ===
[[ファイル: William Blake 002.jpg |thumb|right|210px|[[ウィリアム・ブレイク]]が降霊会で描いたスケッチを元に制作された『[[蚤の幽霊]]』(1819年)。ブレイクは鱗で覆われた吸血の怪物としてガルの霊体を幻視する。]]
翻訳者[[柳下毅一郎]]は「ウィリアム・ガル博士の魔術行為が示される二章、第四章と第十四章」が本書の白眉だと述べた<ref name=yanagishita2010>{{cite book|和書|title=実録・殺人事件がわかる本2010|series=別冊映画秘宝/マーダー・ウォッチャー|publisher=洋泉社|volume=6|chapter=アラン・ムーアの魔術的思考 切り裂きジャック事件と『フロム・ヘル』|author=柳下毅一郎|editor=柳下毅一郎|year=2010|pages=171-176}}</ref>。第14章でガルは次元の壁を超越し、すべての時間に偏在する存在となる<ref name=sulmicki>{{cite journal|author=Maciej Sulmicki|title=Two Tales of One City: Neo-Victorian London in Alan Moore's ''From Hell'' and Peter Ackroyd's ''Dan Leno and the Limehouse Golem''|journal=Zeszyty Naukowe Uczelni Vistula|year=2018|volume=58|issue=1|pages=31-43 }}</ref>{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=4961/5478}}。作者は実在の歴史記録に残る幽霊の目撃談や超常現象をガルの霊体と結び付けている。たとえば[[ウィリアム・ブレイク]]は自室で全身鱗の怪物を幻視し、そのスケッチを元に『{{仮リンク|蚤の幽霊|en|The Ghost of a Flea}}』を制作したとされているが、作中では怪物の正体はガルである{{sfn|ムーア|2009b|loc=appx.I, pp.40-41}}。また作中の[[ロバート・ルイス・スティーヴンソン]]はガルに見せられた悪夢によって『[[ジキル博士とハイド氏]]』を着想する{{sfn|ムーア|2009b|loc=appx.I, pp.40-41}}。

1888年の[[ホワイトチャペル殺人事件|切り裂きジャック事件]]の前後に実際にあった類似の事件は、歴史を貫いて螺旋的に配置された一連の四次元構造だとされた。その始めは、ちょうど100年前の1788年に「{{仮リンク|ロンドン・モンスター|en|London Monster}}」と呼ばれる人物が数多くの女性を刺傷した事件だった。切り裂きジャック事件の50年後、1938年にはカナダの[[ハリファックス]]で架空の通り魔「{{仮リンク|ハリファックス・スラッシャー|en|Halifax Slasher}}」に関する[[パニック|集団ヒステリー]]事件があった。その25年後、1965年にはイギリスのサドルワース・ムーアでイアン・ブレイディらが数名の未成年を殺害する[[ムーアズ殺人事件]]が起きた。その12年後、1975年には「[[ヨークシャー]]・リッパー」こと[[ピーター・サトクリフ]]が売春婦を次々に殺害した{{sfn|ムーア|2009b|loc=appx.I, pp.40}}。
{{Gallery
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|height=200
|file: LondonMonster.jpg|突き刺し魔「[[ロンドン・モンスター]]」の目撃談を元に描かれた{{仮リンク|アイザック・クルックシャンク|en|Isaac Cruikshank}}の作品(1790年)。
|file: John Tenniel - Punch - Ripper cartoon.png|[[ジョン・テニエル]]が『[[パンチ (雑誌)|パンチ]]』誌に発表した切り裂きジャック事件の諷刺画(1888年)。
| Rocks on Hollin Brown Knoll - geograph.org.uk - 1386533.jpg |[[ムーアズ殺人事件]](1963—1965年)の現場の一つ、{{仮リンク|サドルワース|en|Saddleworth}}の丘。
}}{{clear}}

=== 補遺II「カモメ捕りのダンス」===
本編と異なり、メタ的な観点から描かれた24ページのコミック<ref name=singh/>。大勢の「リッパロロジスト(切り裂きジャック研究家)」が補虫網を振り回してカモメを捕えようとしている象徴的なコマで始まる{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=5262/5478}}。「カモメ = gull」は主人公ガルを指すだけでなく、「愚か者、でっち上げ、詐欺師、ミスリード」という意味もある{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=5262/5478}}。この作品では、20世紀全体にわたって多数刊行された「切り裂きジャック事件の真相」と称する文献を通覧することで、事件についてただ一つの真実を得るのは不可能だという考えが示されている。史料調査によって新事実を明らかにしようとする試みは[[フラクタル]]図形を無限に細密化することに<ref name=tor2/>、様々な説が争い合って歴史が形成される様子は[[適者生存|ダーウィン的闘争]]に例えられた<ref name=onge>{{cite journal|title=Crime, Adaptation and Collective Guilt: Alan Moore and Eddie Campbell’s From Hell|author=Ruth-Ellen St. Onge|journal=Revue de recherche en civilisation américaine|year=2015|url=http://journals.openedition.org/rrca/684|accessdate=2020-03-04}}</ref>。ここで俎上に載せられているのは事件そのものというより「ジャックに映し出された我らのヒステリー」であり<ref name=singh>{{cite web|url=http://www.forbesindia.com/article/think/the-perils-of-truecrime-writing/41167/1|accessdate=2020-02-22|title=The Perils Of True-crime Writing|publisher=Forbes India|date=2015-09-24|author=Jai Arjun Singh}}</ref>、作者のムーア自身も冷笑を免れていない<ref name=tor2/>{{sfn|ムーア|2009b|loc=appx.II}}<ref name=ew/>。結末には、リッパロロジストと執筆当時のロンドン再開発がいずれも歴史上の悲劇を搾取していることを風刺するシーンが描かれている<ref name=ho/>。

== 制作背景 ==
=== 背景と刊行の経緯 ===
==== 原語版 ====
1980年代に『[[ウォッチメン]]』などで[[スーパーヒーロー]]コミックを新しいレベルに押し上げた[[アラン・ムーア]]は、作品内容への制約や[[アメリカン・コミックスにおけるクリエイターの権利|著作権の問題]]で[[DCコミックス]]と袂を分かち、ブームに沸くメインストリーム界に背を向けて、独立系出版社でアート志向の作品に取り組み始めた<ref name=tor1>{{cite web|url=https://www.tor.com/2012/04/23/the-great-alan-moore-reread-from-hell-part-1/|accessdate=2020-01-31|title=The Great Alan Moore Reread: From Hell, Part 1|publisher= Tor.com|date=2012-04-23|author=Tim Callahan}}</ref>{{sfn|Parkin|2013|p=255/427}}{{sfn|Carpenter|2016|page=172/480}}。1988年から1989年にかけて構想された長編には『フロム・ヘル』のほか、[[フラクタル]]数学と社会派リアリズムを組み合わせた『{{仮リンク|ビッグナンバーズ|en|Big Numbers (comics)}}』{{sfn|Carpenter|2016|p=179/480}}{{sfn|Booker (ed.)|2014|loc=p.1159, "Alan Moore"}}、児童文学とポルノグラフィを組み合わせた『{{仮リンク|ロストガールズ|en|Lost Girls}}』がある{{sfn|Parkin|2013|p=250/427}}。これら、ムーアのいう「一大私的作品期{{sfn|Parkin|2013|p=251/427}}」にあたる作品は、キャリアの中でも際立って作家的野心に溢れている{{sfn|Carpenter|2016|p=262/480}}{{sfn|Parkin|2013|p=248/427}}。

『フロム・ヘル』は経営の安定しない小出版社から発表され、10年にわたる執筆期間の中で何度も版元を移った。初出はアンソロジー誌『{{仮リンク|タブー (コミック)|en|Taboo (comics)|label=タブー}}』の連載である<ref name=slate>{{cite web|url=https://slate.com/culture/2018/10/from-hell-comic-colorized-reviewed.html|accessdate=2020-01-31|title=The colorized From Hell, by Alan Moore and Eddie Campbell, reviewed.|publisher=Slate|date=2018-10-26|author=Keith Pille}}</ref>。同誌はDC作品『[[スワンプシング]]』でムーアと共作した作画家{{仮リンク|スティーヴ・ビセット|en|Steve Bissette}}が自身の出版社から発刊したもので、優れた作家陣が集まっていたが、5年間で7号が発行されたのみで消滅した{{sfn|Parkin|2013|p=254/427}}。『フロム・ヘル』は第2–7号(1989–92年)に第6章までが掲載された<ref>{{cite web|url=https://www.comics.org/series/25542/|accessdate=2020-01-29|title=GCD :: Series :: Taboo|website=Grand Comics Database}}</ref>。その後は独立シリーズとして再刊されたが、発行元はムーアの個人出版社マッドラブ(1991年~)から{{仮リンク|ツンドラ・パブリッシング|en|Tundra Publishing|label=ツンドラ}}(1991年~)へ、さらに同社を買収した{{仮リンク|キッチンシンク・プレス|en|Kitchen Sink Press|label=キッチンシンク}}(1993年~)へと移り変わった<ref name=tor1/>{{sfn|Booker (ed.)|2010|loc=pp.229-232, "From Hell" by Julia Round}}<ref name=beat2019>{{cite web|url=https://www.comicsbeat.com/mint-condition-from-hell/|accessdate=2020-01-31|title=MINT CONDITION: From Hell (1989)|publisher=The Beat|date=2019-08-01|author=Louie Hlad}}</ref>。1996年までに本編全14章とプロローグ・エピローグを収めたコミックブック10号が発行され、最後に1998年の第11号でエッセイコミック「カモメ捕りのダンス」が発表された。しかしキッチンシンク版の発行部数は4000部前後に過ぎず、多くのコミックファンの目に留まることはなかった{{sfn|Parkin|2013|p=334/427}}<ref>{{cite web|url=https://aux.avclub.com/new-comics-releases-include-underwater-horror-and-a-bol-1798239372|accessdate=2020-02-28|title=New comics releases include underwater horror and a bold feminist memoir as travelogue|publisher=The A.V. Club|date=2013-06-04}}</ref>。

1999年には全号がペーパーバック書籍にまとめられた。それまでの版元がすべて活動を停止していたため、作画のエディ・キャンベルが自ら出版を行った{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=195/5478}}。1990年代には主に[[イメージ・コミックス]]での堅実なスーパーヒーロー作品で知られていたアラン・ムーアだったが、単行本化は再びコミックファンの注目を浴びるきっかけとなった{{sfn|Booker (ed.)|2014|loc=p.1159, "Alan Moore"}}{{sfn|Carpenter|2016|p=368/480}}。発行部数は当初の数千部から、2001年の映画化を経て20万部まで伸びた{{sfn|Parkin|2013|p=334/427}}。しかし取次会社の倒産などの困難に見舞われたキャンベルは出版業を断念し、第6版以降の米国版権を準大手[[IDWパブリッシング|IDW]]傘下の{{仮リンク|トップシェルフ・プロダクションズ|en|Top Shelf Productions|label=トップシェルフ}}に移した。同社からはハードカバー本も出版された<ref name=tor1/><ref name=beat2019/>。英国では{{仮リンク|ノックアバウト・コミックス|en|Knockabout Comics|label=ノックアバウト}}が単行本の版元となった{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=63/5478}}。ここまでの版はすべて白黒だったが、キャンベルによってデジタル彩色が施されたマスターエディションが2018年9月から刊行され、2020年に単行本化された<ref>{{cite web|url=http://www.topshelfcomix.com/catalog/from-hell-master-edition-hardcover/1044|accessdate=2020-02-28|title=From Hell: Master Edition -- HARDCOVER|publisher=Top Shelf Productions|date=}}</ref>。このとき、考証ミスや整合性の乱れを修正するために大幅な描き直しも行われた<ref name=ew>{{cite web|url=https://ew.com/books/2018/05/31/eddie-campbell-from-hell-color/|accessdate=2020-01-29|author= Christian Holub|title=From Hell: Eddie Campbell explains why he’s coloring graphic novel|publisher=Entertainment Weekly|date=2018-05-10}}</ref><ref name=beat2018>{{cite web|url=https://www.comicsbeat.com/sdcc-19-interview-eddie-campbell/|accessdate=2020-02-09|title=INTERVIEW: Eddie Campbell talks art history, coloring From Hell, and the arrogance of Alec|publisher=The Beat|date=2019-07-30}}</ref>。

1994年にはムーアが書いた[[スクリプト (アメリカンコミック)|スクリプト]](原作)を第3章まで集めた書籍 ''From Hell: The Compleat Scripts Volume 1'' がボーダーランズから出版された{{sfn|Booker (ed.)|2010|loc=pp.229-232, "From Hell" by Julia Round}}。90ドルの高額なハードカバーで{{sfn|Parkin|2013|p=125/427}}、続刊も計画されていたがキッチンシンクとの版権トラブルにより頓挫した<ref>{{cite web|url=http://eddiecampbell.blogspot.com/2006/12/alan-moores-london-part-2.html|accessdate=2020-02-21|title=Eddie Campbell: Alan Moore's London. part 2|author=Eddie Campbell|date=2006-12-22}}</ref>。2013年に刊行された ''The From Hell Companion''(「フロム・ヘル読本」)は、エディ・キャンベルが私蔵していたスクリプト原稿や資料写真などにコメントを付けたものである{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=72/5478}}<ref name=aliance/>。

本作は猟奇殺人や性行為を露骨に描写しており<ref name=beat2019/>、南アフリカや英国で禁止処分を受けたことがある。オーストラリアでは、最後の犠牲者が解体されるシーンを含むコミックブックの号が税関で問題にされ、シリーズ全体が輸入を差し止められた<ref name=tcj229>{{cite journal|journal=The Comics Journal|issue=229|pages=10-12|date=2000-12|title=From Hell to Australia}}</ref>。このとき、オーストラリア在住のエディ・キャンベルは当局に作品全体の制作意図を説明することで輸入禁止処分を取り下げさせた。さらに再び同様の問題が起きないように、[[ランダムハウス]]の支社と交渉してオーストラリア国内での出版を取り付けた{{sfn|Moore and Campbell|2013|pp=3207, 5361-5375/5478}}<ref name=tcj273/>。

==== 日本語版 ====
エディ・キャンベルは日本での切り裂きジャック人気を認識しており、日本の出版社に本作の版権を売り込もうと何度か試みたが、なかなか実現しなかったという<ref name=tcj273>{{cite journal|journal=The Comics Journal|issue=273|year=2006|pages=68-115|title=The Eddie Campbell Intervew|author=Dirk Deppey}}</ref>。

2009年になって、[[みすず書房]]から上下巻に分けられた日本語版が刊行された。人文系の学術出版社として知られるみすず書房が初めてコミック作品を出したことは驚きをもって迎えられた<ref>{{cite news|和書|newspaper=朝日新聞(朝刊)|date=2010-01-23|page=2|title=(キミの名は)みすず書房 荒野に感動する人の姿を胸に}}</ref><ref name=asahi2009>{{cite web|url=https://www.asahi.com/showbiz/manga/TKY200910080283.html|accessdate=2020-01-29|title=みすず書房がコミック フロム・ヘル|publisher= 朝日新聞社|date=2009-10-08}}</ref><ref name=mainichi2009>{{cite news|和書|newspaper=毎日新聞(東京朝刊)|date=2009-11-15|page=10|title=今週の本棚:[[冨山太佳夫]]・評 『フロム・ヘル…』/『売春とヴィクトリア朝社会』}}</ref><ref name=sankei>{{cite news|和書|newspaper=産経新聞(東京朝刊)|date=2009-12-20|page=朝刊文化|title=【邂逅 カルチャー時評】[[中条省平]] 前代未聞の怪作『フロム・ヘル』}}</ref><ref name=natsume>{{cite web|url=https://blogs.itmedia.co.jp/natsume/2009/12/post-5a96.html|accessdate=2020-02-13|title=アラン・ムーア、エディ・キャンベル『フロム・ヘル』(みすず書房):夏目房之介の「で?」|website=オルタナティブ・ブログ|author=[[夏目房之介]]|date=2009-12-16}}</ref>。出版を企画したみすず書房の編集者は、ムーアの「読者は一コマからでも途方もない量の象徴を読み取れる」という漫画観に惹かれて本書と出会い<ref name=ichihara>{{cite web|url=https://book.asahi.com/article/12355738|accessdate=2020-01-29|title=偶然と他力に導かれて みすず書房・市原加奈子さん|website=好書好日|publisher=朝日新聞|date=2019-05-15}}</ref>、「日本の漫画とはまったく異なる方向の進化形」として邦訳する価値を認めたと述べている<ref name=misuzuintro/>。その差異を強調するため、コミックではなく「グラフィック・ノベル」という呼び方が前面に出された<ref name=asahi2009/>。翻訳は猟奇殺人に詳しい[[柳下毅一郎]]が2年の歳月をかけて行った<ref>{{cite book|和書|chapter=本の目利きが選んだ ジャンル別最高の本 海外文学|author=[[豊崎由美]]|p=40|title=最高の本! 2010 完全保存版―Book of The Year |year=2009|publisher=マガジンハウス|isbn=978-4838785803}}</ref><ref>{{cite journal|和書|title=『フロム・ヘル』翻訳者・柳下毅一郎インタビュー|p=37|journal=映画秘宝|date=2009-12|vol=15|issue=12}}</ref>。2019年には合本となった新装版が出た。

=== 着想 ===
[[ファイル: Alan Moore, TAM London.jpg|thumb|right|200px|アラン・ムーア(2006年)。「わたしは … {{interp|本作で}}はじめて物語の中にどれほどの密度、どれほどのスケールを入れられるか学んだのだ<ref name=mmm/>」]]
初めにムーアの頭にあった題材は殺人だった。正確には殺人そのものではなく、そのような極限的な行為が引き起こす複雑に絡み合った波及効果だった<ref name=simmoore1>{{cite web|url=http://momentofcerebus.blogspot.com/2015/09/correspondence-from-hell-part-1.html|accessdate=2020-02-15|title=A MOMENT OF CEREBUS: Correspondence From Hell: Part 1|date=2015-09-12}} Originally published in ''Cerebus'' #217, 1997-4.</ref>{{sfn|Carpenter|2016|p=170/480}}。ムーアは[[ダグラス・アダムズ]]の小説『{{仮リンク|ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所|en|Dirk Gently's Holistic Detective Agency}}』の題名に触発され、犯罪を「[[ホーリズム|全体論]]的」に解き明かすには背景となる社会全体を解き明かさなければならないというアイディアを持っていた{{sfn|Parkin|2013|p=269/427}}<ref>Dave Windett, Jenni Scott & Guy Lawley, "Writer From Hell: the Alan Moore Experience" (interview), ''Comics Forum'' 4, p. 46, 1993</ref>。
{{Quotation|
そこ{{interp|殺人}}では社会的な制約の壁が決壊し、恐ろしく力強く粗暴なるものが動き出す──それは社会へと影響を及ぼし、さざ波を立てうるような何かだ。殺人のように人間的で強烈な一個の出来事を十分細密に見つめれば、それが起きた世界全体についてのいくつかの大きな解釈を提示できそうだと気づいた。|アラン・ムーア|サクソン・ブルックによる2002年のインタビュー<ref name=bullock>{{cite web|url=http://www.saxonbullock.com/2012/10/interview-alan-moore-the-house-that-jack-built/|accessdate=2020-02-26|title=The House That Jack Built – An Interview with Alan Moore (2002) |publisher=Saxon Bullock|date=2012-10-30}}Originally published in What DVD, 2002-10</ref>{{refnest|訳文は[[みすず書房]]公式サイトより<ref name=official>{{cite web|url=https://www.msz.co.jp/special/fromhell/|accessdate=2020-02-26|title=アラン・ムーア『フロム・ヘル』日本語版オフィシャルサイト~[新装合本]2019年11月8日刊行|publisher=みすず書房|date=}}</ref>。}}}}
モデルとなる現実の事件としては、1935年に妻と乳母を殺害した{{仮リンク|バック・ラクストン|en|Buck Ruxton}}のような比較的知名度の低い殺人事件が検討されており、調べつくされて手垢のついた[[切り裂きジャック]]事件は考慮の外だった。しかし、事件から100年目となる1988年前後に英米で切り裂きジャックブームが起き{{sfn|仁賀|2013|p=378}}、関連書籍に触れる機会が増えると、そこに未開発の力強いテーマが残っていることに気づいた<ref name=simmoore1/><ref name=tcj140/>。

切り裂きジャック事件は未だに解決しておらず、犯人と名指しされた人物も数十人に上る。1959年の『切り裂きジャックの正体』({{仮リンク|ドナルド・マコーミック|en|Donald McCormick}})以来、歴史資料を元に事件の真相を解き明かす形式のノンフィクション本は数限りなく出版されてきた{{sfn|仁賀|2013|p=245}}。ムーアはその中の一冊、{{仮リンク|スティーヴン・ナイト (作家)|en|Stephen Knight (author)|label=スティーヴン・ナイト}}の『切り裂きジャック 最終結論』(1976年)から基本設定を借りることにした。ナイトによると、事件の核心はイギリス王室のスキャンダルを隠蔽しようとする[[フリーメイソン]]の陰謀だった。「プリンス・エディ」とあだ名された[[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・ヴィクター王子]]が平民との間に儲けた私生児の存在を知った女たちを抹殺するのが犯人の目的だった{{sfn|Carpenter|2016|p=172/480}}{{refnest|ムーアはナイト説をそのまま踏襲したわけではない。実行犯の一人とされていた[[ウォルター・シッカート]]の役割は縮小され、私生児の母親が王族との結婚が禁じられたカトリック教徒だったという主張も捨てられた{{sfn|Carpenter|2016|p=177/480}}。|group=†}}。このシナリオは根拠の薄いもので、出版直後から多くの反論を受けていた。ナイトの情報源であったジョゼフ・シッカートはプリンス・エディの孫を自称するいかがわしい人物で、後に証言を翻した{{sfn|仁賀|2013|pp=266-268}}。しかし、事実かどうかは重要ではなかった。ムーアの関心は[[フーダニット]]ではなく、むしろ事件の周縁で生まれた神話、風説、伝承に向かっていた<ref name=simmoore1/>。同時代の社会思想について広範な調査を行う中で、数学者{{仮リンク|チャールズ・ハワード・ヒントン|en|Charles Howard Hinton|label=ハワード・ヒントン}}の時間理論、小説家イアン・シンクレアが先鞭をつけたロンドン史の再解釈、母権制/父権制という観点による神話の読み直しといった幅広いテーマが浮かび上がってきた。ナイト説を採用することで作品に取り入れられたフリーメイソンの伝承や独特の時空観は、これらの構想とうまく合致するものだった<ref name=simmoore1/>。

=== 制作過程 ===
==== 共作体制 ====
[[ファイル: EddieCampbell.png|thumb|right|200px|エディ・キャンベル(2008年)。「言い過ぎかもしれないが … これほど視座の高いものを書こうとした奴は過去に一人もいなかった<ref name=tcj145>{{cite journal|journal=The Comics Journal|issue=145|year=1991|pages=77-85|title=A Loaf of Bread, A Jug of Wine and Eddie Campbell Intervew|author=Sam Yang}}</ref>」]]
当初アラン・ムーアは過去の共作者{{仮リンク|ブライアン・タルボット|en|Brian Talbot}}と再び組むことを考えていた{{sfn|Parkin|2013|p=249/427}}。しかし『フロム・ヘル』の構想を聞いた出版者スティーヴ・ビセットは「この物語が内包する暴力性に溺れない」資質を持った作画家が必要だと考え、『タブー』の寄稿者の一人エディ・キャンベルを提案した{{sfn|Carpenter|2016|loc=p.172/480, footnote 252}}<ref name=previews>{{cite web|url=https://www.previewsworld.com/Article/215317-From-Hell-And-Back-The-Eddie-Campbell-Interview|accessdate=2020-02-12|title=From Hell And Back: The Eddie Campbell Interview|publisher=Previews World|date=2018-06-27}}</ref>。キャンベルはイギリスのスモールプレスシーンで早くから活躍していたコミック作家で、日々の出来事を[[印象主義]]的な描線で描いた{{仮リンク|スライス・オブ・ライフ|en|Slice of life}}作品の先駆者だった<ref name=tcj273/><ref name=guardian2018/>{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=128/5478}}{{sfn|Booker (ed.)|2010|loc=pp.81-82, "Eddie Campbell" by Wendy Goldberg}}。ムーアは連載の途中まで「切り裂きジャック」を登場させずにゆっくりと世界観を固めるつもりであり、序盤の静かなストーリー展開にはキャンベルが適任だと考えた<ref name=previews/>。連続殺人を題材としたホラーへの起用はキャンベル本人としても意外であったが{{sfn|Parkin|2013|p=249/427}}{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=195/5478}}、本来のくつろいだ雰囲気の作風とは正反対の内容に取り組む中で新しい境地を開いていった<ref name=tcj273/>。

ムーアの[[スクリプト (アメリカンコミック)|スクリプト]]は長大な散文で書かれており、コマごとの構図を詳細に指示するだけでなく、鋭い修辞によって作画家が再現しきれないほどの情報を伝えるものだった。スクリプトの長さは最大で作画原稿1ページ当たり2200ワード(約200行<ref>[https://www.wolframalpha.com/ Wolfram Alpha 日本語版:計算知能](2020年2月11日閲覧)により算出。</ref>)に達した<ref name=previews/>{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=876/5478}}。キャンベルの言によると「ほかの原作者なら「このコマ雨」と書いて済ませるところでも、ムーアのスクリプトでは「雨音は気が滅入るようなロシアの長編小説のリズムで途切れ途切れのモールス信号を打電する」となる」{{sfn|Parkin|2013|p=125/427}}。精緻極まるムーアのヴィジョンを紙の上で概括し、物語をよどみなく進ませたのはキャンベルの手腕だった<ref name=tcj173/>(同時期の『ビッグナンバーズ』では、作画家{{仮リンク|ビル・シンケビッチ|en|Bill Sienkiewicz}}がスクリプトを消化しきれずに刊行が破綻した{{sfn|Booker (ed.)|2014|loc=p.1159, "Alan Moore"}}{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=1174/5478}})。

読者をコントロールしようとする作劇法を好まないキャンベルは<ref name=tcj145/>{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=3136/5478}}、ムーアのスクリプトから過剰な演出を取り除くのが常だった<ref name=tcj173/>。たとえばあるキャラクターは初登場時に「読者の心に残る」強烈な相貌を見せるはずだったが、キャンベルは帽子で顔が半分隠れたさりげない絵を描いた{{sfn|Carpenter|2016|p=173/480}}。背景となるロンドン市街の側溝を「ワニが這っている」という描写は「説得力を出す自信がなかったので」スクリプトから取り下げてもらったという{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=146/5478}}。ムーアが指示した映画的なカメラワークの代わりに、キャンベル流の固定視点を採用した場面も多かった{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=2588/5478}}。ムーアはキャンベルの「{{interp|イメージの}}固着力と人間的な現実感覚を備えた」作画を称賛し、それがあってこそ、クライマックスでの形而上的な幻想の奔流が可能になったと述べている<ref name=simmoore1/>。『{{仮リンク|コミックス・ジャーナル|en|The Comics Journal}}』誌のレビューは二人の共作を「ほとんど不可分なほど」と評した<ref name=tcj168>{{cite journal|journal=The Comics Journal|year=1994|issue=168|pages=47-48|title=Comics Library: Victoria's Secret|author=Edward Shannon}}</ref>。

==== 考証 ====
作者らは作品に説得力と迫真性を与えるため綿密な考証を行った<ref name=simmoore1/>{{sfn|Booker (ed.)|2010| loc=pp.229-232, "From Hell" by Julia Round }}。ムーアによると、物語の内容は事件に関する既知の事実と何一つ矛盾しておらず、逆に関連する事実は一つ残らず物語に取り入れられている。そのため、事件の真相が完全に『フロム・ヘル』に描かれた通りだったとしてもおかしくないという<ref name=tcj173/>。主たる参考元であるスティーヴン・ナイト説の矛盾点は入念に糊塗されている<ref name=tcj173/>。またたとえば、ある場面にある人物を登場させたいが史料的な裏付けがない場合、アングルやフォーカスを工夫することで人物が特定できないようにされた<ref name=ew/>{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=2588/5478}}{{refnest|[[パブ]](実在の店{{仮リンク|テン・ベルズ|en|Ten Bells}})でアバーライン警部と出会うエマと名乗る女性はその一例{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=2588/5478}}。|group=†}}。当時のロンドン市民の生活も史実に沿って再現されている。安宿のベッドに払う金もない女たちが座ったまま物干し綱で壁に縛り付けられて眠る印象的なシーンは映画版にも引用された{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=2138/5478}}。コミックブック版には各号の巻末にページごとの詳しい注釈が載せられた{{sfn|Moore and Campbell|2013}}。単行本で補遺としてまとめられた注釈は40ページに達した。そこではムーアが創作したシーンはそれと明記され、そうでない部分は典拠が示されている。ムーアはそれぞれの文献の信ぴょう性を評価してもいる{{sfn|ムーア|2009b|loc=appx.I}}。背景に描かれたロンドン市街は大量のリファレンス写真に基いている。それらの写真の多くは在英のムーアによって撮影され<ref>{{cite web|url=http://eddiecampbell.blogspot.com/2006/12/alan-moores-london-part-1.html|accessdate=2020-02-22|title=Eddie Campbell: Alan Moore's London. part 1|date=2006-12-21|author=Eddie Campbell}}</ref>、オーストラリア在住のキャンベルに送付されたものである。

== 作風とテーマ ==
=== テーマと解釈 ===
==== 社会論 ====
ムーアは『フロム・ヘル』のテーマについて「切り裂きジャックの殺人は … ヴィクトリア時代を丸ごと黙示録的に要約したかのようだ。20世紀の惨劇の多くを予兆してもいる」と述べている<ref name=tcj140>{{cite journal|author=Gary Groth|date=1991-02||title=Last Big Words&nbsp;— Alan Moore on 'Marvelman', 'From Hell', 'A Small Killing,' and being published|journal=The Comics Journal|issue=140|pages=72-85}}</ref>。事件が起きた1880年代は、ムーアによると科学・思想・政治・芸術の分野で次世紀につながる新しい流れが生まれた時期だった。このころ物理学では[[核兵器|原子爆弾]]の前段階となる発見が行われつつあり、[[シオニズム]]と[[反ユダヤ主義]]の両者が伸張し、最初の[[イスラム原理主義]]武装闘争である[[マフディー戦争|マフディーの反乱]]が始まっていた。連続殺人と時を同じくして起きた[[アドルフ・ヒトラー]]の受胎は作中で直接描かれている<ref name=simmoore1/>。またムーアは、当時の[[エミール・ゾラ]]や[[ポスト印象派]]の芸術作品で売春婦が労働者階級の象徴とされたことを指摘している<ref name=tcj140/>{{sfn|ムーア|2009b|loc=appx.I}}。ムーアは綿密な調査によって当時の時代状況を遥かな「高度」から俯瞰し、事件を中心とする広大なランドスケープを作品に取り入れようとした<ref name=simmoore1/>。コミック研究者グレッグ・カーペンターは<ref>{{cite web|url=http://sequart.org/author/greg-carpenter/|accessdate=2020-02-08|title=Greg Carpenter|publisher=Sequart Organization}}</ref>、本作が「女王の玉座から売春婦の寝床に至るまで、すべての社会階層にわたる」ヴィクトリア朝の歴史を描いており、「[[ミソジニー]]、[[反ユダヤ主義]]、[[ジンゴイズム]]、[[陰謀論]]、{{仮リンク|建築理論|en|Architecture theory}}、[[時間]]の理論、暴力の本質、イギリス史、[[モダニズム]]の起こり」のような大テーマを数多く織り込んでいると書いた{{sfn|Carpenter|2016|=174/480}}。

{{multiple image
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| image1 = Iain Sinclair cheltenham.jpg
| caption1 =アラン・ムーア(右、2011年)に影響を与えたイアン・シンクレア(左)。「{{interp|ムーアは}}[[ウィリアム・ブレイク]]の系譜を継いで、郷土の中にちらつく些細な事実をもとにして独自の宇宙論を作り出す」<ref name=ny>{{cite web|url=https://www.newyorker.com/culture/persons-of-interest/a-party-in-a-lunatic-asylum|accessdate=2020-02-27|title=A Party in a Lunatic Asylum|publisher=The New Yorker|date=2016-09-08|author=Nat Segnit}}</ref>
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| image2 = Tower 42 from below - panoramio.jpg<!--Torre 42, Londres, Inglaterra, 2014-08-07, DD 045.JPG-->
| caption2 = [[タワー42|ナットウエスト・タワー]](写真)は20世紀企業文化の象徴としてガルの前に立ちはだかる<ref name=ho/><ref>{{cite web|url=https://www.theguardian.com/cities/gallery/2014/sep/09/-sp-how-comics-depict-cities-in-pictures|accessdate=2020-02-28|title=From Hell to Electropolis: how comics depict cities – in pictures|publisher=The Guardian|date=2014-09-09}}{{cite web|url=https://www.theguardian.com/cities/2014/sep/09/gotham-new-york-what-do-comics-tell-us-about-cities|accessdate=2020-02-28|title=Gotham state of mind: what do comics tell us about cities? |publisher=The Guardian|date=2014-09-09}}</ref>。
| width2 =150
}}
執筆当時のイギリス社会を批判することも『フロム・ヘル』の狙いの一つだった<ref name=takimoto>{{cite book|和書|title=実録・殺人事件がわかる本2010|series=別冊映画秘宝/マーダー・ウォッチャー|publisher=洋泉社|volume=6|chapter=滝本誠が読む『フロム・ヘル』~地獄より愛を込めて アラン・ムーア、その反時代的イメージと超時代性ビジョン|author=[[滝本誠]]|editor=柳下毅一郎|year=2010|pages=165-170}}</ref>。1980年代の英首相[[マーガレット・サッチャー]]は「英国の偉大さを復活させよ (put the Great back into Britain)」と唱え、倹約・勤勉・資本主義のような[[ヴィクトリア朝]]的価値観を規範とした。しかし同政権が打ち出した[[新自由主義]]的な[[サッチャリズム|経済政策]]は、ヴィクトリア朝時代に通じる巨大な貧富の差を生み出した。『フロム・ヘル』は100年の時を経た二つの時代を対比させてこの構造を浮き上がらせている<ref name= ho/>。切り裂きジャック事件を通じてサッチャーの復古主義を批判する試みは、ムーアに影響を与えた[[イアン・シンクレア (作家)|イアン・シンクレア]]の『ホワイトチャペル、緋の痕跡』(1987年)にも見られる{{sfn|Booker (ed.)|2010| loc=pp.229-232, "From Hell" by Julia Round }}。ムーアとシンクレアはいずれも、{{仮リンク|心理地理学|en|Psychogoegraphy}}的な論考により、圧政と苦痛の歴史を象徴する都市としてロンドンを再構成してみせた<ref name=ho>{{cite journal|author=Elizabeth Ho|journal=Cultural Critique|volume=63|year=2006|pages=99-121|title=Postimperial Landscapes "Psychogeography" and Englishness in Alan Moore's Graphic Novel "From Hell: A Melodrama in Sixteen Parts"|doi=10.1353/cul.2006.0019}}</ref><ref name=link>{{cite journal|author=Alex Link|journal=European Comic Art|issue=2|volume=9|year=2016|pages=79-99|title=Psychogeography’s Legacy in From Hell and Watchmen|doi=10.3167/eca.2016.090205}}</ref>。エリザベス・ホーは本作が「世俗化した観光名所からなる「公式の」ロンドンに替わる新たな地図を作り出した」と書いた<ref name=ho/>。カーペンターは「流血に次ぐ流血で築かれた20世紀は … 際限無き[[否認主義]]によって美化された。『フロム・ヘル』は私たちの否認に挑戦を突きつける」と述べている{{sfn|Carpenter|2016|p=286/480}}。

1980年代には切り裂きジャック事件の受容が[[フェミニズム]]の観点から読まれるようになり、ジャックの犯罪が神秘的で不可解な悪などではなく、社会に内在する[[家父長制|家父長思想]]の帰結だという指摘がなされた<ref name=ho/>。作者ムーアも、「切り裂きジャック」が大きな社会的関心を集める理由の一つに、ヴィクトリア朝から現代まで社会構造に深く浸透している[[ミソジニー]]との関わりがあることを意識していた。作中では、権力機構がガルの凶行を支援し、同時代の男性の多くが「ジャック」に自己投影することで、事件の[[ヘイトクライム|女性憎悪]]的な性格が強調されている<ref name=onge/>。しかし、[[グラスゴー大学]]のクリスティーン・ファーガソンは本書の殺人描写が扇情的だと主張し、女性憎悪犯罪が超常的な歴史の必然として扱われていることを問題視した<ref name=prince/><ref name=link/><ref>{{cite journal|title=Victoria-Arcana and the Misogynistic Poetics of Resistance in Iain Sinclair's White Chappell Scarlet Tracings and Alan Moore's From Hell|author=Christine Ferguson|pages=45-64|doi=10.1080/10436920802690430|journal=Literature Interpretation Theory|issue=1-2|volume=20|year=2009}}</ref>。ファーガソンによると本書は反権力・[[カウンターカルチャー]]の姿勢を盾にしたミソジニーの発露だった<ref name=onge/>。一方で{{仮リンク|アルバータ美術大学|en|Alberta University of the Arts}}のアレックス・リンクによると、作者ムーアは「切り裂きジャック」が文化的産物であることを十分に認識しており、殺人行為の基盤にある階級格差を作中ではっきりと描写している<ref name=link/>。{{仮リンク|アグデル大学|en|University of Agder}}のマイケル・プリンスは、本作が家父長思想に支えられた組織的な性暴力の構造を暗に描いていると主張した<ref name=prince/>。物語の終盤に登場してガルの霊体をたじろがせる女性は、[[家母長制|家母長]]的な文化の存続を示唆するとされた<ref name=prince/><ref name=link/>。ムーアのスクリプトでは、その女性が告発の視線を投げかけるのはガルだけではなく、画面の向こうの「私たち」でもある<ref name=onge/>。

==== 魔術論 ====
魔術と神秘思想は本作の大きな部分を占めている。評論家[[夏目房之介]]は「最後の殺人に向かって徐々に異常をきたし、ついに幻視から実際に時空を超えてゆく圧倒的な描写」を「圧巻」と呼んでおり<ref name=natsume/>、翻訳者[[柳下毅一郎]]はガルの魔術的行為が描かれる二章を「白眉」としている<ref name=yanagishita2010>{{cite book|和書|title=実録・殺人事件がわかる本2010|series=別冊映画秘宝/マーダー・ウォッチャー|publisher=洋泉社|volume=6|chapter=アラン・ムーアの魔術的思考 切り裂きジャック事件と『フロム・ヘル』|author=柳下毅一郎|editor=柳下毅一郎|year=2010|pages=171-176}}</ref>。

作者ムーアは実人生でも「[[魔法使い|魔術師]]」と名乗って[[魔術]]を実践していることで知られる。そのきっかけとなったのは本作の執筆だった。作中、主人公のガルは「議論の余地なく神々が存在する場所、それは我らの精神の中だ」というセリフを口にする{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.4, p.18, pnl.3}}。ムーアは自分が書いた言葉が真実を言い当てていると感じ、一つの啓示と受け取った。40歳を目前にして、ムーアは自身の思想を根底から再構築し、その中心に魔術と[[神秘学]]を置くことになる<ref name=guardian2002/><ref>{{cite web|url=https://www.cbr.com/alan-moore-interview/|accessdate=2020-01-28|title=Alan Moore Interview|publisher=CBR|date=2001-10-22}}</ref>。共作者キャンベルの説明によると、ムーアが悟ったのは神の実在あるいは不在といったことではなく、想像力の至上性だった{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=1683/5478}}。ムーアが言う魔術とは[[象徴]]を操る力のことであり<ref name=yanagishita2010/>、想像力が世界と相互作用する[[芸術]]という行為はそれだけで魔術そのものだった{{sfn|Parkin|2013|p=272/427}}。この転回には、『[[ウォッチメン]]』や『フロム・ヘル』のような徹底した計算に基づく作風がいつか形骸化することを恐れていたムーアが新しい方法論を求めたという面もある{{sfn|Parkin|2013|p=271/427}}。技術や論理よりも直感と感性に頼って「[[第四の壁]]」を破り、読者の深奥にアクセスするのがムーアの新しい目標となった<ref name=simmoore1/>。以降の作品には『[[プロメテア]]』(1999-2005年)を筆頭に魔術の要素が取り入れられるようになり、あるいは執筆それ自体が魔術の実践となった{{sfn|Parkin|2013|p=253/427}}。

[[ファイル: Hintonportrait.jpg|thumb|140px|数学者・SF作家[[チャールズ・ハワード・ヒントン]]。著作『[[:en:wikisource:What is the Fourth Dimension?|第四の次元とは何か?]]』が引用されている。]]
ムーアの魔術的思考の特徴に非単線的な時間感覚がある。柳下によると、ムーアの世界観の中では象徴を通じた因果関係が時間の流れの双方向に伸びており、過去・現在・未来の事象が一体となって「現実のマトリックス」を形作っている<ref name=yanagishita2010/>。時間はムーアが執着していたテーマの一つで、過去作『[[ウォッチメン]]』でもすべての過去と未来を常に知覚しているキャラクター({{仮リンク|Dr.マンハッタン|en|Doctor Manhattan}})が登場していた<ref name=tcj2012>{{cite web|url=http://www.tcj.com/reviews/the-complete-alan-moore-future-shocks/|accessdate=2020-03-05|title=The Complete Alan Moore Future Shocks|publisher=The Comics Journal|date=2012-02-24|author=Kristian Williams}}</ref><ref>Alan Moore & Dave Gibbons, ''Watchmen'' issue 9, page 5, panel 4</ref>。『フロム・ヘル』ではこの時間観がプロットの中核を占めており<ref name=tcj2012/>、物語の序盤で主人公ガルの友人{{仮リンク|ジェームズ・ヒントン|en|James Hinton (surgeon)}}の息子{{仮リンク|チャールズ・ハワード・ヒントン|en|Charles Howard Hinton|label=ハワード}}が唱えた数学的な時間理論が紹介される。それによると、時間は全体として一つの構造物であり、流れていくように見えるのは人間の知覚の限界でしかない。互いに無関係に見える一連の事象も、四次元世界の幾何学形状が三次元世界に落とした影である。作中の言葉によると歴史には「建築構造がある」{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.2, p.15, pnl.4}}。それを裏付けるように、作中でガルは未来の20世紀世界を幻視し、過去や未来の事件に干渉する。

=== ストーリー構成と演出 ===
ストレートなストーリーテリングが志向されており、ムーアの[[スーパーヒーロー]]作品で顕著な[[メタフィクション]]性は弱められている<ref name=carpenter174>{{Harvnb|Carpenter|2016|p=174/480}}, "[the authors] have obviously committed to "simplicity" for the story-telling–avoiding the "flashy," attention-grabbing kind of self-consciousness ... "</ref>。広範な歴史的引喩が行われている一方で、後年の作品『[[リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン]]』のように先行作品の[[マッシュアップ]]は行われておらず<ref>{{cite book|title=1990s, The: A Decade of Contemporary British Fiction|author=Nick Hubble|author2=Philip Tew|author3=Leigh Wilson|publisher=Bloomsburry|year=2015| url={{Google books| bIcQCAAAQBAJ|1990s, The: A Decade of Contemporary British Fiction|plainurl=yes}}|accessdate=2020-02-15|page=172}}</ref>、『[[プロメテア]]』のようにコミックメディアによる論説といった性格も薄い<ref name=tor1/>。

ムーアの過去作『ウォッチメン』と同じく、全編を通じてページ9分割を基本とした均質なコマ割りが行われており<ref name=tor1/>、そのフォーマットの枠内で様々な演出が行われている。連続するコマが交互に二つの異なる出来事を描写する[[カットバック]]の技法は『[[Vフォー・ヴェンデッタ]]』などでも見られる特徴的なものである{{sfn|Carpenter|2016|p=174/480}}。第8章32ページは3×3のマス目がカットバックによってチェス盤状に分けられ、縦横斜めどの方向に読んでも違和感がないように構成されている{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=3046/5478}}。またいくつかの章の第1ページは、一見すると互いに脈絡のないコマが並んでいるだけに見える。しかし読み進んでいくと、それらのコマは後のページから無作為に切り取られたのだとわかる。この語りの手法には、主人公のガルが魔術的に時間を飛び越えるストーリーと並んで、読者の単線的な時間感覚を攪乱する意図があると分析されている<ref name=beat2019/>。

物品のモチーフが反復されるのもムーア作品の特徴の一つである。本作ではブドウ、鋭利な器具、臓物などが様々なシーンで陰に陽に描かれている<ref name=tcj173>{{cite journal|journal=The Comics Journal|date=1994-12|issue=173|pages=56-59|author=Rich Kreiner|title=Messages From Hell — From Hell: Book One, The Compleat Scripts}}</ref>。ブドウはガルの宗教的使命感と結び付けられており、心臓発作とともに神の啓示を垣間見るシーンや{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.2, p.25, pnl.5}}、ロンドンの象徴を巡るツアー{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.4, p.23}}、最初の殺人{{sfn|ムーア|2009a|loc=ch.5, p.25-27}}などをつなげている。『タブー』連載時には、毎号に添えられたイラストのブドウが少しずつ減っていくことが結末へのカウントダウンとなっていた{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=2277/5478}}。モチーフの反復は何かに追いかけられているような不安感を醸し出すだけでなく、「時間の構造性」のテーマを補強する役割も持っている<ref name=tcj173/>。

作者らの間には、近代コミック特有の映画的な語りの技法は題材にそぐわないという認識があった<ref name=tcj145/>。特にエディ・キャンベルはかねてから「映画から無批判に取り入れられた」コミックの技法に違和感を持っていた。その最たるものは、仮想的なカメラをあちこち動かしながら短い[[ショット (映像)|ショット]]をつないでいくコマ割りの文法である。そのような[[ウィル・アイズナー]]的なカットの多用は絵のロジックを寸断してしまうというのがキャンベルの持論だった。キャンベルが描きたいのは人体が細やかなボディーランゲージを交わす様子であり、そのためにはすべての動きを連続的に画面に収める必要があると考えていた<ref>{{harvnb|Moore and Campbell|2013|p=2295/5478}}。キャンベルはここで{{仮リンク|バーナード・クリグスタイン|en|Bernard Krigstein}}の意見を引いている。</ref>。またキャンベルは映画的で奇抜な視点からの構図も避けようとした。たとえばあるシーンでは<ref group=†>アバーライン警部が殺害現場となった部屋を覗きこむシーン({{harvnb|ムーア|2009a|loc=ch.11, p.5}})。</ref>、無人の部屋を覗き込む警官を窓越しに見返す構図を指示されたのにもかかわらず、屋外の警官をすぐ横から観察する位置にカメラを置いた{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=4289/5478}}。そのほか、登場人物の内心や画面外での会話などを伝える[[キャプション]](映画でいう[[ボイスオーバー]])も本作では排除されている{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=3764/5478}}。

ムーアは従前の「切り裂きジャック」物語では犠牲者が個性を備えた人間として扱われてこなかったと発言している<ref name=tcj142>{{cite journal| journal=The Comics Journal|pages=44-47|issue=142|date=1991-06|title=Comics Library: Cruel Britannia|author=Rob Rody}}</ref>。本作における売春婦の描写は、「毒々しく官能的な美女」や、逆に「歯抜けの醜い老婆」ではなく、その年齢の平凡な女性が職業的な要請に従ってできるだけ美しく装った姿として意図されている{{sfn|ムーア|2009b|loc=appx.I, p.8}}。ムーアは猟奇的な殺人行為を描くにあたっても、既存作品のように「ほとんどポルノと同じ」ショッキングで扇情的な描写は避けようとした。現実に起こったことを虚心に、苦痛を伴うほど正確に細部まで再現することが犠牲者への敬意だと考えていたのだった<ref name=bullock/>。これらの描写からは「怒りと共感」が読み取られている<ref name=tcj210>{{cite journal|journal=The Comics Journal|page=65|issue=210|date=1999-02|title=The Top 100 (English-Language) Comics of the Century}}</ref>。大衆文学の授業で『フロム・ヘル』を扱っている[[オクラホマ州立大学システム|オクラホマ州立大学]]のマーティン・ウォレンは、「{{Interp|本作は}}切り裂きジャック事件を扱った作品につきものだった扇情性を、暴力とセンセーショナリズムに魅了される我々についての自覚的な比評に変えてみせた。… 我々はこの作品を通して、煽情的な文学や映画が持つ搾取性について語ることができる」と述べている<ref name=schwarz>{{cite journal|journal=The English Journal|volume=95|issue=6|pages=58-64|year=2006|author=Gretchen Schwarz|title=Expanding Literacies through Graphic Novels|doi= 10.2307/30046629}}</ref>。

=== 作画スタイル ===
[[ファイル: JacktheRipper1888.jpg|thumb|right|200px|連続殺人を警戒する自警団の活動を伝える報道画(1888年)。エディ・キャンベルは本作でヴィクトリア朝当時の画風を再現しようとした。]]
エディ・キャンベルが本作に提供した絵は、走り書きのように引かれた多量の線を特徴とするスケッチ風のもので、一般的なコミックブックと比べてはるかに冷たい印象を与えた<ref name=tor1/><ref name=beat2019/>{{Sfn|Booker (ed.)|2014|loc=p.1498, "From Hell"}}。そこには19世紀末当時に描かれた報道画の粗い画風を再現する意図があった<ref name=tor2/>。第2章と第10章では、[[リネン]]のような質感の紙に黒インクで描いた上から白クレヨンでぼかしを入れることで20世紀初頭の[[風刺漫画]]に似せる試みがなされた{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=1091/5478}}。これらのアートは煤けて陰鬱なヴィクトリア朝ロンドンの雰囲気を見事に醸出しており<ref name=slate/>、[[風間賢二]]は「十九世紀末ロンドンの煤煙と{{仮リンク|ブロードサイド|en|Broadside (printing)}}のインクとで描いたような、映画の[[ストーリーボード|ストーリー・ボード]]を思わせるスケッチ風のミニマルな絵」と表現している<ref name=hmm>{{cite journal|和書|title=文学とミステリのはざま 傑作グラフィックノベル|author=風間賢二|journal=ハヤカワミステリマガジン|page=208|volume=55|issue=1|date=2010-01}}</ref>。いくつかのシーンでは、粗い描線で描かれた貧民街のコマの間に、柔らかくぼかしたタッチの上流生活が差し挟まれ、効果的な対比を作り出している{{sfn|Booker (ed.)|2010|loc=pp.229-232, "From Hell" by Julia Round}}。2018年のカラー版シリーズでも、オリジナルの質感を崩さないように19世紀末の印刷物に近い沈んだ色合いが用いられた。鮮明な赤だけがその例外だった<ref name=slate/>。

ムーアは共作者キャンベルの貢献を高く評価しており、一見ラフな描線によって人間の感覚的な経験を自然に写し取る作風が題材に合っていたという<ref name=bullock/><ref name=guardian2018/>。ムーアによると、本書で描かれるのは扇情的なホラーコミックの世界ではなく、日常と地続きだと信じられるリアルな世界である<ref name=bullock/>。読者に恐怖を与えるべきシーンでも、キャンベルは大げさな視覚的演出を用いず、事実を事務的に伝えるかのように描写する。「それがありふれた行為だという感覚」は、残虐行為の恐ろしさをはるかに純粋に感じさせることになる<ref name=guardian2018>{{cite web|url=https://www.theguardian.com/books/2018/apr/10/alan-moore-neil-gaiman-genius-eddie-campbell|accessdate=2020-01-30|title='The man's a genius!': Alan Moore and Neil Gaiman on Eddie Campbell |publisher=The Guardian|date=2018-04-10}}</ref>。感情に訴えず、平静な視点からの描写に徹するのはキャンベルのモットーでもあった{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=3136/5478}}。
{{Gallery
|width=
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|file: Only - George Du Maurier.png|キャンベルが絵柄を研究した画家の一人{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=2906/5478}}、[[ジョージ・デュ・モーリア]]の作品(1862年)。
|file: The Revenue Officer's Story (Keene).png|{{仮リンク|チャールズ・キーン|en|Charles Keene (artist)}}による雑誌挿絵(1863年)。
| file: Charles-Dana-Gibson-usual-fans-and-gloves.gif|{{仮リンク|チャールズ・ダナ・ギブソン|en|Charles-Dana-Gibson-usual-fans-and-gloves.gif}}の[[カリカチュア]](1889年)。
}}{{clear}}

=== 日本漫画との比較論 ===
本作は同時代の日本漫画とはコマ割りの文法が異なっており、日本の書評家の多くが特徴的な9等分のレイアウトに触れている<ref name=fujin/><ref>{{cite news|和書|newspaper=読売新聞(東京夕刊)|date=2009-11-30|title=本よみうり堂 コミック館 「フロム・ヘル」アラン・ムーア作、エディ・キャンベル画}}</ref>。日本語版の出版を企画したみすず書房の編集者は、日本漫画がダイナミックなコマ割りを用いた映画的なストーリーテリングを特徴とするのに対し、『フロム・ヘル』の画面は均質で静的に見えるという。読者はそれにより、文章を行間まで読み込んだり、物語全体の構造に思いをはせるような「文芸作品に近い読み方」を促される<ref name=misuzuintro>{{cite web|url=https://www.msz.co.jp/news/topics/07491;07492.html|accessdate=2020-01-29|title= トピックス―『フロム・ヘル』|publisher=みすず書房|date=}}</ref>。翻訳者の柳下もアクション描写の違いを指摘して「日本のマンガでこういうコマ割りってありえない」と述べている。日本の漫画ならば一枚絵の中に動きを取り入れて表現するところを、『フロム・ヘル』では何気ない動きを複数のコマに割って中間を想像させる。そのようにして時間をかけて読んでいくことで、初めてコマに込められた情報量の多さを味わえるのだという<ref name=talksession>{{cite web|url=http://fromhell-info.jugem.jp/?eid=19|accessdate=2020-01-29|title=柳下さん×宇多丸さんの刊行記念イベント報告|website=アラン・ムーア『フロム・ヘル』 Infomation|publisher=みすず書房|date=2009-11-02}}</ref>。評論家[[上野昂志]]は「コマ割りされた静止画のもたらす緊迫感」「「グラフィック・ノベル」のダイナミズムは … 流動的な動き主体のマンガからは失われたものかもしれない」と述べた<ref name=misuzu2009-10/>。漫画評論家[[夏目房之介]]は作品への引き込まれ方が小説を思わせると述べた<ref name=natsume/>。

作家[[瀬名秀明]]は第一印象を「クセのある絵柄と難解な展開」と言いつつ、いったん表現技法になじむと「神業の如き技巧に精神を抉られっぱなし」と評した<ref>{{cite news|和書|newspaper=朝日新聞(朝刊)|date=2009-12-27|page=17|title=瀬名秀明 書評委員お薦め「今年の3点」}}</ref>。近代イギリス文学の研究者[[富山太佳夫]]は「日本のコミックスに特有の顔のアップも、低級なエロっぽさも、笑うに笑えないユーモアもない。まさしく歴史の雰囲気がある」と述べ、特にセリフの奥深さを称賛した<ref name=mainichi2009/>。
==社会的評価==
=== 受賞 ===
『フロム・ヘル』は[[アイズナー賞]]を複数回受賞している。部門は最優秀定期刊行作品(1993年)、最優秀原作者(1995年、1996年、1997年)、最優秀グラフィック・アルバム(再刊)(2000年)である。コミックブックシリーズは1995年に[[ハーヴェイ賞]]と{{仮リンク|国際ホラーギルド賞|en|International Horror Guild Award}}を受賞している{{sfn|Booker (ed.)|2010|loc=pp.81-82, "Eddie Campbell" by Wendy Goldberg}}{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=2569/5478}}<ref>{{cite web|url=http://www.horroraward.org/prevrec.html#1995|accessdate=2020-02-13|title=:: ihg :: International Horror Guild :: ihg ::|date=2008-07-12}}</ref>。1997年には{{仮リンク|スモール・プレス・エキスポ|en|Small Press Expo}}で[[イグナッツ賞]]を受けた{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=2559/5478}}。同年に『{{仮リンク|コミックス・バイヤーズ・ガイド|en|Comics Buyer's Guide}}』誌の読者選出賞でリミテッド・シリーズ部門の最多得票を獲得し、2000年には単行本が再刊グラフィックノベル部門を受賞している{{sfn|Booker (ed.)|2010|loc=pp.229-232, "From Hell" by Julia Round}}。2001年[[アングレーム国際漫画祭]]では、{{仮リンク|デルクール (出版社)|fr|Delcourt (maison d'édition)|label=エディショ・デルクール}}から刊行されたフランス語版が「{{仮リンク|アングレーム国際漫画祭批評家賞|fr|Grand prix de la critique|label=批評家賞}}」を受けた<ref name=acbd>{{cite web|url=https://www.acbd.fr/919/grand-prix-de-la-critique/2001/|accessdate=2020-01-31|title=Prix de la Critique 2001|publisher= Association des Critiques et des journalistes de Bande Dessinée|date= }}</ref>。

=== 原語版 ===
ファンや批評家の間では『[[ウォッチメン]]』などと並んで[[アラン・ムーア]]の代表作とみなされており<ref name=sengai/><ref name=link/><ref>{{cite web|url=https://www.cbr.com/alan-moore-best-comics-ranked/|accessdate=2020-02-22|title=Alan Moore's 10 Best Comics, Ranked|publisher=CBR|date=2019-11-08}}</ref>、最高傑作に挙げられることも多い<ref name=aliance>{{cite web|url=https://comicsalliance.com/alan-moore-from-hell-companion-eddie-campbell-top-shelf/|accessdate=2020-02-27|title=Top Shelf Announces ‘The From Hell Companion’ From Alan Moore And Eddie Campbell|publisher=Comics Aliance|date=2013-02-27}}</ref>{{sfn|Carpenter|2016|p=287/480}}<ref>{{cite web|url=https://www.rollingstone.com/movies/movie-lists/drawn-out-the-50-best-non-superhero-graphic-novels-29579/from-hell-alan-moore-and-eddie-campbell-162695/|accessdate=2020-02-28|title=50 Best Non-Superhero Graphic Novels|publisher=Rolling Stone|date=2019-11-16}}</ref><ref name=jamieson>{{cite news|newspaper=The Herald|date=2001-11-18|p=18|author=Teddy Jamieson|title=HELL RAISER; Alan Moore reinvented the comic book at a stroke. Now his dark imaginings are lining Johnny Depp's packet|quote="From Hell (1998) Moore's magnum opus is... ", "Moore's greatest hits Watchmen (1986) ..."}}</ref>。『コミックス・ジャーナル』誌は本作をムーアの「もっとも完成され、もっとも野心的な」作品と呼んだ<ref name=tcj210/>。

アメリカのコミック界では、本作がコミックメディアによる表現を大きく広げたという評価がある。研究者チャールズ・ハットフィールドらは<ref>{{cite web|url=https://graphicnarratives.org/executive-committee/charles-hatfield/|accessdate=2020-02-07|title=Charles Hatfield|publisher=Comics and Graphic Narratives MLA Forum|date=2011-01-03|author= Margaret Galvan}}</ref>、「グラフィックノベルの可能性を示すプロトタイプとなった」「誰もが知るランドマーク的作品」と述べ、2000年前後を代表する傑作だとした{{sfn|Moore and Campbell|2013|pp=76-90/5478}}。グレッグ・カーペンターは本作が「コミックメディアに限界がないことを示した」と書いている{{sfn|Carpenter|2016|p=287/480}}。ウェブマガジン『{{仮リンク|スレート (ウェブメディア)|en|Slate (magazine)|label=スレート}}』はコミック史における本作の位置づけを映画『[[市民ケーン]]』に例え、大人向けのコミック作品が一種のブームになった90年代においても重層性と革新性は突出していたと評した<ref name=slate/>。[[風間賢二]]は「[[グラフィックノベル]]」を一般の[[アメリカン・コミック]]と異なる文学的なものと説明し、本作をその区分の「代表作にして、今日までの最高傑作」とした<ref name=hmm/>。

=== 日本語版 ===
2009年に出た日本語版の評価は高く、「前代未聞の怪作」([[中条省平]]<ref name=sankei/>)、「異常な大作」([[大森望]]<ref name=misuzu2009-10/>)、「こんなにすごいマンガ、正直なところ、初めて見た」([[冨山太佳夫]]<ref name=mainichi2009/>)、「今年の翻訳物で一番の話題作にして傑作」([[豊崎由美]]<ref name=misuzu2009-10/>)など、多数の新聞・雑誌で絶賛された<ref name=fujin>{{cite journal|和書|title=カルチャーセレクション BOOK フロム・ヘル〈上・下〉|author=[[渡邊十絲子]]|journal=婦人公論|date=2010-02-07|volume=95|issue=4}}</ref><ref name=misuzu2009-10/>。『[[このマンガを読め!]]』では第16位、『[[このミステリーがすごい!]]』では海外部門第20位にランクインしている<ref name=misuzu2009-10>{{cite web|url=http://fromhell-info.jugem.jp/?eid=17|accessdate=2020-01-29|publisher=みすず書房|date=2009-10-21|title=各種メディアでご紹介いただきました(2/9更新)|website=アラン・ムーア『フロム・ヘル』 Infomation}}</ref>。売れ行きの面でも好調で、5000部が標準とされる海外漫画の中では異例の2万4000部が発行された。その理由としては、文学愛好者にアピールする内容だったことや、映画評論で知られる柳下が翻訳したことにより、海外漫画の固定ファンだけではなく広い読者層に受け入れられたためだと分析されている。本作がヒットしたことで、文学・映画・美術ファンを対象読者として[[バンド・デシネ]](フランス語漫画)を翻訳出版する動きも生まれた<ref name=mainichi2011>{{cite news|和書|newspaper=毎日新聞(東京朝刊)|date=2011-02-17|page=24|title=バンド・デシネ:仏語圏の漫画、翻訳相次ぐ 日本の作家にも影響}}</ref>。


== 映画版 ==
== 映画版 ==
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=== 概要 ===
2001年に[[ヒューズ兄弟]]の監督による映画版『[[フロム・ヘル]]』が公開された。原作では脇役だったアバーライン警部を[[ジョニー・デップ]]が主演した。映画化は原作の完結前、1994年ごろから断続的に企画されており{{sfn|Moore and Campbell|2013|p=5347/5478}}、原作者アラン・ムーアは脚本執筆を打診されたが興味を示さなかった<ref name=guardian2002>{{cite web|url=https://www.theguardian.com/film/2002/feb/02/sciencefictionfantasyandhorror.books|accessdate=2020-01-28|title=Interview: Alan Moore|publisher=The Guardian|date=2002-02-02}}</ref>。完成した映画は原作と大きく異なり、犯人捜しに力点を置いたサスペンス作品となった。アバーラインとメアリー・ケリーのロマンスが前面に出され、社会批評の要素は除かれ、ロンドンの貧民街や殺害シーンの描写には扇情性が追加された<ref name=overpeck>{{cite journal|author=Deron Overpeck|title=From Hell|journal=Film Quarterly|volume=55|issue=4|year=2002|pp=41-45|doi=10.1525/fq.2002.55.4.41}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.avclub.com/how-did-a-great-alan-moore-comic-become-a-lousy-johnny-1827785558|accessdate=2020-02-27|title=How did a great Alan Moore comic become a lousy Johnny Depp mystery?|date=2018-07-27|publisher=The A.V. Club}}</ref>。映画ファンからの評価は低く、レビュー集積サイト[[Rotten Tomatoes]]では57%の点数がついた<ref>{{Rotten Tomatoes|id=from_hell|title=From Hell}}</ref>。

=== ストーリー ===
=== ストーリー ===
1888年の[[ロンドン]]が舞台。残虐な娼婦連続殺人事件が発生し、アバーライン警部が捜査に当たる。数年前に妻子を亡くしてから無気力、そして刹那的に生きていた彼は、捜査の途中で出会った赤毛の娼婦メアリーと惹かれあうようになる。被害者たちの知られざる共通項と、この殺人事件の裏に[[フリーメイソン]]が関わっているのを嗅ぎ付けたアバーライン警部だが、殺人者の手はメアリーにも伸びていた。
1888年の[[ロンドン]]が舞台。残虐な娼婦連続殺人事件が発生し、アバーライン警部が捜査に当たる。数年前に妻子を亡くしてから無気力、そして刹那的に生きていた彼は、捜査の途中で出会った赤毛の娼婦メアリーと惹かれあうようになる。被害者たちの知られざる共通項と、この殺人事件の裏に[[フリーメイソン]]が関わっているのを嗅ぎ付けたアバーライン警部だが、殺人者の手はメアリーにも伸びていた。
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* テレビ東京版:初回放送2005年9月8日『[[木曜洋画劇場]]』
* テレビ東京版:初回放送2005年9月8日『[[木曜洋画劇場]]』

== テレビ版 ==
2014年、[[FX (テレビ局)|FX]]が本作のドラマシリーズを製作中だということが報じられた。映画版をプロデュースした{{仮リンク|ドン・マーフィー|en|Don Murphy}}がエグゼクティブプロデューサーとなり、{{仮リンク|デイヴィッド・アラタ|en|David Arata}}が脚色を務める計画だという<ref>{{cite web|url=https://deadline.com/2014/11/from-hell-tv-show-jack-the-ripper-graphic-novel-fx-don-murphy-1201286057/|accessdate=2020-02-23|title=‘From Hell’ TV Show: Jack The Ripper Graphic Novel Series Set At FX|publisher=Deadline|date=2014-11-17}}</ref>。

== 関連項目 ==
* {{仮リンク|トルソ (コミック)|en|Torso (Image Comics)|label=}} ― 1930年代に実在した「[[キングズベリー・ランの屠殺者]]」に基づく{{仮リンク|トゥルー・クライム|en|True crime|label=}}・ジャンルのグラフィックノベル作品。
*[[ジョゼフ・メリック]] ― 「エレファントマン」と呼ばれた実在人物。作中でガルによって[[ガネーシャ]]の使いになぞらえられる。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist}}
{{Reflist|30em |group=†}}
=== 出典 ===
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===参考資料===
{{refbegin}}
*{{cite book|和書|author=アラン・ムーア|author2=エディ・キャンベル|translator=柳下毅一郎|title=フロム・ヘル 上|year=2009|publisher=みすず書房|isbn= 9784622074915|ref={{SfnRef|ムーア|2009a}}}}
*{{cite book|和書|author=アラン・ムーア|author2=エディ・キャンベル|translator=柳下毅一郎|title=フロム・ヘル 下|year=2009|publisher=みすず書房|isbn= 9784622074922|ref={{SfnRef|ムーア|2009b}}}}
*{{cite book|title=Encyclopedia of Comic Books and Graphic Novels|volume=2|editor-first=M. Keith|editor-last=Booker|publisher=ABC-CLIO|year=2010|url={{Google books|K2J7DpUItEMC|Encyclopedia of Comic Books and Graphic Novels |plainurl=yes}}|accessdate=2018-09-09|ref={{SfnRef|Booker (ed.)|2010}}}}
*{{cite book|和書|author=[[仁賀克雄]]|title=決定版 切り裂きジャック|year=2013|publisher=筑摩書房|isbn= 9784480430946|ref={{SfnRef|仁賀|2013}}}}
* {{cite book|author=Lance Parkin|title=Magic Words: The Extraordinary Life of Alan Moore|publisher=Aurum Press|edition=Kindle|year=2013|asin=B00H855FCI|ref={{SfnRef|Parkin|2013}}}}
* {{cite book|author=Alan Moore|author2=Eddie Campbell|title=The From Hell Companion|publisher=Top Shelf Productions|edition=English, Kindle|year=2013|asin=B00CLDDS4Y|ref={{SfnRef|Moore and Campbell|2013}}}}
*{{cite book|title=Comics through Time: A History of Icons, Idols, and Ideas|editor-first=M. Keith|editor-last=Booker|publisher=ABC-CLIO|year=2014| url={{Google books|hnuQBQAAQBAJ|Comics through Time: A History of Icons, Idols, and Ideas|plainurl=yes}}|accessdate=2018-09-09|ref={{SfnRef|Booker (ed.)|2014}}}}
* {{cite book|author=Greg Carpenter|title=The British Invasion: Alan Moore, Neil Gaiman, Grant Morrison, and the Invention of the Modern Comic Book Writer|edition=Kindle|publisher=Sequart Organization|year=2016|asin=B01KBRSIWS|ref={{SfnRef|Carpenter|2016}}}}
{{refend}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
; 原作版
*[http://www.foxjapan.com/movies/fromhell/flash_site/intro.html 映画の公式サイト]
:* [https://www.msz.co.jp/special/fromhell/ アラン・ムーア『フロム・ヘル』日本語版オフィシャルサイト] - みすず書房公式サイト
* {{Allcinema title|236576|フロム・ヘル}}
:* {{YouTube|VBAhu9R4qaM|『フロム・ヘル』日本語版刊行記念 トレイラー・ムービー公開!!}} - 公式トレーラー
* {{Kinejun title|32589|フロム・ヘル}}
:* [http://honyakumystery.jp/1255033761 私設応援団・これを読め!『フロム・ヘル』] - [[千街晶之]]による紹介
* {{Amg movie|254552|From Hell}}
:* [http://www.topshelfcomix.com/catalog/from-hell-softcover/226 From Hell / Top Shelf Productions] - 英語版公式サイト
* {{IMDb title|0120681|From Hell}}
:* [http://eddiecampbell.blogspot.com/search/label/Alan%20Moore%27s%20London Eddie Campbell] - 本作に使われたリファレンス写真を紹介しているエディ・キャンベルのブログ記事(英語)
; 映画版
:* [http://www.foxjapan.com/movies/fromhell/flash_site/intro.html 映画の公式サイト]
:* {{Allcinema title|236576|フロム・ヘル}}
:* {{Kinejun title|32589|フロム・ヘル}}
:* {{Amg movie|254552|From Hell}}
:* {{IMDb title|0120681|From Hell}}


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[[Category:2001年の映画]]

2020年3月29日 (日) 14:58時点における版

フロム・ヘル
(From Hell)
発売日1999(単行本)
話数10号(コミックブック版)
ページ数572ページ
出版社アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
 エディ・キャンベル・コミックス
 トップシェルフ
イギリスの旗 イギリス
 ノックアバウト
制作陣
ライターアラン・ムーア
アーティストエディ・キャンベル
オリジナル
掲載
  • Taboo
  • From Hell
掲載期間1989–1996
翻訳版
出版社みすず書房
発売日2019年11月11日(新装合本)
ISBN978-4622088592
翻訳者柳下毅一郎

フロム・ヘル』(: From Hell)とは、アラン・ムーア原作、エディ・キャンベル英語版作画のグラフィックノベル作品。英語圏のコミックを大きく発展させたムーアの代表作の一つ。19世紀末に起きた「切り裂きジャック事件を題材としており、事件の核心を除けば内容は厳密に史実に基づいている。「殺人の謎を解くために全宇宙の謎を解くようなミステリ[1]」として構想され、魔術的な世界観を背景に、後期ヴィクトリア朝当時のイギリス社会と20世紀への移り変わりを総体として描くテーマがある。題名は真犯人が送ったとされる「地獄より」と署名された手紙英語版から[2]

1989年から1998年にかけて小出版社から雑誌連載やコミックブックとして発表され、1999年に単行本化された。アイズナー賞複数部門など多くの受賞がある。2001年には同題で映画化された。日本語版は2009年にみすず書房から刊行された。

作品内容

物語本編は全14章およびプロローグ・エピローグで構成されている。単行本の補遺Iはそれらの注解である。補遺II「カモメ捕りのダンス」は24ページの独立した漫画作品で、切り裂きジャック現象についての考察が描かれている[3]

あらすじ

1923年、互いを「アバーライン」「リーズ殿」と呼び合う老人が海辺を散策している。二人はかつて関わった何らかの不正について述懐する[4][5]

1884年、ロンドンクラレンス公爵アルバート・ヴィクター王子は庶人を装って貧困地区イーストエンドに出入りし、菓子店員アニー・クルックと結婚して子まで儲けていた。王子の祖母ヴィクトリア女王は事態に気づくと、アニーを精神病院に幽閉し[6]、王室付きの医師ウィリアム・ガル博士に命じて正気を失わせる[7]。醜聞は露見を免れたかに見えたが、アニーの友人だった売春婦メアリー・ケリーが赤ん坊と王家のつながりを知ってしまう。ケリーは同業のポリー・ニコルズアニー・チャップマンリズ・ストライドらと共謀し、王子の世話役だった画家ウォルター・シッカートを恐喝する[8]。ヴィクトリア女王は王室を脅かす4人の女を排除すべく再びガルに密命を下す[9]

実在のウィリアム・ガルを写したグラビア写真英語版(1973年)[10]。このとき57歳。作中の事件は15年後の出来事である。

ガルは幼いころから崇高な使命に身を捧げる望みを持っており、卓越した医師・フリーメイソンの高位者として女王の信任を得るまでになってなお飽き足りないものを感じていた。しかし老境に至って、発作で意識朦朧とする中でフリーメイソンの神格「ヤー・ブル・オン英語版」の顕現を目撃し、啓示を受けたと信じる[7]。神秘思想にのめりこんでいったガルは、女王の命令を契機に「大いなる業」を企図する。それは、男性が女性を支配する社会構造を次の時代まで存続させるための精緻な魔術儀式だった。ガルは手始めに、助手に付けられた御者ジョン・ネトリー英語版とともにロンドン市内の歴史的建造物を巡って回り、古代の女権文化が男権文化に征服され、月が太陽に追い落とされ、無意識が理性の虜とされてきた歴史を説き明かしていく[9]

ガルは売春婦の巣窟ホワイトチャペルで女たちを惨殺していく[11]。殺人を繰り返すガルは現実とも妄想ともつかない超越体験に遭遇し[12]、夜空にそびえたつ異界の高層建築を垣間見る[13]。新聞社が名づけた「切り裂きジャック」による凶行はロンドン全体を恐怖に陥れ、女王やフリーメイソンの支援者たちもガルの暴走を憂慮し始める。取り違えによって予定外の犠牲者(キャサリン・エドウッズ)が出たためさらなる殺人が必要となり、心神耗弱に陥りつつあるネトリーをガルは「ここは地獄であり、出口はその最深奥にしかない」と説きつける。ガルは浅薄な物語を書き立てる新聞社を嘲弄するため、ネトリーに筆記させて「地獄より」と署名された手紙を書く[14]

最後の殺人によって「大いなる業」は絶頂を迎える。一種の乖離状態で死体を解体するガルの前に、異なる時代のヴィジョンが現れては消える。不意にガルは未来のロンドンにいる自分に気付き、己の行為が20世紀の在りようを定めたことを悟る。しかし、OA機器が並ぶオフィスで生気なく仕事に勤しむ人間たちはガルに目をくれようとしない。苦痛と恐怖に満ちた歴史を失認する未来人をガルは言葉の限りに罵り、慨嘆し、無残な姿となった遺体を抱擁する。やがて奇跡は過ぎ去り、ガルはネトリーに仕事の終わりを告げる[15]

霊能者を自称して女王に取り入ったロバート・リーズ英語版はガルに個人的な恨みを持っていた。リーズはガルに疑いをかけさせようと考え、捜査に当たっていたフレデリック・アバーライン警部に犯人の正体を霊視したと告げる。アバーラインとリーズに面会したガルはもはや保身など頭になく、即座に罪を認めて二人を驚愕させる。フリーメイソンの影響下にあるスコットランドヤードはアバーラインの報告を握り潰す。メイソンの審問会に引き出されたガルは列席者を愚弄して己の業を誇り、精神病院に幽閉されることになる[16]。アバーラインは事件の裏に王室の意思があったことを突き止めて憤るが、リーズとともに沈黙を保ち[17]、潤沢な恩給を受けながら次の世紀まで生き永らえる。

数年が経ち、独房で死に瀕したガルは束の間の神秘体験を迎える。ガルの霊体は黒い波紋となって歴史構造の隅々まで広がっていき、その存在を感知した各時代の幻視者、芸術家、シリアルキラーらに霊感を与えていく。神々の座に向かって上昇を続けるガルは、最後にアイルランドで暮らす一人の母親を見る。殺された娼婦の名を娘たちに与えた女は、偶然に助けられてガルの手を逃れた娼婦の一人なのかもしれない。女はガルの霊魂を見返し、「地獄に戻れ」と吐き捨てる[18]

再び1923年、アバーラインとリーズは真犯人に偽装されて殺されたモンタギュー・ドルーイット英語版の墓を弔い、さらに浜辺で語り合う。暗い記憶を共有する二人は、新しい世紀に待ち受ける騒乱を感じ取っている[3][19]

第4章「王は汝に何を求めたるや?」

第4章において、ガルは馬車でロンドンを一周しながら、無学な御者ネトリーに歴史的な建造物の由来を語って聞かせる。石造りの建築を背景にした会話シーンが30ページ以上続く、視覚的に単調な構成はストーリー漫画として異色であり[20]、作者たちも制作中に成否を危ぶむほどだった[21]。しかし、実在のランドマークと饒舌な引喩によってオカルト的歴史観が展開されるこの章は、作品の重要な一部[22]、「最も効果的な章の一つ」[23]と評されている。ミステリ評論家千街晶之は「偏執狂的なまでの史実へのリサーチからオカルティックな幻視を騙し絵的に浮かび上がらせる技巧」が本作の「真骨頂」だと呼んだ[24]

ガルが読み解く歴史の根幹には、男性=太陽が女性=月に取って代わる「原初の陰謀」がある[23]。先史時代に800万年にわたって女性が占めてきた支配的地位は、6000年前に男性が象徴という武器を手にしたことで覆ったのだという[25][26]。「象徴によって男性は女性を引きずりおろし、象徴によって押さえこんだ。何と強力な魔法だろうか![26]」象徴的な戦いの一例として、月の女神ディアーナへの信仰がキリスト教や、イギリスの民間伝承に見られる狩人ハーンに置き換えられたことが挙げられる[23]。ガルが売春婦を殺害するのも、出産の神秘に支えられた女性の権威を失墜させて男性の力を再確認するという、古代から続く生贄儀式の一種である[23]。大きな時代の変わり目が近づき、女性・労働者の参政権運動や社会主義の台頭を前にしたガルは、男性による支配の象徴を再生しなければならないと考えたのだった[27][28]。ガルはロンドンの各地に眠る歴史を掘り起こすことで、国家の安定の名のもとに犠牲にされてきた異教の力にアクセスするのと同時に、暴力による支配を維持しようと試みる。作者ムーアはこれらの発想をイアン・シンクレア英語版の著作『ルッドの熱[† 1]』(1975年)や『ホワイトチャペル、緋の痕跡[† 2]』(1987年)[29]、およびロバート・グレーヴスから示唆されたという[30]

この章ではニコラス・ホークスムア英語版の建築作品が中心的に扱われている。ホークスムアはフリーメイソンの一員であり、教会建築に異教の意匠を取り入れたことからオカルティストの間で関心が高く、本作以前にもシンクレアやピーター・アクロイド英語版の小説で取り上げられている[31]。ガルの説によると、ホークスムアは「ディオニュソス建築家」を手本にしていた[32]。もともとフリーメイソンという団体自体、古代クレタ文明の流れを汲むディオニュソス建築家が中世の建築家ギルドに迎え入れられて成立したものである[33]。ガルはそこに、ディオニュソス的な非理性と建築家としてのアポロン的な理性を兼ね備えた「矛盾した存在」を見る[34]。理性と非理性・狂気・無意識との対立もまた、男性原理と女性原理の二元論の一部とされる。

作中で訪問される数々のランドマークは、地図上で禍々しい五芒星を描き出す。この図形は後の章で一種のレイラインとしてガルの昇天を導く[35]。ガルによると五芒星の中央にあるセント・ポール大聖堂は男性原理の核心的な象徴であり、その建築構造に埋め込まれた鉄鎖(レンの鎖[36])が「無意識、月、女性性」をその内に縛り付けている[23]

原作者アラン・ムーアはこの章を、過去の時代に視点を移動させることなく、建造物の描写と登場人物による解説だけで構成しようとした[37]。場面転換のない単調なプロットを作品として成立させた作画家エディ・キャンベルをムーアは称賛している[30]。キャンベルは少しでも緩急をつけるため、ガルらが立ち止まっているときは背景を写実的に描き、馬車で移動している間はスケッチ風のタッチに変えて細部に目が留まらないようにした[38]。また余計な部分で読者が混乱しないように、馬車が東に向かうシーンでは人物は右を向き、西に向かうシーンでは左を向いている[39]。この章は丸1日の出来事であり、太陽の動きを計算に入れて絵の光源が設定されている[40]

第14章「ガル昇天す」

ウィリアム・ブレイクが降霊会で描いたスケッチを元に制作された『蚤の幽霊』(1819年)。ブレイクは鱗で覆われた吸血の怪物としてガルの霊体を幻視する。

翻訳者柳下毅一郎は「ウィリアム・ガル博士の魔術行為が示される二章、第四章と第十四章」が本書の白眉だと述べた[51]。第14章でガルは次元の壁を超越し、すべての時間に偏在する存在となる[22][52]。作者は実在の歴史記録に残る幽霊の目撃談や超常現象をガルの霊体と結び付けている。たとえばウィリアム・ブレイクは自室で全身鱗の怪物を幻視し、そのスケッチを元に『蚤の幽霊英語版』を制作したとされているが、作中では怪物の正体はガルである[53]。また作中のロバート・ルイス・スティーヴンソンはガルに見せられた悪夢によって『ジキル博士とハイド氏』を着想する[53]

1888年の切り裂きジャック事件の前後に実際にあった類似の事件は、歴史を貫いて螺旋的に配置された一連の四次元構造だとされた。その始めは、ちょうど100年前の1788年に「ロンドン・モンスター英語版」と呼ばれる人物が数多くの女性を刺傷した事件だった。切り裂きジャック事件の50年後、1938年にはカナダのハリファックスで架空の通り魔「ハリファックス・スラッシャー英語版」に関する集団ヒステリー事件があった。その25年後、1965年にはイギリスのサドルワース・ムーアでイアン・ブレイディらが数名の未成年を殺害するムーアズ殺人事件が起きた。その12年後、1975年には「ヨークシャー・リッパー」ことピーター・サトクリフが売春婦を次々に殺害した[54]

補遺II「カモメ捕りのダンス」

本編と異なり、メタ的な観点から描かれた24ページのコミック[55]。大勢の「リッパロロジスト(切り裂きジャック研究家)」が補虫網を振り回してカモメを捕えようとしている象徴的なコマで始まる[56]。「カモメ = gull」は主人公ガルを指すだけでなく、「愚か者、でっち上げ、詐欺師、ミスリード」という意味もある[56]。この作品では、20世紀全体にわたって多数刊行された「切り裂きジャック事件の真相」と称する文献を通覧することで、事件についてただ一つの真実を得るのは不可能だという考えが示されている。史料調査によって新事実を明らかにしようとする試みはフラクタル図形を無限に細密化することに[3]、様々な説が争い合って歴史が形成される様子はダーウィン的闘争に例えられた[57]。ここで俎上に載せられているのは事件そのものというより「ジャックに映し出された我らのヒステリー」であり[55]、作者のムーア自身も冷笑を免れていない[3][58][59]。結末には、リッパロロジストと執筆当時のロンドン再開発がいずれも歴史上の悲劇を搾取していることを風刺するシーンが描かれている[23]

制作背景

背景と刊行の経緯

原語版

1980年代に『ウォッチメン』などでスーパーヒーローコミックを新しいレベルに押し上げたアラン・ムーアは、作品内容への制約や著作権の問題DCコミックスと袂を分かち、ブームに沸くメインストリーム界に背を向けて、独立系出版社でアート志向の作品に取り組み始めた[4][60][61]。1988年から1989年にかけて構想された長編には『フロム・ヘル』のほか、フラクタル数学と社会派リアリズムを組み合わせた『ビッグナンバーズ英語版[62][63]、児童文学とポルノグラフィを組み合わせた『ロストガールズ英語版』がある[64]。これら、ムーアのいう「一大私的作品期[65]」にあたる作品は、キャリアの中でも際立って作家的野心に溢れている[66][67]

『フロム・ヘル』は経営の安定しない小出版社から発表され、10年にわたる執筆期間の中で何度も版元を移った。初出はアンソロジー誌『タブー英語版』の連載である[68]。同誌はDC作品『スワンプシング』でムーアと共作した作画家スティーヴ・ビセット英語版が自身の出版社から発刊したもので、優れた作家陣が集まっていたが、5年間で7号が発行されたのみで消滅した[69]。『フロム・ヘル』は第2–7号(1989–92年)に第6章までが掲載された[70]。その後は独立シリーズとして再刊されたが、発行元はムーアの個人出版社マッドラブ(1991年~)からツンドラ英語版(1991年~)へ、さらに同社を買収したキッチンシンク英語版(1993年~)へと移り変わった[4][71][72]。1996年までに本編全14章とプロローグ・エピローグを収めたコミックブック10号が発行され、最後に1998年の第11号でエッセイコミック「カモメ捕りのダンス」が発表された。しかしキッチンシンク版の発行部数は4000部前後に過ぎず、多くのコミックファンの目に留まることはなかった[73][74]

1999年には全号がペーパーバック書籍にまとめられた。それまでの版元がすべて活動を停止していたため、作画のエディ・キャンベルが自ら出版を行った[75]。1990年代には主にイメージ・コミックスでの堅実なスーパーヒーロー作品で知られていたアラン・ムーアだったが、単行本化は再びコミックファンの注目を浴びるきっかけとなった[63][76]。発行部数は当初の数千部から、2001年の映画化を経て20万部まで伸びた[73]。しかし取次会社の倒産などの困難に見舞われたキャンベルは出版業を断念し、第6版以降の米国版権を準大手IDW傘下のトップシェルフ英語版に移した。同社からはハードカバー本も出版された[4][72]。英国ではノックアバウト英語版が単行本の版元となった[77]。ここまでの版はすべて白黒だったが、キャンベルによってデジタル彩色が施されたマスターエディションが2018年9月から刊行され、2020年に単行本化された[78]。このとき、考証ミスや整合性の乱れを修正するために大幅な描き直しも行われた[59][79]

1994年にはムーアが書いたスクリプト(原作)を第3章まで集めた書籍 From Hell: The Compleat Scripts Volume 1 がボーダーランズから出版された[71]。90ドルの高額なハードカバーで[80]、続刊も計画されていたがキッチンシンクとの版権トラブルにより頓挫した[81]。2013年に刊行された The From Hell Companion(「フロム・ヘル読本」)は、エディ・キャンベルが私蔵していたスクリプト原稿や資料写真などにコメントを付けたものである[82][83]

本作は猟奇殺人や性行為を露骨に描写しており[72]、南アフリカや英国で禁止処分を受けたことがある。オーストラリアでは、最後の犠牲者が解体されるシーンを含むコミックブックの号が税関で問題にされ、シリーズ全体が輸入を差し止められた[84]。このとき、オーストラリア在住のエディ・キャンベルは当局に作品全体の制作意図を説明することで輸入禁止処分を取り下げさせた。さらに再び同様の問題が起きないように、ランダムハウスの支社と交渉してオーストラリア国内での出版を取り付けた[85][86]

日本語版

エディ・キャンベルは日本での切り裂きジャック人気を認識しており、日本の出版社に本作の版権を売り込もうと何度か試みたが、なかなか実現しなかったという[86]

2009年になって、みすず書房から上下巻に分けられた日本語版が刊行された。人文系の学術出版社として知られるみすず書房が初めてコミック作品を出したことは驚きをもって迎えられた[87][88][89][90][91]。出版を企画したみすず書房の編集者は、ムーアの「読者は一コマからでも途方もない量の象徴を読み取れる」という漫画観に惹かれて本書と出会い[92]、「日本の漫画とはまったく異なる方向の進化形」として邦訳する価値を認めたと述べている[93]。その差異を強調するため、コミックではなく「グラフィック・ノベル」という呼び方が前面に出された[88]。翻訳は猟奇殺人に詳しい柳下毅一郎が2年の歳月をかけて行った[94][95]。2019年には合本となった新装版が出た。

着想

アラン・ムーア(2006年)。「わたしは … [本作で]はじめて物語の中にどれほどの密度、どれほどのスケールを入れられるか学んだのだ[1]

初めにムーアの頭にあった題材は殺人だった。正確には殺人そのものではなく、そのような極限的な行為が引き起こす複雑に絡み合った波及効果だった[30][96]。ムーアはダグラス・アダムズの小説『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所英語版』の題名に触発され、犯罪を「全体論的」に解き明かすには背景となる社会全体を解き明かさなければならないというアイディアを持っていた[97][98]

そこ[殺人]では社会的な制約の壁が決壊し、恐ろしく力強く粗暴なるものが動き出す──それは社会へと影響を及ぼし、さざ波を立てうるような何かだ。殺人のように人間的で強烈な一個の出来事を十分細密に見つめれば、それが起きた世界全体についてのいくつかの大きな解釈を提示できそうだと気づいた。 — アラン・ムーア、サクソン・ブルックによる2002年のインタビュー[99][101]

モデルとなる現実の事件としては、1935年に妻と乳母を殺害したバック・ラクストン英語版のような比較的知名度の低い殺人事件が検討されており、調べつくされて手垢のついた切り裂きジャック事件は考慮の外だった。しかし、事件から100年目となる1988年前後に英米で切り裂きジャックブームが起き[102]、関連書籍に触れる機会が増えると、そこに未開発の力強いテーマが残っていることに気づいた[30][103]

切り裂きジャック事件は未だに解決しておらず、犯人と名指しされた人物も数十人に上る。1959年の『切り裂きジャックの正体』(ドナルド・マコーミック英語版)以来、歴史資料を元に事件の真相を解き明かす形式のノンフィクション本は数限りなく出版されてきた[104]。ムーアはその中の一冊、スティーヴン・ナイト英語版の『切り裂きジャック 最終結論』(1976年)から基本設定を借りることにした。ナイトによると、事件の核心はイギリス王室のスキャンダルを隠蔽しようとするフリーメイソンの陰謀だった。「プリンス・エディ」とあだ名されたアルバート・ヴィクター王子が平民との間に儲けた私生児の存在を知った女たちを抹殺するのが犯人の目的だった[61][† 5]。このシナリオは根拠の薄いもので、出版直後から多くの反論を受けていた。ナイトの情報源であったジョゼフ・シッカートはプリンス・エディの孫を自称するいかがわしい人物で、後に証言を翻した[106]。しかし、事実かどうかは重要ではなかった。ムーアの関心はフーダニットではなく、むしろ事件の周縁で生まれた神話、風説、伝承に向かっていた[30]。同時代の社会思想について広範な調査を行う中で、数学者ハワード・ヒントンの時間理論、小説家イアン・シンクレアが先鞭をつけたロンドン史の再解釈、母権制/父権制という観点による神話の読み直しといった幅広いテーマが浮かび上がってきた。ナイト説を採用することで作品に取り入れられたフリーメイソンの伝承や独特の時空観は、これらの構想とうまく合致するものだった[30]

制作過程

共作体制

エディ・キャンベル(2008年)。「言い過ぎかもしれないが … これほど視座の高いものを書こうとした奴は過去に一人もいなかった[39]

当初アラン・ムーアは過去の共作者ブライアン・タルボット英語版と再び組むことを考えていた[2]。しかし『フロム・ヘル』の構想を聞いた出版者スティーヴ・ビセットは「この物語が内包する暴力性に溺れない」資質を持った作画家が必要だと考え、『タブー』の寄稿者の一人エディ・キャンベルを提案した[107][108]。キャンベルはイギリスのスモールプレスシーンで早くから活躍していたコミック作家で、日々の出来事を印象主義的な描線で描いたスライス・オブ・ライフ作品の先駆者だった[86][109][110][111]。ムーアは連載の途中まで「切り裂きジャック」を登場させずにゆっくりと世界観を固めるつもりであり、序盤の静かなストーリー展開にはキャンベルが適任だと考えた[108]。連続殺人を題材としたホラーへの起用はキャンベル本人としても意外であったが[2][75]、本来のくつろいだ雰囲気の作風とは正反対の内容に取り組む中で新しい境地を開いていった[86]

ムーアのスクリプトは長大な散文で書かれており、コマごとの構図を詳細に指示するだけでなく、鋭い修辞によって作画家が再現しきれないほどの情報を伝えるものだった。スクリプトの長さは最大で作画原稿1ページ当たり2200ワード(約200行[112])に達した[108][113]。キャンベルの言によると「ほかの原作者なら「このコマ雨」と書いて済ませるところでも、ムーアのスクリプトでは「雨音は気が滅入るようなロシアの長編小説のリズムで途切れ途切れのモールス信号を打電する」となる」[80]。精緻極まるムーアのヴィジョンを紙の上で概括し、物語をよどみなく進ませたのはキャンベルの手腕だった[114](同時期の『ビッグナンバーズ』では、作画家ビル・シンケビッチ英語版がスクリプトを消化しきれずに刊行が破綻した[63][115])。

読者をコントロールしようとする作劇法を好まないキャンベルは[39][116]、ムーアのスクリプトから過剰な演出を取り除くのが常だった[114]。たとえばあるキャラクターは初登場時に「読者の心に残る」強烈な相貌を見せるはずだったが、キャンベルは帽子で顔が半分隠れたさりげない絵を描いた[117]。背景となるロンドン市街の側溝を「ワニが這っている」という描写は「説得力を出す自信がなかったので」スクリプトから取り下げてもらったという[118]。ムーアが指示した映画的なカメラワークの代わりに、キャンベル流の固定視点を採用した場面も多かった[119]。ムーアはキャンベルの「[イメージの]固着力と人間的な現実感覚を備えた」作画を称賛し、それがあってこそ、クライマックスでの形而上的な幻想の奔流が可能になったと述べている[30]。『コミックス・ジャーナル英語版』誌のレビューは二人の共作を「ほとんど不可分なほど」と評した[120]

考証

作者らは作品に説得力と迫真性を与えるため綿密な考証を行った[30][71]。ムーアによると、物語の内容は事件に関する既知の事実と何一つ矛盾しておらず、逆に関連する事実は一つ残らず物語に取り入れられている。そのため、事件の真相が完全に『フロム・ヘル』に描かれた通りだったとしてもおかしくないという[114]。主たる参考元であるスティーヴン・ナイト説の矛盾点は入念に糊塗されている[114]。またたとえば、ある場面にある人物を登場させたいが史料的な裏付けがない場合、アングルやフォーカスを工夫することで人物が特定できないようにされた[59][119][† 6]。当時のロンドン市民の生活も史実に沿って再現されている。安宿のベッドに払う金もない女たちが座ったまま物干し綱で壁に縛り付けられて眠る印象的なシーンは映画版にも引用された[121]。コミックブック版には各号の巻末にページごとの詳しい注釈が載せられた[122]。単行本で補遺としてまとめられた注釈は40ページに達した。そこではムーアが創作したシーンはそれと明記され、そうでない部分は典拠が示されている。ムーアはそれぞれの文献の信ぴょう性を評価してもいる[123]。背景に描かれたロンドン市街は大量のリファレンス写真に基いている。それらの写真の多くは在英のムーアによって撮影され[124]、オーストラリア在住のキャンベルに送付されたものである。

作風とテーマ

テーマと解釈

社会論

ムーアは『フロム・ヘル』のテーマについて「切り裂きジャックの殺人は … ヴィクトリア時代を丸ごと黙示録的に要約したかのようだ。20世紀の惨劇の多くを予兆してもいる」と述べている[103]。事件が起きた1880年代は、ムーアによると科学・思想・政治・芸術の分野で次世紀につながる新しい流れが生まれた時期だった。このころ物理学では原子爆弾の前段階となる発見が行われつつあり、シオニズム反ユダヤ主義の両者が伸張し、最初のイスラム原理主義武装闘争であるマフディーの反乱が始まっていた。連続殺人と時を同じくして起きたアドルフ・ヒトラーの受胎は作中で直接描かれている[30]。またムーアは、当時のエミール・ゾラポスト印象派の芸術作品で売春婦が労働者階級の象徴とされたことを指摘している[103][123]。ムーアは綿密な調査によって当時の時代状況を遥かな「高度」から俯瞰し、事件を中心とする広大なランドスケープを作品に取り入れようとした[30]。コミック研究者グレッグ・カーペンターは[125]、本作が「女王の玉座から売春婦の寝床に至るまで、すべての社会階層にわたる」ヴィクトリア朝の歴史を描いており、「ミソジニー反ユダヤ主義ジンゴイズム陰謀論建築理論英語版時間の理論、暴力の本質、イギリス史、モダニズムの起こり」のような大テーマを数多く織り込んでいると書いた[126]

アラン・ムーア(右、2011年)に影響を与えたイアン・シンクレア(左)。「[ムーアは]ウィリアム・ブレイクの系譜を継いで、郷土の中にちらつく些細な事実をもとにして独自の宇宙論を作り出す」[127]
ナットウエスト・タワー(写真)は20世紀企業文化の象徴としてガルの前に立ちはだかる[23][128]

執筆当時のイギリス社会を批判することも『フロム・ヘル』の狙いの一つだった[25]。1980年代の英首相マーガレット・サッチャーは「英国の偉大さを復活させよ (put the Great back into Britain)」と唱え、倹約・勤勉・資本主義のようなヴィクトリア朝的価値観を規範とした。しかし同政権が打ち出した新自由主義的な経済政策は、ヴィクトリア朝時代に通じる巨大な貧富の差を生み出した。『フロム・ヘル』は100年の時を経た二つの時代を対比させてこの構造を浮き上がらせている[23]。切り裂きジャック事件を通じてサッチャーの復古主義を批判する試みは、ムーアに影響を与えたイアン・シンクレアの『ホワイトチャペル、緋の痕跡』(1987年)にも見られる[71]。ムーアとシンクレアはいずれも、心理地理学英語版的な論考により、圧政と苦痛の歴史を象徴する都市としてロンドンを再構成してみせた[23][129]。エリザベス・ホーは本作が「世俗化した観光名所からなる「公式の」ロンドンに替わる新たな地図を作り出した」と書いた[23]。カーペンターは「流血に次ぐ流血で築かれた20世紀は … 際限無き否認主義によって美化された。『フロム・ヘル』は私たちの否認に挑戦を突きつける」と述べている[130]

1980年代には切り裂きジャック事件の受容がフェミニズムの観点から読まれるようになり、ジャックの犯罪が神秘的で不可解な悪などではなく、社会に内在する家父長思想の帰結だという指摘がなされた[23]。作者ムーアも、「切り裂きジャック」が大きな社会的関心を集める理由の一つに、ヴィクトリア朝から現代まで社会構造に深く浸透しているミソジニーとの関わりがあることを意識していた。作中では、権力機構がガルの凶行を支援し、同時代の男性の多くが「ジャック」に自己投影することで、事件の女性憎悪的な性格が強調されている[57]。しかし、グラスゴー大学のクリスティーン・ファーガソンは本書の殺人描写が扇情的だと主張し、女性憎悪犯罪が超常的な歴史の必然として扱われていることを問題視した[28][129][131]。ファーガソンによると本書は反権力・カウンターカルチャーの姿勢を盾にしたミソジニーの発露だった[57]。一方でアルバータ美術大学英語版のアレックス・リンクによると、作者ムーアは「切り裂きジャック」が文化的産物であることを十分に認識しており、殺人行為の基盤にある階級格差を作中ではっきりと描写している[129]アグデル大学のマイケル・プリンスは、本作が家父長思想に支えられた組織的な性暴力の構造を暗に描いていると主張した[28]。物語の終盤に登場してガルの霊体をたじろがせる女性は、家母長的な文化の存続を示唆するとされた[28][129]。ムーアのスクリプトでは、その女性が告発の視線を投げかけるのはガルだけではなく、画面の向こうの「私たち」でもある[57]

魔術論

魔術と神秘思想は本作の大きな部分を占めている。評論家夏目房之介は「最後の殺人に向かって徐々に異常をきたし、ついに幻視から実際に時空を超えてゆく圧倒的な描写」を「圧巻」と呼んでおり[91]、翻訳者柳下毅一郎はガルの魔術的行為が描かれる二章を「白眉」としている[51]

作者ムーアは実人生でも「魔術師」と名乗って魔術を実践していることで知られる。そのきっかけとなったのは本作の執筆だった。作中、主人公のガルは「議論の余地なく神々が存在する場所、それは我らの精神の中だ」というセリフを口にする[132]。ムーアは自分が書いた言葉が真実を言い当てていると感じ、一つの啓示と受け取った。40歳を目前にして、ムーアは自身の思想を根底から再構築し、その中心に魔術と神秘学を置くことになる[133][134]。共作者キャンベルの説明によると、ムーアが悟ったのは神の実在あるいは不在といったことではなく、想像力の至上性だった[135]。ムーアが言う魔術とは象徴を操る力のことであり[51]、想像力が世界と相互作用する芸術という行為はそれだけで魔術そのものだった[136]。この転回には、『ウォッチメン』や『フロム・ヘル』のような徹底した計算に基づく作風がいつか形骸化することを恐れていたムーアが新しい方法論を求めたという面もある[137]。技術や論理よりも直感と感性に頼って「第四の壁」を破り、読者の深奥にアクセスするのがムーアの新しい目標となった[30]。以降の作品には『プロメテア』(1999-2005年)を筆頭に魔術の要素が取り入れられるようになり、あるいは執筆それ自体が魔術の実践となった[138]

数学者・SF作家チャールズ・ハワード・ヒントン。著作『第四の次元とは何か?』が引用されている。

ムーアの魔術的思考の特徴に非単線的な時間感覚がある。柳下によると、ムーアの世界観の中では象徴を通じた因果関係が時間の流れの双方向に伸びており、過去・現在・未来の事象が一体となって「現実のマトリックス」を形作っている[51]。時間はムーアが執着していたテーマの一つで、過去作『ウォッチメン』でもすべての過去と未来を常に知覚しているキャラクター(Dr.マンハッタン英語版)が登場していた[139][140]。『フロム・ヘル』ではこの時間観がプロットの中核を占めており[139]、物語の序盤で主人公ガルの友人ジェームズ・ヒントンの息子ハワードが唱えた数学的な時間理論が紹介される。それによると、時間は全体として一つの構造物であり、流れていくように見えるのは人間の知覚の限界でしかない。互いに無関係に見える一連の事象も、四次元世界の幾何学形状が三次元世界に落とした影である。作中の言葉によると歴史には「建築構造がある」[141]。それを裏付けるように、作中でガルは未来の20世紀世界を幻視し、過去や未来の事件に干渉する。

ストーリー構成と演出

ストレートなストーリーテリングが志向されており、ムーアのスーパーヒーロー作品で顕著なメタフィクション性は弱められている[142]。広範な歴史的引喩が行われている一方で、後年の作品『リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン』のように先行作品のマッシュアップは行われておらず[143]、『プロメテア』のようにコミックメディアによる論説といった性格も薄い[4]

ムーアの過去作『ウォッチメン』と同じく、全編を通じてページ9分割を基本とした均質なコマ割りが行われており[4]、そのフォーマットの枠内で様々な演出が行われている。連続するコマが交互に二つの異なる出来事を描写するカットバックの技法は『Vフォー・ヴェンデッタ』などでも見られる特徴的なものである[144]。第8章32ページは3×3のマス目がカットバックによってチェス盤状に分けられ、縦横斜めどの方向に読んでも違和感がないように構成されている[145]。またいくつかの章の第1ページは、一見すると互いに脈絡のないコマが並んでいるだけに見える。しかし読み進んでいくと、それらのコマは後のページから無作為に切り取られたのだとわかる。この語りの手法には、主人公のガルが魔術的に時間を飛び越えるストーリーと並んで、読者の単線的な時間感覚を攪乱する意図があると分析されている[72]

物品のモチーフが反復されるのもムーア作品の特徴の一つである。本作ではブドウ、鋭利な器具、臓物などが様々なシーンで陰に陽に描かれている[114]。ブドウはガルの宗教的使命感と結び付けられており、心臓発作とともに神の啓示を垣間見るシーンや[146]、ロンドンの象徴を巡るツアー[34]、最初の殺人[147]などをつなげている。『タブー』連載時には、毎号に添えられたイラストのブドウが少しずつ減っていくことが結末へのカウントダウンとなっていた[148]。モチーフの反復は何かに追いかけられているような不安感を醸し出すだけでなく、「時間の構造性」のテーマを補強する役割も持っている[114]

作者らの間には、近代コミック特有の映画的な語りの技法は題材にそぐわないという認識があった[39]。特にエディ・キャンベルはかねてから「映画から無批判に取り入れられた」コミックの技法に違和感を持っていた。その最たるものは、仮想的なカメラをあちこち動かしながら短いショットをつないでいくコマ割りの文法である。そのようなウィル・アイズナー的なカットの多用は絵のロジックを寸断してしまうというのがキャンベルの持論だった。キャンベルが描きたいのは人体が細やかなボディーランゲージを交わす様子であり、そのためにはすべての動きを連続的に画面に収める必要があると考えていた[149]。またキャンベルは映画的で奇抜な視点からの構図も避けようとした。たとえばあるシーンでは[† 7]、無人の部屋を覗き込む警官を窓越しに見返す構図を指示されたのにもかかわらず、屋外の警官をすぐ横から観察する位置にカメラを置いた[150]。そのほか、登場人物の内心や画面外での会話などを伝えるキャプション(映画でいうボイスオーバー)も本作では排除されている[151]

ムーアは従前の「切り裂きジャック」物語では犠牲者が個性を備えた人間として扱われてこなかったと発言している[152]。本作における売春婦の描写は、「毒々しく官能的な美女」や、逆に「歯抜けの醜い老婆」ではなく、その年齢の平凡な女性が職業的な要請に従ってできるだけ美しく装った姿として意図されている[153]。ムーアは猟奇的な殺人行為を描くにあたっても、既存作品のように「ほとんどポルノと同じ」ショッキングで扇情的な描写は避けようとした。現実に起こったことを虚心に、苦痛を伴うほど正確に細部まで再現することが犠牲者への敬意だと考えていたのだった[99]。これらの描写からは「怒りと共感」が読み取られている[154]。大衆文学の授業で『フロム・ヘル』を扱っているオクラホマ州立大学のマーティン・ウォレンは、「[本作は]切り裂きジャック事件を扱った作品につきものだった扇情性を、暴力とセンセーショナリズムに魅了される我々についての自覚的な比評に変えてみせた。… 我々はこの作品を通して、煽情的な文学や映画が持つ搾取性について語ることができる」と述べている[155]

作画スタイル

連続殺人を警戒する自警団の活動を伝える報道画(1888年)。エディ・キャンベルは本作でヴィクトリア朝当時の画風を再現しようとした。

エディ・キャンベルが本作に提供した絵は、走り書きのように引かれた多量の線を特徴とするスケッチ風のもので、一般的なコミックブックと比べてはるかに冷たい印象を与えた[4][72][156]。そこには19世紀末当時に描かれた報道画の粗い画風を再現する意図があった[3]。第2章と第10章では、リネンのような質感の紙に黒インクで描いた上から白クレヨンでぼかしを入れることで20世紀初頭の風刺漫画に似せる試みがなされた[157]。これらのアートは煤けて陰鬱なヴィクトリア朝ロンドンの雰囲気を見事に醸出しており[68]風間賢二は「十九世紀末ロンドンの煤煙とブロードサイドのインクとで描いたような、映画のストーリー・ボードを思わせるスケッチ風のミニマルな絵」と表現している[158]。いくつかのシーンでは、粗い描線で描かれた貧民街のコマの間に、柔らかくぼかしたタッチの上流生活が差し挟まれ、効果的な対比を作り出している[71]。2018年のカラー版シリーズでも、オリジナルの質感を崩さないように19世紀末の印刷物に近い沈んだ色合いが用いられた。鮮明な赤だけがその例外だった[68]

ムーアは共作者キャンベルの貢献を高く評価しており、一見ラフな描線によって人間の感覚的な経験を自然に写し取る作風が題材に合っていたという[99][109]。ムーアによると、本書で描かれるのは扇情的なホラーコミックの世界ではなく、日常と地続きだと信じられるリアルな世界である[99]。読者に恐怖を与えるべきシーンでも、キャンベルは大げさな視覚的演出を用いず、事実を事務的に伝えるかのように描写する。「それがありふれた行為だという感覚」は、残虐行為の恐ろしさをはるかに純粋に感じさせることになる[109]。感情に訴えず、平静な視点からの描写に徹するのはキャンベルのモットーでもあった[116]

日本漫画との比較論

本作は同時代の日本漫画とはコマ割りの文法が異なっており、日本の書評家の多くが特徴的な9等分のレイアウトに触れている[160][161]。日本語版の出版を企画したみすず書房の編集者は、日本漫画がダイナミックなコマ割りを用いた映画的なストーリーテリングを特徴とするのに対し、『フロム・ヘル』の画面は均質で静的に見えるという。読者はそれにより、文章を行間まで読み込んだり、物語全体の構造に思いをはせるような「文芸作品に近い読み方」を促される[93]。翻訳者の柳下もアクション描写の違いを指摘して「日本のマンガでこういうコマ割りってありえない」と述べている。日本の漫画ならば一枚絵の中に動きを取り入れて表現するところを、『フロム・ヘル』では何気ない動きを複数のコマに割って中間を想像させる。そのようにして時間をかけて読んでいくことで、初めてコマに込められた情報量の多さを味わえるのだという[162]。評論家上野昂志は「コマ割りされた静止画のもたらす緊迫感」「「グラフィック・ノベル」のダイナミズムは … 流動的な動き主体のマンガからは失われたものかもしれない」と述べた[163]。漫画評論家夏目房之介は作品への引き込まれ方が小説を思わせると述べた[91]

作家瀬名秀明は第一印象を「クセのある絵柄と難解な展開」と言いつつ、いったん表現技法になじむと「神業の如き技巧に精神を抉られっぱなし」と評した[164]。近代イギリス文学の研究者富山太佳夫は「日本のコミックスに特有の顔のアップも、低級なエロっぽさも、笑うに笑えないユーモアもない。まさしく歴史の雰囲気がある」と述べ、特にセリフの奥深さを称賛した[89]

社会的評価

受賞

『フロム・ヘル』はアイズナー賞を複数回受賞している。部門は最優秀定期刊行作品(1993年)、最優秀原作者(1995年、1996年、1997年)、最優秀グラフィック・アルバム(再刊)(2000年)である。コミックブックシリーズは1995年にハーヴェイ賞国際ホラーギルド賞英語版を受賞している[111][165][166]。1997年にはスモール・プレス・エキスポ英語版イグナッツ賞を受けた[167]。同年に『コミックス・バイヤーズ・ガイド英語版』誌の読者選出賞でリミテッド・シリーズ部門の最多得票を獲得し、2000年には単行本が再刊グラフィックノベル部門を受賞している[71]。2001年アングレーム国際漫画祭では、エディショ・デルクールフランス語版から刊行されたフランス語版が「批評家賞フランス語版」を受けた[168]

原語版

ファンや批評家の間では『ウォッチメン』などと並んでアラン・ムーアの代表作とみなされており[24][129][169]、最高傑作に挙げられることも多い[83][170][171][172]。『コミックス・ジャーナル』誌は本作をムーアの「もっとも完成され、もっとも野心的な」作品と呼んだ[154]

アメリカのコミック界では、本作がコミックメディアによる表現を大きく広げたという評価がある。研究者チャールズ・ハットフィールドらは[173]、「グラフィックノベルの可能性を示すプロトタイプとなった」「誰もが知るランドマーク的作品」と述べ、2000年前後を代表する傑作だとした[174]。グレッグ・カーペンターは本作が「コミックメディアに限界がないことを示した」と書いている[170]。ウェブマガジン『スレート英語版』はコミック史における本作の位置づけを映画『市民ケーン』に例え、大人向けのコミック作品が一種のブームになった90年代においても重層性と革新性は突出していたと評した[68]風間賢二は「グラフィックノベル」を一般のアメリカン・コミックと異なる文学的なものと説明し、本作をその区分の「代表作にして、今日までの最高傑作」とした[158]

日本語版

2009年に出た日本語版の評価は高く、「前代未聞の怪作」(中条省平[90])、「異常な大作」(大森望[163])、「こんなにすごいマンガ、正直なところ、初めて見た」(冨山太佳夫[89])、「今年の翻訳物で一番の話題作にして傑作」(豊崎由美[163])など、多数の新聞・雑誌で絶賛された[160][163]。『このマンガを読め!』では第16位、『このミステリーがすごい!』では海外部門第20位にランクインしている[163]。売れ行きの面でも好調で、5000部が標準とされる海外漫画の中では異例の2万4000部が発行された。その理由としては、文学愛好者にアピールする内容だったことや、映画評論で知られる柳下が翻訳したことにより、海外漫画の固定ファンだけではなく広い読者層に受け入れられたためだと分析されている。本作がヒットしたことで、文学・映画・美術ファンを対象読者としてバンド・デシネ(フランス語漫画)を翻訳出版する動きも生まれた[175]

映画版

フロム・ヘル
From Hell
監督 アルバート・ヒューズ
アレン・ヒューズ
脚本 テリー・ヘイズ
ラファエル・イグレシアス
原作 アラン・ムーア
エディ・キャンベル
製作 ジェーン・ハムシャー
ドン・マーフィ
製作総指揮 トーマス・M・ハメル
アルバート・ヒューズ
アレン・ヒューズ
エイミー・ロビンソン
出演者 ジョニー・デップ
音楽 トレヴァー・ジョーンズ
撮影 ピーター・デミング
編集 ダン・リーベンタル
ジョージ・ボワーズ
配給 20世紀フォックス
公開 アメリカ合衆国の旗 2001年10月19日
日本の旗 2002年1月19日
上映時間 123分
製作国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語 英語
製作費 $35,000,000[176]
興行収入 $31,602,566[176] アメリカ合衆国の旗カナダの旗
$74,558,115[176] 世界の旗
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概要

2001年にヒューズ兄弟の監督による映画版『フロム・ヘル』が公開された。原作では脇役だったアバーライン警部をジョニー・デップが主演した。映画化は原作の完結前、1994年ごろから断続的に企画されており[177]、原作者アラン・ムーアは脚本執筆を打診されたが興味を示さなかった[133]。完成した映画は原作と大きく異なり、犯人捜しに力点を置いたサスペンス作品となった。アバーラインとメアリー・ケリーのロマンスが前面に出され、社会批評の要素は除かれ、ロンドンの貧民街や殺害シーンの描写には扇情性が追加された[178][179]。映画ファンからの評価は低く、レビュー集積サイトRotten Tomatoesでは57%の点数がついた[180]

ストーリー

1888年のロンドンが舞台。残虐な娼婦連続殺人事件が発生し、アバーライン警部が捜査に当たる。数年前に妻子を亡くしてから無気力、そして刹那的に生きていた彼は、捜査の途中で出会った赤毛の娼婦メアリーと惹かれあうようになる。被害者たちの知られざる共通項と、この殺人事件の裏にフリーメイソンが関わっているのを嗅ぎ付けたアバーライン警部だが、殺人者の手はメアリーにも伸びていた。

スタッフ

キャスト

役名 俳優 日本語吹替
ソフト版 テレビ東京
フレッド・アバーライン警部 ジョニー・デップ 平田広明
メアリ・ケリー ヘザー・グラハム 日野由利加 甲斐田裕子
ウィリアム・ガル卿 イアン・ホルム 石森達幸 稲垣隆史
ネトリー ジェイソン・フレミング 仲野裕 清水明彦
ピーター・ゴットレイ巡査部長 ロビー・コルトレーン 福田信昭 玄田哲章
リズ・ストライド スーザン・リンチ 野沢由香里 山像かおり
ケイト・エドウズ レスリー・シャープ 竹村叔子
アン・クルーク ジョアンナ・ペイジ 棚田恵美子
ベン・キドニー テレンス・ハーヴェイ 長克巳 堀勝之祐
ハーシャム卿 ピーター・アイア 岡和男
フェラル医師 ポール・リース 高瀬右光 内田直哉
ポリー・ニコルズ アナベラ・アプション 梅田貴公美 根本圭子
マーサ・タブラム サマンサ・スパイロ よのひかり
アルバート・シッカート マーク・デクスター 河野智之
ロバート・ドラッジ検視官 イアン・マクニース 三宅健太 長克巳
ヴィクトリア・アバーライン ソフィア・マイルズ
ウィザーズ巡査 ダニー・ミッドウィンター 坪井智浩
マックイーン デヴィッド・スコフィールド 内田聡明 金尾哲夫
アダ エステル・スコルニク 落合るみ
ボルト ニコラス・マゴーヒー 隈本吉成
ダーク・アニー・チャップマン カトリン・カートリッジ 彩木香里
チャールズ・ウォーレン卿 イアン・リチャードソン 松岡文雄 大木民夫
ジョン・メリック アンソニー・パーカー
ヴィクトリア女王 リズ・モスコープ

テレビ版

2014年、FXが本作のドラマシリーズを製作中だということが報じられた。映画版をプロデュースしたドン・マーフィー英語版がエグゼクティブプロデューサーとなり、デイヴィッド・アラタ英語版が脚色を務める計画だという[181]

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ 原題 Lud Heat: A Book of the Dead Hamlets
  2. ^ 原題 White Chappell, Scarlet Tracings
  3. ^ このオベリスク自体はダニエル・デフォーを記念して建立されたものである。
  4. ^ 作者は執筆当時のウェールズ公妃ダイアナがセント・ポール大聖堂で皇太子と結婚式を挙げたことを意識していた[50]
  5. ^ ムーアはナイト説をそのまま踏襲したわけではない。実行犯の一人とされていたウォルター・シッカートの役割は縮小され、私生児の母親が王族との結婚が禁じられたカトリック教徒だったという主張も捨てられた[105]
  6. ^ パブ(実在の店テン・ベルズ英語版)でアバーライン警部と出会うエマと名乗る女性はその一例[119]
  7. ^ アバーライン警部が殺害現場となった部屋を覗きこむシーン(ムーア 2009a, ch.11, p.5)。

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参考資料

外部リンク

原作版
映画版