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'''三浦 芳聖'''(みうら よしまさ、[[1904年]]([[明治]]37年)[[9月17日]] - [[1971年]]([[昭和]]46年)[[3月30日]])は、[[第二次世界大戦]]で[[日本]]が降伏した後に、[[南朝 (日本)|南朝]]正統の[[皇胤]]であることを主張した「[[天皇の一覧#天皇だと自称した人物の一覧|自称天皇]]」たちの一人。'''三浦天皇'''、または'''芳聖天皇'''。 |
'''三浦 芳聖'''(みうら よしまさ、[[1904年]]([[明治]]37年)[[9月17日]] - [[1971年]]([[昭和]]46年)[[3月30日]])は、[[第二次世界大戦]]で[[日本]]が降伏した後に、[[南朝 (日本)|南朝]]正統の[[皇胤]]であることを主張した「[[天皇の一覧#天皇だと自称した人物の一覧|自称天皇]]」たちの一人。'''三浦天皇'''、または'''芳聖天皇'''。[[千葉師範学校]]卒業。 |
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== 主張 == |
== 主張 == |
2019年7月12日 (金) 23:16時点における版
三浦 芳聖(みうら よしまさ、1904年(明治37年)9月17日 - 1971年(昭和46年)3月30日)は、第二次世界大戦で日本が降伏した後に、南朝正統の皇胤であることを主張した「自称天皇」たちの一人。三浦天皇、または芳聖天皇。千葉師範学校卒業。
主張
三浦の主張は以下の通りである。
南朝には、1336年(延元元年)10月に後醍醐天皇から皇位を継承して北陸に落ちた神皇正統の皇統(北陸朝廷#三浦芳聖の主張する北陸朝廷)と、後醍醐天皇が陽動作戦のために吉野に設けた偽装朝廷である副統の「正副二統」が存在した。擬天皇である後亀山天皇(三浦の主張では「熙成王」)が、足利義満の謀略により合一した後、正統の天皇は三種の神器を封印して地下深く埋蔵し、民伍に隠れ、今日に至った。三浦家は、その正統の皇統家の嫡孫である。
また、その主張に使用した方法を神風串呂と称している。ただしこれは占いの一種とされる(保阪正康「天皇が十九人いた」)。またこれに基づき、天皇に狸が憑くため皇居の場所が悪いといい、「皇居遷都提唱運動」という活動を行ってマスコミを賑わせている。若い頃は、苦学して京都の仏教専門学校や明治大学で学んだという。
三浦の主張による皇統
以下、三浦の主張に基づく天皇を列記する。年月日の表記はいずれも旧暦である。
- 東山天皇(尊良親王):在位・1336年(延元元年)10月9日 - 1337年(延元2年)2月5日
- 興国天皇(守永親王):在位・1337年(延元2年)2月5日 - 1368年(正平23年)3月23日
- 1328年(嘉暦3年)9月生 - 1397年(応永4年)3月崩
- 父・東山天皇、母・藤原清子
- 三浦家が伝承する系図には、後醍醐天皇から皇位を継承されたとされている。三浦は後醍醐天皇の猶子となり、越前金ヶ崎城に於て東山天皇から譲位されたと主張している。
- 小松天皇(興良親王):在位・1368年(正平23年)3月23日 - 1373年(文中2年)5月26日
- 1334年(建武元年)3月14日生 - 1375年(天授元年)崩
- 父・宗良親王、母・狩野介貞長の女(駿河姫)、「皇后」・元子内親王(興国天皇第二皇女、小室門院)
- 三浦は興国天皇より譲位されたと主張している。
- 松良天皇(正良親王):在位・1373年(文中2年)5月26日 - 1410年(応永17年)
- 大宝天皇(美良親王):在位・1410年(応永17年) - 1454年(享徳3年)
- 1394年(応永元年)生 - 1481年3月15日崩
- 父・松良天皇、母・綾子姫(「長慶院法皇」皇女)、「皇后」・三浦佐久姫(建武の新政で活躍したという富士大宮司・三浦義勝の5代孫、木花佐久耶姫の再現という)
- 懸賞つきで探索する幕府の追跡をかわしつつ、各地を潜行したといい、1438年(永享10年)、岡崎市切越に隠棲したという。最後まで付き従った数少ない臣下らに支えられながら、皇威の回復を祈願して大般若経六百巻を念書するなど修行に専念する日々を過ごしたという。
- 1454年(享徳3年)に天照大御神の神勅に従い、三種の神器を地下深く埋蔵して現在の岡崎市牧平町大門に移住。「皇后」の姓を名乗って三浦藤太夫と称し百姓となった。
なお、三浦は南朝の天皇である長慶天皇(寛成親王)についても以下のように主張している。
- 寛成親王は南朝抗戦派として、1373年(文中2年)の小松上皇崩御に伴い、摂政に就任した。
- 松良天皇から太上天皇号(落飾して「長慶院法皇」)を受けた。
- 密かに富士の皇居へ移り、ここから東国武士に北朝打倒の大号令を発し、1385年(元中2年)からは側近の公卿らを従え高野山にのぼり戦勝祈願を込めた後、高野聖僧上人に扮して全国を行脚した。
- 南北朝合一の後、1409年(応永16年)秋、播磨国の城山で地元の武士らに急襲され、兵庫県加西市青野町の西山で没した。
著書・論文・随想
- 『日本歴史の誤謬を正す : 神皇正統家極秘伝神風串呂に依る』(神風串呂講究所、 1968年(昭和43年))
- 『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す-神皇正統家極秘伝の神風串呂(串呂哲学と地文学)及皇統家系譜其他文献を以て』(神風串呂講究所、 1970年(昭和45年))
参考文献
- 玉川信明 編『エロスを介して眺めた天皇は夢まぼろしの華である 御落胤と偽天皇』社会評論社、1990年(平成2年)。
- 保阪正康「天皇が十九人いた」『さまざまなる戦後』文藝春秋、1995年(平成7年)。
- 原田実「後南朝ではなく、南朝正系の末裔を主張した三浦天皇」『トンデモニセ天皇の世界』文芸社、2013年(平成25年)。
- 中見利男『偽天皇事件に秘められた日本史の謎 (別冊宝島 2192)』宝島社、2014年(平成26年)。
外部リンク
- 串呂哲学研究ノート