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幸田優

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
幸田 優
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都品川区
生年月日 (1938-11-02) 1938年11月2日
没年月日 (1995-06-09) 1995年6月9日(56歳没)
身長
体重
182 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1957年
初出場 1958年
最終出場 1962年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

幸田 優(こうだ まさる、1938年11月2日 - 1995年6月9日[1])は、東京都品川区[1]出身のプロ野球選手投手)。

来歴・人物

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荏原高校時代にカーブの使い手として注目され、3年夏は都大会ベスト8[1]

慶応義塾大学へ進学する予定だったが家庭の事情もあって断念し、1957年大洋ホエールズに入団すると、2年目の1959年には4完封で7勝(防御率2.86)を挙げ先発陣の一角として名乗りを挙げる[1]

1960年には、秋山登のアクシデントもあり開幕投手に抜擢される[1]が、3-4と惜敗。そのまま波に乗れなかったのか2勝にとどまる。

1962年の春キャンプで頭部に打球を受けてしまい骨折[1]。これが原因で同年2試合で1イニング投げたのみで引退した[1]。縦のカーブが武器[2]。引退後は船橋市内の水産会社に勤務していた。

1995年6月9日C型肝炎で亡くなった。

エピソード

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  • 1959年7月5日広島17回戦の2回の表に先頭の4番大和田明を2ストライク0ボールと追い込んだ後、ショートバウンドの球を大和田が空振りし、捕手の土井淳が逸らし振り逃げとなる。二盗も決められ無死2塁となるが、続く5番藤井弘、6番横溝桂から連続三振を奪う。しかし、続く7番上田利治にレフト前に運ばれ1点を奪われてしまうが、8番興津立雄を三振にきってとり、史上初の1イニング4奪三振を記録した[1]
  • 日本一となった1960年の開幕戦では秋山登が相手・中日ドラゴンズのコーチである牧野茂の手から離れたバットを頭部に受け、病院に搬送されたために、開幕投手の代役を勤めたが3対4で投げ負けた。翌日のダブルヘッダーの試合にも登板し負け投手になったため、開幕二日で2敗を記録した。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1958 大洋 2 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 20 5.0 5 1 2 0 0 3 0 0 3 3 5.40 1.40
1959 37 18 8 4 0 7 10 -- -- .412 620 153.1 115 16 53 2 4 136 4 0 58 49 2.86 1.10
1960 23 3 0 0 0 2 4 -- -- .333 179 42.0 35 0 20 0 2 40 0 0 16 14 3.00 1.31
1961 19 2 0 0 0 1 2 -- -- .333 152 37.1 30 3 9 1 0 27 2 0 13 11 2.61 1.04
1962 2 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 7 1.0 4 0 0 0 0 0 0 0 2 0 0.00 4.00
通算:5年 83 23 8 4 0 10 16 -- -- .385 978 238.2 189 20 84 3 6 206 6 0 92 77 2.90 1.14

背番号

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  • 51(1957年)
  • 44(1958年 - 1962年)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、ページ
  2. ^ 「【7月5日】1959年(昭34) 1イニング4奪三振 1点まで取られた幸田優」スポニチ、2010年7月5日

関連項目

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外部リンク

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