コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「イル川渡河戦」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
m 外部リンクの修正 http:// -> https:// (www.ibiblio.org) (Botによる編集)
 
(16人の利用者による、間の31版が非表示)
4行目: 4行目:
|campaign=ソロモン諸島の戦い
|campaign=ソロモン諸島の戦い
|image= [[File:GuadTenaruSandbar.jpg|300px]]
|image= [[File:GuadTenaruSandbar.jpg|300px]]
|caption= 1942年8月21日の戦闘後、イル川砂州に横たわる一木支隊将兵。
|caption= 戦闘後、イル川砂州に横たわる一木支隊将兵の遺体
| conflict=[[太平洋戦争]] / [[大東亜戦争]]
| conflict=[[太平洋戦争]]
|date=[[1942年]][[8月21日]]
|date=[[1942年]][[8月21日]]
|place=[[ソロモン諸島]][[ガダルカナル島]]
|place=[[ソロモン諸島]][[ガダルカナル島]]
13行目: 13行目:
|commander1=[[アレクサンダー・ヴァンデグリフト|A.ヴァンデグリフト]]<br/>{{仮リンク|クリフトン・ケイツ|en|Clifton B. Cates}}
|commander1=[[アレクサンダー・ヴァンデグリフト|A.ヴァンデグリフト]]<br/>{{仮リンク|クリフトン・ケイツ|en|Clifton B. Cates}}
|commander2=[[百武晴吉]]<br/>[[一木清直]] {{KIA}}
|commander2=[[百武晴吉]]<br/>[[一木清直]] {{KIA}}
|strength1=3,000<ref group="注">Smith, ''Bloody Ridge'', p. 14–15, Jersey, ''Hell's Islands'', p. 209. この戦闘には、海兵隊3大隊(各大隊約900名)の他、特殊兵器部隊、師団砲兵隊などが参加した。</ref>
|strength1=3,000{{#tag:Ref|Smith, ''Bloody Ridge'', p. 14–15, Jersey, ''Hell's Islands'', p. 209. この戦闘には、海兵隊3大隊(各大隊約900名)の他、特殊兵器部隊、師団砲兵隊などが参加した。|group="注"}}
|strength2=916{{#tag:Ref|一木支隊先遣隊:支隊本部163名、大隊本部23名、第1~第4中隊(各105名)、機関銃中隊(機関銃8)110名、大隊砲小隊(歩兵砲2)50名、工兵中隊150名、合計916名{{Sfn|平塚、米軍記録|1995|p=72}}。|group="注"}}{{#tag:Ref|917とも<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 147 & 681.</ref>。|group="注"}}
|strength2=917<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 147 & 681.</ref>
|casualties1=戦死 41–44<ref group="注">Smith, ''Bloody Ridge'', p. 71. Smithによると、38名は戦闘中に死亡、3名はブラッシュ大尉率いる部隊の偵察任務中の戦死である。Frankによると、41名が戦闘中に死亡、偵察任務では3名死亡とされている。</ref>
|casualties1=戦死 41–44{{#tag:Ref|Smith, ''Bloody Ridge'', p. 71. Smithによると、38名は戦闘中に死亡、3名はブラッシュ大尉率いる部隊の偵察任務中の戦死である。Frankによると、41名が戦闘中に死亡、偵察任務では3名死亡とされている。|group="注"}}
|casualties2=戦死 774–777<br/>捕虜 15<ref group="注">Smith, ''Bloody Ridge'', p. 73. Smithによると、第1梯団917名のうち生存者は128名、捕虜15名であるので、差し引き774名が戦死したものとしている。</ref><ref group="注">Frank, ''Guadalcanal'', p. 156 & 681. Frankによると戦死777名である。</ref>
|casualties2=戦死 774–777<br/>捕虜 15{{#tag:Ref|Smith, ''Bloody Ridge'', p. 73. Smithによると、第1梯団917名のうち生存者は128名、捕虜15名であるので、差し引き774名が戦死したものとしている。|group="注"}}{{#tag:Ref|Frank, ''Guadalcanal'', p. 156 & 681. Frankによると戦死777名である。|group="注"}}
}}
}}
'''イル川渡河戦'''(イルがわとかせん、{{lang-en|Battle of the Ilu River}})は、[[太平洋]]中の[[1942年]]([[昭和]]17年)[[8月21日]]、[[ガダルカナル島]]において[[日本軍]]と[[アメリカ合衆国]][[アメリカ海兵隊|海兵隊]]を主力とする[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]との間に起きた陸上[[戦闘]]。'''テナルの戦い'''({{lang-en|Battle of the Tenaru}})、'''アリゲーター・クリークの戦い'''({{lang-en|Battle of Alligator Creek}})とも呼ばれ、[[ガダルカナル島の戦い]]における日本軍最初の大規模反攻でもあった。
'''イル川渡河戦'''(イルがわとかせん、{{lang-en|Battle of the Ilu River}})は、[[第二次世界大戦]]中の[[1942年]]([[昭和]]17年)[[8月21日]]、[[ガダルカナル島]]において[[日本軍]]と[[アメリカ合衆国]][[アメリカ海兵隊|海兵隊]]を主力とする[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]との間に起きた陸上[[戦闘]]。'''テナルの戦い'''({{lang-en|Battle of the Tenaru}}){{Sfn|ニミッツ|1962|p=120}}、'''アリゲーター・クリークの戦い'''({{lang-en|Battle of Alligator Creek}})とも呼ばれ、[[ガダルカナル島の戦い]]における日本軍最初の大規模反攻でもあった。


[[アレクサンダー・ヴァンデグリフト]][[少将]]を指揮官とする[[アメリカ海兵隊|米海兵隊]][[第1海兵師団 (アメリカ軍)|第一海兵師団]]は、1942年[[8月7日]][[フロリダ諸島の戦い|ガダルカナル島に上陸]]し、[[ルンガ岬]]に日本軍が建設中であった[[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]を奪取してこの防衛にあたっていた{{Sfn|ニミッツ|1962|p=111}}。日本軍のガダルカナル島守備隊は飛行場西側のマタニカウ河に撤退して海軍本部を設置した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=300}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=160a-161|ps=ガ島所在部隊の状況}}{{#tag:Ref|第二款 米軍の反攻と海軍部隊の状況 八月七日四時ソロモン群島のガダルカナル島及ツラギは突如空、海よりする猛烈なる爆撃及艦砲射撃を受け正午頃敵は空爆及艦砲射撃掩護の下にコリ岬附近に上陸を開始せり/當時ガダルカナル島にはルンガ附近に海軍守備隊約二五〇名の他海軍設營隊(工員約一六〇〇名を主體とす)あり別にツラギには守備隊約一中隊ガブツ島には約一小隊ありしか在ガダルカナル島海軍部隊は敵の上陸に伴ひルンガ南方山地に退避し十二日に至りマタニカウ河西方約三[[キロメートル|粁]]の海軍本部陣地に後退せり/當時第四艦隊と交代し南東太平洋方面に進出しありし第八艦隊司令長官及第十一航空艦隊司令長官は七日四時二十分ツラギより「敵猛爆中」の第一報を得次で『敵の多數船團は有力なる航空部隊及護衛艦艇協力の下にガダルカナル島及ツラギに奇襲上陸し現地警備隊及設營隊は苦戰中にして六時頃にはツラギ守備隊は最後の決意を爲せる』旨報告に接し直ちに航空部隊を以て攻撃すると共に旗艦以下使用し得る輕快艦艇の全力を以て基地航空部隊の攻撃に策應しガダルカナル島に進出して敵を撃滅する如く部署して七日十四時三十分ラバウルを出發し別に在ラバウル陸戰隊の約一中隊を以て増援部隊を編成しガダルカナル島に急派せしめ且第七潜水戰隊の潜水艦をしてガダルカナル島泊地に侵入し船團を襲撃せしめたり/第十一航空艦隊司令長官は八月八日テニヤンよりラバウルに進出せり第八艦隊及第十一航空艦隊は七日より九日に至る間ソロモン海域に於て米英聯合艦隊及輸送船団に猛撃を加へたり/本海戰をソロモン海戰(第一次)と稱呼す帝國海軍の公表に基く戰果左の如し 撃沈 米英甲巡九、乙巡四、驅逐艦九、潜水艦三、輸送船一〇/大破 甲巡一、驅逐艦三、輸送船一{{Sfn|第十七軍作戦(1)|1946|p=30}}|group="注"}}。
[[アレクサンダー・ヴァンデグリフト]][[少将]]を指揮官とする[[アメリカ海兵隊|米海兵隊]][[第1海兵師団 (アメリカ軍)|第一海兵師団]]は、1942年[[8月7日]][[フロリダ諸島の戦い|ガダルカナル島に上陸]]し、[[ルンガ岬]]に日本軍が建設中であった[[ヘンダーソン飛行場]]を奪取してこの防衛にあたっていた。一方、同飛行場の奪還と、ガダルカナル島からの連合軍一掃のための先遣隊として派遣された[[一木清直]][[大佐]]率いる一木支隊第1梯団は[[8月19日]][[未明]]に同島に上陸、このときガダルカナル島全体の連合軍側の戦力はおよそ11,000名であったが日本軍側はこれを2,000名程度と少なく見積もっていた。一木支隊は上陸地点のタイボ岬から西進し、20日深夜にルンガ東部のイル川(米軍呼称:アリゲーター・クリーク)西岸に陣を構えていた米海兵隊に遭遇、21日未明から戦闘が始まったが、兵数・火力に圧倒的な差があり一木支隊は多大な損害を被った。さらに米海兵隊は夜明けを待って残存兵を包囲殲滅し、21日午後一木支隊は壊滅した。この戦いで917名いた一木支隊第1梯団のうち、生き残ったのは後方に待機させ戦闘に直接参加しなかった約100名を含む128名だけであった。指揮官一木大佐も死亡したが、最後の状況については諸説あり定かではない。
日本軍上層部は[[第一次ソロモン海戦]]以降の基地航空部隊の誤認や誤報{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=153}}、[[ソビエト連邦]]駐在武官からの情報等によりガダルカナル島奪回を極めて楽観的しており{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=287-289}}、従来どおり[[ポートモレスビー作戦]]を重要視していた{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=118-119|ps=局地戦とみなした陸軍}}。


一方、同飛行場の奪還と、ガダルカナル島からの連合軍一掃のため、先発隊として[[海軍陸戦隊|横須賀鎮守府第五特別陸戦隊]](司令[[安田義達]]海軍大佐)と[[一木清直]][[大佐|陸軍大佐]]率いる一木支隊が投入された{{Sfn|平塚、米軍記録|1995|pp=70-73|ps=一木支隊悲劇のUターン}}{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=100-101|ps=誰知らぬ南の島}}{{#tag:Ref|横須賀鎮守府第五特別陸戦隊の先発隊113名はラバウルから駆逐艦[[追風 (2代神風型駆逐艦)|追風]]に乗艦し、8月16日[[深夜]]にガダルカナル島に上陸して17日の日中になりガ島残留部隊と合流した{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=104a|ps=横五特主力の「ガ」島奪回作戦の失敗}}。この横五特が、ガ島への最初の増援部隊である{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=533}}。|group="注"}}{{#tag:Ref|(四)一木、川口兩支隊のガ島揚陸掩護作戰及ラビ方面の作戰/先づ陸軍は速に出發し得る第十七軍の一部兵力をガ島に輸送しガ島の要地特に飛行場奪囘に決した 依て聯合艦隊は之が支援の爲内海西部に待機中の主力をガ島北方海域に集中を企圖し[[近藤信竹|近藤]]中蒋指揮下の[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]](前進部隊)は十一日 [[南雲忠一|南雲]]中蒋指揮下の[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]](機動部隊)は十六日、山本聯合艦隊司令長官旗艦[[大和 (戦艦)|大和]]は十七日夫々相次で内海西部を出撃南下すると共に印度洋方面に作戰中の第七戰隊及第三水雷戰隊に對し原隊に合同を命じた<br/>一方南東方面部隊は中央竝に聯合艦隊の作戰方針に基き第十七軍と協議の結果當時[[グァム島|ガム]]に待機中の一木支隊(一木大佐の指揮する歩兵一個聯隊)及[[横須賀鎮守府|横]][[海軍陸戦隊|五特]]を速に推進するに決し先づガ島所在部隊と連絡を圖る爲一木支隊戰闘部隊の大部及横五特の大部を輸送船二隻に乗船全艦隊支援の下に二十位日ガ島に揚陸せしむることとした<br/>横五特の一部は十七日タサファロングに一木支隊先遣隊は十八日タイボ岬に何れも抵抗を受くることなく上陸に成攻し横五特の一部は所在海軍守備隊との連絡に成功した 一木支隊先遣隊は上陸後 機を失せず飛行場奪囘行動に移つた{{Sfn|南東方面海軍作戦(1)|1947|p=10}} |group="注"}}。
日本軍はこの戦いの後、上陸したガダルカナル島の連合軍戦力が当初の想定を超える規模であることを知り、ヘンダーソン飛行場奪還のため逐次部隊を送り込んでいった。
一木支隊は先遣隊(第1梯団、916名){{#tag:Ref|第十七軍参謀松本中佐は十四日同島に派遣せられ右軍命令の要旨を支隊長に傳達すると共に支隊長と協議の上左の如く先遣隊(第一梯團)の兵力編組を決定せり/先遣隊(第一梯團)の兵力編組 支隊長 一木大佐/支隊本部(一六三名)/大隊本部(一二名)/第一乃至第四中隊(各中隊一〇五名)/機關銃中隊(MG八)( 一一〇名)/大隊砲小隊(BiA二)( 五〇名)/工兵中隊( 一五〇名)/計九一六名{{Sfn|第十七軍作戦(1)|1946|pp=34-35}}|group="注"}}と後続部隊(第2梯団、約1500名)に分割された{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=157b-158|ps=一木先遣隊の輸送}}、一木大佐直率の先遣隊は[[陽炎型駆逐艦]]6隻に分乗して[[8月16日]]に[[チューク諸島|トラック泊地]]を出発{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|p=101a|ps=即時、ガ島を奪回せよ}}。
[[8月19日]][[未明]]にガダルカナル島タイボ岬(飛行場の東側約35km地点)に上陸した{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|pp=101-110|ps=混乱した海軍部隊の指揮・陸軍部隊との連携}}{{#tag:Ref|先遣隊は十八日夜半タイボ岬附近に上陸し二十三時上陸點附近に集結を完了す{{Sfn|第十七軍作戦(1)|1946|p=36}}|group="注"}}。
このときガダルカナル島全体の連合軍側戦力は約11,000名であったが{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=101}}、日本軍側はこれを2,000名程度と少なく見積もっていた{{Sfn|城英一郎日記|1982|p=179|ps=(昭和17年8月24日記事)(中略)「ガダルカナル」の敵兵約二〇〇〇、一木先遣隊、(飛行機)場攻撃中なるが如し、相当被害を受く。(以下略)}}{{#tag:Ref|先遣隊は十六日五時驅逐艦六隻に依りトラツクを出航し南路ガダルカナル島に向ふ此の間諸情報を綜合するにガダルカナル島に上陸せる敵兵約二千にして其の戰意は旺盛ならさるものの如く一部はツラギ方面に退避しつつあるを知るの外[[ソビエト連邦|蘇聯邦]]駐在武官報は米軍のガダルカナル島方面作戰の目的は日本軍の飛行基地破壊に在りて此の目的を達成せる米軍は目下日本海空軍の勢力下に在る同島よりの脱出に腐心しありと傅ふ{{Sfn|第十七軍作戦(1)|1946|pp=35-36}}|group="注"}}。

一木支隊先遣隊攻撃直前の[[8月20日]]、ヘンダーソン飛行場に[[戦闘機]]と[[急降下爆撃機]]、計31機が進出した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=119}}。
同20日深夜、タイボ岬から西進をつづけていた一木支隊先遣隊はルンガ東部のイル川(米軍呼称:アリゲーター・クリーク)西岸に陣を構えていた米海兵隊に遭遇する{{#tag:Ref|附圖第二 一木支隊第一梯團中川付近戰闘經過要圖/地形ノ概要 1.海岸ハ一面ノ椰子植林{距離間隔約五[[メートル|米]]ニテ通視及射撃ヲ妨ケス/2.中川ノ河口ハ砂ノ爲閉鎖セラレアリ/3.中川左岸地区ハ右岸ニ比シ臺地状ヲ呈ス/4.海濱ハ通過極メテ容易ナリ/敵兵力 1.第一線兵力約三〇〇/2.迫撃砲三-四門/3.側防火器三(掩蓋ヲ有ス)/4.海上ヨリ砲四門/5.15[[榴弾砲|H]]約四門{{Sfn|第十七軍作戦.附図|1946|p=9}}|group="注"}}。
[[8月21日]]未明から戦闘が始まったが、兵数・火力に圧倒的な差があり一木支隊は多大な損害を被った{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=306a-310|ps=一木支隊の攻撃失敗}}。さらに米海兵隊は夜明けを待って[[戦車]]を投入し、残存日本兵を包囲殲滅した{{Sfn|第十七軍作戦.附図|1946|p=9}}。同21日午後、一木支隊先遣隊は壊滅した{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=166a-167|ps=一木支隊の戦闘}}。この戦いで916名いた一木支隊先遣隊のうち日本側記録777名が戦死、生き残ったのは後方に待機していた約100名を含む128名だけであった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=536}}。指揮官一木大佐も死亡したが、最後の状況については諸説あり定かではない{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=101b-102|ps=一木先遣隊の壊滅}}{{#tag:Ref|大本営陸軍部参謀[[辻政信]]中佐によれば、一木清直大佐は[[軍旗]]を焼いて[[切腹]]した{{Sfn|高松宮と海軍|1999|pp=130-131}}|group="注"}}。

日本軍はガダルカナル島奪回作戦を「少数の陸軍部隊で容易に実現できる」と考えていた{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=287-289}}。だが8月20日のヘンダーソン飛行場使用開始により、ガ島周辺の[[制空権]]を掌握されてしまう{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=16-17|ps=昭和17年8月20日 ガ島飛行場に海兵隊機進出}}。つづく一木支隊先遣隊の大損害により、飛行場奪回の見込みが立たなくなった{{#tag:Ref|一方ガ島陸上に於ては一木支隊先遣隊がテナル河西方に於て敵有力部隊と遭遇苦戰中にして飛行場奪囘に見込立たざるに至つた{{Sfn|南東方面海軍作戦(1)|1947|p=11}} |group="注"}}。日本軍はガダルカナル島の連合軍戦力が当初の想定を超える規模であることを認識し、ヘンダーソン飛行場奪還のため逐次部隊を送り込んでいったものの[[第二次ソロモン海戦]]で低速の輸送船団が空襲をうけて撃退され{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=330-331|ps=二十五日―船団空襲を受ける}}、一木師団第二梯団の上陸は中止された{{Sfn|平塚、米軍記録|1995|pp=84-88|ps=第二次ソロモン海戦/一木師団第二梯団の上陸中止}}。このあと、日本軍のガ島輸送は[[駆逐艦]]による[[鼠輸送]](東京急行)に頼らざるを得なくなった{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|p=102a|ps=「ネズミ輸送」でガ島へ}}{{Sfn|ニミッツ|1962|p=123}}。


== 背景 ==
== 背景 ==
{{see also|ガダルカナル島の戦い}}
[[1942年]][[8月7日]]、米軍は[[ソロモン諸島]]内の[[ガダルカナル島]]、[[ツラギ島]]および[[フロリダ諸島]]に上陸した。これは、これらの島嶼が日本軍の[[軍事基地]]となって米豪間の[[兵站|補給ルート]]を脅かすことを阻止するためであり、他方[[ニューギニアの戦い]]を支援して最終的には日本軍の[[ラバウル]]基地を孤立させるための拠点とする意図もあった。この「[[フロリダ諸島の戦い]]」がその後6ヵ月の長きにわたる[[ガダルカナル島の戦い]]の始まりである<ref>Hogue, ''Pearl Harbor to Guadalcanal'', p. 235–236.</ref>。
=== ガダルカナル島 ===
[[File:VandegriftDesk.jpg|thumb|第1海兵師団[[アレクサンダー・ヴァンデグリフト|ヴァンデグリフト]]少将]]
[[File:VandegriftDesk.jpg|thumb|300px|第1海兵師団[[アレクサンダー・ヴァンデグリフト|ヴァンデグリフト]]少将]]
連合軍は[[奇襲]]を成功させ、初期目的である[[ツラギ島]]とその近隣島嶼を確保、[[8月8日]]の日没までにはガダルカナル島[[ルンガ岬]]に日本軍が建設中で完成間近であった飛行場を占拠した<ref>Morison, ''Struggle for Guadalcanal'', pp. 14–15.</ref>。8日夜、米輸送船からの物資揚陸作業中、輸送船を護衛していた連合軍艦隊が日本海軍[[三川軍一]][[中将]]率いる[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]の巡洋艦7隻、駆逐艦1隻と交戦、連合軍側は巡洋艦4隻(米3隻、豪1隻)が撃沈、米巡洋艦1隻と駆逐艦2隻が大破するなど多大な損害を被った。([[第一次ソロモン海戦]]。)[[リッチモンド・K・ターナー]]少将は[[8月9日]]夕刻までに、残る重機、食糧、兵の揚陸を断念し海軍戦力すべてを撤退させた。このとき、32門の[[M116 75mm榴弾砲|75mm榴弾砲]]と[[M101 105mm榴弾砲|105mm榴弾砲]]からなる砲兵大隊は揚陸済みであったが、食糧は5日分しか揚陸できなかった<ref>Zimmerman, ''The Guadalcanal Campaign'', p. 49–56.</ref><ref>Smith, ''Bloody Ridge'', p. 11 & 16.</ref>。
[[1942年]](昭和17年)[[8月7日]]、連合国軍は[[ウォッチタワー作戦]]により[[ソロモン諸島]]内の[[ガダルカナル島]]、[[ツラギ島]]および[[フロリダ諸島]]に来攻{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=74-75|ps=ウォッチタワー作戦}}、[[アメリカ海兵隊]]が上陸した{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=438-439|ps=ガダルカナル島及びツラギ上陸}}。これは、これらの島嶼が日本軍の[[軍事基地]]となって米豪間の[[兵站|補給ルート]]を脅かすことを阻止するためであり、他方[[ニューギニアの戦い]]を支援して最終的には日本軍の[[ビスマルク諸島]][[ニューブリテン島]][[ラバウル]]基地をめざすための拠点にする意図もあった{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=102-106|ps=ガダルカナル}}。この「[[フロリダ諸島の戦い]]」がその後6ヵ月の長きにわたる[[ガダルカナル島の戦い]]の始まりである<ref>Hogue, ''Pearl Harbor to Guadalcanal'', p. 235–236.</ref>。


連合軍は[[奇襲]]に成功し、第1海兵師団はガダルカナル島に無血上陸した{{Sfn|平塚、米軍記録|1995|pp=28-35|ps=日本軍守備隊はなぜ沈黙しているのか}}。[[8月8日]]の日没までにはガダルカナル島[[ルンガ岬]]に日本軍が建設中で完成間近であった飛行場を占拠した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=111}}<ref>Morison, ''Struggle for Guadalcanal'', pp. 14–15.</ref>。日本軍のガ島守備隊は設営隊員約2570名(第十一設営隊1350名{{Sfn|土井|2009|p=40|ps=第十一設営隊の人数は資料により差異あり。作業員1350名、将兵230名とも。}}、第十三設営隊1221名){{Sfn|戦史叢書77|1974|p=133}}と守備隊247名、ツラギ守備隊は第八根拠地隊の第八十四警備隊約400名、ガブツ島は[[横浜海軍航空隊]]342名と設営隊員144名を擁していた{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=498|ps=ガダルカナル島及びツラギ所在部隊の戦闘}}。ツラギ守備隊と横浜海軍航空隊は、小数の捕虜をのぞき[[玉砕]]した{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=260-263|ps=ツラギ所在部隊の戦闘}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=500-503|ps=ツラギ方面の戦闘}}。
ガダルカナル島に上陸した海兵隊[[第1海兵師団 (アメリカ軍)|第1海兵師団]]は、はじめ奪取した飛行場のある[[ルンガ岬]]周辺に防衛線を構築することに注力し、物資の搬入と飛行場の完成を急いだ。指揮官ヴァンデグリフト[[少将]]は防衛線内に約11,000名を配置し、4日間かけて物資を揚陸地点から防衛線内に分散した集積場へと運び込んだ。飛行場の建設工事は主に日本軍の残した資材を使用して進められた。[[8月12日]]、飛行場は[[ミッドウェー海戦]]で戦死した米海軍パイロット、ロフトン・ヘンダーソン少佐の名をとってヘンダーソン飛行場と名付けられた。日本軍からの鹵獲分もあり、食糧は14日分にまで増えたが、限られた食糧を節約するため1日の食事回数を2回に制限したという<ref>Shaw, ''First Offensive'', p. 13.</ref><ref>Smith, ''Bloody Ridge'', p. 16–17.</ref>。
ガダルカナル島では、生き残った設営隊員や陸戦隊員がジャングルに逃げ込んだ{{Sfn|平塚、米軍記録|1995|pp=35-41|ps=設営隊員の証言}}{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=264-266|ps=ガダルカナル島所在部隊の戦闘}}。残存部隊(第十一設営隊〈隊長[[門前鼎]]大佐〉、第十三設営隊〈隊長[[岡村徳長]]少佐〉、守備隊)は飛行場から撤収して西進、マタニカウ河より西方3~4kmの高地に陣地を構築し、海軍本部とした{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=499|ps=挿図第36、ガダルカナル島所在部隊行動概要図}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=157a|ps=挿図第六 ガダルカナル島所在部隊行動概要図}}。残存守備隊はここを拠点にアメリカ海兵隊と交戦することになった{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=160a-161|ps=ガ島所在部隊の状況}}{{Sfn|土井|2009|pp=46-48}}。


{{main|第一次ソロモン海戦}}
8月7日午前8時頃、ラバウルから台南空の[[零式艦上戦闘機|零戦]]17機、第二十五航戦の[[一式陸上攻撃機|一式陸攻]]27機、第二航空隊の[[九九式艦上爆撃機]]9機が相次いで出撃してツラギ島を攻撃。また8日にも、[[第十一航空艦隊 (日本海軍)|第十一航空艦隊]]{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=241-243|ps=第十一航空艦隊の作戦指導}}(司令長官[[塚原二四三]]海軍中将、8月7日時点では[[テニアン島]]所在){{Sfn|戦史叢書77|1974|p=138}}麾下の第二十五航空戦隊(司令官[[山田定義]]海軍少将。軍隊区分においては第五空襲部隊)の零戦15機、陸攻23機がガダルカナル島の米軍輸送船団に対し空襲を敢行した{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=237-241|ps=基地航空部隊の反撃}}{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|pp=95-97}}{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=243-245|ps=八日の戦闘}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=139-140|ps=第五空襲部隊}}。

また、ガダルカナル島奪回の為、海軍陸戦隊519名{{#tag:Ref|ガ島派遣部隊は佐世保鎮守府第五特別陸戦隊、呉鎮守府第三特別陸戦隊、第五特別陸戦隊から抽出され、第八十一警備隊所属の遠藤大尉の指揮を受けていた{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=249}}|group="注"}}を乗せた敷設艦津軽艦長指揮下の輸送部隊(敷設艦[[津軽 (敷設艦)|津軽]]、測量船[[宗谷 (船)|宗谷]]、輸送船明陽丸、第21号掃海艇、第16号駆潜艇)が出撃した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=442}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=138}}。

8月8日夜、[[ルンガ岬]]で輸送船を護衛していた連合軍艦隊は物資揚陸作業中に、日本海軍・外南洋部隊指揮官([[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]司令長官[[三川軍一]]海軍[[中将]])率いる重巡洋艦[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]/旗艦、第六戦隊司令官[[五藤存知]]少将指揮下の第六戦隊([[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]、[[加古 (重巡洋艦)|加古]]、[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]、[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]])、第十八戦隊司令官[[松山光治]]少将の軽巡洋艦[[天龍 (軽巡洋艦)|天龍]]、軽巡洋艦[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]、駆逐艦[[夕凪 (2代神風型駆逐艦)|夕凪]]の急襲を受けた{{#tag:Ref|第八艦隊は1942年7月14日に新編され{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=372-374|ps=第八艦隊の新編}}{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=67-68|ps=第四艦隊と新編第八艦隊との任務分担}}、兵力部署においては外南洋部隊であった{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=68-70|ps=聯合艦隊第二段作戦第二期(後期)兵力部署}}。第八艦隊旗艦「鳥海」は7月30日ラバウル到着{{Sfn|軍艦鳥海航海記|2018|p=201|ps=(昭和17年7月30日記事)}}、陸上庁舎に艦隊司令部を置いた{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=403}}{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=70-71|ps=内南洋部隊の兵力部署及び第八艦隊司令部の進出}}。夕張と夕凪は[[第四艦隊 (日本海軍)|第四艦隊]]隷下の[[海上護衛隊|第二海上護衛隊]]所属。|group="注"}}。帰路、米潜水艦[[S-44 (潜水艦)|S-44]]の雷撃で重巡加古が沈没した{{Sfn|サボ島沖海戦|1998|p=251}}。

連合軍側は巡洋艦4隻と駆逐艦1隻が沈没、巡洋艦1隻と駆逐艦1隻が大破するなど多大な損害を被った{{Sfn|ニミッツ|1962|p=117|ps=第15図 サヴォ島海戦(1942年8月9日)}}{{#tag:Ref|沈没艦は豪巡洋艦[[キャンベラ (ケント級重巡洋艦)|キャンベラ]]、米巡洋艦[[クインシー (CA-39)|クインシー]]、[[ヴィンセンス (重巡洋艦)|ヴィンセンス]]、[[アストリア (重巡洋艦)|アストリア]]、駆逐艦[[ジャーヴィス (DD-393)]]{{Sfn|サボ島沖海戦|1998|p=250}}。損傷艦は米巡洋艦[[シカゴ (CA-29)|シカゴ]]、駆逐艦{{仮リンク|ラルフ・タルボット|en|USS Ralph Talbot (DD-390)}}。|group="注"}}(連合軍側呼称:サボ島海戦)。
輸送部隊は明陽丸が[[セント・ジョージ岬]]付近で米潜水艦[[:en:USS S-38 (SS-143)|S-38]]{{Sfn|サボ島沖海戦|1998|p=50}}の雷撃により沈没、行方不明者342名を出した後{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=251}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=496-497|ps=明陽丸の沈没}}、8日1155に作戦中止命令をうけラバウルに向け反転した{{#tag:Ref|又三川中蒋は敵の奇襲上陸に會し取遭へず陸戰隊を急據ガ島に増援するに決し敵の上陸直後より準備を進め轉用可能の海軍陸戰兵力を各部より抽出し明陽丸、宗谷、津輕外三隻を以て之が輸送中の處八日セントジョージ岬の南方にて明陽丸敵潜の雷撃を受け沈没するに至り遂に本輸送を断念したのである{{Sfn|南東方面海軍作戦(1)|1947|p=9}}|group="注"}}。

アメリカ海軍機動部隊/{{仮リンク|第61任務部隊|en|Task_Force_61}}を指揮する[[フランク・J・フレッチャー]]中将は存在しない日本軍空母機動部隊に恐怖を感じ、[[正規空母]]3隻([[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]、[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]、[[ワスプ (CV-7)|ワスプ]])、新鋭戦艦[[ノースカロライナ (戦艦)|ノースカロライナ]]、重巡6隻、駆逐艦16隻という兵力を擁しながら、上陸支援を打ち切って撤退した{{Sfn|サボ島沖海戦|1998|pp=108-111}}。
空母機動部隊による航空支援を失い、上陸船団を護衛する艦隊が夜戦で大打撃を受け、[[リッチモンド・K・ターナー]]少将はガダルカナル島からの撤退を開始した{{Sfn|サボ島沖海戦|1998|p=251}}。[[8月9日]]夕刻までに、残る重機・食糧・兵の揚陸を断念し、物資を半分ほど揚陸しないまま海軍戦力すべてを撤退させた{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=118a-119|ps=小休止}}。このとき、32門の[[M116 75mm榴弾砲|75mm榴弾砲]]と[[M101 105mm榴弾砲|105mm榴弾砲]]からなる砲兵大隊は揚陸済みであったが、食糧は4日{{Sfn|サボ島沖海戦|1998|p=252}}もしくは5日分<ref>Zimmerman, ''The Guadalcanal Campaign'', p. 49–56.、Smith, ''Bloody Ridge'', p. 11 & 16.</ref>しか揚陸できなかった。サボ島~ガ島ルンガ岬沖にかけての制海権は日本側にあり、日本軍潜水艦や駆逐艦は偵察のたびに[[艦砲射撃]]をおこなってアメリカ海兵隊に脅威を与えた{{Sfn|サボ島沖海戦|1998|p=253}}。

ガダルカナル島とツラギ島に上陸した海兵隊[[第1海兵師団 (アメリカ軍)|第1海兵師団]]約1万6000名(ガ島に1万名、ツラギ諸島に約6000名)は、補給を断たれた状態で孤立することになった{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=29-30}}。ガダルカナル島では奪取した飛行場のある[[ルンガ岬]]周辺に防衛線を構築することに注力し、橋頭堡の中央には75mm榴弾砲と105mm榴弾砲が全周射撃可能なように配置された{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=257}}。また日本軍基地設営隊が遺棄した物資や施設は極めて充実したものだった{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=276}}。海兵隊は[[ロードローラー]]や[[貨物自動車|トラック]]を[[鹵獲]]・活用して飛行場の完成を急いだ{{Sfn|平塚、米軍記録|1995|p=74|ps=完成したヘンダーソン飛行場}}。指揮官ヴァンデグリフト[[少将]]は防衛線内に約11,000名を配置し、4日間かけて物資を揚陸地点から防衛線内に分散した集積場へと運び込んだ。飛行場は[[ミッドウェー海戦]]で戦死した米海兵隊パイロット、ロフトン・ヘンダーソン少佐の名をとって[[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]と名付けられた{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|p=98a|ps=日米の飛行場争奪戦}}。日本軍からの鹵獲分もあり、食糧は14日分にまで増えたが、限られた食糧を節約するため1日の食事回数を2回に制限したという{{Sfn|ニミッツ|1962|p=118b}}<ref>Shaw, ''First Offensive'', p. 13. Smith, ''Bloody Ridge'', p. 16–17.</ref>。

ヘンダーソン飛行場周辺に橋頭堡を築いたアメリカ海兵隊だが、ガダルカナル島の日本軍守備隊はまだ降伏していなかった。ルンガ川河口左岸で捕虜にした日本軍准士官からの情報で、日本軍は飢餓状態で無統制となっており、説得次第では投降すると判断した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=301}}。軍医や日本語の語学将校をふくめた偵察員25名は降伏を勧めるため発動艇2隻に分乗しマタニカウ川左岸に進出したところ、日本軍前進陣地直前に上陸したため猛射をうけ3名を除いて全滅した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=301}}。救援のため出動した海兵隊一コ中隊はクルツ西方に上陸し、同日午後にはマタニカウ川右岸に戻った{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=301}}。
[[8月15日]]、アメリカ軍の[[高速輸送艦]]4隻(旧式駆逐艦の改造艦艇)が航空ガソリン・爆弾・軍需品・航空基地隊員を搭載し、ガ島揚陸に成功した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=119}}。
[[8月19日]]早朝、アメリカ海兵隊約300名は日本軍ガ島守備隊陣地西方のコカンボナ(クルツ岬西方約5km)に上陸し、同時にマタニカウ川右岸の海兵隊も砲兵支援下で攻撃を開始した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=303}}。米海兵隊戦史によれば日本兵65名が戦死して日本軍は後方に避退したと記録し、横五特(高橋中隊)の無線報告には「敵に相当の損害を与え、大発三、機銃一を捕獲。我に被害なし。食糧あと二日分」とある{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=303}}。

=== 日本軍の対応 ===
[[File:JapaneseColIchiki.gif|thumb|right|150px|歩兵第28連隊 [[一木清直]][[大佐]]。[[盧溝橋事件|盧溝橋]]で勇名をはせた。]]
[[File:JapaneseColIchiki.gif|thumb|right|150px|歩兵第28連隊 [[一木清直]][[大佐]]。[[盧溝橋事件|盧溝橋]]で勇名をはせた。]]


1942年(昭和17年)[[8月7日]](日出は4時45分)の連合軍フロリダ諸島来攻・ツラギ上陸の速報に対し{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=236-237|ps=ツラギ所在部隊の緊急電}}、[[ラバウル]]現地では第八艦隊(司令長官[[三川軍一]]海軍中将、参謀長[[大西新蔵]]海軍少将、首席参謀[[神重徳]]海軍大佐)が[[百武晴吉]]陸軍中将を司令官とする[[第17軍 (日本軍)|第十七軍]]にソロモン諸島ガダルカナル島およびツラギ島奪回作戦への協力を求めた{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=255-257|ps=第十七軍の状況判断}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=445a|ps=第十七軍}}。第十七軍は[[ポートモレスビー作戦|ポートモレスビー攻略]]と[[パプアニューギニア|東部ニューギニア]]要地勘定を任務としていたので、ラバウル所在の[[第55師団 (日本軍)#南海支隊|南海支隊]]をガダルカナル奪還に投入する意図はなかった{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=140-141|ps=第十七軍}}。
連合軍のガダルカナル島上陸に対し日本海軍は陸軍に協力を要請、陸軍は[[百武晴吉]]中将を司令官とする[[ラバウル]]の[[第17軍 (日本軍)|第17軍]]にガダルカナル奪還の任を命じた。だが第17軍はこのとき[[ニューギニアの戦い]]に部隊を参加させていたため、ソロモン南部へは[[パラオ諸島]]の[[第18師団 (日本軍)#川口支隊|川口支隊]]([[川口清健]]少将、歩兵第35旅団司令部及び歩兵第124連隊基幹)、[[フィリピン]]の青葉支隊([[那須弓雄]]少将、[[第2師団 (日本軍)|第2師団]][[歩兵第4連隊]]主力基幹)、内地転属のため[[グァム島]]に待機中であった一木支隊([[一木清直]]大佐、[[第7師団_(日本軍)|第7師団]][[歩兵第28連隊]]基幹)<ref>Miller, ''The First Offensive'', p. 96</ref>を投入することとした。各隊は直ちにガダルカナル島へ向かったが、距離の近かった一木支隊が最初に到着した<ref group="注">Smith, ''Bloody Ridge'', p. 88, Evans, ''Japanese Navy'', p. 158, and Frank, ''Guadalcanal'', p. 141–143. 「一木支隊は[[北海道]]の[[第7師団_(日本軍)|第7師団]]を基幹として編成された。[[第2師団 (日本軍)|第2師団]]を基幹とする青葉支隊は[[仙台]]の[[仙台城|青葉城]]からその名をとった。一木支隊は当初[[ミッドウェー島]]の侵攻・占領のため充当された部隊であったが[[ミッドウェー海戦]]の敗北によって同侵攻作戦が頓挫、本土へ帰還するところガダルカナル戦に投入された。なおEvansの著書では、[[田中頼三]]が一木支隊をミッドウェー海戦の後[[グァム島]]に降ろしたと述べている。一木支隊はグアムから[[トラック島]]を経由する形でガダルカナル島へと輸送された。</ref>。
第十七軍は、[[パラオ諸島]]所在で8月15日頃ラバウル到着予定の川口支隊なら投入可能と返答した{{#tag:Ref|8月7日1030大本営陸軍部宛ての第17軍報告〔一 海軍ノ通報ニ依レハ七日〇六〇〇空母一、戦艦一、巡洋艦四、駆逐艦一五ニ護衛サレタル輸送船約二〇「ツラギ」ニ上陸セリ、又「サマライ」及「ラビ」ハ八月初敵ガ之ヲ占領セリ/二 軍ハ「ツラギ」増援ノ海軍ノ希望ニ依リ、即時歩兵第三十五旅団ノ一部ヲ使用スルコトアリ、諒承アリ度/三 「ポートモレスビー」作戦ハ目下ノ処変更ナシ{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=445b}}。|group="注"}}。第十七軍参謀[[松本博 (陸軍軍人)|松本博]]中佐によれば「(第八艦隊に対して)川口支隊なら派遣できると述べたのは露骨な拒絶を緩和するための発言にすぎなかった」であった{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=256}}。この時点で、第十七軍は「敵輸送船20隻(第八艦隊の大前敏一参謀の通報によれば輸送船25隻)」という規模から、来襲した敵兵力について[[二見秋三郎]]参謀長は約一個師団、松本参謀は約一個聯隊以下と見做した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=257}}。
大本営海軍部は[[8月8日]]時点で「輸送船45隻と含む大艦隊がハワイを出撃し、うち戦艦1、巡洋艦3、駆逐艦7、輸送船30隻がソロモン方面に来攻した」と分析した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=272}}。大本営陸海軍部連絡研究に出た陸軍参謀は「要するに本日の状況判断に於ては、敵はソロモンを占領確保すべく、之が奪回は相当手強きものあるべきにより、陸海軍共に所要の兵力を集結したる後、攻勢に出づるを可とする方向に一致せり」と業務日誌に記している{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=272}}。同日夜、大本営陸軍部は第十七軍に対し、従来のモレスビー作戦にくわえてソロモン奪回作戦も第十七軍の担任予定であると通報した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=272}}。


[[8月9日]]、大本営陸海軍部は来攻敵兵力を「一コ師団位」と推定し、モレスビー作戦は既定計画通り遂行すること、ソロモン方面反撃のためラバウルに転進した戦闘機を東部ニューギニアの[[ラエ]]に復帰させブナ飛行場の完成を急ぐこと、南海支隊主力の[[ブナ (パプアニューギニア)|ブナ]]上陸を強行すること、ソロモン方面に指向する陸軍兵力は一木支隊と歩兵第四十一聯隊として集合地点をトラック泊地にすること…等を申し合わせた{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=274}}。
[[8月12日]]、日本軍はガダルカナルの米海兵隊の位置を確認するためラバウルから航空偵察を行ったが、開けた場所には米兵がほとんどおらず、近海にも大型艦船が認められなかった。このことから[[大本営]]は、連合軍は部隊の大部分を撤退させたものとみたが、実際には連合軍は撤退などしていなかった<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 143–144.</ref>。なお大本営が[[8月13日]]に第17軍に打った電報では「ソロモン群島要地奪回には(中略)できれば一木支隊と海軍陸戦隊のみで、すみやかに奪回するを可とせざるやと考えている」とあり、戦況を楽観視していたことがうかがえる<ref>[[#川口 (1960)|川口 (1960), p.197]]</ref>。百武中将は、一木支隊約2,300名から900名を先遣隊として速度の速い駆逐艦で直ちにガダルカナル島に上陸させ、連合軍陣地を攻撃しルンガ岬の飛行場を奪還せよと命じた。後続の第2梯団は別途低速の輸送船で送り込まれることとなった。一木支隊第1梯団は[[チューク諸島|トラック島]]にある日本軍海軍基地を経由してガダルカナルへと向かったが、このとき一木大佐は「2,000名から10,000名の米兵が上陸拠点をすでに掌握しており、正面からの攻撃は避けるべきである」との説明を受けた<ref>Evans, ''Japanese Navy'', p. 161, Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 98–99 and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 31.</ref>。
[[8月10日]]、大本営海軍部情報部は「ソロモン来攻兵力は海兵隊一コ師団、人員約1.5万」と断定した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=274}}。大本営陸軍部は、一木支隊を第十七軍戦闘序列に編入し、第十四軍指揮下にあった青葉支隊・独立戦車第一中隊・野戦重砲兵第二十一大隊一中隊を第十七軍指揮下に復帰させた{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=274}}。同10日午前中、第二十五航空戦隊の陸攻はガダルカナル島周辺に敵艦船を発見できず、日本軍は「我が軍の大勝利である」「敵は敗退した」との希望的判断を下した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=279}}。


第十七軍は、第一次ソロモン海戦や海軍基地航空隊の戦果報告に一喜一憂していた{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=259}}。[[8月9日]]午後1時20分、第十七軍は大本営に対し「敵の占拠せるモレスビー、ラビ、ツラギ〔註、ガダルカナル〕の中でモレスビーこそ重要であり、南海支隊による早期攻略が望ましい」と報告した{{Sfn|第十七軍作戦(1)|1946|p=31}}{{#tag:Ref|(8月9日午後1時20分の第十七軍電報){{Sfn|戦史叢書14|1968|p=259}}敵ノ占拠セル「モレスビー」、「ラビ」、「ツラギ」ノ三拠点中「モレスビー」ハ戦略上最モ重要ナル地位ヲ占ムルノミナラス 軍ハ既ニ之カ攻略ノ途中ニアリ 横山先遣隊ハ「スタンレー」山系ニ進出シツツアルヲ以テ速ニ南海支隊主力ヲ之ニ投入シテ其ノ死命ヲ制スルヲ目下最善ノ方策ト信ス 日ヲ空ウスレハ同方面ニ対スル増強ヲモ顧慮セサルヘカラサル現況ニ於テ殊ニ然リトス 故ニ十六日ハ多少ノ船舶ノ損害ヲ顧ミス敢行ノ決意ヲ有ス/「ツラギ」方面ニ於ケル海軍支援ノ為ニハ 成ルヘク速ニ歩兵第三十五旅団ノ所要兵力ヲ以テ 同方面ノ要地ヲ奪還スルヲ可トスル意見ナリ/軍ハ右要領ニ基キ作戦ヲ指導スヘキニ付御含ミアリ度|group="注"}}。
[[8月19日]]01:00、[[有賀幸作]]大佐(第四駆逐隊司令)に指揮された[[陽炎型駆逐艦]]6隻(旗艦/[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]、[[萩風 (駆逐艦)|萩風]]、[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]、[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]、[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]])に乗船した一木大佐以下916名からなる第1梯団は、食料7日分を携行して[[ルンガ岬]]の約35km東にあるタイボ岬に上陸した<ref group="注">Evans, ''Japanese Navy'', p. 161, Frank, ''Guadalcanal'', p. 145, Jersey, ''Hell's Islands'', p. 204, 212, Morison, ''Struggle for Guadalcanal'', p. 70, and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 43. 第1梯団は[[北海道]][[旭川市|旭川]]の第7師団歩兵第28連隊第1大隊(大隊長[[蔵本信夫]]少佐)を基幹とする。タイボ岬は日本海軍の前哨基地で200名程の海軍兵がおり、一木支隊の上陸を支援した。</ref>。上陸後、一木大佐は約100名の兵を後方の守備に充て、残り約800名を率いて行軍を開始、19日の日没前にはルンガ防衛線からおよそ14km東の地点まで到達した。一方ルンガの米海兵隊は、日本軍がガダルカナル島に上陸したとの[[ミリタリー・インテリジェンス|情報]]を得ていたが、状況をより正確に把握するため更なる情報収集に努めた<ref>Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 99–100 and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 29 & 43–44.</ref>。なお第17駆逐隊3隻(浦風、谷風、浜風)は[[ラビの戦い]]に従事するためすぐに[[ラバウル]]へ向かい、残3隻は[[B-17 (航空機)|B-17爆撃機]]の空襲により「萩風」が大破、「嵐」と共にトラック泊地へ撤収、同方面に残る駆逐艦は「陽炎」1隻となった。
このように日本軍(大本営陸海軍部、第十七軍、第十一航空艦隊、第八艦隊)は「ソロモン諸島は確実に占領されたが、有力な部隊ではない」と判断し{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=507}}、ひきつづき[[ポートモレスビー作戦|ポートモレスビー攻略]]にともなう[[ニューギニアの戦い]]を重要視した{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=153}}{{Sfn|ニミッツ|1962|p=119}}。大本営は来攻兵力を海兵隊一個師団約15,000名と推定していたが、日本軍の上陸作戦能力(揚搭時間)から見て、連合軍はほとんどの部隊の揚陸に失敗して撤退したと判断した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=509}}。日本軍は上級司令部も現地軍も、ガ島方面の戦況に関して楽観視するようになった{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|pp=100-101}}。実際のアメリカ海兵隊来攻戦力は約16,000名(ガダルカナル島に約11,000名、フロリダ諸島に約5,000名)であった{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=111}}。

結局、ソロモン南部に投入される陸軍部隊は、[[パラオ諸島]]の[[第18師団 (日本軍)#川口支隊|川口支隊]]([[川口清健]]少将、歩兵第35旅団司令部及び歩兵第124連隊基幹)、[[フィリピン]]の青葉支隊([[那須弓雄]]少将、[[第2師団 (日本軍)|第2師団]][[歩兵第4連隊]]主力基幹)、内地転属のため[[グァム島]]に待機中であった一木支隊([[一木清直]]大佐、[[第7師団_(日本軍)|第7師団]][[歩兵第28連隊]]基幹){{#tag:Ref|一木支隊は5月5日の大陸命第625号により戦闘序列下令{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=183}}。ミッドウェー作戦時兵力は、支隊長一木大佐、歩兵第二十八聯隊、工兵第七聯隊第1中隊、独立速射砲第8中隊。総兵力約2000名、折畳舟約30、対戦車砲8門、その他装備{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=183}}。内地帰投後は[[アリューシャン列島]][[アッツ島]]に配備予定であったという{{Sfn|倉橋|1987|pp=91-93|ps=精強純朴な旭川兵士}}。|group="注"}}となった。
海軍側は、グァム所在の横須賀鎮守府第五特別陸戦隊、東チモール方面所在の横須賀鎮守府第三特別陸戦隊(落下傘部隊約800名)、8月15日編成完了予定の特別陸戦隊三隊を投入することになった{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=143-144|ps=大本營の作戦指導/八月七日}}。
各隊は直ちにガダルカナル島へ向かった。ミッドウェー作戦後にグァム島に待機していた一木支隊は輸送船2隻(ぼすとん丸、大福丸)<ref name="S1705呉鎮(3)43" />に分乗して8月7日にグァム島出港後、命令により一旦グァム島に引返し、8日にパラオ諸島へ向かうよう内報され、つづいてトラック泊地に移動先を変更され、トラック泊地到着時点で第十七軍の隷下に入ることになった{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=275}}{{#tag:Ref|一木支隊は[[北海道]]の[[第7師団_(日本軍)|第7師団]]を基幹として編制された。[[第2師団 (日本軍)|第2師団]]を基幹とする青葉支隊は[[仙台]]の[[仙台城|青葉城]]からその名をとった。一木支隊は[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]司令長官[[近藤信竹]]中将の指揮下に入り輸送船に乗船、[[田中頼三]]第二水雷戦隊司令官指揮下の[[水雷戦隊]]に護衛されて[[ミッドウェー島]]へ進出、[[海軍陸戦隊]]と共に同島を攻略する予定であった{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=187-188|ps=一木支隊の指揮問題紛糾}}。[[ミッドウェー海戦]]の敗北によって同侵攻作戦が頓挫、6月13日にグァム島へ帰投していた{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=538-539|ps=船団部隊のグァム、トラック帰投}}。本土へ帰還するため輸送船2隻に分乗し8月7日グァム島を出発したところ、ガダルカナル戦の生起にともない同方面に投入された{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=84a|ps=陸軍一木支隊の「ガ」島派遣決定}}。一木支隊はグアムから[[トラック島]]を経由する形でガダルカナル島へと輸送された。|group="注"}}。海軍上級司令部は「一木支隊の兵力2400名では過少」として不満と不安を抱いたが、参謀本部が「この兵力で自信あり」と説明したので、不満足ながら諒承した{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=446-447|ps=聯合艦隊}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=141-142|ps=聯合艦隊の作戦指導}}。大本営陸軍部にも一部で「増援至難の絶海の孤島に一木支隊を送り込むと[[ノモンハン事件]]の再現になるのでは」と懸念する意見もあったが、大本営陸海軍部の空気全般は非常に楽観的であった{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=274}}。

8月9日の外南洋部隊(第八艦隊)による[[第一次ソロモン海戦|夜戦]]と基地航空部隊(第十一航空艦隊)による空襲の戦果報告によれば、輸送船団をふくむ連合軍ガ島来襲部隊の大部分を撃滅という判定であった{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=149}}。
[[8月10日]]、ガ島空襲にむかった日本軍攻撃隊と、同島方面に進出した潜水艦部隊は、ともに連合軍水上部隊を発見しなかった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=505}}。[[大本営]]も現地日本軍も、連合軍は部隊の大部分を撤退させたと判定した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=505}}。たとえば[[宇垣纏]]連合艦隊参謀長は陣中日誌『[[戦藻録]]』に「(8月10日)さては敵の奴昨夜の攻撃に依り到底居たたまらず、昨日の内に総退却をなせるか。」と記述している{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=149}}。大本営陸軍部(参謀本部)に至っては「100%撤退」と判断していたという{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=149}}。
一方で多数の舟艇を発見しまた対空砲火を受けたことから{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=505}}{{#tag:Ref|8月10日夜の第二十五航空戦隊司令官報告〔陸攻二一機、零戦一五機「ガダルカナル」泊地敵攻撃ニ向ヒタルモ敵ヲ見ズ 「ツラギ」南東一〇浬、沈没ニ瀕セル炎上中ノ大型商船一隻及「ツラギ」「ガダルカナル」各舟艇(内火艇)約二〇隻ヲ認メ「ツラギ」ヨリ高角砲ノ射撃ヲ受ク 当時高度七,〇〇〇 陸攻一機被弾 零戦三機ハ「ガダルカナル」低空(一,〇〇〇米)ニテ偵察 敵味方不明ノ人員約三〇〇名ヲ飛行場内ニ認ム 密林中ヨリ七.七粍機銃射撃ヲ受ケ零戦一機被弾{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=247}}。|group="注"}}、ガダルカナル島とツラギ諸島は占領されたと判断した。すなわちガ島の連合軍は敗残兵であり、有力部隊ではないと認識した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=505}}。後日おこなわれた空襲と航空偵察の結果もその判断を後押ししたので{{#tag:Ref|(8月11日午後6時、第十一航空艦隊報告){{Sfn|戦史叢書14|1968|p=280}}一 本十一日戦闘機ニ依ル「ガ」島方面偵察ノ状況左ノ通リ 1「ガ」島方面(偵察高度二〇〇米)/(イ)海岸ニ小舟艇約五〇隻内四隻航行中敵性ト認メラル/(ロ)「ルンガ」河口岸東方ニテ設置シアリタル模擬飛行場附近ニ於テ猛烈ナル機銃射撃ヲ受ク/(ハ)「ルンガ」河口附近ニ梱包集積シアリ/2「ツラギ」方面(偵察高度約七,〇〇〇米)小舟艇約八隻航行中/二 昨日及本日ノ飛行偵察ニ依リ「ガダルカナル」飛行場附近及「ツラギ」方面ニ敵ノ占拠セルコト確実ナルモ 其ノ兵力及企図不明ナルヲ以テ 明日以後駆逐艦及潜水艦ヲ以テ強行偵察ヲ実施スルト共ニ 極力友軍ノ状況ヲ偵察之ガ救援ニ努メントス |group="注"}}{{#tag:Ref|8月12日、第八根拠地隊首席参謀松永敬介中佐(兵50期)による報告{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=148a|ps=ガ島方面の偵察}}。「ガダルカナル」島飛行場附近ニ若干ノ敵アルモ、ソノ動作ハ萎縮シテ元気ナク、又海岸附近ノ舟艇ハ頻繁ニ航行シツツアルモ、敵主力ハ既ニ撤退セルカ、撤退セントシツツアル感ジナリ。残存敵兵及舟艇ハ取残サレタルモノト認メラル。|group="注"}}、大本営・連合艦隊・現地陸海軍含めてますます楽観的になった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=512}}。同日、大本営陸軍部は一木支隊を第十七軍の戦闘序列に編入した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=509}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=150}}。第十一航空艦隊は「ガ島奪回作戦は川口部隊を主力とし、一木支隊と横五特で8月25日に実施予定と電報した{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=154b}}。第十七軍は大本営に「一木支隊ト第三十五旅団ノ所要兵力ヲ『ソロモン』ニ指向スレバ作戦可能ナリ」と報告した{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=154b}}。

[[8月12日]]、大本営陸海軍部は陸海軍中央協定を結ぶ{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=151-152|ps=陸海軍中央協定}}。
ガダルカナル島奪回作戦は'''[[カ号作戦|「カ」号作戦]]'''と命名され{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=92a-93|ps=「ガ」島奪回作戦要領の明示}}{{Sfn|戦史叢書102|1980|p=400|ps=カ号作戦 陸海軍中央協定によるソロモン群島要地奪回作戦。キ号作戦(後述)を含む(昭和17.8.陸海軍)}}、現地陸海軍(第十七軍、第十一航空艦隊、第八艦隊)協定による一木支隊輸送作戦は'''[[キ号作戦|「キ」号作戦]]'''と命名された<ref>[[#S1709八艦隊日誌(1)]]pp.17-18〔第八艦隊 第十一航空艦隊ノ大部ヲ基幹トスル部隊 第二、第三艦隊ノ大部ヲ基幹トスル部隊及陸軍第十七軍(歩兵約十三個大隊)ヲ以テ「ガダルカナル」「ツラギ」方面攻略奪回ニ決ス/本作戰ヲ「カ」号作戰 第十七軍 第八艦隊 第十一航空艦隊間ノ協定ニ依ル作戰ヲ「キ」号作戰ト呼稱ス 〕</ref>{{Sfn|戦史叢書102|1980|p=401|ps=キ号作戦 一木支隊のガダルカナル島への輸送作戦(昭和17.8.陸海軍)}}。
同12日夕刻{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=84b}}、一木支隊輸送船2隻と護衛の第4駆逐隊がトラック泊地に到着した{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=296-299|ps=一木先遣隊のタイボ岬上陸}}。一木支隊第1梯団は[[チューク諸島|トラック島]]にある日本軍海軍基地を経由してガダルカナルへと向かったが、このとき一木大佐は「2,000名から10,000名の米兵が上陸拠点をすでに掌握しており、正面からの攻撃は避けるべきである」との説明を受けた<ref>Evans, ''Japanese Navy'', p. 161, Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 98–99 and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 31.</ref>。
同12日、[[呂号第三十三潜水艦]]はガダルカナル島ハンター岬見張所との連絡に成功した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=511}}。[[呂号第三十四潜水艦]]はガ島タイボ岬見張所との連絡に成功した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=512}}。[[8月13日]]未明、日本軍の駆逐艦2隻{{#tag:Ref|駆逐艦[[追風 (2代神風型駆逐艦)|追風]]と[[夕月 (駆逐艦)|夕月]]。『戦史叢書49巻』を含め多くの二次資料は「夕月」と記述する{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=512}}。追風主計科の岡村は、同行艦を[[夕凪 (2代神風型駆逐艦)|夕凪]]{{Sfn|青春の棺|1979|pp=117-118}}と回想している。|group="注"}}はガダルカナル島に到着したが、同島残留日本兵からの応答はなく連絡に失敗した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=284}}。2隻はヘンダーソン飛行場に艦砲射撃を敢行し、ラバウルに引き揚げた{{Sfn|青春の棺|1979|pp=121-122}}。同日、[[伊号第百二十二潜水艦]]と[[伊号第百二十三潜水艦]]は効果的な[[偵察|威力偵察]]を実施し、[[水陸両用戦車]]、[[野砲]](砲兵陣地)、[[高射砲]]や機銃の存在を報告した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=283}}。伊123は「ルンガ岬附近の敵上陸兵力は相当大」と報告したが、現地中央とも楽観的で、潜水艦の偵察結果は重要視されなかった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=513}}。

[[8月13日]]午前中、第十七軍は一木支隊の先遣投入を決断した{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=154b}}。その後、陸海軍中央協定や参謀次長からの電報を受け、あらためて大本営に意図を説明した{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=154b}}。この中でソロモン群島の敵兵は5000~6000名、速やかに飛行場の利用を封殺することが必要と述べている{{#tag:Ref|(第十七軍より大本営への報告)一 参電九七三号受領ス/二 「ソロモン」群島方面ニ上陸セル敵ハ五-六,〇〇〇内外ト推定セラルルモ確実ナル情報尚不明ニシテ未タ飛行場ヲ利シアラサルコト確実ナリ/三 軍ハ海軍ト協同シテ速カニ同方面ノ敵ヲ撃滅セントス 之カ為ニハ敵ノ占拠未完ノ機ニ於テ之ニ一撃ヲ加ヘ飛行場ノ利用ヲ封殺又ハ制限ノ要アルモノト認ム 先ヅ一木支隊ノ突入ニ関シ本十三日中ニ陸海協定ヲ完了ノ予定ナリ 同支隊ハ十六日「トラック」島発駆逐艦五隻及現ニ乗船中ノ輸送船ニ依リ直路「ガダルカナル」ニ向ハシムル予定ナリ 細部ハ後報ス/四 独立第三十五旅団主力ハ目下ノ所「ソロモン」群島方面ノ使用ヲ予定シ先ツ「トラック」島ニ前進セシムル筈ナリ/五 軍ハ「ソロモン」群島方面ノ状況ニ拘ラス「レ」号作戦遂行ノ為ニハ既定計画ノ変更ヲ避ケ迅速ヲ期シツツアリ/六 歩兵第四十一聯隊ハ南海支隊ノ戦力増強及補給実施ノ為同支隊ニ配属セリ/七 青葉支隊及其ノ他「ダバオ」残留部隊ハ状況ノ推移ニ応シ随時「ソロモン」群島方面「サラマイ」方面又ハ「MO」方面ニ使用シ得ンカ為「ラバウル」ニ前進ヲ命シアリ之カ為成ルヘク速ニ輸送船ノ配当アリ度 {{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=154c-155}}|group="注"}}。

「キ」号作戦現地陸海軍協定(第十一航空艦隊、第八艦隊、陸軍第十七軍)によれば{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=292a-294|ps=一木支隊の攻撃/陸海軍現地協定}}、一木支隊(歩兵第28聯隊長[[一木清直]]大佐)と横須賀鎮守府第五特別陸戦隊(司令[[安田義達]]大佐)を上陸部隊とし、W(上陸予定日、18日予定)-2日上陸部隊(一木支隊先発隊、駆逐艦6隻)トラック出撃、W日上陸、W+3日(後日+4日に変更)第二次上陸(一木支隊主力部隊、輸送船2隻、第二水雷戦隊護衛、間接護衛兵力として第六戦隊)を敢行という計画であった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=517}}{{#tag:Ref|(8月13日、第十一航空艦隊){{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=155a-156|ps=一木支隊の輸送/現地協定}} 八月十三日一二〇〇迄ニ得タル「ガダルカナル」島、「ツラギ」方面情況ハ十一航艦機密第一三番電及(中略)ノ通ニシテ、敵兵力ノ概数、「ガダルカナル」島友軍警備隊及設営隊ノ情況等尚不明ナルモ、所在敵兵力ハ有力部隊ニ非ラザル算尠カラザルノミナラズ、此際「ガダルカナル」攻撃ヲ遷延スルハ凡ユル方面ヨリ見テ我方ノ不利ヲ増大スベキヲ以テ、第十一航空艦隊、第八艦隊及第十七軍間協議ノ結果速ニ之ヲ奪回スルニ決セリ 協定要旨左ノ通/一 作戦方針 速ニ「ガダルカナル」島所在敵兵力ヲ撃滅シ之ヲ確保セントス/二 上陸作戦兵力、一木支隊及横五特/三 上陸日時(「ガダルカナル」島)八月十八日(W日)一木支隊ノ一部(駆逐艦六隻ニ分乗)、W+3日爾余ノ兵力(輸送船二隻)/四 護衛隊 直接護衛兵力 [[神通 (軽巡洋艦)|神通]]及駆逐艦六隻 指揮官[[第二水雷戦隊]]司令官 間接護衛兵力 第六戦隊 指揮官第六戦隊司令官/五 陸戦隊ハ「ガダルカナル」島上陸後飛行場及附近確保迄一木支隊長ノ指揮ヲ承ク/六 敵空母出現等ノ場合ハ本作戦ヲ延期又ハ取止ムルコトアリ 此ノ場合第十七軍司令官及第十一航空艦隊司令長官協議決定ス/七 本作戦ヲ「キ」号作戦ト呼称ス |group="注"}}。
敵空母が出現した場合は、輸送およびガ島奪回作戦を延期または取止める可能性があることも盛り込まれていた{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=156}}。

一木支隊の戦闘序列は、歩兵第二十八聯隊、工兵第七聯隊第一中隊および独立速射砲第八中隊、人員約2,000名であった{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=292b}}。[[ミッドウェー作戦]]において[[ミッドウェー島]]攻略を目的に編制された一木支隊は約40隻の折り畳み舟艇を持っており、ガ島では駆逐艦の内火艇と組み合わせて上陸することになった{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=293}}。内火艇や舟艇を使用して短時間のうちに上陸するという制限から、先遣隊の歩兵の携帯弾薬は250発、糧食は7日分であった{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=297}}。上陸後の行軍の都合上からも軽装備であり、[[対戦車兵器]]として[[九九式破甲爆雷|亀甲状の爆雷]]を保持していたという{{Sfn|倉橋|1987|p=92}}。横須賀鎮守府第五特別陸戦隊(司令[[安田義達]]大佐)616名は6月30日附で第四艦隊に編入され、ナウル・オーシャン方面攻略を予定していた{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=292b}}。横五特の一部は7月29日グァム島を出発、8月7日附で第八艦隊に編入され、8月12日ラバウルに到着した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=292b}}。

第十七軍では、一木支隊を先に派遣してヘンダーソン飛行場が活動を開始する前に封殺もしくは使用を妨害するか、歩兵第三十五旅団と一木支隊を合流させ空母機動部隊の護衛下で奪回作戦に乗り出すか{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=289a-291|ps=第十七軍司令部における論争}}、両論があった{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=154a-155|ps=第十七軍の兵力運用}}。13日朝、第十七軍参謀長は第十一航空艦隊参謀長[[酒巻宗孝]]海軍少将に意見を求めた{{#tag:Ref|(8月13日朝、第十一航空艦隊意見){{Sfn|戦史叢書14|1968|p=290}}一 海軍監視哨皆現存ス 敵飛行場ヲ整備セス五百米ニ降下セルモ「ガ」島平静ナリ/一 巡洋艦大部壊滅 爾後ノ増援補給困難 敵戦闘機ハ陸上ヨリ飛来出来ス空母ニ依ル 是ハ危険ナル仕事ナリ/一 敵ハ毎日朝偵察シアルハ不思議ナリ 占拠シアレハ無線報告アルヘシ 余リ大ナルモノ無ク或ハ[[土人]]ヲ残シ[[白人]]大部引揚ケタルモノナラン/一 敵ハ我飛行場完成近キヲ狙ヒ好機ニ来レルモ八百[[メートル|米]]ニシテ猶四百米未完 大型機ハ困難ナリ/一 敵戦闘機ハ陸上機トアリシ故島ヲ見サレハ飛ヘス 故ニ空母十六節ニテモ全ク一日我哨戒圏ニアリ 之ヲ捕捉撃滅シ得大型機ハ戦闘機「ツラギ」ニ着カサレハ空輸サセルヘシ 然カモ「ガ」飛行場ヲ整備シアラス 敵空母ヨリ出テ飛ヒ得ル距離ハ二〇~一五〇浬ナリ |group="注"}}。その結果、二見参謀長は「ガダルカナル島の敵を7000~8000と観たのは過大であった」「一木支隊を早期に派遣すべし」と判断を修正した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=291}}。

陸海軍現地協定にもとづき百武中将は、一木支隊約2,300名から900名を先遣隊として駆逐艦6隻に分乗させ直ちにガダルカナル島に進出、連合軍陣地を攻撃しルンガ岬の飛行場を奪還せよと命じた{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=518}}{{#tag:Ref|第四款 一木支隊のガダルカナル島上陸及爾後の戰闘(附圖第二参照)第十七軍司令官は大本營の命令竝に指示に基き現地海軍と協定し一木支隊は敵機の哨戒圏を成るへく避くる爲トラツク島より直行し且其の第一梯團は戰機に投ずる爲驅逐艦輸送に依り十八日夜 第二梯團は輸送船に依り二十四日夫々ガダルカナル島タイボ岬に上陸せしむるに決し十三日同支隊に對し左記要旨の命令を下達せり/第十七軍命令要旨 八月十三日十五時ラバウル(中略){{Sfn|第十七軍作戦(1)|1946|pp=34-35}}|group="注"}}。
作戦計画時点の日本軍は、ガ島守備隊がマタニカウ川左岸(飛行場の西方)に海軍本部を設置していることを知らず、なんらかの友軍部隊がいると見なされた飛行場東側タイボ岬見張所を上陸点に選んだ{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=293}}。また飛行場西側からの攻撃は地形上の障害が見込まれたことも影響した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=293}}。
後続の一木支隊第2梯団は第二水雷戦隊護衛下で低速の輸送船2隻(ぼすとん丸、大福丸)に乗船し、ガ島へ送り込まれることとなった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=518}}。一木支隊先遣隊は「敵に飛行場を使用させないことが最小限の条件」こと求められており、第十七軍命令「止ムヲ得サレハ『ガダルカナル島』ノ一角ヲ占領シ」とは「飛行場の近くを占拠して夜襲の反覆により飛行場の使用を封じること」を意図したものであった{{#tag:Ref|(第十七軍司令官の13日午後3時命令){{Sfn|戦史叢書14|1968|p=295}}一 「ソロモン」方面ニ上陸セル敵ハ其ノ兵力尚不明ナルモ 上陸後ノ活動ハ必スシモ活發ナラス 本十三日ニ至ルモ「ガダルカナル」飛行場ヲ利用シアラサルコト確実ナリ/二 軍ハ敵ノ占領未完ニ乗シ 海軍ト協同シテ速ニ「ソロモン」方面ノ敵ヲ撃滅シ其要地ヲ奪回確保セントス/三 一木支隊ハ海軍ト協同シ先ツ「ガダルカナル」飛行場ヲ奪回確保スヘシ 止ムヲ得サレハ「ガダルカナル」島ノ一角ヲ占領シテ後続部隊ノ来着ヲ待ツヘシ 之ガ為先遣隊(約九〇〇名)ヲ編成シ不取駆逐艦六隻ニ分乗シテ直路「ガダルカナル」島ニ向ヒ前進スヘシ/四 本作戦ノ為陸海軍協定覚書左ノ如シ(以下記録欠如)|group="注"}}。
なお大本営陸軍部は第十七軍に対し「(参謀次長依命電){{Sfn|戦史叢書14|1968|p=286}}「カ」号作戦ノ規模ハ一ニ敵情ニ依リ第十七軍司令官ニ於テ決定セラルヘキモノトシ中央トシテハ要スレハ第三十五旅団及青葉支隊等ヲモ使用シ得ル如ク配船ヲ考慮シアルモ、現状ニ於テハ寧ロ戦機ヲ重視シ成シ得レハ一木支隊ト海軍陸戦隊ノミヲ以テ速ニ奪回スルヲ可トセサルヤト考ヘアリ」との意図を通知しており{{Sfn|第十七軍作戦(1)|1946|p=33}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=152}}、戦況を楽観視していたことがうかがえる<ref>[[#川口 (1960)|川口 (1960), p.197]]</ref>{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=448-451|ps=大本營海軍部及び陸軍部}}。
同13日夕刻、大本営では[[永野修身]]軍令部総長と[[杉山元]]参謀総長が[[昭和天皇]]にソロモン方面奪回作戦について上奏する{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=152}}{{Sfn|城英一郎日記|1982|p=176|ps=(昭和17年8月13日記事)}}。永野軍令部総長は、連合軍の大部分は引き揚げたと上奏した{{#tag:Ref|「以上ヲ総合スルニ「ガ」島ニ上陸セル敵ハ其ノ兵力未詳ナルモ行動ハ活発ナラズ 七日八日我方ノ攻撃ニ依リ受ケタル甚大ナル損害ト 十日ニハ既ニ全艦艇船舶ガ引揚ゲタル状況トニ鑑ミ陸上残留兵力ノ戦力ハ大ナラザルモノト判断シアリ」{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=150}}|group="注"}}。

[[8月14日]]、第十七軍の松本参謀はトラック泊地に出張して一木支隊長に軍命令を伝達し、その意図を説明した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=296b}}{{Sfn|第十七軍作戦(1)|1946|pp=34-35}}。松本参謀は「最悪の場合一コ師団一万位いるかも知れぬから、迂回と不意急襲を強調した」「反面、敵が退避しつつあるかもしれないとも伝達した」「駐ソ武官からの情報については記憶がない」「飛行場占領が失敗した場合は、飛行場の近くを占拠して一部兵力による夜襲反覆等により敵の飛行場使用を封殺することが必要と伝えた」と回想している{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=297}}。後述のように、ガ島ヘンダーソン飛行場は8月20日の日中より使用を開始した{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=16-17|ps=昭和17年8月20日 ガ島飛行場に海兵隊機進出}}。同14日、南東方面部隊指揮官の命令に従い、外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官)は一木支隊のガ島輸送に関する作戦命令を下令した{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=156}}。

*兵力部署(部隊名、指揮官、兵力、任務行動左ノ通)
**(イ)主  隊 指揮官直率{{#tag:Ref|外南洋部隊指揮官[[三川軍一]]第八艦隊司令長官。|group="注"}} 鳥海 全作戦支援
**(ロ)支援部隊 第六戦隊司令官{{#tag:Ref|第六戦隊司令官[[五藤存知]]少将。|group="注"}} 第六戦隊{{#tag:Ref|第六戦隊の重巡洋艦[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]、[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]、[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]。既述のとおり、重巡[[加古 (重巡洋艦)|加古]]は沈没していた。|group="注"}} 十六日「カビエン」発増援部隊ノ支援、敵水上部隊ノ攻撃
**(ハ)増援部隊 第二水雷戦隊司令官{{#tag:Ref|第二水雷戦隊司令官[[田中頼三]]少将、兵41期。|group="注"}}
***(1)護衛部隊 第二水雷戦隊司令官 神通、[[薄 (駆逐艦)|哨戒艇34号]]、[[蔦 (樅型駆逐艦)|哨戒艇35号]]、横五特(一部欠) 状況ニ依リ[[島風 (峯風型駆逐艦)|哨一]]、[[灘風 (駆逐艦)|哨二]]ヲ加ヘ十六日〇五〇〇「トラック」発陸軍輸送船団ノ直接護衛ニ任ジ二十一日二二〇〇上陸点着
***(2)挺身隊{{#tag:Ref|『戦史叢書第77巻』156頁では「挺進隊」と記述する。|group="注"}} 第四駆逐隊司令{{#tag:Ref|第4駆逐隊司令[[有賀幸作]]大佐。|group="注"}} [[陽炎型駆逐艦#第四駆逐隊|第四駆逐隊]](第二小隊欠){{#tag:Ref|第4駆逐隊は第1小隊([[嵐 (駆逐艦)|嵐]]、[[萩風 (駆逐艦)|萩風]])と第2小隊([[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]、[[舞風 (駆逐艦)|舞風]])に区分されていた{{Sfn|野分物語|2004|pp=28-29}}。|group="注"}} [[陽炎型駆逐艦#第十七駆逐隊|第十七駆逐隊]](磯風欠){{#tag:Ref|第17駆逐隊の陽炎型駆逐艦[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]、[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]。17駆所属の[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]は鳥海の護衛。|group="注"}}、[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]{{#tag:Ref|陽炎は第二水雷戦隊・[[陽炎型駆逐艦#第十五駆逐隊|第15駆逐隊]](親潮、黒潮、早潮、陽炎)に所属するが、僚艦3隻はB作戦のため別働中だった。|group="注"}} 十六日〇九〇〇「トラック」発一木支隊ノ一部ヲ急速「ガダルカナル」基地ニ輸送、十八日二〇〇〇泊地進入上陸セシム
**(ニ)潜水部隊 第七潜水戦隊司令官{{#tag:Ref|第七潜水戦隊司令官[[吉富説三]]少将。|group="注"}} 七潜戦、三潜戦 「ガダルカナル」方面監視、敵艦艇攻撃
**(ホ)水上機部隊 第八根拠地隊司令官{{#tag:Ref|第八根拠地隊司令官[[金沢正夫]]中将。|group="注"}} [[聖川丸 (特設水上機母艦)|聖川丸]]水偵四機 「ギゾ」島ニ水上基地設営、「ガダルカナル」島方面ノ偵察、附近海面ノ捜索

[[8月15日]]1520、第二水雷戦隊司令官[[田中頼三]]少将が率いる軽巡洋艦[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]と駆逐艦[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]がトラック泊地に到着する{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=157b-158|ps=一木先遣隊の輸送}}。田中少将は第八艦隊および第十七軍参謀から説明を受け、さらに一木支隊との打ち合わせをおこなった{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=157c}}。この頃、駐ソ連武官より「米軍のガダルカナル島方面作戦は飛行場基地破壊が目的であって、この目的を達成した米軍はガ島からの脱出に腐心している」との情報が大本営に寄せられた{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=289b}}。この情報はガ島へ向かう一木支隊にも伝達され、[[戦闘詳報|一木支隊戦闘詳報]]にも記載されていたという{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=289b}}{{#tag:Ref|○<ruby><rb>二九</rb><rt>ママ</rt></ruby>日一六〇〇「ラバール」[[第8方面軍 (日本軍)|剛〈第八方面軍〉]]発、「ガ」次長宛(中略)七、敵側ニ関スル情報並ニ之ニ対スル注意(中略)○一木支隊ノ「ガ」島ニ向フ途中八月一七日一〇三〇赤道通過左記情報ニ接ス 「ソ」聯駐在武官発、米軍ノ「ガダルカナル」島方面作戦ノ目的ハ日本軍ノ飛行基地破壊ニアリテ、此目的ヲ達成セル米軍ハ目下日本軍海空軍ノ勢力下ニ在ル同島<ruby><rb>脱</rb><rt>○</rt></ruby><ruby><rb>出</rb><rt>○</rt></ruby>ニ<ruby><rb>腐</rb><rt>○</rt></ruby><ruby><rb>心</rb><rt>○</rt></ruby>シアリ/以上ノ情報ニ接シ将兵一同聊カ手応ナサニ落胆ノ感ヲ抱ク(以上一木支隊戦斗詳細)<br/>[(欄外)[[黒溝台会戦]]前ノDカ得タル情報ト将兵ノ意気=勇躍遠征ノ途ニツイタ一木ノ心理](註 黒溝台会戦初動ノ「早ク行カヌト敵ハ逃ケル、敵ハ一旅団ナラン」トノ感想、想起)](以下略){{Sfn|宮崎周一中将日誌|2003|pp=278-279}}|group="注"}}。泊地では、一木支隊先遣隊と駆逐艦が上陸演習を行っていた{{Sfn|倉橋|1987|p=93}}。
同15日、天皇はソロモン奪回後、ソロモン方面作戦に関して[[勅語]]下賜の内意を示した{{Sfn|野村實|1988|pp=117-118|ps=旅順攻撃に似ていたガ島攻撃}}{{Sfn|城英一郎日記|1982|p=177a|ps=(昭和17年8月14日記事)}}。

=== 一木支隊のトラック泊地出撃 ===
[[8月16日]]午前5時、「キ」号作戦増援部隊の挺身隊(第4駆逐隊司令[[有賀幸作]]大佐指揮){{#tag:Ref|『戦史叢書14巻』298頁や『戦史叢書第49巻』519頁では「第4駆逐隊司令[[佐藤康夫]]大佐」と記述しているが、佐藤大佐は第9駆逐隊司令。第4駆逐隊司令は[[有賀幸作]]大佐。|group="注"}}[[陽炎型駆逐艦]]6隻(旗艦/[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]、[[萩風 (駆逐艦)|萩風]]、[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]、[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]、[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]])は一木大佐以下先遣隊916名を各艦約150名ほど収容し、トラック泊地を出撃した{{#tag:Ref|一木支隊916名の内訳は、支隊本部163名、大隊本部23名、第一~第四中隊各105名、機関銃中隊(機関銃8)110名、大隊砲小隊(歩兵砲2)50名、工兵中隊(150名){{Sfn|戦史叢書14|1968|p=297}}。駆逐艦および内火艇の搭載能力から、[[水陸両用戦車]]の存在は明らかであったが、速射砲中隊は先遣隊に含まれず{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=298}}。|group="注"}}{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=96a-97|ps=「ガ」島奪回作戦部隊のトラック出撃}}。一木支隊長は有賀大佐の駆逐艦「[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]」に乗艦した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=299}}。
なお速射砲部隊をふくむ一木支隊大部分約1500名は輸送船2隻(ぼすとん丸、大福丸)に分乗し、第二水雷戦隊司令官[[田中頼三]]少将(旗艦[[神通 (軽巡洋艦)|神通]])指揮下の軽快艦船(神通、[[第三十一号型哨戒艇|哨戒艇]]2隻)に護衛され、挺身隊と同時にトラック泊地を出撃した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=298}}。挺身隊の速力は22ノット、輸送船団は8.5ノットであった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=519}}。第24駆逐隊(海風、江風、涼風)と横五特(司令[[安田義達]]大佐以下616名)を乗せた輸送船[[金龍丸 (特設巡洋艦)|金龍丸]]および[[第一号型哨戒艇|哨戒艇]]2隻([[島風 (峯風型駆逐艦)|旧島風]]、[[灘風 (駆逐艦)|旧灘風]])は18日から19日にかけて第二梯団と合流した{{#tag:Ref|輸送船「金龍丸」と哨戒艇2隻は8月13日にグァム島を出発した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=294}}。|group="注"}}{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=104a|ps=横五特主力の「ガ」島奪回作戦の失敗}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=158a}}。同16日、天皇は[[侍従武官]]よりガ島奪回作戦の上陸予定について報告を受けた{{Sfn|城英一郎日記|1982|p=177b|ps=(昭和17年8月16日記事)(中略)午前、昨日の情報を上聞す。「ソロモン」方面の上陸及「ブナ」作戦につき改めて御格戸にて御下問あり、ガダルカナル奪回上陸予定言上。}}。

挺身隊(一木支隊先遣隊)がガ島へ向け航行中の[[8月16日]]深夜、横五特のガ島派遣隊113名{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=533}}{{Sfn|青春の棺|1979|p=122}}は駆逐艦[[追風 (2代神風型駆逐艦)|追風]]に乗艦してガダルカナル島に到達し{{Sfn|青春の棺|1979|pp=126-129}}、同島タサファロング(ガ島北西部、ルンガ岬より西方17km地点){{Sfn|戦史叢書14|1968|p=302=}}西方4km地点に上陸した{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=104a|ps=横五特主力の「ガ」島奪回作戦の失敗}}。高橋達之助大尉以下増援陸戦隊はタサファロングより東進し、夕刻までにマタニカウ河西方に本部をおくガ島守備隊{{Sfn|土井|2009|p=49}}(部隊長の掌握していた守備隊員100名、設営隊328名)との連絡に成功した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=533}}{{Sfn|城英一郎日記|1982|p=178|ps=(昭和17年8月18日記事)(中略)「ソロモン」方面の戦闘につき、仝地奪回及モレスビー作戦一段落の時機に、勅語御下賜の思召あり。/ガダルカナル方面、一部陸戦隊増援、設営隊と連絡す。本方面及ブナ方面の上陸につき、御下問あり。}}。
ガ島守備隊からの情報により、日本軍守備隊の拠点は飛行場西方マタニカウ河西岸にあること(一木支隊先遣隊の上陸するタイボ岬は飛行場東側)、連合軍ガ島上陸部隊は2000名ほどでツラギ諸島へ脱出しつつあるが高射砲・戦車若干を有することが判明し、一木支隊長にも伝えられた{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=520}}。
[[8月17日]]午前10時30分、挺身隊(一木支隊先遣隊)は[[赤道]]を通過、このときソ連駐在武官発の「米軍はガ島からの脱出に腐心している」との情報が伝えられた{{Sfn|宮崎周一中将日誌|2003|pp=278-279}}。一木支隊将兵はやや落胆したという{{Sfn|宮崎周一中将日誌|2003|pp=278-279}}。一木支隊長は「大急ぎで行かなければ敵は逃げてしまう」と心配した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=520}}。一木支隊先遣隊(さらに一木支隊後続部隊や海軍陸戦隊も加われば)による飛行場奪回は容易との判断は、大本営のみならず現地陸海軍の共通認識であった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=520}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=523}}。

[[8月18日]]、第十七軍は川口支隊のガ島派遣について現地陸海軍協定を結んだ{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=304-306}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=158b-160|ps=川口支隊のガ島派遣計画}}。この中には「海軍航空部隊ヲ「ガダルカナル」島ニ推進シタル後 成ル可ク速ニ海陸協同シテ「ツラギ」及附近島嶼ヲ奪回ス」「(川口支隊上陸日=V日を8月28日とする)六 航空作戦ニ関スル事項 (イ)V-1日〈27日〉迄ニ戦闘機隊ノ一部ヲ「ガダルカナル」島ニ進出ス/(ロ)「ガダルカナル」島基地造成次第陸攻隊ノ一部ヲ「ガダルカナル」島ニ進出シ「ツラギ」攻略ニ協力ス/(ハ)V-1日ヨリV+1日迄船団前程哨戒ヲ実施ス」とあり、川口支隊上陸計画は一木支隊が飛行場を占領していることが前提になっていた{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=160b}}。第十七軍が一木支隊の飛行場奪回について楽観視していたことがうかがえる{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=160b}}。
同18日夜、挺身隊は[[マライタ島]]を見ながら南下した{{Sfn|倉橋|1987|pp=95-98|ps=ガダルカナル突入}}。2300、挺身隊駆逐艦6隻に乗船した一木支隊先遣隊(第1梯団、916名)は{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=35}}、食料7日分と携帯弾薬各自250発を携行して[[ガダルカナル島]][[ルンガ岬]]の約35km東にある同島タイボ岬に上陸、集結を完了した{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|p=101a|ps=即時、ガ島を奪回せよ}}{{#tag:Ref|Evans, ''Japanese Navy'', p. 161, Frank, ''Guadalcanal'', p. 145, Jersey, ''Hell's Islands'', p. 204, 212, Morison, ''Struggle for Guadalcanal'', p. 70, and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 43. 第1梯団は[[北海道]][[旭川市|旭川]]の第7師団歩兵第28連隊第1大隊(大隊長[[蔵本信夫]]少佐)を基幹とする。タイボ岬は日本海軍の前哨基地で200名程の海軍兵がおり<ref>[[#S1709八艦隊日誌(1)]]p.18〔八月十八日 佐五特派遣隊(二〇〇名)「タイボ」ニ揚陸成功 第四駆逐隊ハ佐五特派遣隊揚陸後「ルンガ」方面ヲ砲撃 海上トラック二撃沈 三ヲ大破ス <del>秋</del>萩風空襲ニ依リ損害ヲ受ク 〕</ref>、一木支隊の上陸を支援した。|group="注"}}。
上陸後、一木大佐は後続部隊の来着を待つことなく、先遣隊のみでの飛行場攻撃を決意した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=535}}。[[8月19日]]0000をもって前進を開始する{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=535}}。約100名の兵を後方の守備に充て、残り約800名を率いていた。移動は夜間機動で、昼間は休憩にあてた。[[8月19日|19日]]の日没前にはルンガ防衛線からおよそ14km東の地点まで到達した。一方ルンガの米海兵隊は、偵察部隊が飛行場西方のマタニカウ河で日本軍ガ島守備隊と交戦状態にあった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=533}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=161}}。この時、[[コースト・ウォッチャーズ]]等から「日本軍の駆逐艦が飛行場の東35km地点で兵員を揚陸した」との[[ミリタリー・インテリジェンス|情報]]を得た{{Sfn|日米諜報戦|2016|p=155}}。米海兵隊は、状況をより正確に把握するため更なる情報収集に努めた<ref>Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 99–100 and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 29 & 43–44.</ref>。

なお第17駆逐隊3隻(浦風、谷風、浜風)はポートモレスビー作戦にともなう[[ラビの戦い]]に従事するためすぐに[[ラバウル]]へ向かった{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=303}}{{Sfn|大和最後の艦長|2011|pp=173-175}}。3隻(嵐、萩風、陽炎)は上陸地点の警戒・敵脱出阻止のため同地に留まり、ツラギ泊地やルンガ岬に艦砲射撃を実施した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=303}}{{Sfn|倉橋|1987|pp=102-104|ps=敵魚雷艇数隻撃沈}}。駆逐艦は一木支隊先遣隊と無線連絡をおこなう手筈だったが、先遣隊からの連絡は全くなかったという{{Sfn|倉橋|1987|p=97}}{{Sfn|倉橋|1987|pp=101-102|ps=味方潜水艦}}。
午前中になると[[エスピリトゥサント島]]から飛来したと思われる[[B-17 (航空機)|B-17爆撃機]]の空襲により被弾した「萩風」が大破{{Sfn|倉橋|1987|pp=106-110|ps=萩風被爆す!}}、「嵐」と共にトラック泊地へ撤収、同方面に残る駆逐艦は「陽炎」1隻となった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=534}}{{#tag:Ref|奥宮正武は『ラバウル航空隊』で「萩風がB-17の爆撃で損傷し、僚艦[[山風 (白露型駆逐艦)|山風]]に援けられて撤退した」…と記述するが{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=102}}、山風と嵐の誤認。山風は既に沈没していた。|group="注"}}。
「陽炎」のツラギ泊地砲撃後の報告は「本射撃直後敵兵満載ノ大発数隻算ヲ乱シテ遁走セント図リタル為之ヲ砲撃セル所右往左往スル状況及攻撃中何等応戦ノ気配ナキ点其ノ他敵(兵数不明)ノ行動一般ニ活發ナラザル点等ヨリ考察シ、敵ハ相当士気沮喪セルニ非ズヤト認メラル、続イテ「ホーン」岬二粁附近ヲ往復極力見張所ト連絡ヲ試ミタルモ応答ナシ」であった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=534}}{{#tag:Ref|駆逐艦「陽炎」は8月20日に空襲を受けて避退、21日にショートランド泊地で水上機母艦[[秋津洲 (水上機母艦)|秋津洲]]より燃料補給を命じられた{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=539}}。|group="注"}}。
同19日1542、一木支隊先遣隊の間接支援をおこなっていた外南洋部隊支援部隊(青葉、衣笠、古鷹、夕凪)は[[サンタイサベル島]]北部のレカタに入泊し、臨時の水上基地を設置した{{#tag:Ref|外南洋部隊支援隊指揮官は[[五藤存知]]第六戦隊司令官。翌20日1202、第六戦隊は夕凪を残してレカタを出発した<ref>[[#第六戦隊日誌(5)]]p.28(昭和17年8月19日~20日行動)</ref>。|group="注"}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=539}}。同日夜{{Sfn|軍艦鳥海航海記|2018|p=216|ps=(昭和17年8月19日記事)}}、外南洋部隊主隊(重巡洋艦[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]、駆逐艦[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]){{Sfn|戦史叢書77|1974|p=158a}}はラバウルを出撃<ref>[[#S1709八艦隊日誌(1)]]p.55(昭和17年8月19日記事)</ref>、20日1000時点で[[ブカ島]]北東50浬地点にあった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=539}}。


== 戦闘 ==
== 戦闘 ==
43行目: 138行目:
[[File:GuadCoastwatcher.gif|thumb|right|英領ソロモン諸島[[コースト・ウォッチャーズ|沿岸監視員]]マーティン・クレメンス(中央)と現地警備軍。ガダルカナルの戦いを通じて連合軍の偵察員・案内役として活躍した。]]
[[File:GuadCoastwatcher.gif|thumb|right|英領ソロモン諸島[[コースト・ウォッチャーズ|沿岸監視員]]マーティン・クレメンス(中央)と現地警備軍。ガダルカナルの戦いを通じて連合軍の偵察員・案内役として活躍した。]]


イギリス領ソロモン諸島保護領守備軍(BSIPDF)の士官で[[コースト・ウォッチャーズ|沿岸監視員]]である{{仮リンク|マーティン・クレメンス|en|Martin Clemens}}の指揮の下、英領ソロモン諸島保護領警察隊ジェイコブ・C・ヴォウザ元上級曹長らをはじめとするソロモン諸島の沿岸監視員やその他の情報機関からの報告によって、日本軍がガダルカナル島に上陸しルンガ岬の東側を行軍中であることが明らかとなっていた。8月19日、更なる情報収集の為チャールズ・ブラッシュ大尉率いる海兵隊偵察部隊60名と4名の現地人[[斥候|スカウト]]がルンガ防衛線の東側の調査にあたった<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 148, Jersey, ''Hell's Islands'', p. 205.</ref><ref>Zimmerman, ''The Guadalcanal Campaign'', p. 62.</ref>。
イギリス領ソロモン諸島保護領守備軍(BSIPDF)の士官で[[コースト・ウォッチャーズ|沿岸監視員]]である{{仮リンク|マーティン・クレメンス|en|Martin Clemens}}の指揮の下、英領ソロモン諸島保護領警察隊ジェイコブ・C・ヴォウザ元上級曹長{{Sfn|平塚、米軍記録|1995|p=77}}らをはじめとするソロモン諸島の沿岸監視員やその他の情報機関からの報告によって、日本軍増援部隊がガダルカナル島に上陸しルンガ岬の東側を行軍中であることが明らかとなっていた{{Sfn|日米諜報戦|2016|p=155}}。8月19日、海兵隊はルンガ防衛線西側のマタニカウ川で、日本軍ガ島守備隊と引き続き交戦していた{{Sfn|土井|2009|p=50}}。一方、更なる情報収集の為チャールズ・ブラッシュ大尉率いる海兵隊偵察部隊60名と4名の現地人[[斥候|スカウト]]がルンガ防衛線の東側の調査にあたった<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 148, Jersey, ''Hell's Islands'', p. 205.</ref><ref>Zimmerman, ''The Guadalcanal Campaign'', p. 62.</ref>。


前述のように一木支隊先遣隊は[[8月18日]]23時までにはタイボ岬に上陸を完了し、後続部隊の到着を待たずに前進を開始した{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=306a-310|ps=一木支隊の攻撃失敗}}。
同じころ、一木支隊も敵情視察と前線の連絡拠点確立のため、38名の偵察部隊を出した。8月19日12:00ごろ、コリ岬付近にてブラッシュ大尉の偵察部隊が日本軍[[斥候]]兵を視認、待ち伏せ攻撃を仕掛けた。日本軍側は33名死亡、生き延びた5名はタイボ岬へと退却した。米海兵隊の損害は3名死亡、3名負傷であった<ref group="注">Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 100, Jersey, ''Hell's Islands'', p. 205, and Smith, ''Bloody Ridge'', p.47.この戦死数はイル川渡河戦全体の両軍の戦死者数に含まれている。なお、日本軍斥候部隊の隊長は渋谷好美大尉であった。</ref>。
[[8月19日]]午前4時30分、一木支隊先遣隊はテテレ(タイボ岬西方15km)に到着して大休止した{{Sfn|平塚、米軍記録|1995|p=76}}。企図秘匿のため夜間に移動し、昼間は休止することにした{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=307}}。
午前8時30分、一木支隊先遣隊も敵情視察と前線の連絡拠点確立のため、渋谷大尉以下をイル川(中川)付近に、館中尉以下四組の将校斥候を飛行場方面に派遣した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=307}}。同19日12:00ごろ、コリ岬付近にてブラッシュ大尉の偵察部隊が日本軍[[斥候]]兵を視認、海岸線を進んでくる一木支隊偵察部隊に対し待ち伏せ攻撃を仕掛けた{{Sfn|日米諜報戦|2016|p=155}}。米側記録によれば、将校4名と下士官兵30名の一群は戦闘隊形をとらずに前進していたという{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=307}}。日本軍側は33名死亡{{Sfn|日米諜報戦|2016|p=155}}(将校全員をふくむ18名戦死、のち1名が捕虜と判明とも){{Sfn|平塚、米軍記録|1995|p=77}}、生き延びた5名はタイボ岬へと退却した。米海兵隊の損害は3名死亡、3名負傷であった{{#tag:Ref|Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 100, Jersey, ''Hell's Islands'', p. 205, and Smith, ''Bloody Ridge'', p.47.この戦死数はイル川渡河戦全体の両軍の戦死者数に含まれている。なお、日本軍斥候部隊の隊長は渋谷好美大尉であった。|group="注"}}。
偵察部隊の士官の遺体から得た書類などから、上陸した日本軍は比較的大きな部隊(陸軍)に所属していることが明らかとなった{{Sfn|日米諜報戦|2016|p=156}}<ref>Zimmerman, ''The Guadalcanal Campaign'', p. 62</ref>。だが、その兵力の具体的な規模や日本軍の攻撃がいつ始まるのかといった情報は得られなかった<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 149.</ref>。
これらの情報から、米軍海兵隊はルンガの東方からの攻撃を想定し、防衛線東部の防備を固めていた。なお米軍公式戦史では、ルンガ防衛線の東部防衛地点をテナル川に同定しているが、テナル川は戦闘の発生した場所の更に東側に位置しており、実際にルンガ防衛線の東部を形成していたのはイル川である。イル川は連合軍側ではアリゲーター・クリークと呼ばれていたが、この呼称には二つの過ちがある。まず、ソロモン諸島には[[アリゲーター科|アリゲーター]]は生息しておらず{{#tag:Ref|アリゲーター科の[[ワニ]]が生息するのは、南北アメリカ大陸と中国長江などである。|group="注"}}、[[クロコダイル科|クロコダイル]]しかいないこと、また、クリーク({{lang|en|Creek}}:入江)と言いながらも実際は海と幅7m - 15m、長さ30mの[[砂州]]で分かたれた[[潟]]であったことである<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 150.</ref>。日本側は、イル川を「中川」、テナル川を「蛇川」と呼称している{{Sfn|第十七軍作戦.附図|1946|p=9}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=535}}。


米[[第1海兵師団_(アメリカ軍)|第1海兵連隊]]{{仮リンク|クリフトン・ケイツ|en|Clifton B. Cates}}大佐は第1・第2大隊をイル川の西岸に沿って配置した<ref name="Hammel">Hammel, ''Carrier Clash'', p. 135.</ref><ref>Zimmerman, ''The Guadalcanal Campaign'', p. 67.</ref>。さらに第1特殊兵器大隊100名に[[キャニスター弾]](対人用散弾)を装備した[[M3 37mm砲|37mm対戦車砲]]2門を備え、イル川砂州の守備にあたらせ、イル川東岸と砂州を事前に標的に据えさせ、砲兵隊の観測兵を海兵隊陣地前線に配置した<ref>Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 102.</ref>。海兵隊はこの守備固めに20日丸一日を費やし、日没までに可能な限り守備を整えた<ref name="Hammel"/>。
偵察部隊の士官の遺体から得た書類などから、上陸した日本軍は比較的大きな部隊に所属していることが明らかとなった<ref>Zimmerman, ''The Guadalcanal Campaign'', p. 62</ref>が、その兵力の具体的な規模や日本軍の攻撃がいつ始まるのかといった情報は得られなかった<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 149.</ref>。


同19日午後2時30分に偵察隊遭遇交戦中の報を受けた一木大佐は救援のため第1個中隊を先遣した後、主力も午後4時にテテレを出発した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=307}}。19日夜間も行軍を続け、[[8月20日]]午前2時30分にコリ岬西側のレンゴに到達して大休止にうつった{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=308}}。午前5時頃、B-17重爆 1機が飛来し、ルンガ岬方面には大発動艇が航行、第十一設営隊の宿営舎跡付近で敵兵が活発に動いているのを認めた{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=308}}。
これらの情報から、米軍海兵隊はルンガの東方からの攻撃を想定し、防衛線東部の防備を固めていた。なお米軍公式戦史では、ルンガ防衛線の東部防衛地点をテナル川に同定しているが、テナル川は戦闘の発生した場所の更に東側に位置しており、実際にルンガ防衛線の東部を形成していたのはイル川である。イル川は連合軍側ではアリゲーター・クリークと呼ばれていたが、この呼称には二つの過ちがある。まず、ソロモン諸島には[[アリゲーター科|アリゲーター]]は生息しておらず<ref group="注">アリゲーター科の[[ワニ]]が生息するのは、南北アメリカ大陸と中国長江などである。</ref>、[[クロコダイル科|クロコダイル]]しかいないこと、また、クリーク({{lang|en|Creek}}:入江)と言いながらも実際は海と幅7m - 15m、長さ30mの[[砂州]]で分かたれた[[潟]]であったことである<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 150.</ref>。
同20日06時20分、駆逐艦[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]は敵単発機2機の攻撃を受けて避退した{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=163b}}。敵空母機の可能性があったため飛行艇が索敵をおこなった結果{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=102}}、同20日朝になり[[サン・クリストバル島]]南方(ガダルカナル島南東方面約250浬/約460[[キロメートル|km]])に[[航空母艦]]と[[巡洋艦]]を含む有力な艦隊と輸送船団を発見した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=538}}{{Sfn|軍艦鳥海航海記|2018|p=217|ps=(昭和17年8月20日記事)敵現る 0930 ツラギ南東 A×2、C×6、d×12、T多数}}。南東方面部隊指揮官は、ガ島に向け進撃中の一木支隊第二梯団に反転避退を、基地航空部隊と外南洋部隊には敵機動部隊に対する攻撃と残敵撃滅を命じた{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=163a-164|ps=敵機動部隊の発見と敵機のガ島進出}}。ところが南東方面部隊(塚原中将)は一木支隊第二梯団に対し「北方へ避退せよ」と命じ、外南洋部隊(三川中将)は「南西に避退せよ」と命じたので、板挟みになった第二水雷戦隊司令官[[田中頼三]]少将は「やむなく、二つの命令の中間をとって北西の針路をとった」と回想している{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=103}}。この後も輸送船団に対し、塚原中将と三川中将から相反する命令が出されている{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=104}}。通信状況も不良であり、電報の遅延や不達も多くなった{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=322-323|ps=八月二十日の輸送船団}}。


同時期、護衛空母「[[ロング・アイランド (護衛空母)|ロング・アイランド]]」はガ島に接近し{{Sfn|ニミッツ|1962|p=119}}、[[F4F (航空機)|F4Fワイルドキャット戦闘機]] 19機と[[SBD (航空機)|SBDドーントレス急降下爆撃機]] 12機をヘンダーソン飛行場に空輸した{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=98b-99|ps=進出第一陣は海兵隊}}。ロング・アイランドが輸送した[[戦闘機]]と[[急降下爆撃機]]は、ガダルカナル島攻防戦で重要な戦力となった{{Sfn|護衛空母入門|2005|p=225}}。航空戦力の進出により、ガダルカナル島周辺の[[制空権]]は米軍のものとなった{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=16-17|ps=昭和17年8月20日 ガ島飛行場に海兵隊機進出}}。上記のように最初に進出したのは海兵隊所属機だったが、まもなく陸軍航空隊の[[P-38 (航空機)|P-38ライトニング]]や[[P-39 (航空機)|P-39エアコブラ]]といった戦闘機、空母から派遣された戦闘機や急降下爆撃機が次々に増強された{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=98c-99}}。ヘンダーソン基地使用開始からわずか10日間で、三個戦闘飛行隊(海兵隊2、陸軍1)、一個偵察飛行隊(海軍)、三個爆撃飛行隊(海兵隊2、海軍1)が投入された{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=98c-99}}。
米[[第1海兵師団_(アメリカ軍)|第1海兵連隊]]{{仮リンク|クリフトン・ケイツ|en|Clifton B. Cates}}大佐は第1・第2大隊をイル川の西岸に沿って配置した<ref name="Hammel">Hammel, ''Carrier Clash'', p. 135.</ref><ref>Zimmerman, ''The Guadalcanal Campaign'', p. 67.</ref>。さらに第1特殊兵器大隊100名に[[キャニスター弾]](対人用散弾)を装備した[[M3 37mm砲|37mm対戦車砲]]2門を備え、イル川砂州の守備にあたらせ、イル川東岸と砂州を事前に標的に据えさせ、砲兵隊の観測兵を海兵隊陣地前線に配置した<ref>Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 102.</ref>。海兵隊はこの守備固めに20日丸一日を費やし、日没までに可能な限り守備を整えた<ref name="Hammel"/>。


ヘンダーソン飛行場に米軍航空機が進出したことは<ref>[[#S1709八艦隊日誌(1)]]pp.55-56(昭和17年8月20日記事)</ref>、日本軍も確認した{{Sfn|土井|2009|p=50}}{{Sfn|軍艦鳥海航海記|2018|p=218a|ps=(昭和17年8月21日記事)曇雨、視界不良のため敵情を得ず}}。ガ島守備隊は14時20分に「敵艦上機二〇機 内戦闘機二機 飛行場ニ着陸セルモノノ如シ」と報告した{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=163b}}。[[宇垣纏]]聯合艦隊参謀長は「彼の企図は飛行機運搬にありしか、但し之は全機と認むるを得ず、更に同様の[[改造空母|特設空母]]二の矢として同様任務に服しあるやも知れず。/本移動せる飛行機を速に撃破し尚敵の飛行場使用を不可能ならしむる如く空襲夜間砲撃等現下の急務たり。根を卸さしむべからずと焦慮するも出先は仲々思ふ通りに動かず」と記述している{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=163b}}。
偵察隊全滅の報を受けた一木大佐は遺体埋葬の為1個中隊を先遣した後、19日夜間も行軍を続け、[[8月20日]]04:30にはルンガ岬の米軍陣地から東に数キロの地点まで到達した。一木支隊はこの位置で行軍を一旦停止し、同日夜間の攻撃に備えた<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 149 & 151, and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 48.</ref>。
また小型駆逐艦や輸送船がルンガ泊地にて揚陸作業中との情報により、駆逐艦[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]](第24駆逐隊)と駆逐艦[[夕凪 (2代神風型駆逐艦)|夕凪]](第29駆逐隊)に泊地突入命令が出た{{#tag:Ref|敵は依然ガ島方面に主導し兵力を増強すると共に十七日には潜水艦二隻を以てマキン島に奇襲上陸を行ひ我海上兵力のガ島方面集中を牽制して來た/聯合艦隊司令長官は右の情況に鑑み内南洋部隊指揮官井上中蒋に對しマキン島の奪囘竝にナウル、オーシャン島の破壊占領を下令した/二十日ツラギの南東方に敵空母部隊策動中なるを發見し南東方面部隊指揮官塚原中蒋は一木支隊主力の揚陸を一時延期し聯合艦隊海上兵力の支援配備完了する二十四日を以て上陸決行のこととし此の間輕快部隊を以て二十一日夜ルンガロードに入泊中の敵部隊を攻撃すると共に二十二日有力なる基地航空部隊を以て敵増援部隊竝に軍事施設撃破を下令した 二十一日近藤、南雲、兩艦隊はトラツクの南東方を南下中であり、山本大蒋はトラツク西方を南下中である{{Sfn|南東方面海軍作戦(1)|1947|p=11}} |group="注"}}{{Sfn|軍艦鳥海航海記|2018|p=218b}}{{#tag:Ref|夕凪は天候不良のため泊地に突入できず{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=550}}、陽炎は燃料補給のために後退{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=535}}、江風は8月22日単艦で突入し米軍駆逐艦3隻([[ブルー (DD-387)|ブルー]]、[[:en:USS Helm (DD-388)|ヘルム]]、[[:en:USS Henley (DD-391)|ヘンリー]])と交戦してブルーを撃沈した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=552}}。|group="注"}}。


=== 攻撃 ===
=== 攻撃 ===
[[File:GuadTenaruMap.gif|thumb|300px|right|8月21日の戦場図]]
[[File:GuadTenaruMap.gif|thumb|300px|right|8月21日の戦場図]]
[[8月20日]]深夜、午前時をちょうど過ぎころ、一木支隊隊はイル川東岸到着したが、驚くべきことに対岸には米海兵隊の陣地が構えてあった。ルンガ岬の飛行場からこれ程離れた場所に米軍陣地があることは想定していなかった<ref>Smith, ''Bloody Ridge'', p. 58.</ref>。米軍の背後をつくつもりが、強固な守備陣地の正面からの攻撃となったのである。一方の米海兵隊は、日本兵がイル川に向けて進軍する際のカチャカチャいう音や話し声を偵察兵(聴音哨)が聞きつけており、日本軍接近を察知済みであった。
[[8月20日]]午前10、一木支隊長は攻撃計画策定し、攻撃命令を下達し{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=309}}。午後6時、一木支隊先遣隊はレンゴを出発した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=536}}。工兵隊の下士官斥候一組(現地民3名、通訳1名)が先遣し、中川(イル川)渡河点を偵察することなった{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=309}}。すると先遣した工兵下士官から「誘導の土人1名逃亡し射殺したが、中川方向に信号弾が上がるのを見た」との報告があった{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=309}}。20:00、部隊は中川に到達した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=536}}。中川西岸は東岸と比較して台地状になっており、驚くべきことに米海兵隊の陣地が構えてあった{{Sfn|第十七軍作戦.附図|1946|p=9}}。ルンガ岬の飛行場からこれ程離れた場所に米軍陣地があることは想定していなかった<ref>Smith, ''Bloody Ridge'', p. 58.</ref>。米軍の背後をつくつもりが、強固な守備陣地の正面からの攻撃となったのである。一方の米海兵隊は、日本兵がイル川に向けて進軍する際のカチャカチャいう音や話し声を偵察兵(聴音哨)が聞きつけており、日本軍接近を察知済みであった。


[[8月21日]]01:30、一木支隊はイル川西岸に対して攻撃を開始、第一波の100名がイル川を渡って海兵隊陣地に突撃した<ref>Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 102, Hough, ''Pearl Harbor to Guadalcanal'', p. 290, and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 58–59.</ref>が、[[キャニスター弾]]を装填した37mm榴弾砲と機銃の猛射に遭い、ほとんどの兵は砂州を渡る際に倒された。海兵隊陣地にたどり着いた兵もわずかにおり、[[白兵戦]]を挑むなどして機銃陣地を確保したものもあった。日本軍の機銃射撃と小銃射撃によって戦死した米海兵隊銃手もいた<ref>Jersey, ''Hell's Islands'', p. 210, Hammel, ''Carrier Clash'', p. 137.</ref>。だが、米軍前線を突破した日本兵も、その直ぐ後ろに待機していた中隊の攻撃に遭い、機銃陣地を確保し続けることはできなかった。一木支隊の最初の攻撃は100名余りの損害を出し、開始から一時間足らずで一旦停止することを余儀なくされた<ref>Zimmerman, ''The Guadalcanal Campaign'', p. 68.</ref><ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 153.</ref>。
日本時間[[8月20日]]22:30(連合軍時間[[8月21日]]01:30)、一木支隊先遣隊はイル川西岸に対して攻撃を開始{{Sfn|第十七軍作戦.附図|1946|p=9}}、第一波の100名がイル川を渡って海兵隊陣地に突撃した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=309}}。だが[[キャニスター弾]]を装填した37mm榴弾砲と機銃の猛射に遭い<ref>Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 102, Hough, ''Pearl Harbor to Guadalcanal'', p. 290, and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 58–59.</ref>、ほとんどの兵は砂州を渡る際に倒された{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=101b-102|ps=一木先遣隊の壊滅}}。海兵隊陣地にたどり着いた兵もわずかにおり、[[白兵戦]]を挑むなどして機銃陣地を確保したものもあった{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=310}}。日本軍の機銃射撃と小銃射撃によって戦死した米海兵隊銃手もいた<ref>Jersey, ''Hell's Islands'', p. 210, Hammel, ''Carrier Clash'', p. 137.</ref>。だが、米軍前線を突破した日本兵も、その直ぐ後ろに待機していた中隊の攻撃に遭い、機銃陣地を確保し続けることはできなかった。一木支隊の最初の攻撃は100名余りの損害を出し、開始から一時間足らずで一旦停止することを余儀なくされた<ref>Zimmerman, ''The Guadalcanal Campaign'', p. 68.</ref><ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 153.</ref>。


02:30、日本側の第二波として、150名から200名の日本兵がイル川砂州を超えるべく再攻撃を掛けたが、またもや米軍の火力の前に一掃された。このとき、生き延び士官が一木大佐に残存兵をまとめて撤退すべきであると進言したが、一木大佐はこの進言を退けた<ref>Smith, ''Bloody Ridge'', p. 62–63.</ref>。
日本時間[[8月20日]]23:30{{Sfn|第十七軍作戦.附図|1946|p=9}}(連合軍時間[[8月21日]]02:30)、日本側の第二波として、150名から200名の日本兵がイル川砂州を超えるべく再攻撃を掛けたが、またもや米軍の火力の前に一掃された。このとき、攻撃から還し将校が一木大佐に残存兵をまとめて撤退すべきであると進言したが、一木大佐はこの進言を退けた<ref>Smith, ''Bloody Ridge'', p. 62–63.</ref>。


一木支隊はイル川東岸で部隊を再編成し、迫撃砲による砲撃を開始した<ref>Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 103.</ref>。これに対し、米海兵隊も75mm砲と迫撃砲でイル川東岸に砲撃、応戦した<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 153, and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 63.</ref>。5:00頃、日本は3度目の攻撃を仕掛けた。このときはイル川渡河ではなく、北の海側から廻り込んで西岸を攻撃しようとした。だがこの迂回攻撃は直ぐに米軍に察知され、浜辺一帯は重機関銃と砲兵の砲撃を浴びた。一木支隊は三たび甚大な被害を被り、迂回攻撃をあきらめ東岸に撤退することを余儀なくされた<ref>Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 103–104.</ref><ref>Hammel, ''Carrier Clash'', p. 141.</ref>。この後1-2時間程、イル川を挟んで至近距離での銃撃による応酬が続いた<ref name="Zimmerman">Zimmerman, ''The Guadalcanal Campaign'', p. 69.</ref>。
一木支隊先遣隊はイル川東岸で部隊を再編成し、迫撃砲による砲撃を開始した<ref>Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 103.</ref>。これに対し、米海兵隊も75mm砲と迫撃砲でイル川東岸に砲撃、応戦した<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 153, and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 63.</ref>。21日02:00(連合軍時間21日5:00)頃、日本は3度目の攻撃を仕掛けた{{Sfn|第十七軍作戦.附図|1946|p=9}}。このときはイル川渡河ではなく、北の海側から廻り込んで西岸を攻撃しようとした。だがこの迂回攻撃は直ぐに米軍に察知され、浜辺一帯は重機関銃と砲兵の砲撃を浴びた。一木支隊先遣隊は三たび甚大な被害を被り、迂回攻撃をあきらめ東岸に撤退することを余儀なくされた<ref>Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 103–104.</ref><ref>Hammel, ''Carrier Clash'', p. 141.</ref>。この後1-2時間程、イル川を挟んで至近距離での銃撃による応酬が続いた<ref name="Zimmerman">Zimmerman, ''The Guadalcanal Campaign'', p. 69.</ref>。


[[File:GuadTanaruDeadJapanese.gif|thumb|250px|right|21日の戦闘後、イル川の砂州に半ば埋まって横たわる一木支隊の将兵]]
[[File:GuadTanaruDeadJapanese.gif|thumb|250px|right|21日の戦闘後、イル川の砂州に半ば埋まって横たわる一木支隊の将兵]]


一木支隊は既に壊滅的な被害を被っていたが、依然としてイル川東岸に留まり続けていた。撤退できなかったのか、あるいは撤退するつもりがなかったのかは不明である<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 154 and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 66.</ref>。[[8月21日]]明方、米軍士官は如何にして戦闘を継続するか協議し、結論として日本軍を追い詰め、攻撃を仕掛けさせてから返り討ちにすることにした<ref>Hough, ''Pearl Harbor to Guadalcanal'', p. 290.</ref>。第1連隊第1大隊のレナード・クレスウェル[[中佐]]は、戦闘地域からイル川を溯上、一木支隊を南方と東方から包囲しイル川東部の[[ココナッツ]]林に追い込んだ<ref name="Zimmerman"/>。また、ヘンダーソン飛行場から航空機による機銃掃射で日本軍をココナッツ林に足止めし、午後になってから投入された5輌の[[M3軽戦車]]が砂州を超えてココナッツ林を攻撃した。戦車は機銃とキャニスター弾の砲撃でココナッツ林に猛射を浴びせ、横たわる日本兵を生死を問わず押しつぶしていった。ヴァンデグリフト少将は、戦車攻撃が終わった時の様子を「戦車の後ろ側はまるで挽肉器(meat grinder)のようであった」と書き残している<ref group="注">Gilbert, ''Marine Tank Battles'', p. 42–43, Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 106, Jersey, ''Hell's Islands'', p. 212, and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 66. 戦闘に参加した戦車は4輌だけであったとする資料もある。</ref>
一木支隊は既に壊滅的な被害を被っていたが、依然としてイル川東岸に留まり続けていた。撤退できなかったのか、あるいは撤退するつもりがなかったのかは不明である<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 154 and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 66.</ref>。[[8月21日]]明方、米軍士官は如何にして戦闘を継続するか協議し、結論として日本軍を追い詰め、攻撃を仕掛けさせてから返り討ちにすることにした<ref>Hough, ''Pearl Harbor to Guadalcanal'', p. 290.</ref>。第1連隊第1大隊のレナード・クレスウェル[[中佐]]は、戦闘地域からイル川を溯上、一木支隊を南方と東方から包囲しイル川東部の[[ココナッツ]]林に追い込んだ<ref name="Zimmerman"/>。また、ヘンダーソン飛行場からは小型艦上機が発進し、戦闘に加わった{{Sfn|土井|2009|p=50}}。航空機による機銃掃射で日本軍をココナッツ林に足止めし、午後になってから投入された5輌の[[M3軽戦車]]が砂州を超えてココナッツ林を攻撃した{{Sfn|平塚、米軍記録|1995|p=79}}。戦車は機銃とキャニスター弾の砲撃でココナッツ林に猛射を浴びせ、横たわる日本兵を生死を問わず押しつぶしていった{{Sfn|平塚、米軍記録|1995|p=79}}。ヴァンデグリフト少将は、戦車攻撃が終わった時の様子を「戦車の後ろ側はまるで挽肉器(meat grinder)のようであった」と書き残している{{#tag:Ref|Gilbert, ''Marine Tank Battles'', p. 42–43, Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 106, Jersey, ''Hell's Islands'', p. 212, and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 66. 戦闘に参加した戦車は4輌だけであったとする資料もある。|group="注"}}


21日17:00には一木支隊の抵抗も止み、戦闘は終了した。一木大佐の最期については戦闘中戦死した、また[[自決]]したなど記録によって異なる<ref group="注">Smith, ''Bloody Ridge'', p. 71–72. Smithによると、戦闘を生き延びた日本兵のほとんどは、一木大佐は自決ではなく戦死したと主張している。戦闘の後、負傷した日本軍士官は、死んだふりをして近づいた米兵を射撃し重傷を負わせ別の米兵アンディ・ポリニー(Andy Poliny)に殺された。ポリニーはこの人物が一木大佐であったと信じている。</ref><ref group="注">Frank, ''Guadalcanal'', p. 156. Frankは、「[[戦史叢書]]によると一木は[[切腹]]して自決したとある」としている。しかし日本軍生存兵には、一木大佐が米軍陣地に突撃したのを最後に目撃したと証言するものもいる</ref><ref group="注">[[#川口 (1960|川口 (1960),p.197]]。川口支隊を率いた[[川口清健]]の手記では「一木大佐は軍旗を処分した後立派に自決した」とある。</ref>。戦闘終了後、物見高い米兵が戦闘後戦場を見て回った際、負傷した日本兵に近づいたところを撃たれ死亡するものも出た。このため、その後海兵隊はすべての日本兵の遺体を撃ち、銃剣で刺した。負傷し意識不明であった日本兵15名が連合軍の捕虜となった。戦闘を生き延び後方に逃れた一木支隊の兵は30名程で、タイボ岬に待機していた第1梯団後方部隊に合流<ref group="注">Hough, ''Pearl Harbor to Guadalcanal'', p. 291 and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 43 and 73. 戦闘前100名程が後方の守備に置かれたことと、戦闘を生き延びた兵は128名であるとの記録があるので、30名程が戦闘を生き延びて後方に逃れたものと推測できる。</ref>
21日15:00{{Sfn|第十七軍作戦.附図|1946|p=9}}(連合軍時間17:00)には一木支隊の抵抗も止み、戦闘は終了した。一木大佐の最期については戦闘中戦死した」{{Sfn|平塚米軍記録|1995|p=79}}または「軍旗を焼いて[[自殺|自決]]して果て」{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=310}}など記録によって異なる{{#tag:Ref|Smith, ''Bloody Ridge'', p. 71–72. Smithによると、戦闘を生き延びた日本兵のほとんどは、一木大佐は自決ではなく戦死したと主張している。戦闘の後、負傷した日本軍士官は、死んだふりをして近づいた米兵を射撃し重傷を負わせ別の米兵アンディ・ポリニー(Andy Poliny)に殺された。ポリニーはこの人物が一木大佐であったと信じている。|group="注"}}{{#tag:Ref|Frank, ''Guadalcanal'', p. 156. Frankは、「[[戦史叢書]]によると一木は[[切腹]]して自決したとある」としている。しかし日本軍生存兵には、一木大佐が米軍陣地に突撃したのを最後に目撃したと証言するものもいる{{Sfn|平塚、米軍記録|1995|p=79}}。一木大佐戦死後、旗手の将校や下士官兵により[[軍旗]]は奉焼されたという{{Sfn|平塚、米軍記録|1995|p=79}}。|group="注"}}{{#tag:Ref|[[#川口 (1960)|川口 (1960),p.197]]。川口支隊を率いた[[川口清健]]の手記では「一木大佐は軍旗を処分した後立派に自決した」とある。|group="注"}}
戦闘終了後、物見高い米兵が戦場を見て回った際、負傷した日本兵に近づいたところを撃たれ死亡するものも出た。このため、その後海兵隊はすべての日本兵の遺体を撃ち、銃剣で刺した。負傷し意識不明であった日本兵15名が連合軍の捕虜となった{{Sfn|平塚、米軍記録|1995|p=80}}。戦闘を生き延び後方に逃れた一木支隊の兵は30名程で、タイボ岬に待機していた第1梯団後方部隊に合流、残存部隊は128名となっ{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=310}}{{#tag:Ref|Hough, ''Pearl Harbor to Guadalcanal'', p. 291 and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 43 and 73. 戦闘前100名程が後方の守備に置かれたことと、戦闘を生き延びた兵は128名であるとの記録があるので、30名程が戦闘を生き延びて後方に逃れたものと推測できる。|group="注"}}。一木支隊戦死者の埋葬作業には、アメリカ軍に集団投降していた朝鮮人労働者(日本海軍設営隊)も使役されたという{{Sfn|平塚、米軍記録|1995|p=81}}


== 影響 ==
== 影響 ==
米軍・連合軍にとってイル川渡河戦での勝利は心理的に重要な意味をもっていた。連合軍の兵士はこれまでの[[太平洋戦線]]および東アジア戦線の地上戦において日本軍に負け続けてきたが、この戦いの勝利によって日本軍を地上戦においても打ち負かすことができることを知った<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 157.</ref>。また連合軍はこの戦いで「日本兵は敗北しても降伏することを良しとせず、負傷し倒れてもなお連合軍兵を殺しにかかる」という、太平洋戦争終戦まで通じる戦訓を得た。この点についてヴァンデグリフト少将は次のように述べた。「私はこのような類の戦いを見たことも聞いたこともなかった。彼らは降伏を拒む。傷ついた日本兵は米兵が調べに来るのをじっと待ち、近づいた米兵を手榴弾で自らの体ごと吹き飛ばすのだ<ref>Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 107</ref>。」ガダルカナルに機関銃手などとして従軍した[[ロバート・レッキー]]は回顧録『''Helmet For My Pillow''(ヘルメットを枕に)』で「我々の連隊は900名ばかりの日本兵を倒した。ほとんどは銃火の前に塊となったり、山積となったりして倒れた。まるで日本兵は集団じゃないと死なないかのようだった。戦闘後、死体の間では戦場の"みやげもの"を探そうとする奴らが動き回っていた。[[ブービートラップ]]があるので慎重に歩き回り、見つけた遺体を裸にしていた<ref>Leckie, Robert Helmet For My Pillow Bantam Books Trade Paperback Edition 2010 pp.84-85</ref>。」
米軍・連合軍にとってイル川渡河戦での勝利は心理的に重要な意味をもっていた。連合軍の兵士はこれまでの[[太平洋戦線]]および東アジア戦線の地上戦において日本軍に負け続けてきたが、この戦いの勝利によって日本軍を地上戦においても打ち負かすことができることを知った<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 157.</ref>。また連合軍はこの戦いで「日本兵は敗北しても降伏することを良しとせず、負傷し倒れてもなお連合軍兵を殺しにかかる」という、太平洋戦争終戦まで通じる戦訓を得た。この点についてヴァンデグリフト少将は次のように述べた。「私はこのような類の戦いを見たことも聞いたこともなかった。彼らは降伏を拒む。傷ついた日本兵は米兵が調べに来るのをじっと待ち、近づいた米兵を手榴弾で自らの体ごと吹き飛ばすのだ<ref>Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 107</ref>。」ガダルカナルに機関銃手などとして従軍した[[ロバート・レッキー]]は回顧録『''Helmet For My Pillow''(ヘルメットを枕に)』で「我々の連隊は900名ばかりの日本兵を倒した。ほとんどは銃火の前に塊となったり、山積となったりして倒れた。まるで日本兵は集団じゃないと死なないかのようだった。戦闘後、死体の間では戦場の"みやげもの"を探そうとする奴らが動き回っていた。[[ブービートラップ]]があるので慎重に歩き回り、見つけた遺体を裸にしていた<ref>Leckie, Robert Helmet For My Pillow Bantam Books Trade Paperback Edition 2010 pp.84-85</ref>。」


[[8月21日]]朝の時点で、第十七軍はガダルカナル島日本軍守備隊から「二一日〇二〇〇ヨリ引続キ飛行場附近ニ盛ニ銃声ヲ聞ク 敵小型陸上機四機 〇四〇〇離陸旋回シアリ」「〇四〇〇離陸セル敵戦闘機五機ハ〇五〇〇乃至〇五三〇ノ間ニ着陸其ノ後離陸セズ 銃砲声ハ引続キ飛行場附近ニ在リ」「敵機ノ離陸並ニ飛行スルモノヲ認メズ 先遣隊ノ攻撃ハ我軍ニ有利ニ進展中ト推定ス 〇六三〇」「一木支隊及同先遣隊ニ伝ヘラレ度 味方工員多数飛行場周辺密林中ニ統制ナク避退シアリ 御了承ヲ乞フ」という一連の電報を受け、飛行場占領を待った{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=312-313}}。連合艦隊司令部では、一木支隊先遣隊の攻撃で敵が降伏したと見る参謀も多かった{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=313}}。
この戦いは、これまでの戦闘で無敵であり、敵軍に対し優位にあると信じていた日本兵の心理にも重大な影響を及ぼした。[[8月25日]]の夜までに、一木支隊の生存兵はタイボ岬へ帰還し、ラバウルの第17軍に無線で「一木支隊は飛行場を目前にしてほぼ全滅した」と伝えた。だが陸軍上層部はこの報を信じず、ヘンダーソン飛行場奪還作戦を続行し、部隊を追加投入した<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 158 and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 74.</ref>。次なる日本軍の大規模反撃は、約3週間後の[[ガダルカナル島の戦い#第1次総攻撃|第1次総攻撃]]([[ムカデ高地の戦い]]、[[血染めの丘の戦い]]、[[エドソンの丘の戦い]]とも)であり、日本軍は飛行場奪還を期して、イル川渡河戦を上回る川口支隊約6,500名を投入したのであった。
夕刻、ガ島日本軍守備隊は「一木先遣隊ハ今朝飛行場附近ニ到達セルモ殆ンド全滅ニ瀕ス、東見張所ヨリ連絡アリタリ、ぼすとん丸ニ伝ヘラレ度(発信者名なし)」と打電し、海軍側は第十七軍司令部に伝達した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=537}}。第十一航空艦隊は連合艦隊に対し「二十一日「ガダルカナル」ヨリ一木支隊先遣隊ハ飛行場突入前全滅ニ瀕セリトノ電アリ 再調査中ナルモ右情報ハ出所(発令者)ニ多大ノ疑問アリ」と報告した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=313}}。第八艦隊は一木支隊先遣隊の攻撃が失敗したと記録した<ref>[[#S1709八艦隊日誌(1)]]pp.56-57(昭和17年8月21日記事)</ref>。第十七軍は一木支隊先遣隊の苦戦を認め、川口支隊を直接ガダルカナル島に突入させることを決定した{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=167}}。また、一木先遣隊に対する空中補給を海軍側に依頼した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=537}}。

[[8月24日]]午前6時、ガ島守備隊は「昨夕敵ニ異状アリタルガ如シ 敵戦闘機二二機 十五時三十分 一旦離陸セル処 当時飛行場附近盛ニ銃声アリ 敵戦闘機ハ 十六時二十分頃一斉ニ離陸シ航空灯ヲ点シ右往左往ス 海岸附近ニモ銃声アリ」と報告したので、第十七軍は「一木支隊先遣隊は態勢をたてなおし、飛行場に対する妨害を実施している」と判断した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=314}}。午後7時35分、第十七軍は大本営に『「ガダルカナル」守備隊ヨリノ電報ニ依レハ 一木支隊ハ飛行場附近ニ健在飛行場〔擾乱〕ニ努メアルモノノ如シ』と報告した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=314}}。
一方、大本営は「一木先遣隊が飛行場を攻撃して相当の被害を受けた」との情報を入手した{{Sfn|城英一郎日記|1982|p=179|ps=(昭和17年8月24日記事)(中略)「ガダルカナル」の敵兵約二〇〇〇、一木先遣隊、(飛行機)場攻撃中なるが如し、相当被害を受く。(以下略)}}。昭和天皇は杉山参謀長の戦況上奏に「一木支隊はガ島に拠点を保持できるか。また南海支隊の方面はどうなってるか。ひどい作戦になったではないか」と御下問した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=315}}。[[8月25日]]、前記の電報は一木支隊通信係将校の榊原中尉が送信を依頼したものであることが判明した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=537}}。ここに一木支隊先遣隊の全滅が判明した{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=315}}。

同24日から25日にかけての[[第二次ソロモン海戦]]で日本軍は敗北し(空母[[龍驤 (空母)|龍驤]]沈没、水上機母艦[[千歳 (水上機母艦)|千歳]]損傷){{Sfn|ニミッツ|1962|p=121}}、一木支隊後続隊(第二水雷戦隊護衛)も空襲を受けて損害を出し{{#tag:Ref|8月25日の空襲で輸送船[[金龍丸 (特設巡洋艦)|金龍丸]]と駆逐艦[[睦月 (駆逐艦)|睦月]]沈没、軽巡[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]中破。{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=176a|ps=第二梯団の輸送失敗}}|group="注"}}、ガ島直行をやめて[[ショートランド諸島]]や[[ニューブリテン島]][[ラバウル]]に向かった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=120}}{{Sfn|軍艦鳥海航海記|2018|p=221|ps=(昭和17年8月25日記事)敵主力南東に退却 敵空母2隻大火災 味方輸送艦隊避退す ガダルカナル上陸また1日遅る 策戦一喜一憂なり}}。
その後、ガダルカナル島への増援輸送は、敵制空権下において[[駆逐艦]]によって実施された{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=176b|ps=輸送方法の転換}}([[鼠輸送|鼠輸送/東京急行]]){{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=331-333|ps=船団輸送の中止とのそ波紋}}。次なる日本軍の大規模反撃は、約3週間後の[[ガダルカナル島の戦い#第1次総攻撃|第1次総攻撃]]([[ムカデ高地の戦い]]、[[血染めの丘の戦い]]、[[エドソンの丘の戦い]]とも)であり、日本軍は飛行場奪還を期して、イル川渡河戦を上回る川口支隊約6,500名を投入したのであった{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=102b-103|ps=川口支隊が上陸}}。

1994年(平成4年)9月、一木支隊生存者および[[遺族]]は、ガダルカナル島に「一木支隊鎮魂の碑」を建立した{{Sfn|土井|2009|p=95|ps=一木支隊鎮魂碑(平成4年9月撮影)}}。

== 時系列 ==
一木支隊とイル川渡河戦に関連する事項を記載する。ラバウルの現地陸海軍とは、第十七軍(司令官[[百武晴吉]]陸軍中将)、第十一航空艦隊司令長官[[塚原二四三]]海軍中将(南東方面部隊指揮官と基地航空部隊指揮官を兼任){{#tag:Ref|聯合艦隊電令作第198号(8月8日0200発令){{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=141-142|ps=聯合艦隊の作戦指導}}一 七日敵攻略部隊ハ機動部隊支援ノ下ニ「ツラギ」「ガダルカナル」方面ニ来襲、基地航空部隊、先遣部隊、外南洋部隊ハ之ヲ攻撃中ナリ/二 聯合艦隊ハ速ニ此ノ敵ヲ撃滅スルト共ニ、同方面ヲ確保セントス/三 各部隊ハ左ニ依リ作戦スベシ (イ)外南洋部隊、内南洋部隊、基地航空部隊(南東方面部隊ト呼称)ハ、基地航空部隊指揮官之ヲ指揮、反覆敵ヲ攻撃、且「ボーゲンビル」方面航空基地ヲ整備確保、二十六航戦ハ速ニ「ラバウル」方面ニ進出/(ロ)前進部隊、機動部隊(修理等ニ依リ急速作戦困難ナルモノハ之ヲ除ク)ハ、準備完成次第南洋方面ニ進出支援(以下略)|group="注"}}{{#tag:Ref|第十一航空艦隊司令長官塚原中蒋は麾下基地航空部隊の精鋭を率ひ七日サイパンよりラバウルに進出し聯合艦隊命令によつて南東方面に於ける海軍部隊の最高指揮官となつた{{Sfn|南東方面海軍作戦(1)|1947|p=9}} |group="注"}}、第八艦隊司令長官[[三川軍一]]海軍中将(外南洋部隊指揮官)。南東方面部隊(塚原中将)は基地航空部隊と外南洋部隊を麾下におく。

*1942年5月25日 - 第二十五航空戦隊の[[飛行艇]](同航戦幕僚、第八根拠地隊幕僚、技術者同乗)は[[ガダルカナル島]]を偵察し、同島北西部ルンガ川東方海岸線から2,000[[メートル|m]]南方地区に飛行場適地を発見{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=211a-212|ps=ガ島飛行場}}。
*6月1日 - 二十五航戦司令官[[山田定義]]少将は第十一航空艦隊参謀長に調査結果を報告、急速設営を意見具申する{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=211b}}。
*6月19日 - [[第四艦隊 (日本海軍)|第四艦隊]](司令長官[[井上成美]]海軍中将)司令部関係者、ガダルカナル島を現地調査して上級司令部に報告{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|pp=84-86|ps=伸び過ぎた作戦線}}。6月下旬、上級部隊は第四艦隊にガダルカナル島に飛行場を建設するよう命じる{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|p=64a|ps=ガ島に飛行場を建設せよ}}。第四艦隊隷下の第二十五航空戦隊と第八根拠地隊が実地作業を担当する{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=67-68|ps=SN作戦}}{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=220-221|ps=航空基地の整備}}。
*7月1日 - 呉鎮守府第三特別陸戦隊と第八十一警備隊を再編し、フロリダ諸島を防衛する第八十四警備隊(司令[[鈴木正明]]中佐)新編{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=213}}。
*7月6日 - 海軍第十一設営隊(隊長[[門前鼎]]大佐、約1220名)、第十三設営隊(隊長[[岡村徳長]]少佐、約1350名)、ガダルカナル島に上陸{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=213}}。間もなく飛行場建設作業を開始{{Sfn|土井|2009|pp=251-252|ps=ガダルカナル島戦史 略年表}}。
*7月14日 - 第八艦隊{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=372-374|ps=第八艦隊の新編}}(司令長官[[三川軍一]]海軍中将、参謀長[[大西新蔵]]海軍少将、参謀[[神重徳]]海軍大佐ほか)新編{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=204-207|ps=ミッドウェー海戦後の編制改正}}。南洋部隊は内南洋部隊に区分変更、外南洋部隊(指揮官[[三川軍一]]第八艦隊司令長官)が、パプアニューギニアやガダルカナル島を含めたソロモン諸島での作戦を担任することになった{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=67-68|ps=第四艦隊と新編第八艦隊との任務分担}}。7月25日、井上中将(南洋部隊指揮官→内南洋部隊指揮官)と三川中将(外南洋部隊指揮官)はトラック泊地で会談する{{Sfn|サボ島沖海戦|1998|pp=42-43}}。南洋部隊は「ソロモン群島や東部ニューギニア方面への連合国軍の反撃は杞憂にすぎず、あるにしてもかなり後」と伝達する{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=81}}。
*7月18日 - 第十七軍司令官、大本営陸軍部参謀[[辻政信]]陸軍中佐の独断により「リ号研究作戦(スタンレー山脈越えによるポートモレスビー攻略作戦)」の実施を南海支隊(支隊長[[堀井富太郎]]陸軍少将)に命令する{{Sfn|生出、辻政信|2007|pp=287-288}}{{Sfn|第十七軍作戦(1)|1946|pp=21-22}}。
*7月24日 - 第十七軍司令部、[[ニューブリテン島]][[ラバウル]]に到着する{{Sfn|第十七軍作戦(1)|1946|p=29|ps=第十七軍司令官は七月二十四日ラバウルに進出し南海支隊主力はラバウルに在り其の一部は既にブナに進出しあるも第十七軍主力は尚遠くパラオ及ダバオ附近に在り。}}。
*7月27日 - 辻政信中佐は東部ニューギニア現地視察のため駆逐艦[[朝凪 (駆逐艦)|朝凪]]に便乗中{{Sfn|生出、辻政信|2007|p=290}}、空襲で負傷し翌日ラバウルに帰投{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=194-195}}。
*7月28日 - 大本営は一木支隊の内地還送に輸送船2隻(ぼすとん丸、大福丸)を使用し、護衛を[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]麾下の第十戦隊より抽出することを決定<ref name="S1705呉鎮(3)43">[[#S17.05呉鎮日誌(3)]] pp.43-44〔 廿七日一六三〇 大海一部長|廿八日〇二五〇 3F参謀長(GF参謀長)(呉鎭参謀長)(外)|大海機密第一七六番電 陸軍輸送船ぼすとん丸(JMCD)及大福丸(J1JB)在大島一木支隊(約二〇〇〇名)還送ノ爲宇品ニ於テ二十八日出港準備完成豫定ニ付第十戰隊ノ一部ヲシテ之ガ護衛(往復共)ヲ實施セシメラルル様取計ハレ度/尚出港日時航路等ニ關シテハ護衛指揮官ト宇品船舶輸送司令部ト直接協定セシメラレ度|無電 〕-〔 廿八日一二〇〇 呉鎭参謀長|10S司令官(大海一部長 外)|呉鎭機密第九四三番電 大海機密第一七六番電ニ關シ船舶輸送司令部ト連絡ノ結果左ノ通 一、ぼすとん丸及大福丸ハ二十九日夕刻迄ニ門司ニ於テ出港準備完成待機ス/二、護衛打合ハ門司若ハ護衛指揮官指定ノ集合地孰レニ於テ行ハルモ差支ナシ|無電 〕</ref>。
*7月30日 - 鳥海(第八艦隊司令部座乗)と駆逐艦(雪風、時津風)は[[ラバウル]]に到着し、第八艦隊司令部は陸上に将旗を移す{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=207-209|ps=第八艦隊の統帥の発動}}。
*7月31日 - ラバウルの現地陸海軍(第十七軍、第十一航空艦隊、第八艦隊)、『「ポートモレスビー」攻略竝ニ東部「ニューギニヤ」戡定作戦ニ関スル協定」を結ぶ{{Sfn|第十七軍作戦(1)|1946|pp=23-26}}([[ラビの戦い]]){{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=195-198|ps=陸海軍現地協定}}。[[ポートモレスビー]]攻略のため、外南洋部隊は海軍陸戦隊を、第十七軍は南海支隊(支隊長[[堀井富太郎]]少将)、歩兵第三十五旅団(旅団長[[川口清健]]少将)、歩兵第四十一聯隊(聯隊長[[矢澤清美]]大佐)を投入予定{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=197-198}}。大本営参謀[[辻政信]]中佐によれば、辻がガ島について尋ねると海軍側参謀は「ガ島は絶対だ。天が堕ちても獲られる心配はいらぬ」と返答した{{Sfn|完本太平洋戦争(上)|1991|p=222}}。
**連合軍大型爆撃機、従来より[[エスピリトゥサント島]]よりガダルカナル島やフロリダ諸島に少数機が飛来していたが、同31日より空襲を強化する{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=215}}{{Sfn|サボ島沖海戦|1998|pp=44-45}}。
*8月4日 - 大本営海軍部(軍令部)、各種徴候より各艦隊参謀長に注意喚起{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=216}}。
**第二十五航空戦隊隷下の第十四航空隊派遣隊、[[二式飛行艇]]2機によるフィジー諸島およびニューカレドニア方面の偵察を実施、同方面を航行中だった連合軍大艦隊を発見できず{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=222}}。その後もツラギより連日のように飛行艇による索敵を実施するが、接近中の連合軍大規模船団に気付かず{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=223}}。
*8月5日 - 日本軍ガ島飛行場設営隊、滑走路既成により戦闘機進出可能と報告する{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=132}}。第二十六航空戦隊(司令官[[山縣正郷]]少将)麾下の第六航空隊{{#tag:Ref|第六航空隊は[[ミッドウェー島]]に進出予定だったが、同隊の零戦は[[ミッドウェー海戦]]で空母4隻と共に沈んでしまった{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=226}}。|group="注"}}(司令[[森田千里]]大佐){{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=86}}に所属する[[零式艦上戦闘機]]を[[航空母艦]]により8月16日頃にはガ島飛行場へ輸送する予定{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=225-226|ps=第二十六航空戦隊の南太平洋方面進出計画}}。
**ガ島の原住民が山中へ避難、日本軍は特に対処せず{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=216}}。
*8月7日 - 連合国軍、[[ガダルカナル島]]や[[フロリダ諸島]]に来攻{{Sfn|戦史叢書102|1980|pp=132-133|ps=(昭和17年8月7日)米軍反攻開始}}。[[アメリカ海兵隊]]が上陸を開始{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|p=65|ps=海兵一個師団、ガ島に上陸}}。
**第十七軍、第八艦隊からガ島奪回作戦への協力を求められるが、ラバウル所在兵力([[第55師団 (日本軍)#南海支隊|南海支隊]])投入を拒否する{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=255-257|ps=第十七軍の状況判断}}。在パラオの川口支隊なら派遣可能と返答{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=140-141|ps=第十七軍}}。
**大本営はラバウルの第十七軍に対し、ポートモレスビー攻略続行(レ号作戦)を命じ、その上で海軍作戦の援助を指示する{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=258}}{{#tag:Ref|一「ト」号作戦(註、東部ニューギニア作戦)ニ関スル陸海軍中央協定ニ基キ「ソロモン」群島方面ノ情勢ニ応スル所要ノ援助ヲ実施セラレ度 但シ「レ」号作戦(註、モレスビー攻略作戦)ハ予定ノ如ク敢行スルヲ要スト考ヘアリ。/二 右情況ニ鑑ミ貴軍全力ノ「ラバウル」集結ヲ成ルヘク速カナラシムルノ要アルニ付至急準備セラレタシ 之ガ為ノ艦船ニ関シ至急研究ノ上通報ス 右 依命{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=144}}|group="注"}}。
**大本営、グァム島を出航した一木支隊(ぼすとん丸、大福丸){{Sfn|戦史叢書77|1974|p=144}}に対しグァム島へ引き返すよう指示、使用予定は東部ニューギニアと内報{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=270}}。行先は二転三転し、最終的にトラック泊地と決定{{Sfn|倉橋|1987|pp=89-91|ps=腰の定まらぬ大本営}}。
**日本軍のガダルカナル島守備隊および飛行場設営隊、飛行場より西方のマタニカウ河に後退して海軍本部を設置{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=157a|ps=挿図第六 ガダルカナル島所在部隊行動概要図}}。
*8月8日 - 第一次ソロモン海戦{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=146-148|ps=第一次ソロモン海戦}}
**大本営、第十七軍にソロモン方面奪回作戦担任予定と内報する{{#tag:Ref|一 新ナル状況ニ基ク当面ノ作戦指導ニ関シテハ中央ニ於テモ陸海協同研究中ニシテ逐次所要ノ命令指示ヲ発令セラル予定/二 速ニ「レ」号作戦(「サマライ」附近ノ攻略ヲ含ム)ヲ完遂スルコトハ今後ノ貴軍作戦(「ソロモン」方面ノ奪回ヲモ担任セシメラルルコトトナルヘシ)指導上極メテ重要ナリト考ヘラルヲ以テ現地海軍ノ事情ノ許ス限リ万難ヲハイシテ速ニ既定計画ヲ遂行セラレ度 此ノ趣旨中央海軍側モ同意見ナリ 右 依命{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=258}}|group="注"}}。
**第八艦隊は海軍陸戦隊約520名のガダルカナル島上陸中止を命令、だが帰路に潜水艦の雷撃によって輸送船明陽丸が沈没{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=249}}。
**アメリカ海軍機動部隊、[[正規空母]]3隻(エンタープライズ、サラトガ、ワスプ)を擁しながら上陸支援を打ち切ってガ島周辺から撤退{{Sfn|サボ島沖海戦|1998|pp=108-111}}。
*8月9日 - 第十七軍は大本営に対し、南海支隊によるポートモレスビー早期攻略、ガダルカナル方面は川口支隊で奪還すべしと意見具申{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=259}}。
**大本営はソロモン方面派遣陸軍兵力を一木支隊と歩兵第41聯隊(8月5日にダバオを出発、8月15日~16日ラバウル着予定){{Sfn|戦史叢書14|1968|p=272}}と内定{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=150}}。
*8月10日 - 大本営、一木支隊の第十七軍隷下編入、青葉支隊他の第十七軍指揮下復帰を発令{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=274}}{{Sfn|第十七軍作戦(1)|1946|p=32}}。
**第一次ソロモン海戦を戦った外南洋部隊各艦、ラバウルもしくはカビエンに帰着(潜水艦の雷撃で重巡[[加古 (重巡洋艦)|加古]]沈没){{Sfn|戦史叢書77|1974|p=147}}。
**現地陸海軍、ガ島奪回計画について協議する{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=154a-155|ps=第十七軍の兵力運用}}。ガ島奪回作戦を川口支隊主力、一木支隊、横須賀鎮守府第五特別陸戦隊で8月25日頃実施と計画、連合艦隊に通知{{#tag:Ref|(第十一航空艦隊の報告通報より)二 当方面今後ノ作戦実施ニ関シ第十一航空艦隊、第八艦隊及第十七軍間ニ左ノ通協議セリ (イ)「レ」号作戦ハ二日繰下グル外 原計画之ヲ実施ス/(ロ)「ガダルカナル」島奪回作戦ハ陸軍川口部隊ノ主力 一木支隊及横五特ヲ以テ実施、作戦可能時期八月二十五日頃ノ見込ナルモ更ニ之ガ促進に努ム/三 前項両作戦共ニ時日ノ遷延ハ甚大ナル不利ヲ招来スルノミナラズ敵ハ海上兵力ヲ建直シテ、再度「ガダルカナル」島ニ増援補給スル公算大ナルヲ以テ第二艦隊及第三艦隊ハ一日モ速ニ遅クモ八月二十二日迄ニ「トラック」方面ニ進出スル如ク準備促進方取計ヲ得度。{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=154b}}|group="注"}}。
*8月11日 - 大本営、第十七軍にソロモン方面の敵撤退後の作戦要領を指示、第十七軍は意外に感じる{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=279}}。
**第十七軍、一木支隊に対し「トラック泊地進出後、なるべく速やかにラバウルに前進すべき」と下令{{#tag:Ref|然るにガダルカナル島増援は極めて急を要し且第十七軍司令官のソロモン方面に使用を豫定しある歩兵第三十五旅團のパラオ出港は船舶の關係上遅延を免れさる状況なりしを以て大本營は當時グアム島に在りてソロモン方面に對する出發最も迅速なる一木支隊を同方面に使用するを適當と認め八月十日該支隊に對しトラックに至り第十七軍司令官の隷下に入るへきを命せり/是に於て軍司令官は直ちに一木支隊をガダルカナル島に派遣するに決し十一日同支隊に對し『トラツク到着後成るへく速かにラバウルに前進すへく』命すると共に十三日歩兵第三十五旅團に對し『先づ速かにトラツクに前進し(海軍側の意見に依りトラツクより直行せしむる爲ラバウル招致を取止めたり)随時主力を以てソロモン方面に作戰するの準備に在るへき』を命せり{{Sfn|第十七軍作戦(1)|1946|p=32}}|group="注"}}(海軍側の意見もあり実際はトラック泊地からガ島へ直行){{Sfn|戦史叢書14|1968|p=292b}}。
**第十一航空艦隊の零戦6機、午前7時にラバウルを発進してガ島強行偵察を実施、十一航艦は夕刻になり偵察結果を報じる{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=280}}。
*8月12日 - 大本営陸海軍部、東部ニューギニア・ソロモン群島作戦に関する中央協定成立{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=286-287|ps=ソロモン群島奪回作戦に関する陸海軍の中央協定}}(翌日、第十七軍および連合艦隊に指示){{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=151-152|ps=陸海軍中央協定}}。
**第八根拠地隊首席参謀[[松永敬介]]中佐、航空偵察に赴きガ島敵兵力は敗残兵と判定し{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=284}}、大本営および連合艦隊は事態を楽観視する{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=148b}}。
**[[呂号第三十三潜水艦]]と[[呂号第三十四潜水艦]]{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=511}}、ガ島残存の日本軍守備隊および各見張所との連絡に成功する{{#tag:Ref|敵上陸の初期に於ける陸上の状況は全く不明であつたが十二日に至り漸くガ島見張との連絡に成功し各見張所の健在なることを確認した/但し依然として陸上の戰況は不明であつた{{Sfn|南東方面海軍作戦(1)|1947|p=10}} |group="注"}}{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=281}}。このあと2隻は[[ラバウル]]に後退して補給を受けたあと、16日以後は[[サン・クリストバル島]]方面で行動{{Sfn|潜水艦作戦(S1708からS1803)|1948|pp=10-11}}。
**第八艦隊、横五特の1個中隊派遣を決定。
**一木支隊輸送船、トラック泊地に到着{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=84b}}。
*8月13日 - 第十七軍は第十一航空艦隊の「ガ島の米軍は大部分撤退」「米軍はガ島の飛行場を整備していない」という希望的観測に影響されはじめる{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=291}}。
**大本営、ソロモン群島奪回「カ」号作戦を指示するが既定計画の[[ポートモレスビー作戦]]についても言及{{#tag:Ref|十三日大本營は大海指第一二〇號を以て情勢に應する東部ニューギニヤ、ソロモン群島作戰に關する作戰指導方針を指令したが其の骨子は聯合艦隊の大部を以て第十七軍(歩兵約十三ヶ大隊)と協同 先づガ島及ツラギ方面の敵を撃滅して同地の要地特に飛行場を奪囘すると共に既定計畫に基きポートモレスビーを攻略せんとするものである{{Sfn|南東方面海軍作戦(1)|1947|p=10}} |group="注"}}。現地陸海軍、ガ島奪回作戦現地軍協定成立{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=155a-156|ps=一木支隊の輸送/現地協定}}。
**第十七軍、一木支隊単独によるガ島飛行場奪回を下令{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=156}}。第十七軍、ガ島へ急派すべき兵力に関する参謀次長電を受領{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=154b}}。
**南東方面部隊、ガ島奪回作戦要領を発令{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=156}}。
**ガ島を偵察した伊122潜水艦と伊123潜水艦、[[水陸両用戦車]]や[[砲兵|砲兵陣地]]など敵有力部隊の存在を報告{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=512}}。
**軍令部、ガ島について「残留敵兵力は大ではない」と奏上{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=150}}。[[永野修身]]軍令部参謀総長と[[杉山元]]参謀総長、昭和天皇に作戦大要を上奏{{Sfn|戦史叢書14|1968|pp=287-289}}。
*8月14日 - 第十七軍の松本参謀はトラック泊地に出張し一木支隊長に第十七軍命令を伝達し要旨を説明する{{Sfn|第十七軍作戦(1)|1946|pp=34-35}}。
**外南洋部隊、一木支隊のガ島輸送に関する作戦命令を下令{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=156}}。
*8月15日 - トラック泊地において外南洋部隊と一木支隊間に作戦協定成立{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=297}}。
**二十五航戦の陸攻3機はルンガ岬東方6kmの草原に糧食と弾薬計1トンを空輸するが、マタニカウ川西岸への空輸は米軍対空砲火のため実施できず{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=301}}。
*8月16日 - 一木支隊、トラック泊地を出撃{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=51-52}}。先遣隊(一木大佐以下916名、駆逐艦6隻分乗)と本隊(ぼすとん丸、大福丸、金龍丸〈途中合流〉、第二水雷戦隊)に分割されて南下を開始{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=157b-158|ps=一木先遣隊の輸送}}。
**ガ島日本軍守備隊、エスペランス岬の見張所より電信機を守備隊本部に持ち帰り、ラバウルとは潜水艦を中継して連絡可能となる{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=532}}。
**同16[[深夜]]、横須賀鎮守府第五特別陸戦隊の1コ中隊113名(高橋達之助海軍大尉)、駆逐艦[[追風 (2代神風型駆逐艦)|追風]]に乗艦してガダルカナル島タサファロング岬に到着{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=533}}。
**[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]](司令長官[[南雲忠一]]中将、参謀長[[草鹿龍之介]]少将){{Sfn|草鹿回想|1979|pp=150-151|ps=艦隊の編制替え}}、空母3隻(翔鶴、瑞鶴、龍驤){{#tag:Ref|1942年7月14日に新編された第三艦隊は[[第一航空戦隊]](翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)と[[第二航空戦隊]](隼鷹、飛鷹、龍驤)、訓練部隊の空母[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]を擁していた{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=431-432|ps=聯合艦隊主力}}。だが訓練未了や艦整備のため空母3隻(隼鷹、飛鷹、瑞鳳)は出撃できず、二航戦司令官[[角田覚治]]少将の指揮下で引き続き内地で訓練を続けた{{Sfn|草鹿回想|1979|p=161}}。|group="注"}}と護衛部隊{{#tag:Ref|第三艦隊所属の第十一戦隊(比叡、霧島)、第七戦隊(熊野、鈴谷)、第八戦隊(利根、筑摩)、第十戦隊(軽巡[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]、第4駆逐隊第2小隊{{Sfn|野分物語|2004|pp=28-29}}、第10駆逐隊、第16駆逐隊)。|group="注"}}を率いて日本本土内海西部を出撃{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=164}}。
*8月17日 - 横五特のガ島派遣部隊、上陸地点から東進し、マタニカウ川西岸の日本軍ガ島守備隊と合流{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=533}}。ガダルカナル島に対する最初の増援であり、ガ島とラバウル間の直接連絡復活{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=533}}。
*8月18日 - 第八艦隊もしくは第十一航空艦隊は「ガ島基地通信隊及第八根拠地隊よりの報告を総合すると敵は高射砲、戦車若干及機銃多数を有し、内約二,〇〇〇は飛行場西側附近にあり」と記録{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=299}}。
**同日深夜、一木支隊先遣部隊はガ島のタイボ岬に上陸{{Sfn|戦史叢書14|1968|p=299}}(飛行場の東側約35km){{Sfn|生出、辻政信|2007|p=298}}。
*8月19日 - 午前0時とともに一木支隊先遣隊は後続部隊(第2梯団)を待たず西進を開始{{#tag:Ref|支隊長は第二梯團(輸送船に依り二十四日上陸豫定)を待つ事なく十八日二十四時より海岸道に沿ひ西進し十九日二時胸を没するベランデ川を渡河しつつ二十日未明レンゴに到着しルンガ岬方面の敵行動活發なるを目視し同日夜暗を利用し戰闘を豫期して前進し先づ第十一設營隊跡附近を奪取し爾後飛行場方面に對する攻撃を準備すべく企圖せり{{Sfn|第十七軍作戦(1)|1946|p=36}}|group="注"}}。
**マタニカウ川周辺の日本軍ガ島守備隊{{Sfn|土井|2009|p=50}}、コクンボナより迂回攻撃してきたアメリカ海兵隊と交戦{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=533}}。
*8月20日 - 日本軍索敵機、ツラギ島南東方面約250浬に空母を含む敵部隊を発見{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=112}}。
**南東方面部隊、敵空母発見をうけて一木支隊第2梯団(輸送船団)に反転退避を命令{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=163a-164|ps=敵機動部隊の発見と敵機のガ島進出}}。
**護衛空母[[ロング・アイランド (護衛空母)|ロング・アイランド]]、ガ島ヘンダーソン飛行場に[[戦闘機]]と[[急降下爆撃機]]を輸送{{Sfn|護衛空母入門|2005|p=225}}。
**ヘンダーソン飛行場、使用開始{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=164}}。米軍、ガダルカナル島周辺の制空権を確保する{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=16-17|ps=昭和17年8月20日 ガ島飛行場に海兵隊機進出}}。
**午後10時以降、一木支隊長はガ島飛行場方面攻撃命令を下達{{#tag:Ref|支隊は二十日夜半其の先頭を以て中川右岸地區に進出し同河左岸區に在る敵と戰闘を交へ支隊長は逐次兵力を註入し力攻せるも戰況進展せず二十一日午後に至るや支隊の左翼方面より戰車六輌を伴ふ的の反撃に會し戰況利あらす支隊長以下第一梯團の大部は是に壮烈なる戰死を遂げ支隊の生存者百數十名は二十二日より二十九日に至りタイボ岬附近を確保し後続部隊の來着を待ちたり{{Sfn|第十七軍作戦(1)|1946|p=36}}|group="注"}}。
*8月21日 - 一木支隊先遣隊、ガ島飛行場を攻撃して壊滅する{{Sfn|草鹿回想|1979|pp=162-163|ps=優秀装備の前に一木支隊壊滅}}(イル川渡河戦){{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=166a-167|ps=一木支隊の戦闘}}。
**南東方面部隊、連合艦隊主力(第二艦隊、第三艦隊)の掩護下で一木支隊第2梯団の24日ガ島上陸を計画{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=164}}。
**連合艦隊、一木支隊第2梯団を軽快艦艇で輸送することを提案したが、第十七軍は不同意{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=168}}。
**同日15時50分、連合艦隊は外南洋部隊(第八艦隊)麾下の潜水艦をふくめ、南東方面で行動中の潜水艦を先遣部隊([[第六艦隊 (日本海軍)|第六艦隊]])に編入する{{Sfn|戦史叢書98|1979|pp=104-105|ps=潜水部隊の集中}}。先遣部隊指揮官の下令により、大部分の潜水艦はアメリカ海軍機動部隊(エンタープライズ、サラトガ)の邀撃にむかった{{Sfn|潜水艦作戦(S1708からS1803)|1948|pp=16-18|ps=第一、第一、第三潜水部隊の敵機動部隊の邀撃 ガ島増援阻止並奪囘作戰}}。
**同日17時30分、第十七軍はガ島警備隊より「一木支隊先遣隊は全滅に瀕す」の情報を入手し海軍に空中補給を依頼する{{#tag:Ref|軍司令官は「一木支隊が十八日夜の上陸に成功し爾後飛行場に向かひ前進せる」を承知し十九日歩兵第三十五旅團に對し自今川口支隊となり速かにガダルカナル島に上陸しガダルカナル島ツラギ等を奪囘すべく命令せり然るに二十日十五時二十分頃『ガダルカナル島飛行場(二十日以來敵側利用中にして當時四乃至六機にて局地上空哨戒中)の敵戰闘機空中退避(註、退避の字句は電文不明に付起草者の判断なり)せる』を知り次で二十一日ガダルカナル島海軍警備隊より「二十一日朝來同島に著しき銃声を聞く」との報告を受領し一木支隊は既に同地附近に進出し戰闘中なるものと判断しありしが二十三日に至り同支隊との連絡杜絶し且二十一日十七時四十五分發ガダルカナル島海軍戰備隊より『一木支隊は全滅に瀕しありとタイボ岬見張所より通知ありたり』との報告を受領せり軍は本情報か発信者不明にして眞爲保し難きも(一木支隊通信掛将校の委託せるものなる事後刻判明)一木支隊が苦戰中なるべきを察しガダルカナル島の情況偵察を兼ね彈藥、糧秣の空中補給の處置を講せんとせしも天候不良の爲實現し得す{{Sfn|第十七軍作戦(1)|1946|p=36}}|group="注"}}。
*8月24日 - 第二次ソロモン海戦{{Sfn|平塚、米軍記録|1995|p=88}}。ガ島飛行場に飛行機隊を投入していた空母[[龍驤 (空母)|龍驤]]{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=83-84|ps=龍驤の安らかな最期}}、米軍機動部隊艦上機の攻撃を受けて沈没{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=113}}。
**外南洋部隊の駆逐艦部隊{{#tag:Ref|第30駆逐隊司令[[安武史郎]]大佐指揮下の駆逐艦(睦月、弥生、磯風、江風、陽炎){{Sfn|戦史叢書49|1971|p=585}}。|group="注"}}、ガ島飛行場を砲撃する{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|p=89}}。砲撃後、一木支隊第2梯団との合流を目指す{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=585}}。
*8月25日 - 一木支隊第2梯団、[[B-17 (航空機)|B-17型重爆]]と[[SBD (航空機)|ドーントレス急降下爆撃機]]の空襲を受けて軽巡[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]中破、輸送船[[金龍丸 (特設巡洋艦)|金龍丸]]と駆逐艦[[睦月 (駆逐艦)|睦月]]沈没{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=176a|ps=第二梯団の輸送失敗}}。横五特生存者は随伴艦(哨一号、哨二号、駆逐艦[[弥生 (睦月型駆逐艦)|弥生]])に分乗し、ショートランド泊地へ移動{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=104b}}。神通と涼風はトラック泊地へ撤退{{Sfn|生出、辻政信|2007|p=300}}。
**連合艦隊、一木支隊のガ島直行中止を下令{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=114}}、海軍軽快艦艇による鼠輸送の方針を指示{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=176b|ps=輸送方法の転換}}。一木支隊第二梯団は駆逐艦によりガダルカナル島へ{{#tag:Ref|一木支隊第二梯團(輸送船二隻に搭乗)は二十二日夜ガダルカナル島に上陸の豫定なりしが二十日サンクリストバル島(ガダルカナル島東南五十哩)東南八十哩附近に空母一乃至二を有する敵艦隊現出し第八艦隊は之が撃滅の爲出撃せるを以てガダルカナル島上陸を二十四日夜に變更せり然るに同梯団は爾後ガダルカナル島に向ふ航行途中二十五日朝敵艦載戰闘機四の攻撃を受け護衛旗艦神通は損傷を受け海軍陸戰隊搭乗の金龍丸は火災を生じたる爲ショートランドに反轉せり/二十五日海軍部隊は敵空母撃滅の爲出撃し第二梯團の掩護不可能に付止むを得す再び上陸を二十八日に延期せり/第十七軍司令官は一木支隊第一梯團上陸後既に一週間を經過せるも尚増援及補給を行ひ得さるを憂慮し海軍側に對し其の速かなる實行を嚴に要求するところあり/同梯団は爾後再度ガダルカナル島に向かひたるも二十八日十五時五十分頃イサベル島南方に於て敵機の攻撃を受け又もショートランドに反轉するの止むなきに至り爾後川口支隊と共に上陸する事となり二十九日夜より九月二日に亘る間に於て敵の抵抗を受くることなく上陸を完了し得たり{{Sfn|第十七軍作戦(1)|1946|p=37}}|group="注"}}。
**第十七軍、一木支隊先遣隊の全滅の報告を確認。
*8月28日 - 大本営陸軍部参謀[[辻政信]]中佐(参謀本部作戦班長)、大本営海軍部を訪れ「一木支隊ハ敵包囲ヲ受ケ一木聯隊長ハ軍旗ヲ焼キ切腹、自刃セリト、約一〇〇名包囲ヲトキ後退セリ」と説明{{Sfn|高松宮と海軍|1999|pp=130-131}}。


== この戦いを題材とした作品 ==
== この戦いを題材とした作品 ==
84行目: 273行目:
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
'''注釈'''
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
{{Reflist|2|group="注"}}
'''参照'''
'''参照'''
{{Reflist|2}}
{{Reflist|3}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
<!-- [[ウィキペディア日本語版]]では、日本語文献を優先する -->
'''日本語文献'''
'''日本語文献'''
*{{Cite book|和書
*{{Cite book|和書
|author = JACAR([[アジア歴史資料センター]]
|author=JACAR(アジア歴史資料センター)|authorlink=アジア歴史資料センター
|title = 昭和17年8月13日〜昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報
|title = 昭和17年8月13日〜昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報
|publisher = [[防衛省]][[防衛研究所]]
|publisher = [[防衛省]][[防衛研究所]]
|id =
|id =
|url = http://www.jacar.go.jp
|url = https://www.jacar.go.jp/
|accessdate= 2011-05-31
|accessdate= 2011-05-31
}}
}}
**表紙 Ref.C08030096200、詳報(1)Ref.C08030096400、詳報(2)Ref.C08030096500、詳報(3)Ref.C08030096600、詳報(4)Ref.C08030096700、詳報(5)Ref.C08030096800、詳報(6)Ref.C08030096900
**表紙 Ref.C08030096200、詳報(1)Ref.C08030096400、詳報(2)Ref.C08030096500、詳報(3)Ref.C08030096600、詳報(4)Ref.C08030096700、詳報(5)Ref.C08030096800、詳報(6)Ref.C08030096900
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030022500|title=昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)|ref=S1709八艦隊日誌(1)}}
*{{Cite book|和書
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030045700|title=昭和16年12月1日~昭和17年10月12日 第6戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)|ref=第六戦隊日誌(5)}}
|author = [[川口清健]]
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030325000|title=昭和17年5月1日~昭和17年8月31日 呉鎮守府戦時日誌(3)|ref=S17.05呉鎮日誌(3)}}
|year = 1960

|title = 川口支隊の死闘
*<!-- アガワ1999 -->{{Cite book|和書|author=阿川弘之|coauthors=|year=1999|month=4|origiyear=1996|title=高松宮と海軍|publisher=中央公論社新社|series=中公文庫|isbn=4-12-203391-8|ref={{SfnRef|高松宮と海軍|1999}}}}
|series = 実録太平洋戦争 第2巻
*<!-- オイデ2011 -->{{Cite book|和書|author=生出寿|year=2007|month=04|origyear=1987|title={{small|悪魔的作戦参謀}}辻政信 {{small|稀代の風雲児の罪と罰}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2029-1|ref={{SfnRef|生出、辻政信|2007}}}}
|publisher = [[中央公論社]]
*<!-- オイデ2011 -->{{Cite book|和書|author=生出寿|year=2011|month=7|origyear=1993|title=戦艦「大和」最後の艦長 {{small|海上修羅の指揮官}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2143-4|ref={{SfnRef|大和最後の艦長|2011}}}}
|isbn =
*<!-- オカムラ1979 -->{{Cite book|和書|author=岡村治信|coauthors=|authorlink=|year=1979|month=12|title=青春の棺 {{small|生と死の航跡}}|chapter=第三章 美しき島々|publisher=光人社|ISBN=|ref={{SfnRef|青春の棺|1979}}}}(岡村は追風庶務主任としてガダルカナル島の戦いに参加)
|ref = 川口 (1960)
*<!-- オオウチ2005 -->{{Cite book|和書|author=大内建二|authorlink=|year=2005|month=4|title=護衛空母入門 {{small|その誕生と運用メカニズム}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2451-3|ref={{SfnRef|護衛空母入門|2005}}}}
}}
*<!-- オクミヤ2001 -->{{Cite book|和書|author=奥宮正武|authorlink=奥宮正武|year=2001|month=3|origyear=1992|chapter=第2章 連合国軍ガダルカナル島に来襲|title=ラバウル海軍航空隊|publisher=学習研究社|series=学研M文庫|isbn=4-05-901045-6|ref={{SfnRef|ラバウル海軍航空隊|2001}} }}
*<!-- カワグチ1960 -->{{Cite book|和書|author=川口清健|authorlink=川口清健|year=1960|title=川口支隊の死闘|series=実録太平洋戦争 第2巻|publisher=[[中央公論社]]|isbn=|ref=川口 (1960)}}
*<!-- クサカ1979-1 -->{{Cite book|和書|author=草鹿龍之介|authorlink=草鹿龍之介|year=1979|month=1|title=連合艦隊参謀長の回想|publisher=光和堂|isbn=4-87538-039-9|ref={{SfnRef|草鹿回想|
1979}}}}
*<!-- クラハシ1967-6 -->{{Cite book|和書|last=倉橋|first=友二郎|authorlink=(当時、萩風砲術長。一木支隊先遣隊を輸送した)|year=1967|month=6|title={{small|駆逐艦隊悲劇の記録}} 海ゆかば・・・|publisher=徳間書店|ref=harv}} 
*<!--クラハシ1987-12-->{{Cite book|和書|last=倉橋|first=友二郎|year=1987|month=12|chapter=悲劇のガダルカナル作戦|title=激闘駆逐艦隊|publisher=朝日ソノラマ|series=航空戦史シリーズ|ref=harv}}
*<!-- グンジシガクカイ2003 -->{{Cite book|和書|author=軍事史学会|title={{Smaller|防衛研究所図書館所蔵 大本営陸軍部作戦部長}} 宮崎周一中将日誌|date=2003-06|publisher=[[錦正社]]|chapter=ガダルカナル島作戦秘録『残骸録』|isbn=4-7646-0316-0|ref={{SfnRef|宮崎周一中将日誌|2003}}}}
* {{Cite book|和書|author=佐藤清夫|chapter=|title=駆逐艦「野分」物語 {{small|若き航海長の太平洋海戦記}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|date=2004-01|origyear=1997|ISBN=4-7698-2408-4|ref={{SfnRef|野分物語|2004}}}}
*<!-- ジョウ -->{{Cite book|和書|author=城英一郎|authorlink=城英一郎|editor=野村実|editor-link=野村実|year=1982|month=2|chapter=|title={{smaller|侍従武官}} 城英一郎日記|publisher=山川出版社|series=近代日本史料選書|isbn=|ref={{SfnRef|城英一郎日記|1982}}}}
*<!-- ドイ2009 -->{{Cite book|和書|author=土井全二郎|authorlink=|date=2009-03|oldyear=1995|chapter=第四章 なぜ玉砕部隊は故郷に帰ったか|title=ガダルカナルを生き抜いた兵士たち {{small|日本軍が初めて知った対米戦の最前線}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2599-9|ref={{SfnRef|土井|2009}}}}
*<!-- ニミッツ1962 -->{{Cite book|和書|author1=C・W・ニミッツ|author2=E・B・ポッター|authorlink=|year=1962|month=12|origyear=|title=ニミッツの太平洋海戦史|publisher=恒文社|ref={{SfnRef|ニミッツ|1962}} }}
*<!-- ニューカム1998 -->{{Cite book|和書|author1=リチャード・F・ニューカム(著)|author2=田中至(訳)|date=1998-04|origyear=1963|title=サボ島沖海戦 {{small|米海軍史上最大の敗北}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2192-1|ref={{SfnRef|サボ島沖海戦|1998}}}}
*<!-- ノムラミノル -->{{Cite book|和書|author=野村實|authorlink=野村實|coauthors=|year=1988||month=2|title=天皇・伏見宮と日本海軍|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-342120-3|ref={{SfnRef|野村實|1988}}}}
*<!-- ヒラツカ1995 -->{{Cite book|和書|author=平塚征緒|date=1995-10|title=米軍が記録したガダルカナル島の戦い|publisher=草思社|isbn=4-7942-0632-1|ref={{SfnRef|平塚、米軍記録|1995}}}}
*<!-- ヒラツカ2016 -->{{Cite book|和書|author=平塚柾雄|year=2016|month=8|chapter=第6章 連合軍が布いた残置諜者網/米軍上陸前夜に消えたガ島現地住民|title=太平洋戦争裏面史 日米諜報戦 {{small|勝敗を決した作戦にスパイあり}}|publisher=株式会社ビジネス社|isbn=978-4-8284-1902-2|ref={{SfnRef|日米諜報戦|2016}}}}
*<!-- ヒラマ2018 -->{{Cite book|和書|author=平間源之助|editor=平間洋一|date=2018-12|chapter=|title=軍艦「鳥海」航海記 {{smaller|平間兵曹長の日記 昭和16~17年}}|publisher=イカロス出版|series=|isbn=978-4-8022-0634-1|ref={{SfnRef|軍艦鳥海航海記|2018}}}}
*<!-- ブンゲイ1991 -->{{Cite book|和書|author=文藝春秋編|title=完本・太平洋戦争(上)|date=1991-12|publisher=[[文藝春秋]]|chapter=[[辻政信]]著「ガダルカナル」|pages=218-236|isbn=4-16-345920-0|ref={{SfnRef|完本太平洋戦争(上)|1991}}}}
*<!--ホウエイチョウ14 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南太平洋陸軍作戦<1> {{small|ポートモレスビー・ガ島初期作戦}}|volume=第14巻|year=1968|month=3|publisher=朝雲新聞社|isbn=|ref={{SfnRef|戦史叢書14|1968}}}}
*<!--ホウエイチョウ43 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 ミッドウェー海戦|volume=第43巻|year=1971|month=3|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書43|1971}}}}
*<!--ホウエイチョウ49 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> {{small|ガ島奪還作戦開始まで}}|volume=第49巻|year=1971|month=9|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書49|1971}}}}
*<!--ホウエイチョウ62 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<2> {{small|昭和十七年六月以降}}|volume=第62巻|year=1973|month=2|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書62|1973}}}}
*<!--ホウエイチョウ77 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<3> {{small|―昭和18年2月まで―}}|volume=第77巻|year=1974|month=9|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書77|1974}}}}
*<!--ホウエイ 1979 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 潜水艦史|volume=第98巻|year=1979|month=6|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書98|1979}}}}
*<!--ホウエイチョウ102 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 陸海軍年表 {{small|付 兵器・兵語の解説}}|volume=第102巻|year=1980|month=1|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書102|1980}}}}
*<!-- レキシグンゾウ1994-11 -->{{Cite book|和書|author=歴史群像編集部編|year=1994|month=11|title=ソロモン海戦 {{small|米軍ガダルカナル島上陸により惹起されたソロモンの制海権争奪の前半戦を徹底解析}}|series=歴史群像 太平洋戦史シリーズ|volume=第5巻|publisher=学習研究社|isbn=|ref={{SfnRef|ソロモン海戦(歴群05)|1994}} }}

*[https://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]]
**{{Cite book|和書|author=第一復員局|date=1946-09|title=南東方面作戦記録.其の二:第十七軍の作戦.第一巻|url={{NDLDC|8815543}}|publisher=|ref={{SfnRef|第十七軍作戦(1)|1946}}}}
**{{Cite book|和書|author=第一復員局|date=1946-09|title=南東方面作戦記録.其の二:第十七軍の作戦.附図|url={{NDLDC|8815545}}|publisher=|ref={{SfnRef|第十七軍作戦.附図|1946}}}}
**{{Cite book|和書|author=第二復員局残務處理部|date=1947-01|title=南東方面海軍作戦.其の一(自一九四二年五月至一九四三年二月)|url={{NDLDC|8815616}}|publisher=|ref={{SfnRef|南東方面海軍作戦(1)|1947}}}}
**{{Cite book|和書|author=第二復員局残務處理部|date=1948-03|title=第二段作戦(自一九四二年四月至一九四三年三月)に於ける潜水艦作戦.其の二(自一九四二年八月至一九四三年三月)|url={{NDLDC|8815629}}|publisher=|ref={{SfnRef|潜水艦作戦(S1708からS1803)|1948}}}}



'''外国語文献'''
'''外国語文献'''
247行目: 469行目:
| isbn = 0-679-64023-1
| isbn = 0-679-64023-1
}} -->
}} -->

== 関連項目 ==
*[[ラビの戦い]]
*[[マキン奇襲]]
*[[ウォッチタワー作戦]]
*[[アイアンボトム・サウンド]]
*[[米軍兵による日本軍戦死者の遺体の切断]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
305行目: 534行目:
| year =
| year =
| month =
| month =
| url = http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/I/index.html
| url = https://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/I/index.html
| title = ''Pearl Harbor to Guadalcanal''
| title = ''Pearl Harbor to Guadalcanal''
| work = History of U.S. Marine Corps Operations in World War II
| work = History of U.S. Marine Corps Operations in World War II
335行目: 564行目:
| year = 1992
| year = 1992
| month =
| month =
| url = http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-C-Guadalcanal/index.html
| url = https://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-C-Guadalcanal/index.html
| title = ''First Offensive: The Marine Campaign For Guadalcanal''
| title = ''First Offensive: The Marine Campaign For Guadalcanal''
| work = Marines in World War II Commemorative Series
| work = Marines in World War II Commemorative Series
351行目: 580行目:
| year = 1949
| year = 1949
| month =
| month =
| url = http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Guadalcanal.html
| url = https://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Guadalcanal.html
| title = ''The Guadalcanal Campaign''
| title = ''The Guadalcanal Campaign''
| work = Marines in World War II Historical Monograph
| work = Marines in World War II Historical Monograph

2024年11月3日 (日) 20:24時点における最新版

イル川渡河戦
第二次世界大戦太平洋戦争

戦闘後、イル川砂州に横たわる一木支隊将兵の遺体。
戦争太平洋戦争
年月日1942年8月21日
場所ソロモン諸島ガダルカナル島
結果連合軍の勝利
交戦勢力
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国,
イギリスの旗 英領ソロモン諸島
日本の旗 大日本帝国
指導者・指揮官
A.ヴァンデグリフト
クリフトン・ケイツ英語版
百武晴吉
一木清直  
戦力
3,000[注 1] 916[注 2][注 3]
損害
戦死 41–44[注 4] 戦死 774–777
捕虜 15[注 5][注 6]
ソロモン諸島の戦い

イル川渡河戦(イルがわとかせん、英語: Battle of the Ilu River)は、第二次世界大戦中の1942年昭和17年)8月21日ガダルカナル島において日本軍アメリカ合衆国海兵隊を主力とする連合国軍との間に起きた陸上戦闘テナルの戦い英語: Battle of the Tenaru[3]アリゲーター・クリークの戦い英語: Battle of Alligator Creek)とも呼ばれ、ガダルカナル島の戦いにおける日本軍最初の大規模反攻でもあった。

アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将を指揮官とする米海兵隊第一海兵師団は、1942年8月7日ガダルカナル島に上陸し、ルンガ岬に日本軍が建設中であったヘンダーソン飛行場を奪取してこの防衛にあたっていた[4]。日本軍のガダルカナル島守備隊は飛行場西側のマタニカウ河に撤退して海軍本部を設置した[5][6][注 7]。 日本軍上層部は第一次ソロモン海戦以降の基地航空部隊の誤認や誤報[8]ソビエト連邦駐在武官からの情報等によりガダルカナル島奪回を極めて楽観的しており[9]、従来どおりポートモレスビー作戦を重要視していた[10]

一方、同飛行場の奪還と、ガダルカナル島からの連合軍一掃のため、先発隊として横須賀鎮守府第五特別陸戦隊(司令安田義達海軍大佐)と一木清直陸軍大佐率いる一木支隊が投入された[11][12][注 8][注 9]。 一木支隊は先遣隊(第1梯団、916名)[注 10]と後続部隊(第2梯団、約1500名)に分割された[17]、一木大佐直率の先遣隊は陽炎型駆逐艦6隻に分乗して8月16日トラック泊地を出発[18]8月19日未明にガダルカナル島タイボ岬(飛行場の東側約35km地点)に上陸した[19][注 11]。 このときガダルカナル島全体の連合軍側戦力は約11,000名であったが[21]、日本軍側はこれを2,000名程度と少なく見積もっていた[22][注 12]

一木支隊先遣隊攻撃直前の8月20日、ヘンダーソン飛行場に戦闘機急降下爆撃機、計31機が進出した[24]。 同20日深夜、タイボ岬から西進をつづけていた一木支隊先遣隊はルンガ東部のイル川(米軍呼称:アリゲーター・クリーク)西岸に陣を構えていた米海兵隊に遭遇する[注 13]8月21日未明から戦闘が始まったが、兵数・火力に圧倒的な差があり一木支隊は多大な損害を被った[26]。さらに米海兵隊は夜明けを待って戦車を投入し、残存日本兵を包囲殲滅した[25]。同21日午後、一木支隊先遣隊は壊滅した[27]。この戦いで916名いた一木支隊先遣隊のうち日本側記録777名が戦死、生き残ったのは後方に待機していた約100名を含む128名だけであった[28]。指揮官一木大佐も死亡したが、最後の状況については諸説あり定かではない[29][注 14]

日本軍はガダルカナル島奪回作戦を「少数の陸軍部隊で容易に実現できる」と考えていた[9]。だが8月20日のヘンダーソン飛行場使用開始により、ガ島周辺の制空権を掌握されてしまう[31]。つづく一木支隊先遣隊の大損害により、飛行場奪回の見込みが立たなくなった[注 15]。日本軍はガダルカナル島の連合軍戦力が当初の想定を超える規模であることを認識し、ヘンダーソン飛行場奪還のため逐次部隊を送り込んでいったものの第二次ソロモン海戦で低速の輸送船団が空襲をうけて撃退され[33]、一木師団第二梯団の上陸は中止された[34]。このあと、日本軍のガ島輸送は駆逐艦による鼠輸送(東京急行)に頼らざるを得なくなった[35][36]

背景

[編集]

ガダルカナル島

[編集]
第1海兵師団ヴァンデグリフト少将

1942年(昭和17年)8月7日、連合国軍はウォッチタワー作戦によりソロモン諸島内のガダルカナル島ツラギ島およびフロリダ諸島に来攻[37]アメリカ海兵隊が上陸した[38]。これは、これらの島嶼が日本軍の軍事基地となって米豪間の補給ルートを脅かすことを阻止するためであり、他方ニューギニアの戦いを支援して最終的には日本軍のビスマルク諸島ニューブリテン島ラバウル基地をめざすための拠点にする意図もあった[39]。この「フロリダ諸島の戦い」がその後6ヵ月の長きにわたるガダルカナル島の戦いの始まりである[40]

連合軍は奇襲に成功し、第1海兵師団はガダルカナル島に無血上陸した[41]8月8日の日没までにはガダルカナル島ルンガ岬に日本軍が建設中で完成間近であった飛行場を占拠した[4][42]。日本軍のガ島守備隊は設営隊員約2570名(第十一設営隊1350名[43]、第十三設営隊1221名)[44]と守備隊247名、ツラギ守備隊は第八根拠地隊の第八十四警備隊約400名、ガブツ島は横浜海軍航空隊342名と設営隊員144名を擁していた[45]。ツラギ守備隊と横浜海軍航空隊は、小数の捕虜をのぞき玉砕した[46][47]。 ガダルカナル島では、生き残った設営隊員や陸戦隊員がジャングルに逃げ込んだ[48][49]。残存部隊(第十一設営隊〈隊長門前鼎大佐〉、第十三設営隊〈隊長岡村徳長少佐〉、守備隊)は飛行場から撤収して西進、マタニカウ河より西方3~4kmの高地に陣地を構築し、海軍本部とした[50][51]。残存守備隊はここを拠点にアメリカ海兵隊と交戦することになった[6][52]

8月7日午前8時頃、ラバウルから台南空の零戦17機、第二十五航戦の一式陸攻27機、第二航空隊の九九式艦上爆撃機9機が相次いで出撃してツラギ島を攻撃。また8日にも、第十一航空艦隊[53](司令長官塚原二四三海軍中将、8月7日時点ではテニアン島所在)[54]麾下の第二十五航空戦隊(司令官山田定義海軍少将。軍隊区分においては第五空襲部隊)の零戦15機、陸攻23機がガダルカナル島の米軍輸送船団に対し空襲を敢行した[55][56][57][58]

また、ガダルカナル島奪回の為、海軍陸戦隊519名[注 16]を乗せた敷設艦津軽艦長指揮下の輸送部隊(敷設艦津軽、測量船宗谷、輸送船明陽丸、第21号掃海艇、第16号駆潜艇)が出撃した[60][54]

8月8日夜、ルンガ岬で輸送船を護衛していた連合軍艦隊は物資揚陸作業中に、日本海軍・外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官三川軍一海軍中将)率いる重巡洋艦鳥海/旗艦、第六戦隊司令官五藤存知少将指揮下の第六戦隊(青葉加古衣笠古鷹)、第十八戦隊司令官松山光治少将の軽巡洋艦天龍、軽巡洋艦夕張、駆逐艦夕凪の急襲を受けた[注 17]。帰路、米潜水艦S-44の雷撃で重巡加古が沈没した[67]

連合軍側は巡洋艦4隻と駆逐艦1隻が沈没、巡洋艦1隻と駆逐艦1隻が大破するなど多大な損害を被った[68][注 18](連合軍側呼称:サボ島海戦)。 輸送部隊は明陽丸がセント・ジョージ岬付近で米潜水艦S-38[70]の雷撃により沈没、行方不明者342名を出した後[71][72]、8日1155に作戦中止命令をうけラバウルに向け反転した[注 19]

アメリカ海軍機動部隊/第61任務部隊英語版を指揮するフランク・J・フレッチャー中将は存在しない日本軍空母機動部隊に恐怖を感じ、正規空母3隻(エンタープライズサラトガワスプ)、新鋭戦艦ノースカロライナ、重巡6隻、駆逐艦16隻という兵力を擁しながら、上陸支援を打ち切って撤退した[74]。 空母機動部隊による航空支援を失い、上陸船団を護衛する艦隊が夜戦で大打撃を受け、リッチモンド・K・ターナー少将はガダルカナル島からの撤退を開始した[67]8月9日夕刻までに、残る重機・食糧・兵の揚陸を断念し、物資を半分ほど揚陸しないまま海軍戦力すべてを撤退させた[75]。このとき、32門の75mm榴弾砲105mm榴弾砲からなる砲兵大隊は揚陸済みであったが、食糧は4日[76]もしくは5日分[77]しか揚陸できなかった。サボ島~ガ島ルンガ岬沖にかけての制海権は日本側にあり、日本軍潜水艦や駆逐艦は偵察のたびに艦砲射撃をおこなってアメリカ海兵隊に脅威を与えた[78]

ガダルカナル島とツラギ島に上陸した海兵隊第1海兵師団約1万6000名(ガ島に1万名、ツラギ諸島に約6000名)は、補給を断たれた状態で孤立することになった[79]。ガダルカナル島では奪取した飛行場のあるルンガ岬周辺に防衛線を構築することに注力し、橋頭堡の中央には75mm榴弾砲と105mm榴弾砲が全周射撃可能なように配置された[80]。また日本軍基地設営隊が遺棄した物資や施設は極めて充実したものだった[81]。海兵隊はロードローラートラック鹵獲・活用して飛行場の完成を急いだ[82]。指揮官ヴァンデグリフト少将は防衛線内に約11,000名を配置し、4日間かけて物資を揚陸地点から防衛線内に分散した集積場へと運び込んだ。飛行場はミッドウェー海戦で戦死した米海兵隊パイロット、ロフトン・ヘンダーソン少佐の名をとってヘンダーソン飛行場と名付けられた[83]。日本軍からの鹵獲分もあり、食糧は14日分にまで増えたが、限られた食糧を節約するため1日の食事回数を2回に制限したという[84][85]

ヘンダーソン飛行場周辺に橋頭堡を築いたアメリカ海兵隊だが、ガダルカナル島の日本軍守備隊はまだ降伏していなかった。ルンガ川河口左岸で捕虜にした日本軍准士官からの情報で、日本軍は飢餓状態で無統制となっており、説得次第では投降すると判断した[86]。軍医や日本語の語学将校をふくめた偵察員25名は降伏を勧めるため発動艇2隻に分乗しマタニカウ川左岸に進出したところ、日本軍前進陣地直前に上陸したため猛射をうけ3名を除いて全滅した[86]。救援のため出動した海兵隊一コ中隊はクルツ西方に上陸し、同日午後にはマタニカウ川右岸に戻った[86]8月15日、アメリカ軍の高速輸送艦4隻(旧式駆逐艦の改造艦艇)が航空ガソリン・爆弾・軍需品・航空基地隊員を搭載し、ガ島揚陸に成功した[24]8月19日早朝、アメリカ海兵隊約300名は日本軍ガ島守備隊陣地西方のコカンボナ(クルツ岬西方約5km)に上陸し、同時にマタニカウ川右岸の海兵隊も砲兵支援下で攻撃を開始した[87]。米海兵隊戦史によれば日本兵65名が戦死して日本軍は後方に避退したと記録し、横五特(高橋中隊)の無線報告には「敵に相当の損害を与え、大発三、機銃一を捕獲。我に被害なし。食糧あと二日分」とある[87]

日本軍の対応

[編集]
歩兵第28連隊 一木清直大佐盧溝橋で勇名をはせた。

1942年(昭和17年)8月7日(日出は4時45分)の連合軍フロリダ諸島来攻・ツラギ上陸の速報に対し[88]ラバウル現地では第八艦隊(司令長官三川軍一海軍中将、参謀長大西新蔵海軍少将、首席参謀神重徳海軍大佐)が百武晴吉陸軍中将を司令官とする第十七軍にソロモン諸島ガダルカナル島およびツラギ島奪回作戦への協力を求めた[89][90]。第十七軍はポートモレスビー攻略東部ニューギニア要地勘定を任務としていたので、ラバウル所在の南海支隊をガダルカナル奪還に投入する意図はなかった[91]。 第十七軍は、パラオ諸島所在で8月15日頃ラバウル到着予定の川口支隊なら投入可能と返答した[注 20]。第十七軍参謀松本博中佐によれば「(第八艦隊に対して)川口支隊なら派遣できると述べたのは露骨な拒絶を緩和するための発言にすぎなかった」であった[93]。この時点で、第十七軍は「敵輸送船20隻(第八艦隊の大前敏一参謀の通報によれば輸送船25隻)」という規模から、来襲した敵兵力について二見秋三郎参謀長は約一個師団、松本参謀は約一個聯隊以下と見做した[80]。 大本営海軍部は8月8日時点で「輸送船45隻と含む大艦隊がハワイを出撃し、うち戦艦1、巡洋艦3、駆逐艦7、輸送船30隻がソロモン方面に来攻した」と分析した[94]。大本営陸海軍部連絡研究に出た陸軍参謀は「要するに本日の状況判断に於ては、敵はソロモンを占領確保すべく、之が奪回は相当手強きものあるべきにより、陸海軍共に所要の兵力を集結したる後、攻勢に出づるを可とする方向に一致せり」と業務日誌に記している[94]。同日夜、大本営陸軍部は第十七軍に対し、従来のモレスビー作戦にくわえてソロモン奪回作戦も第十七軍の担任予定であると通報した[94]

8月9日、大本営陸海軍部は来攻敵兵力を「一コ師団位」と推定し、モレスビー作戦は既定計画通り遂行すること、ソロモン方面反撃のためラバウルに転進した戦闘機を東部ニューギニアのラエに復帰させブナ飛行場の完成を急ぐこと、南海支隊主力のブナ上陸を強行すること、ソロモン方面に指向する陸軍兵力は一木支隊と歩兵第四十一聯隊として集合地点をトラック泊地にすること…等を申し合わせた[95]8月10日、大本営海軍部情報部は「ソロモン来攻兵力は海兵隊一コ師団、人員約1.5万」と断定した[95]。大本営陸軍部は、一木支隊を第十七軍戦闘序列に編入し、第十四軍指揮下にあった青葉支隊・独立戦車第一中隊・野戦重砲兵第二十一大隊一中隊を第十七軍指揮下に復帰させた[95]。同10日午前中、第二十五航空戦隊の陸攻はガダルカナル島周辺に敵艦船を発見できず、日本軍は「我が軍の大勝利である」「敵は敗退した」との希望的判断を下した[96]

第十七軍は、第一次ソロモン海戦や海軍基地航空隊の戦果報告に一喜一憂していた[97]8月9日午後1時20分、第十七軍は大本営に対し「敵の占拠せるモレスビー、ラビ、ツラギ〔註、ガダルカナル〕の中でモレスビーこそ重要であり、南海支隊による早期攻略が望ましい」と報告した[98][注 21]。 このように日本軍(大本営陸海軍部、第十七軍、第十一航空艦隊、第八艦隊)は「ソロモン諸島は確実に占領されたが、有力な部隊ではない」と判断し[99]、ひきつづきポートモレスビー攻略にともなうニューギニアの戦いを重要視した[8][24]。大本営は来攻兵力を海兵隊一個師団約15,000名と推定していたが、日本軍の上陸作戦能力(揚搭時間)から見て、連合軍はほとんどの部隊の揚陸に失敗して撤退したと判断した[100]。日本軍は上級司令部も現地軍も、ガ島方面の戦況に関して楽観視するようになった[101]。実際のアメリカ海兵隊来攻戦力は約16,000名(ガダルカナル島に約11,000名、フロリダ諸島に約5,000名)であった[102]

結局、ソロモン南部に投入される陸軍部隊は、パラオ諸島川口支隊川口清健少将、歩兵第35旅団司令部及び歩兵第124連隊基幹)、フィリピンの青葉支隊(那須弓雄少将、第2師団歩兵第4連隊主力基幹)、内地転属のためグァム島に待機中であった一木支隊(一木清直大佐、第7師団歩兵第28連隊基幹)[注 22]となった。 海軍側は、グァム所在の横須賀鎮守府第五特別陸戦隊、東チモール方面所在の横須賀鎮守府第三特別陸戦隊(落下傘部隊約800名)、8月15日編成完了予定の特別陸戦隊三隊を投入することになった[105]。 各隊は直ちにガダルカナル島へ向かった。ミッドウェー作戦後にグァム島に待機していた一木支隊は輸送船2隻(ぼすとん丸、大福丸)[106]に分乗して8月7日にグァム島出港後、命令により一旦グァム島に引返し、8日にパラオ諸島へ向かうよう内報され、つづいてトラック泊地に移動先を変更され、トラック泊地到着時点で第十七軍の隷下に入ることになった[107][注 23]。海軍上級司令部は「一木支隊の兵力2400名では過少」として不満と不安を抱いたが、参謀本部が「この兵力で自信あり」と説明したので、不満足ながら諒承した[111][112]。大本営陸軍部にも一部で「増援至難の絶海の孤島に一木支隊を送り込むとノモンハン事件の再現になるのでは」と懸念する意見もあったが、大本営陸海軍部の空気全般は非常に楽観的であった[95]

8月9日の外南洋部隊(第八艦隊)による夜戦と基地航空部隊(第十一航空艦隊)による空襲の戦果報告によれば、輸送船団をふくむ連合軍ガ島来襲部隊の大部分を撃滅という判定であった[113]8月10日、ガ島空襲にむかった日本軍攻撃隊と、同島方面に進出した潜水艦部隊は、ともに連合軍水上部隊を発見しなかった[114]大本営も現地日本軍も、連合軍は部隊の大部分を撤退させたと判定した[114]。たとえば宇垣纏連合艦隊参謀長は陣中日誌『戦藻録』に「(8月10日)さては敵の奴昨夜の攻撃に依り到底居たたまらず、昨日の内に総退却をなせるか。」と記述している[113]。大本営陸軍部(参謀本部)に至っては「100%撤退」と判断していたという[113]。 一方で多数の舟艇を発見しまた対空砲火を受けたことから[114][注 24]、ガダルカナル島とツラギ諸島は占領されたと判断した。すなわちガ島の連合軍は敗残兵であり、有力部隊ではないと認識した[114]。後日おこなわれた空襲と航空偵察の結果もその判断を後押ししたので[注 25][注 26]、大本営・連合艦隊・現地陸海軍含めてますます楽観的になった[118]。同日、大本営陸軍部は一木支隊を第十七軍の戦闘序列に編入した[100][119]。第十一航空艦隊は「ガ島奪回作戦は川口部隊を主力とし、一木支隊と横五特で8月25日に実施予定と電報した[120]。第十七軍は大本営に「一木支隊ト第三十五旅団ノ所要兵力ヲ『ソロモン』ニ指向スレバ作戦可能ナリ」と報告した[120]

8月12日、大本営陸海軍部は陸海軍中央協定を結ぶ[121]。 ガダルカナル島奪回作戦は「カ」号作戦と命名され[122][123]、現地陸海軍(第十七軍、第十一航空艦隊、第八艦隊)協定による一木支隊輸送作戦は「キ」号作戦と命名された[124][125]。 同12日夕刻[126]、一木支隊輸送船2隻と護衛の第4駆逐隊がトラック泊地に到着した[127]。一木支隊第1梯団はトラック島にある日本軍海軍基地を経由してガダルカナルへと向かったが、このとき一木大佐は「2,000名から10,000名の米兵が上陸拠点をすでに掌握しており、正面からの攻撃は避けるべきである」との説明を受けた[128]。 同12日、呂号第三十三潜水艦はガダルカナル島ハンター岬見張所との連絡に成功した[129]呂号第三十四潜水艦はガ島タイボ岬見張所との連絡に成功した[118]8月13日未明、日本軍の駆逐艦2隻[注 27]はガダルカナル島に到着したが、同島残留日本兵からの応答はなく連絡に失敗した[131]。2隻はヘンダーソン飛行場に艦砲射撃を敢行し、ラバウルに引き揚げた[132]。同日、伊号第百二十二潜水艦伊号第百二十三潜水艦は効果的な威力偵察を実施し、水陸両用戦車野砲(砲兵陣地)、高射砲や機銃の存在を報告した[133]。伊123は「ルンガ岬附近の敵上陸兵力は相当大」と報告したが、現地中央とも楽観的で、潜水艦の偵察結果は重要視されなかった[134]

8月13日午前中、第十七軍は一木支隊の先遣投入を決断した[120]。その後、陸海軍中央協定や参謀次長からの電報を受け、あらためて大本営に意図を説明した[120]。この中でソロモン群島の敵兵は5000~6000名、速やかに飛行場の利用を封殺することが必要と述べている[注 28]

「キ」号作戦現地陸海軍協定(第十一航空艦隊、第八艦隊、陸軍第十七軍)によれば[136]、一木支隊(歩兵第28聯隊長一木清直大佐)と横須賀鎮守府第五特別陸戦隊(司令安田義達大佐)を上陸部隊とし、W(上陸予定日、18日予定)-2日上陸部隊(一木支隊先発隊、駆逐艦6隻)トラック出撃、W日上陸、W+3日(後日+4日に変更)第二次上陸(一木支隊主力部隊、輸送船2隻、第二水雷戦隊護衛、間接護衛兵力として第六戦隊)を敢行という計画であった[137][注 29]。 敵空母が出現した場合は、輸送およびガ島奪回作戦を延期または取止める可能性があることも盛り込まれていた[139]

一木支隊の戦闘序列は、歩兵第二十八聯隊、工兵第七聯隊第一中隊および独立速射砲第八中隊、人員約2,000名であった[140]ミッドウェー作戦においてミッドウェー島攻略を目的に編制された一木支隊は約40隻の折り畳み舟艇を持っており、ガ島では駆逐艦の内火艇と組み合わせて上陸することになった[141]。内火艇や舟艇を使用して短時間のうちに上陸するという制限から、先遣隊の歩兵の携帯弾薬は250発、糧食は7日分であった[142]。上陸後の行軍の都合上からも軽装備であり、対戦車兵器として亀甲状の爆雷を保持していたという[143]。横須賀鎮守府第五特別陸戦隊(司令安田義達大佐)616名は6月30日附で第四艦隊に編入され、ナウル・オーシャン方面攻略を予定していた[140]。横五特の一部は7月29日グァム島を出発、8月7日附で第八艦隊に編入され、8月12日ラバウルに到着した[140]

第十七軍では、一木支隊を先に派遣してヘンダーソン飛行場が活動を開始する前に封殺もしくは使用を妨害するか、歩兵第三十五旅団と一木支隊を合流させ空母機動部隊の護衛下で奪回作戦に乗り出すか[144]、両論があった[145]。13日朝、第十七軍参謀長は第十一航空艦隊参謀長酒巻宗孝海軍少将に意見を求めた[注 30]。その結果、二見参謀長は「ガダルカナル島の敵を7000~8000と観たのは過大であった」「一木支隊を早期に派遣すべし」と判断を修正した[147]

陸海軍現地協定にもとづき百武中将は、一木支隊約2,300名から900名を先遣隊として駆逐艦6隻に分乗させ直ちにガダルカナル島に進出、連合軍陣地を攻撃しルンガ岬の飛行場を奪還せよと命じた[148][注 31]。 作戦計画時点の日本軍は、ガ島守備隊がマタニカウ川左岸(飛行場の西方)に海軍本部を設置していることを知らず、なんらかの友軍部隊がいると見なされた飛行場東側タイボ岬見張所を上陸点に選んだ[141]。また飛行場西側からの攻撃は地形上の障害が見込まれたことも影響した[141]。 後続の一木支隊第2梯団は第二水雷戦隊護衛下で低速の輸送船2隻(ぼすとん丸、大福丸)に乗船し、ガ島へ送り込まれることとなった[148]。一木支隊先遣隊は「敵に飛行場を使用させないことが最小限の条件」こと求められており、第十七軍命令「止ムヲ得サレハ『ガダルカナル島』ノ一角ヲ占領シ」とは「飛行場の近くを占拠して夜襲の反覆により飛行場の使用を封じること」を意図したものであった[注 32]。 なお大本営陸軍部は第十七軍に対し「(参謀次長依命電)[150]「カ」号作戦ノ規模ハ一ニ敵情ニ依リ第十七軍司令官ニ於テ決定セラルヘキモノトシ中央トシテハ要スレハ第三十五旅団及青葉支隊等ヲモ使用シ得ル如ク配船ヲ考慮シアルモ、現状ニ於テハ寧ロ戦機ヲ重視シ成シ得レハ一木支隊ト海軍陸戦隊ノミヲ以テ速ニ奪回スルヲ可トセサルヤト考ヘアリ」との意図を通知しており[151][152]、戦況を楽観視していたことがうかがえる[153][154]。 同13日夕刻、大本営では永野修身軍令部総長と杉山元参謀総長が昭和天皇にソロモン方面奪回作戦について上奏する[152][155]。永野軍令部総長は、連合軍の大部分は引き揚げたと上奏した[注 33]

8月14日、第十七軍の松本参謀はトラック泊地に出張して一木支隊長に軍命令を伝達し、その意図を説明した[156][16]。松本参謀は「最悪の場合一コ師団一万位いるかも知れぬから、迂回と不意急襲を強調した」「反面、敵が退避しつつあるかもしれないとも伝達した」「駐ソ武官からの情報については記憶がない」「飛行場占領が失敗した場合は、飛行場の近くを占拠して一部兵力による夜襲反覆等により敵の飛行場使用を封殺することが必要と伝えた」と回想している[142]。後述のように、ガ島ヘンダーソン飛行場は8月20日の日中より使用を開始した[31]。同14日、南東方面部隊指揮官の命令に従い、外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官)は一木支隊のガ島輸送に関する作戦命令を下令した[139]

  • 兵力部署(部隊名、指揮官、兵力、任務行動左ノ通)
    • (イ)主  隊 指揮官直率[注 34] 鳥海 全作戦支援
    • (ロ)支援部隊 第六戦隊司令官[注 35] 第六戦隊[注 36] 十六日「カビエン」発増援部隊ノ支援、敵水上部隊ノ攻撃
    • (ハ)増援部隊 第二水雷戦隊司令官[注 37]
      • (1)護衛部隊 第二水雷戦隊司令官 神通、哨戒艇34号哨戒艇35号、横五特(一部欠) 状況ニ依リ哨一哨二ヲ加ヘ十六日〇五〇〇「トラック」発陸軍輸送船団ノ直接護衛ニ任ジ二十一日二二〇〇上陸点着
      • (2)挺身隊[注 38] 第四駆逐隊司令[注 39] 第四駆逐隊(第二小隊欠)[注 40] 第十七駆逐隊(磯風欠)[注 41]陽炎[注 42] 十六日〇九〇〇「トラック」発一木支隊ノ一部ヲ急速「ガダルカナル」基地ニ輸送、十八日二〇〇〇泊地進入上陸セシム
    • (ニ)潜水部隊 第七潜水戦隊司令官[注 43] 七潜戦、三潜戦 「ガダルカナル」方面監視、敵艦艇攻撃
    • (ホ)水上機部隊 第八根拠地隊司令官[注 44] 聖川丸水偵四機 「ギゾ」島ニ水上基地設営、「ガダルカナル」島方面ノ偵察、附近海面ノ捜索

8月15日1520、第二水雷戦隊司令官田中頼三少将が率いる軽巡洋艦神通と駆逐艦陽炎がトラック泊地に到着する[17]。田中少将は第八艦隊および第十七軍参謀から説明を受け、さらに一木支隊との打ち合わせをおこなった[158]。この頃、駐ソ連武官より「米軍のガダルカナル島方面作戦は飛行場基地破壊が目的であって、この目的を達成した米軍はガ島からの脱出に腐心している」との情報が大本営に寄せられた[159]。この情報はガ島へ向かう一木支隊にも伝達され、一木支隊戦闘詳報にも記載されていたという[159][注 45]。泊地では、一木支隊先遣隊と駆逐艦が上陸演習を行っていた[161]。 同15日、天皇はソロモン奪回後、ソロモン方面作戦に関して勅語下賜の内意を示した[162][163]

一木支隊のトラック泊地出撃

[編集]

8月16日午前5時、「キ」号作戦増援部隊の挺身隊(第4駆逐隊司令有賀幸作大佐指揮)[注 46]陽炎型駆逐艦6隻(旗艦/萩風浦風谷風浜風陽炎)は一木大佐以下先遣隊916名を各艦約150名ほど収容し、トラック泊地を出撃した[注 47][165]。一木支隊長は有賀大佐の駆逐艦「」に乗艦した[166]。 なお速射砲部隊をふくむ一木支隊大部分約1500名は輸送船2隻(ぼすとん丸、大福丸)に分乗し、第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(旗艦神通)指揮下の軽快艦船(神通、哨戒艇2隻)に護衛され、挺身隊と同時にトラック泊地を出撃した[164]。挺身隊の速力は22ノット、輸送船団は8.5ノットであった[167]。第24駆逐隊(海風、江風、涼風)と横五特(司令安田義達大佐以下616名)を乗せた輸送船金龍丸および哨戒艇2隻(旧島風旧灘風)は18日から19日にかけて第二梯団と合流した[注 48][13][169]。同16日、天皇は侍従武官よりガ島奪回作戦の上陸予定について報告を受けた[170]

挺身隊(一木支隊先遣隊)がガ島へ向け航行中の8月16日深夜、横五特のガ島派遣隊113名[14][171]は駆逐艦追風に乗艦してガダルカナル島に到達し[172]、同島タサファロング(ガ島北西部、ルンガ岬より西方17km地点)[173]西方4km地点に上陸した[13]。高橋達之助大尉以下増援陸戦隊はタサファロングより東進し、夕刻までにマタニカウ河西方に本部をおくガ島守備隊[174](部隊長の掌握していた守備隊員100名、設営隊328名)との連絡に成功した[14][175]。 ガ島守備隊からの情報により、日本軍守備隊の拠点は飛行場西方マタニカウ河西岸にあること(一木支隊先遣隊の上陸するタイボ岬は飛行場東側)、連合軍ガ島上陸部隊は2000名ほどでツラギ諸島へ脱出しつつあるが高射砲・戦車若干を有することが判明し、一木支隊長にも伝えられた[176]8月17日午前10時30分、挺身隊(一木支隊先遣隊)は赤道を通過、このときソ連駐在武官発の「米軍はガ島からの脱出に腐心している」との情報が伝えられた[160]。一木支隊将兵はやや落胆したという[160]。一木支隊長は「大急ぎで行かなければ敵は逃げてしまう」と心配した[176]。一木支隊先遣隊(さらに一木支隊後続部隊や海軍陸戦隊も加われば)による飛行場奪回は容易との判断は、大本営のみならず現地陸海軍の共通認識であった[176][177]

8月18日、第十七軍は川口支隊のガ島派遣について現地陸海軍協定を結んだ[178][179]。この中には「海軍航空部隊ヲ「ガダルカナル」島ニ推進シタル後 成ル可ク速ニ海陸協同シテ「ツラギ」及附近島嶼ヲ奪回ス」「(川口支隊上陸日=V日を8月28日とする)六 航空作戦ニ関スル事項 (イ)V-1日〈27日〉迄ニ戦闘機隊ノ一部ヲ「ガダルカナル」島ニ進出ス/(ロ)「ガダルカナル」島基地造成次第陸攻隊ノ一部ヲ「ガダルカナル」島ニ進出シ「ツラギ」攻略ニ協力ス/(ハ)V-1日ヨリV+1日迄船団前程哨戒ヲ実施ス」とあり、川口支隊上陸計画は一木支隊が飛行場を占領していることが前提になっていた[180]。第十七軍が一木支隊の飛行場奪回について楽観視していたことがうかがえる[180]。 同18日夜、挺身隊はマライタ島を見ながら南下した[181]。2300、挺身隊駆逐艦6隻に乗船した一木支隊先遣隊(第1梯団、916名)は[182]、食料7日分と携帯弾薬各自250発を携行してガダルカナル島ルンガ岬の約35km東にある同島タイボ岬に上陸、集結を完了した[18][注 49]。 上陸後、一木大佐は後続部隊の来着を待つことなく、先遣隊のみでの飛行場攻撃を決意した[184]8月19日0000をもって前進を開始する[184]。約100名の兵を後方の守備に充て、残り約800名を率いていた。移動は夜間機動で、昼間は休憩にあてた。19日の日没前にはルンガ防衛線からおよそ14km東の地点まで到達した。一方ルンガの米海兵隊は、偵察部隊が飛行場西方のマタニカウ河で日本軍ガ島守備隊と交戦状態にあった[14][185]。この時、コースト・ウォッチャーズ等から「日本軍の駆逐艦が飛行場の東35km地点で兵員を揚陸した」との情報を得た[186]。米海兵隊は、状況をより正確に把握するため更なる情報収集に努めた[187]

なお第17駆逐隊3隻(浦風、谷風、浜風)はポートモレスビー作戦にともなうラビの戦いに従事するためすぐにラバウルへ向かった[87][188]。3隻(嵐、萩風、陽炎)は上陸地点の警戒・敵脱出阻止のため同地に留まり、ツラギ泊地やルンガ岬に艦砲射撃を実施した[87][189]。駆逐艦は一木支隊先遣隊と無線連絡をおこなう手筈だったが、先遣隊からの連絡は全くなかったという[190][191]。 午前中になるとエスピリトゥサント島から飛来したと思われるB-17爆撃機の空襲により被弾した「萩風」が大破[192]、「嵐」と共にトラック泊地へ撤収、同方面に残る駆逐艦は「陽炎」1隻となった[193][注 50]。 「陽炎」のツラギ泊地砲撃後の報告は「本射撃直後敵兵満載ノ大発数隻算ヲ乱シテ遁走セント図リタル為之ヲ砲撃セル所右往左往スル状況及攻撃中何等応戦ノ気配ナキ点其ノ他敵(兵数不明)ノ行動一般ニ活發ナラザル点等ヨリ考察シ、敵ハ相当士気沮喪セルニ非ズヤト認メラル、続イテ「ホーン」岬二粁附近ヲ往復極力見張所ト連絡ヲ試ミタルモ応答ナシ」であった[193][注 51]。 同19日1542、一木支隊先遣隊の間接支援をおこなっていた外南洋部隊支援部隊(青葉、衣笠、古鷹、夕凪)はサンタイサベル島北部のレカタに入泊し、臨時の水上基地を設置した[注 52][195]。同日夜[197]、外南洋部隊主隊(重巡洋艦鳥海、駆逐艦磯風[169]はラバウルを出撃[198]、20日1000時点でブカ島北東50浬地点にあった[195]

戦闘

[編集]

前哨戦

[編集]
英領ソロモン諸島沿岸監視員マーティン・クレメンス(中央)と現地警備軍。ガダルカナルの戦いを通じて連合軍の偵察員・案内役として活躍した。

イギリス領ソロモン諸島保護領守備軍(BSIPDF)の士官で沿岸監視員であるマーティン・クレメンス英語版の指揮の下、英領ソロモン諸島保護領警察隊ジェイコブ・C・ヴォウザ元上級曹長[199]らをはじめとするソロモン諸島の沿岸監視員や、その他の情報機関からの報告によって、日本軍増援部隊がガダルカナル島に上陸しルンガ岬の東側を行軍中であることが明らかとなっていた[186]。8月19日、海兵隊はルンガ防衛線西側のマタニカウ川で、日本軍ガ島守備隊と引き続き交戦していた[200]。一方、更なる情報収集の為チャールズ・ブラッシュ大尉率いる海兵隊偵察部隊60名と4名の現地人スカウトがルンガ防衛線の東側の調査にあたった[201][202]

前述のように一木支隊先遣隊は8月18日23時までにはタイボ岬に上陸を完了し、後続部隊の到着を待たずに前進を開始した[26]8月19日午前4時30分、一木支隊先遣隊はテテレ(タイボ岬西方15km)に到着して大休止した[203]。企図秘匿のため夜間に移動し、昼間は休止することにした[204]。 午前8時30分、一木支隊先遣隊も敵情視察と前線の連絡拠点確立のため、渋谷大尉以下をイル川(中川)付近に、館中尉以下四組の将校斥候を飛行場方面に派遣した[204]。同19日12:00ごろ、コリ岬付近にてブラッシュ大尉の偵察部隊が日本軍斥候兵を視認、海岸線を進んでくる一木支隊偵察部隊に対し待ち伏せ攻撃を仕掛けた[186]。米側記録によれば、将校4名と下士官兵30名の一群は戦闘隊形をとらずに前進していたという[204]。日本軍側は33名死亡[186](将校全員をふくむ18名戦死、のち1名が捕虜と判明とも)[199]、生き延びた5名はタイボ岬へと退却した。米海兵隊の損害は3名死亡、3名負傷であった[注 53]。 偵察部隊の士官の遺体から得た書類などから、上陸した日本軍は比較的大きな部隊(陸軍)に所属していることが明らかとなった[205][206]。だが、その兵力の具体的な規模や日本軍の攻撃がいつ始まるのかといった情報は得られなかった[207]。 これらの情報から、米軍海兵隊はルンガの東方からの攻撃を想定し、防衛線東部の防備を固めていた。なお米軍公式戦史では、ルンガ防衛線の東部防衛地点をテナル川に同定しているが、テナル川は戦闘の発生した場所の更に東側に位置しており、実際にルンガ防衛線の東部を形成していたのはイル川である。イル川は連合軍側ではアリゲーター・クリークと呼ばれていたが、この呼称には二つの過ちがある。まず、ソロモン諸島にはアリゲーターは生息しておらず[注 54]クロコダイルしかいないこと、また、クリーク(Creek:入江)と言いながらも実際は海と幅7m - 15m、長さ30mの砂州で分かたれたであったことである[208]。日本側は、イル川を「中川」、テナル川を「蛇川」と呼称している[25][184]

第1海兵連隊クリフトン・ケイツ英語版大佐は第1・第2大隊をイル川の西岸に沿って配置した[209][210]。さらに第1特殊兵器大隊100名にキャニスター弾(対人用散弾)を装備した37mm対戦車砲2門を備え、イル川砂州の守備にあたらせ、イル川東岸と砂州を事前に標的に据えさせ、砲兵隊の観測兵を海兵隊陣地前線に配置した[211]。海兵隊はこの守備固めに20日丸一日を費やし、日没までに可能な限り守備を整えた[209]

同19日午後2時30分に偵察隊遭遇交戦中の報を受けた一木大佐は救援のため第1個中隊を先遣した後、主力も午後4時にテテレを出発した[204]。19日夜間も行軍を続け、8月20日午前2時30分にコリ岬西側のレンゴに到達して大休止にうつった[212]。午前5時頃、B-17重爆 1機が飛来し、ルンガ岬方面には大発動艇が航行、第十一設営隊の宿営舎跡付近で敵兵が活発に動いているのを認めた[212]。 同20日06時20分、駆逐艦陽炎は敵単発機2機の攻撃を受けて避退した[213]。敵空母機の可能性があったため飛行艇が索敵をおこなった結果[194]、同20日朝になりサン・クリストバル島南方(ガダルカナル島南東方面約250浬/約460km)に航空母艦巡洋艦を含む有力な艦隊と輸送船団を発見した[214][215]。南東方面部隊指揮官は、ガ島に向け進撃中の一木支隊第二梯団に反転避退を、基地航空部隊と外南洋部隊には敵機動部隊に対する攻撃と残敵撃滅を命じた[216]。ところが南東方面部隊(塚原中将)は一木支隊第二梯団に対し「北方へ避退せよ」と命じ、外南洋部隊(三川中将)は「南西に避退せよ」と命じたので、板挟みになった第二水雷戦隊司令官田中頼三少将は「やむなく、二つの命令の中間をとって北西の針路をとった」と回想している[217]。この後も輸送船団に対し、塚原中将と三川中将から相反する命令が出されている[218]。通信状況も不良であり、電報の遅延や不達も多くなった[219]

同時期、護衛空母「ロング・アイランド」はガ島に接近し[24]F4Fワイルドキャット戦闘機 19機とSBDドーントレス急降下爆撃機 12機をヘンダーソン飛行場に空輸した[220]。ロング・アイランドが輸送した戦闘機急降下爆撃機は、ガダルカナル島攻防戦で重要な戦力となった[221]。航空戦力の進出により、ガダルカナル島周辺の制空権は米軍のものとなった[31]。上記のように最初に進出したのは海兵隊所属機だったが、まもなく陸軍航空隊のP-38ライトニングP-39エアコブラといった戦闘機、空母から派遣された戦闘機や急降下爆撃機が次々に増強された[222]。ヘンダーソン基地使用開始からわずか10日間で、三個戦闘飛行隊(海兵隊2、陸軍1)、一個偵察飛行隊(海軍)、三個爆撃飛行隊(海兵隊2、海軍1)が投入された[222]

ヘンダーソン飛行場に米軍航空機が進出したことは[223]、日本軍も確認した[200][224]。ガ島守備隊は14時20分に「敵艦上機二〇機 内戦闘機二機 飛行場ニ着陸セルモノノ如シ」と報告した[213]宇垣纏聯合艦隊参謀長は「彼の企図は飛行機運搬にありしか、但し之は全機と認むるを得ず、更に同様の特設空母二の矢として同様任務に服しあるやも知れず。/本移動せる飛行機を速に撃破し尚敵の飛行場使用を不可能ならしむる如く空襲夜間砲撃等現下の急務たり。根を卸さしむべからずと焦慮するも出先は仲々思ふ通りに動かず」と記述している[213]。 また小型駆逐艦や輸送船がルンガ泊地にて揚陸作業中との情報により、駆逐艦江風(第24駆逐隊)と駆逐艦夕凪(第29駆逐隊)に泊地突入命令が出た[注 55][225][注 56]

攻撃

[編集]
8月21日の戦場図

8月20日午前10時、一木支隊長は攻撃計画を策定し、攻撃命令を下達した[228]。午後6時、一木支隊先遣隊はレンゴを出発した[28]。工兵隊の下士官斥候一組(現地民3名、通訳1名)が先遣し、中川(イル川)渡河点を偵察することになった[228]。すると先遣した工兵下士官から「誘導の土人1名逃亡し射殺したが、中川方向に信号弾が上がるのを見た」との報告があった[228]。20:00、部隊は中川に到達した[28]。中川西岸は東岸と比較して台地状になっており、驚くべきことに米海兵隊の陣地が構えてあった[25]。ルンガ岬の飛行場からこれ程離れた場所に米軍陣地があることは想定していなかった[229]。米軍の背後をつくつもりが、強固な守備陣地の正面からの攻撃となったのである。一方の米海兵隊は、日本兵がイル川に向けて進軍する際のカチャカチャいう音や話し声を偵察兵(聴音哨)が聞きつけており、日本軍接近を察知済みであった。

日本時間8月20日22:30(連合軍時間8月21日01:30)、一木支隊先遣隊はイル川西岸に対して攻撃を開始[25]、第一波の100名がイル川を渡って海兵隊陣地に突撃した[228]。だがキャニスター弾を装填した37mm榴弾砲と機銃の猛射に遭い[230]、ほとんどの兵は砂州を渡る際に倒された[29]。海兵隊陣地にたどり着いた兵もわずかにおり、白兵戦を挑むなどして機銃陣地を確保したものもあった[231]。日本軍の機銃射撃と小銃射撃によって戦死した米海兵隊銃手もいた[232]。だが、米軍前線を突破した日本兵も、その直ぐ後ろに待機していた中隊の攻撃に遭い、機銃陣地を確保し続けることはできなかった。一木支隊の最初の攻撃は100名余りの損害を出し、開始から一時間足らずで一旦停止することを余儀なくされた[233][234]

日本時間8月20日23:30[25](連合軍時間8月21日02:30)、日本側の第二波として、150名から200名の日本兵がイル川砂州を超えるべく再攻撃を掛けたが、またもや米軍の火力の前に一掃された。このとき、攻撃から生還した将校が一木大佐に残存兵をまとめて撤退すべきであると進言したが、一木大佐はこの進言を退けた[235]

一木支隊先遣隊はイル川東岸で部隊を再編成し、迫撃砲による砲撃を開始した[236]。これに対し、米海兵隊も75mm砲と迫撃砲でイル川東岸に砲撃、応戦した[237]。21日02:00(連合軍時間21日5:00)頃、日本は3度目の攻撃を仕掛けた[25]。このときはイル川渡河ではなく、北の海側から廻り込んで西岸を攻撃しようとした。だがこの迂回攻撃は直ぐに米軍に察知され、浜辺一帯は重機関銃と砲兵の砲撃を浴びた。一木支隊先遣隊は三たび甚大な被害を被り、迂回攻撃をあきらめ東岸に撤退することを余儀なくされた[238][239]。この後1-2時間程、イル川を挟んで至近距離での銃撃による応酬が続いた[240]

21日の戦闘後、イル川の砂州に半ば埋まって横たわる一木支隊の将兵

一木支隊は既に壊滅的な被害を被っていたが、依然としてイル川東岸に留まり続けていた。撤退できなかったのか、あるいは撤退するつもりがなかったのかは不明である[241]8月21日明方、米軍士官は如何にして戦闘を継続するか協議し、結論として日本軍を追い詰め、攻撃を仕掛けさせてから返り討ちにすることにした[242]。第1連隊第1大隊のレナード・クレスウェル中佐は、戦闘地域からイル川を溯上、一木支隊を南方と東方から包囲しイル川東部のココナッツ林に追い込んだ[240]。また、ヘンダーソン飛行場からは小型艦上機が発進し、戦闘に加わった[200]。航空機による機銃掃射で日本軍をココナッツ林に足止めし、午後になってから投入された5輌のM3軽戦車が砂州を超えてココナッツ林を攻撃した[243]。戦車は機銃とキャニスター弾の砲撃でココナッツ林に猛射を浴びせ、横たわる日本兵を生死を問わず押しつぶしていった[243]。ヴァンデグリフト少将は、戦車攻撃が終わった時の様子を「戦車の後ろ側はまるで挽肉器(meat grinder)のようであった」と書き残している[注 57]

21日15:00[25](連合軍時間17:00)には一木支隊の抵抗も止み、戦闘は終了した。一木大佐の最期については「戦闘中戦死した」[243]または「軍旗を焼いて自決して果てた」[231]など記録によって異なる[注 58][注 59][注 60]。 戦闘終了後、物見高い米兵が戦場を見て回った際、負傷した日本兵に近づいたところを撃たれ死亡するものも出た。このため、その後海兵隊はすべての日本兵の遺体を撃ち、銃剣で刺した。負傷し意識不明であった日本兵15名が連合軍の捕虜となった[244]。戦闘を生き延び後方に逃れた一木支隊の兵は30名程で、タイボ岬に待機していた第1梯団後方部隊に合流、残存部隊は128名となった[231][注 61]。一木支隊戦死者の埋葬作業には、アメリカ軍に集団投降していた朝鮮人労働者(日本海軍設営隊)も使役されたという[245]

影響

[編集]

米軍・連合軍にとってイル川渡河戦での勝利は心理的に重要な意味をもっていた。連合軍の兵士はこれまでの太平洋戦線および東アジア戦線の地上戦において日本軍に負け続けてきたが、この戦いの勝利によって日本軍を地上戦においても打ち負かすことができることを知った[246]。また連合軍はこの戦いで「日本兵は敗北しても降伏することを良しとせず、負傷し倒れてもなお連合軍兵を殺しにかかる」という、太平洋戦争終戦まで通じる戦訓を得た。この点についてヴァンデグリフト少将は次のように述べた。「私はこのような類の戦いを見たことも聞いたこともなかった。彼らは降伏を拒む。傷ついた日本兵は米兵が調べに来るのをじっと待ち、近づいた米兵を手榴弾で自らの体ごと吹き飛ばすのだ[247]。」ガダルカナルに機関銃手などとして従軍したロバート・レッキーは回顧録『Helmet For My Pillow(ヘルメットを枕に)』で「我々の連隊は900名ばかりの日本兵を倒した。ほとんどは銃火の前に塊となったり、山積となったりして倒れた。まるで日本兵は集団じゃないと死なないかのようだった。戦闘後、死体の間では戦場の"みやげもの"を探そうとする奴らが動き回っていた。ブービートラップがあるので慎重に歩き回り、見つけた遺体を裸にしていた[248]。」

8月21日朝の時点で、第十七軍はガダルカナル島日本軍守備隊から「二一日〇二〇〇ヨリ引続キ飛行場附近ニ盛ニ銃声ヲ聞ク 敵小型陸上機四機 〇四〇〇離陸旋回シアリ」「〇四〇〇離陸セル敵戦闘機五機ハ〇五〇〇乃至〇五三〇ノ間ニ着陸其ノ後離陸セズ 銃砲声ハ引続キ飛行場附近ニ在リ」「敵機ノ離陸並ニ飛行スルモノヲ認メズ 先遣隊ノ攻撃ハ我軍ニ有利ニ進展中ト推定ス 〇六三〇」「一木支隊及同先遣隊ニ伝ヘラレ度 味方工員多数飛行場周辺密林中ニ統制ナク避退シアリ 御了承ヲ乞フ」という一連の電報を受け、飛行場占領を待った[249]。連合艦隊司令部では、一木支隊先遣隊の攻撃で敵が降伏したと見る参謀も多かった[250]。 夕刻、ガ島日本軍守備隊は「一木先遣隊ハ今朝飛行場附近ニ到達セルモ殆ンド全滅ニ瀕ス、東見張所ヨリ連絡アリタリ、ぼすとん丸ニ伝ヘラレ度(発信者名なし)」と打電し、海軍側は第十七軍司令部に伝達した[251]。第十一航空艦隊は連合艦隊に対し「二十一日「ガダルカナル」ヨリ一木支隊先遣隊ハ飛行場突入前全滅ニ瀕セリトノ電アリ 再調査中ナルモ右情報ハ出所(発令者)ニ多大ノ疑問アリ」と報告した[250]。第八艦隊は一木支隊先遣隊の攻撃が失敗したと記録した[252]。第十七軍は一木支隊先遣隊の苦戦を認め、川口支隊を直接ガダルカナル島に突入させることを決定した[253]。また、一木先遣隊に対する空中補給を海軍側に依頼した[251]

8月24日午前6時、ガ島守備隊は「昨夕敵ニ異状アリタルガ如シ 敵戦闘機二二機 十五時三十分 一旦離陸セル処 当時飛行場附近盛ニ銃声アリ 敵戦闘機ハ 十六時二十分頃一斉ニ離陸シ航空灯ヲ点シ右往左往ス 海岸附近ニモ銃声アリ」と報告したので、第十七軍は「一木支隊先遣隊は態勢をたてなおし、飛行場に対する妨害を実施している」と判断した[254]。午後7時35分、第十七軍は大本営に『「ガダルカナル」守備隊ヨリノ電報ニ依レハ 一木支隊ハ飛行場附近ニ健在飛行場〔擾乱〕ニ努メアルモノノ如シ』と報告した[254]。 一方、大本営は「一木先遣隊が飛行場を攻撃して相当の被害を受けた」との情報を入手した[22]。昭和天皇は杉山参謀長の戦況上奏に「一木支隊はガ島に拠点を保持できるか。また南海支隊の方面はどうなってるか。ひどい作戦になったではないか」と御下問した[255]8月25日、前記の電報は一木支隊通信係将校の榊原中尉が送信を依頼したものであることが判明した[251]。ここに一木支隊先遣隊の全滅が判明した[255]

同24日から25日にかけての第二次ソロモン海戦で日本軍は敗北し(空母龍驤沈没、水上機母艦千歳損傷)[256]、一木支隊後続隊(第二水雷戦隊護衛)も空襲を受けて損害を出し[注 62]、ガ島直行をやめてショートランド諸島ニューブリテン島ラバウルに向かった[3][258]。 その後、ガダルカナル島への増援輸送は、敵制空権下において駆逐艦によって実施された[259]鼠輸送/東京急行[260]。次なる日本軍の大規模反撃は、約3週間後の第1次総攻撃ムカデ高地の戦い血染めの丘の戦いエドソンの丘の戦いとも)であり、日本軍は飛行場奪還を期して、イル川渡河戦を上回る川口支隊約6,500名を投入したのであった[261]

1994年(平成4年)9月、一木支隊生存者および遺族は、ガダルカナル島に「一木支隊鎮魂の碑」を建立した[262]

時系列

[編集]

一木支隊とイル川渡河戦に関連する事項を記載する。ラバウルの現地陸海軍とは、第十七軍(司令官百武晴吉陸軍中将)、第十一航空艦隊司令長官塚原二四三海軍中将(南東方面部隊指揮官と基地航空部隊指揮官を兼任)[注 63][注 64]、第八艦隊司令長官三川軍一海軍中将(外南洋部隊指揮官)。南東方面部隊(塚原中将)は基地航空部隊と外南洋部隊を麾下におく。

  • 1942年5月25日 - 第二十五航空戦隊の飛行艇(同航戦幕僚、第八根拠地隊幕僚、技術者同乗)はガダルカナル島を偵察し、同島北西部ルンガ川東方海岸線から2,000南方地区に飛行場適地を発見[263]
  • 6月1日 - 二十五航戦司令官山田定義少将は第十一航空艦隊参謀長に調査結果を報告、急速設営を意見具申する[264]
  • 6月19日 - 第四艦隊(司令長官井上成美海軍中将)司令部関係者、ガダルカナル島を現地調査して上級司令部に報告[265]。6月下旬、上級部隊は第四艦隊にガダルカナル島に飛行場を建設するよう命じる[266]。第四艦隊隷下の第二十五航空戦隊と第八根拠地隊が実地作業を担当する[267][268]
  • 7月1日 - 呉鎮守府第三特別陸戦隊と第八十一警備隊を再編し、フロリダ諸島を防衛する第八十四警備隊(司令鈴木正明中佐)新編[269]
  • 7月6日 - 海軍第十一設営隊(隊長門前鼎大佐、約1220名)、第十三設営隊(隊長岡村徳長少佐、約1350名)、ガダルカナル島に上陸[269]。間もなく飛行場建設作業を開始[270]
  • 7月14日 - 第八艦隊[61](司令長官三川軍一海軍中将、参謀長大西新蔵海軍少将、参謀神重徳海軍大佐ほか)新編[271]。南洋部隊は内南洋部隊に区分変更、外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)が、パプアニューギニアやガダルカナル島を含めたソロモン諸島での作戦を担任することになった[62]。7月25日、井上中将(南洋部隊指揮官→内南洋部隊指揮官)と三川中将(外南洋部隊指揮官)はトラック泊地で会談する[272]。南洋部隊は「ソロモン群島や東部ニューギニア方面への連合国軍の反撃は杞憂にすぎず、あるにしてもかなり後」と伝達する[273]
  • 7月18日 - 第十七軍司令官、大本営陸軍部参謀辻政信陸軍中佐の独断により「リ号研究作戦(スタンレー山脈越えによるポートモレスビー攻略作戦)」の実施を南海支隊(支隊長堀井富太郎陸軍少将)に命令する[274][275]
  • 7月24日 - 第十七軍司令部、ニューブリテン島ラバウルに到着する[276]
  • 7月27日 - 辻政信中佐は東部ニューギニア現地視察のため駆逐艦朝凪に便乗中[277]、空襲で負傷し翌日ラバウルに帰投[278]
  • 7月28日 - 大本営は一木支隊の内地還送に輸送船2隻(ぼすとん丸、大福丸)を使用し、護衛を第三艦隊麾下の第十戦隊より抽出することを決定[106]
  • 7月30日 - 鳥海(第八艦隊司令部座乗)と駆逐艦(雪風、時津風)はラバウルに到着し、第八艦隊司令部は陸上に将旗を移す[279]
  • 7月31日 - ラバウルの現地陸海軍(第十七軍、第十一航空艦隊、第八艦隊)、『「ポートモレスビー」攻略竝ニ東部「ニューギニヤ」戡定作戦ニ関スル協定」を結ぶ[280]ラビの戦い[281]ポートモレスビー攻略のため、外南洋部隊は海軍陸戦隊を、第十七軍は南海支隊(支隊長堀井富太郎少将)、歩兵第三十五旅団(旅団長川口清健少将)、歩兵第四十一聯隊(聯隊長矢澤清美大佐)を投入予定[282]。大本営参謀辻政信中佐によれば、辻がガ島について尋ねると海軍側参謀は「ガ島は絶対だ。天が堕ちても獲られる心配はいらぬ」と返答した[283]
    • 連合軍大型爆撃機、従来よりエスピリトゥサント島よりガダルカナル島やフロリダ諸島に少数機が飛来していたが、同31日より空襲を強化する[284][285]
  • 8月4日 - 大本営海軍部(軍令部)、各種徴候より各艦隊参謀長に注意喚起[286]
    • 第二十五航空戦隊隷下の第十四航空隊派遣隊、二式飛行艇2機によるフィジー諸島およびニューカレドニア方面の偵察を実施、同方面を航行中だった連合軍大艦隊を発見できず[287]。その後もツラギより連日のように飛行艇による索敵を実施するが、接近中の連合軍大規模船団に気付かず[288]
  • 8月5日 - 日本軍ガ島飛行場設営隊、滑走路既成により戦闘機進出可能と報告する[289]。第二十六航空戦隊(司令官山縣正郷少将)麾下の第六航空隊[注 65](司令森田千里大佐)[291]に所属する零式艦上戦闘機航空母艦により8月16日頃にはガ島飛行場へ輸送する予定[292]
    • ガ島の原住民が山中へ避難、日本軍は特に対処せず[286]
  • 8月7日 - 連合国軍、ガダルカナル島フロリダ諸島に来攻[293]アメリカ海兵隊が上陸を開始[294]
    • 第十七軍、第八艦隊からガ島奪回作戦への協力を求められるが、ラバウル所在兵力(南海支隊)投入を拒否する[89]。在パラオの川口支隊なら派遣可能と返答[91]
    • 大本営はラバウルの第十七軍に対し、ポートモレスビー攻略続行(レ号作戦)を命じ、その上で海軍作戦の援助を指示する[295][注 66]
    • 大本営、グァム島を出航した一木支隊(ぼすとん丸、大福丸)[296]に対しグァム島へ引き返すよう指示、使用予定は東部ニューギニアと内報[297]。行先は二転三転し、最終的にトラック泊地と決定[298]
    • 日本軍のガダルカナル島守備隊および飛行場設営隊、飛行場より西方のマタニカウ河に後退して海軍本部を設置[51]
  • 8月8日 - 第一次ソロモン海戦[299]
    • 大本営、第十七軍にソロモン方面奪回作戦担任予定と内報する[注 67]
    • 第八艦隊は海軍陸戦隊約520名のガダルカナル島上陸中止を命令、だが帰路に潜水艦の雷撃によって輸送船明陽丸が沈没[59]
    • アメリカ海軍機動部隊、正規空母3隻(エンタープライズ、サラトガ、ワスプ)を擁しながら上陸支援を打ち切ってガ島周辺から撤退[74]
  • 8月9日 - 第十七軍は大本営に対し、南海支隊によるポートモレスビー早期攻略、ガダルカナル方面は川口支隊で奪還すべしと意見具申[97]
    • 大本営はソロモン方面派遣陸軍兵力を一木支隊と歩兵第41聯隊(8月5日にダバオを出発、8月15日~16日ラバウル着予定)[94]と内定[119]
  • 8月10日 - 大本営、一木支隊の第十七軍隷下編入、青葉支隊他の第十七軍指揮下復帰を発令[95][300]
    • 第一次ソロモン海戦を戦った外南洋部隊各艦、ラバウルもしくはカビエンに帰着(潜水艦の雷撃で重巡加古沈没)[301]
    • 現地陸海軍、ガ島奪回計画について協議する[145]。ガ島奪回作戦を川口支隊主力、一木支隊、横須賀鎮守府第五特別陸戦隊で8月25日頃実施と計画、連合艦隊に通知[注 68]
  • 8月11日 - 大本営、第十七軍にソロモン方面の敵撤退後の作戦要領を指示、第十七軍は意外に感じる[96]
    • 第十七軍、一木支隊に対し「トラック泊地進出後、なるべく速やかにラバウルに前進すべき」と下令[注 69](海軍側の意見もあり実際はトラック泊地からガ島へ直行)[140]
    • 第十一航空艦隊の零戦6機、午前7時にラバウルを発進してガ島強行偵察を実施、十一航艦は夕刻になり偵察結果を報じる[116]
  • 8月12日 - 大本営陸海軍部、東部ニューギニア・ソロモン群島作戦に関する中央協定成立[302](翌日、第十七軍および連合艦隊に指示)[121]
  • 8月13日 - 第十七軍は第十一航空艦隊の「ガ島の米軍は大部分撤退」「米軍はガ島の飛行場を整備していない」という希望的観測に影響されはじめる[147]
    • 大本営、ソロモン群島奪回「カ」号作戦を指示するが既定計画のポートモレスビー作戦についても言及[注 71]。現地陸海軍、ガ島奪回作戦現地軍協定成立[138]
    • 第十七軍、一木支隊単独によるガ島飛行場奪回を下令[139]。第十七軍、ガ島へ急派すべき兵力に関する参謀次長電を受領[120]
    • 南東方面部隊、ガ島奪回作戦要領を発令[139]
    • ガ島を偵察した伊122潜水艦と伊123潜水艦、水陸両用戦車砲兵陣地など敵有力部隊の存在を報告[118]
    • 軍令部、ガ島について「残留敵兵力は大ではない」と奏上[119]永野修身軍令部参謀総長と杉山元参謀総長、昭和天皇に作戦大要を上奏[9]
  • 8月14日 - 第十七軍の松本参謀はトラック泊地に出張し一木支隊長に第十七軍命令を伝達し要旨を説明する[16]
    • 外南洋部隊、一木支隊のガ島輸送に関する作戦命令を下令[139]
  • 8月15日 - トラック泊地において外南洋部隊と一木支隊間に作戦協定成立[142]
    • 二十五航戦の陸攻3機はルンガ岬東方6kmの草原に糧食と弾薬計1トンを空輸するが、マタニカウ川西岸への空輸は米軍対空砲火のため実施できず[86]
  • 8月16日 - 一木支隊、トラック泊地を出撃[306]。先遣隊(一木大佐以下916名、駆逐艦6隻分乗)と本隊(ぼすとん丸、大福丸、金龍丸〈途中合流〉、第二水雷戦隊)に分割されて南下を開始[17]
    • ガ島日本軍守備隊、エスペランス岬の見張所より電信機を守備隊本部に持ち帰り、ラバウルとは潜水艦を中継して連絡可能となる[307]
    • 同16深夜、横須賀鎮守府第五特別陸戦隊の1コ中隊113名(高橋達之助海軍大尉)、駆逐艦追風に乗艦してガダルカナル島タサファロング岬に到着[14]
    • 第三艦隊(司令長官南雲忠一中将、参謀長草鹿龍之介少将)[308]、空母3隻(翔鶴、瑞鶴、龍驤)[注 72]と護衛部隊[注 73]を率いて日本本土内海西部を出撃[311]
  • 8月17日 - 横五特のガ島派遣部隊、上陸地点から東進し、マタニカウ川西岸の日本軍ガ島守備隊と合流[14]。ガダルカナル島に対する最初の増援であり、ガ島とラバウル間の直接連絡復活[14]
  • 8月18日 - 第八艦隊もしくは第十一航空艦隊は「ガ島基地通信隊及第八根拠地隊よりの報告を総合すると敵は高射砲、戦車若干及機銃多数を有し、内約二,〇〇〇は飛行場西側附近にあり」と記録[166]
    • 同日深夜、一木支隊先遣部隊はガ島のタイボ岬に上陸[166](飛行場の東側約35km)[312]
  • 8月19日 - 午前0時とともに一木支隊先遣隊は後続部隊(第2梯団)を待たず西進を開始[注 74]
    • マタニカウ川周辺の日本軍ガ島守備隊[200]、コクンボナより迂回攻撃してきたアメリカ海兵隊と交戦[14]
  • 8月20日 - 日本軍索敵機、ツラギ島南東方面約250浬に空母を含む敵部隊を発見[313]
    • 南東方面部隊、敵空母発見をうけて一木支隊第2梯団(輸送船団)に反転退避を命令[216]
    • 護衛空母ロング・アイランド、ガ島ヘンダーソン飛行場に戦闘機急降下爆撃機を輸送[221]
    • ヘンダーソン飛行場、使用開始[311]。米軍、ガダルカナル島周辺の制空権を確保する[31]
    • 午後10時以降、一木支隊長はガ島飛行場方面攻撃命令を下達[注 75]
  • 8月21日 - 一木支隊先遣隊、ガ島飛行場を攻撃して壊滅する[314](イル川渡河戦)[27]
    • 南東方面部隊、連合艦隊主力(第二艦隊、第三艦隊)の掩護下で一木支隊第2梯団の24日ガ島上陸を計画[311]
    • 連合艦隊、一木支隊第2梯団を軽快艦艇で輸送することを提案したが、第十七軍は不同意[315]
    • 同日15時50分、連合艦隊は外南洋部隊(第八艦隊)麾下の潜水艦をふくめ、南東方面で行動中の潜水艦を先遣部隊(第六艦隊)に編入する[316]。先遣部隊指揮官の下令により、大部分の潜水艦はアメリカ海軍機動部隊(エンタープライズ、サラトガ)の邀撃にむかった[317]
    • 同日17時30分、第十七軍はガ島警備隊より「一木支隊先遣隊は全滅に瀕す」の情報を入手し海軍に空中補給を依頼する[注 76]
  • 8月24日 - 第二次ソロモン海戦[318]。ガ島飛行場に飛行機隊を投入していた空母龍驤[319]、米軍機動部隊艦上機の攻撃を受けて沈没[320]
    • 外南洋部隊の駆逐艦部隊[注 77]、ガ島飛行場を砲撃する[322]。砲撃後、一木支隊第2梯団との合流を目指す[321]
  • 8月25日 - 一木支隊第2梯団、B-17型重爆ドーントレス急降下爆撃機の空襲を受けて軽巡神通中破、輸送船金龍丸と駆逐艦睦月沈没[257]。横五特生存者は随伴艦(哨一号、哨二号、駆逐艦弥生)に分乗し、ショートランド泊地へ移動[323]。神通と涼風はトラック泊地へ撤退[324]
    • 連合艦隊、一木支隊のガ島直行中止を下令[325]、海軍軽快艦艇による鼠輸送の方針を指示[259]。一木支隊第二梯団は駆逐艦によりガダルカナル島へ[注 78]
    • 第十七軍、一木支隊先遣隊の全滅の報告を確認。
  • 8月28日 - 大本営陸軍部参謀辻政信中佐(参謀本部作戦班長)、大本営海軍部を訪れ「一木支隊ハ敵包囲ヲ受ケ一木聯隊長ハ軍旗ヲ焼キ切腹、自刃セリト、約一〇〇名包囲ヲトキ後退セリ」と説明[30]

この戦いを題材とした作品

[編集]

イル川渡河戦(テナルの戦い)は、スティーヴン・スピルバーグトム・ハンクスが製作総指揮に名を連ねるHBOのドラマ『ザ・パシフィック』の「第1章〜ガダルカナル 前編〜」クライマックスシーンで映像化されている。だが、ドラマでは実際に起きたことをそのまま完全に再現しているわけではない。ドラマでは海兵隊機関銃手ロバート・レッキーが、装填手と共にM1917重機関銃を動かすシーンがあるが、実際には機関銃座は固定されていた。さらにドラマと違い、機関銃座は戦闘が激しかった場所からもっと離れた場所にあった。 なお、このとき日本軍の攻撃の真正面にいたのは海兵隊リー・ダイヤモンド伍長、ジョン・リバース一等兵とアルバート・シュミット二等兵の3名であり、この3名により200名以上の日本兵が戦死したとされる。この戦闘で3名は名誉勲章(メダル・オブ・オナー)に次いで高位である海軍十字章を受章しているが、リバース一等兵は戦死、シュミット一等兵は手榴弾を受け片目を失明、もう片方の視力もほとんど失い、ダイヤモンド伍長は戦闘が始まってすぐ腕に被弾した後さらにシュミットの視力を奪ったのと同じ手榴弾によって片腕を失う重傷を負った[327]。 後にアルバート・シュミットの自伝的映画『Pride of the Marines(海兵隊の誇り)』が製作され1945年8月に公開となっており、この戦いも映画の重要な場面として描かれている。

脚注

[編集]

注釈

  1. ^ Smith, Bloody Ridge, p. 14–15, Jersey, Hell's Islands, p. 209. この戦闘には、海兵隊3大隊(各大隊約900名)の他、特殊兵器部隊、師団砲兵隊などが参加した。
  2. ^ 一木支隊先遣隊:支隊本部163名、大隊本部23名、第1~第4中隊(各105名)、機関銃中隊(機関銃8)110名、大隊砲小隊(歩兵砲2)50名、工兵中隊150名、合計916名[1]
  3. ^ 917とも[2]
  4. ^ Smith, Bloody Ridge, p. 71. Smithによると、38名は戦闘中に死亡、3名はブラッシュ大尉率いる部隊の偵察任務中の戦死である。Frankによると、41名が戦闘中に死亡、偵察任務では3名死亡とされている。
  5. ^ Smith, Bloody Ridge, p. 73. Smithによると、第1梯団917名のうち生存者は128名、捕虜15名であるので、差し引き774名が戦死したものとしている。
  6. ^ Frank, Guadalcanal, p. 156 & 681. Frankによると戦死777名である。
  7. ^ 第二款 米軍の反攻と海軍部隊の状況 八月七日四時ソロモン群島のガダルカナル島及ツラギは突如空、海よりする猛烈なる爆撃及艦砲射撃を受け正午頃敵は空爆及艦砲射撃掩護の下にコリ岬附近に上陸を開始せり/當時ガダルカナル島にはルンガ附近に海軍守備隊約二五〇名の他海軍設營隊(工員約一六〇〇名を主體とす)あり別にツラギには守備隊約一中隊ガブツ島には約一小隊ありしか在ガダルカナル島海軍部隊は敵の上陸に伴ひルンガ南方山地に退避し十二日に至りマタニカウ河西方約三の海軍本部陣地に後退せり/當時第四艦隊と交代し南東太平洋方面に進出しありし第八艦隊司令長官及第十一航空艦隊司令長官は七日四時二十分ツラギより「敵猛爆中」の第一報を得次で『敵の多數船團は有力なる航空部隊及護衛艦艇協力の下にガダルカナル島及ツラギに奇襲上陸し現地警備隊及設營隊は苦戰中にして六時頃にはツラギ守備隊は最後の決意を爲せる』旨報告に接し直ちに航空部隊を以て攻撃すると共に旗艦以下使用し得る輕快艦艇の全力を以て基地航空部隊の攻撃に策應しガダルカナル島に進出して敵を撃滅する如く部署して七日十四時三十分ラバウルを出發し別に在ラバウル陸戰隊の約一中隊を以て増援部隊を編成しガダルカナル島に急派せしめ且第七潜水戰隊の潜水艦をしてガダルカナル島泊地に侵入し船團を襲撃せしめたり/第十一航空艦隊司令長官は八月八日テニヤンよりラバウルに進出せり第八艦隊及第十一航空艦隊は七日より九日に至る間ソロモン海域に於て米英聯合艦隊及輸送船団に猛撃を加へたり/本海戰をソロモン海戰(第一次)と稱呼す帝國海軍の公表に基く戰果左の如し 撃沈 米英甲巡九、乙巡四、驅逐艦九、潜水艦三、輸送船一〇/大破 甲巡一、驅逐艦三、輸送船一[7]
  8. ^ 横須賀鎮守府第五特別陸戦隊の先発隊113名はラバウルから駆逐艦追風に乗艦し、8月16日深夜にガダルカナル島に上陸して17日の日中になりガ島残留部隊と合流した[13]。この横五特が、ガ島への最初の増援部隊である[14]
  9. ^ (四)一木、川口兩支隊のガ島揚陸掩護作戰及ラビ方面の作戰/先づ陸軍は速に出發し得る第十七軍の一部兵力をガ島に輸送しガ島の要地特に飛行場奪囘に決した 依て聯合艦隊は之が支援の爲内海西部に待機中の主力をガ島北方海域に集中を企圖し近藤中蒋指揮下の第二艦隊(前進部隊)は十一日 南雲中蒋指揮下の第三艦隊(機動部隊)は十六日、山本聯合艦隊司令長官旗艦大和は十七日夫々相次で内海西部を出撃南下すると共に印度洋方面に作戰中の第七戰隊及第三水雷戰隊に對し原隊に合同を命じた
    一方南東方面部隊は中央竝に聯合艦隊の作戰方針に基き第十七軍と協議の結果當時ガムに待機中の一木支隊(一木大佐の指揮する歩兵一個聯隊)及五特を速に推進するに決し先づガ島所在部隊と連絡を圖る爲一木支隊戰闘部隊の大部及横五特の大部を輸送船二隻に乗船全艦隊支援の下に二十位日ガ島に揚陸せしむることとした
    横五特の一部は十七日タサファロングに一木支隊先遣隊は十八日タイボ岬に何れも抵抗を受くることなく上陸に成攻し横五特の一部は所在海軍守備隊との連絡に成功した 一木支隊先遣隊は上陸後 機を失せず飛行場奪囘行動に移つた[15]
  10. ^ 第十七軍参謀松本中佐は十四日同島に派遣せられ右軍命令の要旨を支隊長に傳達すると共に支隊長と協議の上左の如く先遣隊(第一梯團)の兵力編組を決定せり/先遣隊(第一梯團)の兵力編組 支隊長 一木大佐/支隊本部(一六三名)/大隊本部(一二名)/第一乃至第四中隊(各中隊一〇五名)/機關銃中隊(MG八)( 一一〇名)/大隊砲小隊(BiA二)( 五〇名)/工兵中隊( 一五〇名)/計九一六名[16]
  11. ^ 先遣隊は十八日夜半タイボ岬附近に上陸し二十三時上陸點附近に集結を完了す[20]
  12. ^ 先遣隊は十六日五時驅逐艦六隻に依りトラツクを出航し南路ガダルカナル島に向ふ此の間諸情報を綜合するにガダルカナル島に上陸せる敵兵約二千にして其の戰意は旺盛ならさるものの如く一部はツラギ方面に退避しつつあるを知るの外蘇聯邦駐在武官報は米軍のガダルカナル島方面作戰の目的は日本軍の飛行基地破壊に在りて此の目的を達成せる米軍は目下日本海空軍の勢力下に在る同島よりの脱出に腐心しありと傅ふ[23]
  13. ^ 附圖第二 一木支隊第一梯團中川付近戰闘經過要圖/地形ノ概要 1.海岸ハ一面ノ椰子植林{距離間隔約五ニテ通視及射撃ヲ妨ケス/2.中川ノ河口ハ砂ノ爲閉鎖セラレアリ/3.中川左岸地区ハ右岸ニ比シ臺地状ヲ呈ス/4.海濱ハ通過極メテ容易ナリ/敵兵力 1.第一線兵力約三〇〇/2.迫撃砲三-四門/3.側防火器三(掩蓋ヲ有ス)/4.海上ヨリ砲四門/5.15H約四門[25]
  14. ^ 大本営陸軍部参謀辻政信中佐によれば、一木清直大佐は軍旗を焼いて切腹した[30]
  15. ^ 一方ガ島陸上に於ては一木支隊先遣隊がテナル河西方に於て敵有力部隊と遭遇苦戰中にして飛行場奪囘に見込立たざるに至つた[32]
  16. ^ ガ島派遣部隊は佐世保鎮守府第五特別陸戦隊、呉鎮守府第三特別陸戦隊、第五特別陸戦隊から抽出され、第八十一警備隊所属の遠藤大尉の指揮を受けていた[59]
  17. ^ 第八艦隊は1942年7月14日に新編され[61][62]、兵力部署においては外南洋部隊であった[63]。第八艦隊旗艦「鳥海」は7月30日ラバウル到着[64]、陸上庁舎に艦隊司令部を置いた[65][66]。夕張と夕凪は第四艦隊隷下の第二海上護衛隊所属。
  18. ^ 沈没艦は豪巡洋艦キャンベラ、米巡洋艦クインシーヴィンセンスアストリア、駆逐艦ジャーヴィス (DD-393)[69]。損傷艦は米巡洋艦シカゴ、駆逐艦ラルフ・タルボット英語版
  19. ^ 又三川中蒋は敵の奇襲上陸に會し取遭へず陸戰隊を急據ガ島に増援するに決し敵の上陸直後より準備を進め轉用可能の海軍陸戰兵力を各部より抽出し明陽丸、宗谷、津輕外三隻を以て之が輸送中の處八日セントジョージ岬の南方にて明陽丸敵潜の雷撃を受け沈没するに至り遂に本輸送を断念したのである[73]
  20. ^ 8月7日1030大本営陸軍部宛ての第17軍報告〔一 海軍ノ通報ニ依レハ七日〇六〇〇空母一、戦艦一、巡洋艦四、駆逐艦一五ニ護衛サレタル輸送船約二〇「ツラギ」ニ上陸セリ、又「サマライ」及「ラビ」ハ八月初敵ガ之ヲ占領セリ/二 軍ハ「ツラギ」増援ノ海軍ノ希望ニ依リ、即時歩兵第三十五旅団ノ一部ヲ使用スルコトアリ、諒承アリ度/三 「ポートモレスビー」作戦ハ目下ノ処変更ナシ[92]
  21. ^ (8月9日午後1時20分の第十七軍電報)[97]敵ノ占拠セル「モレスビー」、「ラビ」、「ツラギ」ノ三拠点中「モレスビー」ハ戦略上最モ重要ナル地位ヲ占ムルノミナラス 軍ハ既ニ之カ攻略ノ途中ニアリ 横山先遣隊ハ「スタンレー」山系ニ進出シツツアルヲ以テ速ニ南海支隊主力ヲ之ニ投入シテ其ノ死命ヲ制スルヲ目下最善ノ方策ト信ス 日ヲ空ウスレハ同方面ニ対スル増強ヲモ顧慮セサルヘカラサル現況ニ於テ殊ニ然リトス 故ニ十六日ハ多少ノ船舶ノ損害ヲ顧ミス敢行ノ決意ヲ有ス/「ツラギ」方面ニ於ケル海軍支援ノ為ニハ 成ルヘク速ニ歩兵第三十五旅団ノ所要兵力ヲ以テ 同方面ノ要地ヲ奪還スルヲ可トスル意見ナリ/軍ハ右要領ニ基キ作戦ヲ指導スヘキニ付御含ミアリ度
  22. ^ 一木支隊は5月5日の大陸命第625号により戦闘序列下令[103]。ミッドウェー作戦時兵力は、支隊長一木大佐、歩兵第二十八聯隊、工兵第七聯隊第1中隊、独立速射砲第8中隊。総兵力約2000名、折畳舟約30、対戦車砲8門、その他装備[103]。内地帰投後はアリューシャン列島アッツ島に配備予定であったという[104]
  23. ^ 一木支隊は北海道第7師団を基幹として編制された。第2師団を基幹とする青葉支隊は仙台青葉城からその名をとった。一木支隊は第二艦隊司令長官近藤信竹中将の指揮下に入り輸送船に乗船、田中頼三第二水雷戦隊司令官指揮下の水雷戦隊に護衛されてミッドウェー島へ進出、海軍陸戦隊と共に同島を攻略する予定であった[108]ミッドウェー海戦の敗北によって同侵攻作戦が頓挫、6月13日にグァム島へ帰投していた[109]。本土へ帰還するため輸送船2隻に分乗し8月7日グァム島を出発したところ、ガダルカナル戦の生起にともない同方面に投入された[110]。一木支隊はグアムからトラック島を経由する形でガダルカナル島へと輸送された。
  24. ^ 8月10日夜の第二十五航空戦隊司令官報告〔陸攻二一機、零戦一五機「ガダルカナル」泊地敵攻撃ニ向ヒタルモ敵ヲ見ズ 「ツラギ」南東一〇浬、沈没ニ瀕セル炎上中ノ大型商船一隻及「ツラギ」「ガダルカナル」各舟艇(内火艇)約二〇隻ヲ認メ「ツラギ」ヨリ高角砲ノ射撃ヲ受ク 当時高度七,〇〇〇 陸攻一機被弾 零戦三機ハ「ガダルカナル」低空(一,〇〇〇米)ニテ偵察 敵味方不明ノ人員約三〇〇名ヲ飛行場内ニ認ム 密林中ヨリ七.七粍機銃射撃ヲ受ケ零戦一機被弾[115]
  25. ^ (8月11日午後6時、第十一航空艦隊報告)[116]一 本十一日戦闘機ニ依ル「ガ」島方面偵察ノ状況左ノ通リ 1「ガ」島方面(偵察高度二〇〇米)/(イ)海岸ニ小舟艇約五〇隻内四隻航行中敵性ト認メラル/(ロ)「ルンガ」河口岸東方ニテ設置シアリタル模擬飛行場附近ニ於テ猛烈ナル機銃射撃ヲ受ク/(ハ)「ルンガ」河口附近ニ梱包集積シアリ/2「ツラギ」方面(偵察高度約七,〇〇〇米)小舟艇約八隻航行中/二 昨日及本日ノ飛行偵察ニ依リ「ガダルカナル」飛行場附近及「ツラギ」方面ニ敵ノ占拠セルコト確実ナルモ 其ノ兵力及企図不明ナルヲ以テ 明日以後駆逐艦及潜水艦ヲ以テ強行偵察ヲ実施スルト共ニ 極力友軍ノ状況ヲ偵察之ガ救援ニ努メントス 
  26. ^ 8月12日、第八根拠地隊首席参謀松永敬介中佐(兵50期)による報告[117]。「ガダルカナル」島飛行場附近ニ若干ノ敵アルモ、ソノ動作ハ萎縮シテ元気ナク、又海岸附近ノ舟艇ハ頻繁ニ航行シツツアルモ、敵主力ハ既ニ撤退セルカ、撤退セントシツツアル感ジナリ。残存敵兵及舟艇ハ取残サレタルモノト認メラル。
  27. ^ 駆逐艦追風夕月。『戦史叢書49巻』を含め多くの二次資料は「夕月」と記述する[118]。追風主計科の岡村は、同行艦を夕凪[130]と回想している。
  28. ^ (第十七軍より大本営への報告)一 参電九七三号受領ス/二 「ソロモン」群島方面ニ上陸セル敵ハ五-六,〇〇〇内外ト推定セラルルモ確実ナル情報尚不明ニシテ未タ飛行場ヲ利シアラサルコト確実ナリ/三 軍ハ海軍ト協同シテ速カニ同方面ノ敵ヲ撃滅セントス 之カ為ニハ敵ノ占拠未完ノ機ニ於テ之ニ一撃ヲ加ヘ飛行場ノ利用ヲ封殺又ハ制限ノ要アルモノト認ム 先ヅ一木支隊ノ突入ニ関シ本十三日中ニ陸海協定ヲ完了ノ予定ナリ 同支隊ハ十六日「トラック」島発駆逐艦五隻及現ニ乗船中ノ輸送船ニ依リ直路「ガダルカナル」ニ向ハシムル予定ナリ 細部ハ後報ス/四 独立第三十五旅団主力ハ目下ノ所「ソロモン」群島方面ノ使用ヲ予定シ先ツ「トラック」島ニ前進セシムル筈ナリ/五 軍ハ「ソロモン」群島方面ノ状況ニ拘ラス「レ」号作戦遂行ノ為ニハ既定計画ノ変更ヲ避ケ迅速ヲ期シツツアリ/六 歩兵第四十一聯隊ハ南海支隊ノ戦力増強及補給実施ノ為同支隊ニ配属セリ/七 青葉支隊及其ノ他「ダバオ」残留部隊ハ状況ノ推移ニ応シ随時「ソロモン」群島方面「サラマイ」方面又ハ「MO」方面ニ使用シ得ンカ為「ラバウル」ニ前進ヲ命シアリ之カ為成ルヘク速ニ輸送船ノ配当アリ度 [135]
  29. ^ (8月13日、第十一航空艦隊)[138] 八月十三日一二〇〇迄ニ得タル「ガダルカナル」島、「ツラギ」方面情況ハ十一航艦機密第一三番電及(中略)ノ通ニシテ、敵兵力ノ概数、「ガダルカナル」島友軍警備隊及設営隊ノ情況等尚不明ナルモ、所在敵兵力ハ有力部隊ニ非ラザル算尠カラザルノミナラズ、此際「ガダルカナル」攻撃ヲ遷延スルハ凡ユル方面ヨリ見テ我方ノ不利ヲ増大スベキヲ以テ、第十一航空艦隊、第八艦隊及第十七軍間協議ノ結果速ニ之ヲ奪回スルニ決セリ 協定要旨左ノ通/一 作戦方針 速ニ「ガダルカナル」島所在敵兵力ヲ撃滅シ之ヲ確保セントス/二 上陸作戦兵力、一木支隊及横五特/三 上陸日時(「ガダルカナル」島)八月十八日(W日)一木支隊ノ一部(駆逐艦六隻ニ分乗)、W+3日爾余ノ兵力(輸送船二隻)/四 護衛隊 直接護衛兵力 神通及駆逐艦六隻 指揮官第二水雷戦隊司令官 間接護衛兵力 第六戦隊 指揮官第六戦隊司令官/五 陸戦隊ハ「ガダルカナル」島上陸後飛行場及附近確保迄一木支隊長ノ指揮ヲ承ク/六 敵空母出現等ノ場合ハ本作戦ヲ延期又ハ取止ムルコトアリ 此ノ場合第十七軍司令官及第十一航空艦隊司令長官協議決定ス/七 本作戦ヲ「キ」号作戦ト呼称ス 
  30. ^ (8月13日朝、第十一航空艦隊意見)[146]一 海軍監視哨皆現存ス 敵飛行場ヲ整備セス五百米ニ降下セルモ「ガ」島平静ナリ/一 巡洋艦大部壊滅 爾後ノ増援補給困難 敵戦闘機ハ陸上ヨリ飛来出来ス空母ニ依ル 是ハ危険ナル仕事ナリ/一 敵ハ毎日朝偵察シアルハ不思議ナリ 占拠シアレハ無線報告アルヘシ 余リ大ナルモノ無ク或ハ土人ヲ残シ白人大部引揚ケタルモノナラン/一 敵ハ我飛行場完成近キヲ狙ヒ好機ニ来レルモ八百ニシテ猶四百米未完 大型機ハ困難ナリ/一 敵戦闘機ハ陸上機トアリシ故島ヲ見サレハ飛ヘス 故ニ空母十六節ニテモ全ク一日我哨戒圏ニアリ 之ヲ捕捉撃滅シ得大型機ハ戦闘機「ツラギ」ニ着カサレハ空輸サセルヘシ 然カモ「ガ」飛行場ヲ整備シアラス 敵空母ヨリ出テ飛ヒ得ル距離ハ二〇~一五〇浬ナリ 
  31. ^ 第四款 一木支隊のガダルカナル島上陸及爾後の戰闘(附圖第二参照)第十七軍司令官は大本營の命令竝に指示に基き現地海軍と協定し一木支隊は敵機の哨戒圏を成るへく避くる爲トラツク島より直行し且其の第一梯團は戰機に投ずる爲驅逐艦輸送に依り十八日夜 第二梯團は輸送船に依り二十四日夫々ガダルカナル島タイボ岬に上陸せしむるに決し十三日同支隊に對し左記要旨の命令を下達せり/第十七軍命令要旨 八月十三日十五時ラバウル(中略)[16]
  32. ^ (第十七軍司令官の13日午後3時命令)[149]一 「ソロモン」方面ニ上陸セル敵ハ其ノ兵力尚不明ナルモ 上陸後ノ活動ハ必スシモ活發ナラス 本十三日ニ至ルモ「ガダルカナル」飛行場ヲ利用シアラサルコト確実ナリ/二 軍ハ敵ノ占領未完ニ乗シ 海軍ト協同シテ速ニ「ソロモン」方面ノ敵ヲ撃滅シ其要地ヲ奪回確保セントス/三 一木支隊ハ海軍ト協同シ先ツ「ガダルカナル」飛行場ヲ奪回確保スヘシ 止ムヲ得サレハ「ガダルカナル」島ノ一角ヲ占領シテ後続部隊ノ来着ヲ待ツヘシ 之ガ為先遣隊(約九〇〇名)ヲ編成シ不取駆逐艦六隻ニ分乗シテ直路「ガダルカナル」島ニ向ヒ前進スヘシ/四 本作戦ノ為陸海軍協定覚書左ノ如シ(以下記録欠如)
  33. ^ 「以上ヲ総合スルニ「ガ」島ニ上陸セル敵ハ其ノ兵力未詳ナルモ行動ハ活発ナラズ 七日八日我方ノ攻撃ニ依リ受ケタル甚大ナル損害ト 十日ニハ既ニ全艦艇船舶ガ引揚ゲタル状況トニ鑑ミ陸上残留兵力ノ戦力ハ大ナラザルモノト判断シアリ」[119]
  34. ^ 外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官。
  35. ^ 第六戦隊司令官五藤存知少将。
  36. ^ 第六戦隊の重巡洋艦青葉古鷹衣笠。既述のとおり、重巡加古は沈没していた。
  37. ^ 第二水雷戦隊司令官田中頼三少将、兵41期。
  38. ^ 『戦史叢書第77巻』156頁では「挺進隊」と記述する。
  39. ^ 第4駆逐隊司令有賀幸作大佐。
  40. ^ 第4駆逐隊は第1小隊(萩風)と第2小隊(野分舞風)に区分されていた[157]
  41. ^ 第17駆逐隊の陽炎型駆逐艦谷風浦風浜風。17駆所属の磯風は鳥海の護衛。
  42. ^ 陽炎は第二水雷戦隊・第15駆逐隊(親潮、黒潮、早潮、陽炎)に所属するが、僚艦3隻はB作戦のため別働中だった。
  43. ^ 第七潜水戦隊司令官吉富説三少将。
  44. ^ 第八根拠地隊司令官金沢正夫中将。
  45. ^ 二九ママ日一六〇〇「ラバール」剛〈第八方面軍〉発、「ガ」次長宛(中略)七、敵側ニ関スル情報並ニ之ニ対スル注意(中略)○一木支隊ノ「ガ」島ニ向フ途中八月一七日一〇三〇赤道通過左記情報ニ接ス 「ソ」聯駐在武官発、米軍ノ「ガダルカナル」島方面作戦ノ目的ハ日本軍ノ飛行基地破壊ニアリテ、此目的ヲ達成セル米軍ハ目下日本軍海空軍ノ勢力下ニ在ル同島シアリ/以上ノ情報ニ接シ将兵一同聊カ手応ナサニ落胆ノ感ヲ抱ク(以上一木支隊戦斗詳細)
    [(欄外)黒溝台会戦前ノDカ得タル情報ト将兵ノ意気=勇躍遠征ノ途ニツイタ一木ノ心理](註 黒溝台会戦初動ノ「早ク行カヌト敵ハ逃ケル、敵ハ一旅団ナラン」トノ感想、想起)](以下略)[160]
  46. ^ 『戦史叢書14巻』298頁や『戦史叢書第49巻』519頁では「第4駆逐隊司令佐藤康夫大佐」と記述しているが、佐藤大佐は第9駆逐隊司令。第4駆逐隊司令は有賀幸作大佐。
  47. ^ 一木支隊916名の内訳は、支隊本部163名、大隊本部23名、第一~第四中隊各105名、機関銃中隊(機関銃8)110名、大隊砲小隊(歩兵砲2)50名、工兵中隊(150名)[142]。駆逐艦および内火艇の搭載能力から、水陸両用戦車の存在は明らかであったが、速射砲中隊は先遣隊に含まれず[164]
  48. ^ 輸送船「金龍丸」と哨戒艇2隻は8月13日にグァム島を出発した[168]
  49. ^ Evans, Japanese Navy, p. 161, Frank, Guadalcanal, p. 145, Jersey, Hell's Islands, p. 204, 212, Morison, Struggle for Guadalcanal, p. 70, and Smith, Bloody Ridge, p. 43. 第1梯団は北海道旭川の第7師団歩兵第28連隊第1大隊(大隊長蔵本信夫少佐)を基幹とする。タイボ岬は日本海軍の前哨基地で200名程の海軍兵がおり[183]、一木支隊の上陸を支援した。
  50. ^ 奥宮正武は『ラバウル航空隊』で「萩風がB-17の爆撃で損傷し、僚艦山風に援けられて撤退した」…と記述するが[194]、山風と嵐の誤認。山風は既に沈没していた。
  51. ^ 駆逐艦「陽炎」は8月20日に空襲を受けて避退、21日にショートランド泊地で水上機母艦秋津洲より燃料補給を命じられた[195]
  52. ^ 外南洋部隊支援隊指揮官は五藤存知第六戦隊司令官。翌20日1202、第六戦隊は夕凪を残してレカタを出発した[196]
  53. ^ Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 100, Jersey, Hell's Islands, p. 205, and Smith, Bloody Ridge, p.47.この戦死数はイル川渡河戦全体の両軍の戦死者数に含まれている。なお、日本軍斥候部隊の隊長は渋谷好美大尉であった。
  54. ^ アリゲーター科のワニが生息するのは、南北アメリカ大陸と中国長江などである。
  55. ^ 敵は依然ガ島方面に主導し兵力を増強すると共に十七日には潜水艦二隻を以てマキン島に奇襲上陸を行ひ我海上兵力のガ島方面集中を牽制して來た/聯合艦隊司令長官は右の情況に鑑み内南洋部隊指揮官井上中蒋に對しマキン島の奪囘竝にナウル、オーシャン島の破壊占領を下令した/二十日ツラギの南東方に敵空母部隊策動中なるを發見し南東方面部隊指揮官塚原中蒋は一木支隊主力の揚陸を一時延期し聯合艦隊海上兵力の支援配備完了する二十四日を以て上陸決行のこととし此の間輕快部隊を以て二十一日夜ルンガロードに入泊中の敵部隊を攻撃すると共に二十二日有力なる基地航空部隊を以て敵増援部隊竝に軍事施設撃破を下令した 二十一日近藤、南雲、兩艦隊はトラツクの南東方を南下中であり、山本大蒋はトラツク西方を南下中である[32]
  56. ^ 夕凪は天候不良のため泊地に突入できず[226]、陽炎は燃料補給のために後退[184]、江風は8月22日単艦で突入し米軍駆逐艦3隻(ブルーヘルムヘンリー)と交戦してブルーを撃沈した[227]
  57. ^ Gilbert, Marine Tank Battles, p. 42–43, Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 106, Jersey, Hell's Islands, p. 212, and Smith, Bloody Ridge, p. 66. 戦闘に参加した戦車は4輌だけであったとする資料もある。
  58. ^ Smith, Bloody Ridge, p. 71–72. Smithによると、戦闘を生き延びた日本兵のほとんどは、一木大佐は自決ではなく戦死したと主張している。戦闘の後、負傷した日本軍士官は、死んだふりをして近づいた米兵を射撃し重傷を負わせ別の米兵アンディ・ポリニー(Andy Poliny)に殺された。ポリニーはこの人物が一木大佐であったと信じている。
  59. ^ Frank, Guadalcanal, p. 156. Frankは、「戦史叢書によると一木は切腹して自決したとある」としている。しかし日本軍生存兵には、一木大佐が米軍陣地に突撃したのを最後に目撃したと証言するものもいる[243]。一木大佐戦死後、旗手の将校や下士官兵により軍旗は奉焼されたという[243]
  60. ^ 川口 (1960),p.197。川口支隊を率いた川口清健の手記では「一木大佐は軍旗を処分した後立派に自決した」とある。
  61. ^ Hough, Pearl Harbor to Guadalcanal, p. 291 and Smith, Bloody Ridge, p. 43 and 73. 戦闘前100名程が後方の守備に置かれたことと、戦闘を生き延びた兵は128名であるとの記録があるので、30名程が戦闘を生き延びて後方に逃れたものと推測できる。
  62. ^ 8月25日の空襲で輸送船金龍丸と駆逐艦睦月沈没、軽巡神通中破。[257]
  63. ^ 聯合艦隊電令作第198号(8月8日0200発令)[112]一 七日敵攻略部隊ハ機動部隊支援ノ下ニ「ツラギ」「ガダルカナル」方面ニ来襲、基地航空部隊、先遣部隊、外南洋部隊ハ之ヲ攻撃中ナリ/二 聯合艦隊ハ速ニ此ノ敵ヲ撃滅スルト共ニ、同方面ヲ確保セントス/三 各部隊ハ左ニ依リ作戦スベシ (イ)外南洋部隊、内南洋部隊、基地航空部隊(南東方面部隊ト呼称)ハ、基地航空部隊指揮官之ヲ指揮、反覆敵ヲ攻撃、且「ボーゲンビル」方面航空基地ヲ整備確保、二十六航戦ハ速ニ「ラバウル」方面ニ進出/(ロ)前進部隊、機動部隊(修理等ニ依リ急速作戦困難ナルモノハ之ヲ除ク)ハ、準備完成次第南洋方面ニ進出支援(以下略)
  64. ^ 第十一航空艦隊司令長官塚原中蒋は麾下基地航空部隊の精鋭を率ひ七日サイパンよりラバウルに進出し聯合艦隊命令によつて南東方面に於ける海軍部隊の最高指揮官となつた[73]
  65. ^ 第六航空隊はミッドウェー島に進出予定だったが、同隊の零戦はミッドウェー海戦で空母4隻と共に沈んでしまった[290]
  66. ^ 一「ト」号作戦(註、東部ニューギニア作戦)ニ関スル陸海軍中央協定ニ基キ「ソロモン」群島方面ノ情勢ニ応スル所要ノ援助ヲ実施セラレ度 但シ「レ」号作戦(註、モレスビー攻略作戦)ハ予定ノ如ク敢行スルヲ要スト考ヘアリ。/二 右情況ニ鑑ミ貴軍全力ノ「ラバウル」集結ヲ成ルヘク速カナラシムルノ要アルニ付至急準備セラレタシ 之ガ為ノ艦船ニ関シ至急研究ノ上通報ス 右 依命[296]
  67. ^ 一 新ナル状況ニ基ク当面ノ作戦指導ニ関シテハ中央ニ於テモ陸海協同研究中ニシテ逐次所要ノ命令指示ヲ発令セラル予定/二 速ニ「レ」号作戦(「サマライ」附近ノ攻略ヲ含ム)ヲ完遂スルコトハ今後ノ貴軍作戦(「ソロモン」方面ノ奪回ヲモ担任セシメラルルコトトナルヘシ)指導上極メテ重要ナリト考ヘラルヲ以テ現地海軍ノ事情ノ許ス限リ万難ヲハイシテ速ニ既定計画ヲ遂行セラレ度 此ノ趣旨中央海軍側モ同意見ナリ 右 依命[295]
  68. ^ (第十一航空艦隊の報告通報より)二 当方面今後ノ作戦実施ニ関シ第十一航空艦隊、第八艦隊及第十七軍間ニ左ノ通協議セリ (イ)「レ」号作戦ハ二日繰下グル外 原計画之ヲ実施ス/(ロ)「ガダルカナル」島奪回作戦ハ陸軍川口部隊ノ主力 一木支隊及横五特ヲ以テ実施、作戦可能時期八月二十五日頃ノ見込ナルモ更ニ之ガ促進に努ム/三 前項両作戦共ニ時日ノ遷延ハ甚大ナル不利ヲ招来スルノミナラズ敵ハ海上兵力ヲ建直シテ、再度「ガダルカナル」島ニ増援補給スル公算大ナルヲ以テ第二艦隊及第三艦隊ハ一日モ速ニ遅クモ八月二十二日迄ニ「トラック」方面ニ進出スル如ク準備促進方取計ヲ得度。[120]
  69. ^ 然るにガダルカナル島増援は極めて急を要し且第十七軍司令官のソロモン方面に使用を豫定しある歩兵第三十五旅團のパラオ出港は船舶の關係上遅延を免れさる状況なりしを以て大本營は當時グアム島に在りてソロモン方面に對する出發最も迅速なる一木支隊を同方面に使用するを適當と認め八月十日該支隊に對しトラックに至り第十七軍司令官の隷下に入るへきを命せり/是に於て軍司令官は直ちに一木支隊をガダルカナル島に派遣するに決し十一日同支隊に對し『トラツク到着後成るへく速かにラバウルに前進すへく』命すると共に十三日歩兵第三十五旅團に對し『先づ速かにトラツクに前進し(海軍側の意見に依りトラツクより直行せしむる爲ラバウル招致を取止めたり)随時主力を以てソロモン方面に作戰するの準備に在るへき』を命せり[300]
  70. ^ 敵上陸の初期に於ける陸上の状況は全く不明であつたが十二日に至り漸くガ島見張との連絡に成功し各見張所の健在なることを確認した/但し依然として陸上の戰況は不明であつた[15]
  71. ^ 十三日大本營は大海指第一二〇號を以て情勢に應する東部ニューギニヤ、ソロモン群島作戰に關する作戰指導方針を指令したが其の骨子は聯合艦隊の大部を以て第十七軍(歩兵約十三ヶ大隊)と協同 先づガ島及ツラギ方面の敵を撃滅して同地の要地特に飛行場を奪囘すると共に既定計畫に基きポートモレスビーを攻略せんとするものである[15]
  72. ^ 1942年7月14日に新編された第三艦隊は第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)と第二航空戦隊(隼鷹、飛鷹、龍驤)、訓練部隊の空母鳳翔を擁していた[309]。だが訓練未了や艦整備のため空母3隻(隼鷹、飛鷹、瑞鳳)は出撃できず、二航戦司令官角田覚治少将の指揮下で引き続き内地で訓練を続けた[310]
  73. ^ 第三艦隊所属の第十一戦隊(比叡、霧島)、第七戦隊(熊野、鈴谷)、第八戦隊(利根、筑摩)、第十戦隊(軽巡長良、第4駆逐隊第2小隊[157]、第10駆逐隊、第16駆逐隊)。
  74. ^ 支隊長は第二梯團(輸送船に依り二十四日上陸豫定)を待つ事なく十八日二十四時より海岸道に沿ひ西進し十九日二時胸を没するベランデ川を渡河しつつ二十日未明レンゴに到着しルンガ岬方面の敵行動活發なるを目視し同日夜暗を利用し戰闘を豫期して前進し先づ第十一設營隊跡附近を奪取し爾後飛行場方面に對する攻撃を準備すべく企圖せり[20]
  75. ^ 支隊は二十日夜半其の先頭を以て中川右岸地區に進出し同河左岸區に在る敵と戰闘を交へ支隊長は逐次兵力を註入し力攻せるも戰況進展せず二十一日午後に至るや支隊の左翼方面より戰車六輌を伴ふ的の反撃に會し戰況利あらす支隊長以下第一梯團の大部は是に壮烈なる戰死を遂げ支隊の生存者百數十名は二十二日より二十九日に至りタイボ岬附近を確保し後続部隊の來着を待ちたり[20]
  76. ^ 軍司令官は「一木支隊が十八日夜の上陸に成功し爾後飛行場に向かひ前進せる」を承知し十九日歩兵第三十五旅團に對し自今川口支隊となり速かにガダルカナル島に上陸しガダルカナル島ツラギ等を奪囘すべく命令せり然るに二十日十五時二十分頃『ガダルカナル島飛行場(二十日以來敵側利用中にして當時四乃至六機にて局地上空哨戒中)の敵戰闘機空中退避(註、退避の字句は電文不明に付起草者の判断なり)せる』を知り次で二十一日ガダルカナル島海軍警備隊より「二十一日朝來同島に著しき銃声を聞く」との報告を受領し一木支隊は既に同地附近に進出し戰闘中なるものと判断しありしが二十三日に至り同支隊との連絡杜絶し且二十一日十七時四十五分發ガダルカナル島海軍戰備隊より『一木支隊は全滅に瀕しありとタイボ岬見張所より通知ありたり』との報告を受領せり軍は本情報か発信者不明にして眞爲保し難きも(一木支隊通信掛将校の委託せるものなる事後刻判明)一木支隊が苦戰中なるべきを察しガダルカナル島の情況偵察を兼ね彈藥、糧秣の空中補給の處置を講せんとせしも天候不良の爲實現し得す[20]
  77. ^ 第30駆逐隊司令安武史郎大佐指揮下の駆逐艦(睦月、弥生、磯風、江風、陽炎)[321]
  78. ^ 一木支隊第二梯團(輸送船二隻に搭乗)は二十二日夜ガダルカナル島に上陸の豫定なりしが二十日サンクリストバル島(ガダルカナル島東南五十哩)東南八十哩附近に空母一乃至二を有する敵艦隊現出し第八艦隊は之が撃滅の爲出撃せるを以てガダルカナル島上陸を二十四日夜に變更せり然るに同梯団は爾後ガダルカナル島に向ふ航行途中二十五日朝敵艦載戰闘機四の攻撃を受け護衛旗艦神通は損傷を受け海軍陸戰隊搭乗の金龍丸は火災を生じたる爲ショートランドに反轉せり/二十五日海軍部隊は敵空母撃滅の爲出撃し第二梯團の掩護不可能に付止むを得す再び上陸を二十八日に延期せり/第十七軍司令官は一木支隊第一梯團上陸後既に一週間を經過せるも尚増援及補給を行ひ得さるを憂慮し海軍側に對し其の速かなる實行を嚴に要求するところあり/同梯団は爾後再度ガダルカナル島に向かひたるも二十八日十五時五十分頃イサベル島南方に於て敵機の攻撃を受け又もショートランドに反轉するの止むなきに至り爾後川口支隊と共に上陸する事となり二十九日夜より九月二日に亘る間に於て敵の抵抗を受くることなく上陸を完了し得たり[326]

参照

  1. ^ 平塚、米軍記録 1995, p. 72.
  2. ^ Frank, Guadalcanal, p. 147 & 681.
  3. ^ a b ニミッツ 1962, p. 120.
  4. ^ a b ニミッツ 1962, p. 111.
  5. ^ 戦史叢書14 1968, p. 300.
  6. ^ a b 戦史叢書77 1974, pp. 160a-161ガ島所在部隊の状況
  7. ^ 第十七軍作戦(1) 1946, p. 30.
  8. ^ a b 戦史叢書77 1974, p. 153.
  9. ^ a b c 戦史叢書14 1968, pp. 287–289.
  10. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 118–119局地戦とみなした陸軍
  11. ^ 平塚、米軍記録 1995, pp. 70–73一木支隊悲劇のUターン
  12. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 100–101誰知らぬ南の島
  13. ^ a b c 戦史叢書62 1973, p. 104a横五特主力の「ガ」島奪回作戦の失敗
  14. ^ a b c d e f g h 戦史叢書49 1971, p. 533.
  15. ^ a b c 南東方面海軍作戦(1) 1947, p. 10.
  16. ^ a b c d 第十七軍作戦(1) 1946, pp. 34–35.
  17. ^ a b c 戦史叢書77 1974, pp. 157b-158一木先遣隊の輸送
  18. ^ a b ソロモン海戦(歴群05) 1994, p. 101a即時、ガ島を奪回せよ
  19. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, pp. 101–110混乱した海軍部隊の指揮・陸軍部隊との連携
  20. ^ a b c d 第十七軍作戦(1) 1946, p. 36.
  21. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 101.
  22. ^ a b 城英一郎日記 1982, p. 179(昭和17年8月24日記事)(中略)「ガダルカナル」の敵兵約二〇〇〇、一木先遣隊、(飛行機)場攻撃中なるが如し、相当被害を受く。(以下略)
  23. ^ 第十七軍作戦(1) 1946, pp. 35–36.
  24. ^ a b c d ニミッツ 1962, p. 119.
  25. ^ a b c d e f g h 第十七軍作戦.附図 1946, p. 9.
  26. ^ a b 戦史叢書14 1968, pp. 306a-310一木支隊の攻撃失敗
  27. ^ a b 戦史叢書77 1974, pp. 166a-167一木支隊の戦闘
  28. ^ a b c 戦史叢書49 1971, p. 536.
  29. ^ a b ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 101b-102一木先遣隊の壊滅
  30. ^ a b 高松宮と海軍 1999, pp. 130–131.
  31. ^ a b c d ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 16–17昭和17年8月20日 ガ島飛行場に海兵隊機進出
  32. ^ a b 南東方面海軍作戦(1) 1947, p. 11.
  33. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 330–331二十五日―船団空襲を受ける
  34. ^ 平塚、米軍記録 1995, pp. 84–88第二次ソロモン海戦/一木師団第二梯団の上陸中止
  35. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, p. 102a「ネズミ輸送」でガ島へ
  36. ^ ニミッツ 1962, p. 123.
  37. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 74–75ウォッチタワー作戦
  38. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 438–439ガダルカナル島及びツラギ上陸
  39. ^ ニミッツ 1962, pp. 102–106ガダルカナル
  40. ^ Hogue, Pearl Harbor to Guadalcanal, p. 235–236.
  41. ^ 平塚、米軍記録 1995, pp. 28–35日本軍守備隊はなぜ沈黙しているのか
  42. ^ Morison, Struggle for Guadalcanal, pp. 14–15.
  43. ^ 土井 2009, p. 40第十一設営隊の人数は資料により差異あり。作業員1350名、将兵230名とも。
  44. ^ 戦史叢書77 1974, p. 133.
  45. ^ 戦史叢書49 1971, p. 498ガダルカナル島及びツラギ所在部隊の戦闘
  46. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 260–263ツラギ所在部隊の戦闘
  47. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 500–503ツラギ方面の戦闘
  48. ^ 平塚、米軍記録 1995, pp. 35–41設営隊員の証言
  49. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 264–266ガダルカナル島所在部隊の戦闘
  50. ^ 戦史叢書49 1971, p. 499挿図第36、ガダルカナル島所在部隊行動概要図
  51. ^ a b 戦史叢書77 1974, p. 157a挿図第六 ガダルカナル島所在部隊行動概要図
  52. ^ 土井 2009, pp. 46–48.
  53. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 241–243第十一航空艦隊の作戦指導
  54. ^ a b 戦史叢書77 1974, p. 138.
  55. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 237–241基地航空部隊の反撃
  56. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, pp. 95–97.
  57. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 243–245八日の戦闘
  58. ^ 戦史叢書77 1974, pp. 139–140第五空襲部隊
  59. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 249.
  60. ^ 戦史叢書49 1971, p. 442.
  61. ^ a b 戦史叢書49 1971, pp. 372–374第八艦隊の新編
  62. ^ a b 戦史叢書62 1973, pp. 67–68第四艦隊と新編第八艦隊との任務分担
  63. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 68–70聯合艦隊第二段作戦第二期(後期)兵力部署
  64. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, p. 201(昭和17年7月30日記事)
  65. ^ 戦史叢書49 1971, p. 403.
  66. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 70–71内南洋部隊の兵力部署及び第八艦隊司令部の進出
  67. ^ a b サボ島沖海戦 1998, p. 251.
  68. ^ ニミッツ 1962, p. 117第15図 サヴォ島海戦(1942年8月9日)
  69. ^ サボ島沖海戦 1998, p. 250.
  70. ^ サボ島沖海戦 1998, p. 50.
  71. ^ 戦史叢書14 1968, p. 251.
  72. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 496–497明陽丸の沈没
  73. ^ a b 南東方面海軍作戦(1) 1947, p. 9.
  74. ^ a b サボ島沖海戦 1998, pp. 108–111.
  75. ^ ニミッツ 1962, pp. 118a-119小休止
  76. ^ サボ島沖海戦 1998, p. 252.
  77. ^ Zimmerman, The Guadalcanal Campaign, p. 49–56.、Smith, Bloody Ridge, p. 11 & 16.
  78. ^ サボ島沖海戦 1998, p. 253.
  79. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 29–30.
  80. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 257.
  81. ^ 戦史叢書14 1968, p. 276.
  82. ^ 平塚、米軍記録 1995, p. 74完成したヘンダーソン飛行場
  83. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, p. 98a日米の飛行場争奪戦
  84. ^ ニミッツ 1962, p. 118b.
  85. ^ Shaw, First Offensive, p. 13. Smith, Bloody Ridge, p. 16–17.
  86. ^ a b c d 戦史叢書14 1968, p. 301.
  87. ^ a b c d 戦史叢書14 1968, p. 303.
  88. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 236–237ツラギ所在部隊の緊急電
  89. ^ a b 戦史叢書14 1968, pp. 255–257第十七軍の状況判断
  90. ^ 戦史叢書49 1971, p. 445a第十七軍
  91. ^ a b 戦史叢書77 1974, pp. 140–141第十七軍
  92. ^ 戦史叢書49 1971, p. 445b.
  93. ^ 戦史叢書14 1968, p. 256.
  94. ^ a b c d 戦史叢書14 1968, p. 272.
  95. ^ a b c d e 戦史叢書14 1968, p. 274.
  96. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 279.
  97. ^ a b c 戦史叢書14 1968, p. 259.
  98. ^ 第十七軍作戦(1) 1946, p. 31.
  99. ^ 戦史叢書49 1971, p. 507.
  100. ^ a b 戦史叢書49 1971, p. 509.
  101. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, pp. 100–101.
  102. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 111.
  103. ^ a b 戦史叢書43 1971, p. 183.
  104. ^ 倉橋 1987, pp. 91–93精強純朴な旭川兵士
  105. ^ 戦史叢書77 1974, pp. 143–144大本營の作戦指導/八月七日
  106. ^ a b #S17.05呉鎮日誌(3) pp.43-44〔 廿七日一六三〇 大海一部長|廿八日〇二五〇 3F参謀長(GF参謀長)(呉鎭参謀長)(外)|大海機密第一七六番電 陸軍輸送船ぼすとん丸(JMCD)及大福丸(J1JB)在大島一木支隊(約二〇〇〇名)還送ノ爲宇品ニ於テ二十八日出港準備完成豫定ニ付第十戰隊ノ一部ヲシテ之ガ護衛(往復共)ヲ實施セシメラルル様取計ハレ度/尚出港日時航路等ニ關シテハ護衛指揮官ト宇品船舶輸送司令部ト直接協定セシメラレ度|無電 〕-〔 廿八日一二〇〇 呉鎭参謀長|10S司令官(大海一部長 外)|呉鎭機密第九四三番電 大海機密第一七六番電ニ關シ船舶輸送司令部ト連絡ノ結果左ノ通 一、ぼすとん丸及大福丸ハ二十九日夕刻迄ニ門司ニ於テ出港準備完成待機ス/二、護衛打合ハ門司若ハ護衛指揮官指定ノ集合地孰レニ於テ行ハルモ差支ナシ|無電 〕
  107. ^ 戦史叢書14 1968, p. 275.
  108. ^ 戦史叢書43 1971, pp. 187–188一木支隊の指揮問題紛糾
  109. ^ 戦史叢書43 1971, pp. 538–539船団部隊のグァム、トラック帰投
  110. ^ 戦史叢書62 1973, p. 84a陸軍一木支隊の「ガ」島派遣決定
  111. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 446–447聯合艦隊
  112. ^ a b 戦史叢書77 1974, pp. 141–142聯合艦隊の作戦指導
  113. ^ a b c 戦史叢書77 1974, p. 149.
  114. ^ a b c d 戦史叢書49 1971, p. 505.
  115. ^ 戦史叢書14 1968, p. 247.
  116. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 280.
  117. ^ 戦史叢書77 1974, p. 148aガ島方面の偵察
  118. ^ a b c d 戦史叢書49 1971, p. 512.
  119. ^ a b c d 戦史叢書77 1974, p. 150.
  120. ^ a b c d e f 戦史叢書77 1974, p. 154b.
  121. ^ a b 戦史叢書77 1974, pp. 151–152陸海軍中央協定
  122. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 92a-93「ガ」島奪回作戦要領の明示
  123. ^ 戦史叢書102 1980, p. 400カ号作戦 陸海軍中央協定によるソロモン群島要地奪回作戦。キ号作戦(後述)を含む(昭和17.8.陸海軍)
  124. ^ #S1709八艦隊日誌(1)pp.17-18〔第八艦隊 第十一航空艦隊ノ大部ヲ基幹トスル部隊 第二、第三艦隊ノ大部ヲ基幹トスル部隊及陸軍第十七軍(歩兵約十三個大隊)ヲ以テ「ガダルカナル」「ツラギ」方面攻略奪回ニ決ス/本作戰ヲ「カ」号作戰 第十七軍 第八艦隊 第十一航空艦隊間ノ協定ニ依ル作戰ヲ「キ」号作戰ト呼稱ス 〕
  125. ^ 戦史叢書102 1980, p. 401キ号作戦 一木支隊のガダルカナル島への輸送作戦(昭和17.8.陸海軍)
  126. ^ a b 戦史叢書62 1973, p. 84b.
  127. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 296–299一木先遣隊のタイボ岬上陸
  128. ^ Evans, Japanese Navy, p. 161, Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 98–99 and Smith, Bloody Ridge, p. 31.
  129. ^ a b 戦史叢書49 1971, p. 511.
  130. ^ 青春の棺 1979, pp. 117–118.
  131. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 284.
  132. ^ 青春の棺 1979, pp. 121–122.
  133. ^ 戦史叢書14 1968, p. 283.
  134. ^ 戦史叢書49 1971, p. 513.
  135. ^ 戦史叢書77 1974, pp. 154c-155.
  136. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 292a-294一木支隊の攻撃/陸海軍現地協定
  137. ^ 戦史叢書49 1971, p. 517.
  138. ^ a b 戦史叢書77 1974, pp. 155a-156一木支隊の輸送/現地協定
  139. ^ a b c d e 戦史叢書77 1974, p. 156.
  140. ^ a b c d 戦史叢書14 1968, p. 292b.
  141. ^ a b c 戦史叢書14 1968, p. 293.
  142. ^ a b c d 戦史叢書14 1968, p. 297.
  143. ^ 倉橋 1987, p. 92.
  144. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 289a-291第十七軍司令部における論争
  145. ^ a b 戦史叢書77 1974, pp. 154a-155第十七軍の兵力運用
  146. ^ 戦史叢書14 1968, p. 290.
  147. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 291.
  148. ^ a b 戦史叢書49 1971, p. 518.
  149. ^ 戦史叢書14 1968, p. 295.
  150. ^ 戦史叢書14 1968, p. 286.
  151. ^ 第十七軍作戦(1) 1946, p. 33.
  152. ^ a b 戦史叢書77 1974, p. 152.
  153. ^ 川口 (1960), p.197
  154. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 448–451大本營海軍部及び陸軍部
  155. ^ 城英一郎日記 1982, p. 176(昭和17年8月13日記事)
  156. ^ 戦史叢書14 1968, p. 296b.
  157. ^ a b 野分物語 2004, pp. 28–29.
  158. ^ 戦史叢書77 1974, p. 157c.
  159. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 289b.
  160. ^ a b c 宮崎周一中将日誌 2003, pp. 278–279.
  161. ^ 倉橋 1987, p. 93.
  162. ^ 野村實 1988, pp. 117–118旅順攻撃に似ていたガ島攻撃
  163. ^ 城英一郎日記 1982, p. 177a(昭和17年8月14日記事)
  164. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 298.
  165. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 96a-97「ガ」島奪回作戦部隊のトラック出撃
  166. ^ a b c 戦史叢書14 1968, p. 299.
  167. ^ 戦史叢書49 1971, p. 519.
  168. ^ 戦史叢書14 1968, p. 294.
  169. ^ a b 戦史叢書77 1974, p. 158a.
  170. ^ 城英一郎日記 1982, p. 177b(昭和17年8月16日記事)(中略)午前、昨日の情報を上聞す。「ソロモン」方面の上陸及「ブナ」作戦につき改めて御格戸にて御下問あり、ガダルカナル奪回上陸予定言上。
  171. ^ 青春の棺 1979, p. 122.
  172. ^ 青春の棺 1979, pp. 126–129.
  173. ^ 戦史叢書14 1968, p. 302=.
  174. ^ 土井 2009, p. 49.
  175. ^ 城英一郎日記 1982, p. 178(昭和17年8月18日記事)(中略)「ソロモン」方面の戦闘につき、仝地奪回及モレスビー作戦一段落の時機に、勅語御下賜の思召あり。/ガダルカナル方面、一部陸戦隊増援、設営隊と連絡す。本方面及ブナ方面の上陸につき、御下問あり。
  176. ^ a b c 戦史叢書49 1971, p. 520.
  177. ^ 戦史叢書49 1971, p. 523.
  178. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 304–306.
  179. ^ 戦史叢書77 1974, pp. 158b-160川口支隊のガ島派遣計画
  180. ^ a b 戦史叢書77 1974, p. 160b.
  181. ^ 倉橋 1987, pp. 95–98ガダルカナル突入
  182. ^ 戦史叢書49 1971, p. 35.
  183. ^ #S1709八艦隊日誌(1)p.18〔八月十八日 佐五特派遣隊(二〇〇名)「タイボ」ニ揚陸成功 第四駆逐隊ハ佐五特派遣隊揚陸後「ルンガ」方面ヲ砲撃 海上トラック二撃沈 三ヲ大破ス 萩風空襲ニ依リ損害ヲ受ク 〕
  184. ^ a b c d 戦史叢書49 1971, p. 535.
  185. ^ 戦史叢書77 1974, p. 161.
  186. ^ a b c d 日米諜報戦 2016, p. 155.
  187. ^ Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 99–100 and Smith, Bloody Ridge, p. 29 & 43–44.
  188. ^ 大和最後の艦長 2011, pp. 173–175.
  189. ^ 倉橋 1987, pp. 102–104敵魚雷艇数隻撃沈
  190. ^ 倉橋 1987, p. 97.
  191. ^ 倉橋 1987, pp. 101–102味方潜水艦
  192. ^ 倉橋 1987, pp. 106–110萩風被爆す!
  193. ^ a b 戦史叢書49 1971, p. 534.
  194. ^ a b ラバウル海軍航空隊 2001, p. 102.
  195. ^ a b c 戦史叢書49 1971, p. 539.
  196. ^ #第六戦隊日誌(5)p.28(昭和17年8月19日~20日行動)
  197. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, p. 216(昭和17年8月19日記事)
  198. ^ #S1709八艦隊日誌(1)p.55(昭和17年8月19日記事)
  199. ^ a b 平塚、米軍記録 1995, p. 77.
  200. ^ a b c d 土井 2009, p. 50.
  201. ^ Frank, Guadalcanal, p. 148, Jersey, Hell's Islands, p. 205.
  202. ^ Zimmerman, The Guadalcanal Campaign, p. 62.
  203. ^ 平塚、米軍記録 1995, p. 76.
  204. ^ a b c d 戦史叢書14 1968, p. 307.
  205. ^ 日米諜報戦 2016, p. 156.
  206. ^ Zimmerman, The Guadalcanal Campaign, p. 62
  207. ^ Frank, Guadalcanal, p. 149.
  208. ^ Frank, Guadalcanal, p. 150.
  209. ^ a b Hammel, Carrier Clash, p. 135.
  210. ^ Zimmerman, The Guadalcanal Campaign, p. 67.
  211. ^ Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 102.
  212. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 308.
  213. ^ a b c 戦史叢書77 1974, p. 163b.
  214. ^ 戦史叢書49 1971, p. 538.
  215. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, p. 217(昭和17年8月20日記事)敵現る 0930 ツラギ南東 A×2、C×6、d×12、T多数
  216. ^ a b 戦史叢書77 1974, pp. 163a-164敵機動部隊の発見と敵機のガ島進出
  217. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 103.
  218. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 104.
  219. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 322–323八月二十日の輸送船団
  220. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 98b-99進出第一陣は海兵隊
  221. ^ a b 護衛空母入門 2005, p. 225.
  222. ^ a b ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 98c-99.
  223. ^ #S1709八艦隊日誌(1)pp.55-56(昭和17年8月20日記事)
  224. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, p. 218a(昭和17年8月21日記事)曇雨、視界不良のため敵情を得ず
  225. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, p. 218b.
  226. ^ 戦史叢書49 1971, p. 550.
  227. ^ 戦史叢書49 1971, p. 552.
  228. ^ a b c d 戦史叢書14 1968, p. 309.
  229. ^ Smith, Bloody Ridge, p. 58.
  230. ^ Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 102, Hough, Pearl Harbor to Guadalcanal, p. 290, and Smith, Bloody Ridge, p. 58–59.
  231. ^ a b c 戦史叢書14 1968, p. 310.
  232. ^ Jersey, Hell's Islands, p. 210, Hammel, Carrier Clash, p. 137.
  233. ^ Zimmerman, The Guadalcanal Campaign, p. 68.
  234. ^ Frank, Guadalcanal, p. 153.
  235. ^ Smith, Bloody Ridge, p. 62–63.
  236. ^ Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 103.
  237. ^ Frank, Guadalcanal, p. 153, and Smith, Bloody Ridge, p. 63.
  238. ^ Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 103–104.
  239. ^ Hammel, Carrier Clash, p. 141.
  240. ^ a b Zimmerman, The Guadalcanal Campaign, p. 69.
  241. ^ Frank, Guadalcanal, p. 154 and Smith, Bloody Ridge, p. 66.
  242. ^ Hough, Pearl Harbor to Guadalcanal, p. 290.
  243. ^ a b c d e 平塚、米軍記録 1995, p. 79.
  244. ^ 平塚、米軍記録 1995, p. 80.
  245. ^ 平塚、米軍記録 1995, p. 81.
  246. ^ Frank, Guadalcanal, p. 157.
  247. ^ Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 107
  248. ^ Leckie, Robert Helmet For My Pillow Bantam Books Trade Paperback Edition 2010 pp.84-85
  249. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 312–313.
  250. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 313.
  251. ^ a b c 戦史叢書49 1971, p. 537.
  252. ^ #S1709八艦隊日誌(1)pp.56-57(昭和17年8月21日記事)
  253. ^ 戦史叢書77 1974, p. 167.
  254. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 314.
  255. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 315.
  256. ^ ニミッツ 1962, p. 121.
  257. ^ a b 戦史叢書77 1974, p. 176a第二梯団の輸送失敗
  258. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, p. 221(昭和17年8月25日記事)敵主力南東に退却 敵空母2隻大火災 味方輸送艦隊避退す ガダルカナル上陸また1日遅る 策戦一喜一憂なり
  259. ^ a b 戦史叢書77 1974, p. 176b輸送方法の転換
  260. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 331–333船団輸送の中止とのそ波紋
  261. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 102b-103川口支隊が上陸
  262. ^ 土井 2009, p. 95一木支隊鎮魂碑(平成4年9月撮影)
  263. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 211a-212ガ島飛行場
  264. ^ 戦史叢書14 1968, p. 211b.
  265. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, pp. 84–86伸び過ぎた作戦線
  266. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, p. 64aガ島に飛行場を建設せよ
  267. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 67–68SN作戦
  268. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 220–221航空基地の整備
  269. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 213.
  270. ^ 土井 2009, pp. 251–252ガダルカナル島戦史 略年表
  271. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 204–207ミッドウェー海戦後の編制改正
  272. ^ サボ島沖海戦 1998, pp. 42–43.
  273. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 81.
  274. ^ 生出、辻政信 2007, pp. 287–288.
  275. ^ 第十七軍作戦(1) 1946, pp. 21–22.
  276. ^ 第十七軍作戦(1) 1946, p. 29第十七軍司令官は七月二十四日ラバウルに進出し南海支隊主力はラバウルに在り其の一部は既にブナに進出しあるも第十七軍主力は尚遠くパラオ及ダバオ附近に在り。
  277. ^ 生出、辻政信 2007, p. 290.
  278. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 194–195.
  279. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 207–209第八艦隊の統帥の発動
  280. ^ 第十七軍作戦(1) 1946, pp. 23–26.
  281. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 195–198陸海軍現地協定
  282. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 197–198.
  283. ^ 完本太平洋戦争(上) 1991, p. 222.
  284. ^ 戦史叢書14 1968, p. 215.
  285. ^ サボ島沖海戦 1998, pp. 44–45.
  286. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 216.
  287. ^ 戦史叢書14 1968, p. 222.
  288. ^ 戦史叢書14 1968, p. 223.
  289. ^ 戦史叢書77 1974, p. 132.
  290. ^ 戦史叢書14 1968, p. 226.
  291. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 86.
  292. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 225–226第二十六航空戦隊の南太平洋方面進出計画
  293. ^ 戦史叢書102 1980, pp. 132–133(昭和17年8月7日)米軍反攻開始
  294. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, p. 65海兵一個師団、ガ島に上陸
  295. ^ a b 戦史叢書14 1968, p. 258.
  296. ^ a b 戦史叢書77 1974, p. 144.
  297. ^ 戦史叢書14 1968, p. 270.
  298. ^ 倉橋 1987, pp. 89–91腰の定まらぬ大本営
  299. ^ 戦史叢書77 1974, pp. 146–148第一次ソロモン海戦
  300. ^ a b 第十七軍作戦(1) 1946, p. 32.
  301. ^ 戦史叢書77 1974, p. 147.
  302. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 286–287ソロモン群島奪回作戦に関する陸海軍の中央協定
  303. ^ 戦史叢書77 1974, p. 148b.
  304. ^ 戦史叢書14 1968, p. 281.
  305. ^ 潜水艦作戦(S1708からS1803) 1948, pp. 10–11.
  306. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 51–52.
  307. ^ 戦史叢書49 1971, p. 532.
  308. ^ 草鹿回想 1979, pp. 150–151艦隊の編制替え
  309. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 431–432聯合艦隊主力
  310. ^ 草鹿回想 1979, p. 161.
  311. ^ a b c 戦史叢書77 1974, p. 164.
  312. ^ 生出、辻政信 2007, p. 298.
  313. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 112.
  314. ^ 草鹿回想 1979, pp. 162–163優秀装備の前に一木支隊壊滅
  315. ^ 戦史叢書77 1974, p. 168.
  316. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 104–105潜水部隊の集中
  317. ^ 潜水艦作戦(S1708からS1803) 1948, pp. 16–18第一、第一、第三潜水部隊の敵機動部隊の邀撃 ガ島増援阻止並奪囘作戰
  318. ^ 平塚、米軍記録 1995, p. 88.
  319. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, pp. 83–84龍驤の安らかな最期
  320. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 113.
  321. ^ a b 戦史叢書49 1971, p. 585.
  322. ^ ソロモン海戦(歴群05) 1994, p. 89.
  323. ^ 戦史叢書62 1973, p. 104b.
  324. ^ 生出、辻政信 2007, p. 300.
  325. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 114.
  326. ^ 第十七軍作戦(1) 1946, p. 37.
  327. ^ Mark DiIonno (2010年2月21日). “HBO series illuminates N.J. Marine's book on World War II experience”. NJ.com. 2010年3月16日閲覧。

参考文献

[編集]

日本語文献

  • 阿川弘之『高松宮と海軍』中央公論社新社〈中公文庫〉、1999年4月。ISBN 4-12-203391-8 
  • 生出寿『悪魔的作戦参謀辻政信 稀代の風雲児の罪と罰』光人社〈光人社NF文庫〉、2007年4月(原著1987年)。ISBN 978-4-7698-2029-1 
  • 生出寿『戦艦「大和」最後の艦長 海上修羅の指揮官』光人社〈光人社NF文庫〉、2011年7月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-2143-4 
  • 岡村治信「第三章 美しき島々」『青春の棺 生と死の航跡』光人社、1979年12月。 (岡村は追風庶務主任としてガダルカナル島の戦いに参加)
  • 大内建二『護衛空母入門 その誕生と運用メカニズム』光人社〈光人社NF文庫〉、2005年4月。ISBN 4-7698-2451-3 
  • 奥宮正武「第2章 連合国軍ガダルカナル島に来襲」『ラバウル海軍航空隊』学習研究社〈学研M文庫〉、2001年3月(原著1992年)。ISBN 4-05-901045-6 
  • 川口清健『川口支隊の死闘』中央公論社〈実録太平洋戦争 第2巻〉、1960年。 
  • 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂、1979年1月。ISBN 4-87538-039-9 
  • 倉橋, 友二郎駆逐艦隊悲劇の記録 海ゆかば・・・』徳間書店、1967年6月。  
  • 倉橋, 友二郎「悲劇のガダルカナル作戦」『激闘駆逐艦隊』朝日ソノラマ〈航空戦史シリーズ〉、1987年12月。 
  • 軍事史学会「ガダルカナル島作戦秘録『残骸録』」『防衛研究所図書館所蔵 大本営陸軍部作戦部長 宮崎周一中将日誌』錦正社、2003年6月。ISBN 4-7646-0316-0 
  • 佐藤清夫『駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年1月(原著1997年)。ISBN 4-7698-2408-4 
  • 城英一郎 著、野村実 編『侍従武官 城英一郎日記』山川出版社〈近代日本史料選書〉、1982年2月。 
  • 土井全二郎「第四章 なぜ玉砕部隊は故郷に帰ったか」『ガダルカナルを生き抜いた兵士たち 日本軍が初めて知った対米戦の最前線』光人社〈光人社NF文庫〉、2009年3月。ISBN 978-4-7698-2599-9 
  • C・W・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1962年12月。 
  • リチャード・F・ニューカム(著)、田中至(訳)『サボ島沖海戦 米海軍史上最大の敗北』光人社〈光人社NF文庫〉、1998年4月(原著1963年)。ISBN 4-7698-2192-1 
  • 野村實『天皇・伏見宮と日本海軍』文藝春秋、1988年2月。ISBN 4-16-342120-3 
  • 平塚征緒『米軍が記録したガダルカナル島の戦い』草思社、1995年10月。ISBN 4-7942-0632-1 
  • 平塚柾雄「第6章 連合軍が布いた残置諜者網/米軍上陸前夜に消えたガ島現地住民」『太平洋戦争裏面史 日米諜報戦 勝敗を決した作戦にスパイあり』株式会社ビジネス社、2016年8月。ISBN 978-4-8284-1902-2 
  • 平間源之助 著、平間洋一 編『軍艦「鳥海」航海記 平間兵曹長の日記 昭和16~17年』イカロス出版、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0634-1 
  • 文藝春秋編「辻政信著「ガダルカナル」」『完本・太平洋戦争(上)』文藝春秋、1991年12月、218-236頁。ISBN 4-16-345920-0 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦<1> ポートモレスビー・ガ島初期作戦』 第14巻、朝雲新聞社、1968年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ミッドウェー海戦』 第43巻、朝雲新聞社、1971年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪還作戦開始まで』 第49巻、朝雲新聞社、1971年9月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<2> 昭和十七年六月以降』 第62巻、朝雲新聞社、1973年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<3> ―昭和18年2月まで―』 第77巻、朝雲新聞社、1974年9月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 陸海軍年表 付 兵器・兵語の解説』 第102巻、朝雲新聞社、1980年1月。 
  • 歴史群像編集部編『ソロモン海戦 米軍ガダルカナル島上陸により惹起されたソロモンの制海権争奪の前半戦を徹底解析』 第5巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、1994年11月。 


外国語文献

  • Evans, David C. (1986 (2nd Edition)). “The Struggle for Guadalcanal”. The Japanese Navy in World War II: In the Words of Former Japanese Naval Officers. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 0-87021-316-4 
  • Frank, Richard (1990). Guadalcanal: The Definitive Account of the Landmark Battle. New York: Random House. ISBN 0-394-58875-4 
  • Gilbert, Oscar E. (2001). Marine Tank Battles in the Pacific. Da Capo. ISBN 1-58097-050-8 
  • Griffith, Samuel B. (1963). The Battle for Guadalcanal. Champaign, Illinois, USA: University of Illinois Press. ISBN 0-252-06891-2 
  • Hammel, Eric (1999). Carrier Clash: The Invasion of Guadalcanal & The Battle of the Eastern Solomons August 1942. St. Paul, MN, USA: Zenith Press. ISBN 0-7603-2052-7 
  • Jersey, Stanley Coleman (2008). Hell's Islands: The Untold Story of Guadalcanal. College Station, Texas: Texas A&M University Press. ISBN 1-58544-616-5 
  • Leckie, Robert (2001 (reissue)). Helmet for My Pillow. ibooks, Inc.. ISBN 1-59687-092-3  First-person account of the battle by a member of the 1st Marine Regiment. The Pacific the HBO miniseries is based in part on Helmet for My Pillow
  • Morison, Samuel Eliot (1958). The Struggle for Guadalcanal, August 1942 – February 1943, vol. 5 of History of United States Naval Operations in World War II. Boston: Little, Brown and Company. ISBN 0-316-58305-7 
  • Rottman, Gordon L.; Dr. Duncan Anderson (consultant editor) (2005). Japanese Army in World War II: The South Pacific and New Guinea, 1942–43. Oxford and New York: Osprey. ISBN 1-84176-870-7 
  • Smith, Michael T. (2000). Bloody Ridge: The Battle That Saved Guadalcanal. New York: Pocket. ISBN 0-7434-6321-8 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]

座標: 南緯9度25分 東経160度03分 / 南緯9.417度 東経160.050度 / -9.417; 160.050