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|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1985}} |
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|ドラフト順位 = ドラフト1位 |
|ドラフト順位 = ドラフト1位 |
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|初出場 = NPB / 1986年5月8日・対[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦<ref name="毎日新聞1986-05-09"/><br />CPBL / 2002年3月9日・対[[富邦ガーディアンズ|興農]]戦<ref>{{Cite web|url=http://www.cpbl.com.tw/players/follow.html?player_id=W086&teamno=&year=2002|title=球員個人紀錄:中山裕章 逐場成績表 2002 一軍|accessdate=2020-10-17|publisher=[[中華職業棒球大聯盟]]|website=中華職棒大聯盟全球資訊網 The Official Site of CPBL|language=zh-TW|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201017142540/http://www.cpbl.com.tw/players/follow.html?player_id=W086&teamno=&year=2002|archivedate=2020-10-17}}</ref> |
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|初出場 = NPB / 1986年5月8日<br />CPBL / 2002年3月9日 |
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|最終出場 = NPB / 2001年8月22日・対[[広島東洋カープ|広島]]戦<ref name="中日新聞2001-08-23"/><br />CPBL / 2003年9月20日・対[[中信兄弟|兄弟]]戦<ref>{{Cite web|url=http://www.cpbl.com.tw/players/follow.html?player_id=W086&teamno=&year=2003|title=球員個人紀錄:中山裕章 逐場成績表 2003 一軍|accessdate=2020-10-17|publisher=中華職業棒球大聯盟|website=中華職棒大聯盟全球資訊網 The Official Site of CPBL|language=zh-TW|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201017142543/http://www.cpbl.com.tw/players/follow.html?player_id=W086&teamno=&year=2003|archivedate=2020-10-17}}</ref> |
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|最終出場 = NPB / 2001年8月22日<br />CPBL / 2003年9月20日 |
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|年俸 = |
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|経歴 = |
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* [[中信ホエールズ]] (2002 - 2003) |
* [[中信ホエールズ]] (2002 - 2003) |
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'''中山 裕章'''(なかやま ひろあき、[[1967年]][[11月4日]] - )は、[[高知県]][[高知市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])<ref name="86選手名鑑"/>。 |
'''中山 裕章'''(なかやま ひろあき、[[1967年]][[11月4日]] - )は、[[高知県]][[高知市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]]・右投右打)<ref name="86選手名鑑"/>。 |
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{{by|1986年}}に[[1985年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト]]1位で[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]に入団 |
{{by|1986年}}に[[1985年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト]]1位で[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]に入団{{Sfn|森岡浩|2004|p=217}}<ref name="86選手名鑑"/>、リリーフ・先発で主力投手として活躍したが、{{by|1991年}}オフに幼女への連続[[強制わいせつ罪|強制わいせつ]]事件を起こし、[[神奈川県警察]]に[[逮捕 (日本法)|逮捕]]され、大洋球団を解雇される<ref name="神奈川新聞1991-12-26"/><ref name="中日新聞1991-12-26"/><ref name="神奈川新聞1992-01-08"/><ref name="中日新聞1992-01-08"/>。この事件を受けて[[セントラル・リーグ]]は[[日本野球機構]] (NPB) 全12球団に対し、無期限に契約を回避する措置を取るよう要望する声明を通達したが<ref name="中日新聞1992-01-08-解説"/>、この声明は{{by|1993年}}オフに解除された<ref name="神奈川新聞1993-12-25"/>。その後({{by|1994年}}以降)は[[中日ドラゴンズ]]でリリーフとして活躍し、{{by|1999年}}のリーグ優勝に貢献した。 |
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この事件を受けて[[セントラル・リーグ]]は[[日本野球機構]](NPB)全12球団に対し「無期限契約回避措置を要望する声明」を通達したが<ref name="中日新聞1992-01-08-解説"/>、声明が2年後の{{by|1993年}}オフに解除され[[中日ドラゴンズ]]で[[打撃投手]]として球界復帰し<ref name="中日新聞1993-12-28"/>、翌{{by|1994年}}シーズン途中に現役復帰([[支配下選手登録]])を果たしてからは中日でリリーフとして活躍し{{by|1999年}}のリーグ優勝に貢献した。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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=== プロ入り前 === |
=== プロ入り前 === |
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==== 高校入学まで ==== |
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高知市愛宕町で生まれ<ref name="甲子園高校野球人名事典">[[#森岡(2004)|森岡(2004) p.216-217]]</ref>、[[高知市立一ツ橋小学校]]・[[高知市立城北中学校]]を経て[[高知市立高知商業高等学校]]へ進学した<ref name="96中日ファンブック"/>。大洋時代の[[プロ野球監督|監督]]・[[須藤豊]]は高知商高の大先輩にあたるほか、[[阪神タイガース]]・[[藤川球児]]は城北中・高知商高の後輩である<ref name="スポニチ2009-01-01">{{Cite news|title=【1月3日】1999年(平11) 藤川球児、故郷で大物女優とバッタリ「標準語だった」|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0801/kiji/K20090101Z00001840.html|newspaper=スポニチアネックス(スポーツニッポン)|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2009-01-01|accessdate=2018-12-25|archivedate=2018-12-25|archiveurl=http://web.archive.org/web/20181225062828/https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0801/kiji/K20090101Z00001840.html}}</ref>。 |
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高知市愛宕町で生まれ{{Sfn|森岡浩|2004|p=216}}、[[高知市立一ツ橋小学校]]・[[高知市立城北中学校]]を経て[[高知市立高知商業高等学校]]へ進学した<ref name="96中日ファンブック"/>。大洋時代の[[プロ野球監督|監督]]・[[須藤豊]]は高知商高の大先輩にあたるほか、元[[阪神タイガース]]の[[藤川球児]]は城北中・高知商高の後輩である<ref name="スポニチ2009-01-01">{{Cite news|title=【1月3日】1999年(平11) 藤川球児、故郷で大物女優とバッタリ「標準語だった」|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0801/kiji/K20090101Z00001840.html|newspaper=スポニチアネックス(スポーツニッポン)|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2009-01-01|language=ja|accessdate=2018-12-25|archivedate=2018年12月25日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181225062828/https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0801/kiji/K20090101Z00001840.html}}</ref>。 |
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幼稚園を卒園したころ、自転車に乗っていた際に走行中のダンプカーと激突する交通事故を起こしたが、左足を骨折(2か月間入院する重傷)したのみで済んだ<ref name="週ベ1985-09-07">{{Cite journal|和書|journal=週刊ベースボール|title=真夏の日のヒーロー群像 灼熱のスタンドを熱狂させた'85甲子園スターたち 剛腕、150キロ!祖母の愛情磁気布団で、土佐の怪童が復活した 中山裕章(高知商・投手)|volume=40|date=1985-09-07|issue=39|publisher=ベースボール・マガジン社|language=ja|pages=60-62}}(※1985年9月7日号・通巻第1542号)</ref>。しかし小学校の入学式にはギプスを装着した状態で出席したほか、骨折した左足は高校進学後も変形したままだった<ref name="週ベ1985-09-07"/>。 |
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城北中学校野球部に入部した直後、後に中学・高校時代にバッテリーを組んだ捕手・岡村英人と出会ったが、岡村は当時の中山に対して「いけ好かない奴」と悪印象を抱いており、岡村の勘違いから大喧嘩に発展したこともあった<ref name="鈴木 p.120-122"/>。過ちに気付いた岡村が謝罪したところ中山は快く許し、それ以降は仲良くなったが、中山は「何事にも執着を示さない」性格から練習に身が入らず、1年生の夏休み前には野球部の練習を休みがちになってしまった<ref name="鈴木 p.120-122"/>。岡村が「もう退部するのか?」と心配していたところ、中山は母親とともに野球部のグラウンドに姿を見せ、母親が顧問に「引き続き指導してください」と頼みに来たため、中山は辛うじて野球を続けることとなった<ref name="鈴木 p.120-122"/>。{{by|1982年}}秋、中学の高知県大会決勝が雨天順延の影響を受けて偶然、後に中山が進学した高知商業高校のグラウンドで開かれたが、そこに当時の高知商高野球部監督・谷脇一夫が偶然顔を出していた<ref name="鈴木 p.122-123">[[#鈴木(2016)|鈴木(2016) p.122-123]]</ref>。谷脇は「普段は中学生を自校の部に勧誘することはしない」性格だったが、圧倒的な速球を投げる中山の姿を見て「中学生同士の対決なのに対戦打者のバットにかすりもさせない」ほどの素質に惚れ込み、後に中山が在籍していたチームが再び高知商高のグラウンドへ練習に来たことがあったため、谷脇はこの時に中山に「うちに来てほしい」と声を掛けた<ref name="鈴木 p.122-123"/>。 |
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城北中学校野球部に入部した直後、後に中学・高校時代にバッテリーを組んだ捕手・岡村英人{{Efn2|中山の球威は高校生離れしており、名門の高知商高でも中山のボールを捕球できる捕手は中学時代からバッテリーを組んでいた岡村以外にいなかった{{Sfn|鈴木忠平|2016|pp=125-126}}。岡村は2年生春の紅白戦で二塁にスライディングした際に二塁手と交錯し、胸を二塁手の膝に激突させたことで[[腎臓]]破裂の重傷を負い{{Sfn|鈴木忠平|2016|pp=123-124}}、医師から「一生、運動はしない方が良い」と事実上のドクターストップを掛けられたが、周囲の反対を押し切って3か月後には練習に復帰し、3年生への進級直前には正捕手に返り咲いた{{Sfn|鈴木忠平|2016|pp=124-125}}。}}と出会った{{Sfn|鈴木忠平|2016|p=120}}。当時の中山は何事にも執着を示さない性格から練習に身が入らず、1年生の夏休み前には野球部の練習を休みがちになったが、母親から顧問への頼みで辛うじて野球を続けることとなった{{Sfn|鈴木忠平|2016|pp=121-122}}。{{by|1982年}}秋には高知商業高校(後の進学先)のグラウンドで中学の高知県大会決勝が開かれた{{Efn2|雨天順延の影響による{{Sfn|鈴木忠平|2016|p=123}}。}}が、同大会を視察していた高知商高野球部監督・谷脇一夫(当時)は圧倒的な速球を投げる中山の素質に惚れ込み、後に再び中山が高知商高のグラウンドへ練習に来た際には「うちに来てほしい」と声を掛けている{{Efn2|谷脇は本来、中学生を自校の部に勧誘することはなかった{{Sfn|鈴木忠平|2016|p=123}}。}}{{Sfn|鈴木忠平|2016|pp=122-123}}。 |
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高校進学の際、高知商高以外にも[[明徳義塾中学校・高等学校|明徳義塾高校]]など高知県内の高校野球強豪校から進学の誘いを受けたが、「自宅から通える」という理由で高知商高に進学した<ref name="鈴木 p.120-122">[[#鈴木(2016)|鈴木(2016) p.120-122]]</ref>。女房役の岡村も甲子園の舞台で活躍することに憧れ、{{by|1978年}}の[[第60回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]で準優勝を遂げた高知商高に進学した<ref name="鈴木 p.120-122"/>。高知商高1年生の{{by|1983年}}春、谷脇は新入部員の中にいた中山を見て「彼がいれば5回甲子園へ行くチャンスがあるうち3回は行ける。そのうち1回は優勝できる。夏の全国初制覇も夢ではない」と確信し、その期待に違わず入学直後からベンチ入りした中山は1年の夏に甲子園のマウンドを経験した<ref name="鈴木 p.122-123"/>。 |
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==== 高知商業高校時代 ==== |
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1983年夏には早くもエース[[津野浩]](3年生)の控え投手としてメンバー入りし、[[第65回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]に[[全国高等学校野球選手権大会 (高知県勢)|高知県代表]]として出場した<ref name="甲子園高校野球人名事典"/>。同大会で高知商高は準々決勝に進出し、中山は[[桑田真澄]]・[[清原和博]]([[KKコンビ]])を擁した[[PL学園中学校・高等学校|PL学園]]([[全国高等学校野球選手権大阪大会|大阪代表]])との対戦で津野をリリーフして甲子園に初登板した<ref name="甲子園高校野球人名事典"/>。この試合では5対10とリードされた6回1死から登板し、チームは9対10の接戦で敗退したが中山は3回2/3イニングを投げて清原・桑田との対戦を含めて被安打1・無失点に抑える好投を見せ<ref name="上杉 p.43">[[#上杉(2015)|上杉(2015) p.43]]</ref>、それ以降はプロ野球関係者から「[[土佐国|土佐]]の怪腕」と注目を集めた<ref name="野村 p.33-34">[[#野村(2016)|野村(2016) p.33-34]]</ref>。しかし1歳年下の[[野村貴仁]](→[[高知県立高知海洋高等学校|高知県立高岡高校宇佐分校]]進学→[[三菱重工三原硬式野球部|三菱重工三原]]→[[オリックス・バファローズ|オリックス]]・[[読売ジャイアンツ|巨人]])は自著『告白』([[KADOKAWA]]・2016年)にて「自分が高校進学する際には高知商高からも勧誘されたが、中山さんに興味を持って高知商高の練習を見学した際には『土佐の怪腕』と呼ばれるほどの剛速球を投げているようには思えなかった。何より中山さんが入学後の校内テストで毎回のように白紙答案を提出していたことが問題視されたため、その次の代である自分たちが高校受験する年(1984年)からは『(高知商高野球部が)一定以上の学力成績を残せる者』しか受け入れなくなったことが許せなかったから自分で『ここ(高知商高)はダメだ』とすぐに断念した」と述べている<ref name="野村 p.33-34"/>。 |
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高校進学の際には高知商高以外にも[[明徳義塾中学校・高等学校|明徳義塾高校]]など高知県内の高校野球強豪校から進学の誘いを受けたが、「自宅から通える」という理由で高知商高に進学{{Sfn|鈴木忠平|2016|p=122}}。女房役の岡村も甲子園の舞台で活躍することに憧れ、{{by|1978年}}夏の[[第60回全国高等学校野球選手権大会|第60回全国選手権大会]]で準優勝を果たした高知商高に進学した{{Sfn|鈴木忠平|2016|p=122}}。 |
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高知商高1年生時の{{by|1983年}}春、谷脇は新入部員の中山を見て「彼がいれば5回甲子園へ行くチャンスがあるうち、3回は行ける。そのうち1回は優勝できる。夏の全国初制覇も夢ではない」と確信した{{Sfn|鈴木忠平|2016|p=122}}。中山もその期待に違わず、入学直後からベンチ入りし{{Sfn|鈴木忠平|2016|p=123}}、同年夏の[[第65回全国高等学校野球選手権大会|第65回全国選手権大会]]では早くも同校([[全国高等学校野球選手権大会 (高知県勢)|高知県代表]])のエース[[津野浩]](3年生)の控え投手としてメンバー入りした{{Sfn|森岡浩|2004|p=216}}。中山は[[桑田真澄]]・[[清原和博]]([[KKコンビ]])を擁する[[PL学園中学校・高等学校|PL学園]]([[全国高等学校野球選手権大阪大会|大阪代表]])との準々決勝で津野をリリーフして甲子園に初登板し{{Efn2|この試合では5対10とリードされた6回1死から登板し、チームは9対10の接戦で敗退した{{Sfn|上杉純也|2015|p=43}}。しかし中山は3回2/3イニングを投げ、清原・桑田を含めて相手打線を被安打1・無失点に抑えた{{Sfn|上杉純也|2015|p=43}}。}}{{Sfn|森岡浩|2004|p=216}}、それ以降はプロ野球関係者から「[[土佐国|土佐]]の怪腕」と注目を集めた{{Efn2|一方、1歳年下の[[野村貴仁]]([[高知県立高知海洋高等学校|高知県立高岡高校宇佐分校]]へ進学)は自著『告白』 (2016) にて「自分が高校進学する際には高知商高からも勧誘されたが、中山さんに興味を持って高知商高の練習を見学した際には『土佐の怪腕』と呼ばれるほどの剛速球を投げているようには思えなかった。何より中山さんが入学後の校内テストで毎回のように白紙答案を提出していたことが問題視されたため、その次の代である自分たちが高校受験する年(1984年)からは、(高知商高野球部が)一定以上の学力成績を残せる者しか受け入れなくなった。それが許せなかったから、自分で『ここ(高知商高)はダメだ』とすぐに断念した」と述べている{{Sfn|野村貴仁|2016|pp=33-34}}。}}{{Sfn|野村貴仁|2016|p=34}}。一方でこのころから持病の腰痛に苦しみ、走り込みが十分にできなくなっていったことで体重が増加するようになった<ref name="週ベ1985-09-07"/>。 |
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津野が引退した同年秋にはエースとなるがそれ以降は故障が続き、2年生の{{by|1984年}}夏には県大会初戦で[[高知中学校・高等学校|高知高校]]に敗戦した<ref name="甲子園高校野球人名事典"/>。それに先立つ同年春の紅白戦で、それまで「層の厚い名門の中で埋もれており、中山のボールを受ける機会すらつかめていなかった」女房役・岡村は「ずっと補欠のままかもしれない」と危機感を抱いたため「ここで結果を出そう」と意気込んだが、二塁にスライディングした際に二塁手と交錯し、岡村の胸が二塁手の膝に激突した<ref name="鈴木 p.123-125">[[#鈴木(2016)|鈴木(2016) p.123-125]]</ref>。いったんはグラウンドで激痛とともにうずくまり「[[肋骨]]が折れたかもしれない」と悟った岡村だったが、「メンバー入りが懸かった紅白戦だから絶対に最後までやらないといけない」と痛みをこらえつつ練習を強行してしまい、練習後に[[血尿]]が出たことから中山とその父親に連れられて病院で診察を受けた結果、医師から[[腎臓]]破裂と診断された上に「一生スポーツはしない方が良い」と事実上のドクターストップを掛けられ、帰宅後にも父親から「もう野球はできないだろう。別の高校に転向して教師になるために勉強した方がいい」と諭されてしまった<ref name="鈴木 p.123-125"/>。しかし岡村は野球部でレギュラーになる夢を諦めきれず、周囲の反対を押し切って3か月後には練習に復帰すると3年生に進級する直前には正捕手の座、即ち再び中山のボールを受ける機会を手にした<ref name="鈴木 p.123-125"/>。名門の高知商高とはいえ、中山の投げる球は「暴れ馬のような剛速球」だったため、それを捕球できるノウハウを持つ捕手は中学時代から中山とバッテリーを組んでいた岡村以外にいなかったことが理由だった<ref name="鈴木 p.125-126">[[#鈴木(2016)|鈴木(2016) p.125-126]]</ref>。しかし中山・岡村らが最上級生となった2年生秋の県大会当時、高知県内の高校には[[高知県立伊野商業高等学校|伊野商業]]・[[渡辺智男]]をはじめ全国屈指の逸材が揃っていたことから甲子園の土を踏むことは容易なことではなく<ref name="鈴木 p.126-129"/>、同大会では準々決勝で<ref name="甲子園高校野球人名事典"/>その渡辺を擁する伊野商に敗れて[[第57回選抜高等学校野球大会|翌年のセンバツ]]出場を逃してしまった<ref name="鈴木 p.126-129">[[#鈴木(2016)|鈴木(2016) p.126-129]]</ref>。「残されたチャンスはあと1つ(1985年の[[第67回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]])しかない」と焦った谷脇は伊野商に敗戦した直後、中山を呼んで「お前は甲子園に行かなければいけない」と叱咤し、その後には岡村を呼んで「甲子園に行きたかったら、明日から毎朝中山を連れてランニングをしろ。[[高知城]]に毎朝『おはようございます』と挨拶してこい」と命令した<ref name="鈴木 p.126-129"/>。これを受けて2人は「朝6時に高知城二の丸前で落ち合い、約200段の階段を5往復してから学校まで走って登校する」日課を定めたが、しかし2週間後に中山がその練習をしなくなったことから、これを岡村から報告させた谷脇は「引っ張ってでもやらせろ」と命令し、岡村は毎朝のように中山を母親に起こさせてともにランニングをした<ref name="鈴木 p.126-129"/>。当時の中山は岡村・谷脇ともにそれぞれ「投げるボールの才能はプロ級」「素質は桑田より上」と認めていたものの「純粋に野球を楽しみたいだけ」という性格から厳しい練習には身が入らなかった<ref name="鈴木 p.126-129"/>。谷脇は「最後の勝負どころで力以上のものが出せなければ甲子園では活躍できない。それが出せるのは『普段から他人がやらないことをやる者』だけだ」と考えていたため、その中山に「期待の裏返し」として厳しい練習を科した<ref name="鈴木 p.126-129"/>。 |
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津野が引退した同年秋にはエースとなったが、それ以降は故障が続き、2年生の{{by|1984年}}夏には高知県大会初戦で[[高知中学校・高等学校|高知高校]]に敗戦した{{Sfn|森岡浩|2004|p=216}}。中山・岡村らが最上級生となった2年生秋の県大会当時、高知県内の高校には[[渡辺智男]]([[高知県立伊野商業高等学校|伊野商業高校]])をはじめ、全国屈指の逸材が揃っていたため、甲子園の土を踏むことは容易なことではなく{{Sfn|鈴木忠平|2016|pp=126-127}}、同大会では準々決勝で{{Sfn|森岡浩|2004|p=216}}渡辺を擁する伊野商に敗れ、翌年の[[第57回選抜高等学校野球大会|選抜大会]]出場を逃した{{Sfn|鈴木忠平|2016|pp=127-128}}。この試合直後、谷脇は「残されたチャンスはあと1つ(1985年夏の[[第67回全国高等学校野球選手権大会|第67回全国選手権大会]])しかない」と考え、中山と岡村にそれぞれ「お前は甲子園に行かなければいけない」、「毎朝、中山と一緒に[[高知城]]までランニングしてこい」と命じた{{Efn2|途中、中山は2週間でランニングを休むようになったが、岡村は毎朝中山を母親に起こさせてともにランニングをした{{Sfn|鈴木忠平|2016|pp=127-128}}。}}{{Sfn|鈴木忠平|2016|p=127}}。谷脇がこのように中山に猛練習を課した理由は、中山について「素質は桑田より上{{Efn2|岡村も当時の中山を「投げるボールの才能はプロ級」と認めていたが、中山本人は「純粋に野球を楽しみたいだけ」という性格だったため、厳しい練習には身が入らなかった{{Sfn|鈴木忠平|2016|p=128}}。}}だが、最後の勝負どころで力以上のものが出せなければ甲子園では活躍できない。それが出せるのは、普段から他人がやらないことをやる者だけだ」と考えていたが故だった{{Sfn|鈴木忠平|2016|p=128}}。 |
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3年生となった{{by|1985年}}春、高知商高は[[第57回選抜高等学校野球大会|同年のセンバツ]]優勝校となった伊野商を破って[[春季四国地区高等学校野球大会]]に進出し、四国大会も圧勝で優勝した<ref name="甲子園高校野球人名事典"/>。同年夏、エース中山は岡村とバッテリーを組んで[[全国高等学校野球選手権高知大会]]を勝ち進み、決勝戦でセンバツ優勝校の伊野商相手に雪辱を果たして5対1で勝利したことにより[[第67回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]への出場を果たした<ref name="鈴木 p.126-129"/>。甲子園では初戦の[[藤嶺学園藤沢中学校・高等学校|藤嶺藤沢]]([[全国高等学校野球選手権神奈川大会|神奈川代表]])戦で最速150km/hの[[速球]]を投げるなどして9対2で勝利した<ref name="上杉 p.42"/>。続く第2回戦では同じく[[四国]]勢で[[全国高等学校野球選手権大会 (香川県勢)|香川県代表]]・[[香川県立志度高等学校|志度商業]]相手に初回先頭打者から6連続奪三振を記録するなどして2被安打12奪三振の好投で<ref name="甲子園高校野球人名事典"/>4対0の完封勝利を記録すると<ref name="上杉 p.42"/>、3回戦では同じく四国勢の[[全国高等学校野球選手権大会 (愛媛県勢)|愛媛県代表]]・[[愛媛県立川之江高等学校|川之江]]戦で立ち上がりの不調をつかれて2点を先制されるも8回には同点に追いつき<ref name="甲子園高校野球人名事典"/>、延長11回裏に[[サヨナラゲーム|サヨナラ勝ち]]を決めた<ref name="上杉 p.42"/>。中山はこのようにして快進撃を続け「攻守ともに高知商史上最強レベル」とうたわれたチームのベスト8進出の原動力となった<ref name="上杉 p.42"/>。 |
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また、中山自身も腰痛に苦しむ中で高知市内の整体師に通い、鍼・電気治療などを2年間かけて行った<ref name="週ベ1985-09-07"/>。3年生となった{{by|1985年}}春、高知商高は同年の[[第57回選抜高等学校野球大会|選抜]]優勝校となった伊野商を破り、[[春季四国地区高等学校野球大会]]に進出し、四国大会も圧勝で優勝した{{Sfn|森岡浩|2004|p=216}}。同年夏、エース中山は岡村とバッテリーを組み、[[全国高等学校野球選手権高知大会]]を勝ち進み、決勝戦で選抜優勝校の伊野商相手に雪辱を果たし、5対1で勝利し、[[第67回全国高等学校野球選手権大会|全国選手権]]出場を果たした{{Sfn|鈴木忠平|2016|p=129}}。 |
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準々決勝では再びPL学園の桑田と投げ合ったが<ref name="上杉 p.43"/>、5回裏の最初の打順で<ref name="清原 p.98"/>「この試合の目玉」と注目された4番・清原と対戦し<ref name="上杉 p.43"/>、146km/hを記録した<ref name="鈴木 p.134-135"/>真ん中高めに投げた渾身の速球をバットの真っ芯で捉えられ<ref name="清原 p.98-99">[[#清原(2009)|清原(2009) p.98-99]]</ref>、左翼席上段に達する推定飛距離140メートルの特大ホームランを被弾した<ref name="上杉 p.43"/>。この時、清原の金属バットはボールが当たった部分がへこみひび割れた<ref name="鈴木 p.134-135"/>。さらにこの回には続く6番・桑田にも右翼[[ラッキーゾーン]]へのホームランを被弾したことで「KKコンビ相手に初めて1イニングでアベック本塁打を被弾した投手」となってしまい、試合は3対6で敗退した<ref name="上杉 p.43"/>。この試合で清原が中山から放ったホームランは1985年8月20日付『[[スポーツニッポン]]』にて「甲子園史上最大(推定飛距離)140メートル」「100段ある左翼スタンドの下から数えて64段目に突き刺さった」と報道されたほか<ref>{{Cite news|title=【高知】「打てない」苦しんだ清原 鍵穴にはまった高知商・中山の剛速球 第67回大会準々決勝 高知商 3―6 PL学園 ( 1985年8月19日 甲子園)|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/07/26/kiji/20180724s00001002263000c.html|newspaper=[[スポーツニッポン]]|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2018-07-26|author=和田裕司|accessdate=2018-09-18|archivedate=2018-09-18|archiveurl=http://web.archive.org/web/20180917163936/https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/07/26/kiji/20180724s00001002263000c.html}}</ref>、「推定飛距離160メートル」「プロ野球の試合を含めても甲子園球場開場以来最大の飛距離」などの声も上がった<ref name="清原 p.98-99"/>。また清原自身は2009年に刊行した自著『男道』([[幻冬舎]])にて「少年時代から現役引退までに打ち続けた何百本の本塁打の中でも最も記憶に残る一発だ。高校時代にはそれまでも球場にいる全員の度肝を抜くようなホームランを何本も打っていたが、『何の混じり気も不純物もない、ホームランそのものの感触』を味わったのは初めてだった」と評価したほか<ref name="清原 p.100">[[#清原(2009)|清原(2009) p.100]]</ref>、2018年5月にスポーツニッポンから取材を受けた際にも「(甲子園で)僕が打った中では一番大きいホームランだと思う」と振り返った<ref>{{Cite news|title=【高校野球メモリアルイヤー】PL・清原和博 史上初の1試合3発「はっきり覚えている」|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/05/09/kiji/20180508s00001002350000c.html|newspaper=スポーツニッポン|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2018-05-19|author1=和田裕司|author2=松井いつき|accessdate=2018-09-18|archivedate=2018-09-18|archiveurl=http://web.archive.org/web/20180917163940/https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/05/09/kiji/20180508s00001002350000c.html}}</ref>。 |
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===== 1985年・夏の甲子園 ===== |
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谷脇は大会前に他校の監督から「PL学園のグラウンドを練習試合で訪れた際、他のメンバーたちが練習を終えてからも桑田がずっと1人でランニングをしていたのを見て驚いた」と聞いたことから、大会後に「中山には桑田以上の素質があったが、桑田以上の努力が足りなかった。だからPLに勝てなかったし清原という“怪物”を抑えられなかった。だが、仮に清原・桑田がPLに揃っていなければ優勝できていたかもしれない」と振り返った<ref name="鈴木 p.132-133">[[#鈴木(2016)|鈴木(2016) p.132-133]]</ref>。 |
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1985年の夏の甲子園で、高知商業高校は快進撃を続けたが、中山は「攻守ともに高知商史上最強レベル」とうたわれた当時のチームの原動力となった{{Sfn|上杉純也|2015|p=42}}。また、当時の大会を取材していた高野想(スポーツ新聞記者)は「春夏の甲子園大会で初めて150 km/hの球を投げた投手は中山と言われている{{Efn2|『週刊ベースボール』2013年8月19日号に掲載された「夏の甲子園球速ランキング」では夏の甲子園で球速150 km/h以上を記録した投手たちの記録が掲載されているが、表中で最古の記録は中山が1985年夏・第1回戦(藤嶺藤沢戦)で記録した150 km/hとなっている<ref>{{Cite journal|和書|journal=週刊ベースボール|title=158キロの新記録は出るか!?夏の甲子園球速ランキング|volume=68|date=2013-08-19|issue=41|publisher=ベースボール・マガジン社|language=ja|pages=14}}(※2013年8月19日号・通巻第3194号)</ref>。}}。のちに清原が中山からあれだけ長距離の本塁打(後述)を放てた理由は、中山の速球が強い反発力を生んだからだろう」と述べている<ref>{{Cite news|title=【甲子園剛球列伝】日南学園・寺原隼人、体調不良でもノルマ果たした“松坂超え”の154キロ (1/2ページ)|url=https://www.zakzak.co.jp/spo/news/190627/bas1906270004-n1.html|newspaper=[[zakzak]]([[夕刊フジ]])|publisher=産業経済新聞社|date=2018-07-26|language=ja|author=高野想|accessdate=2019-07-22|archivedate=2019年7月22日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190722052512/https://www.zakzak.co.jp/spo/news/190627/bas1906270004-n1.html}}</ref>。 |
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甲子園では初戦の[[藤嶺学園藤沢中学校・高等学校|藤嶺藤沢]]([[全国高等学校野球選手権神奈川大会|神奈川代表]])戦で最速150 [[キロメートル毎時|km/h]]{{Efn2|『[[週刊ベースボール]]』([[ベースボール・マガジン社]])1985年8月26日号では「[[徳島県立池田高等学校|徳島県立池田高校]]・[[水野雄仁]]以来となる最速145 km/h(プロ野球各球団のスカウトが持参したスピードガンの記録)」<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[週刊ベースボール]]|title=第67回全国高校野球選手権 甲子園特報第2弾 出た!ウワサの中山裕(高知商)が145キロ! 甲子園にまた1人ヒーローが生まれた|volume=40|date=1985-08-26|issue=37|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|language=ja|pages=113-114}}(※1985年8月26日号・通巻第1540号)</ref>・同誌同年9月7日号では「日本ハムのスカウトが『150 km/h出た!』と仰天した」とそれぞれ報道された<ref name="週ベ1985-09-07"/>。}}の[[速球]]を投げるなどして9対2で勝利した{{Sfn|上杉純也|2015|p=42}}。続く第2回戦では同じく[[四国]]勢の[[香川県立志度高等学校|志度商業]]([[全国高等学校野球選手権大会 (香川県勢)|香川県代表]])戦で最速145 km/hを記録し<ref name="週ベ1985-09-07"/>、初回先頭打者から6連続奪三振を記録するなど、2被安打12奪三振の好投で{{Sfn|森岡浩|2004|p=217}}4対0の完封勝利を記録{{Sfn|上杉純也|2015|p=42}}。3回戦でも同じく四国勢の[[愛媛県立川之江高等学校|川之江]]([[全国高等学校野球選手権大会 (愛媛県勢)|愛媛県代表]])と対戦し、立ち上がりの不調を突かれ、2点を先制されたが、8回には同点に追いつき{{Sfn|森岡浩|2004|p=217}}、延長11回裏に[[サヨナラゲーム|サヨナラ勝ち]]を決めた{{Sfn|上杉純也|2015|p=42}}。 |
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1985年秋の[[第40回国民体育大会|第40回]][[国民体育大会高等学校野球競技]]では桑田に投げ勝って甲子園の雪辱を果たし<ref name="週刊文春1992-01-16"/>、優勝の原動力となった<ref name="86選手名鑑"/><ref name="読売新聞1991-12-26"/>。この時の控え投手に1年下の[[岡林洋一]]がいる。 |
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PL学園との準々決勝では再び桑田と投げ合い{{Sfn|上杉純也|2015|p=43}}、5回裏の最初の打順で{{Sfn|清原和博|2009|p=98}}「この試合の目玉」と注目された4番・清原と対戦{{Sfn|上杉純也|2015|p=43}}。しかし、真ん中高めに投げた渾身の速球{{Efn2|球速は146 km/hを記録{{Sfn|鈴木忠平|2016|p=135}}。}}をバットの真芯で捉えられ{{Efn2|この時、清原の金属バットはボールが当たった部分がへこみ、ひび割れた{{Sfn|鈴木忠平|2016|p=135}}。}}{{Sfn|清原和博|2009|pp=98-99}}、左翼席上段に達する特大ホームラン(推定飛距離:140 [[メートル|m]]){{Efn2|このホームランは1985年8月20日付『[[スポーツニッポン]]』にて「甲子園史上最大のホームラン」と報道されたほか<ref>{{Cite news|title=【高知】「打てない」苦しんだ清原 鍵穴にはまった高知商・中山の剛速球 第67回大会準々決勝 高知商 3―6 PL学園 (1985年8月19日 甲子園)|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/07/26/kiji/20180724s00001002263000c.html|newspaper=[[スポーツニッポン]]|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2018-07-26|language=ja|author=和田裕司|accessdate=2018-09-18|archivedate=2018年9月18日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180917163936/https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/07/26/kiji/20180724s00001002263000c.html}}</ref>、「推定飛距離160 m」「プロ野球の試合を含めても、甲子園球場開場以来最大の飛距離」などの声も上がった{{Sfn|清原和博|2009|pp=98-99}}。また、清原自身も自著『男道』 (2009) にて「'''少年時代から現役引退までに打ち続けた何百本の本塁打の中でも最も記憶に残る一発だ'''。高校時代にはそれまでも球場にいる全員の度肝を抜くようなホームランを何本も打っていたが、『何の混じり気も不純物もない、ホームランそのものの感触』を味わったのは初めてだった」と評価したほか{{Sfn|清原和博|2009|p=100}}、2018年5月にスポーツニッポンから取材を受けた際にも「(甲子園で)僕が打った中では一番大きいホームランだと思う」と振り返っている<ref>{{Cite news|title=【高校野球メモリアルイヤー】PL・清原和博 史上初の1試合3発「はっきり覚えている」|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/05/09/kiji/20180508s00001002350000c.html|newspaper=スポーツニッポン|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2018-05-19|language=ja|author1=和田裕司|author2=松井いつき|accessdate=2018-09-18|archivedate=2018年9月18日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180917163940/https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/05/09/kiji/20180508s00001002350000c.html}}</ref>。}}を被弾した{{Sfn|上杉純也|2015|p=43}}。さらに6番・桑田にも右翼[[ラッキーゾーン]]へのホームランを被弾し{{Efn2|これにより、KKコンビ相手に初めて1イニングで[[本塁打#アベック本塁打|アベック本塁打]]を被弾した投手となった{{Sfn|上杉純也|2015|p=43}}。}}、試合は3対6で敗退した{{Efn2|大会後、谷脇は「中山には桑田以上の素質があったが、桑田以上の努力が足りなかったからPLにも清原にも勝てなかった。しかし、仮に清原・桑田がPLに揃っていなければ優勝できていたかもしれない」と振り返っている{{Sfn|鈴木忠平|2016|pp=132}}。}}{{Sfn|上杉純也|2015|p=43}}。 |
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[[1985年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1985年のドラフト会議]]では清原・桑田とともに目玉選手として注目され、[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]から1位指名を受け入団した<ref name="甲子園高校野球人名事典"/><ref name="86選手名鑑"/>。背番号は'''19'''でルーキーイヤーの推定[[年俸]]は430万円・契約金は5,200万円だった<ref name="86選手名鑑">{{Cite book|和書|title='86プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=[[ホームラン (雑誌)|ホームラン]]|volume=第10巻第3号(通算:第97号、1986年3月号)|publisher=[[日本スポーツ出版社]]|date=1986-03-31|page=53}}</ref>。 |
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同年秋の[[第40回国民体育大会|第40回]][[国民体育大会高等学校野球競技]]では桑田と投げ勝い、甲子園の雪辱を果たし<ref name="週刊文春1992-01-16"/>、優勝の原動力となった<ref name="86選手名鑑"/><ref name="読売新聞1991-12-26"/>。この時の控え投手に1年下の[[岡林洋一]]がいる。 |
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=== 横浜大洋時代 === |
=== 横浜大洋時代 === |
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[[1985年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1985年のドラフト会議(1985年11月20日)]]では清原・桑田とともに目玉選手として注目されていた一方<ref name="中日新聞1985-11-18">『中日新聞』1985年11月18日朝刊第12版第二スポーツ面18頁「話題のドラフト候補(上)高校 清原・桑田(PL)が焦点 重い速球の中山(高知商)も」(中日新聞社)</ref>、ドラフト会議前には[[社会人野球]]・[[三菱重工三原硬式野球部|三菱重工三原]]への就職が内定していた{{Efn2|一部では「意中の球団は[[阪神タイガース]]・[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]。それ以外の球団は入団拒否する意向」と報道されていたが、本人はドラフト会議前日(1985年11月19日)に「特に好きなチームも嫌いなチームもない。『どのチームか』より指名順位の方が気になる」と述べていた<ref name="中日新聞1985-11-20">『中日新聞』1985年11月20日朝刊第12版第一スポーツ面19頁「怪童中山も緊張気味」(中日新聞社)</ref>。}}<ref name="中日新聞1985-11-20"/>。そして、ドラフト当日に[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]から単独1位指名を受け、指名後には「早く一軍に昇格して、[[阪神タイガース]]の[[中西清起|中西(清起)さん]](高校の先輩)と投げ合いたい」と述べた{{Efn2|同年12月7日に高知商高で[[湊谷武雄]]スカウト部長・[[高松延次]]スカウトと2度目の入団交渉を行い、正式に契約<ref name="中日新聞1985-12-08">『中日新聞』1985年12月8日朝刊第12版第一スポーツ面21頁「高知商の豪腕 中山、大洋入り」(中日新聞社)</ref>。}}<ref name="中日新聞1985-11-21">『中日新聞』1985年11月21日朝刊第12版第一スポーツ面19頁「ドラフト70選手そろう 1位“難色”はや5人 強運・西武、競合すべて手中に」「12球団1位指名選手の横顔」(中日新聞社)</ref>。ルーキーイヤーの推定[[年俸]]は430万円・契約金は5,200万円で<ref name="86選手名鑑">{{Cite journal|和書|title='86プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=[[ホームラン (雑誌)|ホームラン]]|volume=第10巻第3号(通算:第97号 / 1986年3月号増刊)|publisher=[[日本スポーツ出版社]]|date=1986-03-31|page=53}}</ref>、入団時には阪神・中西を目標に掲げていた<ref name="中日新聞1985-12-08"/>。背番号は中山本人の希望により、中西と同じ'''19'''に決まった<ref name="週ベ1986-02-03"/>。 |
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;{{by|1986年}} |
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:入団1年目、本格派として期待された中山は[[近藤貞雄]][[プロ野球監督|監督]]の下でルーキーイヤーから一軍で18試合に登板して0勝3敗・防御率5.11の成績に終わるも3[[セーブ]]を挙げた<ref name="87選手名鑑">{{Cite book|和書|title='87プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第11巻第3号(通算:第106号、1987年3月号)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1987-03-31|page=53}}</ref>。 |
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:1986年5月6日に同い年の[[相川英明]]とともに出場選手登録されるとその2日後の1986年5月8日に対[[読売ジャイアンツ]](巨人)5回戦([[後楽園球場]])にて[[若菜嘉晴]]とバッテリーを組み一軍初登板・初先発を果たし、初マウンドで巨人先発・[[江川卓 (野球)|江川卓]]と投げ合った<ref name="毎日新聞1986-05-09">『毎日新聞』1986年5月9日東京朝刊第14版第一スポーツ面「大胆、大洋 対Gに“初投手”2人 セ・リーグ第6節8日 巨人5-2大洋」「ダッグアウト:初見せルーキーリレー 中山裕章投手・相川英明投手(大洋)感動と無念と18歳コンビ」</ref>。この試合では試合開始直前の1時間前に先発登板を告げられたが「力を抑えて低めを狙う」冷静な投球で1・2回を無失点に抑えた<ref name="毎日新聞1986-05-09"/>。その後5回裏から疲れが見えたところを巨人打線に痛打され、相川に交代するまでに5回3分の2を投げ5被安打・2奪三振・3与四球・5失点(自責点4)で敗戦投手となったが<ref name="毎日新聞1986-05-09"/><ref name="朝日新聞1986-05-09"/>、近藤監督は中山の投球を「合格点。(チャンスに主力が外野にすら打球を飛ばせなかった)打線が情けない」<ref name="朝日新聞1986-05-09"/>「中山は打線の援護が思うように入らなくてもよく投げた」と高く評価し<ref name="毎日新聞1986-05-09"/>、中山本人も『朝日新聞』の取材に対し「江川さんと投げ合えて楽しかった。[[原辰徳|原]]さんには打たれる気がしなかった」と語った<ref name="朝日新聞1986-05-09">『朝日新聞』1986年5月9日東京朝刊第14版第一スポーツ面「江川4勝 またまた勝ったよ 中山見参 原さんに打たれる気がしなかった 近藤監督演出打線がつぶす 巨人5-2大洋 5回戦」</ref>。またこの試合では打撃でも2回表2死一・二塁の場面で江川から三塁線に抜ける二塁打(二塁走者・[[田代富雄]]が生還し1点適時打。一塁走者・若菜は本塁で憤死)を放ちプロ初安打・初打点を記録した<ref name="毎日新聞1986-05-09"/>。 |
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:1986年10月13日、[[ナゴヤ球場]]で開かれた[[中日ドラゴンズ]]戦で初セーブを記録した<ref name="読売新聞1986-10-14">『読売新聞』1986年10月14日東京朝刊スポーツ面A欄17面「大洋8-5中日 25回戦」</ref>。 |
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:同年、中山は[[横浜DeNAベイスターズ (ファーム)|二軍]]([[イースタン・リーグ]])の試合で登板した際<ref name="週刊文春1992-01-16"/>、[[平塚球場]]でジュースの差し入れを受けたことをきっかけに、差し入れ主で当時大洋ファンだった後の婚約者女性(後の不祥事により婚約破棄、告訴合戦に)と交際を開始した<ref name="週刊新潮1994-08"/>。 |
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;{{by|1987年}} |
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:推定年俸590万円(前年比160万円増)で臨んだプロ入り2年目シーズンは<ref name="87選手名鑑"/>、[[古葉竹識]]監督の下で33試合に登板し5勝12敗・防御率5.17・セーブなしと大きく負け越すも、著しい成長を遂げて投手陣の軸に近づく飛躍の1年となった<ref name="88選手名鑑">{{Cite book|和書|title='88プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第12巻第4号(通算:第116号、1988年3月号)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1988-03-31|page=65}}</ref>。大洋球団の投手が高卒2年目で5勝を挙げたのは中山が最後となり、その後は大洋→横浜球団の「高卒2年目の5勝投手」はチーム名が「横浜DeNAベイスターズ」に変更された後の{{by|2018年}}に[[京山将弥]]が7月28日の[[広島東洋カープ|広島]]戦([[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]])で5勝目を記録するまで31年間にわたり現れなかった<ref>{{Cite news|title=DeNA京山、球団では31年ぶり高卒2年目5勝|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201807290000073.html|newspaper=[[日刊スポーツ]]|publisher=[[日刊スポーツ新聞社]]|date=2018-07-29|author=栗田成芳|accessdate=2018-11-13|archivedate=2018-11-13|archiveurl=http://web.archive.org/web/20181112150333/https://www.nikkansports.com/baseball/news/201807290000073.html}}</ref>。 |
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:同年5月9日、本拠地・[[横浜スタジアム]]で開かれた[[読売ジャイアンツ]](巨人)戦で先発して[[堀場秀孝]]とバッテリーを組み6回3分の2を投げ、疲れが出た7回表に連打を浴びて4失点するなどして5失点を喫するもチームは8対6で勝利して連敗を5で止め、中山自身もプロ初勝利を飾った<ref name="読売新聞1987-05-10">『読売新聞』1987年5月10日東京朝刊スポーツ面A欄17面「巨人拙守、2度目の連敗 中山、プロ初勝利 大洋6連敗免れる 大洋8-6巨人」</ref>。 |
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:同年5月21日には横浜スタジアムで開かれた[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦にて堀場とバッテリーを組んで6被安打・5奪三振・1与四球・1失点でプロ入り初の完投勝利(シーズン2勝目)を記録し<ref name="読売新聞1987-05-22">『読売新聞』1987年5月22日東京朝刊スポーツ面A欄17面「中山プロ入り初の完投勝ち 大洋4-1ヤクルト」</ref>、同年6月27日には[[後楽園球場]]で開かれた巨人戦で[[若菜嘉晴]]とバッテリーを組み、巨人打線を6回2死まで無安打・合計4被安打に抑え完投してプロ入り初完封勝利(シーズン3勝目)を記録した<ref name="読売新聞1987-06-28">『読売新聞』1987年6月28日東京朝刊スポーツ面A欄「巨人、打線も湿り完敗 中山に4安打散発 大洋8-0巨人」</ref>。10歳代(未成年)の投手が巨人戦で完封勝利を記録したのは、1968年4月20日に[[阪神タイガース]]・[[江夏豊]]が同じ後楽園球場で記録して以来20年ぶりだった<ref name="88選手名鑑"/>。このころには当時のエース投手・[[遠藤一彦]]と同数の勝利数を稼ぐことを目標に掲げていた<ref name="読売新聞1987-05-22"/>。 |
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;{{by|1988年}} |
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:推定年俸1,180万円(前年比590万円増)で臨んだプロ入り3年目のこの年<ref name="88選手名鑑"/>、リーグ最多の70試合に登板して10勝6敗24セーブ34セーブポイント・防御率2.28の成績を挙げ、[[中日ドラゴンズ]]・[[郭源治]]や[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]・[[牛島和彦]]に並んで「プロ野球を代表するストッパー」とうたわれた<ref name="89選手名鑑">{{Cite book|和書|title='89プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第13巻第4号(通算:第126号、1989年3月号)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1989-03-31|page=55}}</ref>。<!--最速150km/hを記録する速球・[[フォークボール]]を武器にリリーフエースを務めた--> |
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:同年は救援投手ながら[[規定投球回]]に到達する活躍を見せたほか、[[1988年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]では第2戦・[[ナゴヤ球場]](7月25日)、第3戦・[[東京ドーム]](7月26日)と2戦連続で勝利投手となった<ref>{{Cite web|title=1988年度サンヨーオールスターゲーム 試合結果|url=http://npb.jp/bis/scores/allstargame/linescore1988.html|publisher=NPB.jp [[日本野球機構]]|date=1988-07-26|accessdate=2018-08-17|archivedate=2018-08-17|archiveurl=http://web.archive.org/web/20180817130912/http://npb.jp/bis/scores/allstargame/linescore1988.html}}</ref>。 |
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:同年は11月5日開幕の[[日米野球]]大会([[読売新聞社]]主催)全日本メンバーに選出されたほか<ref>『読売新聞』1988年11月2日東京朝刊スポーツ面A欄19面「日米野球5日開幕 全日本52選手決まる 初戦は槙原先発 清原・桑田ら心待ち」</ref>、11月19日に[[平和台野球場]]で行われたセ・リーグの第10回東西対抗戦東軍にも選出された<ref>『読売新聞』1988年11月3日東京朝刊スポーツ面A欄19面「プロ野球セリーグ東西対抗戦に17選手が初陣 19日・平和台球場で試合」</ref>。 |
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:同年オフは防御率リーグ3位など好成績を残したことを高く評価され、12月2日に推定年俸2,520万円(前年比200%アップ、1,340万円増)で契約更改した<ref>『読売新聞』1988年12月3日東京朝刊スポーツ面A欄19面「大洋の中山が3倍で契約更改」</ref>。 |
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;{{by|1989年}} |
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:右投げの[[速球]]派投手として活躍していた中山だったが<ref name="読売新聞1991-12-26"/>、大洋にとっては「即戦力」とみなされたため古葉監督時代にリリーフで酷使されたことから肩・腰を痛めてしまい<ref name="週刊文春1992-01-16"/>、同年は45試合に登板して1勝10敗17セーブ・防御率4.10と大乱調に終わった<ref name="90選手名鑑"/>。 |
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:同年オフには推定年俸2,200万円(前年比320万円減)で契約更改した<ref name="90選手名鑑">{{Cite book|和書|title='90プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第14巻第4号(通算:第138号、1990年3月号)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1990-03-31|page=87}}</ref>。 |
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;{{by|1990年}} |
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:故障から「これで終わり」と言われた中山だったが<ref name="週刊文春1992-01-16"/>、高校の大先輩・[[須藤豊]]が監督に就任して以降は[[先発ローテーション]]投手として復活した<ref name="週刊文春1992-01-16"/>。 |
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:1990年4月7日に[[ナゴヤ球場]]で開かれた[[中日ドラゴンズ]]との開幕戦で[[開幕投手]]を務めたが<ref name="読売新聞1990-04-08">『読売新聞』1990年4月8日東京朝刊スポーツA面19面「セ・リーグ 新規定の引き分け再試合第1号 与田と佐々木の剛腕共演/中日5-5大洋(ナゴヤ球場=7日)」</ref>、それから3週間にわたり未勝利に終わっていた<ref name="毎日新聞1990-04-29"/>。 |
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:1990年4月28日、高校時代に活躍した思い出の地・[[阪神甲子園球場]]にて開かれた[[阪神タイガース]]戦で[[市川和正]]とバッテリーを組み、投げては完投して阪神打線をわずか4安打に抑え、打っては5回表に一死三塁の場面で自らセンター犠牲フライを打って1点を取り、その点を決勝点として守り切ったことで同年初勝利を3年ぶりの完封勝利で飾った<ref name="毎日新聞1990-04-29">『毎日新聞』1990年4月29日東京朝刊第14版第二スポーツ面「セ・リーグ 大洋1-0阪神 甲子園球場 中山、3年ぶり完封 阪神打線を4安打に」「効いた?!おまじない校歌」</ref>。完封勝利はプロ入り2度目で<ref name="読売新聞1990-04-29">『読売新聞』1990年4月29日東京朝刊スポーツA面19面「セ・リーグ 大洋10勝 中山が投げては完封、打っては決勝打の活躍/大洋1-0阪神(甲子園球場=28日)」</ref>、それまで開幕投手を務めながらも苦戦していた中山に対し、須藤監督は「甲子園は彼にとって思い出の場所だろう。本来は試合に勝ってからだが、中山へのおまじないでマウンドに立つ前に(母校の校歌を)歌ってやろう」と母校の校歌を口ずさんでおり、試合後にも中山とともにベンチ裏で再び校歌を歌った<ref name="毎日新聞1990-04-29"/>。 |
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:同年は27試合に登板して8勝12敗・防御率3.92の成績を残し<ref name="91選手名鑑">{{Cite book|和書|title='91プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第15巻第4号(通算:第150号、1991年3月号)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1991-03-31|page=53}}</ref>、[[1990年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にも通算2度目の出場を果たした<ref name="読売新聞1991-12-26"/>。 |
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:同年オフの契約更改では12月6日に推定年俸2,450万円(前年比270万円増)を保留<ref>『読売新聞』1990年12月7日東京朝刊スポーツ面A欄19面「大洋・野村が2000万円で契約更改 中山は保留」</ref>、12月25日になって推定年俸2,630万円(前年比430万円増、前回交渉より130万円増)で契約更改し、更改後には婚約を発表した<ref>『読売新聞』1990年12月26日東京朝刊スポーツ面A欄19面「大洋・高木が7100万円+タイトル料150万円で契約更改」</ref>。逮捕されるちょうど1年前となったこの日、入団後まもなく知り合った当時21歳の女性と婚約し<ref name="週刊文春1992-01-16"/>、翌1991年オフに女性と挙式する予定だったが<ref name="宝石手記"/>、同年は成績不振だったため、中山は巻き返しを期して挙式を1992年オフに延期していた<ref name="宝石手記"/>。 |
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;{{by|1991年}} |
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:同年も2年連続で開幕投手を務め、同年は先発20試合を含め27試合に登板して8勝10敗・防御率4.20の成績で、規定投球回数到達選手20人中ではリーグ最下位の成績だったが<ref name="92選手名鑑">{{Cite book|和書|title='92プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第16巻第4号(通算:第162号、1992年3月号)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1992-03-31|page=218}}</ref>、プロ入りから同年シーズン終了までの6年間で通算32勝53敗44セーブの成績を挙げ<ref name="読売新聞1991-12-26"/>、大洋球団のエース級投手として活躍していた<ref name="中日新聞1991-12-26"/>。 |
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:シーズン終了後の1991年12月6日、中山は翌{{by|1992年}}度の契約について推定年俸2,650万円(現状維持)で契約更改していた<ref>『読売新聞』1991年12月7日東京朝刊スポーツ面A欄21面「大洋・佐々木投手が1500万円増の2550万円で契約更改」</ref><ref name="中日新聞1991-12-26-夕刊"/>。 |
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:これに加え、1991年10月には[[横浜市]][[緑区 (横浜市)|緑区]][[若草台]](現・横浜市[[青葉区 (横浜市)|青葉区]]若草台)に約1億1,800万円で2階建ての新築住宅を建て<ref name="週刊現代1992-02-22">『週刊現代』1992年2月22日号 p.32-34 「逮捕から50日、“謹慎明け”の胸中を初めて 堕ちたエース中山裕章の痛恨懺悔 『チーム内いじめに遭い精神的に不安定になって』」(講談社)</ref>、郷里・高知市内に暮らしていた両親・姉も含めて5人で新生活を送っていた<ref name="宝石手記"/>。 |
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'''{{by|1986年}}'''の春季[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]では当時のエース投手・[[遠藤一彦]]と同室になり、その際に遠藤から直接プロ野球選手としての心構えを教わっていた{{Efn2|遠藤はこの時、中山に対し「練習は苦しいが、苦しい顔はするな。我慢してニコニコしながらやれば自分も周りも楽しくなる」とアドバイスした<ref name="週ベ1986-04-14"/>。これについて、中山本人は「マスメディアからちやほやされるKKコンビ(清原・桑田)も幸せかもしれないが、日本一の投手(遠藤)からマンツーマンで指導を受けられる自分はもっと幸せだと思った」と述べている<ref name="週ベ1986-04-14">{{Cite journal|和書|journal=週刊ベースボール|title=5人のドラフト1位高校出投手の“悪戦苦闘” 桑田(巨人)・中山(大洋)・桧山(近鉄)・遠山(阪神)・石田(ロッテ)はプロの壁に 『中山裕章―忘れられないエース遠藤の励ましの言葉。じっくり、ゆっくり“KK”を追う』|volume=41|date=1986-04-14|issue=16|publisher=ベースボール・マガジン社|language=ja|page=108}}(※1986年4月14日号・通巻第1578号)</ref>。}}<ref name="週ベ1986-04-14"/>。同年は[[近藤貞雄]][[プロ野球監督|監督]]の下で本格派として期待され、一軍で18試合に登板し、0勝3敗・防御率5.11の成績に終わるも3[[セーブ]]{{Efn2|同年10月13日に[[ナゴヤ球場]]で開かれた中日戦で初セーブを記録した<ref name="読売新聞1986-10-14">『読売新聞』1986年10月14日東京朝刊スポーツ面A欄17頁「大洋8-5中日 25回戦」(読売新聞東京本社)</ref>。3セーブは高卒新人のセ・リーグ記録}}を挙げた<ref name="87選手名鑑">{{Cite journal|和書|title='87プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第11巻第3号(通算:第106号 / 1987年3月号増刊)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1987-03-31|page=53}}</ref>。当時は既に近藤監督から「投手として一級品の素材」と称賛されていたが、まだ下半身をうまく使った投球ができていなかったため、[[鈴木隆 (投手)|鈴木隆]]投手コーチから徹底した走り込みを行わされていた<ref name="週ベ1986-04-14"/>。同年5月6日に同い年の[[相川英明]]とともに出場選手登録されると、その2日後(5月8日)に対[[読売ジャイアンツ]](巨人)5回戦([[後楽園球場]])にて[[若菜嘉晴]]とバッテリーを組み、一軍初登板・初先発を果たし、<ref name="毎日新聞1986-05-09">『毎日新聞』1986年5月9日東京朝刊第14版第一スポーツ頁「大胆、大洋 対Gに“初投手”2人 セ・リーグ第6節8日 巨人5-2大洋」「ダッグアウト:初見せルーキーリレー 中山裕章投手・相川英明投手(大洋)感動と無念と18歳コンビ」(毎日新聞東京本社)</ref>。初マウンドで巨人先発・[[江川卓 (野球)|江川卓]]と投げ合う形となり、1・2回を無失点に抑えたが<ref name="毎日新聞1986-05-09"/>、5回裏から疲れが見えたところを巨人打線に痛打され、相川に交代するまでに5回3分の2を投げ5被安打・2奪三振・3与四球・5失点(自責点4)で敗戦投手となった{{Efn2|試合後、近藤は中山の投球を「合格点。(チャンスに主力が外野にすら打球を飛ばせなかった)打線が情けない」<ref name="朝日新聞1986-05-09"/>「中山は打線の援護が思うように入らなくてもよく投げた」と高く評価し<ref name="毎日新聞1986-05-09"/>、中山本人も『朝日新聞』の取材に対し「江川さんと投げ合えて楽しかった。[[原辰徳|原]]さんには打たれる気がしなかった」と語っていた<ref name="朝日新聞1986-05-09">『朝日新聞』1986年5月9日東京朝刊第14版第一スポーツ頁「江川4勝 またまた勝ったよ 中山見参 原さんに打たれる気がしなかった 近藤監督演出打線がつぶす 巨人5-2大洋 5回戦」(朝日新聞東京本社)</ref>。また、この試合では打撃でも2回表2死一・二塁の場面で江川から三塁線に抜ける二塁打(二塁走者・[[田代富雄]]が生還し1点適時打。一塁走者・若菜は本塁で憤死)を放ち、プロ初安打・初打点を記録した<ref name="毎日新聞1986-05-09"/>。}}<ref name="毎日新聞1986-05-09"/><ref name="朝日新聞1986-05-09"/>。同年7月には[[平塚球場]]<ref name="週刊新潮1993-01-07"/>で開かれた[[横浜DeNAベイスターズ (ファーム)|二軍]][[イースタン・リーグ]](イ・リーグ)の試合に登板した際<ref name="週刊文春1992-01-16"/>、ジュースの差し入れを受けたことをきっかけに、その差し入れ主である大洋ファンの女性(当時・[[淑徳大学短期大学部|淑徳短期大学]]英語学科在学/後に婚約するも1991年末の事件により婚約破棄)と交際を開始した<ref name="週刊新潮1993-01-07"/>。 |
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=== わいせつ事件 === |
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;※以下、肩書などはいずれも当時のものとする。 |
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'''{{by|1987年}}'''は推定年俸590万円(前年比160万円増)で臨み<ref name="87選手名鑑"/>、[[古葉竹識]]監督の下で33試合に登板し、5勝12敗・防御率5.17・セーブなしと大きく負け越したが、著しい成長を遂げて投手陣の軸に近づく飛躍の1年となった{{Efn2|大洋球団の投手が高卒2年目で5勝を挙げたのは中山が最後で、その後は大洋→横浜球団の「高卒2年目の5勝投手」はチーム名が「横浜DeNAベイスターズ」に変更された後の{{by|2018年}}に[[京山将弥]]が7月28日・[[広島東洋カープ|広島]]戦([[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]])で5勝目を記録するまで31年間にわたり現れなかった<ref>{{Cite news|title=DeNA京山、球団では31年ぶり高卒2年目5勝|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201807290000073.html|newspaper=[[日刊スポーツ]]|publisher=[[日刊スポーツ新聞社]]|date=2018-07-29|language=ja|author=栗田成芳|accessdate=2018-11-13|archivedate=2018年11月13日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181112150333/https://www.nikkansports.com/baseball/news/201807290000073.html}}</ref>。}}<ref name="88選手名鑑">{{Cite journal|和書|title='88プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第12巻第4号(通算:第116号 / 1988年3月号増刊)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1988-03-31|page=65}}</ref>。 |
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;1991年11月12日、横浜市金沢区内で少女に対する連続強制わいせつ事件 |
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:しかし1991年11月12日午後3時10分ごろ、中山は[[神奈川県]][[横須賀市]]内の[[横浜DeNAベイスターズ総合練習場|横浜大洋ホエールズ総合練習場]]から横浜市緑区内の自宅に車で帰宅していた途中、横浜市[[金沢区]][[六浦町]]の住宅街路上で小学5年生の少女(当時11歳)に対し<ref name="週刊文春1992-01-16">『週刊文春』1992年1月16日新春特別号 p.191-193「下半身吠えーるず 問われる大洋の身の下管理 哀れ!人生を棒に振ったロリコンエース中山裕章」([[文藝春秋社]])</ref>、自分の下半身を露出する<ref name="週刊文春1992-01-16"/>・スカートの上から体を触るなどのわいせつな行為をした<ref name="中日新聞1991-12-26"/><ref name="読売新聞1991-12-26"/>。その5分後、中山は同じ場所で帰宅途中の幼稚園女児(当時6歳)に対し<ref name="中日新聞1991-12-26"/>、抱き上げて下着を脱がせるなど<ref name="週刊文春1992-01-16"/>わいせつな行為をした<ref name="中日新聞1991-12-26"/><ref name="読売新聞1991-12-26"/>。 |
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同年5月9日に本拠地・[[横浜スタジアム]]で開かれた巨人戦で先発登板し、[[堀場秀孝]]とバッテリーを組み、6回2/3を投げた<ref name="読売新聞1987-05-10"/>。疲れが出た7回表に連打を浴び、4失点するなど5失点を喫したが、チームは8対6で勝利し、中山自身もプロ初勝利を飾った<ref name="読売新聞1987-05-10">『読売新聞』1987年5月10日東京朝刊スポーツ面A欄17頁「巨人拙守、2度目の連敗 中山、プロ初勝利 大洋6連敗免れる 大洋8-6巨人」(読売新聞東京本社)</ref>。また同年5月21日には[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦(横浜スタジアム)で堀場とバッテリーを組み、6被安打・5奪三振・1与四球・1失点でプロ入り初の完投勝利(シーズン2勝目)を記録し<ref name="読売新聞1987-05-22">『読売新聞』1987年5月22日東京朝刊スポーツ面A欄17頁「中山プロ入り初の完投勝ち 大洋4-1ヤクルト」(読売新聞東京本社)</ref>、同年6月27日には対巨人戦([[後楽園球場]])で[[若菜嘉晴]]とバッテリーを組み先発し、巨人打線を計4被安打(6回2死まで無安打)に抑え、プロ入り初完封勝利(シーズン3勝目)を記録した<ref name="読売新聞1987-06-28">『読売新聞』1987年6月28日東京朝刊スポーツ面A欄「巨人、打線も湿り完敗 中山に4安打散発 大洋8-0巨人」(読売新聞東京本社)</ref>。10歳代(未成年)の投手が巨人戦で完封勝利を記録したのは<!--1968年4月20日に[[阪神タイガース]]・[[江夏豊]]が同じ後楽園球場で記録して以来-->当時20年ぶりのことで<ref name="88選手名鑑"/>、当時はエース・遠藤と同数の勝利数を稼ぐことを目標に掲げていた<ref name="読売新聞1987-05-22"/>。一方で古葉監督からは「先発の際には良い球と悪い球の落差がありすぎる」と指摘されていたほか、同年11月に[[静岡県]][[伊東市]]内で開かれた秋季キャンプ中には「自分は[[先発ローテーション]]入りして一人前になった」と自負していたところ、コーチたちから様々な注意・助言を受けたことに対し反抗的な態度を取った<ref name="週ベ1988-05-16"/>。そのため、[[寺岡孝]]ヘッドコーチから「やる気がないなら東京へ帰れ!」と鉄拳制裁を受けたが、それが意識改革を促すきっかけとなった<ref name="週ベ1988-05-16">{{Cite journal|和書|journal=週刊ベースボール|title=色々あったけど…ボクたち頑張ってます 序盤戦を彩った“七人のサムライ”の激闘録 斎藤(巨人)・村田(ロッテ)・伊藤(阪神)・村上(近鉄)・中山(大洋)・金沢(日本ハム)・古溝(阪急)『第5の男・中山裕章(大洋) まさに適材適所。金ちゃんのストッパー転向は古葉ちゃんのクリーンヒット』|volume=43|date=1988-05-16|issue=22|publisher=ベースボール・マガジン社|language=ja|pages=28-29}}(※1988年5月16日号・通巻第1701号)</ref>。 |
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:横浜市内では同年秋ごろから女児への連続強制わいせつ事件が発生していたことから<ref name="朝日新聞1991-12-26"/>、[[神奈川県警察]]が捜査本部を設置し<ref name="朝日新聞1991-12-26"/>、12日の事件を同一犯の仕業とみて<ref name="読売新聞1991-12-26"/>、被害が多発した時間帯に現場付近を捜査員が警戒するなど、張り込み捜査を進めていた<ref name="朝日新聞1991-12-26"/>。その結果、事件2日後の11月14日午後3時ごろ、白とグレーの[[メルセデス・ベンツ|ベンツ]]に乗った男が現場付近を約15分間うろついたり<ref name="中日新聞1991-12-26"/>、女児に声を掛けたりするなど<ref name="読売新聞1991-12-26"/>、不審な行動をしているのを<ref name="朝日新聞1991-12-26"/>捜査員が目撃し<ref name="中日新聞1991-12-26"/><ref name="朝日新聞1991-12-26"/>追跡捜査したところ<ref name="読売新聞1991-12-26"/>、その車のナンバープレートから中山が捜査線上に浮上した<ref name="朝日新聞1991-12-26"/>。 |
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;1991年12月25日、神奈川県警が中山を逮捕 |
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'''{{by|1988年}}'''シーズンは推定年俸1,180万円(前年比590万円増)で臨み<ref name="88選手名鑑"/>、古葉監督の提案で抑えに転向{{Efn2|それまでの抑え・[[齊藤明雄|斉藤明夫]]が抑え投手としては球速が遅かったことに加え、中山もオープン戦で先発をテストされたが、5回まで持たなかったため、抑えへの転向を命じられた<ref name="週ベ1988-07-25"/>。中山自身は「抑えの場合は調整法がわからないし、自分は先発を目指したい」と先発投手への強いこだわりを見せていたが、同年からは延長12回制となったため、古葉は「斉藤の前にもう1人抑えが欲しい。性格が強気で速い球を投げられる投手は中山しかいない。短いイニングなら集中力を持続でき、先発時に集中力を欠いてミスをすることも少ないだろう」という見立てで中山を抑えに抜擢した<ref name="週ベ1988-05-16"/>。}}<ref name="週ベ1988-07-25">{{Cite journal|和書|journal=週刊ベースボール|title=特集 '88型元気印ストッパーの“夏の陣” “初めての夏”に挑む3人の新ストッパー、中山(大洋)、伊東(ヤクルト)、河野(日本ハム)の武者震い『中山裕章(大洋)-“必殺のスライダー”を会得してストッパーの条件をすべて満たす。夏場も気力で克服!』|volume=43|date=1988-07-25|issue=33|publisher=ベースボール・マガジン社|language=ja|pages=30-31}}(※1988年7月25日号・通巻第1712号)</ref>。抑えに転向した当初は不安定な投球が続いたが、古葉は「中山と心中する」と宣言した<ref name="週ベ1988-05-16"/>。やがて中山も抑えに慣れ、戸惑いがなくなると抑えとして好成績を残せるようになった<ref name="週ベ1988-05-16"/>。同年は新たに[[スライダー (球種)|スライダー]]を会得したため、投球に余裕を持つことができるようになり<ref name="週ベ1988-07-25"/>、リーグ最多の70試合に登板し、10勝6敗24セーブ34セーブポイント・防御率2.28の成績を挙げ、[[中日ドラゴンズ]]・[[郭源治]]や[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]・[[牛島和彦]]に並び、「プロ野球を代表するストッパー」とうたわれた<ref name="89選手名鑑">{{Cite journal|和書|title='89プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第13巻第4号(通算:第126号 / 1989年3月号増刊)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1989-03-31|page=55}}</ref>。<!--最速150 km/hを記録する速球・[[フォークボール]]を武器にリリーフエースを務めた-->同年は救援投手ながら[[規定投球回]]に到達する活躍を見せたほか、[[1988年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]では第2戦・[[ナゴヤ球場]](7月25日)、第3戦・[[東京ドーム]](7月26日)と2戦連続で勝利投手となった<ref>{{Cite web|和書|title=1988年度サンヨーオールスターゲーム 試合結果|url=http://npb.jp/bis/scores/allstargame/linescore1988.html|publisher=NPB.jp [[日本野球機構]]|date=1988-07-26|language=ja|accessdate=2018-08-17|archivedate=2018年8月17日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180817130912/http://npb.jp/bis/scores/allstargame/linescore1988.html}}</ref>。また、同年11月5日開幕の[[日米野球]]大会([[読売新聞社]]主催)では全日本メンバーに選出されたほか<ref>『読売新聞』1988年11月2日東京朝刊スポーツ面A欄19頁「日米野球5日開幕 全日本52選手決まる 初戦は槙原先発 清原・桑田ら心待ち」(読売新聞東京本社)</ref>、11月19日に行われたセ・リーグの第10回東西対抗戦([[平和台野球場]])では東軍に選出された<ref>『読売新聞』1988年11月3日東京朝刊スポーツ面A欄19頁「プロ野球セリーグ東西対抗戦に17選手が初陣 19日・平和台球場で試合」(読売新聞東京本社)</ref>。同年オフは防御率リーグ3位など好成績を残したことを高く評価され、12月2日に推定年俸2,520万円(前年比200%アップ、1,340万円増)で契約更改した<ref>『読売新聞』1988年12月3日東京朝刊スポーツ面A欄19頁「大洋の中山が3倍で契約更改」(読売新聞東京本社)</ref>。 |
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:その後も同月中に中山が計4回現場に現れたのが目撃されたため<ref name="中日新聞1991-12-26"/>、神奈川県警が被害者の子どもたちに中山の顔写真を見せたところ、証言から「中山に間違いない」との結論が出た<ref name="朝日新聞1991-12-26"/>。同年11月中旬過ぎ時点では一部マスメディアに対し、「大洋の選手が逮捕される」という情報が流れてはいたが、地元紙記者は『[[週刊文春]]』([[文藝春秋社]])の取材に対し「同年10月1日に[[旭区 (横浜市)|旭区]]内で行方不明になった小学6年生少女の事件との関連を捜査したが、これはすぐに白と判明した。逮捕が年末までずれ込んだ最大の理由は、神奈川県警が『中山が地元球団のエース級投手である』ことから社会的影響を考え、テレビのワイドショー・週刊誌の休みとなる年末年始に逮捕・釈放できるように慎重にタイミングを計ったためだ」と証言した<ref name="週刊文春1992-01-16"/>。 |
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:これを受けて捜査本部は1991年12月25日朝から中山を[[被疑者]]として任意同行した上で追及したところ<ref name="朝日新聞1991-12-26"/>、中山は1991年11月12日の2事件について容疑を認める供述をした<ref name="中日新聞1991-12-26"/><ref name="朝日新聞1991-12-26"/>。このため1991年12月25日夕方、神奈川県警捜査一課・[[金沢警察署]]は[[強制わいせつ]]などの疑いで中山を[[逮捕 (日本法)|逮捕]]した<ref name="中日新聞1991-12-26">『[[中日新聞]]』1991年12月26日朝刊第一社会面23面「大洋・中山投手を逮捕 神奈川 少女に連続いたずら 『彼女に会えず不満』」</ref><ref name="朝日新聞1991-12-26">『[[朝日新聞]]』1991年12月26日朝刊第一社会面27面「大洋の投手を幼女いたずら容疑で逮捕 『不調で欲求不満』」</ref><ref name="読売新聞1991-12-26">『[[読売新聞]]』1991年12月26日東京朝刊第一社会面23面「プロ野球の中山裕章投手(大洋)を逮捕 幼女いたずら容疑」</ref>。取り調べに対し中山は、「11月上旬に腰などを痛めたため沖縄の秋季キャンプから帰ってきたが、婚約者の女性と会えず欲求不満が溜まっていた。(女性の)年齢が高いと、自分が『大洋の中山投手だ』と分かってしまうので小さな子を狙った。大変恥ずかしいことをしてしまった。深く反省している」などと供述した<ref name="中日新聞1991-12-26"/><ref name="朝日新聞1991-12-26"/><ref name="読売新聞1991-12-26"/>。 |
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右投げの[[速球]]派投手として活躍していた中山だったが<ref name="読売新聞1991-12-26"/>、大洋にとっては「即戦力」とみなされ、古葉監督時代にリリーフで酷使されたために肩・腰を痛めた<ref name="週刊文春1992-01-16"/>。 |
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:逮捕を受けて同日夜、大洋球団代表・桜井薫が横浜市中区内の球団事務所で会見し、「青少年に夢を与えるプロ野球選手がこのような事件を起こしてしまい誠に申し訳なく、深くお詫びする。球団としても管理不行き届きを陳謝したい。処分はあす(26日)決めるが、厳しい処分を考えざるを得ない」という、球団社長・岡崎寛のコメントを読み上げた<ref name="中日新聞1991-12-26"/><ref name="朝日新聞1991-12-26"/>。 |
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;逮捕時のファンなどの反応 |
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'''{{by|1989年}}'''シーズンは45試合に登板し、1勝10敗17セーブ・防御率4.10と大乱調に終わり<ref name="90選手名鑑" />、同年オフには推定年俸2,200万円(前年比320万円減)で契約更改した<ref name="90選手名鑑">{{Cite journal|和書|title='90プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第14巻第4号(通算:第138号 / 1990年3月号増刊)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1990-03-31|page=87}}</ref>。 |
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:プロ野球の現役スター選手が[[性犯罪]]で逮捕されたこの事件は大洋球団のみならず、神奈川県民・横浜市民や、プロ野球選手に憧れる少年を含めた野球ファン・球界関係者らにも大きな衝撃を与えた<ref name="朝日新聞1991-12-26-神奈川">『朝日新聞』1991年12月26日朝刊神奈川県版「球団やファンに衝撃 わいせつ容疑で大洋の投手逮捕 神奈川」</ref>。 |
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::地元・横浜市の[[高秀秀信]]市長は「ファンとして『将来の大洋ホエールズを背負って立つ若手投手』として期待していただけに、事実とすれば非常に残念だ。市長としては子供に対するそういう事件(性犯罪事件)は『市内で起きてはならないこと』と思う」<ref name="朝日新聞1991-12-26-神奈川"/>、[[日本野球機構]](NPB)・[[吉國一郎]][[コミッショナー (日本プロ野球)|コミッショナー]]は「驚いた。事件の様子を聞くと変質者だったのかもしれない。球団などからはまだ事情を聴いていないが『甚だ遺憾』の一言だ」と、それぞれ声明を出した<ref name="中日新聞1991-12-26"/>。 |
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'''{{by|1990年}}'''シーズンは[[先発ローテーション]]投手として復活<ref name="週刊文春1992-01-16" />。27試合に登板し、8勝12敗・防御率3.92の成績を残した<ref name="91選手名鑑">{{Cite journal|和書|title='91プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第15巻第4号(通算:第150号 / 1991年3月号増刊)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1991-03-31|page=53}}</ref>。同年4月7日の開幕戦(対[[中日ドラゴンズ]]戦・[[ナゴヤ球場]])では[[開幕投手]]を務めたが<ref name="読売新聞1990-04-08">『読売新聞』1990年4月8日東京朝刊スポーツA面19頁「セ・リーグ 新規定の引き分け再試合第1号 与田と佐々木の剛腕共演/中日5-5大洋(ナゴヤ球場=7日)」(読売新聞東京本社)</ref>、それから3週間にわたっては未勝利に終わっていた<ref name="毎日新聞1990-04-29" />。しかし4月28日の対[[阪神タイガース]]戦([[阪神甲子園球場]])で[[市川和正]]とバッテリーを組み、完投して阪神打線をわずか4安打に抑え、同年初勝利を3年ぶりの完封勝利で飾った{{Efn2|完封勝利はプロ入り2度目で<ref name="読売新聞1990-04-29">『読売新聞』1990年4月29日東京朝刊スポーツA面19頁「セ・リーグ 大洋10勝 中山が投げては完封、打っては決勝打の活躍/大洋1-0阪神(甲子園球場=28日)」(読売新聞東京本社)</ref>、5回表の攻撃時には一死三塁の場面で打席に立ち、自らセンター犠牲フライを放ち、1点(決勝点)を取った<ref name="毎日新聞1990-04-29"/>。この時、須藤は中山へのまじないとして試合前に母校・高知商高の校歌を自ら歌っていた<ref name="毎日新聞1990-04-29"/>。}}<ref name="毎日新聞1990-04-29">『毎日新聞』1990年4月29日東京朝刊第14版第二スポーツ頁「セ・リーグ 大洋1-0阪神 甲子園球場 中山、3年ぶり完封 阪神打線を4安打に」「効いた?!おまじない校歌」(毎日新聞東京本社)</ref>。同年は[[1990年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にも通算2度目の出場を果たし<ref name="読売新聞1991-12-26" />、オフの契約更改では12月25日に推定年俸2,630万円(前年比430万円増、前回交渉より130万円増)で契約更改した{{Efn2|12月6日に推定年俸2,450万円(前年比270万円増)を提示されたが、この時は保留した<ref>『読売新聞』1990年12月7日東京朝刊スポーツ面A欄19頁「大洋・野村が2000万円で契約更改 中山は保留」(読売新聞東京本社)</ref>。}}<ref>『読売新聞』1990年12月26日東京朝刊スポーツ面A欄19頁「大洋・高木が7100万円+タイトル料150万円で契約更改」(読売新聞東京本社)</ref>。この日は逮捕のちょうど1年前で、同日には入団後まもなく知り合った女性(当時21歳)と婚約{{Efn2|翌1991年オフに女性と挙式する予定だったが、同年は成績不振だったため、巻き返しを期して挙式を1992年オフに延期していた<ref name="宝石手記"/>。}}<ref name="週刊文春1992-01-16" />。 |
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::また逮捕のニュースを受け、当時同市[[磯子区]]の[[少年野球]]チームに投手として所属していた大洋ファンであった12歳の男子児童は『[[朝日新聞]]』の取材に対し、「中山投手には2年前(1990年)、抑えを務めていた時に握手してもらいサインももらった。初めて会ったプロ野球選手なので嬉しかったのにショックだ。大洋は投手の層もそれほど厚くないし、若手中心のチームだから大切な投手の1人なのに…」とコメントした<ref name="朝日新聞1991-12-26-神奈川"/>。熱烈な大洋ファンとして知られていた作家の[[中野孝次]]は「これからのチームを担う中心選手として中山を一番頼りにしていたのに、裏切られた思いだ。プロの世界は誘惑が多いので、[[八百長]]みたいな事件ならまだ同情の余地が残るが、今回は人間として最低の行為。絶対に許せない」と憤った<ref name="朝日新聞1991-12-26-神奈川"/>。 |
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;逮捕後の大洋球団などの対応 |
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'''{{by|1991年}}'''シーズンも2年連続で開幕投手を務めた<ref name="神奈川新聞1991-12-26 文平" />。同年は春先こそ好調だったが、6月8日の試合<ref name="神奈川新聞1991-12-26 文平" />([[札幌市円山球場]]・中日戦)<ref name="神奈川新聞1991-12-27 文平">『神奈川新聞』1991年12月27日B版第一社会面19頁「断面 “落ちたエース”中山容疑者 先輩を裏切る 須藤監督 同窓をチームの柱に…辛抱の起用むなし」(神奈川新聞社 運動部記者:文平英樹)</ref>で6点リードを守れず降板<ref name="神奈川新聞1991-12-26 文平" />。それ以降は成績が下降し、夏場は先発で6連敗するなどエースとしての期待に応えきれず、8月には二軍落ちした{{Efn2|当時中山を指導していた二軍投手コーチ・[[野村収]]は『神奈川新聞』運動部記者・文平英樹の取材に対し「当時も悩んでいた様子はなかった」と証言した<ref name="神奈川新聞1991-12-27 文平"/>。}}<ref name="神奈川新聞1991-12-26 文平" />。同年は27試合に登板(先発20試合)して8勝10敗・防御率4.20の成績で、規定投球回数到達選手20人中ではリーグ最下位の成績だった<ref name="92選手名鑑">{{Cite journal|和書|title='92プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第16巻第4号(通算:第162号 / 1992年3月号増刊)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1992-03-31|page=218}}</ref>。 |
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:翌26日午前9時から<ref name="中日新聞1991-12-26-夕刊"/>、大洋球団は球団事務所で<ref name="中日新聞1991-12-26-夕刊"/>、岡崎球団社長、若生照元・球団本部長ら球団幹部6人と、[[弁護士]]2人の計8人で<ref name="中日新聞1991-12-27"/>、中山に対する処分を決める緊急幹部会議を開いた<ref name="中日新聞1991-12-26-夕刊">『中日新聞』1991年12月26日夕刊第一社会面11面「大洋球団 中山投手、契約白紙に 捜査結論待ち最終処分」</ref>。その結果、球団は中山との翌年度の契約を白紙に戻し<ref name="中日新聞1991-12-26-夕刊"/>、[[日本プロフェッショナル野球協約]]第66条に基づき「次年度選手契約締結の権利を保留する選手」(保留選手)、すなわちこの時点では「契約未更改の大洋選手」扱いとした<ref name="読売新聞1991-12-26-夕刊"/>。そして処分は捜査当局の結論を待った上で、解雇も含めた厳しく対応することを決めた<ref name="中日新聞1991-12-26-夕刊"/><ref name="中日新聞1991-12-27"/><ref name="読売新聞1991-12-26-夕刊">『読売新聞』1991年12月26日東京夕刊第二社会面14面「少女いたずら事件 中山投手の契約破棄 大洋が保留選手扱いに」</ref>。約1時間半の会議終了後、記者会見に応じた岡崎球団社長は「夢を与えるプロ野球関係者がこのような事件を起こしたことに対し、深く反省するとともに、被害者やその家族の皆様に深くお詫びする」とコメントし、深々と頭を下げた<ref name="中日新聞1991-12-26-夕刊"/>。 |
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:同日、故郷・高知県に帰省中だった須藤監督も事件を受けて急遽横浜市へ戻り球団事務所入りした<ref name="中日新聞1991-12-27">『中日新聞』1991年12月27日朝刊第一スポーツ面23面「中山逮捕で大揺れ大洋 須藤監督、進退を一任」</ref>。須藤は高校の後輩である中山の不祥事に責任を痛感し、身柄を球団に一任した上で、監督解任を含め自身へのペナルティを申し出た<ref name="中日新聞1991-12-27"/>。これに対し、岡崎球団社長は「須藤自身へのペナルティは考えるが須藤の監督解任は考えていない」と語った<ref name="中日新聞1991-12-27"/>。同日、夕方から岡崎・須藤両名に加え、桜井球団代表・岡田典一総務部長らが加わり善後策の協議を重ねた<ref name="中日新聞1991-12-27"/>。 |
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プロ入りから同年シーズン終了までの6年間で通算32勝53敗44セーブの成績を挙げ<ref name="読売新聞1991-12-26"/>、大洋球団のエース級投手として活躍しており<ref name="中日新聞1991-12-26"/>、シーズン終了後の同年12月6日には翌{{by|1992年}}度の契約について推定年俸2,650万円(現状維持)で契約更改していた{{Efn2|本来は減額提示だったが「来年の期待料込み」で現状維持となっており、更改後には「今年は途中から気持ちの切り替えができなくなってしまった。来年は制球にも気をつけて勝ち星を取りこぼさないよう気を付けたい」と話していた<ref name="神奈川新聞1991-12-26 文平"/>。}}<ref>『読売新聞』1991年12月7日東京朝刊スポーツ面A欄21頁「大洋・佐々木投手が1500万円増の2550万円で契約更改」(読売新聞東京本社)</ref><ref name="中日新聞1991-12-26-夕刊"/>。また同年10月には[[横浜市]][[緑区 (横浜市)|緑区]][[若草台]](現:横浜市[[青葉区 (横浜市)|青葉区]]若草台)に約1億1,800万円で2階建ての新築住宅を建て{{Efn2|しかし事件後、この新居は借金が1億円以上残り、維持できなくなったため売りに出された<ref name="週刊文春1992-GW">{{Cite journal|和書|journal=週刊文春|title=ワイド特集 花と嵐の烙印 11 球界を追放された大洋「中山投手」の再就職|volume=34|date=1992-05-07|issue=17|publisher=文藝春秋社|language=ja|author=|pages=160-162}}(※1992年4月30日・5月7日ゴールデンウィーク特別号。通巻第1856号)</ref>。}}<ref name="週刊現代1992-02-22">{{Cite journal|和書|journal=[[週刊現代]]|title=逮捕から50日、“謹慎明け”の胸中を初めて 堕ちたエース中山裕章の痛恨懺悔 「チーム内いじめに遭い精神的に不安定になって」|volume=34|date=1992-02-22|issue=7|publisher=[[講談社]]|language=ja|author=|pages=32-34}}(※1992年2月22日号・通巻第1680号)</ref>、郷里・高知市内に暮らしていた両親・姉{{Efn2|裕章の両親・姉は事件後に帰郷した<ref name="宝石手記"/>。両親は息子・裕章が起こした事件の影響で親しかった人と疎遠になったり、周囲の人々に謝罪することを余儀なくされたりしたが、息子が現役復帰を果たすまで献身的に支え続けた<ref name="週刊アサヒ芸能2004-05-20"/>。}}も含めて5人で新生活を送っていた<ref name="宝石手記"/>。 |
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:また[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座]]の[[日本野球機構]](NPB)会議室でも[[吉國一郎]]NPBコミッショナー・[[川島廣守]][[セントラル・リーグ]]会長・[[原野和夫]][[パシフィック・リーグ]]会長ら球界首脳が出席し、実行委員会を開いた<ref name="中日新聞1991-12-27"/>。セ・リーグは実行委員会後、緊急理事会を招集し、川島が「さらに管理の徹底に注意してほしい」と強く訴え、桜井球団代表が「迷惑をかけて申し訳ない」と、全理事に対し謝罪した<ref name="中日新聞1991-12-27"/>。その後、川島・桜井両名が記者会見し、川島は「今回の事件でプロ野球の信用が失われ、取り返しがつかない。同情の余地は全くない。球団は厳重に処分すべきだ」と語った<ref name="中日新聞1991-12-27"/>。 |
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:神奈川県警捜査一課・金沢署は同日(1991年12月26日)午後、強制わいせつなどの容疑で中山を[[横浜地方検察庁]]に[[送検]]した<ref name="中日新聞1991-12-27-送検">『中日新聞』1991年12月27日朝刊第二社会面26面「中山投手を送検」</ref>。中山は同日、金沢署の取り調べに対し、逮捕容疑の強制わいせつ事件2件に加え「2件の事件と同じ1991年11月12日、金沢区内で小学4年生の女子児童(当時10歳)に対し体を触るなどのいたずらをした」ことを自供した<ref name="読売新聞1991-12-27">『読売新聞』1991年12月27日東京朝刊第一社会面23面「少女にいたずらの大洋ホエールズの中山投手 3件目も自供」</ref>。同事件は神奈川県警もこの時点まで把握していなかったため、余罪を追及すべく<ref name="週刊文春1992-01-16"/>、捜査一課などは金沢区内で発生した別の少女らへのわいせつ事件との関連などを調べるとともに<ref name="中日新聞1991-12-27-送検"/>、3件目の犯行についても裏付けが取れ次第、被疑者・中山を追送検する方針を決めた<ref name="読売新聞1991-12-27"/>。その上で神奈川県警金沢署捜査本部は事件証拠の裏付けとして被疑者・中山の血液を採取した上で、事件の際に残された犯人の資料とともに[[科学警察研究所]]に提出し、[[DNA型鑑定]]を実施することを決めた<ref>『毎日新聞』1991年12月26日東京夕刊第一社会面11面「わいせつ容疑の中山投手のDNA鑑定決める 大洋球団は契約白紙に」</ref><ref>『毎日新聞』1991年12月26日大阪夕刊第二社会面10面「小学女児にいたずらした容疑の中山裕章容疑者もDNA鑑定へ」</ref>。 |
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=== 連続強制わいせつ事件 === |
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:同年12月27日、岡崎球団社長・桜井球団代表は東京都[[千代田区]][[大手町 (千代田区)|大手町]]の[[マルハ|大洋漁業]]本社にて[[中部慶次郎]]球団オーナーに事件の報告をした<ref name="中日新聞1991-12-28">『中日新聞』1991年12月28日朝刊第一スポーツ面19面「大洋、全選手に文書 自己管理呼びかけ」「マウンドに立つのは難しい 吉国プロ野球コミッショナー 中山問題で見解」</ref>。さらに両者は東京・内幸町のコミッショナー事務局、セントラル・リーグ事務局もそれぞれ訪れ、吉國NPBコミッショナーや川島セ・リーグ会長に対し、それぞれ「ご迷惑をおかけします」と陳謝した<ref name="中日新聞1991-12-28"/>。岡崎はこの際、苦渋に満ちた声で「今年は(開幕投手を務めた)中山で始まり、中山の大暴投で終わった」と話した<ref name="AERA 1992">[[週刊誌]]『[[AERA]]』([[朝日新聞社]])1992年1月14日号 p.68「夢をアワと消えさせる心のもろさ 中山投手逮捕(先週今週・事件)」(運動部記者<東京>:[[速水徹]])</ref>。 |
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'''※以下、肩書などはいずれも当時のものとする。また時刻はいずれも[[日本標準時]](JST・[[UTC+9]])で統一する。''' |
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:また大洋球団は同日、所属全選手に中山の契約白紙処分について球団の方針を説明した上で、岡崎社長名義で自己管理を呼び掛けた文書を発送した<ref name="中日新聞1991-12-28"/>。同日、吉國NPBコミッショナーはコミッショナー事務局にて記者会見し、日本プロ野球の最高責任者として初めて本事件についての考えを明らかにした<ref name="中日新聞1991-12-28"/>。吉國は「中山投手が再びマウンドに立つのは難しいでしょうか?」との質問に対し、「事件が事件だけに難しいでしょう。DNA型鑑定もするというし、報道されている警察の発表が事実なら残念だ」と、厳しい見解を示した<ref name="中日新聞1991-12-28"/>。 |
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;1992年1月、横浜地検が不起訴処分、神奈川県警が中山を釈放 |
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1991年11月上旬、肩・腰などを痛めたことで[[沖縄県|沖縄]]の秋季キャンプから離脱。それ以降は[[横浜DeNAベイスターズ総合練習場|横浜大洋ホエールズ総合練習場]]([[神奈川県]][[横須賀市]]長浦町)で練習していたが<ref name="神奈川新聞1991-12-26"/>、「何をやっても嫌な状態で野球に対するやる気がなくなり、精神的に不安定な状態」に陥っていた{{Efn2|また、中山と仲が良かったという当時の同僚・[[高橋雅裕]]は「(当時の中山は)肩の調子が悪く、高校の先輩の須藤監督から小言を多く言われてストレスを溜めていた。また、私生活でつらいことが多かった」と証言している<ref>{{Cite news|title=【高橋雅裕 連載コラム】須藤監督の下にいるくらいならトレードに出してほしい|newspaper=[[東京スポーツ|東スポWeb]]|date=2020-07-14|author=[[高橋雅裕]]|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/baseball/npb/1976478/|accessdate=2020-10-17|publisher=東京スポーツ新聞社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201017143657/https://www.tokyo-sports.co.jp/baseball/npb/1976478/|archivedate=2020年10月17日}}</ref>。}}<ref name="週刊アサヒ芸能2004-05-20"/>。1991年11月12日15時5分ごろ、中山は横浜大洋ホエールズ総合練習場での練習後、自宅(横浜市緑区若草台)へ車で帰宅途中<ref name="神奈川新聞1991-12-26">『[[神奈川新聞]]』1991年12月26日B版第一社会面23頁「大洋・中山投手が“暴投” 金沢区で2少女にいたずら 県警逮捕 婚約中、練習帰りに 張り込み、ベンツで出没」(神奈川新聞社)</ref>、横浜市[[金沢区]][[六浦|六浦町]]の住宅街で近隣住民の小学4年生女子児童(事件当時10歳)に対し、スカートの裾から手を入れた<ref name="週刊新潮1992-01-16"/>。その直後となる同日15時10分ごろには、住宅街で小学5年生少女(当時11歳)に対し自身の下半身を露出したままスカートの上から尻を触る<ref name="週刊新潮1992-01-16"/>、さらに同日15時15分ごろ、同所付近にあった建物の階段にて帰宅途中だった幼稚園女児(当時6歳)をいきなり後ろから抱き上げ<ref name="神奈川新聞1991-12-26"/>、下着を脱がせた<ref name="週刊文春1992-01-16">{{Cite journal|和書|journal=[[週刊文春]]|title=下半身吠えーるず 問われる大洋の身の下管理 哀れ!人生を棒に振ったロリコンエース中山裕章|volume=34|date=1992-01-16|issue=2|publisher=[[文藝春秋社]]|language=ja|author=|pages=191-193}}(※1992年1月16日新春特別号・通巻第1668号)</ref>。 |
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:翌{{by|1992年}}1月4日までに逮捕容疑の強制わいせつ罪2件について<ref name="読売新聞1992-01-05"/>、中山と被害者との間で[[示談]]が成立したため、いずれも被害者側が告訴を取り下げた<ref name="中日新聞1992-01-05"/><ref name="朝日新聞1992-01-05"/><ref name="読売新聞1992-01-05"/>。 |
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:これを受けて横浜地検は同日、[[親告罪]]である同罪について被疑者・中山を1992年1月6日付で不処分とした上で、残る公然わいせつ罪については「既に社会的制裁を受けており本人も深く反省している」として、同じく1992年1月6日付で[[起訴猶予処分]]とすることを決めた<ref name="中日新聞1992-01-05">『中日新聞』1992年1月5日朝刊第一社会面31面「中山投手きょう釈放 横浜地検が起訴猶予方針 『既に社会的制裁』」</ref><ref name="朝日新聞1992-01-05">『朝日新聞』1992年1月5日朝刊第一社会面31面「プロ野球・大洋の投手をきょう釈放 起訴猶予の方針 横浜地検」</ref><ref name="読売新聞1992-01-05">『読売新聞』1992年1月5日東京朝刊第一社会面27面「プロ野球大洋の中山投手釈放へ 『強制わいせつ』不起訴/横浜地検」</ref>。その上で横浜地検は同日、勾留期限の切れる翌5日付で中山を釈放することを決めた<ref name="中日新聞1992-01-05"/><ref name="朝日新聞1992-01-05"/><ref name="読売新聞1992-01-05"/>。 |
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[[神奈川県警察]]が事件現場周辺を調べたところ、現場には犯人の体液が遺留されていた。また、「犯人が犯行後に被害者へ手を振り『バイバイ』と声をかけていた」とする証言も得られた<ref name="週刊新潮1992-01-16"/>。横浜市内では同年秋ごろから女児への連続強制わいせつ事件が発生していたため、県警は[[捜査本部]]を設置した上で<ref name="朝日新聞1991-12-26"/>、12日の事件を同一犯による犯行と推測し{{Efn2|被害者3人はいずれも同じ団地の住人で、事件現場となった団地中庭は住宅街の中でも人通りが比較的少なく、以前から痴漢が出没していた場所だったため、地元の警察署(金沢署)が街角・公園などに「変質者に注意」という内容の看板を掲げていた<ref name="週刊新潮1992-01-16"/>。}}<ref name="読売新聞1991-12-26"/>、被害が多発した時間帯に捜査員が現場付近を警戒するなど、張り込み捜査を進めていた<ref name="朝日新聞1991-12-26"/>。その結果、2日後(11月14日15時ごろ)には<ref name="中日新聞1991-12-26"/>、ツートンカラー(白・グレー)の[[メルセデス・ベンツ|ベンツ]]{{Efn2|ベンツは大洋解雇後、元婚約者側の手に渡った<ref name="週刊新潮1994-08"/>。中日時代の1998年版選手名鑑([[日刊スポーツ出版社]])では「愛車は[[トヨタ・セルシオ]]」<ref>{{Cite book|和書|title='98プロ野球選手写真名鑑|publisher=日刊スポーツ出版社|date=1998-04-18|series=日刊スポーツグラフ|isbn=978-4817205421|page=56}}</ref>、1999年版選手名鑑([[ベースボール・マガジン社]])では「愛車は[[レクサス]]」と紹介されていた<ref name="99選手名鑑bbm"/>。}}に乗った若い男が現場付近で車を降りて周辺を約15分間うろついたり<ref name="神奈川新聞1991-12-26"/>、女児に声を掛けたりするなど<ref name="読売新聞1991-12-26"/>、不審な行動を取る姿が捜査員により確認された<ref name="神奈川新聞1991-12-26"/>。当該車両のナンバー照会から中山が割り出され、ベンツを尾行して捜査を続けたところ<ref name="神奈川新聞1991-12-26"/>、その後も同月中の計4回にわたり現場でうろつく中山の姿が目撃された<ref name="中日新聞1991-12-26"/>。さらに、中山の顔写真を確認した被害者児童らの証言から「中山に間違いない」との結論が出た{{Efn2|被害者少女が犯人の顔を覚えていたため<ref name="週刊新潮1992-01-16"/>、近隣では事件発生とほぼ同じ11月中旬ごろから子供たちの間で「ベンツに乗ったパンダ顔の男に気を付けよう」という話が広まっており、地元の小学校は在校児童たちに注意を呼び掛けたほか、町内会でも痴漢に注意するよう回覧板を回したり、子供会の集会などでも16時30分を過ぎると親が子供を迎えに行くなど自衛策を講じていた<ref name="信じられぬ">『神奈川新聞』1991年12月26日B版第一社会面23頁「大洋・中山投手が“暴投” 金沢区で2少女にいたずら 県警逮捕 ファン『信じられぬ』地元では回覧板回し注意」(神奈川新聞社)</ref>。}}<ref name="朝日新聞1991-12-26"/>。 |
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:同じく1992年1月4日、[[中日ドラゴンズ|中日]]・[[落合博満]]選手が横浜市内でトークショーを開いた<ref name="中日新聞1992-01-05-落合">『中日新聞』1992年1月5日朝刊第一スポーツ面25面「脱衣室」</ref>。中山の事件はプロ野球のスター選手が引き起こした事件とあって、社会的影響は計り知れなく大きく、球界の風当たりも「解雇」「永久追放」が囁かれるなど厳しい情勢にあったが、事件について言及した落合は「情状酌量の余地があるならば」と前置きした上で、「(中山を)切り捨てるのは簡単だが、将来のことを考えると球界復帰への道をつけてやってもいいのではないか」と『中日新聞』曰く「注目すべき発言」をした<ref name="中日新聞1992-01-05-落合"/>。その上で落合は「この事件で(球界を引退して)社会に復帰したとしても中山を受け入れてくれるところはもうないだろう。それなら『更生の道は野球から着けてやるべきでは』と思うんだ」と訴えた<ref name="中日新聞1992-01-05-落合"/>。 |
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:1992年1月5日未明<ref name="中日新聞1992-01-06-no.1"/>、横浜地検の取り調べを受けていた中山は[[処分保留]]のまま拘置先の金沢署から釈放された<ref>『中日新聞』1992年1月6日朝刊第二社会面26面「中山投手を釈放 横浜地検」</ref><ref>『読売新聞』1992年1月6日東京朝刊第二社会面30面「わいせつの横浜大洋・中山投手を釈放/横浜地検」</ref>。中山は釈放後、緑区内の自宅に帰宅し、午後になって若生球団本部長・荒木球団管理部長と面接した<ref name="中日新聞1992-01-06-no.1"/>。約1時間にわたって中山から事情を聴いた若生は「中山は反省の色が濃い」と語った<ref name="中日新聞1992-01-06-no.1">『中日新聞』1992年1月6日朝刊第一スポーツ面23面「中山投手釈放 大洋、きょうにも球団処分 若生本部長 『反省の色濃い』」</ref>。これに先立ち岡崎球団社長は球団事務所で記者会見し、100人近い報道陣を前に「事件の被害者やご家族に多大なご迷惑をおかけし、社会をお騒がせしましたことを心からお詫び申し上げます」と陳謝した<ref name="中日新聞1992-01-06-no.1"/>。球団側は中山の事情聴取を終えたことで、翌6日にも処分を決めることとなった<ref name="中日新聞1992-01-06-no.1"/>。 |
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一方、中山は逮捕前の同年12月16日から23日にかけ<ref name="神奈川新聞1991-12-26 文平"/>、[[山形県]]・大野目温泉で<ref name="神奈川新聞1991-12-27 大暴投">『神奈川新聞』1991年12月27日A版第一スポーツ面19頁「中山、未聞の“大暴投” 揺れる球界、大洋(上) 選手管理再考の声も」(神奈川新聞社 運動部記者:文平英樹)</ref>若手投手らの自主トレーニングに参加し、逮捕される前日(24日)朝に横浜へ帰っていた<ref name="神奈川新聞1991-12-26 文平"/>。また24日昼には買い物のため外出していたところ、横浜市中区内の球団事務所があるビルの入口で大洋球団社長・岡崎寛と偶然顔を合わせ、普段通り挨拶をしていた<ref>『神奈川新聞』1991年12月26日B版第一スポーツ面17頁「大洋・中山不祥事『エース』がなぜ… 岡崎社長、戸惑い隠せず」(神奈川新聞社)</ref>。 |
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:翌1992年1月6日、横浜地検は公然わいせつ容疑について「既に社会的制裁を受けている」として起訴猶予処分とした<ref>『中日新聞』1992年1月6日夕刊第一社会面11面「起訴猶予処分決まる 中山投手」</ref>。不起訴処分が決まったことを受けて同日、大洋球団は須藤監督の「中山を何とか更生させたい」という思いの下、中山を球団に所属させたまま「無期限謹慎処分」に処する上で、著しい反省の色・社会情勢の変化などを見て処分を有期限に緩和することをセ・リーグ連盟に打診したが、連盟は「球団の処分は甘すぎる。社会的な償いを受けることは避けられない」として、処分差し戻しを求めた<ref name="週刊ベースボール1992-01-27">『[[週刊ベースボール]]』1992年1月27日号 p.110-115「中山事件を考えるPART.1 『Wの悲劇』解雇処分決定までの須藤大洋ホエールズの苦悩と苛立ち!」「中山事件を考える PART.2 前代未聞の事件を関係者、ファンはどうとらえたか?」([[ベースボール・マガジン社]])</ref>。これを受けて須藤監督は戸惑ったが、結果的には連盟の対応に従い中山の契約解除に至った<ref name="週刊ベースボール1992-01-27"/>。 |
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;大洋球団が中山を解雇、川島廣守セ・リーグ会長が「無期限契約自粛」を呼び掛け、NPBが自由契約公示 |
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==== 逮捕・送検 ==== |
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:この事件は野球協約統一契約書様式第17条(模範行為)に違反するものであることから<ref name="中日新聞1991-12-27"/>、大洋球団は野球協約に基づき<ref name="中日新聞1991-12-27"/>、1992年1月7日付で保留選手扱いだった中山を解雇し、中山の保留権を放棄した上で<ref name="中日新聞1992-01-08"/>、統一契約書式第26条に基づき<ref name="中日新聞1992-01-08-解説"/>、中山を[[自由契約]]選手とすることを発表した<ref name="中日新聞1992-01-08">『中日新聞』1992年1月8日朝刊第二社会面26面「大洋 中山投手を解雇 球団社長らも処分 復帰は事実上無理」</ref><ref name="読売新聞1992-01-08">『読売新聞』1992年1月8日東京朝刊第一社会面31面「わいせつの中山投手を解雇処分/大洋球団」</ref><ref name="読売新聞1992-01-08-スポーツ">『読売新聞』1992年1月8日東京朝刊スポーツ面A欄19面「大洋球団の中山投手解雇 やむを得ぬ厳罰 マウンド復帰ほぼ絶望」</ref>。横浜地検からは既に不起訴・起訴猶予処分で釈放されており前途もある中山に対し、あえて「野球生命を事実上絶つ」という厳しい処罰を下した背景には、「子供たちに夢を与える職業にありながら、その子供たちを真っ向から裏切る犯罪を犯した」という社会的影響の大きさを深く考慮した結果だった<ref name="読売新聞1992-01-08-スポーツ"/>。 |
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捜査結果を受け、1991年12月25日朝から中山を[[被疑者]]として任意同行した。容疑への追及に対し、1991年11月12日に起きた二つの事件(それぞれ11歳・6歳の女児2人に対する強制わいせつ・公然わいせつ事件。時系列順では2・3件目)についていずれも容疑を認める供述をしたため、神奈川県警捜査一課・[[金沢警察署]]は同日夕方に[[強制わいせつ罪|強制わいせつ]]・[[公然わいせつ罪|公然わいせつ]]の容疑で中山を[[逮捕 (日本法)|逮捕]]した{{Efn2|11月中旬過ぎ時点で一部マスメディアに「大洋の選手が逮捕される」という情報が流れていたが、地元紙記者は『[[週刊文春]]』([[文藝春秋社]])の取材に対し「同年10月1日に[[旭区 (横浜市)|旭区]]内で行方不明になった小学3年生の少女の事件との関連を捜査したが、これはすぐにシロと判明した。逮捕が年末までずれ込んだ最大の理由は、神奈川県警が『中山が地元球団のエース級投手である』ことから社会的影響を考え、テレビのワイドショー・週刊誌の休みとなる年末年始に逮捕・釈放できるよう、慎重にタイミングを計ったためだ」と証言した<ref name="週刊文春1992-01-16"/>。}}<ref name="神奈川新聞1991-12-26"/>。取り調べに対し中山は「11月上旬に腰などを痛めたため沖縄の秋季キャンプから帰ってきたが、婚約者の女性と会えず欲求不満が溜まっていた。(女性の)年齢が高いと自分が『大洋の中山投手だ』と分かってしまうので小さな子を狙った。大変恥ずかしいことをしてしまった。深く反省している」などと供述した<ref name="中日新聞1991-12-26">『[[中日新聞]]』1991年12月26日朝刊第一社会面23頁「大洋・中山投手を逮捕 神奈川 少女に連続いたずら 『彼女に会えず不満』」([[中日新聞社]])</ref><ref name="朝日新聞1991-12-26">『[[朝日新聞]]』1991年12月26日東京朝刊第一社会面27頁「大洋の投手を幼女いたずら容疑で逮捕 『不調で欲求不満』」([[朝日新聞東京本社]])</ref><ref name="読売新聞1991-12-26">『[[読売新聞]]』1991年12月26日東京朝刊第一社会面23頁「プロ野球の中山裕章投手(大洋)を逮捕 幼女いたずら容疑」([[読売新聞東京本社]])</ref>。 |
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:野球協約上「自由契約選手」の中山は他11球団とは契約できる形式ではあったが、「世間を騒がせ球界のイメージを著しく汚した破廉恥なわいせつ行為」(『中日新聞』1992年1月8日朝刊、記者:[[会田豊彦]])で逮捕された中山の獲得に直ちに動く球団はなく<ref name="中日新聞1992-01-08-解説">『中日新聞』1992年1月8日朝刊第一スポーツ面23面「解説/ 中山投手解雇 『失格』避け復帰に細道 更生が条件 厳しさの中に温情も」(記者:[[会田豊彦]])</ref><ref name="読売新聞1992-01-08-スポーツ"/>、推定年俸2,650万円という収入が絶たれた中で孤独な練習を長期間続けて「プロの投手の実力」を保つのは、精神的・物理的にも至難の業だった<ref name="読売新聞1992-01-08-スポーツ"/>。 |
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:また、川島セ・リーグ会長が声明文の中で「中山選手本人が社会的に立派に更生できるということが確認される時点まで『全12球団が中山選手との選手契約を無期限に行わないようにお願いしたい』」(無期限契約自粛)と要望したことから、球界復帰は可能性こそ残されたものの極めて困難なものとなった<ref name="中日新聞1992-01-08-解説"/>。その一方で中山は「失格選手」の烙印を押されれば今後、「野球以外の道を歩むことさえ大きな障害になる」ことから、実質的に形式上とはいえ復帰への道を残したのは「せめてもの温情」とされた<ref name="読売新聞1992-01-08-スポーツ"/>。 |
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県警捜査一課{{Efn2|また捜査一課は身体検査令状などに基づき<ref name="神奈川新聞1991-12-27 送検"/>、事件証拠の裏付けとして被疑者・中山の血液を採取した上で、その血液を事件の際に残された犯人の資料とともに[[科学警察研究所]]へ提出して[[DNA型鑑定]]を実施した<ref>『毎日新聞』1991年12月26日東京夕刊第一社会面11頁「わいせつ容疑の中山投手のDNA鑑定決める 大洋球団は契約白紙に」([[毎日新聞東京本社]])</ref><ref>『毎日新聞』1991年12月26日大阪夕刊第二社会面10頁「小学女児にいたずらした容疑の中山裕章容疑者もDNA鑑定へ」([[毎日新聞大阪本社]])</ref>。}}・金沢署は1991年12月26日午後、強制わいせつなどの容疑で中山を[[横浜地方検察庁]]に[[送致#概要|送検]]したが<ref name="中日新聞1991-12-27-送検">『中日新聞』1991年12月27日朝刊第二社会面26頁「中山投手を送検」(中日新聞社)</ref>、中山は捜査一課・金沢署による取り調べに対し、逮捕容疑の強制わいせつ2件に加え「2件の事件と同じ1991年11月12日、小学4年生の女子児童(当時10歳)の体を触るなどわいせつ行為をした」と3件目(時系列順では最初)の犯行を自供した<ref name="神奈川新聞1991-12-27 送検">『神奈川新聞』1991年12月27日B版第一社会面19頁「中山容疑者を送検 DNA鑑定へ」(神奈川新聞社)</ref><ref name="読売新聞1991-12-27">『読売新聞』1991年12月27日東京朝刊第一社会面23頁「少女にいたずらの大洋ホエールズの中山投手 3件目も自供」(読売新聞東京本社)</ref>。このため、横浜地検は翌日(12月27日)午後に「逮捕容疑2件の立証のほか、ほかの類似事件との関連についても取り調べるため」として横浜地裁へ中山の10日間拘置を請求<ref>『神奈川新聞』1991年12月28日B版第一社会面19頁「大洋・中山容疑者 10日間の拘置」(神奈川新聞社)</ref>。中山は10歳女児に対する事件に関しても強制わいせつ容疑で横浜地検へ追送検されたが<ref name="神奈川新聞1992-01-05">『神奈川新聞』1992年1月5日B版第一社会面21頁「中山投手 釈放へ 地検『示談成立、制裁受けた』」(神奈川新聞社)</ref>、翌{{by|1992年}}1月4日までに逮捕容疑の強制わいせつ2件について<ref name="読売新聞1992-01-05"/>、中山と被害者との間で[[示談]]が成立したため{{Efn2|この時、『週刊新潮』の大洋担当記者は「中山と被害者3家族との間に示談が成立したが、大洋球団が1家族につき1,000万円=計3,000万円の示談金を肩代わりした」と証言した<ref name="週刊新潮1992-01-30">{{Cite journal|和書|journal=週刊新潮|title=TEMPO スポーツ プロ復帰はあるのか「中山」の前途|volume=37|date=1992-01-30|issue=4|publisher=新潮社|language=ja|author=|page=22}}(※1992年1月30日号。通巻第1843号)</ref>。}}、いずれも被害者側が告訴を取り下げた<ref name="中日新聞1992-01-05"/><ref name="朝日新聞1992-01-05"/><ref name="読売新聞1992-01-05"/>。これを受け、横浜地検は同日に[[親告罪]]である同罪については不処分とし、公然わいせつ罪についても「既に社会的制裁を受けており本人も深く反省している」として起訴猶予処分とすることを決めた<ref name="中日新聞1992-01-05">『中日新聞』1992年1月5日朝刊第一社会面31頁「中山投手きょう釈放 横浜地検が起訴猶予方針 『既に社会的制裁』」(中日新聞社)</ref><ref name="朝日新聞1992-01-05">『朝日新聞』1992年1月5日東京朝刊第一社会面31頁「プロ野球・大洋の投手をきょう釈放 起訴猶予の方針 横浜地検」(朝日新聞東京本社)</ref><ref name="読売新聞1992-01-05">『読売新聞』1992年1月5日東京朝刊第一社会面27頁「プロ野球大洋の中山投手釈放へ 『強制わいせつ』不起訴/横浜地検」(読売新聞東京本社)</ref>。その上で地検は同日、勾留期限の切れる翌5日付で中山を釈放することを決め<ref name="神奈川新聞1992-01-05"/><ref name="中日新聞1992-01-05"/><ref name="朝日新聞1992-01-05"/><ref name="読売新聞1992-01-05"/>、中山は[[処分保留]]のまま拘置先である金沢署から釈放された<ref>『神奈川新聞』1992年1月6日A版第一社会面23頁「中山投手を釈放 地検 帰宅後、球団が本格調査」(神奈川新聞社)</ref><ref>『中日新聞』1992年1月6日朝刊第二社会面26頁「中山投手を釈放 横浜地検」(中日新聞社)</ref><ref>『読売新聞』1992年1月6日東京朝刊第二社会面30頁「わいせつの横浜大洋・中山投手を釈放/横浜地検」(読売新聞東京本社)</ref>。横浜地検は翌日(1992年1月6日)付で強制わいせつ容疑について「被害者との示談が成立し告訴が取り下げられた」ことを理由に不起訴処分としたほか、公然わいせつ容疑についても起訴猶予処分とした<ref>『神奈川新聞』1992年1月7日B版第一社会面21頁「釈放の中山投手 地検が起訴猶予」(神奈川新聞社)</ref>。 |
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:またこれに加えて、大洋球団は須藤監督に戒告処分、岡崎社長・桜井球団代表に対しては同日からの1年間にわたり8%の減俸処分をそれぞれ科した<ref name="中日新聞1992-01-08"/>。 |
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:球団事務所で記者会見した岡崎は「中山投手は被害者やそのご家族に多大なご迷惑をかけ、社会をお騒がせした。ホエールズの一員として在籍させることはできない」と沈痛な面持ちで語った上で、「彼はまだ若く野球しかわかっていない。本人とご両親に相談の上で彼が立ち直れるよう、今後も相談に乗るつもりだ」と話した<ref name="中日新聞1992-01-08"/>。 |
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==== 球団の動向 ==== |
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:この処分を受け、[[川島廣守]]セ・リーグ会長は「今回犯した破廉恥な行為で世間を騒がせた事実は消えない。プロ野球ファンの夢と期待を無惨にも踏みにじった。(すぐに)野球選手としての再起はできる相談ではない。今回の処分は球団の温情ある措置だと思う。失格選手としない配慮を踏まえての処分とご理解いただきたい」とコメントした<ref name="中日新聞1992-01-08"/>。また吉國NPBコミッショナーは「『更生への道に障害にならないように』と失格選手にしなかった川島会長の心情も理解できる。同会長・大洋球団を信頼し、コミッショナーとしての追加処分は行わない」とコメントした<ref name="中日新聞1992-01-08"/>。 |
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逮捕当日、事態を知った[[若生照元]](取締役球団本部長){{Efn2|金沢署が中山を逮捕した直後、若生は記者会見で「中山がそのようなことをするとは想像できないし、噂にも聞いていなかった」と述べていた<ref name="神奈川新聞1991-12-26 不祥事"/>。}}以下、大洋球団社員らは慌ただしく電話対応に追われた<ref name="神奈川新聞1991-12-26 不祥事">『神奈川新聞』1991年12月26日B版第一スポーツ面17頁「大洋・中山不祥事 『エース』がなぜ… 対応に追われる球団関係者 疲労と焦燥色濃く」(神奈川新聞社)</ref>。同日夜には大洋球団代表・桜井薫が球団事務所(横浜市中区)にて会見を行う。球団社長・岡崎寛のコメントを代読する形で「青少年に夢を与えるプロ野球選手がこのような事件を起こしてしまい誠に申し訳なく、深くお詫びする。球団としても管理不行き届きを陳謝したい。処分はあす(26日)決めるが、厳しい処分を考えざるを得ない」と述べた<ref name="中日新聞1991-12-26"/><ref name="朝日新聞1991-12-26"/>。大洋球団では1987年のシーズン開幕日に若手選手数名が傷害事件を起こし、警察の取り調べを受けたことはあったが、強制わいせつといった悪質な犯罪容疑で一流選手が逮捕されたケースは同球団に限らず、球界としても前代未聞の大事件だった<ref name="神奈川新聞1991-12-26 文平">『神奈川新聞』1991年12月26日B版第一スポーツ面17頁「大洋・中山不祥事 『エース』がなぜ… 『正直でまじめな男』 成績不振のストレスか」(神奈川新聞社 運動部記者:文平英樹)</ref>。プロ野球の現役スター選手が[[性犯罪]]で逮捕されたこの事件は大洋球団のみならず、世間に大きな衝撃を与えた{{Efn2|地元・横浜市の[[高秀秀信]]市長は「ファンとして(中山を)『将来の大洋ホエールズを背負って立つ若手投手』として期待していただけに、非常に残念だ」と<ref name="朝日新聞1991-12-26-神奈川"/>、[[コミッショナー (日本プロ野球)|コミッショナー]]も「事件の様子を聞くと変質者だったのかもしれない。甚だ遺憾の一言だ」と声明を出した<ref name="中日新聞1991-12-26"/>。また、熱烈な大洋ファンとして知られていた[[中野孝次]](作家)は「これからのチームを担う中心選手として中山を一番頼りにしていたのに、裏切られた思いだ。プロの世界は誘惑が多いので、[[八百長]]みたいな事件ならまだ同情の余地が残るが、今回は人間として最低の行為。絶対に許せない」と中山を非難した<ref name="朝日新聞1991-12-26-神奈川"/>。}}<ref name="朝日新聞1991-12-26-神奈川">『朝日新聞』1991年12月26日東京朝刊神奈川県版「球団やファンに衝撃 わいせつ容疑で大洋の投手逮捕 神奈川」(朝日新聞東京本社・横浜総局)</ref>。 |
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:吉國NPBコミッショナーは1992年1月8日付で中山を[[自由契約]]選手公示した<ref>『中日新聞』1992年1月9日朝刊第一スポーツ面23面「中山投手を自由契約公示」</ref>。 |
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:中山の退団後、着用していた背番号19は{{by|1992年}}は「事実上の[[永久欠番]]」となったが、「横浜ベイスターズ」への球団名変更が決まった直後の[[1992年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|同年のドラフト会議]]で1位指名された[[JX-ENEOS野球部|日本石油]]・[[小桧山雅仁]]が「19にまつわる縁起の良いエピソード」を多く有していたことから、球団側は「これを機に次世代を担うルーキーに19番を背負わせることで中山の忌まわしい出来事を払拭しよう」と19番を提示し、小桧山自身も快諾したために欠番状態は1年で解消した<ref name="小桧山">{{Cite news|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_december/KFullNormal20071211157.html|title=【12月18日】1992年(平4)横浜、最初のドラ1は小桧山、背番号はあの「19」|newspaper=[[スポーツニッポン]]|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2007-12-18|accessdate=2015-05-14|archivedate=2008-01-17|archiveurl=http://web.archive.org/web/20080117003213/https://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_december/KFullNormal20071211157.html}}</ref>。その後、小桧山・[[戸叶尚]]・[[杉本友]]・[[染田賢作]]と19番を着用した選手は芳しい成績を残せなかったが<ref name="小桧山"/>、「横浜DeNAベイスターズ」に名称を変更してからは{{by|2015年}}に入団してから19番を着用している[[山崎康晃]]が抑え投手として活躍している。 |
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大洋球団は翌26日9時から球団事務所にて<ref name="中日新聞1991-12-26-夕刊"/>、球団幹部6名(岡崎球団社長・若生球団本部長ら)と[[弁護士]]2名の計8名からなる<ref name="中日新聞1991-12-27"/>、中山に対する処分を決める緊急幹部会議を開く。その結果、中山との翌年度の契約を白紙に戻し<ref name="中日新聞1991-12-26-夕刊">『中日新聞』1991年12月26日夕刊第一社会面11頁「大洋球団 中山投手、契約白紙に 捜査結論待ち最終処分」(中日新聞社)</ref><ref name="神奈川新聞1991-12-27">『神奈川新聞』1991年12月27日A版第一スポーツ面15頁「大洋球団・中山投手との契約を白紙 捜査にらみ最終処分 解雇、永久追放も」(神奈川新聞社)</ref>、[[日本プロフェッショナル野球協約]]第66条に基づき「次年度選手契約締結の権利を保留する選手」(保留選手)(=「契約未更改の大洋選手」扱い)とした上で<ref name="読売新聞1991-12-26-夕刊">『読売新聞』1991年12月26日東京夕刊第二社会面14頁「少女いたずら事件 中山投手の契約破棄 大洋が保留選手扱いに」(読売新聞東京本社)</ref>、処分については「捜査当局の結論を待ってから、解雇も含め厳しく対応する」ことを決定<ref name="中日新聞1991-12-26-夕刊"/>。会議終了後、記者会見に応じた岡崎は「夢を与えるプロ野球関係者がこのような事件を起こしたことに対し深く反省するとともに、被害者やその家族の皆様に深くお詫びする」と陳謝した<ref name="中日新聞1991-12-26-夕刊"/>。同日には高校の後輩である中山が起こした不祥事を受け、須藤監督も球団事務所入りし、被害者・球界関係者および社会に対し謝罪表明した{{Efn2|須藤は身柄を球団に一任した上で監督解任を含め自身へのペナルティを申し出たが<ref name="中日新聞1991-12-27">『中日新聞』1991年12月27日朝刊第一スポーツ面23頁「中山逮捕で大揺れ大洋 須藤監督、進退を一任」(中日新聞社)</ref>、岡崎球団社長は「須藤自身へのペナルティは考えるが、監督解任は考えていない」と述べた<ref name="神奈川新聞1991-12-27 須藤"/>。}}<ref name="神奈川新聞1991-12-27 須藤">『神奈川新聞』1991年12月27日A版第一スポーツ面15頁「どんな罰も受ける 須藤監督」(神奈川新聞社)</ref>。[[日本野球機構]] (NPB) 会議室([[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座]])でも[[吉國一郎]]コミッショナーや、[[川島廣守]][[セントラル・リーグ]]会長、[[原野和夫]][[パシフィック・リーグ]]会長ら球界首脳が出席して実行委員会を開き、川島は会議後の記者会見で「今回の事件でプロ野球の信用が失われ、取り返しがつかない。同情の余地は全くない。球団は厳重に処分すべきだ」と述べた<ref name="中日新聞1991-12-27" />。 |
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;球界関係者の反応 |
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:処分を受けて[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]・[[田淵幸一]]監督は『[[週刊ベースボール]]』([[ベースボール・マガジン社]])の取材に対し「処分については我々はコメントする立場にはないが、事件の内容が内容だけに厳しい処分はやむを得ないだろう」とコメントした<ref name="週刊ベースボール1992-01-27"/>。[[野球評論家]]・[[堀内恒夫]]は「この罪は一生背負わねばならないし、中山はこの罪の重さを考えるべきだ。本人がどう思っているかは知らないが、もう彼は野球界でやるべきではないだろう。彼の今後のことは先輩なり後輩なりが手を差し伸べてやればよいと思う」とコメントし、球界復帰に否定的な見解を示した<ref name="週刊ベースボール1992-01-27"/>。 |
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岡崎・桜井は同年12月27日に大洋球団の親会社である[[マルハ|大洋漁業]]の本社(東京都[[千代田区]][[大手町 (千代田区)|大手町]])で[[中部慶次郎]]球団オーナーに事件を報告した<ref name="中日新聞1991-12-28">『中日新聞』1991年12月28日朝刊第一スポーツ面19頁「大洋、全選手に文書 自己管理呼びかけ」「マウンドに立つのは難しい 吉国プロ野球コミッショナー 中山問題で見解」(中日新聞社)</ref>。同日、岡崎は「今年は(開幕投手を務めた)中山で始まり、中山の大暴投で終わった」<ref name="AERA 1992">{{Cite journal|和書|journal=[[AERA]]|title=夢をアワと消えさせる心のもろさ 中山投手逮捕(先週今週・事件)|volume=5|date=1992-01-14|issue=2|publisher=[[朝日新聞社]]|language=ja|author=運動部記者<東京>:[[速水徹]]|page=68}}(※1992年1月14日号・通巻第196号)</ref>「来年は事件が早く解決し、チームが飛躍できる年にしたい」と話した<ref name="神奈川新聞1992-12-28">『神奈川新聞』1991年12月28日A版第一スポーツ面15頁「沈んだ仕事納め」(神奈川新聞社)</ref>。吉國NPBコミッショナーは同日にコミッショナー事務局にて記者会見し、「中山投手が再びマウンドに立つのは難しいか?」との質問に対しては「事件が事件だけに難しいだろう。DNA型鑑定もするというし、報道されている警察の発表が事実なら残念だ」と厳しい見解を示した<ref name="中日新聞1991-12-28"/>。一方で[[落合博満]]選手(中日)は1994年1月4日に横浜市内で開かれたトークショーにて、「情状酌量の余地があるならばの話だが、将来のことを考えると球界復帰への道をつけてやってもいいのではないか?この事件で(球界を引退して)社会に復帰したとしても中山を受け入れてくれるところはもうないだろう。それなら『更生の道は野球から着けてやるべきではないか?』と思う」<ref name="中日新聞1992-01-05-落合">『中日新聞』1992年1月5日朝刊第一スポーツ面25頁「脱衣室」(中日新聞社)</ref>「もし自分が被害者の親だったら示談にしても許せないが、中山を自由契約にすることで誰の責任でもなくなる。今の状態だと中山はどこに行っても人の目を気にしなければ生きていけない。罵声・野次を正面から浴びせられるマウンドで償うチャンスを与えてはどうだろうか。大洋球団やセ・リーグ連盟が見守った上で、中山に恥をかかせながら更生の道を探るべきだ」と発言した<ref name="週刊ポスト1992-01-24"/>。 |
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:一方、後に中山に救いの手を差し伸べた中日・[[高木守道]]監督は「本来なら永久追放でも仕方のないところだ。野球界の人気低迷が囁かれている中で起きた事件であり、球界が襟を正すための1つの契機になるのではないかとは思う。ただ、自分としては『甘い』と言われるだろうが、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のように球界復帰への道を残してやるのも必要ではないかと思う」とコメントした<ref name="週刊ベースボール1992-01-27"/>。また、野球評論家・[[千葉茂 (野球)|千葉茂]]は「中山は故郷・高知で[[四万十川]]の清掃に取り組むといい。『日本最後の清流』と言われる四万十川で身も心も清め、しかも川の汚濁を防ぐ仕事をすることこそが『更生』というものだろう」とコメントした<ref name="週刊ベースボール1992-01-27"/>。 |
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中山は1992年1月5日、釈放後に緑区内の自宅へ帰宅し、15時15分から約1時間にわたり若生球団本部長・荒木球団管理部長と面接した<ref name="神奈川新聞1992-01-06">『神奈川新聞』1992年1月6日A版第一スポーツ面19頁「中山投手釈放 大洋・岡崎社長 『処分は早い機会に』 きょう川島セ会長へ報告」(神奈川新聞社)</ref>。若生は面接後、「中山は反省の色が濃い」と述べていたほか{{Efn2|『神奈川新聞』も1992年1月6日朝刊で「球団は解雇も含め厳しい処分を検討していたが、早期に被害者側と示談が成立したことで球団内では『最悪の事態は回避できた』という雰囲気が強い。処分は解雇にまで至らない可能性が出てきた」と報道していた<ref name="神奈川新聞1992-01-06"/>。}}<ref name="中日新聞1992-01-06-no.1">『中日新聞』1992年1月6日朝刊第一スポーツ面23頁「中山投手釈放 大洋、きょうにも球団処分 若生本部長 『反省の色濃い』」(中日新聞社)</ref>、須藤監督も同日にセ・リーグ連盟へ「中山を無期限謹慎処分に処した上で、著しい反省の色・社会情勢の変化などを見て処分を有期限に緩和する」案を打診した<ref name="週刊ベースボール1992-01-27">{{Cite journal|和書|journal=[[週刊ベースボール]]|title=中山事件を考える PART.1 「Wの悲劇」解雇処分決定までの須藤大洋ホエールズの苦悩と苛立ち! PART.2 前代未聞の事件を関係者、ファンはどうとらえたか?|volume=47|date=1992-01-27|issue=3|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|language=ja|author=|pages=110-115}}(※1992年1月27日号・通巻第1922号)</ref>。これは須藤自身が中山の更生を望んでいたことに加え、大洋球団にとっても「故障が治れば2桁勝利(10勝)できる投手」だったため、試合に出場できない中山に対し月額約53万円の保留手当を支払ってでも、将来的な復帰を画策していたためだった<ref name="週刊新潮1992-01-30"/>。しかし連盟は「球団の処分は甘すぎる。社会的な償いを受けることは避けられない」として処分差し戻しを求め、須藤監督も最終的には連盟の対応に従い、中山の契約解除に至った<ref name="週刊ベースボール1992-01-27"/>。 |
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==== 大洋球団解雇 ==== |
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本事件は野球協約統一契約書様式第17条(模範行為)に違反するものであることから<ref name="中日新聞1991-12-27"/>、大洋球団は1992年1月7日付で保留選手扱いだった中山を解雇して中山の保留権を放棄した上で<ref name="中日新聞1992-01-08">『中日新聞』1992年1月8日朝刊第二社会面26頁「大洋 中山投手を解雇 球団社長らも処分 復帰は事実上無理」(中日新聞社)</ref>、統一契約書式第26条に基づき<ref name="中日新聞1992-01-08-解説"/>、中山を[[自由契約]]選手とすることを発表した<ref name="神奈川新聞1992-01-08">『神奈川新聞』1992年1月8日B版第一スポーツ面31頁「横浜大洋 中山投手を『解雇』 監督戒告、社長ら減俸」(神奈川新聞社)</ref><ref name="読売新聞1992-01-08">『読売新聞』1992年1月8日東京朝刊第一社会面31頁「わいせつの中山投手を解雇処分/大洋球団」(読売新聞東京本社)</ref><ref name="読売新聞1992-01-08-スポーツ">『読売新聞』1992年1月8日東京朝刊スポーツ面A欄19頁「大洋球団の中山投手解雇 やむを得ぬ厳罰 マウンド復帰ほぼ絶望」(読売新聞東京本社)</ref>。横浜地検からは既に不起訴・起訴猶予処分で釈放され、前途もある中山に対し、あえて野球生命を事実上絶つ厳罰を下した理由は「子供たちに夢を与える職業にありながら、その子供たちを真っ向から裏切る犯罪を犯した」という社会的影響の大きさを深く考慮したためだった<ref name="読売新聞1992-01-08-スポーツ"/>。これに加え、大洋球団は須藤監督に戒告処分、岡崎社長・桜井球団代表に対しては同日からの1年間にわたり8%の減俸処分をそれぞれ科した<ref name="神奈川新聞1992-01-08"/>。 |
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中山は野球協約上「自由契約選手」となったため、他11球団とは契約できる形式ではあったが、「世間を騒がせ球界のイメージを著しく汚した破廉恥なわいせつ行為」(『中日新聞』1992年1月8日朝刊、記者:[[会田豊彦]])で逮捕された中山を直ちに獲得しようとする球団はなかった<ref name="中日新聞1992-01-08-解説">『中日新聞』1992年1月8日朝刊第一スポーツ面23頁「解説/ 中山投手解雇 『失格』避け復帰に細道 更生が条件 厳しさの中に温情も」(中日新聞社 記者:[[会田豊彦]])</ref>。また、[[川島廣守]]セ・リーグ会長は声明文の中で「中山選手本人が社会的に立派に更生できることが確認される時点まで、全12球団が中山選手との選手契約を無期限に自粛するようお願いしたい」と要望したため、球界復帰は極めて困難になった<ref name="中日新聞1992-01-08-解説"/>。 |
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岡崎は同日、記者会見で「中山投手は被害者やそのご家族に多大なご迷惑をかけ社会をお騒がせした。ホエールズの一員として在籍させることはできない」<ref name="中日新聞1992-01-08"/>「大洋球団としては将来も中山と契約する意思はない」と発言<ref name="神奈川新聞1992-01-08"/>。しかし「彼はまだ若く野球しかわかっていない。本人とご両親に相談の上で彼が立ち直れるよう、今後も相談に乗るつもりだ」とし<ref name="中日新聞1992-01-08"/>、中山が将来的に更生後プロ球界に復帰、もしくは、それ以外の社会的な復帰の際に球団として援助する姿勢を示した<ref name="神奈川新聞1992-01-08"/>。この処分を受け川島セ・リーグ会長は「今回犯した破廉恥な行為で世間を騒がせた事実は消えない。プロ野球ファンの夢と期待を無惨にも踏みにじった。(すぐに)野球選手としての再起はできる相談ではない。今回の処分は球団の温情ある措置{{Efn2|仮に失格選手の烙印を押されればそれ以降、中山は「野球以外の道を歩むことさえ大きな障害になる」とされたため、形式上とはいえ復帰への道を残したことは「せめてもの温情」とされた<ref name="読売新聞1992-01-08-スポーツ"/>。}}だと思う。失格選手としない配慮を踏まえての処分とご理解いただきたい」とコメントした。吉國NPBコミッショナーも「『更生への道に障害にならないように』と失格選手にしなかった川島会長の心情も理解できる。同会長・大洋球団を信頼し、コミッショナーとしての追加処分は行わない」とコメントした<ref name="中日新聞1992-01-08"/>。吉國NPBコミッショナーは1992年1月8日付で中山を自由契約選手として公示した<ref>『神奈川新聞』1992年1月9日A版第一スポーツ面15頁「中山を自由契約選手に」(神奈川新聞社)</ref><ref>『中日新聞』1992年1月9日朝刊第一スポーツ面23頁「中山投手を自由契約公示」(中日新聞社)</ref>。 |
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中山が着用していた背番号19は{{by|1992年}}に「事実上の[[永久欠番]]扱い」となる。しかし、「横浜ベイスターズ」への球団名変更決定直後の[[1992年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|同年のドラフト会議]]で1位指名された[[小桧山雅仁]]([[ENEOS野球部|日本石油]])が「19にまつわる縁起の良いエピソード」を多く有していたことから、球団側は「これを機に次世代を担うルーキーに19番を背負わせることで中山の忌まわしい出来事を払拭しよう」と19番を提示した。小桧山自身も「事件のことは気にしない」と快諾したため欠番状態は1年で解消<ref name="小桧山">{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0712/kiji/K20101201Z00003300.html|title=【12月18日】1992年(平4) 横浜、最初のドラ1は小桧山、背番号はあの「19」|newspaper=[[スポーツニッポン]]|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2010-12-01|language=ja|accessdate=2019-08-28|archivedate=2019年8月28日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190828140250/https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0712/kiji/K20101201Z00003300.html}}</ref>。また、中山を欠いた状態で1992年シーズンを迎えることとなった大洋球団はその穴を埋めるべく、若手投手([[友利結]]・[[盛田幸妃]]ら)や[[1991年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|新人投手]]([[斎藤隆 (野球)|斎藤隆]]・[[有働克也]])の起用を余儀なくされ、事件による士気の低下も懸案された<ref>『神奈川新聞』1991年12月29日A版第一スポーツ面15頁「中山、未聞の“大暴投” 揺れる球界、大洋(下) 迫られる戦力再検討」(神奈川新聞社 運動部記者:文平英樹)</ref>。結局、大洋は開幕から成績不振に悩まされ、同年5月には須藤監督が早々と監督を辞任した{{Efn2|中山自身はこの点に関して「面倒見の良かった須藤監督を含め多くの人に迷惑をかけて申し訳ない」と述べている<ref name="週刊アサヒ芸能2004-05-20"/>。}}<ref name="週刊アサヒ芸能2004-05-20"/>。 |
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高校時代の恩師・谷脇は「中山は野球を取ったら何も残らない男だから、球界復帰へのチャンスだけはどうしても残しておきたいが、そのチャンスが巡ってきても中山が生かすことができるかどうかは不安がある」と胸中を語った<ref name="週刊新潮1992-01-16">{{Cite journal|和書|journal=週刊新潮|title=特集 大洋・中山投手の「同性女性」と「少女悪戯」との相関|volume=37|date=1992-01-16|issue=2|publisher=新潮社|language=ja|author=|pages=132-135}}(※1992年1月16日号。通巻第1841号)</ref>。中山がのちに球界復帰(中日入団)した際には、[[堀内恒夫]]<ref name="週刊ベースボール1992-01-27"/>・[[豊田泰光]]<ref name="AERA 1994"/>(ともに[[野球解説者]])や[[近藤唯之]](スポーツライター)<ref name="週刊新潮1992-01-30"/>、中島章隆(『毎日新聞』記者)が<ref name="毎日新聞1993-12-11">『毎日新聞』1993年12月11日東京朝刊第一スポーツ面17頁「プロ野球 元大洋の中山元投手、復帰への道 セ懇話会が『認める』答申」「◇波◇--"さらし者"の心配も」(毎日新聞東京本社 記者:中島章隆)</ref><ref>『毎日新聞』1993年12月28日東京朝刊第二スポーツ面14頁「プロ野球 中山元投手は『戦力』 『火中のクリ』拾った中日」(毎日新聞東京本社 記者:中島章隆)</ref>、それぞれ否定的なコメントを出したほか、事件当時に捜査を担当した神奈川県警捜査員は1993年に球界復帰の可能性が浮上した際、「(同年に発覚した[[江夏豊]]の[[覚醒剤]]事件について言及した上で)本事件は覚醒剤とは違い、直接の被害者がいる事件だ」と述べ、不快感を示していた<ref name="毎日新聞1993-12-11"/>。 |
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==== 婚約者・家族のその後 ==== |
==== 婚約者・家族のその後 ==== |
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婚約者の女性(事件当時22歳)が、事件後の中山を健気に支えたとしては一部マスメディアから美談として報道された{{Efn2|女性は中山が寺へ修行に入る前、中山の恩師・谷脇と会った際に「中山はもう有名人ではなくサラリーマンとして地道に暮らさなければいけないが、それでもいいのなら一緒にいてやってほしい。それが嫌なら今すぐ別れてくれ」と諭された際には「このまま頑張る」と答えていた<ref name="週刊文春1992-GW"/>。}}<ref name="週刊新潮1994-08"/><ref name="宝石手記"/>。しかし1992年2月6日付で、婚約者は中山に「婚約不履行となった場合は慰謝料5,000万円を支払う」旨の書面{{Efn2|婚約者側の母親は『[[週刊新潮]]』([[新潮社]])の取材に対し「中山とその家族は被害者側に莫大な慰謝料を支払った一方、あれだけの事件を起こしておいてうちには一切謝りに来なかった。こちらから話し合おうと電話を掛けても名乗った瞬間に電話を切られ、話し合いどころではない。あんな人間に娘をやれるわけがない」と中山を非難した<ref name="週刊新潮1993-01-07"/>。中山側は婚約者が書かせた「念書」について<ref name="週刊新潮1994-08"/>、中山本人や知人は「婚約者に無理矢理書かされたようなもの」と証言したが<ref name="週刊新潮1993-01-07"/>、婚約者の母親は「(自分は)娘のためにウェディングドレスを用意していた。計画的に別れるつもりならそのようなことはしない」と主張していた<ref name="週刊文春1993-08"/>。婚約者本人は『週刊現代』『週刊文春』の取材に対し「はじめは自分も中山も互いに別れる気はなかったし、中山は釈放後に『結婚する』と約束した」<ref name="週刊現代1993-07-10">{{Cite journal|和書|journal=週刊現代|title=ワイド特集 『借りは倍にして返すわよ!』逆襲する女たち 球界復帰に待った!中山裕章投手の元婚約者 彼のロリコン癖は治りませんよ|volume=35|date=1993-07-10|issue=26|publisher=講談社|language=ja|author=|pages=190-191}}(※1993年7月10日号。通巻第1748号)</ref>「婚約破棄は中山が一方的に電話で『母親が“別れたら阪神に入れる”と言っているから別れることにした。約束通り5,000万円払うから別れてくれ』と言ってきた」と証言した<ref name="週刊文春1993-08"/>。}}を書かせたほか、中山が後述する運送会社で働き始めて以降は次第にすれ違うようになり別居に至る<ref name="週刊新潮1993-01-07">{{Cite journal|和書|journal=週刊新潮|title=ワイド特集 数基の人「風信帖」 6 大洋「中山元投手」の婚約破棄した女|volume=38|date=1993-01-07|issue=1|publisher=新潮社|language=ja|author=|pages=58-59}}(※1993年1月7日新年特大号。通巻第1889号)</ref>。 |
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:事件当時22歳の婚約者女性は事件後「健気に中山を支えた」として一部マスメディアから「美談」として報道された<ref name="週刊新潮1994-08"/><ref name="宝石手記"/>。 |
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:しかし事件から半年後、婚約者側は「婚約不履行の場合は中山が自分に慰謝料5,000万円を渡す」という念書を根拠に、「婚約不履行」を主張して中山を提訴した<ref name="週刊新潮1994-08"/>。しかしこの「念書」は、『[[週刊新潮]]』([[新潮社]])の取材に応じた中山の知人曰く「中山が無理矢理元婚約者に書かされたようなもの」であり、「事件後に中山が運送会社に就職してアパートに引っ越して以降、婚約者はアパートに来なくなったため、中山が『こちらに来ないなら別れる』と言ったところ、元婚約者の母親が慰謝料を要求した」という<ref name="週刊新潮1994-08"/>。 |
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そうした中、1992年5月ごろ、中山は婚約者との電話の際に「こちらに来てくれないなら別れよう」と切り出したころ、電話を替わった婚約者の母親が「別れるなら慰謝料を払え」と迫り、6月には婚約者側が横浜市内の中山宅を売買できないよう、仮処分申請を出した<ref name="週刊新潮1993-01-07"/>。その後も双方の対立は続き、同年11月には婚約者側が[[東京地方裁判所]]へ<ref name="週刊新潮1993-01-07"/>「婚約不履行」を主張して中山を提訴<ref name="週刊新潮1994-08"/>。また元婚約者は「中山は事件後も反省しておらずヘラヘラしており、事件後には自分に『女の子を産んでくれ。自分の子なら何をしても罪にならない』などと言っていたほか、川島セ・リーグ会長から更生を促すため送られた本も平然とゴミとして捨てていた」などと主張した一方、中山側も1993年1月に「その本は元婚約者が中山家から盗んだものだ」と主張して神奈川県警[[磯子警察署]]へ[[窃盗罪|窃盗]]・[[名誉毀損罪|名誉毀損]]で元婚約者を告訴していた<ref name="週刊現代1993-07-10"/>。これに加え、中山側は民事訴訟でも元婚約者側に対し「勝手に選手会への積立金500万円・自動車(ベンツ)・家財道具などを持ち出された」と反論し、双方が民事訴訟を起こす訴訟合戦状態となった<ref name="週刊新潮1994-08"/><ref name="宝石手記"/>。 |
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:これに対して中山側も元婚約者に対し「勝手に選手会への積立金500万円・自動車(ベンツ)・家財道具などを持ち出された」と反論し、双方が民事訴訟を起こす訴訟合戦状態となった<ref name="週刊新潮1994-08"/><ref name="宝石手記"/>。 |
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:この民事訴訟合戦は1993年末になって<ref name="週刊新潮1994-08">『[[週刊新潮]]』1994年8月11日・18日夏季特大号 p.160-162「ワイド特集愛憎彷徨が刻んだ烙印 13『拍手で再登板「中山投手」を許さない「元婚約者」』」([[新潮社]])</ref>、中山側が2,500万円の慰謝料を支払う形で和解した<ref name="週刊新潮1994-08"/><ref name="宝石手記"/>。前述の中山の知人は『週刊新潮』の取材に対し「本来なら離婚訴訟でさえ慰謝料の相場は500万円程度だが、中山は『裁判が長引くのは困るし、彼女に持ち逃げされた500万円・ベンツなど計約5,000万円の被害はなかったことにする』として、和解金額2,500万円を提示した」と語った<ref name="週刊新潮1994-08"/>。 |
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しかし、民事訴訟合戦は1993年末になり中山側が2,500万円の慰謝料を支払う形で和解{{Efn2|中山側は当初「非を認めるようなことはしない」として元婚約者側が申し付けた和解案を拒否し、判決で解決を図ろうとしていた<ref name="週刊文春1993-08">{{Cite journal|和書|journal=週刊文春|title=総力特集 ワイドショーな女たち 元大洋・中山投手の婚約者に“猛打賞”|volume=35|date=1994-08-18|issue=31|publisher=文藝春秋社|language=ja|author=|pages=246-247}}(※1993年8月12日・19日号。通巻第1746号)</ref>。ただし和解成立は婚約不履行に関してのみで、車の件など2件については(中日入団決定時点でも)係争中だった<ref name="週刊文春1993-12">{{Cite journal|和書|journal=週刊文春|title=This Week スポーツ 火中の栗・元大洋中山に手を出したドラゴンズ|volume=35|date=1993-12-30|issue=49|publisher=文藝春秋社|language=ja|author=|page=31}}(※1993年12月23日・30日号。通巻第1764号)</ref>。}}<ref name="週刊新潮1994-08">{{Cite journal|和書|journal=[[週刊新潮]]|title=ワイド特集 愛憎彷徨が刻んだ烙印 13『拍手で再登板「中山投手」を許さない「元婚約者」』|volume=39|date=1994-08-18|issue=31|publisher=[[新潮社]]|language=ja|author=|pages=160-162}}(※1994年8月11日・18日夏季特大号。通巻第1968号)</ref>。中山の知人は『週刊新潮』記者からの取材に対し「本来なら離婚訴訟でさえ慰謝料の相場は500万円程度だが、中山は『裁判が長引くのは困るし、彼女に持ち逃げされた500万円・ベンツなど計約5,000万円の被害はなかったことにする』として和解金額2,500万円を提示した」と証言した一方、元婚約者は1994年8月に同誌記者からの取材に対し「自分の尻ぬぐいさえ満足にできないような中山が再びマウンドに立ったことだけは許せないし、自分も信じられない思いだ。事件の被害者・家族は見ていられないだろう」とコメントしていた<ref name="週刊新潮1994-08"/>。 |
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:元婚約者は1994年8月、『週刊新潮』の取材に対し「自分の尻ぬぐいさえ満足にできないような中山が再びマウンドに立ったことだけは許せないし、自分も信じられない思いだ。事件の被害者・家族は見ていられないだろう」とコメントし、中日で現役復帰した中山を非難した<ref name="週刊新潮1994-08"/>。 |
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:また、高知市内に在住していた両親・姉も事件当時は中山やその婚約者と同居していたが、事件後に帰郷した<ref name="宝石手記"/>。 |
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=== 浪人時代 === |
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1992年1月18日、中山は事件後初めて報道関係者との会見{{Efn2|会見は「担当記者1人の代表質問に対し本人が答える」という非公開形式で、中山自身の希望により「事件に関しての質問には一切触れない」という条件で行われた<ref name="中日新聞1992-01-19"/>。古巣・大洋の須藤監督は同日、中山について「自らを戒め、世に尽くす精神・行動力を身に着けてほしい」とコメントした<ref name="中日新聞1992-01-19"/>。}}に応じ、あらためてファンや球団関係者らに謝罪した上で「今後は未定だが、本心ではまた野球がしたい」と述べた<ref name="中日新聞1992-01-19">『中日新聞』1992年1月19日朝刊第二社会面26頁「『また野球したい』 中山元投手が会見」(中日新聞社)</ref><ref name="読売新聞1992-01-19">『読売新聞』1992年1月19日東京朝刊スポーツ面A欄19頁「『本心は…また野球がしたい』 わいせつ容疑で解雇された中山元投手、心情語る」(読売新聞東京本社)</ref>。なお、高知商高時代にバッテリーを組んでいた岡村英人は不祥事を起こした中山宛に「俺はお前がプロ野球選手だろうと何だろうと関係ない。俺の中でお前はいつも“中山裕章”だ。高知に帰って来い」と書いた手紙を送っていた{{Sfn|鈴木忠平|2016|pp=134-135}}。 |
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中山は同年2月8日から古巣・大洋の[[亀井進]][[スカウト (勧誘)|スカウト]]{{Efn2|亀井は中山が修行に入った当時、『中日新聞』の取材に対し「本人からお寺で修行したいと言っていたので佛現寺を紹介した」と述べていた<ref name="中日新聞1992-02-09"/>。}}とともに[[佛現寺 (伊東市)|佛現寺]]([[静岡県]][[伊東市]]物見が丘)へ入り<ref name="中日新聞1992-02-09">『中日新聞』1992年2月9日朝刊第二スポーツ面24頁「脱衣室」(中日新聞社)</ref>、約3週間にわたり修行する<ref name="週刊アサヒ芸能2004-05-20"/>。その後、一般社会で暮らすべく生活費を稼ぐため働くことを決断<ref name="宝石手記"/>。一方、同年2月13日、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]([[アメリカ合衆国]]・[[メジャーリーグベースボール]])コミッショナー事務局はNPBコミッショナー事務局に対し[[ファクシミリ]] (FAX) 通信で「MLBの1球団{{Efn2|『週刊新潮』の大洋担当記者は「身分照会をしてきた球団は大洋と友好関係にある[[ミルウォーキー・ブルワーズ]]だろう。球団幹部のレイ・ポイトベントが日本人を妻に持つ親日家である上、かつて大洋に所属していた[[カルロス・ポンセ]]もブルワーズ出身だ」と証言した<ref name="週刊新潮1992-02-27">{{Cite journal|和書|journal=週刊新潮|title=TEMPO スポーツ 大リーグが日本選手をスカウトする可能性|volume=37|date=1992-02-27|issue=8|publisher=新潮社|language=ja|author=|page=22}}(※1992年2月27日号。通巻第1847号)</ref>。また『週刊朝日』(朝日新聞社)は「中山を勧誘している球団はメジャー傘下の3A(AAA級)球団だろう。須藤監督が[[読売ジャイアンツ (ファーム)|巨人の二軍]]監督時代(1986年 - 1989年)に[[アリゾナ州]]で開かれた[[アリゾナ・フォールリーグ|教育リーグ]]に毎年参加していた縁から知人も多く、中山にアメリカでの球界復帰を望んでいるようだ」と報道していた<ref name="週刊朝日1992-02-28"/>。}}が大洋の中山投手に関心を持っているので身分照会をしたい」といった旨の文書を送信{{Efn2|この米球界からの誘いに関しては「アメリカでは少年少女への性犯罪はタブーで、それを犯した中山は受け入れられないだろう」と否定的な見方があった一方<ref name="週刊朝日1992-02-28"/>、[[永谷脩]]は「アメリカでは[[キリスト教]]の精神から罪を犯したものでもそれを償えば赦す傾向がある。そのような場所で[[マイナーリーグ]](ルーキーリーグ)から[[日本人選手のメジャーリーグ挑戦|大リーグを目指し]]、ハングリーな生活をしながらやり直していく覚悟が中山本人にあれば可能だろう」と述べており<ref name="週刊ポスト1992-01-24">{{Cite journal|和書|journal=[[週刊ポスト]]|title=球界地獄耳 幼女ワイセツの罪重し 失業した元大洋・中山は「米国球界入り」へ!|volume=24|date=1992-01-24|issue=4|publisher=[[小学館]]|language=ja|author=[[永谷脩]]|pages=50-51}}(※1992年1月24日号。通巻第1128号)</ref>、[[玉木正之]](スポーツライター)も「中山にとっては1人で渡米してシビアな世界で生きていくことこそ社会復帰だろう」と述べていた<ref name="週刊朝日1992-02-28">{{Cite journal|和書|journal=[[週刊朝日]]|title=ニュース・スピリッツ 中山元投手の心惑わす米リーグからの触手|volume=97|date=1992-02-28|issue=8|publisher=朝日新聞社|language=ja|author=|pages=171-172}}(※1992年2月28日号。通巻第3900号)</ref>。}}。同日、NPBコミッショナー事務局は「中山投手は同年1月7日に大洋を解雇された」との事実のみ通知した上で<ref name="中日新聞1992-02-15">『中日新聞』1992年2月15日朝刊第二スポーツ面26頁「米大リーグが中山(元大洋投手)に触手 コミッショナー事務局、身分照会 1球団が関心」(中日新聞社)</ref>、同月18日にはMLBに対し「川島セ・リーグ会長が12球団に対し、更生するまで中山と契約しないよう要望している。NPB球団と同様に中山との契約を見合わせるように要望する」とした回答書を送った<ref name="中日新聞1992-02-19">『中日新聞』1992年2月19日朝刊第二スポーツ面26頁「中山と契約回避 米球界にも要望 コミッショナー事務局」(中日新聞社)</ref>。吉國NPBコミッショナーはこの件を受け「事件の経緯を説明した上でNPB球団と同様に対応するよう善処を求めた」と述べている<ref name="中日新聞1992-02-19"/>。中山自身は『[[週刊現代]]』([[講談社]])の記者から「アメリカ・[[大韓民国|韓国]]・[[台湾]]など海外に行けばすぐに野球ができるかもしれないが?」{{Efn2|韓国([[KBOリーグ]])移籍は規約の問題から不可能だったほか、台湾・[[中華職業棒球聯盟]] (CPBL) の場合も「国民性から難しい」とする見方があったが、永谷は「台湾には大洋球団の親会社・大洋漁業の拠点がある。相手の受け入れさえできていれば、台湾球界入りできる可能性もある」と述べていた<ref name="週刊ポスト1992-01-24"/>。}}と質問された際に「海外に行くのは苦しい環境から逃げるようだから嫌だ。いくら批判を浴びても、日本で修行をして厳しい声に耐えていきたい」と回答した<ref name="週刊現代1992-02-22"/>。 |
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寺での修行を終えた中山は就職活動をするも、当初は事件の影響で数社から断られ、大洋球団職員の紹介{{Efn2|『週刊文春』1992年4月30日・5月7日ゴールデンウィーク特別号では大洋球団前社長・久野修慈の「港湾安全協会のある幹部から紹介を受けた」とする証言が掲載されている<ref name="週刊文春1992-GW"/>。}}を受けて[[入谷正典]]{{Efn2|入谷は大洋球団でトレーナーを務めていたことがあり<ref name="週刊文春1992-GW"/>、採用時には中山に対し、事件のことには触れず、「婚約者との告訴問題などをすべてきちんとしてから丸裸になって出直せ」とアドバイスを送っていた<ref name="宝石手記"/>。また中日の岡田英津也編成部長とは[[明治大学硬式野球部]]でチームメイトだったほか<ref name="週刊新潮1993-12">{{Cite journal|和書|journal=週刊新潮|title=TEMPO スポーツ 「猥褻犯」中山の復帰のこれだけ「情実」|volume=38|date=1993-12-30|issue=49|publisher=新潮社|language=ja|author=|page=22}}(※1993年12月23日・30日号。通巻第1937号)</ref>、星野仙一前監督も同じく[[明治大学]]出身だったため、中日が中山を獲得した背景としてその点を指摘する報道もあった<ref name="週刊ポスト1994-08-12"/>。}}(元巨人投手)が経営する横浜市内の運送会社{{Efn2|『[[高知新聞]]』 (2005) は「現役引退後に起業して以降も、かつて世話になった港湾関係者から貸倉庫の世話になっている」と報じている<ref name="高知新聞2005-12-22"/>。中山の事情は社内でも知られてはいたが、当時の上司は「プロ野球選手だったことからみな歓迎してくれた」と証言しており<ref name="週刊文春1992-GW"/>、中山は自身と同年代の若者が約30人いた社内にすぐ溶け込んだ<ref name="週刊現代1993-01-01"/>。}}へ就職した<ref name="宝石手記">{{Cite journal|和書|journal=[[宝石 (雑誌)|宝石]]|title=手記 天国と地獄の居心地|volume=22|date=1994-10|issue=10|publisher=[[光文社]]|language=ja|author=中山裕章|pages=250-257}}(※1994年10月号)</ref>。1992年4月入社以降、[[横浜港]]・[[大黒埠頭]]([[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]])にて<ref name="週刊文春1992-GW"/>輸出用自動車の貨物船への積み込み、港湾への運搬などの仕事をしていた<ref name="宝石手記"/>。当時の月収は手取りにして14、15万円程度{{Efn2|残業代を含めて20万円弱<ref name="週刊文春1992-GW"/>。}}で生活は苦しく、周囲からは冷たい視線や声に晒され、嫌がらせの手紙も多数送られていた。中山自身は「批判・非難の声は言われて当然だから、自分で耐えなければならない」と辛抱しながら社会生活を送っていた<ref name="週刊アサヒ芸能2004-05-20"/>。 |
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==== 球界復帰への道 ==== |
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事件後は、野球の試合はもとより野球関連のニュースをほとんど見ず<ref name="週刊アサヒ芸能2004-05-20"/>、野球道具も押し入れに仕舞い込んでいた{{Efn2|その理由について本人は(野球道具は)「見る気にもなれず、だからといって捨てることもできなかった」と述べている<ref name="宝石手記"/>。}}。しかし、就職から丸1年が経過したころ、社内の野球チームから「一緒にやろう」と勧誘されたことをきっかけに、再びグラブを手に取った<ref name="宝石手記"/>。当時、中山は「過ちは一生消えないし、人前に出れば被害者をまた苦しめることになる。野球を諦めて世間に忘れられた方がいい」という思いを抱えていたが、一方で「どうしても野球をやりたい気持ち」は強かった<ref name="AERA 1994"/>。1992年末ごろには職場のあった大黒埠頭・アパート近辺で3~5[[キロメートル|km]]の距離を毎日ランニングしていたほか<ref name="週刊新潮1993-01-07"/>、{{by|1993年}}3月以降は現役復帰に向けた練習を開始している<ref name="中日新聞1993-05-29"/>。なお同年には知人の紹介により、球界復帰後の1995年に結婚することになる20代女性(家事手伝い・神奈川県[[川崎市]]在住)と知り合っている<ref name="中日新聞1995-05-02"/>。この頃には後述の署名活動を主導していた入谷から「少しキャッチボールなどをして体を作っておけ」とアドバイスを受け<ref name="宝石手記"/>、昼休みに同僚とキャッチボールしていたが、同僚たちはプロの第一線で活躍していた中山の球威を恐れたためか、キャッチボールを躊躇するようになっていった<ref name="週刊現代1993-01-01">{{Cite journal|和書|journal=[[週刊現代]]|title=ワイド特集 '92お騒がせ人間たちの『最後っぺ』|volume=35|date=1993-01-09|issue=1|publisher=[[講談社]]|language=ja|author=|pages=207-208}}(※1993年1月1日・9日号。通巻第1723号)</ref>。 |
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また、入谷が中心となり<ref name="宝石手記"/>、横浜市内の財界人グループや中山の母校である高知商高のOBらが<ref name="朝日新聞1993-01-07"/>「中山裕章君の復帰を願う市民の会」を結成。<ref name="中日新聞1993-05-29"/>1993年1月7日から中山の球界復帰を嘆願する署名運動を開始<ref name="朝日新聞1993-01-07">『朝日新聞』1993年1月8日東京朝刊第一スポーツ面23頁「元大洋投手の復帰求め市民らが署名(プロ野球短信)」(朝日新聞東京本社)</ref>。同月28日までには横浜市・高知県などを中心に100,387人分の署名{{Efn2|当初の目標は同年2月末までに10万人分を集めることだった<ref name="朝日新聞1993-01-07"/>。}}が集まった<ref>『朝日新聞』1993年1月30日東京朝刊第一スポーツ面21頁「元大洋投手の投手の復帰署名に十万人」(朝日新聞東京本社)</ref>。1993年3月、中山の解雇直後にNPB全12球団へ無期限契約回避を申し出ていた川島セ・リーグ会長のもとへ当初目標の倍以上となる約22万人の署名・嘆願書が手渡された<ref name="中日新聞1993-05-29"/>。この動きを受け、川島セ・リーグ会長は1993年5月28日に「中山投手は更生の道を歩んでいる」と認め、声明に示した無期限契約回避措置を「早ければ同年6月中旬にも解除する」ことを明らかにした{{Efn2|大洋の後身である横浜ベイスターズ・岡崎球団社長はベイスターズの中山獲得を否定したものの「球団としては解雇したので公式にはコメントできないが、個人的には会長の恩情で自分たち以外の球団が中山を採用し、中山が再び投げられることはいいことだと思う」とコメントした<ref>『神奈川新聞』1993年5月29日B版第一スポーツ面15頁「中山元投手復帰へ道 横浜・岡崎球団社長」(神奈川新聞社)</ref>。}}<ref name="神奈川新聞1993-05-29">『神奈川新聞』1993年5月29日B版第一スポーツ面15頁「中山元投手復帰へ道 川島会長、声明を来月解除」(神奈川新聞社)</ref><ref name="中日新聞1993-05-29">『中日新聞』1993年5月29日朝刊第一スポーツ面27頁「中山元投手復帰か 一昨年不祥事 セ会長『更生の道歩む』」(中日新聞社)</ref><ref name="中国新聞1993-05-29">『[[中国新聞]]』1993年5月29日朝刊第一社会面27頁「中山元投手、球界復帰も 川島セ会長 制裁措置を来月解除」([[中国新聞社]])</ref><ref name="中国新聞1993-05-29 スポーツ面">『中国新聞』1993年5月29日朝刊第二スポーツ面20頁「中山元投手制裁解除へ 『復帰困難』覆す温情措置」「獲得考えてもいい 中日・中山球団社長の話」(中国新聞社)</ref>。社会的に大きな影響を与えた事件で、逮捕直後は事実上困難とされていた球界復帰の道を開くことは賛否両論が渦巻くのは必至の情勢だったが、川島は「彼は1年半汗を流して働いた。彼を評価する球団が出てくることを期待する」とコメントした<ref name="中日新聞1993-05-29"/><ref name="中国新聞1993-05-29"/>。のちに中山を獲得した[[中日ドラゴンズ]]はこの時点で彼に関心を示しており<ref name="神奈川新聞1993-05-29"/><ref name="中国新聞1993-05-29"/>、伊藤濶夫・球団代表が「汗を流して頑張っている青年に救いの手を差し伸べたい」<ref name="週刊現代1993-07-10"/>、中山了・球団社長も「獲得を考えてみようという気持ちはある」とそれぞれコメントした<ref name="中国新聞1993-05-29 スポーツ面"/>。 |
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川島は「中山の投手生命を考えればそろそろ復帰への道を開く時期だ」として私的顧問機関『セ・リーグ懇話会』を開いたが<ref name="朝日新聞1993-06-29"/>、川同年6月29日に東京・[[銀座]]のセ・リーグ連盟事務所で開かれた懇話会は声明の解除に対し「現時点では時期尚早」との結論を出した<ref name="神奈川新聞1993-06-29">『神奈川新聞』1993年6月29日A版第一スポーツ面15頁「声明解除は時期尚早 中山氏の復帰でセ懇話会」(神奈川新聞社)</ref><ref name="中日新聞1993-06-29">『中日新聞』1993年6月29日朝刊第一スポーツ面21頁「中山元投手の復帰へ声明解除は時期尚早 セ懇話会が結論」(中日新聞社)</ref><ref name="読売新聞1993-06-29">『読売新聞』1993年6月29日東京朝刊スポーツ面A欄21頁「中山裕章元投手の復帰は尚早 セ・リーグ懇話会で一致」(読売新聞東京本社)</ref><ref name="毎日新聞1993-06-29"/>。当時、元婚約者との民事訴訟が継続中だったことなどで<ref name="毎日新聞1993-06-29">『毎日新聞』1993年6月29日東京朝刊第一スポーツ面21頁「プロ野球 中山裕章元投手の復帰は時期尚早 セ・リーグ懇話会」(毎日新聞東京本社)</ref>、懇話会は「いずれは要請を解除する必要があるが、中山の更生には精神的安定を含めた身辺整理が不可欠で、元婚約者との訴訟問題を解決することが前提条件として求められる」との理由から声明解除を見送った{{Efn2|懇話会座長を務めた中村は「少なくとも『元婚約者との間で継続している裁判が片付かない限り、会長声明を解除することは世論が許さないだろう』と懸念している」と理由を説明した上で<ref name="神奈川新聞1993-06-29"/>「今後、和解などで訴訟の問題が解決した場合は再度懇話会を開きたい」と述べた<ref name="朝日新聞1993-06-29">『朝日新聞』1993年6月29日東京朝刊第一スポーツ面23頁「元投手の復帰問題、『現状では時期尚早』 セ・リーグ懇話会」(朝日新聞東京本社)</ref>ほか、解除を検討していた川島も「いろいろな角度から検討していただいた。重く受け止めたい」とその結論を尊重する意向を示した<ref name="神奈川新聞1993-06-29"/>。}}<ref name="読売新聞1993-06-29"/>。1993年12月10日、セ・リーグ懇話会はあらためて川島の声明を撤回することを答申し、川島は「来週中にも本人と会った後、できるだけ早く解除したい」として球界復帰を事実上認める発言をした<ref name="神奈川新聞1993-12-11">『神奈川新聞』1993年12月11日朝刊A版第一スポーツ面11頁「中山元投手復帰へ道 セ・リーグ懇話会 『川島声明』撤回を答申」(神奈川新聞社)</ref><ref name="中日新聞1993-12-11">『中日新聞』1993年12月11日朝刊第一スポーツ面23頁「中山元投手 復帰へ道 川島セ会長認める」(中日新聞社)</ref><ref name="読売新聞1993-12-11">『読売新聞』1993年12月11日東京朝刊スポーツ面A欄19頁「わいせつ事件で解雇の中山元投手、球界復帰に道 『契約自粛』を解除/セ懇話会」(読売新聞東京本社)</ref>。同日に記者会見した懇話会座長の中村稔(セ・リーグ顧問弁護士)は「元婚約者との婚約不履行の裁判に和解が成立し、中山投手も事件から2年以上経って社会的に更生できる実績を示したと理解している」と答申理由を説明した上で「復帰後は試練に晒される中山投手に対し、(獲得する)球団は精神面でも生活面でも十分な配慮・サポートをお願いしたい」とする声明を発表した<ref name="神奈川新聞1993-12-11"/><ref name="中日新聞1993-12-11"/>。これを受けて中山は後見人を通じ「1日も早く川島会長にお会いしてお許しを頂きたいと思います。会長に許していただいても世間の全ての方が許してくださっているわけではないと思いますので、一生謹慎の気持ちで修養を忘れず新しい人間になって頑張りたいと思います。皆様のお気持ちを裏切らないよう精進してまいります」とコメントを発表した<ref>『神奈川新聞』1993年12月11日朝刊A版第一スポーツ面11頁「中山元投手復帰へ道 一生謹慎の気持ち 中山元投手」(神奈川新聞社)</ref><ref name="中日新聞1993-12-11"/>。 |
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1993年12月16日午前、川島は渋沢良一セ・リーグ事務局長・[[児童心理学]]専攻の[[大学教授]]とともに横浜市内のホテルで中山と面接し、現在の心境や生活状態などを聞いた上で、中山の球界復帰を承認することを決定した<ref name="神奈川新聞1993-12-17">『神奈川新聞』1993年12月17日朝刊A版第一スポーツ面11頁「中山元投手復帰承認へ 川島セ・リーグ会長」(神奈川新聞社)</ref><ref name="中日新聞1993-12-17">『中日新聞』1993年12月17日朝刊第一スポーツ面23頁「『野球人として更生したい』 中山元投手 川島セ会長に心境」(中日新聞社)</ref><ref name="読売新聞1993-12-17">『読売新聞』1993年12月17日東京朝刊スポーツ面A欄15頁「『獲得自粛』をセ会長が解除 中山元投手と面談 球界復帰の意思確認」(読売新聞東京本社)</ref>。中山はこの際、「起こしてしまった事件はとんでもないことだが、自分に情を注いでくださる人もいるので、それを支えに耐えていきたい」<ref name="読売新聞1993-12-17"/>「どんなことがあっても耐えられるつもり。野球以外に自分の夢はないので野球人として更生させていただきたい」と川島に対し発言した<ref name="神奈川新聞1993-12-17"/><ref name="中日新聞1993-12-17"/>。これを受け、川島は同日午後の球界三首脳会談で吉國NPBコミッショナー・原野パ・リーグ会長それぞれの了承を得た上で<ref name="読売新聞1993-12-17"/>、事件当時に各12球団に出した要望の解除を決定、17日の実行委員会で報告後に各球団へ要望の解除を通知することを決めた<ref name="神奈川新聞1993-12-17"/><ref name="中日新聞1993-12-17"/>。そして12月24日に「翌日(1993年12月25日付)で中山との選手契約自粛を要請した声明を解除する」とする内容の文書を<ref name="神奈川新聞1993-12-25">『神奈川新聞』1993年12月25日朝刊A版第一スポーツ面13頁「契約自粛の解除文郵送 中山問題でセ会長」(神奈川新聞社)</ref>各12球団宛てに郵送した{{Efn2|この時、セ・リーグ機構は同じく契約自粛を求めていたMLBに対しても同種の要請解除文書を郵送した<ref name="読売新聞1993-12-25">『読売新聞』1993年12月25日東京朝刊スポーツ面A欄19頁「元大洋の中山投手の契約自粛要請を解除/セ・リーグ」(読売新聞東京本社)</ref>。}}<ref name="中日新聞1993-12-25">『中日新聞』1993年12月25日朝刊第一スポーツ面19頁「契約自粛の解除文郵送 中山問題でセ会長」(中日新聞社)</ref>。一方、『読売新聞』記者・長谷川一雄は2年間のブランクや世間の厳しい目を指摘し、「仮に復帰できても本当にプロで通用するか?」と疑問を投げかけた上で、「『プロ野球選手である前に、常識ある一社会人であれ』と改めて願わずにいられない」と述べていた<ref name="読売新聞1993-12-12 デスクぷらざ">『読売新聞』1993年12月12日東京朝刊スポーツ面C欄23頁「[デスクぷらざ]まず正直ある社会人たれ」(読売新聞東京本社 記者:長谷川一雄)</ref>。 |
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=== 球界復帰へ === |
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;解雇から一般企業への再就職まで |
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:解雇後の1992年1月18日、中山は希望により「事件に関しての質問には一切触れない」という条件で、緑区内の自宅にて事件後初めて報道関係者との会見に応じた<ref name="中日新聞1992-01-19">『中日新聞』1992年1月19日朝刊第二社会面26面「『また野球したい』 中山元投手が会見」</ref><ref name="読売新聞1992-01-19">『読売新聞』1992年1月19日東京朝刊スポーツ面A欄19面「『本心は…また野球がしたい』 わいせつ容疑で解雇された中山元投手、心情語る」</ref>。会見は「担当記者1人の代表質問に対し本人が答える」という非公開形式で行われたが、「釈放後は自宅にこもりきりだった」という中山は、体重が5kg近く減り、顔色も悪くなっていた<ref name="中日新聞1992-01-19"/>。中山は会見で「球団関係者やファンに申し訳ない」と改めて謝罪した上で<ref name="中日新聞1992-01-19"/><ref name="読売新聞1992-01-19"/>、今後の身の振り方について「まだ決まっていない。また野球がしたいというのが本心」と心情を語った<ref name="中日新聞1992-01-19"/><ref name="読売新聞1992-01-19"/>。古巣・大洋の須藤監督は同日、中山について「自らを戒め世に尽くす精神・行動力を身に着けてほしい」とコメントした<ref name="中日新聞1992-01-19"/>。 |
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:なお中山が不祥事を起こした後、高知商高時代にバッテリーを組んでいた岡村英人は中山宛に「俺はお前がプロ野球選手だろうと何だろうと関係ない。俺の中でお前はいつも“中山裕章”だ。高知に帰って来い」と手紙を書いて送った<ref name="鈴木 p.134-135"/>。 |
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:1992年2月8日から、中山は古巣・大洋の[[亀井進]][[スカウト]]に連れられ、[[静岡県]][[伊東市]]物見が丘の[[仏現寺]]へ修業に入った<ref name="中日新聞1992-02-09">『中日新聞』1992年2月9日朝刊第二スポーツ面24面「脱衣室」</ref>。亀井は『中日新聞』の取材に対し「本人からお寺で修行したいと言っていたので仏現寺を紹介した。住職に性格を見ていただき修行内容・期間を決めてもらう」と語った<ref name="中日新聞1992-02-09"/>。その後、約3週間の修行により中山は「これから自分はプロ野球選手ではないのだから一般の社会人として暮らしていこう」と悟ったため「この時点ではまだ中山に社会に出る勇気はなかった」が、生活費を稼ぐため働きに出ることを決意した<ref name="宝石手記"/>。 |
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:1992年2月13日、[[アメリカ合衆国]]・[[メジャーリーグベースボール]](MLB)のコミッショナー事務局がNPBコミッショナー事務局に対し、[[ファクシミリ]](FAX)通信で「MLBの1球団が大洋の中山投手に関心を持っているので身分照会をしたい」という内容の文書を送信した<ref name="中日新聞1992-02-15">『中日新聞』1992年2月15日朝刊第二スポーツ面26面「米大リーグが中山(元大洋投手)に触手 コミッショナー事務局、身分照会 1球団が関心」</ref>。これに対しNPBコミッショナー事務局は同日、「中山投手は同年1月7日に大洋を解雇された」との事実のみを通知した上で、身分について翌週早々に回答する方針を決めた<ref name="中日新聞1992-02-15"/>。 |
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:NPBコミッショナー事務局は同月18日、「川島セ・リーグ会長が12球団に対し更生するまで中山と契約しないように要望している」ことを踏まえ、MLBコミッショナー事務局からの身分照会に対し「NPB球団と同様に中山との契約を見合わせるように要望する」回答書を送った<ref name="中日新聞1992-02-19">『中日新聞』1992年2月19日朝刊第二スポーツ面26面「中山と契約回避 米球界にも要望 コミッショナー事務局」</ref>。吉國NPBコミッショナーはこの件を受け「事件の経緯を説明した上でNPB球団と同様に対応するよう善処を求めた」と語った<ref name="中日新聞1992-02-19"/>。中山自身は『[[週刊現代]]』([[講談社]])の取材に対し「アメリカ・[[大韓民国|韓国]]・[[台湾]]など海外に行けばすぐに野球ができるかもしれないが」と記者から質問されると、「海外に行くのは苦しい環境から逃げるようだから嫌です。いくら批判を浴びても日本で修業をして厳しい声に耐えていきたいと思います」と回答した<ref name="週刊現代1992-02-22"/>。 |
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:寺で修行を終えた後、中山は就職先を探したが、事件の影響により数社から断られた<ref name="宝石手記">『[[宝石 (雑誌)|宝石]]』1994年10月号 p.250-257「手記 天国と地獄の居心地 中山裕章」([[光文社]])</ref>。その中で大洋球団職員の紹介を受け、元[[読売ジャイアンツ]](巨人)投手・[[入谷正典]]が経営していた横浜市内の運送会社に就職した<ref name="宝石手記"/>。入谷は中山を採用した際、事件のことには触れず「婚約者との告訴問題などをすべてきちんとしてから丸裸になって出直せ」とアドバイスした<ref name="宝石手記"/>。中山は磯子区内のアパートに住み、午前6時半に起床しては[[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]内の職場まで電車通勤する毎日を送り<ref name="週刊現代1993-01-01"/>、[[横浜港]]にて輸出用の自動車を貨物船に積み込んだり、港湾に運搬するなどの仕事をしていた<ref name="宝石手記"/>。社内には中山と同年代の若者も約30人いたため、溶け込むのは早かったという<ref name="週刊現代1993-01-01"/>。 |
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;現役復帰に向けた動向 |
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:その一方で事件後、中山は「野球道具を見る気にもなれず、だからといって捨てることもできなかった」ために押し入れの奥に押し込んでいたが、就職から丸1年が経過したころ社内の野球チームから「一緒にやろう」と誘われたことがきっかけでグラブを押し入れから取り出した<ref name="宝石手記"/>。そして{{by|1993年}}3月以降、現役復帰に向けた練習を開始していた<ref name="中日新聞1993-05-29"/>。中山はこの時「過ちは一生消えないし、人前に出れば被害者をまた苦しめることになる。野球を諦めて世間に忘れられた方がいい」と思う一方で、「どうしても野球をやりたい気持ちも強かった」という<ref name="AERA 1994"/>。 |
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:また入谷が中心となり<ref name="宝石手記"/>、横浜市内の財界人グループ・中山の母校である高知商高のOBらが<ref name="朝日新聞1993-01-07"/>、「中山裕章君の復帰を願う市民の会」を結成し<ref name="中日新聞1993-05-29"/>、1993年1月7日から中山の球界復帰を嘆願する署名運動を開始し、同年2月末までに10万人分を集めることを目標に署名を集め始めた<ref name="朝日新聞1993-01-07">『朝日新聞』1993年1月8日朝刊第一スポーツ面23面「元大洋投手の復帰求め市民らが署名(プロ野球短信)」</ref>。このころ入谷は中山に対し「少しキャッチボールなどをして体を作っておけ」とアドバイスしていた<ref name="宝石手記"/>。そのため、中山は昼休みには同僚とキャッチボールをしていたが、同僚たちはプロの第一線で活躍していた中山の球威を恐れたためか、キャッチボールを躊躇するようになっていった<ref name="週刊現代1993-01-01">『[[週刊現代]]』1993年1月1日・9日号 p.207-208 「ワイド特集 '92お騒がせ人間たちの『最後っぺ』」([[講談社]])</ref>。 |
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:1993年3月、当初目標の倍以上となる約22万人の署名・嘆願書が、解雇直後に声明でNPB全12球団に中山との無期限契約回避を申し出ていた川島セ・リーグ会長に手渡された<ref name="中日新聞1993-05-29"/>。1993年5月28日、この動きを受け川島セ・リーグ会長は「中山投手は更生の道を歩んでいる」と認めた上で、声明に示した無期限契約回避措置を早ければ同年6月中旬にも解除することを明らかにした<ref name="中日新聞1993-05-29">『中日新聞』1993年5月29日朝刊第一スポーツ面27面「中山元投手復帰か 一昨年不祥事 セ会長『更生の道歩む』」</ref><ref name="中国新聞1993-05-29">『[[中国新聞]]』1993年5月29日朝刊第一社会面27面「中山元投手、球界復帰も 川島セ会長 制裁措置を来月解除」</ref><ref name="中国新聞1993-05-29 スポーツ面">『中国新聞』1993年5月29日朝刊第二スポーツ面20面「中山元投手制裁解除へ 『復帰困難』覆す温情措置」「獲得考えてもいい 中日・中山球団社長の話」</ref>。社会的に大きな影響を与えた事件で、逮捕直後は事実上困難と見られた球界復帰の道を開くことは、賛否両論が渦巻くのは必至だったが、川島は「彼は1年半汗を流して働いた。彼を評価する球団が出てくることを期待する」とコメントした<ref name="中日新聞1993-05-29"/><ref name="中国新聞1993-05-29"/>。後に中山を獲得した[[中日ドラゴンズ]]はこの時点で中山に関心を示しており<ref name="中国新聞1993-05-29"/>、中山了・球団社長は「獲得を考えてみようという気持ちはある」とコメントした<ref name="中国新聞1993-05-29 スポーツ面"/>。 |
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:しかし同年6月29日、川島からの諮問を受けて東京・[[銀座]]のセ・リーグ連盟事務所で開かれた「セ・リーグ懇話会」は<ref name="読売新聞1993-06-29"/><ref name="中日新聞1993-06-29"/><ref name="毎日新聞1993-06-29"/>、元婚約者との民事訴訟が継続中であったことなどから<ref name="毎日新聞1993-06-29">『毎日新聞』1993年6月29日東京朝刊第一スポーツ面21面「プロ野球 中山裕章元投手の復帰は時期尚早 セ・リーグ懇話会」</ref>、「いずれは要請を解除する必要があるが、中山の更生には精神的安定を含めた身辺整理が不可欠で、元婚約者との訴訟問題を解決することが前提条件として求められる」として<ref name="読売新聞1993-06-29"/>、声明の解除に対し「現時点では時期尚早」との結論を出した<ref name="中日新聞1993-06-29">『中日新聞』1993年6月29日朝刊第一スポーツ面21面「中山元投手の復帰へ声明解除は時期尚早 セ懇話会が結論」</ref><ref name="読売新聞1993-06-29">『読売新聞』1993年6月29日東京朝刊スポーツ面A欄21面「中山裕章元投手の復帰は尚早 セ・リーグ懇話会で一致」</ref><ref name="毎日新聞1993-06-29"/>。 |
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:なお同年には知人の紹介により、球界復帰後の1995年に結婚した[[神奈川県]][[川崎市]]在住の20歳代家事手伝い女性と知り合った<ref name="中日新聞1995-05-02"/>。 |
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;1993年12月、セ・リーグが球界復帰を承認 |
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:その後「セ・リーグ懇話会」(座長・[[中村稔]]セ・リーグ顧問弁護士)は1993年12月10日、川島の声明を撤回することを答申した<ref name="中日新聞1993-12-11">『中日新聞』1993年12月11日朝刊第一スポーツ面23面「中山元投手 復帰へ道 川島セ会長認める」</ref><ref name="読売新聞1993-12-11">『読売新聞』1993年12月11日東京朝刊スポーツ面A欄19面「わいせつ事件で解雇の中山元投手、球界復帰に道 『契約自粛』を解除/セ懇話会」</ref>。これを受けて川島は「来週中にも本人と会った後、できるだけ早く解除したい」として球界復帰を事実上認める発言をした<ref name="読売新聞1993-12-11"/><ref name="中日新聞1993-12-11"/>。記者会見した中村座長は「元婚約者との婚約不履行の裁判に和解が成立し、中山投手も事件から2年以上経って社会的に更生できる実績を示したと理解している」と答申理由を説明した上で、「復帰後は試練に晒される中山投手に対し、(獲得する)球団は精神面でも生活面でも十分な配慮・サポートをお願いしたい」とする声明を発表した<ref name="中日新聞1993-12-11"/>。これを受けて中山は、後見人を通じて「1日も早く川島会長にお会いしてお許しを頂きたいと思います。会長に許していただいても世間の全ての方が許してくださっているわけではないと思いますので、一生謹慎の気持ちで修養を忘れず新しい人間になって頑張りたいと思います。皆様のお気持ちを裏切らないよう精進してまいります」とコメントを発表した<ref name="中日新聞1993-12-11"/>。 |
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:1993年12月16日午前、川島は渋沢良一セ・リーグ事務局長・[[児童心理学]]専攻の[[大学教授]]とともに横浜市内のホテルで中山と面接し、現在の心境・生活状態などを聴いた上で、中山の球界復帰を承認することを決定した<ref name="中日新聞1993-12-17">『中日新聞』1993年12月17日朝刊第一スポーツ面23面「『野球人として更生したい』 中山元投手 川島セ会長に心境」</ref><ref name="読売新聞1993-12-17">『読売新聞』1993年12月17日東京朝刊スポーツ面A欄15面「『獲得自粛』をセ会長が解除 中山元投手と面談 球界復帰の意思確認」</ref>。中山はこの際、川島に対し「起こしてしまった事件はとんでもないことだが、自分に情を注いでくださる人もいるので、それを支えに耐えていきたい」<ref name="読売新聞1993-12-17"/>「どんなことがあっても耐えられるつもり。野球以外に自分の夢はないので野球人として更生させていただきたい」と話した<ref name="中日新聞1993-12-17"/>。これを受けて川島は同日午後の球界三首脳会談で[[吉國一郎]]NPBコミッショナー・[[原野和夫]]パ・リーグ会長に報告して了承を得た上で<ref name="読売新聞1993-12-17"/>、事件当時に各12球団に出した要望の解除を決定し、17日の実行委員会で報告後、各球団に要望の解除を通知することを決めた<ref name="中日新聞1993-12-17"/>。 |
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:川島は1994年12月24日、選手契約自粛を要請した声明を解除する<ref name="中日新聞1993-12-25"/>1993年12月25日付の文書を<ref name="読売新聞1993-12-25"/>、各12球団に郵送した<ref name="中日新聞1993-12-25">『中日新聞』1993年12月25日朝刊第一スポーツ面19面「契約自粛の解除文郵送 中山問題でセ会長」</ref><ref name="読売新聞1993-12-25"/>。川島はこれに加え、同じく契約自粛を求めていた[[アメリカ合衆国]]・[[メジャーリーグベースボール]](MLB)に対しても同種の要請解除文書を郵送した<ref name="読売新聞1993-12-25">『読売新聞』1993年12月25日東京朝刊スポーツ面A欄19面「元大洋の中山投手の契約自粛要請を解除/セ・リーグ」</ref>。これを受けて以前から獲得を検討していた中日・加藤巳一郎オーナーは同日、「川島会長から『何とかしてほしい』という話は聞いている」とコメントした<ref name="読売新聞1993-12-25"/>。これに加え伊藤修・同球団代表も「いきなり選手契約するのではなく、打撃投手など球団職員として採用しようと思う」として積極的な姿勢を見せた<ref name="読売新聞1993-12-25"/>。 |
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::その一方で事件当時に捜査を担当した神奈川県警捜査員は、中山の球界復帰の話が持ち上がった際、『毎日新聞』の取材に対し、同年に発覚した[[江夏豊]]の[[覚醒剤]]事件を引き合いに出し「覚醒剤は(直接の)被害者がいないからなぁ…」と不快感を示した<ref name="毎日新聞1993-12-11"/>。 |
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::また『毎日新聞』記者・中島章隆は1993年12月11日朝刊記事にて「事件の恐怖に震え続けた被害地域住民の親たちの怒りがわずか2年で消え去ったのだろうか?『若者の過ちを一生許さない』という偏屈な考えを持つつもりはないが、一般大衆やマスコミへの露出度が高いプロ野球選手への復帰が本当に『更生の道』なのだろうか?」と、球界復帰を認めた懇話会に疑問を投げかけた上で「平凡な一市民として普通の生活を送らせてやることが、被害者のためであり若者(中山)のためにもなるのではないか」と主張した<ref name="毎日新聞1993-12-11">『毎日新聞』1993年12月11日東京朝刊第一スポーツ面17面「プロ野球 元大洋の中山元投手、復帰への道 セ懇話会が『認める』答申」「◇波◇--"さらし者"の心配も」(記者:中島章隆)</ref>。 |
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::『読売新聞』記者・長谷川一雄も1993年12月12日東京朝刊記事にて「2年間のブランクを経てプロで通用する球が投げられるだろうか。まだ残る世間の厳しい目に耐えられるだろうか。それ以前にセ・リーグのある球団(中日)が獲得の意向を示しているらしいが、本当に獲得してくれるのだろうか」と疑問を投げかけた上で「『プロ野球選手である前に、常識ある一社会人であれ』と改めて願わずにいられない」と述べた<ref name="読売新聞1993-12-12 デスクぷらざ">『読売新聞』1993年12月12日東京朝刊スポーツ面C欄23面「[デスクぷらざ]まず正直ある社会人たれ」(記者:長谷川一雄)</ref>。 |
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;1993年12月27日、中日ドラゴンズと打撃投手として契約 |
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:処分解除を受け[[中日ドラゴンズ]]([[高木守道]]監督)は1993年12月27日、中山を[[打撃投手]]([[球団職員]]身分、1年契約)として採用したことを発表した<ref name="読売新聞1993-12-28">『読売新聞』1993年12月28日東京朝刊スポーツ面A欄19面「元大洋(現横浜)の中山裕章投手が球界復帰 中日と打撃投手契約」</ref><ref name="中日新聞1993-12-28">『中日新聞』1993年12月28日朝刊第一スポーツ面21面「中山元投手が復帰 中日 『打撃投手』として契約」</ref><ref name="朝日新聞1993-12-28">『朝日新聞』1993年12月28日朝刊第一スポーツ面21面「わいせつ事件で解雇の元投手、中日へ 二軍打撃投手として契約」</ref>。同日午後、[[岡田英津也]]編成部長が横浜市内で中山と両親同席で面会した<ref name="朝日新聞1993-12-28"/>。中山は「新人のつもりでやり直したい」として中日の提示条件を全面的に受け入れ、契約に合意した<ref name="朝日新聞1993-12-28"/>。 |
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::中日・中山了球団社長は「裕章の獲得が球団のイメージに悪影響を及ぼさないとは言い切れない」としつつも<ref name="読売新聞1993-12-28"/>、「彼(裕章)はやってはならない過ちを犯したが、真摯な反省と自戒の2年間を過ごし社会的制裁も受けた。許すことがあってもいい」と獲得に至った経緯を説明した上で「即戦力とまではいかないが、早ければ来年の後半か再来年にも(一軍のマウンドに)出てきてくれるだろう」と話した<ref name="朝日新聞1993-12-28"/>。球団は中山について「2年間のブランクを解消するため、基本的には三軍でコーチをつけて練習させ、『実戦で通用する』と判断した時点で支配下選手登録する」方針を固めた<ref name="読売新聞1993-12-28"/>。裕章は同日、球団を通して「これまでのことは深く反省している。どうしても野球を忘れることはできなかった。1から出直す覚悟で一生懸命やる」とコメントした<ref name="中日新聞1993-12-28"/>。<!--ここでは中日球団社長・中山了氏が中山元投手と同姓のため、本記事当該投手を「裕章」と下の名前で表記しています--> |
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::一方、『毎日新聞』記者・中島章隆は1993年12月28日朝刊記事で「私企業である中日が誰とどんな契約をしようと勝手だが、現時点で『更生のための契約ではない』として早くも『戦力』として裕章を計算している中山社長の発想は、契約自粛を撤回した川島セ・リーグ会長の『更生プログラム』に明らかに違反しているし、社会的な反発は免れまい。事件は不起訴になり社会的制裁は受けたが、この事件でもそうであるように、親告罪である強制わいせつ罪は被害者が裁判沙汰を嫌い示談にするケースが多い。不起訴でも『被害者』がいることを忘れてはならない。事件を『忘れたい』と示談に応じた同種事件の被害者・家族が、新聞・テレビなどで加害者の姿・名前を見た時、どんな感情に囚われるだろう?」「無節操な戦力のそろばん勘定のレベルで今回の問題を捉えた中日の契約は、(青少年の野球人口の先細りによる)プロ野球離れを一段と加速させる結果にしかなるまい」と、中日球団に対し批判的な論調の記事を執筆した<ref>『毎日新聞』1993年12月28日東京朝刊第二スポーツ面14面「プロ野球 中山元投手は『戦力』 『火中のクリ』拾った中日」(記者:中島章隆)</ref>。 |
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=== 中日時代 === |
=== 中日時代 === |
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声明解除が正式に通達されたことを受け、以前から中山に関心を示していた[[中日ドラゴンズ]](監督:[[高木守道]]){{Efn2|高木は中山が解雇された際、「本来なら永久追放でも仕方のないところだ。野球界の人気低迷が囁かれている中で起きた事件であり、球界が襟を正すための1つの契機になるのではないかとは思う。ただ、自分としては『甘い』と言われるだろうが、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のように球界復帰への道を残してやるのも必要ではないかと思う」とコメントしていた<ref name="週刊ベースボール1992-01-27"/>。}}は中山との契約に向けて動き出し<ref name="神奈川新聞1993-12-28">『神奈川新聞』1993年12月28日A版第一スポーツ面17頁「中山元投手が再出発 中日で二軍打撃投手に」(神奈川新聞社)</ref>、1993年12月27日には中山を[[打撃投手]](球団職員身分・1年契約)として採用したことを発表した<ref name="神奈川新聞1993-12-28"/><ref name="読売新聞1993-12-28">『読売新聞』1993年12月28日東京朝刊スポーツ面A欄19頁「元大洋(現横浜)の中山裕章投手が球界復帰 中日と打撃投手契約」(読売新聞東京本社)</ref><ref name="中日新聞1993-12-28">『中日新聞』1993年12月28日朝刊第一スポーツ面21頁「中山元投手が復帰 中日 『打撃投手』として契約」(中日新聞社)</ref><ref name="朝日新聞1993-12-28">『朝日新聞』1993年12月28日東京朝刊第一スポーツ面21頁「わいせつ事件で解雇の元投手、中日へ 二軍打撃投手として契約」(朝日新聞東京本社)</ref>。同日午後、中山は両親とともに[[岡田英津也]]中日球団編成部長と横浜市内で面会し「新人のつもりでやり直したい」として中日の提示条件を全面的に受け入れ、契約に合意した<ref name="朝日新聞1993-12-28"/>。 |
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;{{by|1994年}} |
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:中山は同年春、[[中日ドラゴンズ (ファーム)|二軍]]の打撃投手として[[串間市営球場]]で行われた春季二軍[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]に参加しつつ実戦復帰を目指してきた<ref name="中日新聞1994-06-11"/>。 |
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:同年6月10日、中日球団は「練習態度が真面目で、そろそろチャンスを与えてもいいだろう」と判断したことから、球団職員・打撃投手だった中山と<ref name="中日新聞1994-06-11"/>契約金なし<ref name="朝日新聞1994-06-11"/>、年俸800万円(推定)・背番号125で選手契約を結び、中山を同日付で[[支配下選手登録]]した<ref name="中日新聞1994-06-11">『中日新聞』1994年6月11日朝刊第一スポーツ面35面「中山投手と選手契約 中日 2年半ぶり現役復帰」</ref><ref name="読売新聞1994-06-11">『読売新聞』1994年6月11日東京朝刊スポーツ面A欄17面「中日・中山裕章投手を選手登録」</ref><ref name="朝日新聞1994-06-11">『朝日新聞』1994年6月11日朝刊第一スポーツ面25面「中日と選手契約 打撃投手から“昇格”」</ref><ref name="スポニチ2012-06-10">{{Cite news|title=【6月10日】1994年(平6) 不祥事から2年半 中山裕章 中日の支配下登録選手に|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1206/kiji/K20120610003445580.html|newspaper=スポニチアネックス(スポーツニッポン)|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2012-06-10|accessdate=2018-01-01|archivedate=2018-01-01|archiveurl=http://web.archive.org/web/20180101160606/http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1206/kiji/K20120610003445580.html}}</ref>。 |
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:ファンの運動により再び現役選手としてプレーする事が可能になった中山は「再び野球ができることに感謝の気持ちでいっぱいです。でも被害者がいる以上、罪は反省し自分の中でも消えるものではない」とコメントした<ref name="中日新聞1994-06-11"/><ref name="スポニチ2012-06-10"/>。 |
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:中山了・中日球団社長は同日、「事件は絶対に犯してはならない過ちだったが、本人は2年以上も深く反省していたし、『もうチャンスを与えてもいいだろう』と考えた。二軍で打撃投手を務めさせつつ、投手としての実力のみならず性格も観察した上で復帰を承認した」と語った<ref name="中日新聞1994-06-11"/>。川島セ・リーグ会長は同日、「中山君は『過去』というものを償いあまりある努力をしたに違いない。新生・中山が生まれることをファンも期待しているだろう」と談話を発表した<ref name="読売新聞1994-06-11"/>。 |
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::正式に選手登録が発表された際、ドラフト同期の巨人・[[桑田真澄]]は中山に電話で「一緒に頑張ろうぜ」と声を掛けた<ref name="AERA 1994">[[週刊誌]]『[[AERA]]』1994年8月8日号 p.61「復帰中山に球界の困惑と温情 逮捕から二年半(リポートスポーツ)」([[朝日新聞社]]、スポーツライター:[[山田ゆかり]])</ref>。 |
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::一方で[[野球解説者]]・[[豊田泰光]]は[[週刊誌]]『[[AERA]]』([[朝日新聞社]])の取材に対し「はっきり言って不愉快だ。彼が投げるときは口をつぐむ」「中山は人前に出るべきではない。ましてや一軍投手として栄光の座を与えるなんてあり得ない」と、中山に対して厳しい反応を示した<ref name="AERA 1994"/>。 |
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::また、受け入れ先となった中日でも投手コーチ・[[水谷啓昭]]は同誌の取材に「中山が懸命に努力している姿を見てからは応援する気になったが、初めは『冗談じゃないよ』というのが本音だった。『例えば[[黒い霧事件 (日本プロ野球)|黒い霧事件]]で永久追放になった選手もいるのに、なんで性犯罪を犯したような選手を雇うのか』と球団への不満もあったし、(結果的に杞憂には終わったが)選手の士気が萎えるなどチームメートへの悪影響も懸念した」と語った<ref name="AERA 1994"/>。 |
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:中山は中日入団以降、当時空白となっていた抑え投手の座を得るため抑え投手に必要な瞬発力を得るべく、ランニングではダッシュを重視するなど重点的なトレーニングを積み重ねてきた<ref name="中日新聞1995-02-14">『中日新聞』1995年2月14日朝刊第一スポーツ面23面「なにくそ10・8 Dアリゾナから/ 中山 抑えこそ自分の仕事 己が勝負の相手 よみがえる力投」(記者:末次秀行)</ref>。二軍でのトレーニング中、かつて[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス→オリックス・ブレーブス]]を解雇された後3年間の球界ブランクを経て台湾プロ野球・[[中華職業棒球聯盟]](CPBL)テスト生から復活した経歴を持つ同僚・[[野中徹博]]は、中山に対し「体が(感覚を)覚えているものだから大丈夫だ。指はボールを忘れてはいない」とアドバイスした<ref name="宝石手記"/>。 |
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:中山は同年6月21日、[[ウエスタン・リーグ]]の[[福岡ソフトバンクホークス (ファーム)|福岡ダイエーホークス]]戦([[ナゴヤ球場]])で先発し、1991年10月10日の[[阪神タイガース|阪神]]戦以来となる現役復帰後初登板を果たした<ref name="中日新聞1994-06-22">『中日新聞』1994年6月22日朝刊第一スポーツ面23面「ウエスタン 中山まずまず 復帰後、初の登板」</ref>。この試合では3回を投げ、打者14人と対戦して5被安打・4奪三振の結果で、[[山之内健一]]に高め速球を打たれて本塁打を記録されるなど3失点を喫したが、ブランクを差し引けばまずまずの投球内容だった<ref name="中日新聞1994-06-22"/>。 |
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:同年7月21日、中山は[[高木守道]]監督ら首脳陣立ち会いの下、ナゴヤ球場で昇格テストを受けた<ref name="毎日新聞1994-07-22"/>。その結果、高木監督は「長いイニングは無理だが、試合の展開次第で投げさせ、様子を見たい」と判断し、後半戦からの一軍合流を決定した<ref name="毎日新聞1994-07-22">『毎日新聞』1994年7月22日東京朝刊第二スポーツ面20面「プロ野球 中日の中山投手、一軍へ」</ref>。 |
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:翌7月22日、中山は現役復帰後初<ref>『中日新聞』1994年7月23日朝刊第一スポーツ面25面「中日・平田が一軍 セ・パ合計6新人昇格 両リーグ公示」</ref>、大洋時代の1991年10月以来となる33カ月ぶりの一軍選手登録を受けた<ref name="読売新聞1994-07-23"/>。同日付で背番号も67に変更された<ref name="読売新聞1994-07-23">『読売新聞』1994年7月23日東京朝刊スポーツ面A欄15面「プロ野球登録選手入れ替え 中日・中山が33か月ぶり1軍ベンチ入り」</ref>。 |
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:中山は同日、ナゴヤ球場で開かれた[[読売ジャイアンツ]](巨人)戦からベンチ入りし<ref name="読売新聞1994-07-23"/>、翌24日の試合で6回表、5回13被安打5失点の投球内容で降板した先発・[[山本昌]]に代わって中継ぎとして1991年10月10日以来の一軍登板を果たし、1イニング1被安打0失点に抑えた<ref>『読売新聞』1994年7月25日東京朝刊スポーツ面A欄15面「ミスター500勝 山本昌攻略、先発全員19安打/巨人8-2中日」</ref>。中山は35,000人の観衆が来場したナゴヤ球場で「前日から『ヤジを飛ばされるのも覚悟して思い切って投げろ』と自分に言い聞かせていた」が<ref name="AERA 1994"/>、マウンドの土を踏んだ際、多少のヤジこそあったものの<ref name="週刊新潮1994-08"/>、耳に届いたのは思いがけず割れるような拍手と「頑張れ」という声援だったため、涙がこぼれかけたという<ref name="AERA 1994"/>。当時、中山は『週刊新潮』取材に対し、「現時点ではまだ80%ほどの出来で、速球・[[カーブ (球種)|カーブ]]とも今一つであり、やはり[[フォークボール|フォーク]]が一番だ。ゆくゆくは先発で投げてみたいし、お世話になった方のためにも早く1勝を挙げたい」と語った<ref name="週刊新潮1994-08"/>。 |
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:同年は一軍6試合に登板して0勝0敗0セーブ・防御率5.79の成績で<ref name="95選手名鑑">{{Cite book|和書|title='95プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第19巻第3号(通算:第202号、1995年3月号)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1995-03-15|page=39}}</ref>、古巣・大洋時代の本拠地球場・[[横浜スタジアム]](大洋は{{by|1993年}}より「横浜ベイスターズ」に球団名を変更)で登板することはなかった。また同年10月8日にナゴヤ球場で開かれた巨人との優勝決定戦「[[10.8決戦]]」でも登板機会はなかった。 |
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:同年オフには推定年俸1,200万円(前年比400万円増)で契約更改し、背番号を大洋時代と同じ19番に変更した<ref name="95選手名鑑"/>。 |
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;{{by|1995年}} |
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:球界復帰2年目の同年はアメリカ・[[アリゾナ州]]春季[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]にて600球を投げ込むなど、抑え投手の座を得るべくトレーニングを積み重ねていった<ref name="中日新聞1995-02-14"/>。同年3月に発売された『[[ホームラン (雑誌)|ホームラン]]』1995年3月号『'95プロ野球 12球団全選手百科名鑑』([[日本スポーツ出版社]])では「右の先発ローテーションに入るか?」と記載されたが<ref name="95選手名鑑"/>、中日時代は先発で登板する機会はなかった。 |
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:同年4月12日の[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦([[明治神宮野球場]])にて大洋時代・1989年8月11日の阪神戦(横浜スタジアム)以来2,070日ぶり、球界復帰後初となるセーブを挙げた<ref>『中日新聞』1995年4月13日朝刊第一スポーツ面25面「立浪やっと開花 中山6年ぶりS 強竜打線一気に目覚め」</ref>。 |
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:同年5月1日には、運送会社に勤務しつつ球界復帰を目指していた1993年に知人の紹介で知り合った20歳代家事手伝い女性(当時・[[神奈川県]][[川崎市]]在住)と入籍したことを明らかにした<ref name="中日新聞1995-05-02">『中日新聞』1995年5月2日朝刊第一スポーツ面21面「プロ野球短信 中山投手が入籍」</ref>。 |
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:同年5月24日、古巣・大洋の後身である横浜ベイスターズ戦にて現役復帰後初めて横浜スタジアムで登板を果たした。この試合では延長12回裏から登板したが、二死満塁の場面で[[波留敏夫]]から右翼線へ抜ける[[サヨナラゲーム|サヨナラ]][[適時打|タイムリー]]安打を被弾し敗戦投手となった<ref>『中日新聞』1995年5月25日朝刊第12版第一スポーツ面23面「セ・リーグ 横浜4-3中日 横浜スタジアム 延長12回 竜力尽く 郭また“魔の九回” 中山、サヨナラ打浴びる」</ref>。 |
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:同年6月6日、中山は[[広島東洋カープ]]戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])にて1点ビハインドの8回裏に中継ぎで登板すると、9回表に[[山崎武司]]の同点二塁打が飛び出し、延長10回表まで2イニングを投げた<ref name="中日新聞1995-06-07"/>。延長12回裏、[[仁村徹]]の決勝打によってチームが勝ち越すと中山の後を継いだ抑え・[[古池拓一]]が1点リードを守ったことにより、中山は1991年9月29日の巨人戦以来1,346日ぶりとなる球界復帰後初勝利を飾った<ref name="中日新聞1995-06-07">『中日新聞』1995年6月7日朝刊第一スポーツ面27面「徳武竜“新風”1勝 仁村が12回決勝打」</ref>。この勝利は中山のプロ復帰への門戸を開いた恩人・[[高木守道]]監督のシーズン途中解任を受けて監督代行を務めていた[[徳武定祐]]コーチにとって、指揮を執り始めて2試合目にしての初勝利でもあった<ref name="中日新聞1995-06-07"/>。 |
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:同年はチームの低迷(終盤近くまで最下位低迷、最終順位は5位)を受けて後に徳武もシーズン閉幕を待たずに解任され、その後は[[島野育夫]]コーチが監督代々行を務めたため、2度にわたって監督が交代したが、中山はこの初勝利を含めて3勝6敗4セーブ・防御率3.27の成績を挙げ、中継ぎ・抑えとしてチーム最多の44試合に登板<ref name="96選手名鑑">{{Cite book|和書|title='96プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第20巻第4号(通算:第213号、1996年3月号)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1996-03-31|page=80}}</ref>、7セーブポイントを記録した<ref name="97選手名鑑"/>。同年オフ、推定年俸2,000万円(前年比800万円増)で契約更改した<ref name="96選手名鑑"/>。このころには大洋時代の活躍の片鱗が窺えるところまで速球の威力が回復してきたが、本人は「まだムラがあり、イメージ通りの速球には程遠い」と満足しておらず、全盛期の「速球で相手打者を追い込み、独特の揺れるフォークで抑える」というパターンを取り戻すべく腐心した<ref name="96中日ファンブック">{{Cite book|和書|title=中日ドラゴンズ '96ファンブック|series=中日ドラゴンズファンブック|publisher=中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)|date=1996-03-13|page=47|ISBN=978-4806203131}}</ref>。 |
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;{{by|1996年}} |
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:新監督として[[星野仙一]]が就任した同年はチームの投手陣で唯一、前半戦77試合で二軍落ちすることなく一貫して一軍で過ごした<ref>『中日新聞』1996年7月19日朝刊第一スポーツ面33面「星野監督に聞く 後半戦は打ち勝つ 投手陣の整備したい」</ref><ref>『中日新聞』1996年7月21日朝刊第二スポーツ面22面「96年プロ野球オールスター戦 第1戦 山本MVP弾」「清原対戦に中山闘志」</ref>。 |
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:同年は抑え投手候補として[[KBOリーグ|韓国球界]]の[[起亜タイガース|ヘテ・タイガース]]から加入した[[宣銅烈]]の不調を受け、力のある速球・[[フォークボール|フォーク]]を武器に宣に代わる抑え投手として活躍した<ref name="97中日ファンブック"/>。後半戦には前半戦に比べて調子を落としたものの球界復帰から3年目で完全復調の手応えを掴み<ref name="97中日ファンブック">{{Cite book|和書|title=中日ドラゴンズ '97ファンブック|series=中日ドラゴンズファンブック|publisher=中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)|date=1997-03-18|page=59|ISBN=978-4806203360}}</ref>、36試合に登板して4勝4敗14セーブ・18セーブポイント・防御率2.88の数字を残した<ref name="97選手名鑑">{{Cite book|和書|title='97プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第21巻第4号(通算:第225号、1997年3月号)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1997-03-31|page=38}}</ref>。 |
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:同年7月11日、セ・リーグ代表監督・[[野村克也]](当時・ヤクルト[[プロ野球監督|監督]])の推薦により[[1996年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|サンヨーオールスターゲーム]]全セ(オールセントラル・リーグ)に選出されたことが発表され、大洋時代の1989年以来7年ぶりの代表選出を果たした<ref name="毎日新聞1996-07-12">『毎日新聞』1996年7月12日東京朝刊第一スポーツ面27面「プロ野球 オールスターゲーム、『全パ』は11人が初出場--監督推薦選手、発表」</ref>。野村はこの時、中山の選出について「現在・未来が大切で過去は問わない」とする談話を発表した上で<ref name="毎日新聞1996-07-12"/><ref>『毎日新聞』1996年7月20日東京朝刊社説・発言欄面5面「[みんなの広場]中山のオールスター出場を喜ぶ=[[兵庫県]][[西宮市]]在住・21歳大学生男性からの投書」</ref>、「本人は魔が差してしまったこともあったが、(社会的制裁を受けるなどして)苦しんだことであり、現在は自分としては問題視はしていない。喜んでオールスターに出場してほしい」と激励した<ref name="毎日新聞1996-07-12"/>。中山は同日、野村が監督を務めるヤクルトとの試合前に野村に挨拶し、「選出されるとは思っていなかったので感謝しています。(高校時代に甲子園で対決した)[[清原和博]]選手([[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]所属)と対決して抑えたい」と抱負を語った<ref name="毎日新聞1996-07-12"/>。 |
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:そのオールスターゲームでは1996年7月23日に[[富山市民球場アルペンスタジアム]]で行われた第3戦にて3回表に登板し、1回1被安打2奪三振1失点の成績を残した<ref>{{Cite web|title=1996年度サンヨーオールスターゲーム 試合結果(第3戦)|url=http://npb.jp/bis/scores/allstargame/boxscore1996_3.html|publisher=NPB.jp [[日本野球機構]]|date=1999-07-23|accessdate=2018-04-19|archivedate=2018-04-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180419123505/http://npb.jp/bis/scores/allstargame/boxscore1996_3.html}}</ref>。 |
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:同年オフ、推定年俸4,500万円(前年比2,000万円増)で契約更改した<ref name="97選手名鑑"/>。 |
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;{{by|1997年}} |
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:中日の本拠地が[[ナゴヤドーム]]に移転した同年はチームが最下位に沈む中、リリーフのみでチーム最多の53試合に登板し投球回76イニング2分の3を記録した<ref name="98選手名鑑">{{Cite book|和書|title='98プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第22巻第4号(通算:第236号、1998年3月号)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1998-03-31|page=95}}</ref>。 |
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:同年は前年不調だった宣が一転して守護神として活躍したため、中山自身のセーブはゼロに終わった<ref name="98選手名鑑"/>。しかし守護神・宣へつなぐセットアッパーとして1年を通じて活躍し<ref name="98中日ファンブック">{{Cite book|和書|title=中日ドラゴンズ '98ファンブック|series=中日ドラゴンズファンブック|publisher=中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)|date=1998-03-12|page=62|ISBN=978-4806203599}}</ref>、大洋時代最終年の1991年以来6年ぶり、球界復帰後では初となるシーズン7勝を挙げ、7勝6敗・防御率4.34の成績を残した<ref name="98選手名鑑"/>。投球回数76イニングは阪神・[[伊藤敦規]]に次ぎリーグ2位だったが、[[江川卓 (野球)|江川卓]]は「防御率が4.34と高いこと」「奪三振数が(それまで1イニング1個に近い割合だったのが)54個と減ったこと」「速球の力強さが失われたこと」「[[暴投]]が6回と多いこと」を課題点として挙げていた<ref name="江川98">{{Cite book|和書|title=江川卓 プロ野球スカウティング・レポート'98|publisher=[[ザ・マサダ]]|author=[[江川卓 (野球)|江川卓]]|date=1998-03-25|page=182|isbn=978-4915977572}}</ref>。 |
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:同年オフ、推定年俸4,400万円(前年比100万円減)で契約更改した<ref name="98選手名鑑"/>。 |
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;{{by|1998年}} |
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:中継ぎエースの座を確立すべく臨んだ1998年シーズンだったが<ref name="98中日ファンブック"/>、同年は故障のため一軍戦では7月に7試合(合計7イニング)登板したのみで<ref name="99選手名鑑">{{Cite book|和書|title='99プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第23巻第3号(通算:第246号、1999年3月号)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1999-03-31|page=39}}</ref>二軍戦でもわずか6試合の登板に留まった<ref name="99選手名鑑bbm">{{Cite book|和書|title=1999年度決定版 プロ野球選手名鑑|editor=池田哲雄(発行者)|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|date=1999-03-10|page=40|isbn=978-4583045610}}</ref>。当時の投手陣では豊富な実績・経験から[[落合英二]]とともに中継ぎエースとして期待されていたがシーズンの大半を棒に振ってしまったことから、中山の古巣・横浜とのリーグ優勝争いに敗れ2位に終わったチームの首脳陣からは幾度となく「あいつがいれば…」とため息が漏れた<ref name="99中日ファンブック">{{Cite book|和書|title=中日ドラゴンズ '99ファンブック|series=中日ドラゴンズファンブック|publisher=中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)|date=1999-03-17|page=76|ISBN=978-4806203834}}</ref>。 |
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:同年オフには[[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント]](FA)資格を取得したが残留し<ref>『[[産経新聞]]』1998年10月15日東京朝刊スポーツ面「木田ら16人が新たにFA取得 プロ野球」</ref>、推定年俸4,200万円(前年比200万円減)で契約更改した<ref name="99選手名鑑"/>。 |
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;{{by|1999年}} |
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:同年はリリーフのみで31試合に登板して3勝1敗・防御率3.16の成績を挙げ、自身初・中日球団史上11年ぶり5度目のセ・リーグ優勝に貢献した<ref name="2000選手名鑑">{{Cite book|和書|title=完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ 12球団全選手カラー百科名鑑2000|journal=ホームラン|volume=第24巻第3号(通算:第252号、2000年3月号)|publisher=日本スポーツ出版社|date=2000-03-31|page=33}}</ref>。 |
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:[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]との[[1999年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第3戦(ナゴヤドーム)にて9回表に敗戦処理として登板した<ref>{{Cite web|title=1999年度日本シリーズ 試合結果(第3戦)|url=http://npb.jp/bis/scores/nipponseries/boxscore1999_3.html|publisher=NPB.jp [[日本野球機構]]|date=1999-10-26|accessdate=2018-04-19|archivedate=2018-04-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180419122508/http://npb.jp/bis/scores/nipponseries/boxscore1999_3.html}}</ref>。 |
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:同年11月24日には[[名古屋市]]内の病院に入院して両膝半月板の手術を受けた<ref>『中日新聞』1999年11月26日朝刊第一スポーツ面27面「プロ野球短信 25日 中山が両ひざ手術」</ref>。同年オフ、推定年俸4,400万円(前年比200万円増)で契約更改した<ref name="2000選手名鑑"/>。 |
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;{{by|2000年}} |
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:同年もリリーフで25試合に登板したが<ref name="2001選手名鑑">{{Cite book|和書|title=完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ 12球団全選手カラー百科名鑑2001|journal=ホームラン|volume=第25巻第2号(通算:第258号、2001年3月号)|publisher=日本スポーツ出版社|date=2001-03-31|page=47}}</ref>、徐々にチームが投手王国となり、[[落合英二]]・[[正津英志]]・[[岩瀬仁紀]]らが台頭するにつれて登板機会が減少していった。 |
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:同年11月28日、来季の契約について推定年俸4,300万円(前年比100万円減)で更改した<ref>『中日新聞』2000年11月29日朝刊第一スポーツ面27面「中日契約更改 岩瀬、7800万円を保留 倍増8400万円を希望 福留現状維持」</ref>。 |
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;{{by|2001年}} |
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:一軍でわずか4試合の登板に終わった同年の10月12日、[[小池秀郎]]・[[鈴木平]]・[[永田能隆]]とともに球団から[[戦力外通告]]を受けた<ref>『中日新聞』2001年10月13日朝刊第一スポーツ面29面「プロ野球短信 12日 4投手に戦力外」</ref><ref>『[[毎日新聞]]』2001年10月13日東京朝刊第一スポーツ面17面「プロ野球 中日が4投手を自由契約」</ref>。 |
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:同年12月2日にNPBコミッショナー事務局により自由契約選手として公示され、同年限りで退団した<ref>『中日新聞』2001年12月3日朝刊第一スポーツ面23面「メイ、アリアスら自由契約選手に」</ref>。同日までに開かれた[[12球団合同トライアウト]]には計2回参加したが、獲得に手を挙げるNPB球団はなかったため、[[台湾プロ野球]]・[[大韓民国|韓国]]の[[KBOリーグ]]への移籍を視野に現役続行を目指した<ref>{{Cite news|title=プロ野球高知会 参加メンバー近況報告|url=http://www.kochinews.co.jp/0112/011203sports03.htm|newspaper=[[高知新聞]]|publisher=[[高知新聞社]]|date=2001-12-03|accessdate=2018-04-22|archivedate=2002-09-19|archiveurl=http://web.archive.org/web/20020919143114/http://www.kochinews.co.jp/0112/011203sports03.htm}}</ref>。 |
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中日の中山了球団社長は「裕章の獲得が球団のイメージに悪影響を及ぼさないとは言い切れない」と述べたが<ref name="読売新聞1993-12-28"/>、一方で獲得に至った経緯や今後の見込みについて「彼(裕章)はやってはならない過ちを犯したが、真摯な反省と自戒の2年間を過ごし社会的制裁も受けた。許すことがあってもいい。即戦力とまではいかないが、早ければ来年の後半か再来年にも(一軍のマウンドに)出てきてくれるだろう」と話した<ref name="朝日新聞1993-12-28"/>。中山裕章は同日、球団を通して「これまでのことは深く反省している。どうしても野球を忘れることはできなかった。1から出直す覚悟で一生懸命やる」とコメントした<ref name="中日新聞1993-12-28"/>。<!--ここでは中日球団社長・中山了氏が中山元投手と同姓のため、本記事当該投手を「裕章」と下の名前で表記しています-->中日が火中の栗を拾う様な形で中山獲得に乗り出した理由は先発ローテーションを担える右投手が不在していた事情があったためで<ref name="週刊文春1993-12"/>、現役復帰後の1995年3月に発売された『[[ホームラン (雑誌)|ホームラン]]』1995年3月号増刊『'95プロ野球 12球団全選手百科名鑑』([[日本スポーツ出版社]])では「右の先発ローテーションに入るか?」と記載されたが<ref name="95選手名鑑"/>、中日時代は先発で登板する機会はなかった。 |
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=== 中日退団後 === |
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合同トライアウト受験後の2001年12月、横浜を退団した[[小桧山雅仁]](中山の退団後、ベイスターズで最初に背番号19を着用)とともに[[台湾]]・[[中華職業棒球大聯盟]](CPBL)の和信ホエールズ(翌2002年シーズンより「[[中信ホエールズ]]」に球団名を変更)に入団した<ref>『週刊ベースボール』2001年12月31日号 p.101 「台湾的職棒事情 - TOPICS 小桧山、中山が和信入り」(リポート/戸部良也・陳潤波)</ref>。 |
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==== 1994年 ==== |
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中信では大洋時代の1991年以来となる先発投手に転向してエース格投手として活躍し<ref>『週刊ベースボール』2003年8月25日号 「你好!台湾職棒 TAIWAN PROFESSIONAL BASEBALL - TOPICS 中山が11勝目マーク」(リポート/戸部良也・陳潤波)</ref>、{{by|2002年}}は12勝10敗、翌{{by|2003年}}も13勝4敗と2年続けて好成績を残した<ref name="CPBL">{{Cite web|title=球員個人紀錄:中山裕章|url=http://www.cpbl.com.tw/players/person.html?player_id=W086|publisher=[[中華職業棒球大聯盟]](CPBL)|accessdate=2018-01-02|archivedate=2018-01-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180102172501/http://www.cpbl.com.tw/players/person.html?player_id=W086}}</ref>。『毎日新聞』2003年10月7日東京夕刊・大阪夕刊記事「憂楽帳」(記者:飯田和郎)は当時の中山に関して「台湾プロ野球はNPBに設備・待遇面で劣ることから試合後は夜食にコンビニ弁当を食べて空腹を満たしたこともあったが、『野球をやらせてもらっている』喜びが体に満ちた」と報道している<ref name="毎日新聞2003-10-07東京"/><ref name="毎日新聞2003-10-07大阪"/>。 |
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球界復帰1年目となる'''{{by|1994年}}'''春は[[中日ドラゴンズ (ファーム)|二軍]]の打撃投手として、[[串間市営球場]]で行われた春季二軍[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]に参加しつつ、実戦復帰を目指した<ref name="中日新聞1994-06-11"/>。そして[[稲葉光雄]]コーチらの指導を受け、選手契約を目指し<ref>『高知新聞』1994年1月7日朝刊第一運動面9頁「プロ野球 中日・中山裕章 合宿所入り」(高知新聞社)</ref>、同年6月10日には契約金なし<ref name="朝日新聞1994-06-11"/>・年俸800万円(推定)・背番号125で選手契約を結び、同日付で[[支配下選手登録]]を受けた<ref name="中日新聞1994-06-11">『中日新聞』1994年6月11日朝刊第一スポーツ面35頁「中山投手と選手契約 中日 2年半ぶり現役復帰」(中日新聞社)</ref><ref name="読売新聞1994-06-11">『読売新聞』1994年6月11日東京朝刊スポーツ面A欄17頁「中日・中山裕章投手を選手登録」(読売新聞東京本社)</ref><ref name="朝日新聞1994-06-11">『朝日新聞』1994年6月11日東京朝刊第一スポーツ面25頁「中日と選手契約 打撃投手から“昇格”」(朝日新聞東京本社)</ref><ref name="スポニチ2012-06-10">{{Cite news|title=【6月10日】1994年(平6) 不祥事から2年半 中山裕章 中日の支配下登録選手に|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1206/kiji/K20120610003445580.html|newspaper=スポニチアネックス(スポーツニッポン)|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2012-06-10|language=ja|accessdate=2018-01-01|archivedate=2019年7月22日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190722053423/https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1206/kiji/K20120610003445580.html}}</ref>。これは中日球団は「練習態度が真面目で、そろそろチャンスを与えてもいいだろう」と判断したためで<ref name="中日新聞1994-06-11"/>、中山は2年半ぶりに現役選手として復帰した{{Sfn|ベースボール・マガジン社|1994|p=52}}。同日、中山は「被害者がいる以上、罪は消えないが、再び野球ができることに感謝の気持ちでいっぱいだ」とコメントした<ref name="中日新聞1994-06-11"/><ref name="スポニチ2012-06-10"/>。また中山了・中日球団社長は「事件は絶対に犯してはならない過ちだったが、本人は2年以上も深く反省していたし『もうチャンスを与えてもいいだろう』と考えた。二軍で打撃投手を務めさせつつ、投手としての実力のみならず性格も観察した上で復帰を承認した」と<ref name="中日新聞1994-06-11"/>、川島セ・リーグ会長も「中山君は『過去』というものを償いあまりある努力をしたに違いない。新生・中山が生まれることをファンも期待しているだろう」と、それぞれ談話を発表した<ref name="読売新聞1994-06-11"/>。 |
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一方で中山が正式採用された1994年6月以降、中日球団や親会社・中日新聞社には抗議・無言電話が殺到し、復帰第一戦の翌日(1994年7月25日)は球団事務所で厳戒態勢が取られた<ref name="週刊ポスト1994-08-12">{{Cite journal|和書|journal=[[週刊ポスト]]|title=NEWS MAKERS マウンド復帰の中山投手にまだまだ続く茨の道|volume=26|date=1994-08-12|issue=30|publisher=[[小学館]]|language=ja|author=|page=55}}(※1994年8月12日号。通巻第1253号)</ref>。また、中日の[[水谷啓昭]]投手コーチは山田ゆかり<!-- 単独ページを持つ人物は、同名の別人のためリンクしないこと -->の取材に対し「中山が懸命に努力している姿を見てからは応援する気になったが、初めは『冗談じゃない。[[黒い霧事件 (日本プロ野球)|黒い霧事件]]で永久追放になった選手もいるのに、なんで性犯罪を犯したような選手を雇うのか』と球団への不満を抱いたし、チームメートへの悪影響も懸念した」と<ref name="AERA 1994">{{Cite journal|和書|author=スポーツライター:山田ゆかり|date=1994-08-08|title=復帰中山に球界の困惑と温情 逮捕から二年半(リポートスポーツ)|journal=[[AERA]]|volume=7|issue=32|page=61|publisher=[[朝日新聞社]]|language=ja}}(※1994年8月8日号・通巻第332号)</ref>、『[[スポーツニッポン]]』編集委員・[[小川勝]]も1999年に「中山が登板すると試合のテレビ中継でも必要最小限のコメントしかせず、極力言及を避けている。中山を単独で取り上げることは必然的に少女へのわいせつ事件に言及せざるを得なくなることであり、現在のプロ野球報道で一種のタブーとなっている{{Efn2|村山望は『[[新潮45]]』2004年10月号(新潮社)にて「過去の事件のために解説者は中山が登板する際に気を遣ったほか、相手チームの選手にとっても同様に中山は野次りにくい選手だった」と述べた<ref name="新潮45 2004-10"/>。}}ようだ。『球界復帰に当たっては被害者・家族の合意を得た』という話だが、中山が起こした事件は抵抗手段を持たない少女への一方的な性的虐待であり、被害者の少女たちが心の深い層で深刻なトラウマを抱え込んだ可能性がある。そのトラウマの深刻さは少なくとも本人たちが成人するまでわからないもので、その点を考慮すれば中山をわずかな期間で球界復帰させた決定には疑問を抱かざるを得ない」と指摘した<ref name="サンデー毎日1999-11-14">{{Cite journal|和書|journal=[[サンデー毎日]]|title=ベースポール Epoch of Baseball 新時代 中山裕章の活躍と消せない“疑問”|volume=78|date=1999-11-14|issue=49|publisher=[[毎日新聞社]]|language=ja|author=小川勝(スポニチ編集委員)|page=130}}(※1999年11月14日号。通巻第4349号)</ref>。 |
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2003年9月時点で12勝を挙げていたが<ref name="週刊ベースボール2003-10-06"/>、肘の故障に加え<ref name="毎日新聞2003-10-07東京">『毎日新聞』2003年10月7日東京夕刊第一社会面9面「[憂楽帳]最後のマウンド」(記者:飯田和郎)</ref><ref name="毎日新聞2003-10-07大阪">『毎日新聞』2003年10月7日大阪夕刊第一社会面11面「[憂楽帳]最後のマウンド」(記者:飯田和郎)</ref>「妊娠5ヶ月の妻が5か月後(翌2004年2月ごろの)第一子出産を控えて日本に帰国しているため、出産前に帰国して面倒を見たい」という事情から同月には中信球団に「今季限りで退団・帰国する」と申し入れた<ref name="週刊ベースボール2003-10-06"/>。これに対し中信球団側は「主力投手として活躍し、[[郭李建夫]](元阪神)とともに若手にアドバイスを送るなどしてチームに貢献している上、台湾の公用語である[[北京語]]も覚えてチームの人気者になっている貴重な選手だ。来季({{by|2004年}})も台湾でプレーしてほしい」と慰留したが、退団の決意を翻意することはなかった<ref name="週刊ベースボール2003-10-06">『週刊ベースボール』2003年10月6日号 「你好!台湾職棒 TAIWAN PROFESSIONAL BASEBALL - TOPICS 中山が今季限りを表明」(リポート/戸部良也・陳潤波)</ref>。 |
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中日入団以降、当時空白となっていた抑え投手の座を得るために必要な瞬発力を得るべく、ランニングではダッシュを重視するなど重点的なトレーニングを重ねていた<ref name="中日新聞1995-02-14">『中日新聞』1995年2月14日朝刊第一スポーツ面23頁「なにくそ10・8 Dアリゾナから/ 中山 抑えこそ自分の仕事 己が勝負の相手 よみがえる力投」(中日新聞社 記者:末次秀行)</ref>。同年6月21日には[[ウエスタン・リーグ]](ウ・リーグ)の[[福岡ソフトバンクホークス (ファーム)|福岡ダイエーホークス]]戦([[ナゴヤ球場]])で先発し、1991年10月10日の[[阪神タイガース|阪神]]戦以来となる現役復帰後初登板を果たした<ref name="中日新聞1994-06-22">『中日新聞』1994年6月22日朝刊第一スポーツ面23頁「ウエスタン 中山まずまず 復帰後、初の登板」(中日新聞社)</ref>。この試合では3回を投げ、打者14人と対戦して5被安打・4奪三振の結果で、[[山之内健一]]に高め速球を打たれ、本塁打を記録されるなど3失点を喫したが、ブランクを差し引けばまずまずの投球内容だった<ref name="中日新聞1994-06-22"/>。同年7月21日には[[高木守道]]監督ら首脳陣立ち会いの下でナゴヤ球場にて昇格テストを受け、高木監督から「長いイニングは無理だが、試合の展開次第で投げさせ様子を見たい」と判断を受けたため、後半戦からの一軍合流が決定した<ref name="毎日新聞1994-07-22">『毎日新聞』1994年7月22日東京朝刊第二スポーツ面20頁「プロ野球 中日の中山投手、一軍へ」(毎日新聞東京本社)</ref>。 |
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郭李は中山の退団を惜しみ「奥さんが日本で出産する事情があるとは言ってもまだ台湾で現役続行してほしかった」とコメントした<ref name="週刊ベースボール2003-10-13"/>。2003年9月21日、[[台北市立天母棒球場]]で開かれた[[中信兄弟|兄弟エレファンツ]]戦で同じく日本人投手の[[横田久則]](元[[埼玉西武ライオンズ|西武]]・ロッテ・阪神)と投げ合い、3失点を喫するも完投して13勝目を挙げて有終の美を飾った<ref name="週刊ベースボール2003-10-13"/>。この試合前、中信・[[林仲秋]]監督は中山に「この試合が台湾でのラストゲームだから今日は絶対に勝て。勝たなかったら日本に帰国させないぞ」とハッパをかけていた<ref name="週刊ベースボール2003-10-13"/>。試合後、中山はヒーローインタビューで満員のファンに対し「2年間ご声援いただきまして本当にありがとうございました。残念ながら総冠軍戦([[台湾シリーズ]])には出場できませんでしたが、来年こそはチームの優勝を祈っています」とコメントし<ref name="週刊ベースボール2003-10-13">『週刊ベースボール』2003年10月13日号 「你好!台湾職棒 TAIWAN PROFESSIONAL BASEBALL - TOPICS 中山が別れのあいさつ」(リポート/戸部良也・陳潤波)</ref>、同年限りで現役を引退した<ref name="毎日新聞2003-10-07東京"/><ref name="毎日新聞2003-10-07大阪"/>。この引退試合を観戦していた『毎日新聞』記者・飯田和郎は前述の記事「憂楽帳」にて「『日本で二度死んだ男(大洋・中日をそれぞれ解雇された)』=中山は『人生の新しいイニング』をどう投げるのだろうか。大洋時代の事件の罪を償ってもその過去は重く、日本に帰国しても他人の視線を覚悟しなければならないが、彼がヒーローインタビューで述べた『“台湾で過ごした日々が自分を成長させてくれた”と思えるようになりたい』という言葉を信じたい」と記している<ref name="毎日新聞2003-10-07東京"/><ref name="毎日新聞2003-10-07大阪"/>。 |
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翌7月22日、中山は現役復帰後初<ref>『中日新聞』1994年7月23日朝刊第一スポーツ面25頁「中日・平田が一軍 セ・パ合計6新人昇格 両リーグ公示」(中日新聞社)</ref>・大洋時代の1991年10月以来となる33カ月ぶりの一軍選手登録を受け、同日付で背番号も67に変更された<ref name="読売新聞1994-07-23">『読売新聞』1994年7月23日東京朝刊スポーツ面A欄15頁「プロ野球登録選手入れ替え 中日・中山が33か月ぶり1軍ベンチ入り」(読売新聞東京本社)</ref>。7月23日の対巨人戦(ナゴヤ球場)からベンチ入りし<ref name="読売新聞1994-07-23"/>、翌24日の試合で先発・[[山本昌]]{{Efn2|6回表に5回13被安打5失点の投球内容で降板<ref name="読売新聞1994-07-25"/>。}}に代わり、中継ぎとして1991年10月10日以来の一軍登板を果たし、1イニング1被安打0失点に抑えた<ref name="読売新聞1994-07-25">『読売新聞』1994年7月25日東京朝刊スポーツ面A欄15頁「ミスター500勝 山本昌攻略、先発全員19安打/巨人8-2中日」(読売新聞東京本社)</ref>。中山本人は前日から野次を飛ばされることを覚悟していたが<ref name="AERA 1994"/>、中山が登板した際には多少の野次こそあったものの<ref name="週刊新潮1994-08"/>、拍手や声援が多かった{{Efn2|その後も中日時代は8年間にわたり、登板する度に常に野次を浴びせられてはいたが、中山自身は「気にはなっても何も言わない。言ったところで仕方がない」と割り切っていたほか、チームメイトが中山へ野次を飛ばす観客に対し「うるせえんだよ!」と怒鳴りつける場合もあった<ref name="週刊アサヒ芸能2004-05-20"/>。中山自身はそのようなチームメイトと同じ球団でプレーしていた中日時代について「中日に入って良かった」と感じてはいたが、事件のことが負い目になっていたためか、彼らとあまり親密に付き合おうとはしなかった<ref name="週刊アサヒ芸能2004-05-20"/>。}}<ref name="AERA 1994"/>。当時、中山は『週刊新潮』の取材に対し「現時点ではまだ80%ほどの出来で、速球・[[カーブ (球種)|カーブ]]とも今一つであり、やはり[[フォークボール|フォーク]]が一番だ。ゆくゆくは先発で投げてみたいし、お世話になった方のためにも早く1勝を挙げたい」と述べていた<ref name="週刊新潮1994-08"/>。 |
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現役引退後はメディアへの露出を控えているが<ref name="鈴木 p.134-135"/>、『[[週刊アサヒ芸能]]』2015年8月20日号([[徳間書店]])は「現役引退後は貿易業を行っている」と報道しているほか<ref>{{Cite news|title=“甲子園スター”たちの流転人生!「萩原誠・中山裕章」|url=http://www.asagei.com/excerpt/41487|newspaper=アサ芸プラス(『[[週刊アサヒ芸能]]』2015年8月20日号)|publisher=[[徳間書店]]|date=2015-08-16|accessdate=2018-01-03|archivedate=2018-01-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180103152302/http://www.asagei.com/excerpt/41487}}</ref>、高知商業高校時代にバッテリーを組んだ捕手・岡村英人(現・高知商業高校野球部部長)は2016年に『[[Sports Graphic Number]]』([[文藝春秋社]])記者・鈴木忠平の取材に対し「(中山は現在)自分で事業を頑張っている」と証言した<ref name="鈴木 p.134-135">[[#鈴木(2016)|鈴木(2016) p.134-135]]</ref>。 |
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同年は一軍6試合に登板し、0勝0敗0セーブ・防御率5.79の成績で<ref name="95選手名鑑">{{Cite journal|和書|title='95プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第19巻第3号(通算:第202号 / 1995年3月号増刊)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1995-03-15|page=39}}</ref>、古巣・大洋時代の本拠地球場・[[横浜スタジアム]](大洋は{{by|1993年}}より「横浜ベイスターズ」に球団名を変更)で登板することはなかった{{Efn2|ベースボール・マガジン社(1994)による同年の中日対横浜戦の記録によれば{{Sfn|ベースボール・マガジン社|1994|pp=200-202}}、同年の横浜戦で中山が登板した試合は7月27日・第18回戦(ナゴヤ球場 / [[ドウェイン・ヘンリー]]に続き3番手投手として登板・勝敗つかず)のみ{{Sfn|ベースボール・マガジン社|1994|p=200}}。}}。また、同年10月8日にナゴヤ球場で開かれた巨人との優勝決定戦「[[10.8決戦]]」でも登板機会はなかった<ref name="高知新聞1995-02-14">『高知新聞』1995年2月14日朝刊第一運動面10頁「プロ野球キャンプ'95 鍛える高知県勢(3) 中山裕章投手(中日)高知商高・高知市 (米アリゾナ州ピオリア共同)」(高知新聞社)</ref>。同年オフの11月15日は推定年俸1,200万円(前年比800万円増)で契約更改した<ref>『中日新聞』1994年11月16日朝刊第二スポーツ面20頁「プロ野球契約更改(金額は推定) 【中日】野中倍増の1600万 中山5割アップ」(中日新聞社)</ref>。 |
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== 選手としての特徴・人物 == |
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高校時代は最速150km/hを記録する速球を武器に甲子園で活躍し<ref name="86選手名鑑"/><ref name="上杉 p.42">[[#上杉(2015)|上杉(2015) p.42]]</ref>、1985年に夏の甲子園で対戦した清原は自著で中山を「当時から桑田と並ぶ大会屈指の好投手として注目されていたが、肝っ玉も超高校級だった」と評した<ref name="清原 p.98">[[#清原(2009)|清原(2009) p.98]]</ref>。 |
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==== 1995年 ==== |
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大洋時代は右投げの速球派投手としてリリーフ・先発で活躍し、1989年1月16日付の『読売新聞』朝刊記事では「時に帽子を振り飛ばすほどの力強い力投は“弱小大洋”の中で1人気を吐いた『和製ライアン』」と紹介され、同紙の取材に対しては同じ速球派投手として[[ノーラン・ライアン]]を「尊敬する投手」として挙げていた<ref>『読売新聞』1989年1月16日東京朝刊スポーツ面A欄19面「[進め!ヤング]大洋・中山裕章 実績残し自信の和製ライアン」</ref>。また大洋時代は「[[金太郎]]」の愛称で親しまれたほか「営業マンとしてもやっていける」と言われる腰の低さから、1991年の事件当時は「球界でも屈指の好青年」として知られていた<ref name="中日新聞1991-12-26"/>。 |
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球界復帰2年目の'''{{by|1995年}}'''は背番号を大洋時代と同じ19番に変更し{{Efn2|この時は47番も提示されたが、本人は愛着のある19番を選択した<ref name="高知新聞1995-02-14"/>。}}<ref name="高知新聞1995-02-14"/>、アメリカ・[[アリゾナ州]]春季[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]では600球を投げ込むなど、抑え投手の座を得るべくトレーニングを積み重ねた{{Efn2|中日は1994年に10.8決戦で敗れ、リーグ優勝を逃したが、当時は絶対的な抑え投手が不在だったため、1995年シーズンに向け抑え投手が課題となっていた{{Sfn|ベースボール・マガジン社|1994|pp=12-13}}。}}<ref name="中日新聞1995-02-14"/>。同年はチームが低迷(終盤近くまで最下位・最終順位は5位)する中で{{Efn2|チームの低迷を受けてシーズン途中(6月2日限り)で高木監督が辞任し、その代行を務めた[[徳武定祐]]コーチもシーズン閉幕を待たずに解任されたため、閉幕まで[[島野育夫]]コーチが監督代行の代行を務めていた。}}、中継ぎ・抑えとしてチーム最多の44試合に登板し、初勝利を含めて3勝6敗4セーブ・防御率3.27の成績を挙げ<ref name="96選手名鑑">{{Cite journal|和書|title='96プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第20巻第4号(通算:第213号 / 1996年3月号増刊)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1996-03-31|page=80}}</ref>7セーブポイントを記録した<ref name="97選手名鑑"/>。また同年5月1日には運送会社に勤務しつつ球界復帰を目指していた1993年に知人の紹介で知り合った20歳代の女性(当時・神奈川県[[川崎市]]在住)と入籍したことを明らかにした<ref name="中日新聞1995-05-02">『中日新聞』1995年5月2日朝刊第一スポーツ面21頁「プロ野球短信 中山投手が入籍」(中日新聞社)</ref>。 |
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同年4月12日の[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦([[明治神宮野球場]])では大洋時代・1989年8月11日の阪神戦(横浜スタジアム)以来2,070日ぶり、球界復帰後初となるセーブを挙げ<ref>『中日新聞』1995年4月13日朝刊第一スポーツ面25頁「立浪やっと開花 中山6年ぶりS 強竜打線一気に目覚め」(中日新聞社)</ref>、同年5月24日には古巣・大洋の後身である横浜ベイスターズ戦にて現役復帰後初めて横浜スタジアムで登板を果たした。この試合では延長12回裏から登板したが、二死満塁の場面で[[波留敏夫]]から右翼線へ抜ける[[サヨナラゲーム|サヨナラ]][[適時打|タイムリー]]を打たれ、敗戦投手となった<ref>『中日新聞』1995年5月25日朝刊第12版第一スポーツ面23頁「セ・リーグ 横浜4-3中日 横浜スタジアム 延長12回 竜力尽く 郭また“魔の九回” 中山、サヨナラ打浴びる」(中日新聞社)</ref>。 |
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中日時代は力のある速球に加えて「ストライクを取るフォークと空振りを取るフォーク」の2種類の[[フォークボール]]を武器に中継ぎ投手として活躍した<ref name="97中日ファンブック"/>。1997年は速球・フォークに加えて[[カーブ (球種)|カーブ]]・[[スライダー (球種)|スライダー]]も持ち球としていた<ref name="江川98"/>。1991年の事件当時は前述のように[[メルセデス・ベンツ|ベンツ]]が愛車だったが、中日時代の1999年選手名鑑([[ベースボール・マガジン社]])では「愛車は[[トヨタ・クラウン]]」と紹介されていた<ref name="99選手名鑑bbm"/>。 |
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同年6月6日には[[広島東洋カープ]]戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])で8回裏(1点ビハインド)に中継ぎで登板すると、9回表に[[山崎武司]]の同点二塁打が飛び出し、延長10回表まで2イニングを投げた<ref name="中日新聞1995-06-07"/>。そして延長12回裏には[[仁村徹]]の決勝打でチームが勝ち越し、最後は中山の後を継いだ[[古池拓一]]が1点リードを守ったことにより、中山は1991年9月29日の巨人戦以来1,346日ぶりとなる球界復帰後初勝利を飾った{{Efn2|この勝利は高木監督のシーズン途中解任を受け、監督代行を務めていた[[徳武定祐]]コーチが指揮を執り始めて2試合目にしての初勝利でもあった<ref name="中日新聞1995-06-07"/>。}}<ref name="中日新聞1995-06-07">『中日新聞』1995年6月7日朝刊第一スポーツ面27頁「徳武竜“新風”1勝 仁村が12回決勝打」(中日新聞社)</ref>。 |
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このころには大洋時代の活躍の片鱗が窺えるところまで速球の威力が回復していたが、本人は「まだムラがあり、イメージ通りの速球には程遠い」と満足しておらず、全盛期の「速球で相手打者を追い込み、独特の揺れるフォークで抑える」というパターンを取り戻すべく腐心した<ref name="96中日ファンブック">{{Cite book|和書|title=中日ドラゴンズ '96ファンブック|series=中日ドラゴンズファンブック|publisher=中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)|date=1996-03-13|page=47|ISBN=978-4806203131}}</ref>。同年オフ(11月30日)には推定年俸2,000万円(前年比800万円増)で契約更改した<ref>『中日新聞』1995年12月1日朝刊第一スポーツ面33頁「山本昌4000万円ダウンパーセント 中日契約更改 金村は50%減保留」(中日新聞社)</ref>一方、同年オフには韓国球界のスーパースターである[[宣銅烈]]{{Efn2|[[KBOリーグ|韓国球界]]の[[起亜タイガース|ヘテ・タイガース]]から加入<ref name="97中日ファンブック"/>。}}が新たな抑え投手候補として加入<ref name="高知新聞1996-02-18"/>。[[星野仙一]]監督(同年オフに就任){{Efn2|星野は1987年 - 1991年(当時、中山は大洋に在籍)にも中日の監督を務めていたため、5年ぶりの復帰となった。}}は宣を抑え投手として起用する方針だったため、中山は居場所を追われる格好となったが、本人は宣の代役に備えて準備していた<ref name="高知新聞1996-02-18">『高知新聞』1996年2月18日朝刊第一運動面11頁「プロ野球キャンプ'96 鍛える高知県勢(5) 中山裕章・投手 中日 高知商高(高知市) ライバルは宣銅烈」(高知新聞社)</ref>。 |
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==== 1996年以降 ==== |
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'''{{by|1996年}}'''の開幕当初は宣へのつなぎ役(中継ぎ)を務めていたが、宣が初登板から抑えに失敗し、その後も不安定な投球だったことからその代役に抜擢され<ref>『高知新聞』1997年2月25日朝刊第一運動面11頁「プロ野球キャンプ'97 『鍛える県勢』(8) 中山裕章投手 中日 高知商高(高知市) 期待集める守護神」(高知新聞社)</ref>、首脳陣の期待に応えた<ref>『高知新聞』1996年8月3日夕刊スポーツ面4頁「竜の守護神!!中山裕章 弱体投手陣支えV目指す 星野監督も絶賛の働き (安藤) プロ野球」(高知新聞社)</ref>。同年前半戦(77試合)ではチームの投手陣で唯一、二軍落ちすることなく、一貫して一軍で過ごし<ref>『中日新聞』1996年7月19日朝刊第一スポーツ面33頁「星野監督に聞く 後半戦は打ち勝つ 投手陣の整備したい」(中日新聞社)</ref><ref>『中日新聞』1996年7月21日朝刊第二スポーツ面22頁「96年プロ野球オールスター戦 第1戦 山本MVP弾」「清原対戦に中山闘志」(中日新聞社)</ref>、力のある速球・[[フォークボール|フォーク]]を武器に抑え投手として活躍した<ref name="97中日ファンブック"/>。後半戦には前半戦に比べ、調子を落としたが、球界復帰から3年目で完全復調の手応えを掴み<ref name="97中日ファンブック">{{Cite book|和書|title=中日ドラゴンズ '97ファンブック|series=中日ドラゴンズファンブック|publisher=中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)|date=1997-03-18|page=59|ISBN=978-4806203360}}</ref>、36試合に登板し、4勝4敗14セーブ・18セーブポイント・防御率2.88の数字を残した<ref name="97選手名鑑">{{Cite journal|和書|title='97プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第21巻第4号(通算:第225号 / 1997年3月号増刊)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1997-03-31|page=38}}</ref>。同年オフには推定年俸4,500万円(前年比125%アップ、2,500万円増)で契約更改した<ref>『中日新聞』1996年11月27日朝刊第一スポーツ面29頁「中日契約更改 門倉、野口ほぼ倍増 守護神・中山125%アップ」(中日新聞社)</ref>。 |
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同年7月11日にはセ・リーグ代表監督・[[野村克也]](当時・ヤクルト[[プロ野球監督|監督]])の推薦により{{Efn2|野村はこの時、中山の選出について「現在・未来が大切で過去は問わない」とする談話を発表した上で<ref name="毎日新聞1996-07-12"/><ref>『毎日新聞』1996年7月20日東京朝刊社説・発言欄面5頁「[みんなの広場]中山のオールスター出場を喜ぶ=[[兵庫県]][[西宮市]]在住・21歳大学生男性からの投書」(毎日新聞東京本社)</ref>「本人は魔が差してしまったこともあったが(社会的制裁を受けるなどして)苦しんだことであり、現在は自分としては問題視はしていない。喜んでオールスターに出場してほしい」と激励した<ref name="毎日新聞1996-07-12"/>。中山は同日、野村が監督を務めるヤクルトとの試合前に野村に挨拶し、「選出されるとは思っていなかったので感謝しています。(高校時代に甲子園で対決した)[[清原和博]]選手([[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]所属)と対決して抑えたい」と抱負を語り<ref name="毎日新聞1996-07-12"/>、『中日新聞』の取材に対しては「前半戦の内容はそんなに良くない。選ばれた以上は打たれないよう一生懸命に投げる」と述べた<ref>『中日新聞』1996年7月12日朝刊第12版第一スポーツ面29頁「球宴陣容決まる 中日から最多タイ7人 山崎『緊張するだろうな』 10年目で夢かなう」(中日新聞社)</ref>。}}[[1996年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|サンヨーオールスターゲーム]]全セ(オールセントラル・リーグ)に選出され、大洋時代の1989年以来7年ぶりの代表選出を果たした<ref name="毎日新聞1996-07-12">『毎日新聞』1996年7月12日東京朝刊第一スポーツ面27頁「プロ野球 オールスターゲーム、『全パ』は11人が初出場--監督推薦選手、発表」(毎日新聞東京本社)</ref>。そのオールスターゲームでは第3戦(7月23日・[[富山市民球場アルペンスタジアム]])で先発投手・[[斎藤隆 (野球)|斎藤隆]](横浜)の後を継ぎ<ref name="中日新聞1996-07-24"/>、3回表に二番手投手として登板<ref name="中日新聞1996-07-24 中山"/>。[[イチロー]]([[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]])・[[村松有人]]・[[秋山幸二]](ともに福岡ダイエーホークス)・清原の計4人と対戦し、同回の先頭打者(1番打者)イチローに右中間三塁打を打たれると、続く2番打者・村松の中犠飛で球宴初失点(1点)を喫したが<ref name="中日新聞1996-07-24">『中日新聞』1996年7月24日朝刊第12版第一スポーツ面19頁「'96プロ野球オールスター戦最終戦 全セ4-2全パ 富山市民・夜」(中日新聞社)</ref>、2死で迎えた清原を145 km/hの速球で空振り三振に打ち取り<ref name="中日新聞1996-07-24 中山">『中日新聞』1996年7月24日朝刊第12版第一スポーツ面19頁「中山145キロ 清原を空振り三振、甲子園の借り返す」(中日新聞社 記者:栗田秀之)</ref>、1回1被安打2奪三振1失点の成績を残した<ref>{{Cite web|和書|title=1996年度サンヨーオールスターゲーム 試合結果(第3戦)|url=http://npb.jp/bis/scores/allstargame/boxscore1996_3.html|publisher=NPB.jp [[日本野球機構]]|date=1999-07-23|language=ja|accessdate=2018-04-19|archivedate=2018年4月19日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180419123505/http://npb.jp/bis/scores/allstargame/boxscore1996_3.html}}</ref>。 |
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'''{{by|1997年}}'''はチームがナゴヤ球場に代わる新本拠地・[[ナゴヤドーム]]に対応しきれず最下位に沈む中、リリーフのみでチーム最多の53試合に登板し、投球回76イニング2/3{{Efn2|阪神・[[伊藤敦規]]に次ぎリーグ2位<ref name="江川98"/>。}}を記録した<ref name="98選手名鑑">{{Cite journal|和書|title='98プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第22巻第4号(通算:第236号 / 1998年3月号増刊)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1998-03-31|page=95}}</ref>。同年は前年不調だった宣が一転して守護神として活躍したため自身のセーブはゼロに終わったが<ref name="98選手名鑑"/>、守護神・宣へつなぐセットアッパーとして1年を通じて活躍し<ref name="98中日ファンブック">{{Cite book|和書|title=中日ドラゴンズ '98ファンブック|series=中日ドラゴンズファンブック|publisher=中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)|date=1998-03-12|page=62|ISBN=978-4806203599}}</ref>、大洋時代最終年の1991年以来6年ぶり・球界復帰後では初となるシーズン7勝{{Efn2|勝利数は山本昌(18勝/セ・リーグ最多勝)、[[門倉健]](10勝)に次ぐチーム3位<ref>『高知新聞』1998年2月20日朝刊第一運動面12頁「『プロ野球キャンプ'98 鍛える県勢』(3) 中山裕章投手・中日 高知商高(高知市)」(高知新聞社)</ref>。}}を挙げた<ref name="98選手名鑑"/>。しかしその一方で6敗したほか、防御率も4.34と思わしくなく、本人は「大事な場面で打たれた不本意なシーズンだった」と振り返ったほか<ref name="中日新聞1997-12-02"/>、[[江川卓 (野球)|江川卓]]も課題点として「防御率の高さに加え、速球の力強さが失われ奪三振数が(それまで1イニング1個に近い割合だったのが)54個と減った。[[暴投]]も6回と多い」と指摘していた<ref name="江川98">{{Cite book|和書|title=江川卓 プロ野球スカウティング・レポート'98|publisher=[[ザ・マサダ]]|author=江川卓|authorlink=江川卓 (野球)|date=1998-03-25|page=182|isbn=978-4915977572}}</ref>。同年オフ(12月1日)には推定年俸4,400万円(前年比100万円減)で契約更改した<ref name="中日新聞1997-12-02">『中日新聞』1997年12月2日朝刊第一スポーツ面21頁「プロ野球契約更改(金額は推定) 【中日】 中山と北野は減額」(中日新聞社)</ref>。 |
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'''{{by|1998年}}'''シーズンは豊富な実績・経験から中継ぎエースとして期待され<ref name="99中日ファンブック"/>、その座を確立すべくシーズンに臨んだ<ref name="98中日ファンブック"/>。しかし同年は故障に加え<ref name="99選手名鑑"/>、この年からリリーフに専念した[[落合英二]]・新人の[[正津英志]]の台頭から登板機会は少なく<ref>{{Cite book|和書|title='99プロ野球選手写真名鑑|publisher=[[日刊スポーツ出版社]]|date=1999-04-13|series=日刊スポーツグラフ|isbn=978-4817250582|page=16}}</ref>、シーズンの大半を棒に振ってしまった<ref name="99中日ファンブック"/>。同年は一軍戦では7月に7試合(合計7イニング)登板<ref name="99選手名鑑">{{Cite journal|和書|title='99プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第23巻第3号(通算:第246号 / 1999年3月号増刊)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1999-03-31|page=39}}</ref>、二軍戦でも6試合登板に留まり<ref name="99選手名鑑bbm">{{Cite book|和書|title=1999年度決定版 プロ野球選手名鑑|editor=池田哲雄(発行者)|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|date=1999-03-10|page=40|isbn=978-4583045610}}</ref>、チームの首脳陣からは何度も「あいつがいれば…」とため息が漏れた<ref name="99中日ファンブック">{{Cite book|和書|title=中日ドラゴンズ '99ファンブック|series=中日ドラゴンズファンブック|publisher=中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)|date=1999-03-17|page=76|ISBN=978-4806203834}}</ref>。同年、チームは中山の古巣・横浜とのリーグ優勝争いに敗れ2位に終わった。同年オフには[[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント]](FA)資格を取得したが<ref>『[[産経新聞]]』1998年10月15日東京朝刊スポーツ面「木田ら16人が新たにFA取得 プロ野球」([[産経新聞東京本社]])</ref>、FA権を行使せず残留して推定年俸4,200万円(前年比200万円減)で契約更改した<ref>『中日新聞』1998年12月17日朝刊第三スポーツ面23頁「プロ野球契約更改(金額は推定) 【中日】 中山2百万減サイン」(中日新聞社)</ref>。 |
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'''{{by|1999年}}'''、中日はプロ野球タイ記録となる開幕11連勝を記録したが、中山はその11試合中4試合でリリーフとして登板し、いずれの試合でもピンチを無被安打で切り抜けた<ref name="ドラゴンズV 1999">{{Cite journal|和書|title=ドラゴンズV 1999 CENTRAL LEAGUE CHAMPIONS 中日ドラゴンズ優勝記念号|journal=週刊ベースボール|volume=54|issue=45|publisher=ベースボール・マガジン社|date=1999-10-17|page=55}}(※1999年10月17日号・通巻第2370号)</ref>。特に11連勝を決めた4月16日の巨人戦(東京ドーム)では先発した[[李尚勲|サムソン・リー]]の後を継ぎ、8回表から登板し、1回を三者凡退に抑え、勝利に貢献したほか、優勝が間近に迫った9月18日・横浜戦(横浜スタジアム)でも延長11・12回を投げ抜いて勝利に貢献<ref name="ドラゴンズV 1999"/>。同年はリリーフのみで31試合に登板し、3勝1敗・防御率3.16の成績を挙げ、自身初・中日球団史上11年ぶり5度目のセ・リーグ優勝に貢献した<ref name="2000選手名鑑">{{Cite journal|和書|title=完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ 12球団全選手カラー百科名鑑2000|journal=ホームラン|volume=第24巻第3号(通算:第252号 / 2000年3月号増刊)|publisher=日本スポーツ出版社|date=2000-03-31|page=33}}</ref>。[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]との[[1999年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第3戦(ナゴヤドーム)にて9回表に敗戦処理として登板した<ref>{{Cite web|和書|title=1999年度日本シリーズ 試合結果(第3戦)|url=http://npb.jp/bis/scores/nipponseries/boxscore1999_3.html|publisher=NPB.jp [[日本野球機構]]|date=1999-10-26|language=ja|accessdate=2018-04-19|archivedate=2018年4月19日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180419122508/http://npb.jp/bis/scores/nipponseries/boxscore1999_3.html}}</ref>。11月24日には[[名古屋市]]内の病院に入院し、両膝半月板の手術を受け<ref>『中日新聞』1999年11月26日朝刊第一スポーツ面27頁「プロ野球短信 25日 中山が両ひざ手術」(中日新聞社)</ref>、12月3日には推定年俸4,400万円(前年比200万円増)で契約更改した<ref>『中日新聞』1999年12月4日朝刊第一スポーツ面31頁「プロ野球契約更改(金額は推定) 【中日】 3日 神野400万円増を保留」(中日新聞社)</ref>。 |
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'''{{by|2000年}}'''は守護神・宣が引退したため、その後継者候補として期待されたが<ref name="2000中日ファンブック">{{Cite book|和書|title=中日ドラゴンズ 2000ファンブック|series=中日ドラゴンズファンブック|publisher=中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)|date=2000-03-09|page=78|ISBN=978-4806204022}}</ref>、両膝手術の影響により落合とともに前半戦を棒に振り<ref name="2001中日ファンブック">{{Cite book|和書|title=中日ドラゴンズ 2001ファンブック|series=中日ドラゴンズファンブック|publisher=中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)|date=2001-03-09|page=64|ISBN=978-4806204251}}</ref>、リリーフで25試合に登板したが<ref name="2001選手名鑑">{{Cite journal|和書|title=完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ 12球団全選手カラー百科名鑑2001|journal=ホームラン|volume=第25巻第2号(通算:第258号 / 2001年3月号増刊)|publisher=日本スポーツ出版社|date=2001-03-31|page=47}}</ref>、徐々にチームが投手王国となり落合・[[正津英志]]・[[岩瀬仁紀]]らが台頭するにつれて登板機会が減少していった。同年11月28日には来季の契約について推定年俸4,300万円(前年比100万円減)で更改した<ref>『中日新聞』2000年11月29日朝刊第一スポーツ面27頁「中日契約更改 岩瀬、7800万円を保留 倍増8400万円を希望 福留現状維持」(中日新聞社)</ref>。 |
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'''{{by|2001年}}'''シーズンは一軍で4試合登板・投球イニング6回2/3・0勝0敗の成績に終わり{{Efn2|name="2001年"|2001年の登板試合は8月1日(対巨人19回戦・[[東京ドーム]])<ref>『中日新聞』2001年8月2日朝刊第12版第一運動スポーツ面27頁「セ・リーグ第19節 1日 巨人7-0中日 東京ドーム19回戦 竜9度目の完封負け 入来9勝、G2発快勝」(中日新聞社)</ref>、8月4日(対ヤクルト17回戦・[[明治神宮野球場]])<ref>『中日新聞』2001年8月5日朝刊第12版第一運動スポーツ面31頁「セ・リーグ第19節 4日 ヤクルト12-1中日 神宮17回戦 竜4連敗借金7」(中日新聞社)</ref>、8月16日(対巨人23回戦・ナゴヤドーム)<ref>『中日新聞』2001年8月17日朝刊第12版第二運動スポーツ面24頁「セ・リーグ第21節 4日 中日9-3巨人 ナゴヤドーム23回戦 竜の意地、G戦3連勝」(中日新聞社)</ref>、8月22日(対[[広島東洋カープ]]19回戦・[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])<ref name="中日新聞2001-08-23">『中日新聞』2001年8月23日朝刊第12版第一運動スポーツ面25頁「セ・リーグ第22節 22日 広島5-0中日 広島19回戦 竜1安打完敗 井端の内野安打だけ 黒田にお手上げ 連勝6でストップ」(中日新聞社)</ref>の4試合。}}<ref name="高知新聞2001-12-03"/>、同年10月12日には[[小池秀郎]]・[[鈴木平]]・[[永田能隆]]とともに球団から[[戦力外通告]]を受けた<ref>『中日新聞』2001年10月13日朝刊第一スポーツ面29頁「プロ野球短信 12日 4投手に戦力外」(中日新聞社)</ref><ref>『[[毎日新聞]]』2001年10月13日東京朝刊第一スポーツ面17頁「プロ野球 中日が4投手を自由契約」(毎日新聞東京本社)</ref>。同年12月2日にNPBコミッショナー事務局により自由契約選手として公示され、同年限りで中日を退団した<ref>『中日新聞』2001年12月3日朝刊第一スポーツ面23頁「メイ、アリアスら自由契約選手に」(中日新聞社)</ref>。同日までに開かれた[[12球団合同トライアウト]]には計2回参加したが、獲得に手を挙げるNPB球団はなかったため、[[台湾プロ野球]]・[[大韓民国|韓国]]の[[KBOリーグ]]への移籍を視野に現役続行を目指した<ref name="高知新聞2001-12-03">{{Cite news|title=プロ野球高知会 参加メンバー近況報告|url=http://www.kochinews.co.jp/0112/011203sports03.htm|newspaper=[[高知新聞]]|publisher=高知新聞社|date=2001-12-03|language=ja|accessdate=2018-04-22|archivedate=2001年12月22日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20011222034735/http://www.kochinews.co.jp/0112/011203sports03.htm}} - 『高知新聞』2001年12月3日朝刊にも同一内容の記事が掲載されている。</ref>。 |
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=== 台湾球界時代 === |
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合同トライアウト受験後の2001年12月、横浜を退団した[[小桧山雅仁]](中山の退団後、ベイスターズで最初に背番号19を着用)とともに[[台湾]]・[[中華職業棒球大聯盟]] (CPBL) {{Efn2|中山の中信入団後、2003年ごろにはCPBLの規約に[[前科]]・重大な規律違反があった外国人選手を扱う内容が新たに追加されている<ref>{{Cite news|title=米投手の台湾ラミゴ入り、リーグ側が認めず 過去に姪へ性的虐待|newspaper=中央社フォーカス台湾|date=2018-08-11|author=黄巧ブン|editor=羅友辰|url=http://japan.cna.com.tw/news/aart/201808110003.aspx|agency=[[中央通訊社]]|location={{TWN}}・[[台北市]]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190507191940/http://japan.cna.com.tw/news/aart/201808110003.aspx|archivedate=2019年5月7日}}</ref>。}}の和信ホエールズ(翌2002年シーズンより「[[中信ホエールズ]]」に球団名を変更)へ入団した<ref>{{Cite journal|和書|journal=週刊ベースボール|title=台湾的職棒事情 - TOPICS 小桧山、中山が和信入り|volume=56|date=2001-12-31|issue=59|publisher=ベースボール・マガジン社|language=ja|author=リポート/戸部良也・陳潤波|page=101}}(※2001年12月31日号・通巻第2500号)</ref>。中信時代の背番号は日本球界時代と同じ'''19'''<ref>{{Cite web|url=http://www.whale.com.tw/b_19.htm|title=19 中山裕章|publisher=[[中信ホエールズ]]|website=中信ホエールズ公式サイト|accessdate=2002-10-13|archivedate=2002-10-13|language=zh-TW|archiveurl=https://web.archive.org/web/20021013174201/http://www.whale.com.tw/b_19.htm}}</ref>。 |
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中信では大洋時代の1991年以来となる先発投手に転向し、エース格投手として活躍<ref>{{Cite journal|和書|journal=週刊ベースボール|title=你好!台湾職棒 TAIWAN PROFESSIONAL BASEBALL - TOPICS 中山が11勝目マーク|volume=58|date=2003-08-25|issue=36|publisher=ベースボール・マガジン社|language=ja|author=リポート/戸部良也・陳潤波|page=}}(※2003年8月25日号・通巻第2593号)</ref>。'''{{by|2002年}}'''は12勝10敗、翌'''{{by|2003年}}'''も13勝4敗と、2年続けて好成績を残した<ref name="CPBL">{{Cite web|url=http://www.cpbl.com.tw/players/person.html?player_id=W086|title=球員個人紀錄:中山裕章 個人成績表|accessdate=2020-10-17|publisher=[[中華職業棒球大聯盟]]|website=中華職棒大聯盟全球資訊網 The Official Site of CPBL|language=zh-TW|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201017142025/http://www.cpbl.com.tw/players/person.html?player_id=W086|archivedate=2020-10-17}}</ref>。また[[郭李建夫]](元阪神){{Efn2|郭李は中山の退団を惜しみ「奥さんが日本で出産する事情があるとはいえ、まだ台湾で現役続行してほしかった」とコメントした<ref name="週刊ベースボール2003-10-13"/>。}}とともに若手にアドバイスを送るなどしてチームに貢献していたが{{Efn2|また台湾の公用語である[[国語 (中国語)|国語]]([[標準中国語]])も覚え、チームの人気者になっていた<ref name="週刊ベースボール2003-10-06"/>。}}<ref name="週刊ベースボール2003-10-06"/>、同年限りで現役を引退した<ref name="毎日新聞2003-10-07東京"/><ref name="毎日新聞2003-10-07大阪"/>。これは肘の故障に加え<ref name="毎日新聞2003-10-07東京">『毎日新聞』2003年10月7日東京夕刊第一社会面9頁「[憂楽帳]最後のマウンド」(毎日新聞東京本社 記者:飯田和郎)</ref><ref name="毎日新聞2003-10-07大阪">『毎日新聞』2003年10月7日大阪夕刊第一社会面11頁「[憂楽帳]最後のマウンド」(毎日新聞大阪本社 記者:飯田和郎)</ref>、妻が帰国を望んだためで{{Efn2|中山本人は2005年に『高知新聞』記者・土橋宏史からの取材に対し「まだ(現役で)やれたが、(子供の誕生を控え)妻が帰国を望んだためだ」と述べている<ref name="高知新聞2005-12-22"/>。}}、同月には中信球団に「妊娠中の妻が第一子出産{{Efn2|『週刊ベースボール』2003年10月6日号では「妊娠5か月の妻が5か月後に出産を控えている」と報道されているが<ref name="週刊ベースボール2003-10-06"/>、『週刊アサヒ芸能』2004年5月20日号では「2003年10月に男児が誕生した」と報道されている<ref name="週刊アサヒ芸能2004-05-20"/>。}}を控えて日本に帰国しているため、出産前に帰国して面倒を見たい。今季限りで退団・帰国する」と申し入れた{{Efn2|これに対し中信球団側は「来季({{by|2004年}})も台湾でプレーしてほしい」と慰留したが、退団の決意を翻意することはなかった<ref name="週刊ベースボール2003-10-06"/>。}}<ref name="週刊ベースボール2003-10-06">{{Cite journal|和書|journal=週刊ベースボール|title=你好!台湾職棒 TAIWAN PROFESSIONAL BASEBALL - TOPICS 中山が今季限りを表明|volume=58|date=2003-10-06|issue=45|publisher=ベースボール・マガジン社|language=ja|author=リポート/戸部良也・陳潤波|page=101}}(※2003年10月6日号・通巻第2602号)</ref>。 |
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2003年9月21日、[[台北市立天母棒球場]]で開かれた[[中信兄弟|兄弟エレファンツ]]戦{{Efn2|試合前、中信・[[林仲秋]]監督は中山に「この試合が台湾でのラストゲームだから、今日は絶対に勝て。勝たなかったら日本に帰国させないぞ」とハッパをかけていた<ref name="週刊ベースボール2003-10-13"/>。またこの引退試合を観戦していた『毎日新聞』記者・飯田和郎は「憂楽帳」にて「中山はこれから人生の新しいイニング』をどう投げるのだろうか。大洋時代の事件の罪を償ってもその過去は重く、日本に帰国しても他人の視線を覚悟しなければならないが、彼がヒーローインタビューで述べたように、台湾で過ごした日々が彼を成長させたと信じたい」と述べている<ref name="毎日新聞2003-10-07東京"/><ref name="毎日新聞2003-10-07大阪"/>。}}で同じく日本人投手の[[横田久則]](元[[埼玉西武ライオンズ|西武]]・ロッテ・阪神)と投げ合い、3失点を喫したが完投して13勝目を挙げた<ref name="週刊ベースボール2003-10-13">{{Cite journal|和書|journal=週刊ベースボール|title=你好!台湾職棒 TAIWAN PROFESSIONAL BASEBALL - TOPICS 中山が別れのあいさつ|volume=58|date=2003-10-13|issue=46|publisher=ベースボール・マガジン社|language=ja|author=リポート/戸部良也・陳潤波|page=}}(※2003年10月13日号・通巻第2603号)</ref>。試合後、中山はヒーローインタビューで満員のファンに対し「2年間ご声援いただきまして本当にありがとうございました。残念ながら総冠軍戦([[台湾シリーズ]])には出場できませんでしたが、来年こそはチームの優勝を祈っています」とコメントした<ref name="週刊ベースボール2003-10-13"/>。 |
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=== 現役引退後 === |
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2003年9月23日に帰国<ref>{{Cite news|title=運動賽事 > 國內職棒 > 力拚9局 中山揮淚謝幕|newspaper=[[聯合報|聯合新聞網]]|date=2003-09-21|author=方正東|url=http://udn.com/NEWS/SPORTS/SPO1/1573222.shtml|publisher=|language=zh|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030922233029/http://udn.com/NEWS/SPORTS/SPO1/1573222.shtml|archivedate=2003年9月22日}} - 『[[w:zh:民生報|民生報]]』</ref>。現役引退後には男児(長男)が誕生し、かつて修行に入った佛現寺の住職から命名を受けた<ref name="週刊アサヒ芸能2004-05-20"/>。また、台湾で築いた人脈を通じて実業家への転身を目指し<ref name="新潮45 2004-10"/>、竹製品の輸入業を営むようになった<ref name="高知新聞2005-12-22"/>。2004年には『[[アサヒ芸能|週刊アサヒ芸能]]』([[徳間書店]]・2004年5月20日号に掲載)の取材に応じて「1991年の事件後の生活・球界復帰までの経緯」や「『自分が子供を作っても良いのか?』という不安があったこと」などを話した{{Efn2|このころには新たな事業を始めるため[[中華人民共和国]](中国)の工場を視察しており、記者から「大洋でエースだった時代が黄金時代だったのか?」と尋ねられると「これからだと思う。家族のためにこれから頑張らなければいけない」と答えていた<ref name="週刊アサヒ芸能2004-05-20"/>。また同年には村山望(ノンフィクションライター)が中山の実家・友人を介して中山本人と連絡を試みたが、中山はその直前に商談のため台湾へ出張していた<ref name="新潮45 2004-10">{{Cite journal|和書|journal=[[新潮45]]|title=総力特集 あの「主人公」はいま 一挙50人!『スポーツ選手 横山樹理、北尾光司、西川哲、中山裕章』|volume=23|date=2004-10|issue=10|publisher=新潮社|author=村山望|language=ja|page=53}}(※2004年10月号・通巻第270号 / 2004年9月18日発売・2004年10月1日発行)</ref>。}}<ref name="週刊アサヒ芸能2004-05-20">{{Cite journal|和書|journal=週刊アサヒ芸能|title=〈直撃新連載〉1「性事件」で奈落の底に… 「人生を曲げた男」今こそ明かす「地獄の日々」!元大洋・中山裕章が「逮捕の瞬間」初激白 「これで僕の人生は終わった、と思った」|volume=59|date=2004-05-20|issue=19|publisher=徳間書店|language=ja|pages=209-212}}(※2004年5月20日号・通巻第2956号。2004年5月10日発売)</ref>ほか、2005年秋には[[関内駅]](横浜スタジアムの最寄り駅)付近で高校時代から親交の深かった『[[高知新聞]]』記者・土橋宏史から6年ぶりに取材を受けた<ref name="高知新聞2005-12-22">『[[高知新聞]]』2005年12月22日夕刊一面1頁「『話題』 ご無沙汰」(高知新聞社 記者:土橋宏史)</ref>。 |
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その後はメディアへの露出を控えているが、高知商業高校時代にバッテリーを組んだ捕手・岡村英人(現:高知県立高知東高等学校野球部監督)は2016年に『[[Sports Graphic Number]]』([[文藝春秋社]])記者・鈴木忠平からの取材に対し「(中山は現在)自分で事業を頑張っている」と証言している{{Sfn|鈴木忠平|2016|p=135}}。 |
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一方で大洋の後身である[[横浜DeNAベイスターズ]]の時代になっても球団史から除名同然の扱いを受けており、例えば2019年にベースボール・マガジン社から発売された『ホエールズ&ベイスターズ 70年の航跡』では、往年の名選手として彼を紹介する部分が一切確認されていない。 |
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== 選手としての特徴 == |
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高校時代は最速150 km/hを記録する速球を武器に甲子園で活躍し<ref name="86選手名鑑"/>{{Sfn|上杉純也|2015|p=42}}、1985年に夏の甲子園で対戦した清原は自著で中山を「当時から桑田と並ぶ大会屈指の好投手として注目されていたが、肝っ玉も超高校級だった」と評した{{Sfn|清原和博|2009|p=98}}。ドラフト会議当時は「がっしりとした体格から最高150 km/hの速球を投げ込む高校球界きっての剛腕投手。打力もAランク」<ref name="中日新聞1985-11-21"/>「桑田以上の球速を誇る重い速球の持ち主。将来性は高校の先輩である[[中西清起]](阪神)・[[津野浩]]([[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]])以上」と高く評価されていた<ref name="中日新聞1985-11-18"/>。 |
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プロ入り当初の持ち球は速球・[[カーブ (球種)|カーブ]]・[[スライダー (球種)|スライダー]]・[[シュート (球種)|シュート]]・[[フォークボール]]で<ref name="週ベ1986-02-03">{{Cite journal|和書|journal=週刊ベースボール|title=小林繁の熱球トーク 中山裕章(大洋・投手) 『時速150キロ、高校球界一の剛腕といわれた土佐の怪童が、K・Kコンビへの逆襲に燃えていた。』『僕にとって桑田、清原は永遠のライバル。土佐っぽの意地で競り勝って見せます』|volume=41|date=1986-02-03|issue=5|publisher=ベースボール・マガジン社|language=ja|author=中山裕章・[[小林繁]](対談形式)|pages=34-37}}(※1986年2月3日号・通巻第1567号)</ref>、大洋時代は右投げの速球派投手としてリリーフ・先発で活躍したほか<ref name="読売新聞1989-01-16"/>、中日時代は力のある速球に加えて「ストライクを取るフォークと空振りを取るフォーク」と2種類のフォークを武器に中継ぎ投手として活躍し<ref name="97中日ファンブック"/>、『[[月刊ドラゴンズ]]』(中日新聞社)1999年10月号優勝記念臨時増刊号「'99Vの軌跡」では「ロングリリーフが苦もなくこなせる中継ぎエース。好調時には先発も任せられるほどの好投を見せた」と紹介された<ref name="月刊ドラゴンズ Vの軌跡">{{Cite journal|和書|journal=[[月刊ドラゴンズ]]|title=優勝中日ドラゴンズ '99Vの軌跡 1999 Central's Championship|volume=1999年10月臨時増刊号|date=1999-10-01|issue=|publisher=中日新聞社|language=ja|pages=63}}(※協力:[[中日スポーツ]])</ref>。 |
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== 人物 == |
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1985年夏の甲子園では『週刊ベースボール』で「胸囲95 [[センチメートル|cm]]・太腿62 cmで、ズボンのサイズはLLより2段階も大きい。甲子園のマウンドを土俵にしたいような巨漢投手」と形容され、チームメイトたちからは同じく高知県出身の[[大関]]・[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]]に由来する「朝潮」のニックネームで呼ばれていたが<ref name="週ベ1985-09-07"/>、『週刊ベースボール』1986年2月3日号誌上にて行われた[[小林繁]]との対談では「朝潮さんはそこまで好きというわけでもない」と答えている<ref name="週ベ1986-02-03"/>。 |
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また甲子園でライバルとして戦った清原・桑田とも、1985年夏の日米韓三国対抗高校野球大会でともに日本代表として選出されて以降、それぞれ仲良くなっていた{{Efn2|桑田は中山が1994年に中日の支配下選手として登録された際、電話で「一緒に頑張ろうぜ」と声を掛けている<ref name="AERA 1994"/>。}}一方、小林との対談では「清原・桑田には負けたくない。特に桑田は同じセ・リーグだから桑田に勝つことが目標だ」と抱負を述べていた<ref name="週ベ1986-02-03"/>。またその対談では小林から「(同じく高知県出身の)[[坂本龍馬]]は好きか?」と質問され、「高知の田舎から政治を変えていった龍馬はすごいと思う。龍馬のように自分の思ったことを積極的にいろいろ考えてやっていきたい」と答えている<ref name="週ベ1986-02-03"/>。 |
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大洋時代には『読売新聞』の取材に対し、同じ速球派投手として[[ノーラン・ライアン]]を「尊敬する投手」として挙げており、1989年1月の同紙記事では「時に帽子を振り飛ばすほどの力強い力投は“弱小大洋”の中で1人気を吐いた『和製ライアン』」と紹介されていた<ref name="読売新聞1989-01-16">『読売新聞』1989年1月16日東京朝刊スポーツ面A欄19頁「[進め!ヤング]大洋・中山裕章 実績残し自信の和製ライアン」(読売新聞東京本社)</ref>。また1991年の事件当時は「[[金太郎]]」の愛称で親しまれるとともに「営業マンとしてもやっていける」と言われる腰の低さから「球界でも屈指の好青年」として知られており<ref name="中日新聞1991-12-26"/>、二軍投手コーチ・野村収は『[[神奈川新聞]]』運動部記者・文平英樹の取材に対し「性格は几帳面で少々のんびりした面もあり、このような事件を起こすなど信じられない」と証言したほか、文平自身も「誰もが中山に対し『正直で真面目な男』というイメージを持っていた。『決して誰にも見せないような別の一面』があったとでもいうのか?婚約者との入籍が延び延びになってはいたが、私生活の面でも『普通の男性・野球選手』という以上のことは聞いたことがなかった」と述べた<ref name="神奈川新聞1991-12-27 文平"/>。 |
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== 詳細情報 == |
== 詳細情報 == |
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|style="text-align: center;"|{{by2|2002}} |
|style="text-align: center;"|{{by2|2002}} |
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|rowspan="2" style="text-align: center;"|[[中信ホエールズ|中信]] |
|rowspan="2" style="text-align: center;"|[[中信ホエールズ|中信]] |
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|34||24||7||3||0||12||10||1||--||.545||728||176.2||172||13|| |
|34||24||7||3||0||12||10||1||--||.545||728||176.2||172||13||43||3||10||117||10||1||76||55||2.80||1.20 |
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|style="text-align: center;"|{{by2|2003}} |
|style="text-align: center;"|{{by2|2003}} |
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|25||25||6||2||1||13||4||0||--||.765||729||180.0||169||5|| |
|25||25||6||2||1||13||4||0||--||.765||729||180.0||169||5||30||1||8||106||3||1||56||44||2.20||1.10 |
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!colspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[日本プロ野球|NPB]]:14年 |
!colspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[日本プロ野球|NPB]]:14年 |
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!colspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[中華職業棒球大聯盟|CPBL]]:2年 |
!colspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[中華職業棒球大聯盟|CPBL]]:2年 |
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|59||49||13||5||1||25||14||1||--||.641||1457||356.2||341||18|| |
|59||49||13||5||1||25||14||1||--||.641||1457||356.2||341||18||73||4||18||223||13||2||132||99||2.50||1.15 |
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* 各年度の'''太字'''はリーグ最高 |
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高 |
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=== 表彰 === |
=== 表彰 === |
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; CPBL |
; CPBL |
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* [[月間MVP (台湾プロ野球)|月間MVP]]:2回 (2002年9月<ref>{{Cite web|url=http://www.cpbl.com.tw/stats/mvp.html?year=20029|title=單月MVP 2002年9月|date=2002-09|accessdate=2020-10-17|publisher=中華職業棒球大聯盟|website=中華職棒大聯盟全球資訊網 The Official Site of CPBL|language=zh-TW|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201017150016/http://www.cpbl.com.tw/stats/mvp.html?year=20029|archivedate=2020-10-17}}</ref>、2003年4月<ref>{{Cite web|url=http://www.cpbl.com.tw/stats/mvp.html?year=20034|title=單月MVP 2003年4月|date=2003-04|accessdate=2020-10-17|publisher=中華職業棒球大聯盟|website=中華職棒大聯盟全球資訊網 The Official Site of CPBL|language=zh-TW|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201017150141/http://www.cpbl.com.tw/stats/mvp.html?year=20034|archivedate=2020-10-17}}</ref>) |
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* [[月間MVP (台湾プロ野球)|月間MVP]]:2回 (2002年9月、2003年4月) |
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=== 記録 === |
=== 記録 === |
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* 初登板・初先発:1986年5月8日、対[[読売ジャイアンツ]]5回戦([[後楽園球場]]) |
* 初登板・初先発:1986年5月8日、対[[読売ジャイアンツ]]5回戦([[後楽園球場]])<ref name="毎日新聞1986-05-09"/> |
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* 初セーブ:1986年10月13日、対[[中日ドラゴンズ]]25回戦([[ナゴヤ球場]]) |
* 初セーブ:1986年10月13日、対[[中日ドラゴンズ]]25回戦([[ナゴヤ球場]])<ref name="読売新聞1986-10-14"/> |
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* 初勝利:1987年5月9日、対読売ジャイアンツ4回戦([[横浜スタジアム]]) |
* 初勝利:1987年5月9日、対読売ジャイアンツ4回戦([[横浜スタジアム]])<ref name="読売新聞1987-05-10"/> |
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* 初完投勝利:1987年5月21日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]9回戦(横浜スタジアム) |
* 初完投勝利:1987年5月21日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]9回戦(横浜スタジアム)<ref name="読売新聞1987-05-22"/> |
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* 初完封勝利:1987年6月27日、対読売ジャイアンツ13回戦(後楽園球場)、4被安打 |
* 初完封勝利:1987年6月27日、対読売ジャイアンツ13回戦(後楽園球場)、4被安打<ref name="読売新聞1987-06-28"/> |
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; オールスターゲーム(NPB) |
; オールスターゲーム(NPB) |
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* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:3回 (1988年、1989年、1996年) |
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:3回 (1988年、1989年、1996年) |
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=== 背番号 === |
=== 背番号 === |
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; NPB |
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* '''19''' (1986年 - 1991年、1995年 - 2003年) |
* '''19''' (1986年 - 1991年、1995年 - 2003年) |
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* '''125''' (1994年6月10日 - 7月21日) |
* '''125''' (1994年6月10日 - 7月21日) |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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{{Notelist2}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|title=ベースボール・レコード・ブック 1995|series=日本プロ野球記録年鑑|publisher=[[ベースボール・マガジン社]](発行人:池田哲雄)|date=1994-12-25|edition=第1版第1刷発行|editor=ベースボール・マガジン社編集|pages=200-202|isbn=978-4583031712|ref={{SfnRef|ベースボール・マガジン社|1994}}}} |
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=== 関連書籍 === |
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* {{Cite book|和書|title=甲子園高校野球人名事典 選手・監督から審判・解説者まで|author=森岡浩|publisher=[[東京堂出版]]|date=2004-07-15|edition=初版|pages=216-217|ISBN=978-4490106503|ref=森岡 |
* {{Cite book|和書|title=甲子園高校野球人名事典 選手・監督から審判・解説者まで|author=森岡浩|publisher=[[東京堂出版]]|date=2004-07-15|edition=初版|pages=216-217|ISBN=978-4490106503|ref={{SfnRef|森岡浩|2004}}}} |
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* {{Cite book|和書|title=男道|author= |
* {{Cite book|和書|title=男道|author=清原和博|authorlink=清原和博|publisher=[[幻冬舎]]|date=2009-01-15|pages=98-100|edition=初版|isbn=978-4344016095|ref={{SfnRef|清原和博|2009}}}} |
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* {{Cite book|和書|title=甲子園最強の投手は誰だ?|author= |
* {{Cite book|和書|title=甲子園最強の投手は誰だ?|author=上杉純也|authorlink=上杉純也|publisher=[[竹書房]]|date=2015-03-13|edition=初版|pages=42-43|isbn=978-4801902459|ref={{SfnRef|上杉純也|2015}}}} |
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** 「中山裕章(高知・高知商) 高校野球史上最大アーチを打たれた男」 |
** 「中山裕章(高知・高知商) 高校野球史上最大アーチを打たれた男」 |
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* {{Cite book|和書|title=告白|author= |
* {{Cite book|和書|title=告白|author=野村貴仁|authorlink=野村貴仁|publisher=[[KADOKAWA]]|date=2016-09-25|edition=初版|pages=33-34|isbn=978-4041045800|ref={{SfnRef|野村貴仁|2016}}}} |
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* {{Cite book|和書|title=清原和博への告白 甲子園13本塁打の真実|author=鈴木忠平|publisher=[[文藝春秋社]]|date=2016-12-15|edition=初版|pages=114-135|isbn=978-4163905785|ref=鈴木 |
* {{Cite book|和書|title=清原和博への告白 甲子園13本塁打の真実|author=鈴木忠平|publisher=[[文藝春秋社]]|date=2016-12-15|edition=初版|pages=114-135|chapter=6 最後のバッテリー 1985年夏 準々決勝 高知商 3-6 PL学園|isbn=978-4163905785|ref={{SfnRef|鈴木忠平|2016}}}} |
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== 関連項目 == |
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== 外部リンク == |
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[[Category:存命人物]] |
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2024年8月28日 (水) 00:56時点における最新版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 高知県高知市 |
生年月日 | 1967年11月4日(57歳) |
身長 体重 |
176 cm 80 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1985年 ドラフト1位 |
初出場 |
NPB / 1986年5月8日・対巨人戦[1] CPBL / 2002年3月9日・対興農戦[2] |
最終出場 |
NPB / 2001年8月22日・対広島戦[3] CPBL / 2003年9月20日・対兄弟戦[4] |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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中山 裕章(なかやま ひろあき、1967年11月4日 - )は、高知県高知市出身の元プロ野球選手(投手・右投右打)[5]。
1986年にドラフト1位で横浜大洋ホエールズに入団[6][5]、リリーフ・先発で主力投手として活躍したが、1991年オフに幼女への連続強制わいせつ事件を起こし、神奈川県警察に逮捕され、大洋球団を解雇される[7][8][9][10]。この事件を受けてセントラル・リーグは日本野球機構 (NPB) 全12球団に対し、無期限に契約を回避する措置を取るよう要望する声明を通達したが[11]、この声明は1993年オフに解除された[12]。その後(1994年以降)は中日ドラゴンズでリリーフとして活躍し、1999年のリーグ優勝に貢献した。
経歴
[編集]プロ入り前
[編集]高校入学まで
[編集]高知市愛宕町で生まれ[13]、高知市立一ツ橋小学校・高知市立城北中学校を経て高知市立高知商業高等学校へ進学した[14]。大洋時代の監督・須藤豊は高知商高の大先輩にあたるほか、元阪神タイガースの藤川球児は城北中・高知商高の後輩である[15]。
幼稚園を卒園したころ、自転車に乗っていた際に走行中のダンプカーと激突する交通事故を起こしたが、左足を骨折(2か月間入院する重傷)したのみで済んだ[16]。しかし小学校の入学式にはギプスを装着した状態で出席したほか、骨折した左足は高校進学後も変形したままだった[16]。
城北中学校野球部に入部した直後、後に中学・高校時代にバッテリーを組んだ捕手・岡村英人[注 1]と出会った[20]。当時の中山は何事にも執着を示さない性格から練習に身が入らず、1年生の夏休み前には野球部の練習を休みがちになったが、母親から顧問への頼みで辛うじて野球を続けることとなった[21]。1982年秋には高知商業高校(後の進学先)のグラウンドで中学の高知県大会決勝が開かれた[注 2]が、同大会を視察していた高知商高野球部監督・谷脇一夫(当時)は圧倒的な速球を投げる中山の素質に惚れ込み、後に再び中山が高知商高のグラウンドへ練習に来た際には「うちに来てほしい」と声を掛けている[注 3][23]。
高知商業高校時代
[編集]高校進学の際には高知商高以外にも明徳義塾高校など高知県内の高校野球強豪校から進学の誘いを受けたが、「自宅から通える」という理由で高知商高に進学[24]。女房役の岡村も甲子園の舞台で活躍することに憧れ、1978年夏の第60回全国選手権大会で準優勝を果たした高知商高に進学した[24]。
高知商高1年生時の1983年春、谷脇は新入部員の中山を見て「彼がいれば5回甲子園へ行くチャンスがあるうち、3回は行ける。そのうち1回は優勝できる。夏の全国初制覇も夢ではない」と確信した[24]。中山もその期待に違わず、入学直後からベンチ入りし[22]、同年夏の第65回全国選手権大会では早くも同校(高知県代表)のエース津野浩(3年生)の控え投手としてメンバー入りした[13]。中山は桑田真澄・清原和博(KKコンビ)を擁するPL学園(大阪代表)との準々決勝で津野をリリーフして甲子園に初登板し[注 4][13]、それ以降はプロ野球関係者から「土佐の怪腕」と注目を集めた[注 5][27]。一方でこのころから持病の腰痛に苦しみ、走り込みが十分にできなくなっていったことで体重が増加するようになった[16]。
津野が引退した同年秋にはエースとなったが、それ以降は故障が続き、2年生の1984年夏には高知県大会初戦で高知高校に敗戦した[13]。中山・岡村らが最上級生となった2年生秋の県大会当時、高知県内の高校には渡辺智男(伊野商業高校)をはじめ、全国屈指の逸材が揃っていたため、甲子園の土を踏むことは容易なことではなく[28]、同大会では準々決勝で[13]渡辺を擁する伊野商に敗れ、翌年の選抜大会出場を逃した[29]。この試合直後、谷脇は「残されたチャンスはあと1つ(1985年夏の第67回全国選手権大会)しかない」と考え、中山と岡村にそれぞれ「お前は甲子園に行かなければいけない」、「毎朝、中山と一緒に高知城までランニングしてこい」と命じた[注 6][30]。谷脇がこのように中山に猛練習を課した理由は、中山について「素質は桑田より上[注 7]だが、最後の勝負どころで力以上のものが出せなければ甲子園では活躍できない。それが出せるのは、普段から他人がやらないことをやる者だけだ」と考えていたが故だった[31]。
また、中山自身も腰痛に苦しむ中で高知市内の整体師に通い、鍼・電気治療などを2年間かけて行った[16]。3年生となった1985年春、高知商高は同年の選抜優勝校となった伊野商を破り、春季四国地区高等学校野球大会に進出し、四国大会も圧勝で優勝した[13]。同年夏、エース中山は岡村とバッテリーを組み、全国高等学校野球選手権高知大会を勝ち進み、決勝戦で選抜優勝校の伊野商相手に雪辱を果たし、5対1で勝利し、全国選手権出場を果たした[32]。
1985年・夏の甲子園
[編集]1985年の夏の甲子園で、高知商業高校は快進撃を続けたが、中山は「攻守ともに高知商史上最強レベル」とうたわれた当時のチームの原動力となった[33]。また、当時の大会を取材していた高野想(スポーツ新聞記者)は「春夏の甲子園大会で初めて150 km/hの球を投げた投手は中山と言われている[注 8]。のちに清原が中山からあれだけ長距離の本塁打(後述)を放てた理由は、中山の速球が強い反発力を生んだからだろう」と述べている[35]。
甲子園では初戦の藤嶺藤沢(神奈川代表)戦で最速150 km/h[注 9]の速球を投げるなどして9対2で勝利した[33]。続く第2回戦では同じく四国勢の志度商業(香川県代表)戦で最速145 km/hを記録し[16]、初回先頭打者から6連続奪三振を記録するなど、2被安打12奪三振の好投で[6]4対0の完封勝利を記録[33]。3回戦でも同じく四国勢の川之江(愛媛県代表)と対戦し、立ち上がりの不調を突かれ、2点を先制されたが、8回には同点に追いつき[6]、延長11回裏にサヨナラ勝ちを決めた[33]。
PL学園との準々決勝では再び桑田と投げ合い[25]、5回裏の最初の打順で[37]「この試合の目玉」と注目された4番・清原と対戦[25]。しかし、真ん中高めに投げた渾身の速球[注 10]をバットの真芯で捉えられ[注 11][39]、左翼席上段に達する特大ホームラン(推定飛距離:140 m)[注 12]を被弾した[25]。さらに6番・桑田にも右翼ラッキーゾーンへのホームランを被弾し[注 13]、試合は3対6で敗退した[注 14][25]。
同年秋の第40回国民体育大会高等学校野球競技では桑田と投げ勝い、甲子園の雪辱を果たし[44]、優勝の原動力となった[5][45]。この時の控え投手に1年下の岡林洋一がいる。
横浜大洋時代
[編集]1985年のドラフト会議(1985年11月20日)では清原・桑田とともに目玉選手として注目されていた一方[46]、ドラフト会議前には社会人野球・三菱重工三原への就職が内定していた[注 15][47]。そして、ドラフト当日に横浜大洋ホエールズから単独1位指名を受け、指名後には「早く一軍に昇格して、阪神タイガースの中西(清起)さん(高校の先輩)と投げ合いたい」と述べた[注 16][49]。ルーキーイヤーの推定年俸は430万円・契約金は5,200万円で[5]、入団時には阪神・中西を目標に掲げていた[48]。背番号は中山本人の希望により、中西と同じ19に決まった[50]。
1986年の春季キャンプでは当時のエース投手・遠藤一彦と同室になり、その際に遠藤から直接プロ野球選手としての心構えを教わっていた[注 17][51]。同年は近藤貞雄監督の下で本格派として期待され、一軍で18試合に登板し、0勝3敗・防御率5.11の成績に終わるも3セーブ[注 18]を挙げた[53]。当時は既に近藤監督から「投手として一級品の素材」と称賛されていたが、まだ下半身をうまく使った投球ができていなかったため、鈴木隆投手コーチから徹底した走り込みを行わされていた[51]。同年5月6日に同い年の相川英明とともに出場選手登録されると、その2日後(5月8日)に対読売ジャイアンツ(巨人)5回戦(後楽園球場)にて若菜嘉晴とバッテリーを組み、一軍初登板・初先発を果たし、[1]。初マウンドで巨人先発・江川卓と投げ合う形となり、1・2回を無失点に抑えたが[1]、5回裏から疲れが見えたところを巨人打線に痛打され、相川に交代するまでに5回3分の2を投げ5被安打・2奪三振・3与四球・5失点(自責点4)で敗戦投手となった[注 19][1][54]。同年7月には平塚球場[55]で開かれた二軍イースタン・リーグ(イ・リーグ)の試合に登板した際[44]、ジュースの差し入れを受けたことをきっかけに、その差し入れ主である大洋ファンの女性(当時・淑徳短期大学英語学科在学/後に婚約するも1991年末の事件により婚約破棄)と交際を開始した[55]。
1987年は推定年俸590万円(前年比160万円増)で臨み[53]、古葉竹識監督の下で33試合に登板し、5勝12敗・防御率5.17・セーブなしと大きく負け越したが、著しい成長を遂げて投手陣の軸に近づく飛躍の1年となった[注 20][57]。
同年5月9日に本拠地・横浜スタジアムで開かれた巨人戦で先発登板し、堀場秀孝とバッテリーを組み、6回2/3を投げた[58]。疲れが出た7回表に連打を浴び、4失点するなど5失点を喫したが、チームは8対6で勝利し、中山自身もプロ初勝利を飾った[58]。また同年5月21日にはヤクルトスワローズ戦(横浜スタジアム)で堀場とバッテリーを組み、6被安打・5奪三振・1与四球・1失点でプロ入り初の完投勝利(シーズン2勝目)を記録し[59]、同年6月27日には対巨人戦(後楽園球場)で若菜嘉晴とバッテリーを組み先発し、巨人打線を計4被安打(6回2死まで無安打)に抑え、プロ入り初完封勝利(シーズン3勝目)を記録した[60]。10歳代(未成年)の投手が巨人戦で完封勝利を記録したのは当時20年ぶりのことで[57]、当時はエース・遠藤と同数の勝利数を稼ぐことを目標に掲げていた[59]。一方で古葉監督からは「先発の際には良い球と悪い球の落差がありすぎる」と指摘されていたほか、同年11月に静岡県伊東市内で開かれた秋季キャンプ中には「自分は先発ローテーション入りして一人前になった」と自負していたところ、コーチたちから様々な注意・助言を受けたことに対し反抗的な態度を取った[61]。そのため、寺岡孝ヘッドコーチから「やる気がないなら東京へ帰れ!」と鉄拳制裁を受けたが、それが意識改革を促すきっかけとなった[61]。
1988年シーズンは推定年俸1,180万円(前年比590万円増)で臨み[57]、古葉監督の提案で抑えに転向[注 21][62]。抑えに転向した当初は不安定な投球が続いたが、古葉は「中山と心中する」と宣言した[61]。やがて中山も抑えに慣れ、戸惑いがなくなると抑えとして好成績を残せるようになった[61]。同年は新たにスライダーを会得したため、投球に余裕を持つことができるようになり[62]、リーグ最多の70試合に登板し、10勝6敗24セーブ34セーブポイント・防御率2.28の成績を挙げ、中日ドラゴンズ・郭源治やロッテオリオンズ・牛島和彦に並び、「プロ野球を代表するストッパー」とうたわれた[63]。同年は救援投手ながら規定投球回に到達する活躍を見せたほか、オールスターゲームでは第2戦・ナゴヤ球場(7月25日)、第3戦・東京ドーム(7月26日)と2戦連続で勝利投手となった[64]。また、同年11月5日開幕の日米野球大会(読売新聞社主催)では全日本メンバーに選出されたほか[65]、11月19日に行われたセ・リーグの第10回東西対抗戦(平和台野球場)では東軍に選出された[66]。同年オフは防御率リーグ3位など好成績を残したことを高く評価され、12月2日に推定年俸2,520万円(前年比200%アップ、1,340万円増)で契約更改した[67]。
右投げの速球派投手として活躍していた中山だったが[45]、大洋にとっては「即戦力」とみなされ、古葉監督時代にリリーフで酷使されたために肩・腰を痛めた[44]。
1989年シーズンは45試合に登板し、1勝10敗17セーブ・防御率4.10と大乱調に終わり[68]、同年オフには推定年俸2,200万円(前年比320万円減)で契約更改した[68]。
1990年シーズンは先発ローテーション投手として復活[44]。27試合に登板し、8勝12敗・防御率3.92の成績を残した[69]。同年4月7日の開幕戦(対中日ドラゴンズ戦・ナゴヤ球場)では開幕投手を務めたが[70]、それから3週間にわたっては未勝利に終わっていた[71]。しかし4月28日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)で市川和正とバッテリーを組み、完投して阪神打線をわずか4安打に抑え、同年初勝利を3年ぶりの完封勝利で飾った[注 22][71]。同年はオールスターゲームにも通算2度目の出場を果たし[45]、オフの契約更改では12月25日に推定年俸2,630万円(前年比430万円増、前回交渉より130万円増)で契約更改した[注 23][74]。この日は逮捕のちょうど1年前で、同日には入団後まもなく知り合った女性(当時21歳)と婚約[注 24][44]。
1991年シーズンも2年連続で開幕投手を務めた[76]。同年は春先こそ好調だったが、6月8日の試合[76](札幌市円山球場・中日戦)[77]で6点リードを守れず降板[76]。それ以降は成績が下降し、夏場は先発で6連敗するなどエースとしての期待に応えきれず、8月には二軍落ちした[注 25][76]。同年は27試合に登板(先発20試合)して8勝10敗・防御率4.20の成績で、規定投球回数到達選手20人中ではリーグ最下位の成績だった[78]。
プロ入りから同年シーズン終了までの6年間で通算32勝53敗44セーブの成績を挙げ[45]、大洋球団のエース級投手として活躍しており[8]、シーズン終了後の同年12月6日には翌1992年度の契約について推定年俸2,650万円(現状維持)で契約更改していた[注 26][79][80]。また同年10月には横浜市緑区若草台(現:横浜市青葉区若草台)に約1億1,800万円で2階建ての新築住宅を建て[注 27][82]、郷里・高知市内に暮らしていた両親・姉[注 28]も含めて5人で新生活を送っていた[75]。
連続強制わいせつ事件
[編集]※以下、肩書などはいずれも当時のものとする。また時刻はいずれも日本標準時(JST・UTC+9)で統一する。
1991年11月上旬、肩・腰などを痛めたことで沖縄の秋季キャンプから離脱。それ以降は横浜大洋ホエールズ総合練習場(神奈川県横須賀市長浦町)で練習していたが[7]、「何をやっても嫌な状態で野球に対するやる気がなくなり、精神的に不安定な状態」に陥っていた[注 29][83]。1991年11月12日15時5分ごろ、中山は横浜大洋ホエールズ総合練習場での練習後、自宅(横浜市緑区若草台)へ車で帰宅途中[7]、横浜市金沢区六浦町の住宅街で近隣住民の小学4年生女子児童(事件当時10歳)に対し、スカートの裾から手を入れた[85]。その直後となる同日15時10分ごろには、住宅街で小学5年生少女(当時11歳)に対し自身の下半身を露出したままスカートの上から尻を触る[85]、さらに同日15時15分ごろ、同所付近にあった建物の階段にて帰宅途中だった幼稚園女児(当時6歳)をいきなり後ろから抱き上げ[7]、下着を脱がせた[44]。
神奈川県警察が事件現場周辺を調べたところ、現場には犯人の体液が遺留されていた。また、「犯人が犯行後に被害者へ手を振り『バイバイ』と声をかけていた」とする証言も得られた[85]。横浜市内では同年秋ごろから女児への連続強制わいせつ事件が発生していたため、県警は捜査本部を設置した上で[86]、12日の事件を同一犯による犯行と推測し[注 30][45]、被害が多発した時間帯に捜査員が現場付近を警戒するなど、張り込み捜査を進めていた[86]。その結果、2日後(11月14日15時ごろ)には[8]、ツートンカラー(白・グレー)のベンツ[注 31]に乗った若い男が現場付近で車を降りて周辺を約15分間うろついたり[7]、女児に声を掛けたりするなど[45]、不審な行動を取る姿が捜査員により確認された[7]。当該車両のナンバー照会から中山が割り出され、ベンツを尾行して捜査を続けたところ[7]、その後も同月中の計4回にわたり現場でうろつく中山の姿が目撃された[8]。さらに、中山の顔写真を確認した被害者児童らの証言から「中山に間違いない」との結論が出た[注 32][86]。
一方、中山は逮捕前の同年12月16日から23日にかけ[76]、山形県・大野目温泉で[91]若手投手らの自主トレーニングに参加し、逮捕される前日(24日)朝に横浜へ帰っていた[76]。また24日昼には買い物のため外出していたところ、横浜市中区内の球団事務所があるビルの入口で大洋球団社長・岡崎寛と偶然顔を合わせ、普段通り挨拶をしていた[92]。
逮捕・送検
[編集]捜査結果を受け、1991年12月25日朝から中山を被疑者として任意同行した。容疑への追及に対し、1991年11月12日に起きた二つの事件(それぞれ11歳・6歳の女児2人に対する強制わいせつ・公然わいせつ事件。時系列順では2・3件目)についていずれも容疑を認める供述をしたため、神奈川県警捜査一課・金沢警察署は同日夕方に強制わいせつ・公然わいせつの容疑で中山を逮捕した[注 33][7]。取り調べに対し中山は「11月上旬に腰などを痛めたため沖縄の秋季キャンプから帰ってきたが、婚約者の女性と会えず欲求不満が溜まっていた。(女性の)年齢が高いと自分が『大洋の中山投手だ』と分かってしまうので小さな子を狙った。大変恥ずかしいことをしてしまった。深く反省している」などと供述した[8][86][45]。
県警捜査一課[注 34]・金沢署は1991年12月26日午後、強制わいせつなどの容疑で中山を横浜地方検察庁に送検したが[96]、中山は捜査一課・金沢署による取り調べに対し、逮捕容疑の強制わいせつ2件に加え「2件の事件と同じ1991年11月12日、小学4年生の女子児童(当時10歳)の体を触るなどわいせつ行為をした」と3件目(時系列順では最初)の犯行を自供した[93][97]。このため、横浜地検は翌日(12月27日)午後に「逮捕容疑2件の立証のほか、ほかの類似事件との関連についても取り調べるため」として横浜地裁へ中山の10日間拘置を請求[98]。中山は10歳女児に対する事件に関しても強制わいせつ容疑で横浜地検へ追送検されたが[99]、翌1992年1月4日までに逮捕容疑の強制わいせつ2件について[100]、中山と被害者との間で示談が成立したため[注 35]、いずれも被害者側が告訴を取り下げた[102][103][100]。これを受け、横浜地検は同日に親告罪である同罪については不処分とし、公然わいせつ罪についても「既に社会的制裁を受けており本人も深く反省している」として起訴猶予処分とすることを決めた[102][103][100]。その上で地検は同日、勾留期限の切れる翌5日付で中山を釈放することを決め[99][102][103][100]、中山は処分保留のまま拘置先である金沢署から釈放された[104][105][106]。横浜地検は翌日(1992年1月6日)付で強制わいせつ容疑について「被害者との示談が成立し告訴が取り下げられた」ことを理由に不起訴処分としたほか、公然わいせつ容疑についても起訴猶予処分とした[107]。
球団の動向
[編集]逮捕当日、事態を知った若生照元(取締役球団本部長)[注 36]以下、大洋球団社員らは慌ただしく電話対応に追われた[108]。同日夜には大洋球団代表・桜井薫が球団事務所(横浜市中区)にて会見を行う。球団社長・岡崎寛のコメントを代読する形で「青少年に夢を与えるプロ野球選手がこのような事件を起こしてしまい誠に申し訳なく、深くお詫びする。球団としても管理不行き届きを陳謝したい。処分はあす(26日)決めるが、厳しい処分を考えざるを得ない」と述べた[8][86]。大洋球団では1987年のシーズン開幕日に若手選手数名が傷害事件を起こし、警察の取り調べを受けたことはあったが、強制わいせつといった悪質な犯罪容疑で一流選手が逮捕されたケースは同球団に限らず、球界としても前代未聞の大事件だった[76]。プロ野球の現役スター選手が性犯罪で逮捕されたこの事件は大洋球団のみならず、世間に大きな衝撃を与えた[注 37][109]。
大洋球団は翌26日9時から球団事務所にて[80]、球団幹部6名(岡崎球団社長・若生球団本部長ら)と弁護士2名の計8名からなる[110]、中山に対する処分を決める緊急幹部会議を開く。その結果、中山との翌年度の契約を白紙に戻し[80][111]、日本プロフェッショナル野球協約第66条に基づき「次年度選手契約締結の権利を保留する選手」(保留選手)(=「契約未更改の大洋選手」扱い)とした上で[112]、処分については「捜査当局の結論を待ってから、解雇も含め厳しく対応する」ことを決定[80]。会議終了後、記者会見に応じた岡崎は「夢を与えるプロ野球関係者がこのような事件を起こしたことに対し深く反省するとともに、被害者やその家族の皆様に深くお詫びする」と陳謝した[80]。同日には高校の後輩である中山が起こした不祥事を受け、須藤監督も球団事務所入りし、被害者・球界関係者および社会に対し謝罪表明した[注 38][113]。日本野球機構 (NPB) 会議室(東京都中央区銀座)でも吉國一郎コミッショナーや、川島廣守セントラル・リーグ会長、原野和夫パシフィック・リーグ会長ら球界首脳が出席して実行委員会を開き、川島は会議後の記者会見で「今回の事件でプロ野球の信用が失われ、取り返しがつかない。同情の余地は全くない。球団は厳重に処分すべきだ」と述べた[110]。
岡崎・桜井は同年12月27日に大洋球団の親会社である大洋漁業の本社(東京都千代田区大手町)で中部慶次郎球団オーナーに事件を報告した[114]。同日、岡崎は「今年は(開幕投手を務めた)中山で始まり、中山の大暴投で終わった」[115]「来年は事件が早く解決し、チームが飛躍できる年にしたい」と話した[116]。吉國NPBコミッショナーは同日にコミッショナー事務局にて記者会見し、「中山投手が再びマウンドに立つのは難しいか?」との質問に対しては「事件が事件だけに難しいだろう。DNA型鑑定もするというし、報道されている警察の発表が事実なら残念だ」と厳しい見解を示した[114]。一方で落合博満選手(中日)は1994年1月4日に横浜市内で開かれたトークショーにて、「情状酌量の余地があるならばの話だが、将来のことを考えると球界復帰への道をつけてやってもいいのではないか?この事件で(球界を引退して)社会に復帰したとしても中山を受け入れてくれるところはもうないだろう。それなら『更生の道は野球から着けてやるべきではないか?』と思う」[117]「もし自分が被害者の親だったら示談にしても許せないが、中山を自由契約にすることで誰の責任でもなくなる。今の状態だと中山はどこに行っても人の目を気にしなければ生きていけない。罵声・野次を正面から浴びせられるマウンドで償うチャンスを与えてはどうだろうか。大洋球団やセ・リーグ連盟が見守った上で、中山に恥をかかせながら更生の道を探るべきだ」と発言した[118]。
中山は1992年1月5日、釈放後に緑区内の自宅へ帰宅し、15時15分から約1時間にわたり若生球団本部長・荒木球団管理部長と面接した[119]。若生は面接後、「中山は反省の色が濃い」と述べていたほか[注 39][120]、須藤監督も同日にセ・リーグ連盟へ「中山を無期限謹慎処分に処した上で、著しい反省の色・社会情勢の変化などを見て処分を有期限に緩和する」案を打診した[121]。これは須藤自身が中山の更生を望んでいたことに加え、大洋球団にとっても「故障が治れば2桁勝利(10勝)できる投手」だったため、試合に出場できない中山に対し月額約53万円の保留手当を支払ってでも、将来的な復帰を画策していたためだった[101]。しかし連盟は「球団の処分は甘すぎる。社会的な償いを受けることは避けられない」として処分差し戻しを求め、須藤監督も最終的には連盟の対応に従い、中山の契約解除に至った[121]。
大洋球団解雇
[編集]本事件は野球協約統一契約書様式第17条(模範行為)に違反するものであることから[110]、大洋球団は1992年1月7日付で保留選手扱いだった中山を解雇して中山の保留権を放棄した上で[10]、統一契約書式第26条に基づき[11]、中山を自由契約選手とすることを発表した[9][122][123]。横浜地検からは既に不起訴・起訴猶予処分で釈放され、前途もある中山に対し、あえて野球生命を事実上絶つ厳罰を下した理由は「子供たちに夢を与える職業にありながら、その子供たちを真っ向から裏切る犯罪を犯した」という社会的影響の大きさを深く考慮したためだった[123]。これに加え、大洋球団は須藤監督に戒告処分、岡崎社長・桜井球団代表に対しては同日からの1年間にわたり8%の減俸処分をそれぞれ科した[9]。
中山は野球協約上「自由契約選手」となったため、他11球団とは契約できる形式ではあったが、「世間を騒がせ球界のイメージを著しく汚した破廉恥なわいせつ行為」(『中日新聞』1992年1月8日朝刊、記者:会田豊彦)で逮捕された中山を直ちに獲得しようとする球団はなかった[11]。また、川島廣守セ・リーグ会長は声明文の中で「中山選手本人が社会的に立派に更生できることが確認される時点まで、全12球団が中山選手との選手契約を無期限に自粛するようお願いしたい」と要望したため、球界復帰は極めて困難になった[11]。
岡崎は同日、記者会見で「中山投手は被害者やそのご家族に多大なご迷惑をかけ社会をお騒がせした。ホエールズの一員として在籍させることはできない」[10]「大洋球団としては将来も中山と契約する意思はない」と発言[9]。しかし「彼はまだ若く野球しかわかっていない。本人とご両親に相談の上で彼が立ち直れるよう、今後も相談に乗るつもりだ」とし[10]、中山が将来的に更生後プロ球界に復帰、もしくは、それ以外の社会的な復帰の際に球団として援助する姿勢を示した[9]。この処分を受け川島セ・リーグ会長は「今回犯した破廉恥な行為で世間を騒がせた事実は消えない。プロ野球ファンの夢と期待を無惨にも踏みにじった。(すぐに)野球選手としての再起はできる相談ではない。今回の処分は球団の温情ある措置[注 40]だと思う。失格選手としない配慮を踏まえての処分とご理解いただきたい」とコメントした。吉國NPBコミッショナーも「『更生への道に障害にならないように』と失格選手にしなかった川島会長の心情も理解できる。同会長・大洋球団を信頼し、コミッショナーとしての追加処分は行わない」とコメントした[10]。吉國NPBコミッショナーは1992年1月8日付で中山を自由契約選手として公示した[124][125]。
中山が着用していた背番号19は1992年に「事実上の永久欠番扱い」となる。しかし、「横浜ベイスターズ」への球団名変更決定直後の同年のドラフト会議で1位指名された小桧山雅仁(日本石油)が「19にまつわる縁起の良いエピソード」を多く有していたことから、球団側は「これを機に次世代を担うルーキーに19番を背負わせることで中山の忌まわしい出来事を払拭しよう」と19番を提示した。小桧山自身も「事件のことは気にしない」と快諾したため欠番状態は1年で解消[126]。また、中山を欠いた状態で1992年シーズンを迎えることとなった大洋球団はその穴を埋めるべく、若手投手(友利結・盛田幸妃ら)や新人投手(斎藤隆・有働克也)の起用を余儀なくされ、事件による士気の低下も懸案された[127]。結局、大洋は開幕から成績不振に悩まされ、同年5月には須藤監督が早々と監督を辞任した[注 41][83]。
高校時代の恩師・谷脇は「中山は野球を取ったら何も残らない男だから、球界復帰へのチャンスだけはどうしても残しておきたいが、そのチャンスが巡ってきても中山が生かすことができるかどうかは不安がある」と胸中を語った[85]。中山がのちに球界復帰(中日入団)した際には、堀内恒夫[121]・豊田泰光[128](ともに野球解説者)や近藤唯之(スポーツライター)[101]、中島章隆(『毎日新聞』記者)が[129][130]、それぞれ否定的なコメントを出したほか、事件当時に捜査を担当した神奈川県警捜査員は1993年に球界復帰の可能性が浮上した際、「(同年に発覚した江夏豊の覚醒剤事件について言及した上で)本事件は覚醒剤とは違い、直接の被害者がいる事件だ」と述べ、不快感を示していた[129]。
婚約者・家族のその後
[編集]婚約者の女性(事件当時22歳)が、事件後の中山を健気に支えたとしては一部マスメディアから美談として報道された[注 42][87][75]。しかし1992年2月6日付で、婚約者は中山に「婚約不履行となった場合は慰謝料5,000万円を支払う」旨の書面[注 43]を書かせたほか、中山が後述する運送会社で働き始めて以降は次第にすれ違うようになり別居に至る[55]。
そうした中、1992年5月ごろ、中山は婚約者との電話の際に「こちらに来てくれないなら別れよう」と切り出したころ、電話を替わった婚約者の母親が「別れるなら慰謝料を払え」と迫り、6月には婚約者側が横浜市内の中山宅を売買できないよう、仮処分申請を出した[55]。その後も双方の対立は続き、同年11月には婚約者側が東京地方裁判所へ[55]「婚約不履行」を主張して中山を提訴[87]。また元婚約者は「中山は事件後も反省しておらずヘラヘラしており、事件後には自分に『女の子を産んでくれ。自分の子なら何をしても罪にならない』などと言っていたほか、川島セ・リーグ会長から更生を促すため送られた本も平然とゴミとして捨てていた」などと主張した一方、中山側も1993年1月に「その本は元婚約者が中山家から盗んだものだ」と主張して神奈川県警磯子警察署へ窃盗・名誉毀損で元婚約者を告訴していた[132]。これに加え、中山側は民事訴訟でも元婚約者側に対し「勝手に選手会への積立金500万円・自動車(ベンツ)・家財道具などを持ち出された」と反論し、双方が民事訴訟を起こす訴訟合戦状態となった[87][75]。
しかし、民事訴訟合戦は1993年末になり中山側が2,500万円の慰謝料を支払う形で和解[注 44][87]。中山の知人は『週刊新潮』記者からの取材に対し「本来なら離婚訴訟でさえ慰謝料の相場は500万円程度だが、中山は『裁判が長引くのは困るし、彼女に持ち逃げされた500万円・ベンツなど計約5,000万円の被害はなかったことにする』として和解金額2,500万円を提示した」と証言した一方、元婚約者は1994年8月に同誌記者からの取材に対し「自分の尻ぬぐいさえ満足にできないような中山が再びマウンドに立ったことだけは許せないし、自分も信じられない思いだ。事件の被害者・家族は見ていられないだろう」とコメントしていた[87]。
浪人時代
[編集]1992年1月18日、中山は事件後初めて報道関係者との会見[注 45]に応じ、あらためてファンや球団関係者らに謝罪した上で「今後は未定だが、本心ではまた野球がしたい」と述べた[134][135]。なお、高知商高時代にバッテリーを組んでいた岡村英人は不祥事を起こした中山宛に「俺はお前がプロ野球選手だろうと何だろうと関係ない。俺の中でお前はいつも“中山裕章”だ。高知に帰って来い」と書いた手紙を送っていた[136]。
中山は同年2月8日から古巣・大洋の亀井進スカウト[注 46]とともに佛現寺(静岡県伊東市物見が丘)へ入り[137]、約3週間にわたり修行する[83]。その後、一般社会で暮らすべく生活費を稼ぐため働くことを決断[75]。一方、同年2月13日、MLB(アメリカ合衆国・メジャーリーグベースボール)コミッショナー事務局はNPBコミッショナー事務局に対しファクシミリ (FAX) 通信で「MLBの1球団[注 47]が大洋の中山投手に関心を持っているので身分照会をしたい」といった旨の文書を送信[注 48]。同日、NPBコミッショナー事務局は「中山投手は同年1月7日に大洋を解雇された」との事実のみ通知した上で[140]、同月18日にはMLBに対し「川島セ・リーグ会長が12球団に対し、更生するまで中山と契約しないよう要望している。NPB球団と同様に中山との契約を見合わせるように要望する」とした回答書を送った[141]。吉國NPBコミッショナーはこの件を受け「事件の経緯を説明した上でNPB球団と同様に対応するよう善処を求めた」と述べている[141]。中山自身は『週刊現代』(講談社)の記者から「アメリカ・韓国・台湾など海外に行けばすぐに野球ができるかもしれないが?」[注 49]と質問された際に「海外に行くのは苦しい環境から逃げるようだから嫌だ。いくら批判を浴びても、日本で修行をして厳しい声に耐えていきたい」と回答した[82]。
寺での修行を終えた中山は就職活動をするも、当初は事件の影響で数社から断られ、大洋球団職員の紹介[注 50]を受けて入谷正典[注 51](元巨人投手)が経営する横浜市内の運送会社[注 52]へ就職した[75]。1992年4月入社以降、横浜港・大黒埠頭(鶴見区)にて[81]輸出用自動車の貨物船への積み込み、港湾への運搬などの仕事をしていた[75]。当時の月収は手取りにして14、15万円程度[注 53]で生活は苦しく、周囲からは冷たい視線や声に晒され、嫌がらせの手紙も多数送られていた。中山自身は「批判・非難の声は言われて当然だから、自分で耐えなければならない」と辛抱しながら社会生活を送っていた[83]。
球界復帰への道
[編集]事件後は、野球の試合はもとより野球関連のニュースをほとんど見ず[83]、野球道具も押し入れに仕舞い込んでいた[注 54]。しかし、就職から丸1年が経過したころ、社内の野球チームから「一緒にやろう」と勧誘されたことをきっかけに、再びグラブを手に取った[75]。当時、中山は「過ちは一生消えないし、人前に出れば被害者をまた苦しめることになる。野球を諦めて世間に忘れられた方がいい」という思いを抱えていたが、一方で「どうしても野球をやりたい気持ち」は強かった[128]。1992年末ごろには職場のあった大黒埠頭・アパート近辺で3~5kmの距離を毎日ランニングしていたほか[55]、1993年3月以降は現役復帰に向けた練習を開始している[146]。なお同年には知人の紹介により、球界復帰後の1995年に結婚することになる20代女性(家事手伝い・神奈川県川崎市在住)と知り合っている[147]。この頃には後述の署名活動を主導していた入谷から「少しキャッチボールなどをして体を作っておけ」とアドバイスを受け[75]、昼休みに同僚とキャッチボールしていたが、同僚たちはプロの第一線で活躍していた中山の球威を恐れたためか、キャッチボールを躊躇するようになっていった[145]。
また、入谷が中心となり[75]、横浜市内の財界人グループや中山の母校である高知商高のOBらが[148]「中山裕章君の復帰を願う市民の会」を結成。[146]1993年1月7日から中山の球界復帰を嘆願する署名運動を開始[148]。同月28日までには横浜市・高知県などを中心に100,387人分の署名[注 55]が集まった[149]。1993年3月、中山の解雇直後にNPB全12球団へ無期限契約回避を申し出ていた川島セ・リーグ会長のもとへ当初目標の倍以上となる約22万人の署名・嘆願書が手渡された[146]。この動きを受け、川島セ・リーグ会長は1993年5月28日に「中山投手は更生の道を歩んでいる」と認め、声明に示した無期限契約回避措置を「早ければ同年6月中旬にも解除する」ことを明らかにした[注 56][151][146][152][153]。社会的に大きな影響を与えた事件で、逮捕直後は事実上困難とされていた球界復帰の道を開くことは賛否両論が渦巻くのは必至の情勢だったが、川島は「彼は1年半汗を流して働いた。彼を評価する球団が出てくることを期待する」とコメントした[146][152]。のちに中山を獲得した中日ドラゴンズはこの時点で彼に関心を示しており[151][152]、伊藤濶夫・球団代表が「汗を流して頑張っている青年に救いの手を差し伸べたい」[132]、中山了・球団社長も「獲得を考えてみようという気持ちはある」とそれぞれコメントした[153]。
川島は「中山の投手生命を考えればそろそろ復帰への道を開く時期だ」として私的顧問機関『セ・リーグ懇話会』を開いたが[154]、川同年6月29日に東京・銀座のセ・リーグ連盟事務所で開かれた懇話会は声明の解除に対し「現時点では時期尚早」との結論を出した[155][156][157][158]。当時、元婚約者との民事訴訟が継続中だったことなどで[158]、懇話会は「いずれは要請を解除する必要があるが、中山の更生には精神的安定を含めた身辺整理が不可欠で、元婚約者との訴訟問題を解決することが前提条件として求められる」との理由から声明解除を見送った[注 57][157]。1993年12月10日、セ・リーグ懇話会はあらためて川島の声明を撤回することを答申し、川島は「来週中にも本人と会った後、できるだけ早く解除したい」として球界復帰を事実上認める発言をした[159][160][161]。同日に記者会見した懇話会座長の中村稔(セ・リーグ顧問弁護士)は「元婚約者との婚約不履行の裁判に和解が成立し、中山投手も事件から2年以上経って社会的に更生できる実績を示したと理解している」と答申理由を説明した上で「復帰後は試練に晒される中山投手に対し、(獲得する)球団は精神面でも生活面でも十分な配慮・サポートをお願いしたい」とする声明を発表した[159][160]。これを受けて中山は後見人を通じ「1日も早く川島会長にお会いしてお許しを頂きたいと思います。会長に許していただいても世間の全ての方が許してくださっているわけではないと思いますので、一生謹慎の気持ちで修養を忘れず新しい人間になって頑張りたいと思います。皆様のお気持ちを裏切らないよう精進してまいります」とコメントを発表した[162][160]。
1993年12月16日午前、川島は渋沢良一セ・リーグ事務局長・児童心理学専攻の大学教授とともに横浜市内のホテルで中山と面接し、現在の心境や生活状態などを聞いた上で、中山の球界復帰を承認することを決定した[163][164][165]。中山はこの際、「起こしてしまった事件はとんでもないことだが、自分に情を注いでくださる人もいるので、それを支えに耐えていきたい」[165]「どんなことがあっても耐えられるつもり。野球以外に自分の夢はないので野球人として更生させていただきたい」と川島に対し発言した[163][164]。これを受け、川島は同日午後の球界三首脳会談で吉國NPBコミッショナー・原野パ・リーグ会長それぞれの了承を得た上で[165]、事件当時に各12球団に出した要望の解除を決定、17日の実行委員会で報告後に各球団へ要望の解除を通知することを決めた[163][164]。そして12月24日に「翌日(1993年12月25日付)で中山との選手契約自粛を要請した声明を解除する」とする内容の文書を[12]各12球団宛てに郵送した[注 58][167]。一方、『読売新聞』記者・長谷川一雄は2年間のブランクや世間の厳しい目を指摘し、「仮に復帰できても本当にプロで通用するか?」と疑問を投げかけた上で、「『プロ野球選手である前に、常識ある一社会人であれ』と改めて願わずにいられない」と述べていた[168]。
中日時代
[編集]声明解除が正式に通達されたことを受け、以前から中山に関心を示していた中日ドラゴンズ(監督:高木守道)[注 59]は中山との契約に向けて動き出し[169]、1993年12月27日には中山を打撃投手(球団職員身分・1年契約)として採用したことを発表した[169][170][171][172]。同日午後、中山は両親とともに岡田英津也中日球団編成部長と横浜市内で面会し「新人のつもりでやり直したい」として中日の提示条件を全面的に受け入れ、契約に合意した[172]。
中日の中山了球団社長は「裕章の獲得が球団のイメージに悪影響を及ぼさないとは言い切れない」と述べたが[170]、一方で獲得に至った経緯や今後の見込みについて「彼(裕章)はやってはならない過ちを犯したが、真摯な反省と自戒の2年間を過ごし社会的制裁も受けた。許すことがあってもいい。即戦力とまではいかないが、早ければ来年の後半か再来年にも(一軍のマウンドに)出てきてくれるだろう」と話した[172]。中山裕章は同日、球団を通して「これまでのことは深く反省している。どうしても野球を忘れることはできなかった。1から出直す覚悟で一生懸命やる」とコメントした[171]。中日が火中の栗を拾う様な形で中山獲得に乗り出した理由は先発ローテーションを担える右投手が不在していた事情があったためで[133]、現役復帰後の1995年3月に発売された『ホームラン』1995年3月号増刊『'95プロ野球 12球団全選手百科名鑑』(日本スポーツ出版社)では「右の先発ローテーションに入るか?」と記載されたが[173]、中日時代は先発で登板する機会はなかった。
1994年
[編集]球界復帰1年目となる1994年春は二軍の打撃投手として、串間市営球場で行われた春季二軍キャンプに参加しつつ、実戦復帰を目指した[174]。そして稲葉光雄コーチらの指導を受け、選手契約を目指し[175]、同年6月10日には契約金なし[176]・年俸800万円(推定)・背番号125で選手契約を結び、同日付で支配下選手登録を受けた[174][177][176][178]。これは中日球団は「練習態度が真面目で、そろそろチャンスを与えてもいいだろう」と判断したためで[174]、中山は2年半ぶりに現役選手として復帰した[179]。同日、中山は「被害者がいる以上、罪は消えないが、再び野球ができることに感謝の気持ちでいっぱいだ」とコメントした[174][178]。また中山了・中日球団社長は「事件は絶対に犯してはならない過ちだったが、本人は2年以上も深く反省していたし『もうチャンスを与えてもいいだろう』と考えた。二軍で打撃投手を務めさせつつ、投手としての実力のみならず性格も観察した上で復帰を承認した」と[174]、川島セ・リーグ会長も「中山君は『過去』というものを償いあまりある努力をしたに違いない。新生・中山が生まれることをファンも期待しているだろう」と、それぞれ談話を発表した[177]。
一方で中山が正式採用された1994年6月以降、中日球団や親会社・中日新聞社には抗議・無言電話が殺到し、復帰第一戦の翌日(1994年7月25日)は球団事務所で厳戒態勢が取られた[143]。また、中日の水谷啓昭投手コーチは山田ゆかりの取材に対し「中山が懸命に努力している姿を見てからは応援する気になったが、初めは『冗談じゃない。黒い霧事件で永久追放になった選手もいるのに、なんで性犯罪を犯したような選手を雇うのか』と球団への不満を抱いたし、チームメートへの悪影響も懸念した」と[128]、『スポーツニッポン』編集委員・小川勝も1999年に「中山が登板すると試合のテレビ中継でも必要最小限のコメントしかせず、極力言及を避けている。中山を単独で取り上げることは必然的に少女へのわいせつ事件に言及せざるを得なくなることであり、現在のプロ野球報道で一種のタブーとなっている[注 60]ようだ。『球界復帰に当たっては被害者・家族の合意を得た』という話だが、中山が起こした事件は抵抗手段を持たない少女への一方的な性的虐待であり、被害者の少女たちが心の深い層で深刻なトラウマを抱え込んだ可能性がある。そのトラウマの深刻さは少なくとも本人たちが成人するまでわからないもので、その点を考慮すれば中山をわずかな期間で球界復帰させた決定には疑問を抱かざるを得ない」と指摘した[181]。
中日入団以降、当時空白となっていた抑え投手の座を得るために必要な瞬発力を得るべく、ランニングではダッシュを重視するなど重点的なトレーニングを重ねていた[182]。同年6月21日にはウエスタン・リーグ(ウ・リーグ)の福岡ダイエーホークス戦(ナゴヤ球場)で先発し、1991年10月10日の阪神戦以来となる現役復帰後初登板を果たした[183]。この試合では3回を投げ、打者14人と対戦して5被安打・4奪三振の結果で、山之内健一に高め速球を打たれ、本塁打を記録されるなど3失点を喫したが、ブランクを差し引けばまずまずの投球内容だった[183]。同年7月21日には高木守道監督ら首脳陣立ち会いの下でナゴヤ球場にて昇格テストを受け、高木監督から「長いイニングは無理だが、試合の展開次第で投げさせ様子を見たい」と判断を受けたため、後半戦からの一軍合流が決定した[184]。
翌7月22日、中山は現役復帰後初[185]・大洋時代の1991年10月以来となる33カ月ぶりの一軍選手登録を受け、同日付で背番号も67に変更された[186]。7月23日の対巨人戦(ナゴヤ球場)からベンチ入りし[186]、翌24日の試合で先発・山本昌[注 61]に代わり、中継ぎとして1991年10月10日以来の一軍登板を果たし、1イニング1被安打0失点に抑えた[187]。中山本人は前日から野次を飛ばされることを覚悟していたが[128]、中山が登板した際には多少の野次こそあったものの[87]、拍手や声援が多かった[注 62][128]。当時、中山は『週刊新潮』の取材に対し「現時点ではまだ80%ほどの出来で、速球・カーブとも今一つであり、やはりフォークが一番だ。ゆくゆくは先発で投げてみたいし、お世話になった方のためにも早く1勝を挙げたい」と述べていた[87]。
同年は一軍6試合に登板し、0勝0敗0セーブ・防御率5.79の成績で[173]、古巣・大洋時代の本拠地球場・横浜スタジアム(大洋は1993年より「横浜ベイスターズ」に球団名を変更)で登板することはなかった[注 63]。また、同年10月8日にナゴヤ球場で開かれた巨人との優勝決定戦「10.8決戦」でも登板機会はなかった[190]。同年オフの11月15日は推定年俸1,200万円(前年比800万円増)で契約更改した[191]。
1995年
[編集]球界復帰2年目の1995年は背番号を大洋時代と同じ19番に変更し[注 64][190]、アメリカ・アリゾナ州春季キャンプでは600球を投げ込むなど、抑え投手の座を得るべくトレーニングを積み重ねた[注 65][182]。同年はチームが低迷(終盤近くまで最下位・最終順位は5位)する中で[注 66]、中継ぎ・抑えとしてチーム最多の44試合に登板し、初勝利を含めて3勝6敗4セーブ・防御率3.27の成績を挙げ[193]7セーブポイントを記録した[194]。また同年5月1日には運送会社に勤務しつつ球界復帰を目指していた1993年に知人の紹介で知り合った20歳代の女性(当時・神奈川県川崎市在住)と入籍したことを明らかにした[147]。
同年4月12日のヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)では大洋時代・1989年8月11日の阪神戦(横浜スタジアム)以来2,070日ぶり、球界復帰後初となるセーブを挙げ[195]、同年5月24日には古巣・大洋の後身である横浜ベイスターズ戦にて現役復帰後初めて横浜スタジアムで登板を果たした。この試合では延長12回裏から登板したが、二死満塁の場面で波留敏夫から右翼線へ抜けるサヨナラタイムリーを打たれ、敗戦投手となった[196]。
同年6月6日には広島東洋カープ戦(広島市民球場)で8回裏(1点ビハインド)に中継ぎで登板すると、9回表に山崎武司の同点二塁打が飛び出し、延長10回表まで2イニングを投げた[197]。そして延長12回裏には仁村徹の決勝打でチームが勝ち越し、最後は中山の後を継いだ古池拓一が1点リードを守ったことにより、中山は1991年9月29日の巨人戦以来1,346日ぶりとなる球界復帰後初勝利を飾った[注 67][197]。
このころには大洋時代の活躍の片鱗が窺えるところまで速球の威力が回復していたが、本人は「まだムラがあり、イメージ通りの速球には程遠い」と満足しておらず、全盛期の「速球で相手打者を追い込み、独特の揺れるフォークで抑える」というパターンを取り戻すべく腐心した[14]。同年オフ(11月30日)には推定年俸2,000万円(前年比800万円増)で契約更改した[198]一方、同年オフには韓国球界のスーパースターである宣銅烈[注 68]が新たな抑え投手候補として加入[200]。星野仙一監督(同年オフに就任)[注 69]は宣を抑え投手として起用する方針だったため、中山は居場所を追われる格好となったが、本人は宣の代役に備えて準備していた[200]。
1996年以降
[編集]1996年の開幕当初は宣へのつなぎ役(中継ぎ)を務めていたが、宣が初登板から抑えに失敗し、その後も不安定な投球だったことからその代役に抜擢され[201]、首脳陣の期待に応えた[202]。同年前半戦(77試合)ではチームの投手陣で唯一、二軍落ちすることなく、一貫して一軍で過ごし[203][204]、力のある速球・フォークを武器に抑え投手として活躍した[199]。後半戦には前半戦に比べ、調子を落としたが、球界復帰から3年目で完全復調の手応えを掴み[199]、36試合に登板し、4勝4敗14セーブ・18セーブポイント・防御率2.88の数字を残した[194]。同年オフには推定年俸4,500万円(前年比125%アップ、2,500万円増)で契約更改した[205]。
同年7月11日にはセ・リーグ代表監督・野村克也(当時・ヤクルト監督)の推薦により[注 70]サンヨーオールスターゲーム全セ(オールセントラル・リーグ)に選出され、大洋時代の1989年以来7年ぶりの代表選出を果たした[206]。そのオールスターゲームでは第3戦(7月23日・富山市民球場アルペンスタジアム)で先発投手・斎藤隆(横浜)の後を継ぎ[209]、3回表に二番手投手として登板[210]。イチロー(オリックス・ブルーウェーブ)・村松有人・秋山幸二(ともに福岡ダイエーホークス)・清原の計4人と対戦し、同回の先頭打者(1番打者)イチローに右中間三塁打を打たれると、続く2番打者・村松の中犠飛で球宴初失点(1点)を喫したが[209]、2死で迎えた清原を145 km/hの速球で空振り三振に打ち取り[210]、1回1被安打2奪三振1失点の成績を残した[211]。
1997年はチームがナゴヤ球場に代わる新本拠地・ナゴヤドームに対応しきれず最下位に沈む中、リリーフのみでチーム最多の53試合に登板し、投球回76イニング2/3[注 71]を記録した[213]。同年は前年不調だった宣が一転して守護神として活躍したため自身のセーブはゼロに終わったが[213]、守護神・宣へつなぐセットアッパーとして1年を通じて活躍し[214]、大洋時代最終年の1991年以来6年ぶり・球界復帰後では初となるシーズン7勝[注 72]を挙げた[213]。しかしその一方で6敗したほか、防御率も4.34と思わしくなく、本人は「大事な場面で打たれた不本意なシーズンだった」と振り返ったほか[216]、江川卓も課題点として「防御率の高さに加え、速球の力強さが失われ奪三振数が(それまで1イニング1個に近い割合だったのが)54個と減った。暴投も6回と多い」と指摘していた[212]。同年オフ(12月1日)には推定年俸4,400万円(前年比100万円減)で契約更改した[216]。
1998年シーズンは豊富な実績・経験から中継ぎエースとして期待され[217]、その座を確立すべくシーズンに臨んだ[214]。しかし同年は故障に加え[218]、この年からリリーフに専念した落合英二・新人の正津英志の台頭から登板機会は少なく[219]、シーズンの大半を棒に振ってしまった[217]。同年は一軍戦では7月に7試合(合計7イニング)登板[218]、二軍戦でも6試合登板に留まり[89]、チームの首脳陣からは何度も「あいつがいれば…」とため息が漏れた[217]。同年、チームは中山の古巣・横浜とのリーグ優勝争いに敗れ2位に終わった。同年オフにはフリーエージェント(FA)資格を取得したが[220]、FA権を行使せず残留して推定年俸4,200万円(前年比200万円減)で契約更改した[221]。
1999年、中日はプロ野球タイ記録となる開幕11連勝を記録したが、中山はその11試合中4試合でリリーフとして登板し、いずれの試合でもピンチを無被安打で切り抜けた[222]。特に11連勝を決めた4月16日の巨人戦(東京ドーム)では先発したサムソン・リーの後を継ぎ、8回表から登板し、1回を三者凡退に抑え、勝利に貢献したほか、優勝が間近に迫った9月18日・横浜戦(横浜スタジアム)でも延長11・12回を投げ抜いて勝利に貢献[222]。同年はリリーフのみで31試合に登板し、3勝1敗・防御率3.16の成績を挙げ、自身初・中日球団史上11年ぶり5度目のセ・リーグ優勝に貢献した[223]。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは第3戦(ナゴヤドーム)にて9回表に敗戦処理として登板した[224]。11月24日には名古屋市内の病院に入院し、両膝半月板の手術を受け[225]、12月3日には推定年俸4,400万円(前年比200万円増)で契約更改した[226]。
2000年は守護神・宣が引退したため、その後継者候補として期待されたが[227]、両膝手術の影響により落合とともに前半戦を棒に振り[228]、リリーフで25試合に登板したが[229]、徐々にチームが投手王国となり落合・正津英志・岩瀬仁紀らが台頭するにつれて登板機会が減少していった。同年11月28日には来季の契約について推定年俸4,300万円(前年比100万円減)で更改した[230]。
2001年シーズンは一軍で4試合登板・投球イニング6回2/3・0勝0敗の成績に終わり[注 73][234]、同年10月12日には小池秀郎・鈴木平・永田能隆とともに球団から戦力外通告を受けた[235][236]。同年12月2日にNPBコミッショナー事務局により自由契約選手として公示され、同年限りで中日を退団した[237]。同日までに開かれた12球団合同トライアウトには計2回参加したが、獲得に手を挙げるNPB球団はなかったため、台湾プロ野球・韓国のKBOリーグへの移籍を視野に現役続行を目指した[234]。
台湾球界時代
[編集]合同トライアウト受験後の2001年12月、横浜を退団した小桧山雅仁(中山の退団後、ベイスターズで最初に背番号19を着用)とともに台湾・中華職業棒球大聯盟 (CPBL) [注 74]の和信ホエールズ(翌2002年シーズンより「中信ホエールズ」に球団名を変更)へ入団した[239]。中信時代の背番号は日本球界時代と同じ19[240]。
中信では大洋時代の1991年以来となる先発投手に転向し、エース格投手として活躍[241]。2002年は12勝10敗、翌2003年も13勝4敗と、2年続けて好成績を残した[242]。また郭李建夫(元阪神)[注 75]とともに若手にアドバイスを送るなどしてチームに貢献していたが[注 76][244]、同年限りで現役を引退した[245][246]。これは肘の故障に加え[245][246]、妻が帰国を望んだためで[注 77]、同月には中信球団に「妊娠中の妻が第一子出産[注 78]を控えて日本に帰国しているため、出産前に帰国して面倒を見たい。今季限りで退団・帰国する」と申し入れた[注 79][244]。
2003年9月21日、台北市立天母棒球場で開かれた兄弟エレファンツ戦[注 80]で同じく日本人投手の横田久則(元西武・ロッテ・阪神)と投げ合い、3失点を喫したが完投して13勝目を挙げた[243]。試合後、中山はヒーローインタビューで満員のファンに対し「2年間ご声援いただきまして本当にありがとうございました。残念ながら総冠軍戦(台湾シリーズ)には出場できませんでしたが、来年こそはチームの優勝を祈っています」とコメントした[243]。
現役引退後
[編集]2003年9月23日に帰国[247]。現役引退後には男児(長男)が誕生し、かつて修行に入った佛現寺の住職から命名を受けた[83]。また、台湾で築いた人脈を通じて実業家への転身を目指し[180]、竹製品の輸入業を営むようになった[144]。2004年には『週刊アサヒ芸能』(徳間書店・2004年5月20日号に掲載)の取材に応じて「1991年の事件後の生活・球界復帰までの経緯」や「『自分が子供を作っても良いのか?』という不安があったこと」などを話した[注 81][83]ほか、2005年秋には関内駅(横浜スタジアムの最寄り駅)付近で高校時代から親交の深かった『高知新聞』記者・土橋宏史から6年ぶりに取材を受けた[144]。
その後はメディアへの露出を控えているが、高知商業高校時代にバッテリーを組んだ捕手・岡村英人(現:高知県立高知東高等学校野球部監督)は2016年に『Sports Graphic Number』(文藝春秋社)記者・鈴木忠平からの取材に対し「(中山は現在)自分で事業を頑張っている」と証言している[38]。
一方で大洋の後身である横浜DeNAベイスターズの時代になっても球団史から除名同然の扱いを受けており、例えば2019年にベースボール・マガジン社から発売された『ホエールズ&ベイスターズ 70年の航跡』では、往年の名選手として彼を紹介する部分が一切確認されていない。
選手としての特徴
[編集]高校時代は最速150 km/hを記録する速球を武器に甲子園で活躍し[5][33]、1985年に夏の甲子園で対戦した清原は自著で中山を「当時から桑田と並ぶ大会屈指の好投手として注目されていたが、肝っ玉も超高校級だった」と評した[37]。ドラフト会議当時は「がっしりとした体格から最高150 km/hの速球を投げ込む高校球界きっての剛腕投手。打力もAランク」[49]「桑田以上の球速を誇る重い速球の持ち主。将来性は高校の先輩である中西清起(阪神)・津野浩(日本ハムファイターズ)以上」と高く評価されていた[46]。
プロ入り当初の持ち球は速球・カーブ・スライダー・シュート・フォークボールで[50]、大洋時代は右投げの速球派投手としてリリーフ・先発で活躍したほか[248]、中日時代は力のある速球に加えて「ストライクを取るフォークと空振りを取るフォーク」と2種類のフォークを武器に中継ぎ投手として活躍し[199]、『月刊ドラゴンズ』(中日新聞社)1999年10月号優勝記念臨時増刊号「'99Vの軌跡」では「ロングリリーフが苦もなくこなせる中継ぎエース。好調時には先発も任せられるほどの好投を見せた」と紹介された[249]。
人物
[編集]1985年夏の甲子園では『週刊ベースボール』で「胸囲95 cm・太腿62 cmで、ズボンのサイズはLLより2段階も大きい。甲子園のマウンドを土俵にしたいような巨漢投手」と形容され、チームメイトたちからは同じく高知県出身の大関・朝潮に由来する「朝潮」のニックネームで呼ばれていたが[16]、『週刊ベースボール』1986年2月3日号誌上にて行われた小林繁との対談では「朝潮さんはそこまで好きというわけでもない」と答えている[50]。
また甲子園でライバルとして戦った清原・桑田とも、1985年夏の日米韓三国対抗高校野球大会でともに日本代表として選出されて以降、それぞれ仲良くなっていた[注 82]一方、小林との対談では「清原・桑田には負けたくない。特に桑田は同じセ・リーグだから桑田に勝つことが目標だ」と抱負を述べていた[50]。またその対談では小林から「(同じく高知県出身の)坂本龍馬は好きか?」と質問され、「高知の田舎から政治を変えていった龍馬はすごいと思う。龍馬のように自分の思ったことを積極的にいろいろ考えてやっていきたい」と答えている[50]。
大洋時代には『読売新聞』の取材に対し、同じ速球派投手としてノーラン・ライアンを「尊敬する投手」として挙げており、1989年1月の同紙記事では「時に帽子を振り飛ばすほどの力強い力投は“弱小大洋”の中で1人気を吐いた『和製ライアン』」と紹介されていた[248]。また1991年の事件当時は「金太郎」の愛称で親しまれるとともに「営業マンとしてもやっていける」と言われる腰の低さから「球界でも屈指の好青年」として知られており[8]、二軍投手コーチ・野村収は『神奈川新聞』運動部記者・文平英樹の取材に対し「性格は几帳面で少々のんびりした面もあり、このような事件を起こすなど信じられない」と証言したほか、文平自身も「誰もが中山に対し『正直で真面目な男』というイメージを持っていた。『決して誰にも見せないような別の一面』があったとでもいうのか?婚約者との入籍が延び延びになってはいたが、私生活の面でも『普通の男性・野球選手』という以上のことは聞いたことがなかった」と述べた[77]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1986 | 大洋 | 18 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | -- | .000 | 194 | 44.0 | 44 | 3 | 15 | 0 | 3 | 15 | 1 | 0 | 34 | 25 | 5.11 | 1.34 |
1987 | 33 | 20 | 2 | 1 | 0 | 5 | 12 | 0 | -- | .294 | 568 | 132.1 | 147 | 17 | 44 | 2 | 0 | 81 | 8 | 2 | 78 | 76 | 5.17 | 1.44 | |
1988 | 70 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 | 6 | 24 | -- | .625 | 597 | 142.1 | 124 | 11 | 52 | 10 | 3 | 118 | 9 | 1 | 40 | 36 | 2.28 | 1.24 | |
1989 | 45 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 10 | 17 | -- | .091 | 346 | 79.0 | 81 | 17 | 32 | 6 | 3 | 68 | 2 | 0 | 39 | 36 | 4.10 | 1.43 | |
1990 | 27 | 21 | 5 | 3 | 0 | 8 | 12 | 0 | -- | .400 | 653 | 153.2 | 157 | 14 | 44 | 5 | 8 | 89 | 3 | 1 | 71 | 67 | 3.92 | 1.31 | |
1991 | 27 | 23 | 3 | 2 | 0 | 8 | 10 | 0 | -- | .444 | 672 | 156.1 | 152 | 25 | 58 | 1 | 6 | 107 | 4 | 0 | 77 | 73 | 4.20 | 1.34 | |
1994 | 中日 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 20 | 4.2 | 8 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 3 | 3 | 5.79 | 1.71 |
1995 | 44 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 6 | 4 | -- | .333 | 225 | 52.1 | 56 | 7 | 11 | 2 | 2 | 49 | 8 | 0 | 23 | 19 | 3.27 | 1.28 | |
1996 | 36 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 4 | 14 | -- | .500 | 170 | 40.2 | 32 | 3 | 16 | 2 | 0 | 42 | 3 | 0 | 15 | 13 | 2.88 | 1.18 | |
1997 | 53 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 6 | 0 | -- | .538 | 330 | 76.2 | 67 | 10 | 32 | 3 | 7 | 54 | 6 | 1 | 41 | 37 | 4.34 | 1.29 | |
1998 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 27 | 7.0 | 4 | 0 | 2 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.86 | |
1999 | 31 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | -- | .750 | 146 | 37.0 | 31 | 2 | 12 | 1 | 1 | 16 | 2 | 0 | 13 | 13 | 3.16 | 1.16 | |
2000 | 25 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | -- | .667 | 116 | 28.1 | 23 | 3 | 9 | 1 | 2 | 22 | 1 | 0 | 10 | 7 | 2.22 | 1.13 | |
2001 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 27 | 6.2 | 7 | 1 | 2 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 4 | 4 | 5.40 | 1.35 | |
2002 | 中信 | 34 | 24 | 7 | 3 | 0 | 12 | 10 | 1 | -- | .545 | 728 | 176.2 | 172 | 13 | 43 | 3 | 10 | 117 | 10 | 1 | 76 | 55 | 2.80 | 1.20 |
2003 | 25 | 25 | 6 | 2 | 1 | 13 | 4 | 0 | -- | .765 | 729 | 180.0 | 169 | 5 | 30 | 1 | 8 | 106 | 3 | 1 | 56 | 44 | 2.20 | 1.10 | |
NPB:14年 | 423 | 70 | 10 | 6 | 0 | 51 | 71 | 62 | -- | .418 | 4091 | 961.0 | 933 | 114 | 329 | 34 | 35 | 669 | 47 | 5 | 448 | 409 | 3.83 | 1.31 | |
CPBL:2年 | 59 | 49 | 13 | 5 | 1 | 25 | 14 | 1 | -- | .641 | 1457 | 356.2 | 341 | 18 | 73 | 4 | 18 | 223 | 13 | 2 | 132 | 99 | 2.50 | 1.15 |
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
[編集]- CPBL
記録
[編集]- 初登板・初先発:1986年5月8日、対読売ジャイアンツ5回戦(後楽園球場)[1]
- 初セーブ:1986年10月13日、対中日ドラゴンズ25回戦(ナゴヤ球場)[52]
- 初勝利:1987年5月9日、対読売ジャイアンツ4回戦(横浜スタジアム)[58]
- 初完投勝利:1987年5月21日、対ヤクルトスワローズ9回戦(横浜スタジアム)[59]
- 初完封勝利:1987年6月27日、対読売ジャイアンツ13回戦(後楽園球場)、4被安打[60]
- オールスターゲーム(NPB)
- オールスターゲーム出場:3回 (1988年、1989年、1996年)
背番号
[編集]- 19 (1986年 - 1991年、1995年 - 2003年)
- 125 (1994年6月10日 - 7月21日)
- 67 (1994年7月22日 - 同年終了)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 中山の球威は高校生離れしており、名門の高知商高でも中山のボールを捕球できる捕手は中学時代からバッテリーを組んでいた岡村以外にいなかった[17]。岡村は2年生春の紅白戦で二塁にスライディングした際に二塁手と交錯し、胸を二塁手の膝に激突させたことで腎臓破裂の重傷を負い[18]、医師から「一生、運動はしない方が良い」と事実上のドクターストップを掛けられたが、周囲の反対を押し切って3か月後には練習に復帰し、3年生への進級直前には正捕手に返り咲いた[19]。
- ^ 雨天順延の影響による[22]。
- ^ 谷脇は本来、中学生を自校の部に勧誘することはなかった[22]。
- ^ この試合では5対10とリードされた6回1死から登板し、チームは9対10の接戦で敗退した[25]。しかし中山は3回2/3イニングを投げ、清原・桑田を含めて相手打線を被安打1・無失点に抑えた[25]。
- ^ 一方、1歳年下の野村貴仁(高知県立高岡高校宇佐分校へ進学)は自著『告白』 (2016) にて「自分が高校進学する際には高知商高からも勧誘されたが、中山さんに興味を持って高知商高の練習を見学した際には『土佐の怪腕』と呼ばれるほどの剛速球を投げているようには思えなかった。何より中山さんが入学後の校内テストで毎回のように白紙答案を提出していたことが問題視されたため、その次の代である自分たちが高校受験する年(1984年)からは、(高知商高野球部が)一定以上の学力成績を残せる者しか受け入れなくなった。それが許せなかったから、自分で『ここ(高知商高)はダメだ』とすぐに断念した」と述べている[26]。
- ^ 途中、中山は2週間でランニングを休むようになったが、岡村は毎朝中山を母親に起こさせてともにランニングをした[29]。
- ^ 岡村も当時の中山を「投げるボールの才能はプロ級」と認めていたが、中山本人は「純粋に野球を楽しみたいだけ」という性格だったため、厳しい練習には身が入らなかった[31]。
- ^ 『週刊ベースボール』2013年8月19日号に掲載された「夏の甲子園球速ランキング」では夏の甲子園で球速150 km/h以上を記録した投手たちの記録が掲載されているが、表中で最古の記録は中山が1985年夏・第1回戦(藤嶺藤沢戦)で記録した150 km/hとなっている[34]。
- ^ 『週刊ベースボール』(ベースボール・マガジン社)1985年8月26日号では「徳島県立池田高校・水野雄仁以来となる最速145 km/h(プロ野球各球団のスカウトが持参したスピードガンの記録)」[36]・同誌同年9月7日号では「日本ハムのスカウトが『150 km/h出た!』と仰天した」とそれぞれ報道された[16]。
- ^ 球速は146 km/hを記録[38]。
- ^ この時、清原の金属バットはボールが当たった部分がへこみ、ひび割れた[38]。
- ^ このホームランは1985年8月20日付『スポーツニッポン』にて「甲子園史上最大のホームラン」と報道されたほか[40]、「推定飛距離160 m」「プロ野球の試合を含めても、甲子園球場開場以来最大の飛距離」などの声も上がった[39]。また、清原自身も自著『男道』 (2009) にて「少年時代から現役引退までに打ち続けた何百本の本塁打の中でも最も記憶に残る一発だ。高校時代にはそれまでも球場にいる全員の度肝を抜くようなホームランを何本も打っていたが、『何の混じり気も不純物もない、ホームランそのものの感触』を味わったのは初めてだった」と評価したほか[41]、2018年5月にスポーツニッポンから取材を受けた際にも「(甲子園で)僕が打った中では一番大きいホームランだと思う」と振り返っている[42]。
- ^ これにより、KKコンビ相手に初めて1イニングでアベック本塁打を被弾した投手となった[25]。
- ^ 大会後、谷脇は「中山には桑田以上の素質があったが、桑田以上の努力が足りなかったからPLにも清原にも勝てなかった。しかし、仮に清原・桑田がPLに揃っていなければ優勝できていたかもしれない」と振り返っている[43]。
- ^ 一部では「意中の球団は阪神タイガース・阪急ブレーブス。それ以外の球団は入団拒否する意向」と報道されていたが、本人はドラフト会議前日(1985年11月19日)に「特に好きなチームも嫌いなチームもない。『どのチームか』より指名順位の方が気になる」と述べていた[47]。
- ^ 同年12月7日に高知商高で湊谷武雄スカウト部長・高松延次スカウトと2度目の入団交渉を行い、正式に契約[48]。
- ^ 遠藤はこの時、中山に対し「練習は苦しいが、苦しい顔はするな。我慢してニコニコしながらやれば自分も周りも楽しくなる」とアドバイスした[51]。これについて、中山本人は「マスメディアからちやほやされるKKコンビ(清原・桑田)も幸せかもしれないが、日本一の投手(遠藤)からマンツーマンで指導を受けられる自分はもっと幸せだと思った」と述べている[51]。
- ^ 同年10月13日にナゴヤ球場で開かれた中日戦で初セーブを記録した[52]。3セーブは高卒新人のセ・リーグ記録
- ^ 試合後、近藤は中山の投球を「合格点。(チャンスに主力が外野にすら打球を飛ばせなかった)打線が情けない」[54]「中山は打線の援護が思うように入らなくてもよく投げた」と高く評価し[1]、中山本人も『朝日新聞』の取材に対し「江川さんと投げ合えて楽しかった。原さんには打たれる気がしなかった」と語っていた[54]。また、この試合では打撃でも2回表2死一・二塁の場面で江川から三塁線に抜ける二塁打(二塁走者・田代富雄が生還し1点適時打。一塁走者・若菜は本塁で憤死)を放ち、プロ初安打・初打点を記録した[1]。
- ^ 大洋球団の投手が高卒2年目で5勝を挙げたのは中山が最後で、その後は大洋→横浜球団の「高卒2年目の5勝投手」はチーム名が「横浜DeNAベイスターズ」に変更された後の2018年に京山将弥が7月28日・広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)で5勝目を記録するまで31年間にわたり現れなかった[56]。
- ^ それまでの抑え・斉藤明夫が抑え投手としては球速が遅かったことに加え、中山もオープン戦で先発をテストされたが、5回まで持たなかったため、抑えへの転向を命じられた[62]。中山自身は「抑えの場合は調整法がわからないし、自分は先発を目指したい」と先発投手への強いこだわりを見せていたが、同年からは延長12回制となったため、古葉は「斉藤の前にもう1人抑えが欲しい。性格が強気で速い球を投げられる投手は中山しかいない。短いイニングなら集中力を持続でき、先発時に集中力を欠いてミスをすることも少ないだろう」という見立てで中山を抑えに抜擢した[61]。
- ^ 完封勝利はプロ入り2度目で[72]、5回表の攻撃時には一死三塁の場面で打席に立ち、自らセンター犠牲フライを放ち、1点(決勝点)を取った[71]。この時、須藤は中山へのまじないとして試合前に母校・高知商高の校歌を自ら歌っていた[71]。
- ^ 12月6日に推定年俸2,450万円(前年比270万円増)を提示されたが、この時は保留した[73]。
- ^ 翌1991年オフに女性と挙式する予定だったが、同年は成績不振だったため、巻き返しを期して挙式を1992年オフに延期していた[75]。
- ^ 当時中山を指導していた二軍投手コーチ・野村収は『神奈川新聞』運動部記者・文平英樹の取材に対し「当時も悩んでいた様子はなかった」と証言した[77]。
- ^ 本来は減額提示だったが「来年の期待料込み」で現状維持となっており、更改後には「今年は途中から気持ちの切り替えができなくなってしまった。来年は制球にも気をつけて勝ち星を取りこぼさないよう気を付けたい」と話していた[76]。
- ^ しかし事件後、この新居は借金が1億円以上残り、維持できなくなったため売りに出された[81]。
- ^ 裕章の両親・姉は事件後に帰郷した[75]。両親は息子・裕章が起こした事件の影響で親しかった人と疎遠になったり、周囲の人々に謝罪することを余儀なくされたりしたが、息子が現役復帰を果たすまで献身的に支え続けた[83]。
- ^ また、中山と仲が良かったという当時の同僚・高橋雅裕は「(当時の中山は)肩の調子が悪く、高校の先輩の須藤監督から小言を多く言われてストレスを溜めていた。また、私生活でつらいことが多かった」と証言している[84]。
- ^ 被害者3人はいずれも同じ団地の住人で、事件現場となった団地中庭は住宅街の中でも人通りが比較的少なく、以前から痴漢が出没していた場所だったため、地元の警察署(金沢署)が街角・公園などに「変質者に注意」という内容の看板を掲げていた[85]。
- ^ ベンツは大洋解雇後、元婚約者側の手に渡った[87]。中日時代の1998年版選手名鑑(日刊スポーツ出版社)では「愛車はトヨタ・セルシオ」[88]、1999年版選手名鑑(ベースボール・マガジン社)では「愛車はレクサス」と紹介されていた[89]。
- ^ 被害者少女が犯人の顔を覚えていたため[85]、近隣では事件発生とほぼ同じ11月中旬ごろから子供たちの間で「ベンツに乗ったパンダ顔の男に気を付けよう」という話が広まっており、地元の小学校は在校児童たちに注意を呼び掛けたほか、町内会でも痴漢に注意するよう回覧板を回したり、子供会の集会などでも16時30分を過ぎると親が子供を迎えに行くなど自衛策を講じていた[90]。
- ^ 11月中旬過ぎ時点で一部マスメディアに「大洋の選手が逮捕される」という情報が流れていたが、地元紙記者は『週刊文春』(文藝春秋社)の取材に対し「同年10月1日に旭区内で行方不明になった小学3年生の少女の事件との関連を捜査したが、これはすぐにシロと判明した。逮捕が年末までずれ込んだ最大の理由は、神奈川県警が『中山が地元球団のエース級投手である』ことから社会的影響を考え、テレビのワイドショー・週刊誌の休みとなる年末年始に逮捕・釈放できるよう、慎重にタイミングを計ったためだ」と証言した[44]。
- ^ また捜査一課は身体検査令状などに基づき[93]、事件証拠の裏付けとして被疑者・中山の血液を採取した上で、その血液を事件の際に残された犯人の資料とともに科学警察研究所へ提出してDNA型鑑定を実施した[94][95]。
- ^ この時、『週刊新潮』の大洋担当記者は「中山と被害者3家族との間に示談が成立したが、大洋球団が1家族につき1,000万円=計3,000万円の示談金を肩代わりした」と証言した[101]。
- ^ 金沢署が中山を逮捕した直後、若生は記者会見で「中山がそのようなことをするとは想像できないし、噂にも聞いていなかった」と述べていた[108]。
- ^ 地元・横浜市の高秀秀信市長は「ファンとして(中山を)『将来の大洋ホエールズを背負って立つ若手投手』として期待していただけに、非常に残念だ」と[109]、コミッショナーも「事件の様子を聞くと変質者だったのかもしれない。甚だ遺憾の一言だ」と声明を出した[8]。また、熱烈な大洋ファンとして知られていた中野孝次(作家)は「これからのチームを担う中心選手として中山を一番頼りにしていたのに、裏切られた思いだ。プロの世界は誘惑が多いので、八百長みたいな事件ならまだ同情の余地が残るが、今回は人間として最低の行為。絶対に許せない」と中山を非難した[109]。
- ^ 須藤は身柄を球団に一任した上で監督解任を含め自身へのペナルティを申し出たが[110]、岡崎球団社長は「須藤自身へのペナルティは考えるが、監督解任は考えていない」と述べた[113]。
- ^ 『神奈川新聞』も1992年1月6日朝刊で「球団は解雇も含め厳しい処分を検討していたが、早期に被害者側と示談が成立したことで球団内では『最悪の事態は回避できた』という雰囲気が強い。処分は解雇にまで至らない可能性が出てきた」と報道していた[119]。
- ^ 仮に失格選手の烙印を押されればそれ以降、中山は「野球以外の道を歩むことさえ大きな障害になる」とされたため、形式上とはいえ復帰への道を残したことは「せめてもの温情」とされた[123]。
- ^ 中山自身はこの点に関して「面倒見の良かった須藤監督を含め多くの人に迷惑をかけて申し訳ない」と述べている[83]。
- ^ 女性は中山が寺へ修行に入る前、中山の恩師・谷脇と会った際に「中山はもう有名人ではなくサラリーマンとして地道に暮らさなければいけないが、それでもいいのなら一緒にいてやってほしい。それが嫌なら今すぐ別れてくれ」と諭された際には「このまま頑張る」と答えていた[81]。
- ^ 婚約者側の母親は『週刊新潮』(新潮社)の取材に対し「中山とその家族は被害者側に莫大な慰謝料を支払った一方、あれだけの事件を起こしておいてうちには一切謝りに来なかった。こちらから話し合おうと電話を掛けても名乗った瞬間に電話を切られ、話し合いどころではない。あんな人間に娘をやれるわけがない」と中山を非難した[55]。中山側は婚約者が書かせた「念書」について[87]、中山本人や知人は「婚約者に無理矢理書かされたようなもの」と証言したが[55]、婚約者の母親は「(自分は)娘のためにウェディングドレスを用意していた。計画的に別れるつもりならそのようなことはしない」と主張していた[131]。婚約者本人は『週刊現代』『週刊文春』の取材に対し「はじめは自分も中山も互いに別れる気はなかったし、中山は釈放後に『結婚する』と約束した」[132]「婚約破棄は中山が一方的に電話で『母親が“別れたら阪神に入れる”と言っているから別れることにした。約束通り5,000万円払うから別れてくれ』と言ってきた」と証言した[131]。
- ^ 中山側は当初「非を認めるようなことはしない」として元婚約者側が申し付けた和解案を拒否し、判決で解決を図ろうとしていた[131]。ただし和解成立は婚約不履行に関してのみで、車の件など2件については(中日入団決定時点でも)係争中だった[133]。
- ^ 会見は「担当記者1人の代表質問に対し本人が答える」という非公開形式で、中山自身の希望により「事件に関しての質問には一切触れない」という条件で行われた[134]。古巣・大洋の須藤監督は同日、中山について「自らを戒め、世に尽くす精神・行動力を身に着けてほしい」とコメントした[134]。
- ^ 亀井は中山が修行に入った当時、『中日新聞』の取材に対し「本人からお寺で修行したいと言っていたので佛現寺を紹介した」と述べていた[137]。
- ^ 『週刊新潮』の大洋担当記者は「身分照会をしてきた球団は大洋と友好関係にあるミルウォーキー・ブルワーズだろう。球団幹部のレイ・ポイトベントが日本人を妻に持つ親日家である上、かつて大洋に所属していたカルロス・ポンセもブルワーズ出身だ」と証言した[138]。また『週刊朝日』(朝日新聞社)は「中山を勧誘している球団はメジャー傘下の3A(AAA級)球団だろう。須藤監督が巨人の二軍監督時代(1986年 - 1989年)にアリゾナ州で開かれた教育リーグに毎年参加していた縁から知人も多く、中山にアメリカでの球界復帰を望んでいるようだ」と報道していた[139]。
- ^ この米球界からの誘いに関しては「アメリカでは少年少女への性犯罪はタブーで、それを犯した中山は受け入れられないだろう」と否定的な見方があった一方[139]、永谷脩は「アメリカではキリスト教の精神から罪を犯したものでもそれを償えば赦す傾向がある。そのような場所でマイナーリーグ(ルーキーリーグ)から大リーグを目指し、ハングリーな生活をしながらやり直していく覚悟が中山本人にあれば可能だろう」と述べており[118]、玉木正之(スポーツライター)も「中山にとっては1人で渡米してシビアな世界で生きていくことこそ社会復帰だろう」と述べていた[139]。
- ^ 韓国(KBOリーグ)移籍は規約の問題から不可能だったほか、台湾・中華職業棒球聯盟 (CPBL) の場合も「国民性から難しい」とする見方があったが、永谷は「台湾には大洋球団の親会社・大洋漁業の拠点がある。相手の受け入れさえできていれば、台湾球界入りできる可能性もある」と述べていた[118]。
- ^ 『週刊文春』1992年4月30日・5月7日ゴールデンウィーク特別号では大洋球団前社長・久野修慈の「港湾安全協会のある幹部から紹介を受けた」とする証言が掲載されている[81]。
- ^ 入谷は大洋球団でトレーナーを務めていたことがあり[81]、採用時には中山に対し、事件のことには触れず、「婚約者との告訴問題などをすべてきちんとしてから丸裸になって出直せ」とアドバイスを送っていた[75]。また中日の岡田英津也編成部長とは明治大学硬式野球部でチームメイトだったほか[142]、星野仙一前監督も同じく明治大学出身だったため、中日が中山を獲得した背景としてその点を指摘する報道もあった[143]。
- ^ 『高知新聞』 (2005) は「現役引退後に起業して以降も、かつて世話になった港湾関係者から貸倉庫の世話になっている」と報じている[144]。中山の事情は社内でも知られてはいたが、当時の上司は「プロ野球選手だったことからみな歓迎してくれた」と証言しており[81]、中山は自身と同年代の若者が約30人いた社内にすぐ溶け込んだ[145]。
- ^ 残業代を含めて20万円弱[81]。
- ^ その理由について本人は(野球道具は)「見る気にもなれず、だからといって捨てることもできなかった」と述べている[75]。
- ^ 当初の目標は同年2月末までに10万人分を集めることだった[148]。
- ^ 大洋の後身である横浜ベイスターズ・岡崎球団社長はベイスターズの中山獲得を否定したものの「球団としては解雇したので公式にはコメントできないが、個人的には会長の恩情で自分たち以外の球団が中山を採用し、中山が再び投げられることはいいことだと思う」とコメントした[150]。
- ^ 懇話会座長を務めた中村は「少なくとも『元婚約者との間で継続している裁判が片付かない限り、会長声明を解除することは世論が許さないだろう』と懸念している」と理由を説明した上で[155]「今後、和解などで訴訟の問題が解決した場合は再度懇話会を開きたい」と述べた[154]ほか、解除を検討していた川島も「いろいろな角度から検討していただいた。重く受け止めたい」とその結論を尊重する意向を示した[155]。
- ^ この時、セ・リーグ機構は同じく契約自粛を求めていたMLBに対しても同種の要請解除文書を郵送した[166]。
- ^ 高木は中山が解雇された際、「本来なら永久追放でも仕方のないところだ。野球界の人気低迷が囁かれている中で起きた事件であり、球界が襟を正すための1つの契機になるのではないかとは思う。ただ、自分としては『甘い』と言われるだろうが、アメリカのように球界復帰への道を残してやるのも必要ではないかと思う」とコメントしていた[121]。
- ^ 村山望は『新潮45』2004年10月号(新潮社)にて「過去の事件のために解説者は中山が登板する際に気を遣ったほか、相手チームの選手にとっても同様に中山は野次りにくい選手だった」と述べた[180]。
- ^ 6回表に5回13被安打5失点の投球内容で降板[187]。
- ^ その後も中日時代は8年間にわたり、登板する度に常に野次を浴びせられてはいたが、中山自身は「気にはなっても何も言わない。言ったところで仕方がない」と割り切っていたほか、チームメイトが中山へ野次を飛ばす観客に対し「うるせえんだよ!」と怒鳴りつける場合もあった[83]。中山自身はそのようなチームメイトと同じ球団でプレーしていた中日時代について「中日に入って良かった」と感じてはいたが、事件のことが負い目になっていたためか、彼らとあまり親密に付き合おうとはしなかった[83]。
- ^ ベースボール・マガジン社(1994)による同年の中日対横浜戦の記録によれば[188]、同年の横浜戦で中山が登板した試合は7月27日・第18回戦(ナゴヤ球場 / ドウェイン・ヘンリーに続き3番手投手として登板・勝敗つかず)のみ[189]。
- ^ この時は47番も提示されたが、本人は愛着のある19番を選択した[190]。
- ^ 中日は1994年に10.8決戦で敗れ、リーグ優勝を逃したが、当時は絶対的な抑え投手が不在だったため、1995年シーズンに向け抑え投手が課題となっていた[192]。
- ^ チームの低迷を受けてシーズン途中(6月2日限り)で高木監督が辞任し、その代行を務めた徳武定祐コーチもシーズン閉幕を待たずに解任されたため、閉幕まで島野育夫コーチが監督代行の代行を務めていた。
- ^ この勝利は高木監督のシーズン途中解任を受け、監督代行を務めていた徳武定祐コーチが指揮を執り始めて2試合目にしての初勝利でもあった[197]。
- ^ 韓国球界のヘテ・タイガースから加入[199]。
- ^ 星野は1987年 - 1991年(当時、中山は大洋に在籍)にも中日の監督を務めていたため、5年ぶりの復帰となった。
- ^ 野村はこの時、中山の選出について「現在・未来が大切で過去は問わない」とする談話を発表した上で[206][207]「本人は魔が差してしまったこともあったが(社会的制裁を受けるなどして)苦しんだことであり、現在は自分としては問題視はしていない。喜んでオールスターに出場してほしい」と激励した[206]。中山は同日、野村が監督を務めるヤクルトとの試合前に野村に挨拶し、「選出されるとは思っていなかったので感謝しています。(高校時代に甲子園で対決した)清原和博選手(西武ライオンズ所属)と対決して抑えたい」と抱負を語り[206]、『中日新聞』の取材に対しては「前半戦の内容はそんなに良くない。選ばれた以上は打たれないよう一生懸命に投げる」と述べた[208]。
- ^ 阪神・伊藤敦規に次ぎリーグ2位[212]。
- ^ 勝利数は山本昌(18勝/セ・リーグ最多勝)、門倉健(10勝)に次ぐチーム3位[215]。
- ^ 2001年の登板試合は8月1日(対巨人19回戦・東京ドーム)[231]、8月4日(対ヤクルト17回戦・明治神宮野球場)[232]、8月16日(対巨人23回戦・ナゴヤドーム)[233]、8月22日(対広島東洋カープ19回戦・広島市民球場)[3]の4試合。
- ^ 中山の中信入団後、2003年ごろにはCPBLの規約に前科・重大な規律違反があった外国人選手を扱う内容が新たに追加されている[238]。
- ^ 郭李は中山の退団を惜しみ「奥さんが日本で出産する事情があるとはいえ、まだ台湾で現役続行してほしかった」とコメントした[243]。
- ^ また台湾の公用語である国語(標準中国語)も覚え、チームの人気者になっていた[244]。
- ^ 中山本人は2005年に『高知新聞』記者・土橋宏史からの取材に対し「まだ(現役で)やれたが、(子供の誕生を控え)妻が帰国を望んだためだ」と述べている[144]。
- ^ 『週刊ベースボール』2003年10月6日号では「妊娠5か月の妻が5か月後に出産を控えている」と報道されているが[244]、『週刊アサヒ芸能』2004年5月20日号では「2003年10月に男児が誕生した」と報道されている[83]。
- ^ これに対し中信球団側は「来季(2004年)も台湾でプレーしてほしい」と慰留したが、退団の決意を翻意することはなかった[244]。
- ^ 試合前、中信・林仲秋監督は中山に「この試合が台湾でのラストゲームだから、今日は絶対に勝て。勝たなかったら日本に帰国させないぞ」とハッパをかけていた[243]。またこの引退試合を観戦していた『毎日新聞』記者・飯田和郎は「憂楽帳」にて「中山はこれから人生の新しいイニング』をどう投げるのだろうか。大洋時代の事件の罪を償ってもその過去は重く、日本に帰国しても他人の視線を覚悟しなければならないが、彼がヒーローインタビューで述べたように、台湾で過ごした日々が彼を成長させたと信じたい」と述べている[245][246]。
- ^ このころには新たな事業を始めるため中華人民共和国(中国)の工場を視察しており、記者から「大洋でエースだった時代が黄金時代だったのか?」と尋ねられると「これからだと思う。家族のためにこれから頑張らなければいけない」と答えていた[83]。また同年には村山望(ノンフィクションライター)が中山の実家・友人を介して中山本人と連絡を試みたが、中山はその直前に商談のため台湾へ出張していた[180]。
- ^ 桑田は中山が1994年に中日の支配下選手として登録された際、電話で「一緒に頑張ろうぜ」と声を掛けている[128]。
出典
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参考文献
[編集]- ベースボール・マガジン社編集 編『ベースボール・レコード・ブック 1995』(第1版第1刷発行)ベースボール・マガジン社(発行人:池田哲雄)〈日本プロ野球記録年鑑〉、1994年12月25日、200-202頁。ISBN 978-4583031712。
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- 清原和博『男道』(初版)幻冬舎、2009年1月15日、98-100頁。ISBN 978-4344016095。
- 上杉純也『甲子園最強の投手は誰だ?』(初版)竹書房、2015年3月13日、42-43頁。ISBN 978-4801902459。
- 「中山裕章(高知・高知商) 高校野球史上最大アーチを打たれた男」
- 野村貴仁『告白』(初版)KADOKAWA、2016年9月25日、33-34頁。ISBN 978-4041045800。
- 鈴木忠平「6 最後のバッテリー 1985年夏 準々決勝 高知商 3-6 PL学園」『清原和博への告白 甲子園13本塁打の真実』(初版)文藝春秋社、2016年12月15日、114-135頁。ISBN 978-4163905785。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 中山裕章 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)