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今西錬太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
今西 錬太郎
1950年撮影
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府
生年月日 (1924-09-14) 1924年9月14日(100歳)
身長
体重
168 cm
58 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1946年
初出場 1946年
最終出場 1955年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

今西 錬太郎(いまにし れんたろう、1924年9月14日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手投手)。1952年の登録名は今西 啓介(いまにし けいすけ)。

来歴・人物

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浪華商業から日本製鐵を経て、1946年阪急軍に内野手として入団[1]。しかし投手不足の影響もあり[1]、ルーキーイヤーの6月20日にセネタース戦でプロ初登板[1]。抜擢にこたえて[1]大下弘本塁打のみの1失点に抑え[2]被安打2で完投勝利を収めた[1]。シーズンでは7勝(8敗)を挙げるとともに防御率2.80でいきなりリーグ6位に入る。1947年には21勝(防御率1.91〔5位〕)を挙げたが、うち9勝が巨人戦だった[1]1948年には自己最多の23勝(17敗)、1949年は19勝(19敗)し、野口二郎天保義夫らと共に1リーグ時代の阪急の中心投手して活躍した。同年11月9日姫路城郭の三の丸球場で行われた中日戦変則ダブルヘッダーでは第1試合に先発し、服部受弘久野勝美と投げ合って完投勝利を記録。第2試合・金星-南海戦の岩本信一と共に姫路城郭内で白星を挙げた投手として名を残している[3]

1950年2リーグ分立に際して、宇高勲の引き抜きにより宮崎剛荒木茂とともに新たに誕生した大洋ホエールズに移籍。大洋投手陣の中では抜群の実績を持っていたことから、3月10日の対国鉄スワローズ戦で開幕投手を務め完封勝利を飾る。シーズンでは4年連続の2桁勝利となる10勝を挙げるが、13敗、防御率4.07(リーグ17位)と期待されたほどの数字を残せなかった。1951年1952年はいずれも2勝に終わり、同年オフに大洋と松竹が合併すると今西は自由契約となる。1953年に阪急へ復帰するが未勝利に終わり、1954年加藤太郎とともに東映フライヤーズに移籍するが思うような成績を残せず、1955年限りで現役を引退した。

引退後は1956年に東映の二軍投手コーチを務め、土橋正幸を指導。佼成学園高校で監督を務め[1][4]1966年の春1968年の春1974年の夏とチームを甲子園に導いていたが[1]、いずれも初戦敗退に終わった[5]

2019年のセントラル・リーグクライマックスシリーズファーストステージの横浜DeNAベイスターズ阪神タイガース第一戦(横浜スタジアム)で、大洋ホエールズの球団創設初試合の先発投手かつ球団初勝利投手として始球式のマウンドに立ち、健在であるところを見せた[6]

2023年には、佐竹敏之の著書『大洋ホエールズ誕生後!』(文芸社)に寄稿文を寄せた[7]

選手としての特徴

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右のアンダースローで、武器は巨人川上哲治が「カミソリのようなキレ味」と語ったシュート[1]

ブロマイドや本人が提出する写真、本人の証言[8])などではスリークォーターから投げていた、となっている。

若林忠志宮武三郎北井正雄白木義一郎大島信雄などが時折サイドスローやアンダースローで投げており、後年では平松政次がシュートのキレを出すためかサイドスローに腕を下げた投げ方もしていたよう[9]なので、今西もそのような投げ方をしていた可能性もある。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1946 阪急 31 19 14 1 1 7 8 -- -- .467 763 183.0 146 6 72 -- 4 63 0 1 83 57 2.80 1.19
1947 46 38 28 4 2 21 15 -- -- .583 1358 334.1 284 6 112 -- 0 85 2 0 89 71 1.91 1.18
1948 50 39 28 4 2 23 17 -- -- .575 1344 331.2 284 13 100 -- 2 89 1 0 122 100 2.71 1.16
1949 51 37 23 3 3 19 19 -- -- .500 1288 315.2 308 23 74 -- 3 78 0 0 124 109 3.10 1.21
1950 大洋 41 23 9 1 0 10 13 -- -- .435 865 200.1 212 26 74 -- 3 71 1 0 105 91 4.07 1.43
1951 24 14 1 0 0 2 7 -- -- .222 363 74.2 100 11 42 -- 1 17 0 1 77 60 7.92 1.90
1952 16 6 1 0 0 2 1 -- -- .667 237 52.0 54 6 29 -- 4 15 0 0 34 29 5.02 1.60
1953 阪急 7 1 0 0 0 0 2 -- -- .000 85 20.0 19 2 9 -- 1 4 1 0 8 8 3.60 1.40
1954 東映 29 14 3 0 0 2 8 -- -- .200 446 101.2 108 4 42 -- 2 45 1 0 57 47 4.15 1.48
1955 20 14 2 1 0 2 12 -- -- .143 325 77.0 85 5 23 0 0 24 2 0 41 34 3.97 1.40
通算:10年 315 205 109 14 8 88 102 -- -- .463 7074 1690.1 1600 102 577 0 20 491 8 2 740 606 3.23 1.29
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

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  • 8 (1946年)
  • 16 (1947年 - 1949年)
  • 18 (1950年 - 1952年、1954年 - 1956年)
  • 47 (1953年)

登録名

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  • 今西 錬太郎 (いまにし れんたろう、1946年 - 1951年、1953年 - 1955年)
  • 今西 啓介 (いまにし けいすけ、1952年)

脚注・出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 阪急ブレーブス黄金の歴史 [永久保存版] よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、P39
  2. ^ 戦禍で中断、1946年に再開したプロ野球 95歳元阪急投手が体験した激動『毎日新聞』2020年6月19日
  3. ^ [https://npb.jp/news/detail/20200828_14.html NPB 球跡巡り・第33回】国宝・姫路城で1日だけプロ野球が行われていた]
  4. ^ (白球の世紀:82)選抜出場、初戦で惜敗 高校野球”. 朝日新聞デジタル. 2020年6月22日閲覧。
  5. ^ 『高校野球 忘れじのヒーロー』ベースボール・マガジン社、2005年、ISBN 978-4583613420、177頁
  6. ^ "95歳! 大洋初代「18」今西錬太郎氏が始球式「ワクワクしました」". Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. 5 October 2019. p. 1. 2019年10月6日閲覧
  7. ^ “クジラの街・下関発祥の「大洋ホエールズ」 歴史追う3部作完結”. 朝日新聞. (2023年5月24日). https://www.asahi.com/articles/ASR5R774XR5QTZNB00Q.html 2023年11月26日閲覧。 
  8. ^ 2年目に巨人戦9勝。「伝説の巨人キラー」が投手に転向した訳とは? - ラブすぽ
  9. ^ 「週刊プロ野球データファイル 21号」 7ページ

関連項目

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外部リンク

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