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|画像説明=[[東京女子高等師範学校]][[教授]]時代([[1920年]]/39歳) |
|画像説明=[[東京女子高等師範学校]][[教授]]時代([[1920年]]/39歳) |
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|全名=二階堂 トクヨ |
|全名=二階堂 トクヨ |
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|別名=小笠原トクヨ(養子として){{sfn|西村|1983|p=20}}<br />桜菊女史(筆名){{sfn|西村|1983|p=263}}<br />二階堂登久{{sfn|西村|1983|p=252}} |
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|別名= |
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|誕生名= |
|誕生名=二階堂 トクヨ |
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|生年月日={{生年月日と年齢|1880|12|05|no}} |
|生年月日={{生年月日と年齢|1880|12|05|no}} |
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|生誕地={{JPN}}[[宮城県]][[志田郡]]桑折村<ref name="jwcpe">{{cite web|url=https://www.jwcpe.ac.jp/college_info/idea/founder/|title=創立者 二階堂トクヨ|work=大学案内|publisher=日本女子体育大学|accessdate=2019-04-16}}</ref>(現・[[大崎市]]三本木桑折) |
|生誕地={{JPN}}[[宮城県]][[志田郡]]桑折村<ref name="jwcpe">{{cite web|url=https://www.jwcpe.ac.jp/college_info/idea/founder/|title=創立者 二階堂トクヨ|work=大学案内|publisher=日本女子体育大学|accessdate=2019-04-16}}</ref>(現・[[大崎市]]三本木桑折) |
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|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1880|12|05|1941|07|17}} |
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1880|12|05|1941|07|17}} |
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|死没地={{JPN}}[[東京府]][[東京市]][[四谷区]][[信濃町 (新宿区)|信濃町]](現・[[東京都]][[新宿区]]信濃町) [[慶應義塾大学病院]]{{sfn|西村|1983|p=262}} |
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|死没地= |
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|死因=[[胃癌|胃ガン]]{{sfn|西村|1983|p=252}} |
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|死因= |
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|居住= |
|居住= |
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|市民権= |
|市民権= |
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|国籍={{JPN}} |
|国籍={{JPN}} |
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|出身校=[[東京女子高等師範学校]]文科<ref name="jwcpe"/> |
|出身校=[[東京女子高等師範学校]]文科<ref name="jwcpe"/> |
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|配偶者= |
|配偶者 = なし{{sfn|西村|1983|p=247}} |
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|両親=二階堂保治 |
|両親 = 父:二階堂保治<ref name="jwcpe"/><br />母:二階堂キン<ref name="jwcpe"/><br />養父:[[小笠原貞信 (政治家)|小笠原貞信]]{{sfn|西村|1983|pp=20-21}} |
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|子供=二階堂美喜子(養女){{sfn|穴水|2001|p=27}} |
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|子供= |
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|時代=[[明治]] - [[昭和]] |
|時代=[[明治]] - [[昭和]] |
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|活動地域={{JPN}} |
|活動地域={{JPN}} |
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|特筆すべき概念= |
|特筆すべき概念= |
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|主な業績=日本への[[ホッケー]]・[[クリケット]]の紹介<ref name="Osaki">{{PDFlink|[http://www.city.osaki.miyagi.jp/index.cfm/10,98,c,html/98/1002_07.pdf 興味津々 日本女子体育大学創設者 二階堂トクヨ]}} 広報おおさき 2010年2月号</ref> |
|主な業績=日本への[[ホッケー]]・[[クリケット]]の紹介<ref name="Osaki">{{PDFlink|[http://www.city.osaki.miyagi.jp/index.cfm/10,98,c,html/98/1002_07.pdf 興味津々 日本女子体育大学創設者 二階堂トクヨ]}} 広報おおさき 2010年2月号</ref> |
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|主要な作品= |
|主要な作品=『体操通俗講話』、『足掛四年』 |
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|影響を受けた人物= |
|影響を受けた人物=[[マルチナ・バーグマン=オスターバーグ]] |
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|影響を与えた人物= |
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|学会= |
|学会= |
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|脚注= |
|脚注= |
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'''二階堂 トクヨ'''(にかいどう トクヨ、[[1880年]][[12月5日]] - [[1941年]][[7月17日]])は、[[宮城県]][[大崎市]](旧[[三本木町 (宮城県)|三本木町]])出身の[[教育者]]。[[日本女子体育大学]]創設者<ref name="ks1903"/><ref name="Osaki"/> |
'''二階堂 トクヨ'''(にかいどう トクヨ、[[1880年]][[12月5日]] - [[1941年]][[7月17日]])は、[[宮城県]][[大崎市]](旧[[三本木町 (宮城県)|三本木町]])出身の[[教育者]]。[[日本女子体育大学]]創設者<ref name="ks1903"/><ref name="Osaki"/>。「'''[[女子体育の母]]'''」と称される<ref name="ks1903"/>{{sfn|勝場・村山|2013|pp=22-23}}。日本初の女子[[オリンピック選手]]である[[人見絹枝]]のほか、8名のオリンピック選手を育てた{{sfn|勝場・村山|2013|p=13}}。 |
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イギリス留学で学んだスポーツの普及に努め、'''[[クリケット]]と[[ホッケー]]を[[日本]]に初めて紹介した'''<ref name="Osaki"/>{{sfn|西村|1983|p=178}}。トクヨはこの2競技を女子のスポーツとして日本に持ち帰った{{sfn|西村|1983|p=178}}。 |
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== 概要 == |
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明治13年([[1880年]])[[12月5日]]に[[宮城県]][[志田郡]]桑折村(現・大崎市三本木桑折)にて父・二階堂保治、母・二階堂キンの二階堂家の長女として生まれる<ref name="jwcpe"/>。文学少女に成長し、15歳で准教員の免許を取得する<ref name="jwcpe"/>。地元の三本木小学校で[[准教員]]をしていたが、その後に[[福島県尋常師範学校]]と[[東京女子高等師範学校|東京女子師範学校]](現・[[お茶の水女子大学]])を卒業して[[教師]]となった。赴任先で本業の[[国語]]の傍ら、[[体操]]を教えたことがきっかけで、[[イギリス]]に[[留学]]するなど体操科の勉強に励んだ。イギリスに派遣された日本女性の体育留学生は[[井口阿くり]]以来2人目であった{{sfn|曽我・平工・中村|2015|p=1997}}。[[1915年]](大正4年)に[[東京女子師範学校]]教授となり、第六臨時教員養成所教授を兼任する<ref name="jwcpe"/>。 |
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== 経歴 == |
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[[1922年]]、私財を投げ打ち、[[日本女子体育大学]]の前身となる「二階堂体操塾」を開いた<ref name="jwcpe"/>。塾生には1928年の[[1928年アムステルダムオリンピック|アムステルダムオリンピック]]に日本女子選手として初出場し、陸上[[800メートル競走|800m走]]で同じく日本女子史上初となる[[銀メダル]]を獲得した[[人見絹枝]]がいた<ref name="ks1903"/>。[[1941年]]、60歳で死去。死後、勲六等[[瑞宝章]]が贈られた<ref name="jwcpe"/>。墓所は[[築地本願寺]]和田堀廟所<ref name="jwcpe"/>。郷里の三本木にある大崎市三本木総合支所には、二階堂の胸像が設置されており<ref name="Osaki"/>、[[2019年]][[3月17日]]には二階堂トクヨ先生を顕彰する会と館山公園を復活させる会が協同して二階堂を顕彰する看板を設置した<ref name="ks1903"/>。 |
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=== 体操嫌いの文学少女(1880-1904) === |
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[[1880年]](明治13年)[[12月5日]]に[[宮城県]][[志田郡]]桑折村(現・大崎市三本木桑折)にて父・保治、母・キンの長女として生まれる<ref name="jwcpe"/>{{sfn|西村|1983|pp=7-9}}。三本木は豊かな自然に囲まれた山あいの里であり、トクヨはどんな花の名所よりも美しいと讃える歌を残している{{sfn|西村|1983|p=13}}。[[1887年]](明治20年)、父の赴任地・[[松山町 (宮城県)|松山]]の松山尋常高等小学校(現・大崎市立松山小学校)に入学するが、間もなく父の転勤により三本木尋常高等小学校(現・大崎市立三本木小学校)に転校する{{sfn|西村|1983|p=13}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=14}}。三本木小では[[尋常科]]4年・[[高等科]]4年の計8年間学び、成績は普通であったが、「女子には高度な[[学問]]は不要」と考える当時の風潮{{#tag:ref|三本木小高等科の同級生は7、8人しかおらず、女子児童はトクヨだけであった{{sfn|西村|1983|p=14}}。|group="注"}}からすると、高等科をきっちりと卒業させた二階堂家は教育熱心であったことが窺える{{sfn|西村|1983|p=13}}。高等科4年生([[1894年]]=明治27年)の[[夏休み]]に叔父の佐藤文之進([[仙台市立立町小学校]]教師)から『[[日本外史]]』を習ったことで学問に目覚め{{sfn|西村|1983|pp=14-15}}、文学少女に成長した<ref name="jwcpe"/>。なお、小学校時代の8年間、トクヨは[[体操]]([[体育]])の授業を受けたことがなかった{{sfn|西村|1983|p=37}}。 |
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[[1895年]](明治28年)に三本木小高等科を卒業し、予備講習会{{#tag:ref|郡の視学が教師となって開いていた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=18}}。講習会からの帰り道は暗くなったので、用心のためトクヨは小刀を懐に忍ばせ、途中まで弟の清寿が迎えに行っていた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=18-19}}。|group="注"}}を経て、同年[[11月10日]]に[[尋常小学校]]本科准教員の免許を取得する{{sfn|西村|1983|pp=15-16}}。地元の三本木小学校に就職し、坂本分教場で准教員となった{{sfn|西村|1983|p=16}}。坂本分教場では老教師が教えていたため、「[[鬼ごっこ]]をしましょう」と誘う15歳の「二階堂先生」の出現に児童は驚いた{{sfn|西村|1983|p=16}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=19}}。月給は1円50銭と新米教師の相場と同等で、初任給を神棚に祀った{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=19}}。分教場での教師生活を続けるうちに更に上級学校へ行って学問を身に付けたいという思いが募ったが、[[宮城師範学校|宮城県尋常師範学校]](宮城師範、現・[[宮城教育大学]])は女子部を廃止しており、トクヨは進学ができなかった{{sfn|西村|1983|pp=16-19}}。しかしトクヨは諦めず、全く縁のない[[福島民報]]に手紙を送って[[福島師範学校|福島県尋常師範学校]](福島師範、現・[[福島大学]]人文社会学群)への入学の斡旋を依頼した{{sfn|西村|1983|pp=19-20}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=20-21}}。福島師範には[[福島県]]民でないと入学できなかったことから、[[戸籍]]上[[養子縁組]]すれば面倒を見るという返事を受け取ったトクヨは、これを受諾して[[1896年]](明治29年)3月に福島民報の[[社長]]・[[小笠原貞信 (政治家)|小笠原貞信]]の養女となり、小笠原トクヨを名乗った{{sfn|西村|1983|pp=20-21}}。こうして同年4月に福島師範へ入学、[[1899年]](明治32年)3月に[[高等小学校]]本科正教員の資格を得て卒業{{#tag:ref|在学中に校名変更があり、卒業時の校名は福島県師範学校であった{{sfn|西村|1983|p=22}}。|group="注"}}した{{sfn|西村|1983|p=22}}。成績優秀で[[福島大学附属小学校|附属小学校]]の[[訓導]]に就くことを求められるも固辞し{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=27}}、[[安達郡]][[油井村]]の油井尋常高等小学校(現・[[二本松市立油井小学校]])に赴任し、訓導として尋常科2年生の[[学級担任|担任]]になった{{sfn|西村|1983|pp=23-24}}。担任クラスには長沼ミツという児童がおり、その姉で高等科3年生の智恵子とも親しくなった{{sfn|西村|1983|p=24}}。智恵子とは、後に[[高村光太郎]]の妻になる[[高村智恵子]]のことであり、智恵子はトクヨに懐いていた{{sfn|西村|1983|p=24}}。 |
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== その他 == |
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東京女子高等師範学校の生徒時代には[[安井てつ]]の指導を受けた{{sfn|曽我・平工・中村|2015|p=1997}}。安井は後に二階堂体操塾の理事を務めることで二階堂を支えた{{sfn|曽我・平工・中村|2015|p=1997}}。 |
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1900年(明治33年)4月、油井小を休職し、[[東京女子高等師範学校|女子高等師範学校]](女高師、現・[[お茶の水女子大学]])文科に入学する{{sfn|西村|1983|p=27}}。当時の女高師は[[高嶺秀夫]]が校長を務め、[[和歌]]の[[尾上柴舟]]、体操の[[坪井玄道]]をはじめ、[[安井てつ]]{{#tag:ref|安井は[[クリスチャン]]であり、トクヨは安井の下で[[聖書]]の勉強をし、『[[ヨブ記]]』を英語で読みこなすことができた{{sfn|穴水|2001|p=50}}。この経験が金沢での宣教師との接触につながり、体操教師トクヨの誕生に至るのであった{{sfn|穴水|2001|pp=49-51}}。|group="注"}}・[[後閑菊野]]らの授業を受けた{{sfn|西村|1983|p=29}}。トクヨは特に尾上柴舟の授業に魅了され、自作の歌を褒められて「小柴舟」の名をもらうほどであった{{sfn|西村|1983|pp=29-30}}。一方で体操の授業には全く関心がなく、欠課や見学など何とか授業に出ないようにしていた{{sfn|西村|1983|p=30}}。 |
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イギリス留学で学んだスポーツの普及に努めた。[[クリケット]]と[[ホッケー]]を[[日本]]に初めて紹介したのは二階堂である<ref name="Osaki"/>。 |
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女高師時代のトクヨは毎年学年末に不運に見舞われるという[[ジンクス]]があった{{sfn|西村|1983|p=30}}。1年生の時は[[チフス]]に感染して4か月間[[茅ヶ崎市|茅ヶ崎]]の病院に入院、2年生は足裏の怪我が原因で骨が腐って40日の闘病生活を送り、3年生は養父・小笠原貞信が死去、4年生は実父・保治が死去した{{sfn|西村|1983|pp=31-35}}。このうち1・2・4年生の時には[[定期考査|学年末試験]]を受けることができなかった{{sfn|西村|1983|p=35}}。本来、試験を受けなければ進級できないが、トクヨは成績が良かったからか、試験免除で進級している{{sfn|西村|1983|p=35}}。特に4年生の試験は卒業がかかったものであり、トクヨは留年覚悟であったが、学校は試験を免除し卒業を認めた{{sfn|西村|1983|p=35}}。こうして1904年(明治37年)3月、[[教育学|教育]]・[[倫理 (科目)|倫理]]・体操・[[国語 (教科)|国語]]・[[地理 (科目)|地理]]・[[歴史教育|歴史]]・[[漢文学|漢文]]の7科目の師範学校女子部・高等女学校の教員免許を取得して女高師をストレートで卒業した{{sfn|西村|1983|p=36}}。 |
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=== 体操教師への覚醒(1904-1912) === |
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女高師の卒業後は[[教師]]となり、最初の赴任先は石川県立高等女学校(石川高女、現・[[石川県立金沢二水高等学校]])であった{{sfn|西村|1983|p=36}}。赴任前に「主として体操科を受け持ってほしい」という私信を受け取っていたが、トクヨは何かの間違いだろうと思い、最初の校長{{#tag:ref|当時の校長は[[体操伝習所]]の卒業生である土師雙他郎(はじ そうたろう、1853 - 1938)であった{{sfn|穴水|2001|p=41, 43}}。土師は体育を重視しており、トクヨの赴任前年に体操科の中心を担った高桑たまが病死したため、トクヨに高桑と同様の役回りを期待していた{{sfn|穴水|2001|pp=44-45}}。|group="注"}}からの言葉でそれが事実だと知ると絶句した{{sfn|西村|1983|pp=36-38}}。本業の国語の教師は十分いる一方、体操の免許を持った教師は不足していたから{{#tag:ref|実際には国語の担当教師は2人しかおらず、土師校長がトクヨを納得させるために使った方便であったと考えられる{{sfn|穴水|2001|p=46}}。|group="注"}}であった{{sfn|西村|1983|p=36}}。体操のことを「義理にもおもしろいとは云えぬ代物」、「怒鳴られて馬鹿馬鹿しい」、「およそ之れ程下らないものは天下にあるまい」と酷評していたトクヨにとって体操教師を命じられたことは不本意であるばかりでなく、大恥辱である、世間に対して面目を失う{{#tag:ref|トクヨが特別体操を卑下していたというわけでなく、当時の日本社会が体操教師を軽視する傾向があった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=49}}。|group="注"}}、とまで思っていた{{sfn|西村|1983|pp=39-40}}。しかし、女高師の卒業生は5年間任地で教職を全うする義務を負っていたこと、女高師時代のジンクスから翌[[1905年]](明治38年)の春に自分は死ぬのだろうと思っていたことで、決死の覚悟で体操を教えることにした{{sfn|西村|1983|p=40}}。最初は週13時間の授業に身も心も疲弊したが、数か月すると自身の体調が良くなっている{{#tag:ref|この文章の元になっているのは、イギリス留学から帰国した後のトクヨが自身の転換点として言及したものである{{sfn|穴水|2001|p=15}}。文学好きのトクヨは悲劇のヒロインに自己同化する傾向があり、誇張された表現とみるべきである{{sfn|穴水|2001|pp=15-16}}。周囲の人からは金沢で初めて洋装した、純白の体操着を身に付けた颯爽とした印象の人だと見られており、身も心も病んでいるようには見えていなかった{{sfn|穴水|2001|p=16}}。|group="注"}}ことを発見し、夏には[[井口阿くり]]{{#tag:ref|井口は1903年(明治36年)に女高師教授に着任したので、トクヨが4年生の時と重なっているが、井口は国語体操専修科を主に担当したため、文科のトクヨと接点はなかった{{sfn|西村|1983|p=38}}。|group="注"}}が講師を務める3週間の体操講習会を受講し、スウェーデン体操を学んだ{{sfn|西村|1983|pp=41-42}}。 |
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井口の講習を受けたトクヨは素人では到底教えられないと痛感し、体操を学びたいと思うようになった{{sfn|西村|1983|p=42}}。幸運にも、体操専門学校を卒業した[[カナダ人]][[宣教師]]のミス・モルガンが[[金沢市]]に[[キリスト教]]を布教しに来ていたため、トクヨは1日おきに30分の個人レッスンをモルガンの家の庭で受け始めた{{sfn|西村|1983|pp=42-43}}。モルガンの教える体操は、スウェーデン体操にドイツ体操を混合した独自のもので、指導のうまさと相まって、トクヨはどんどん体操にのめり込んでいった{{sfn|西村|1983|pp=43-44}}。ついには石川高女の全生徒を対象に週28時間もの体操の授業を受け持つ{{#tag:ref|本業の[[国語]]でも50人の作文指導を行っている{{sfn|西村|1983|p=45}}。|group="注"}}に至り、[[石川県]]の郡部を回って小学校教師向けに体操の実地指導を行うようになった{{sfn|西村|1983|pp=44-45}}。この頃の教え子に時の[[石川県知事]]・[[村上義雄]]の娘がおり、父娘ともどもトクヨの体操に魅了され、知事の後ろ盾を得て[[運動会]]ではプロの[[楽隊]]を入れて体操を行うという企画を行ったり、生徒を男役と女役に分けて[[カドリーユ]]を踊らせたりした{{sfn|西村|1983|p=47}}。この運動会では、入場券を得られなかった[[第四高等学校 (旧制)|第四高等学校]](現・[[金沢大学]])の学生が塀を乗り越えて乱入し、[[警察官]]が監視に当たるほどの大変な評判を呼んだ{{sfn|西村|1983|p=47}}。 |
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[[1907年]](明治40年)7月、トクヨは[[高知師範学校|高知県師範学校]](高知師範、現・[[高知大学]]教育学部)への出向を命じられた{{sfn|西村|1983|p=50}}。しかし[[高知市]]に来てすぐに[[マラリア]]に感染し、入院を余儀なくされた{{sfn|西村|1983|p=50}}。教諭兼舎監{{#tag:ref|舎監として、夜中に高知師範女子[[寄宿舎]]に侵入した[[泥棒]]を[[薙刀]]で追い払った{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=54}}。トクヨに[[武士]]の血が流れていることを示すエピソードである{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=54}}。|group="注"}}に着任し、歴史1時間、体操18時間{{#tag:ref|本格的に体操教師になったトクヨに弟の清寿は「物好きにもほどがある」と自分の思いを伝えたが、トクヨは全く意に介さなかった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=49}}。|group="注"}}を受け持った{{sfn|西村|1983|p=50}}。体操の授業中、生徒を木陰で休ませている時に、[[ウィリアム・シェイクスピア]]の[[戯曲]]を語り、生徒を喜ばせた、という逸話が残っている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=65}}。[[高知県]]でもトクヨは体操講習会を開き、その模様は土陽新聞(現・[[高知新聞]])に取り上げられた{{sfn|西村|1983|pp=51-52}}。この頃トクヨは、自身がスウェーデン体操を教えているつもりであったが、実際には金沢では[[第9師団 (日本軍)|第9師団]]、高知では[[歩兵第44連隊]]で行われていた軍隊式訓練を見よう見まねで教えていたのであった{{sfn|西村|1983|pp=52-53}}。軍人からは「女軍の一隊だ」などと言われたことに当時のトクヨは得意げだったが、後に振り返って「之れ等を思へば総べて漸死の種なり」と綴っている{{sfn|西村|1983|pp=52-53}}。[[1909年]](明治42年)[[7月31日]]、トクヨは二階堂姓に戻った{{sfn|西村|1983|p=21}}。[[1910年]](明治43年)末、トクヨは母校の東京女子高等師範学校{{#tag:ref|女子高等師範学校から改称していた。|group="注"}}(東京女高師)の体操科研究生になることを願い出た{{sfn|西村|1983|p=53}}。この願い出は後に取り下げるが、次には宮城師範への転任の話が舞い込み、更に母校・東京女高師からは助手就任の勧めが来て、また別の学校からも就任依頼が届いた{{sfn|西村|1983|pp=53-54}}。トクヨはこの中から東京女高師の職を選び、高知師範を辞して{{sfn|西村|1983|p=54}}[[1911年]](明治44年)春に東京女高師[[助教授]]に着任した{{sfn|穴水|2001|p=16}}。トクヨはこの時30歳で、異例の抜擢となった{{sfn|穴水|2001|p=16}}{{sfn|西村|1983|p=2}}。 |
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東京女高師での仕事は、6時間の授業と井口阿くり・[[永井道明]]両教授の補佐であった{{sfn|西村|1983|p=54}}。ところが井口は同年7月に藤田積造と結婚して退職した{{#tag:ref|井口の退職は、文科出身ながら体育に一生を捧げようとしているトクヨの熱意に打たれた井口が、自らの後任とすべく引退したという説がある{{sfn|西村|1983|p=54}}。井口は退職時に「其筋へも学校へもあなたを推薦して行きますから」とトクヨに声をかけている{{sfn|西村|1983|p=54}}。|group="注"}}ため、トクヨは井口の後任として女子体育の指導者の重責を負うことになった{{sfn|西村|1983|p=54}}。体操を専攻した者ではないのに、体操界の権威になろうとしていたトクヨは同僚4人から妬まれ、家族宛ての手紙で「たかがウジ虫メラ!」とののしっている{{sfn|穴水|2001|p=82}}。 |
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=== 英国留学(1912-1915) === |
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[[1912年]](大正元年)[[10月1日]]、トクヨは体操研究のため2年間のイギリス留学を命じられた{{sfn|西村|1983|p=3}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=65}}。留学を推薦したのは上司の永井道明であり、永井は女子体育の担い手としてトクヨに期待していた{{sfn|西村|1983|p=3}}。[[11月20日]]、[[曇り]]空の下で永井道明、安井てつ、長沼智恵子(後に高村姓となる)、[[高村光太郎]]ら10人が見送りに駆けつけ、横浜港から旅立った{{sfn|西村|1983|p=1}}。イギリスに派遣された日本女性の体育留学生は井口阿くり以来2人目であった{{sfn|曽我・平工・中村|2015|p=1997}}。 |
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[[1913年]](大正13年)[[1月15日]]、{{仮リンク|ロイヤルアルバートドック|en|Royal Albert Dock}}に入港しイギリスに到着するも、予定より1日早く着いたため迎えの人が来ておらず、船中でもう一夜を明かした{{sfn|西村|1983|pp=4-5}}。翌1月16日、迎えは来たものの、その人は留学先のキングスフィールド体操専門学校(現・{{仮リンク|グリニッジ大学|en|University of Greenwich}})の場所を知らず、雨の降る中ようやく夕方に学校に到着し、入学手続きを行った{{sfn|西村|1983|p=5}}。学校側は「[[アシスタント・プロフェッサー]]が留学してくる」と聞いて身構えたが、いざトクヨに試験を課すと何も知らないことが判明し、トクヨは「一体まあ、何をあなたは教えていました?」と教師一同から問われてしまった{{sfn|西村|1983|pp=83-85}}。そんな中で唯一、「家庭競技」だけは「興味ある室内ゲームだ」と高評価を得た{{sfn|西村|1983|p=85}}。 |
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キングスフィールド体操専門学校の授業は理論と実科に分かれ、理論では[[生理学]]・[[解剖学]]・[[衛生学]]など、実科では教育体操・医療体操・[[舞踊]]・[[競技]]などを学び、理論と実科にまたがる「教授法」の科目もあった{{sfn|西村|1983|p=89}}。最初は何も知らないと驚いていた教師陣も、日々急速に成長していくトクヨに「天才だ」と賛辞を贈るようになった{{sfn|西村|1983|pp=92-93}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=65}}。トクヨが最も影響を受けたのは、校長の[[マルチナ・バーグマン=オスターバーグ]]であった{{sfn|穴水|2001|pp=17-18}}。学校の長期休暇中は、[[ロンドン]]市内の女子体操学校を参観し、[[チェシャー|チェシャー州]]{{仮リンク|オルトリンガム|en|Altrincham}}の[[夏季学校]]での[[水泳]]練習、ロンドンの舞踊塾での[[ダンス]]練習に励んだ{{sfn|西村|1983|pp=94-98}}。特に水泳は苦手で最も苦しんだが、1か月後には一通りの型を習得し{{#tag:ref|水に入っているのは1日1回30分までという規則を破って3時間練習したり、1日2回入水したりして猛練習した成果である{{sfn|西村|1983|p=95}}。これを知った教師は「そんな無理をするなら証明書はやらない」と激怒したが、限られた時間内で水泳の実力を付けたかったトクヨにとって証明書の取得は重要なことではなく、ついに教師側が折れてトクヨは猛練習を認められた{{sfn|西村|1983|p=95}}。|group="注"}}学年1位の成績を得た{{sfn|西村|1983|p=95}}。 |
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キングスフィールド体操専門学校で1年3か月学んだ{{#tag:ref|キングスフィールド体操専門学校は、トクヨの2年間のイギリス留学を同校で2年学ぶものと誤解していたため、学校を去る時にひと悶着あった{{sfn|西村|1983|p=98}}。同校は2年制の学校であり、オスターバーグ校長はトクヨを学校に留めおきたかったのであった{{sfn|西村|1983|p=98}}。|group="注"}}後、トクヨはイギリス国内の体操専門学校を渡り歩いた{{sfn|西村|1983|pp=103-104}}。当初の留学予定では、イギリス巡歴の後、[[ヨーロッパ]]各国を巡ってスウェーデンで半年学び、帰路[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に立ち寄ることになっていた{{sfn|西村|1983|p=103}}。しかしこの頃、[[第一次世界大戦]]が勃発し、イギリスでも[[ドイツ軍]]による[[空爆]]が行われるような緊張状態であったため、トクヨは各国巡回を諦めイギリスにとどまることにした{{sfn|西村|1983|p=104}}。ところが日本から急きょ帰国せよとの[[電報]]が届いたため、やむなく[[1915年]](大正4年)[[3月14日]]にイギリスを発ち{{sfn|西村|1983|p=104}}、ドイツ軍の[[潜水艦]]攻撃に怯えながら行きと同じ[[航路]]を取って{{sfn|穴水|2001|p=17}}、[[4月4日]]に日本へ戻った{{sfn|西村|1983|p=104}}。 |
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イギリス留学を通して、トクヨは自らの体を女子体育に、国に捧げるという覚悟を決め、その意志は終生揺らぐことはなかった{{sfn|西村|1983|pp=240-241}}。トクヨは留学生活について『足掛四年』(1917年)に書き残し、2人の弟・清寿と真寿はトクヨ13回忌記念に、留学中に送られてきた手紙をまとめた『ロンドン通信』([[1953年]])を発行した{{sfn|穴水|2001|p=71}}。 |
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=== 女子体育は女子の手で(1915-1922) === |
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[[ファイル:Eibar euskal jaixa 2012 001.jpg|thumb|メイポールダンス([[スペイン]]・[[エイバル]])]] |
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1915年(大正4年)5月、東京女高師教授となり{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=65}}、第六臨時教員養成所教授を兼任する<ref name="jwcpe"/>。同年6月には文部省講習会講師{{#tag:ref|スウェーデン体操の普及と女子体育の振興を図った{{sfn|西村|1983|p=180}}。|group="注"}}と[[文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験|教員検定]]臨時委員に就任、[[1916年]](大正5年)7月には文部省[[視学制度|視学]]委員になり、[[夏休み]]には自ら体操講習会を開催して日本各地を飛び回った{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=65}}。また[[著書]]『体操通俗講話』、『足掛四年』、『模擬体操の実態』を[[1917年]](大正6年)・[[1918年]](大正7年)に立て続けに出版{{sfn|西村|1983|p=173}}、[[東京女子大学]]の[[学長]]となっていた安井てつに請われて、1918年(大正7年)5月から[[1922年]](大正11年)3月まで同学で授業を行った{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=66}}。女高師と臨時教員養成所では共に家事科の生徒に体育を教え、ダンス・体操・遊戯・スポーツの指導を行った{{sfn|西村|1983|pp=173-179}}。この時の教え子に、女子体育の指導者となる戸倉ハル、加藤トハ(旧姓:内田)がいる{{sfn|西村|1983|p=174}}。戸倉はこの頃のトクヨが「女子体育は女子の手で」と口癖のように言っていたことを証言している{{sfn|西村|1983|p=171}}。 |
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授業では、イギリスから持ち帰ったメイポールダンス、[[クリケット]]、[[ホッケー]]{{#tag:ref|トクヨは日本で初めての女子スポーツとしてクリケットとホッケーを持ち帰った{{sfn|西村|1983|p=178}}。特にホッケーは体専時代に校技と呼べるほど盛んで、対外試合では常に上位にあった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=64}}。|group="注"}}を取り入れ、生徒を[[肋木]]にぶら下げておいてゆっくりと説明するのが常であった{{sfn|西村|1983|pp=174-179}}。この頃の体操指導は、上司の永井道明が苦労してまとめ上げた『学校体操教授要目』に従うことが求められていたが、その体操はドリルを中心とした味気ないものであり、トクヨは要目よりもオスターバーグから習ったイギリス式の生き生きとした体操を強引に実施していた{{sfn|西村|1983|pp=182-183}}。また、永井はダンスの価値をほとんど認めておらず、女高師の[[体操着]]も永井受け持ちのクラスが[[ブルマー]]だったのに対し、トクヨのクラスはキングスフィールド体操専門学校と同じ[[チュニック]]を採用するなど、永井とトクヨの間に対立が生じていった{{sfn|西村|1983|p=184}}。永井は自身の後継者としてトクヨに期待していただけに、裏切られた格好となり、トクヨは体操の資格がないクラスに配置転換されてしまった{{sfn|西村|1983|pp=184-185}}。さらに永井との対立は、東京女高師でのトクヨの孤立に至り、ノイローゼとなって[[鎌倉]]に引きこもってしまったこともある{{sfn|西村|1983|p=185}}。この時は安井てつの助力により、無事に東京女高師に復帰した{{sfn|西村|1983|p=185}}。一方で、オスターバーグからかけられた「ここ(キングスフィールド体操専門学校)にちなみを持ったクイーンスフィールド体操専門学校を建てるように祈ります」の言葉を胸に抱き、学校を建てる構想を温め続けていた{{sfn|西村|1983|p=108, 185}}。 |
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まず、トクヨは1919年(大正8年)の体操女教員協議会(東京女高師で開催)の場で女子の体操教師120人に呼び掛けて「全国体操女教員会」(後に体育婦人同志会に改称)を立ち上げ、自ら会長に就任した{{sfn|西村|1983|p=194}}。全国体操女教員会を率いたトクヨは、[[スウェーデン]]の国立中央体操練習所{{#tag:ref|{{lang-sv|Gymnastiska Centralinstitutet}}{{sfn|頼住|2007|p=379}}、現・スウェーデンスポーツ健康科学大学({{lang-sv|[[:sv:Gymnastik- och idrottshögskolan|Gymnastik- och idrottshögskolan]]}})。スウェーデン体操の創始者・リングが設立した体操指導者養成施設で、永井道明の留学先であった{{sfn|頼住|2007|p=379}}。|group="注"}}やイギリスのキングスフィールド体操専門学校のような体操研究と指導者育成を担う「体育研究所」を設立すべく10万円を目標に寄付を募り始めた{{sfn|西村|1983|pp=193-194}}。しかし[[1921年]](大正10年)に文部[[大臣官房]]が「[[体育研究所]]」の設立議案を策定し、その経費が150万円と発表されると、トクヨは10万円では到底研究所を作れないことを悟り、また「国がいつか建ててくれるなら」と人々に思われたことで3,300円しか募金は集まらなかった{{sfn|西村|1983|pp=193-194}}。そこでトクヨは、構想を温めてきた自身の体操塾を設立する資金に募金を振り向けることに決め、寄付者に理解を求めた{{sfn|西村|1983|pp=194-195}}。次に、1921年(大正10年)5月に[[雑誌]]『わがちから』を創刊し、女子体育の重要性を社会に訴えた{{sfn|西村|1983|p=189}}。『わがちから』は毎号1,000冊印刷し、平均500冊ほど販売していた{{sfn|西村|1983|p=190}}。[[関東大震災]]による中断をはさんで[[1925年]](大正14年)1月に『ちから』に改題、[[1927年]](昭和2年)4月の『ちから第51号』を最後に発行を停止した{{sfn|西村|1983|pp=190-192}}。この雑誌発行により、トクヨは講習会や講演会を開く余裕がなくなり、視学委員の仕事も返上した{{sfn|西村|1983|p=190}}。 |
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『わがちから』を創刊した1921年(大正10年)には[[正六位]]に叙せられた{{sfn|穴水|2001|p=179}}。 |
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=== 二階堂体操塾の創立(1922-1926) === |
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[[ファイル:Nikaido Gymnastic School, Yoyogi.png|thumb|二階堂体操塾]] |
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[[1922年]](大正11年)[[4月15日]]{{sfn|西村|1983|p=205}}、私財を投げ打ち{{#tag:ref|トクヨが投じた私財は、母の老後の住まいを買うために貯金していた1,500円である{{sfn|穴水|2001|p=135}}。先述の通り、募金も開塾資金に利用している{{sfn|西村|1983|p=194}}。体育研究所から体操塾に計画変更後に募金額が増え、最終的に3,800円となった{{sfn|西村|1983|p=201}}。うち3,500円を塾舎の整備に、残る300円を風呂桶・風呂釜の購入に充てた{{sfn|西村|1983|p=201}}。|group="注"}}、[[日本女子体育大学]]の前身となる「二階堂体操塾」を開いた<ref name="jwcpe"/>{{sfn|穴水|2001|p=179}}。この時トクヨは41歳であった{{sfn|穴水|2001|p=179}}。創立構想時には「日本女子体操学校」の名で1年制の学校とし、[[入学試験]]がない代わりに1か月後に本入学試験を課して見込みのある者のみ残す方針{{#tag:ref|トクヨの留学先のキングスフィールド体操専門学校を模範としたものである{{sfn|西村|1983|p=197}}。|group="注"}}であった{{sfn|西村|1983|pp=196-197}}。[[校舎]]は東京・下代々木(後の[[小田急小田原線]][[参宮橋駅]]付近{{#tag:ref|二階堂体操塾創立時にはまだ小田急線は開業しておらず、[[京王線]][[神宮裏駅]](現存せず)が最寄駅であった{{sfn|西村|1983|p=197}}。当時の代々木は人家もまばらで自然環境が良く、塾のすぐ近くには[[代々木練兵場]]([[ワシントンハイツ (在日米軍施設)|ワシントンハイツ]]を経て[[代々木公園]]となる)があった{{sfn|西村|1983|p=197}}。|group="注"}})に借りた[[庭園]]付きの邸宅を利用し、設立前から住み込みで準備していた{{sfn|西村|1983|pp=196-197}}。しかし開校前になって校名を「二階堂体操塾」に、仮入学制度をやめて選抜を行うこととした{{sfn|西村|1983|p=196, 200}}。また、卒業しても何の資格も得られないが、中等教員として体操科教師となれるだけの能力を身に付けさせることは請け負うし、体操科教師の不足している現状では無資格でも教師職を得て最低でも月給60円を得るだろうと宣言した{{sfn|西村|1983|p=200}}。 |
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開塾に際して定員は22人と定めていざ募集をかけてみると、予想を上回る4倍の出願があり、約40人に入学を許可{{#tag:ref|1期生は途中で辞めた者、親の反対や既に教師をしていて休職許可を取れずに諦めた者、資格の採れる臨時教員養成所に転校した者、途中入学した者などがいたため、正確な入学者数を特定できなかった{{sfn|西村|1983|pp=205-207}}。『わがちから』によると1期の卒業生は49人であった{{sfn|西村|1983|p=210}}。|group="注"}}した{{sfn|西村|1983|p=200}}。二階堂体操塾は[[全寮制]]を敷くことにしていたため、トクヨが借りていた邸宅だけでは不足し、隣家も借り受け、2棟を新築して校舎兼寄宿舎に充当した{{sfn|西村|1983|p=201}}。もっとも広い21畳の部屋は、学科教室、[[講堂]]、[[体育館]]、[[音楽室]]、自習室、[[食堂]]、[[寝室]]と7種の用途があったことから「[[七面鳥]]のお部屋」と呼ばれた{{sfn|西村|1983|p=207}}。運動場が不足したため、代々木練兵場を「黙認」の形で使わせてもらっていた{{sfn|西村|1983|p=209}}。 |
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開校初年の[[時間割]]は以下の通りであった{{sfn|西村|1983|p=201}}。トクヨ塾長が自ら授業を行ったほか、トクヨの弟・二階堂真寿が国語と和歌を担当し、軍人や[[軍医]]ら軍関係者、[[野口源三郎]]・[[大谷武一]]ら体育界の重鎮も教鞭を執った{{sfn|西村|1983|p=201, 207, 215}}。また、トクヨの母・二階堂キンと[[家政婦|お手伝いさん]]2人が[[家事]]を行って塾生を支えた{{sfn|西村|1983|p=217}}。 |
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{| class="wikitable" style="text-align:center" |
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| || 月 || 火 || 水 || 木 || 金 || 土 |
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| 1 || colspan="6"|体操 |
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| 2 || colspan="6"|体操 |
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| 3 || 競技 || 英語 || 競技 || 英語 || 英語 || 倫理 |
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| 4 || 競技 || 心理 || 競技 || 和歌 || 英語 || 倫理 |
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| 5 || 体育史 || 音楽 || 解剖 || 競技 || 衛生 || |
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| 6 || || || 生理 || 遊技 || 救急法 || |
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開校して間もなく、体操教師不足の時勢からトクヨの活動は世間の注目を浴び、9月には塾生に出張教授依頼が舞い込むほどであった{{sfn|西村|1983|p=209}}。トクヨは臨時教員養成所が3年かけて教える内容をわずか1年で塾生に叩き込み、49人の1期生を世に送り出した{{sfn|西村|1983|p=210}}。この1期生には、後に[[参議院議員]]となる[[山下春江]]がいた<ref>「大学生 三代の歩み 30 女の園(八) たくましい体育教育 五輪入賞も生んだ特訓」読売新聞1969年10月28日付朝刊、9ページ</ref>。塾生は就職せずとも生きていけるような良家の女子であったが、見知らぬ土地への赴任もいとわず、体育教師となった{{sfn|勝場・村山|2013|p=14}}。しかもうち半数は([[3学期制]]の)2学期の末までに就職先が決まっており、トクヨの指導力が社会的に評価されていたことが窺える{{sfn|西村|1983|pp=212-213}}。トクヨは卒業生に次の言葉を送っている{{sfn|西村|1983|p=211}}。 |
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{{Cquote|学校を我が家と心得、校長を親と思うて大切に仕へよ、同僚を師と仰ぎ、生徒を国宝と思へ、常に職を励みて業を成し、倹を行ひて身を立て、道を崇めて国家に奉仕を怠るべからず、かくて汝の生命をして最も幸福ならしめよ。}} |
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塾の評判から、2期生は30人定員だったにもかかわらず、[[1923年]](大正12年)6月時点で72人が在籍していた{{sfn|西村|1983|pp=217-218}}。同年[[9月1日]]に関東大震災が発生し、塾舎が半倒壊し使用困難になる被害を受けたが、トクヨと塾生80人は全員無事{{#tag:ref|塾で教鞭を執っていた弟の真寿が駆けつけたところ、[[余震]]の不安から代々木練兵場に避難していた{{sfn|西村|1983|p=219}}。東京女高師の教え子2人が心配して訪ねて来て、「無事でよかった」と抱き合って泣いた、という一幕もあった{{sfn|西村|1983|pp=219-220}}。|group="注"}}であった{{sfn|西村|1983|p=217, 219}}。塾は1か月休止し生徒を実家に帰したが、その後塾再建のため、塾生が体操やダンスをしている写真を売り歩き資金調達を図った{{sfn|西村|1983|p=220}}。トクヨは[[荏原郡]][[松沢村 (東京府)|松沢村]]松原(現・[[世田谷区]][[松原 (世田谷区)|松原二丁目]]、[[日本女子体育大学附属二階堂高等学校]]の位置)に移転を決め、[[1924年]](大正13年)[[1月25日]]に[[バラック]]の塾舎へ移転した{{sfn|西村|1983|p=220}}。当日は代々木から松原まで約6 [[キロメートル|km]]の道のりを塾生が[[机]]や[[椅子]]を抱えて行進した{{sfn|西村|1983|p=220}}。 |
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3期生には1928年の[[1928年アムステルダムオリンピック|アムステルダムオリンピック]]に日本女子選手として初出場し、陸上[[800メートル競走|800m走]]で同じく日本女子史上初となる[[銀メダル]]を獲得した[[人見絹枝]]が入学した<ref name="ks1903"/>{{sfn|勝場・村山|2013|pp=21-56}}。塾創設時のトクヨは[[アスリート]]を育成する気は毛頭なかったが、絹枝と出会って女子体育の発展にアスリート養成が不可欠との認識に至った{{sfn|勝場・村山|2013|pp=23-25}}。1925年(大正14年)4月、東京女子大学に復帰し体操科の担任を務め、東京女子医学専門学校(現・[[東京女子医科大学]])でも週1回教え始めた{{sfn|西村|1983|pp=224-225}}。両校での勤務についてトクヨ本人は「御主に仕ヘて忠義をして見たい」と語っているが、二階堂体操塾の[[旧制専門学校|専門学校]]昇格のための学習・準備を兼ねていた可能性がある{{sfn|西村|1983|pp=224-225}}。 |
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=== 専門学校昇格と晩年(1926-1941) === |
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[[1926年]](大正15年)[[3月24日]]{{sfn|西村|1983|p=226}}、日本女子体育専門学校(体専)に昇格・改称した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。私立の女子専門学校としては日本で20校目であり、初の女子体育専門学校であった{{sfn|西村|1983|p=227, 230}}。ところが定員を150人に増やしたところ、開校初年は約130人、2年目は約70人と[[定員割れ]]してしまった{{sfn|西村|1983|p=229}}。その理由を資格が取れないからだと考え、[[1928年]](昭和3年)[[6月4日]]、体専は中等教員無試験検定資格を取得し、学生は卒業と同時に体操科の中等教員免許が取得できるようになった{{sfn|西村|1983|p=229}}。しかしその後も学生数は回復せず、1学年40 - 50人台の状態が続いた{{sfn|穴水|2001|p=157}}。この頃のトクヨは忙しさのあまり居留守を使ったり、黒髪を切り[[スキンヘッド|丸坊主]]になったりした{{#tag:ref|1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)頃から坊主頭だったという{{sfn|西村|1983|p=246}}。そこでトクヨは「桜菊[[尼]]」と自称するようになった{{sfn|西村|1983|p=222}}。|group="注"}}エピソードが関係者の間で知られている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。来客時には[[かつら (装身具)|かつら]]を着用したが、慌ててかぶるため、[[眉毛]]の近くまでかかっている時から大きく後退している時まであった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=124}}。また震災の被害や学校移転で資金繰りに窮し、学生からも借金をする羽目になった{{sfn|西村|1983|pp=227-228}}。文部省が審査のために来校した時には、[[慶応義塾大学]]や東京女子体操音楽学校(現・[[東京女子体育短期大学]])から図書や備品を借りて審査をやり過ごした{{sfn|西村|1983|p=228}}。 |
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[[ファイル:Physical Education Teachers of Tokyo Higher Normal School.png|thumb|右から順に今村嘉雄、野口源三郎、二宮文右衛門、浅川正一。この写真は1941年(昭和16年)の[[東京高等師範学校]](現・[[筑波大学]])の体育科教師陣であるが、浅川以外は二階堂体操塾・体専でも教師を務めた。]] |
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体専時代のトクヨの学校経営は、思いの強さから「専制的」と見られ、トクヨと相いれず学校を去った教師も少なくなかった{{sfn|西村|1983|p=247}}。11年ほど体専で講師を務めた今村嘉雄も不満を抱いていた1人であったが、表立ってトクヨに反発するのは1人の理事{{#tag:ref|今村は「林良富」と書いているが、おそらく林良斉(良斎)の誤記である{{sfn|西村|1983|p=247}}。林は[[大日本帝国海軍|海軍]]軍医の出身で、二階堂体操塾創設時代から教鞭をとり、解剖学や救急療法などの授業を担当した人物である{{sfn|西村|1983|p=207}}。|group="注"}}しかいなかったと語り、晩年のトクヨを「よい軍国婆さん」と表現した{{sfn|西村|1983|pp=247-248}}。社会が[[戦争]]へと向かっていったことと戦前の体育が軍と深い関係があったこともあり、トクヨは青年[[将校]]を愛し、将校の側もそれを分かっていて[[軍事演習]]の帰りに兵隊を連れてたびたび来校した{{sfn|西村|1983|pp=247-248}}。その際には授業を中断して湯茶で接待したり、軍人に見せるために学生にダンスさせたりしていたという{{sfn|西村|1983|p=247}}。トクヨの日々の発言や雑誌『ちから』の記事も[[国家主義]]・[[国粋主義]]的な色味を帯びていき、「日本のほこり」のために女子スポーツ選手を輩出しようと考えるようになっていった{{sfn|西村|1983|pp=248-251}}。こうした中でトクヨは学校経営の実務を名誉校長の二宮文右衛門に任せ{{sfn|西村|1983|p=248}}、校内に引きこもり、病気がちとなった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=208-209}}。弟の真寿に「自分なんぞは今に誰からも相手にされなくなって、電信柱の蔭にひとりでうずくまっているかもしれない」という苦しい胸の内を明かした{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=209}}。 |
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[[1941年]](昭和16年)[[4月7日]]、体専の[[入学式]]{{#tag:ref|この年の入学者は90人で、体専史上最多となった{{sfn|穴水|2001|p=157}}。|group="注"}}の朝に倒れ、東京海軍共済組合病院(現・[[東京共済病院]])に入院、後に本人の希望で[[慶應義塾大学病院]]に転院した{{sfn|西村|1983|p=252}}。病名は[[胃癌|胃ガン]]で、ほかに[[糖尿病]]や[[白内障]]などの持病があった{{sfn|西村|1983|p=252}}。4月14日{{#tag:ref|[[4月24日]]説もある{{sfn|穴水|2001|p=149}}。|group="注"}}にはトクヨの妹・とみの娘である美喜子を[[養子縁組|養女]]にとった{{sfn|西村|1983|p=10}}。入院中、体専の生徒や卒業生は看病や見舞い、[[輸血]]を申し出たが、一切断っている{{sfn|西村|1983|p=253}}{{#tag:ref|週1回、[[放射線治療]]のために病室から移動する際に運搬車を押すことは例外的に認められた{{sfn|西村|1983|pp=252-253}}。[[看護師]]の制止を振り切って卒業生が病室に入って来た際には「二階堂を見舞う暇があったら自分の職務を立派に果たして来なさい!」と叫んだが、布団をかぶってすすり泣いたという{{sfn|西村|1983|p=253}}。また別の人には、「今大往生を楽しんでいるところだ、最後の聖地をけがされたことは残念だ、出て行ってくれ」と激怒した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=214}}。弟の清寿が見舞いに来た時でさえ、開口一番「なんでこんなところに来た、帰れ」と激昂した{{sfn|穴水|2001|pp=150-151}}。|group="注"}}。同年7月17日午前1時40分に死去、60歳であった{{sfn|西村|1983|p=254, 262}}。当日は稀に見るような暑さであったという{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。生涯[[独身]]であった{{sfn|西村|1983|p=247}}。 |
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「ゆかり」と題した手帳には、次の言葉が互いに何の脈絡もなく並んでおり、死の間際のトクヨの心境を映し出している{{sfn|西村|1983|pp=253-254}}。( / は改行) |
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{{Cquote|馬鹿を見るな / 愚痴をこぼすな / 時は解決 / 勝て!! / 償へ / 大摂理に安んぜよ / 自適楽天 / 大御手の身がはり / 時は勝利 / 大慈悲の手 / 報償、深慮、自適、浄土 / 外に無し ただ羽根布団わが一生}} |
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=== 死後 === |
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[[7月18日]]、数名の関係者のみが見守る中、[[堀ノ内斎場]]で[[火葬]]され、「勝妙院釈桜菊尼」の[[法名]]を授けられた{{sfn|穴水|2001|p=168}}。トクヨの死は[[7月27日]]に[[朝日新聞]]が夕刊で報じたのが最初で、翌[[7月28日]]の朝刊で他紙も報じ、これを見た人々が弔問に訪れた{{sfn|穴水|2001|p=169}}。夏休み期間中であったため、学校葬が行われたのは[[9月20日]]になってからであった{{sfn|穴水|2001|p=169}}。 |
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死後、勲六等[[瑞宝章]]が贈られた<ref name="jwcpe"/>{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。墓所は[[築地本願寺]]和田堀廟所<ref name="jwcpe"/>{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=160}}。すぐ近くには[[作家]]・[[樋口一葉]]の墓がある{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=160}}。トクヨは生前、[[多磨霊園]]がなければ和田堀廟所でもよいと美喜子に要望していた{{sfn|穴水|2001|p=149}}。 |
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トクヨは養女の美喜子に[[遺言]]書を口述筆記させ、その中で体専の学生募集を停止し、全生徒の卒業・就職を待って閉校するよう要望したが、弟の清寿が2代目校長に就任して学校を引き継いだ{{sfn|穴水|2001|p=27, 143-146}}。清寿は「体育のタの字も知らない」ような人物であったため、学生は反発したものの、[[太平洋戦争]]の激化でボイコット運動をしているような時代ではなくなったことや、長年の学校行政手腕を発揮して[[同窓会]]「松徳会」{{#tag:ref|「しょうとくかい」と読み、学校所在地・松原の「松」とトクヨの「徳」をとって命名した{{sfn|穴水|2001|pp=27-28}}。「しょうとくかい」の音は「頌徳会」と同じであり、「トクヨを讃える」の意味合いをかけたものであった{{sfn|穴水|2001|p=28}}。|group="注"}}を組織するなどして反発を収束させていった{{sfn|穴水|2001|pp=27-28}}。 |
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[[1943年]](昭和18年)[[9月1日]]、ある新聞が「女子体力章検定いよいよ実施」という記事にて「日本女子体育専門学校校長二階堂とくよ女史」の談話を掲載した{{sfn|穴水|2001|p=28}}。すでに2年前に他界しているトクヨが当然語るわけはないので、実際は電話取材を受けた弟の清寿が「冷汗三斗」{{#tag:ref|清寿が当日の日記に残した言葉である{{sfn|穴水|2001|p=28}}。|group="注"}}で答えたものがトクヨ談として掲載された{{sfn|穴水|2001|p=28}}。死してなお、トクヨが女子体育に大きな影響力を持っていたことを物語るエピソードである{{sfn|穴水|2001|p=28}}。 |
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== 人物 == |
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生徒や卒業生にものをあげることが好きで、手当たり次第にものをあげ、その時は相手に要・不要を言わせなかった{{sfn|西村|1983|p=246}}。喜んで受け取れば非常に満足し、断れば叱りつけた{{sfn|西村|1983|p=246}}。他人の幸福は自分の幸福と考える人であり、口癖のように「○○さん、ご幸福ですか?」と問うていたという{{sfn|西村|1983|p=246}}。 |
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金沢で初めて洋服を着た人であると言われている{{sfn|穴水|2001|p=16}}。当時のトクヨは颯爽とした印象の人だった{{sfn|穴水|2001|p=16}}が、体専の校長になった頃には服装へのこだわりはなくなり「ぞろっとした[[着物]]」を着ていたと学生が証言している{{sfn|西村|1983|p=246}}。かつらは3つくらい持っていた{{sfn|西村|1983|p=246}}。 |
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=== 美声と怒号 === |
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トクヨは美声の持ち主だったといい{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=25}}、よく通る声であった{{sfn|西村|1983|p=46}}。トクヨの弟・真寿は、「澄んだ美しいはりのある[[ソプラノ]]で遠くまで凛々しくひびきその深みといい、強みといい、一度聞いたら耳にのこっていていつまでも忘れられないような魅力のある美しいものだった」と賛美している{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=176}}。代々木練兵場の軍人は「トクヨの号令は日本一」と讃えた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=25}}。歌人として「伊豆能舍馨聲子」{{#tag:ref|馨聲(けいせい)とは「香るような声」という意味であろうと弟が語っている{{sfn|穴水|2001|p=31}}。伊豆能舍(いずのや)の意味は不明であるが、穴水恒雄は、トクヨの歌作の師・尾上柴舟が[[伊豆]]に別荘を持っていたことや、女高師の別称「お茶の水」からの連想で、泉の「いず」と校舎の「舎」から「いずのや」としたのではないかと推測している{{sfn|穴水|2001|p=32}}。|group="注"}}という雅号を使ったこともあるように、自身の声に自信を持っていた{{sfn|穴水|2001|p=31}}。 |
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トクヨの声に関する逸話がいくらか残っている。 |
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* 高等科4年の時、『日本外史』を朗々と読み上げる声が高等科2年にいた弟の清寿の教室まで聞こえてきた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=17}}。 |
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* 福島師範の学生時代には、帰省時に授業で習った[[唱歌]]を夕闇の中で大声で歌っていた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=25}}。 |
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* 石川高女では、[[浅野川]]の河原で早朝に号令練習をしていたところ、「全体、止まれ!」の号令に驚いた[[馬子]]が立ち止まった{{sfn|西村|1983|p=46}}。 |
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* 高知師範では[[桂浜]]で号令を練習し、いつしか土佐の荒波さえトクヨの号令に従った、という伝説を残した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=177}}。 |
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* 東京女高師教授時代には、体操の授業を見学に来た校長団一行が小声で話していたところ、「出て行って下さい」の一言で黙らせた{{sfn|西村|1983|p=175}}。生徒の精神統一を欠くから、というのが理由であった{{sfn|西村|1983|p=175}}。トクヨの一声に一行は面食らったが、理由を聞いて納得して帰って行った{{sfn|西村|1983|p=175}}。 |
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トクヨの声は、体育指導や日常生活でしばしば雷が落ちたような大声となった{{sfn|西村|1983|p=241}}。養女の美喜子は、トクヨを知る人で怒られた経験がない人はおそらくあるまいと記し、調査に来た[[特別高等警察]]を殴りつけたという「武勇伝」を披露している{{sfn|西村|1983|p=241}}。 |
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==== 語録 ==== |
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トクヨは指導の際に独特の表現をよく使った{{sfn|西村|1983|p=241}}。養女の美喜子はトクヨの言葉を「奇妙な、しかも穿った[[形容詞]]」と表現し、人見絹枝は「叱られながら可笑しくなります」と記している{{sfn|西村|1983|p=241, 245}}。そして叱られた生徒が笑うと「愛嬌を振りまく」とまた叱るのであった{{sfn|西村|1983|p=245}}。 |
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以下にトクヨが使った主な言葉を示す。(☆は特によく使ったもの) |
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{{Colbegin|2}} |
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* [[ウドノキ|うどの大木]]☆{{sfn|西村|1983|p=243}} |
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* 馬の背の[[コンニャク]]☆{{#tag:ref|体操中にグニャグニャした姿勢を取った生徒に対して{{sfn|西村|1983|p=244}}。|group="注"}}{{sfn|西村|1983|pp=243-244}} |
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* 女はどこまでも女です☆{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=123}} |
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* 昨日の満足、今日の努力、明日の希望☆{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=123}} |
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* 国家の隆盛は女の健康からです☆{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=123}} |
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* [[昆布巻き]]にして!{{#tag:ref|靴下をだぶつかせていた生徒に対して{{sfn|西村|1983|p=244}}。|group="注"}}{{sfn|西村|1983|p=243}} |
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* コンニャクの化物のようです{{#tag:ref|生徒が手を上げているときにトクヨが手をたたいて揺れた時に使用した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=120}}。|group="注"}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=120}} |
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* [[金平糖]]の気の狂ったの!{{sfn|西村|1983|p=241}} |
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* 女子体育は女子の手で☆{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=123}} |
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* [[雑巾]]の腐ったの!{{sfn|西村|1983|p=241}} |
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* 棚から落ちた[[ぼたもち]]☆{{sfn|西村|1983|p=243}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=123}} |
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* 馬鹿者! (「大馬鹿者!」「大馬鹿!」も)☆{{sfn|西村|1983|p=243}} |
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* [[不良行為少年|不良少女]]!☆{{sfn|西村|1983|p=243}} |
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* みかけたおし☆{{sfn|西村|1983|p=243}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=123}} |
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{{colend}} |
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=== イヌ・ネコ好き === |
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[[イヌ]]や[[ネコ]]が好きで、よくイヌを連れて散歩していたので、「女[[西郷隆盛|西郷]]」という[[あだ名]]を付けられた{{sfn|西村|1983|pp=245-246}}。自身の好物をイヌ・ネコに与えることも好きで、散歩中には[[餌]]を持ち歩いていた{{sfn|西村|1983|pp=245-246}}。トクヨは常にイヌを5 - 6匹、ネコを3 - 4匹飼っていたので、イヌ・ネコ嫌いの教え子は大変困っていたという{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=127}}。 |
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特にシロと名付けたイヌをかわいがっていた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=126}}。シロはトクヨが東京女高師教授時代の1916年(大正5年)頃に[[御茶ノ水]]で拾ったイヌで、二階堂体操塾の移転の際にも一緒に連れていった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=126}}。シロはよく吠えたので学生からは嫌われ、トクヨの外出中にシロをいじめる学生もいた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=126-127}}。ある日、学生がシロをいじめているところを目撃し、その学生に「あなたは退学です」と宣告した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=126-127}}。 |
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またある時、[[大阪市|大阪]]の街を歩いていると、瘦せた捨てイヌが木の下でうずくまっているのを見つけたので、近くのうどん屋に飛び込み、1杯の[[天ぷら]][[うどん]]を買ってそのイヌに与えたという{{sfn|西村|1983|p=246}}。 |
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=== 金欠 === |
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トクヨの人生には常に経済苦が付きまとった{{sfn|西村|1983|p=228, 255}}。女高師時代には既に学資の負債を抱えており、「死ぬに死ねない立場」と心境を綴っている{{sfn|西村|1983|p=35}}。石川高女時代は[[生命保険]]に入っていたが保険料が払えずに中途解約し、トクヨの金欠を見かねた同僚がトクヨに代わって軍事公債を買い受けたり、トクヨに体操を教えたミス・モルガンが宣教師館の1室にトクヨを住まわせたりしている{{sfn|西村|1983|p=41, 44}}。これに輪をかけて、実家が債主の手に渡る{{#tag:ref|1890年(明治23年)頃に建築されたもので、人手に渡った後、大光寺の[[庫裏]]となった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=13}}。建築当時、父の保治は三本木村長であったため、桑折区の住民総出で建設の手伝いに訪れたという{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=13}}。|group="注"}}ことになり、母・妹・末弟の3人を金沢に引き取った{{sfn|西村|1983|p=48}}。この3人は、トクヨの高知師範転任に伴い宮城県に帰り、長弟の清寿が面倒を見た{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=50}}。この間、清寿は結婚し、トクヨは[[羽織]]や[[袴]]を高知の[[呉服店]]に仕立てさせて送った{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=50-51}}。 |
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体専時代には多額の借金を抱え、急場しのぎに持ち物の[[質屋|質入れ]]や学生から借金をすることもしばしばであった{{sfn|西村|1983|pp=227-228}}。それでも夫に先立たれた妹のとみとその娘に送金し、家計を支えた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=212}}。学生から借り入れ・返済するときは、必ず皆がそろう食堂で行い、「皆さんご承認を!」と叫んでいた{{sfn|西村|1983|p=228}}。校舎の雨漏りも直せず{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=209}}、手を付けてはいけない[[財団法人]]の基本金すら取り崩さざるを得ないほどの{{sfn|穴水|2001|p=158}}金欠にもかかわらず、トクヨは人にものをあげるのを好み、学生から20円を借りると、20円の[[利息]]を付けて返した{{sfn|西村|1983|p=228, 245}}。トクヨの金欠を教え子はよく知っていたので、初任給を全額トクヨに寄付したり、雑誌『ちから』を200冊も買い取ったり、赴任先の名物を贈ったりして、トクヨや母校を支えようとしていた{{sfn|西村|1983|p=245}}。それでもトクヨは贈られてきた名物を在校生にあげてしまったという{{sfn|西村|1983|p=245}}。 |
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結局、生前に借金を完済することはできず、遺品には多くの「金子借用書」が含まれていた{{sfn|西村|1983|p=227}}。 |
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=== 対人関係 === |
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==== 高村智恵子 ==== |
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[[ファイル:Chieko Takamura.jpg|thumb|150px|高村智恵子(1914年頃/28歳前後)]] |
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高村智恵子とトクヨの出会いは1899年(明治32年)のことで、智恵子の在籍していた油井尋常高等小学校にトクヨが赴任したことがきっかけである{{sfn|西村|1983|p=23}}。智恵子は妹のミツの担任であったトクヨに親しみを抱き、[[下宿]]を訪ねたり、一緒に安達ケ原を[[散歩]]したり、トクヨに話を聞かせてもらったりと慕っていた{{sfn|西村|1983|p=24}}。トクヨの油井小勤務は1年で終わったが、女高師に進学してすぐの9月頃に、(担任をしたミツのクラス宛ではなく)智恵子のいた高等科の女子児童に向けて手紙を送っている{{sfn|西村|1983|pp=24-25}}。智恵子は自分の写真をトクヨに贈り、学費の援助までしていたという{{sfn|西村|1983|p=25}}。 |
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トクヨのイギリス留学の時には、智恵子は出会ってから1年くらい経過した高村光太郎を伴って横浜港まで見送りに行き、留学中には「長沼家」名義で[[紋付]]を贈っている{{sfn|西村|1983|p=1, 24-26}}。見送り時、まだ2人は結婚前である{{sfn|西村|1983|p=1}}。 |
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その後、智恵子が[[統合失調症|精神分裂症]]を発して入院した時に、トクヨは見舞いに行った{{sfn|西村|1983|p=26}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=213}}。その時の智恵子の症状はまだ軽かったが、トクヨを見た智恵子は後ろを向いてしまった{{sfn|西村|1983|p=26}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=213}}。トクヨは椅子に座り、2人は黙ったまま同じ姿勢を取り続け、30分ほどたってからトクヨは無言で立ち去った{{sfn|西村|1983|p=26}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=213}}。お互いのわがままさを示すエピソードであるとともに、そうしたわがままを許し合える関係だったことが分かるエピソードである{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=213-214}}。智恵子はトクヨより先に亡くなったが、トクヨが智恵子の死に何を思ったかは記録に残されていない{{sfn|西村|1983|p=26}}。 |
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==== 安井てつ ==== |
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[[ファイル:Yasui Tetsu Reminiscences of TWCU.jpg|thumb|150px|安井てつ(1933年頃/63歳前後)]] |
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安井てつとトクヨの出会いは、トクヨが女高師に入学したことがきっかけである{{sfn|西村|1983|p=29}}。てつはトクヨの恩師であり{{sfn|西村|1983|p=187}}{{sfn|曽我・平工・中村|2015|p=1997}}、トクヨはクリスチャンのてつの下で[[聖書]]の学習に没頭し、英語専攻でない者には読解が難しいとされた『ヨブ記』さえ読みこなせるようになった{{sfn|穴水|2001|p=50}}。この経験が、後に金沢で体操教師となった際に[[教会]]に通い、ミス・モルガンから体操の指導を受ける契機となった上に、英語学習の成果がイギリス留学に生きることになるのであった{{sfn|穴水|2001|pp=49-51}}。 |
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トクヨが助教授として東京女高師に戻ると、てつは同僚になった{{sfn|穴水|2001|p=50}}。トクヨのイギリス留学が決まると、イギリス留学の経験者であるてつに大いに世話になり{{sfn|穴水|2001|p=50}}{{sfn|西村|1983|p=187}}、イギリスへ出発するときには、てつが横浜港まで見送りに行っている{{sfn|西村|1983|p=1, 187}}。留学から戻ると、てつは東京女高師を去っており、東京女子大学に移っていた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=66}}。てつ自身は体育指導を行っていないが、かねてより女子体育の重要性を十分認識しており{{sfn|西村|1983|pp=187-188}}、その専門家としてトクヨに東京女子大学で指導するよう懇願した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=66}}{{sfn|穴水|2001|p=50}}。またトクヨが東京女高師に出勤せず、鎌倉に引きこもってしまった際には、てつのおかげでトクヨは東京女高師に復帰できた{{sfn|西村|1983|p=185}}。 |
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二階堂体操塾の設立構想期には、資金不足から東京女子大の体操場を借りることも視野に入れていた{{sfn|西村|1983|p=188}}。(実際には自前の設備を整えることができ、借りずに済んだ{{sfn|西村|1983|p=188}}。)二階堂体操塾・体専では、てつが理事を務めることでトクヨを支えた{{sfn|曽我・平工・中村|2015|p=1997}}。このように、てつは女子体育の理解者として常にトクヨの味方であり続けた{{sfn|西村|1983|p=188}}。 |
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==== 永井道明 ==== |
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[[ファイル:Professor Nagai Domei.jpg|thumb|150px|永井道明(1914年/45歳)]] |
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永井道明とトクヨの出会いは、トクヨの東京女高師の助教授就任時である{{sfn|西村|1983|p=107}}。ここで道明はトクヨに目星を付け、部下としてトクヨをかわいがった{{sfn|西村|1983|p=2, 107-108, 184}}。トクヨの助教授就任時は、道明自身が欧米留学から日本に戻ってきたばかりの時期と重なり、道明は日本の女子体育の遅れを痛感していたものと見られる{{sfn|西村|1983|pp=2-3}}。そこで道明は、イギリス滞在中に知ったオスターバーグのキングスフィールド体操専門学校にトクヨを留学させようと、文部省に留学生としてトクヨを推薦した{{sfn|西村|1983|p=3}}。東京女高師の校長であった[[中川謙二郎]]もトクヨを推薦し、留学話が持ち上がってから10か月でトクヨは文部省留学生の辞令を受け取った{{sfn|西村|1983|pp=2-3}}。当時の心境をトクヨは「夢とまぼろしがごっちゃになった様な」と表現している{{sfn|西村|1983|p=3}}。 |
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トクヨがイギリスに出発した時には、道明は横浜港まで見送りに行った{{sfn|西村|1983|p=1}}。キングスフィールド体操専門学校でオスターバーグの教育を受けたトクヨは、オスターバーグの人格に接し、そこに送ってくれた道明に深く感謝し、トクヨの著書『足掛四年』にも道明への感謝の言葉が綴られている{{sfn|西村|1983|pp=107-108}}。オスターバーグは道明のことを覚えており、「ヤパニースボーイ{{#tag:ref|永井道明のことを「ヤパニースボーイ」と呼んでいた{{sfn|西村|1983|p=107}}。スウェーデン出身のオスターバーグは、[[スウェーデン語]]なまりの英語を話し、''“Japanese boy”''を「ヤパニースボーイ」と発音していた{{sfn|西村|1983|p=107}}。|group="注"}}が日本の体育界を支配しているんだから、誠に結構だ」とトクヨに言った{{sfn|西村|1983|p=107}}。またオスターバーグと道明は、トクヨ留学中に手紙でやり取りしていた{{sfn|西村|1983|p=108}}。 |
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留学経験を胸に帰国したトクヨを待っていたのは、皮肉にも道明との対立であった{{sfn|西村|1983|p=108}}{{sfn|穴水|2001|p=19}}。道明はトクヨに、自身が骨を折って策定し、スウェーデン体操を軸とした『学校体操教授要目』を普及させてくれることを期待しており、実際トクヨもスウェーデン体操を学び、体操遊戯講習会の講師として日本中にスウェーデン体操を広めることに尽力した{{sfn|西村|1983|pp=180-183}}{{sfn|穴水|2001|pp=19-20}}。しかし、道明の言うスウェーデン体操はドリル中心の味気ない体操であり、トクヨが学んだオスターバーグ式の生き生きとした体操とは異なっていた{{sfn|西村|1983|p=183}}。道明の立場からすれば、自身が『学校体操教授要目』を普及させるために地方に出張している間に、トクヨが勝手にイギリス式の体操を教えているように見え、裏切られたという思いであった{{sfn|西村|1983|p=184}}。最初は小さなすれ違いから始まったが{{sfn|穴水|2001|p=19}}、ダンスに対する考え方や体操服の採用などトクヨと道明はことごとく衝突するようになり{{sfn|西村|1983|p=184}}、留学前から同僚に妬まれていたトクヨ{{sfn|穴水|2001|p=82}}は孤立無援となってしまった{{sfn|西村|1983|p=185}}。さらにトクヨのプライベートでは縁談の破談があり、精神的に動揺している状態であった{{sfn|穴水|2001|pp=19-20}}。 |
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このような公私に渡る悩みを振り切ることで、トクヨは「女子体育の使徒」としての自覚を強めていき、東京女高師の職を捨て二階堂体操塾を設立するという決断に踏み切ることになった{{sfn|穴水|2001|pp=20-22}}。1922年(大正11年)、トクヨ41歳のことである{{sfn|穴水|2001|p=22}}。 |
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対する道明は、[[1920年アントワープオリンピック]]に合わせて欧米への外遊に出かけ、帰国後は教授から講師に職階を落とし、1923年(大正12年)に東京女高師を退いた{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=75, 93}}。兼務していた[[東京高等師範学校]](東京高師、現・[[筑波大学]])でも道明は派閥争いを抱えていた{{sfn|清水|1996|p=127}}が、道明は自叙伝に「数多の感想もあるが」と記すのみで、東京高師・女高師での対立について何も書き残しておらず、女高師の思い出話の中にトクヨを登場させていない{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=56-57}}。 |
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==== マダム・オスターバーグ ==== |
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[[ファイル:Martina Bergman Österberg IDUN 1890, nr 10.png|thumb|マルチナ・バーグマン=オスターバーグ(1890年/40歳)]] |
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オスターバーグとトクヨの出会いは、1913年(大正13年)1月にトクヨがキングスフィールド体操専門学校に入学した時である{{sfn|西村|1983|p=5}}。入学前にオスターバーグについてトクヨが知っていたことは、[[スウェーデン人]]であるということだけで、名前すら正確に把握していなかった{{sfn|西村|1983|p=5, 106}}。トクヨが入学した当時のオスターバーグは64歳で、実務はミス・ウィクナーらに任せ、自身が積極的に教壇に立つことはなくなり、引退の準備を始めていたところであった{{sfn|西村|1983|p=106, 120}}。 |
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オスターバーグはあまり授業をしなかったため、トクヨが直接教わったのは「実地教授法」だけであるが、生徒1人ひとりに長所と短所を指摘して本入学の可否を伝えるところを目撃したり、オスターバーグの人格に接したりしたことで、トクヨの留学以後の人生をオスターバーグの存在なしにかたることができないほどの大きな影響を与えた{{sfn|西村|1983|p=88, 93-94, 106-107}}。留学中、トクヨとオスターバーグは共通の知人である永井道明について話しており、オスターバーグはトクヨの帰国後に自身の学校を建てるように促し、協力もすると言った{{sfn|西村|1983|pp=107-108}}。トクヨに期待を寄せていたオスターバーグは、トクヨが1年半でキングスフィールド体操専門学校を去ると知って「2年在学しないなら入学を許可すべきでなかった、入学した以上は2年いなければならない」と主張し、他の学校も視察せねばならないトクヨを困惑させた{{sfn|西村|1983|p=98}}。最終的にオスターバーグは、トクヨが学校を去ることを許し、トクヨはイギリス国内の体操学校を訪問して1915年(大正4年)4月に日本へ帰国した{{sfn|西村|1983|p=98, 104}}。 |
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オスターバーグは、トクヨの帰国からわずか2か月後(3か月後とも{{sfn|穴水|2001|p=18}})にこの世を去った{{sfn|西村|1983|p=107}}。死の直前にキングスフィールド体操学校を国家に寄付し、「無一文で立った私は無一文で終わらねばならぬ」とトクヨに語った言葉を現実にした{{sfn|西村|1983|p=120}}。トクヨは生涯オスターバーグを敬愛し、自作の花柄の[[刺繍]]入りの[[額縁]]にオスターバーグの写真を入れて居間に飾っていた{{sfn|西村|1983|p=106}}。トクヨが建てた二階堂体操塾・体専にはキングスフィールド体操専門学校の影響が随所に見られるが、オスターバーグが[[女性参政権]]の獲得などを目指す[[フェミニズム]]の思想を持ちながら体操教師を育成したのに対して、トクヨの教育観はフェミニズムを直接意図したものではなく{{#tag:ref|結果論からすると、トクヨの活動はフェミニズムの先駆となった{{sfn|穴水|2001|p=128}}。|group="注"}}、思想的背景なく技術のみ持ち込まれるという日本の典型を体現したものとなった{{sfn|西村|1983|pp=126-127}}。 |
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==== 人見絹枝 ==== |
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[[ファイル:Hitomi Kinue in Gothenburg.jpg|thumb|人見絹枝(1926年/19歳)]] |
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人見絹枝とトクヨの出会いは、1924年(大正13年)4月に絹枝が二階堂体操塾に入塾した時である{{sfn|勝場・村山|2013|p=22}}。塾創設時のトクヨはアスリートを育成する気はなく、塾生がスポーツ[[エリート]]意識を持つことを嫌い、特定の種目に特化した生徒に特別な配慮をすることもなかった{{sfn|勝場・村山|2013|p=23}}。[[テニス]]の腕を磨きたかった絹枝は、理想と現実の差に思い悩み、退塾したいと思うこともあったが、夏休みに帰省した際に教師となることを家族に期待されていると感じて考え直した{{sfn|勝場・村山|2013|pp=23-24}}。トクヨの方も[[岡山県]]から絹枝に[[陸上競技]]大会への出場要請が来たことで、トップアスリートの養成が女子体育の発展に必要であると認識を改める契機となった{{sfn|勝場・村山|2013|pp=24-25}}。 |
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トクヨが絹枝を認めてからは、絹枝のために急きょグラウンドを2倍に拡張して競技力向上を支援したが、トクヨは陸上競技を指導できなかったため、絹枝は野口源三郎『[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971709 オリムピック陸上競技法]』や文部省『[http://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982233 競走指針]』などの手引きを参考に自主練習に励んだ{{sfn|勝場・村山|2013|p=25}}。絹枝の卒業後、トクヨは一旦は京都市立第一高等女学校(現・[[京都市立堀川高等学校]])に送り出すも、8月には呼び戻して研究生とし、トクヨと絹枝の二人三脚で塾の専門学校昇格に向けて準備を進めた{{sfn|勝場・村山|2013|pp=27-31}}。この時のトクヨは絹枝に月給70円を支給していたが、絹枝は頑として受け取らず、[[年末年始]]も帰省せずにグラウンド整備に尽くそうとする絹枝を無理にでも帰省させようとしていた{{sfn|穴水|2001|p=24}}。昇格が認められた際には、2人で手を取り泣いたという{{sfn|勝場・村山|2013|p=31}}。 |
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トクヨは「何一つ非の打ちどころの無い人物」と絹枝を手放しで絶賛し、体専に留めおきたいという思いが強かった{{sfn|勝場・村山|2013|p=30, 32}}。一方の絹枝は女子陸上競技のパイオニアとして更なる飛躍を目指し、トクヨの反対を振り切って[[大阪毎日新聞]]に入社した{{sfn|勝場・村山|2013|p=30, 32}}。絹枝が立て続けに大会に出場していた際には「こうした大会に出場することは大いに考えるべきこと」とトクヨはたしなめた{{sfn|勝場・村山|2013|p=64}}。 |
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こうしてトクヨと絹枝は仲違いしてしまうが、その後和解したようで{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=143-144}}、[[1930年]](昭和5年)、国際女子競技大会への遠征費として金一封(1,000円)を絹枝に送った{{sfn|勝場・村山|2013|pp=64-65}}。[[1929年]](昭和4年)のトクヨの忠告は図らずも[[1931年]](昭和6年)に現実となり、絹枝は大阪帝国大学付属病院(現・[[大阪大学医学部附属病院]])に入院した{{sfn|勝場・村山|2013|p=81}}。同年[[5月31日]]、トクヨは絹枝の見舞いに訪れ、やつれた絹枝を見たトクヨは涙を流した{{sfn|勝場・村山|2013|p=81}}。絹枝も涙しつつ心配させまいと気丈に振る舞い、トクヨの差し入れである[[スイカ]]を2片食べた{{sfn|勝場・村山|2013|p=81}}。しかし絹枝は回復せず、[[8月2日]]に24歳の若さでこの世を去った{{sfn|勝場・村山|2013|p=82}}。トクヨは「スポーツが絹枝を殺したのではなく、絹枝がスポーツに死んだのです」という言葉を『[[婦人公論]]』に寄せた{{sfn|勝場・村山|2013|p=87}}。 |
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==== 恋愛と縁談 ==== |
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トクヨは生涯独身であった{{sfn|西村|1983|p=247}}が、年を重ねてからも結婚願望を抱き続けていた{{sfn|穴水|2001|p=143}}。 |
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最初の縁談は、三本木小の恩師の仲介で、仙台出身の東京帝国大学法科大学(現・[[東京大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]])の学生との間で持たれ{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=28}}{{sfn|穴水|2001|pp=11-12}}、[[結納]]まで進んでいた{{sfn|穴水|2001|p=12}}。先方は[[一人親家庭|母子家庭]]で、トクヨの卒業と同時に結婚して家庭に入り、母の面倒を見ることを要望していた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=28}}{{sfn|穴水|2001|p=12}}。一方のトクヨは福島師範3年生(18歳)で、女高師への進学を夢見ており{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=28}}、進学と[[婚約]]は両立できるものと考え、女高師を受験、合格を果たした{{sfn|穴水|2001|p=12}}。女高師に進学すると、トクヨの思いに反して、先方は破談を申し入れた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=28}}。トクヨの家族は「法科の学生なのに[[人権]]無視だ」と憤り、仲介した恩師も「縁がなかった、意に介することはない」と慰めた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=29}}。この経験は長らくトクヨに暗い影を落とし、上京時には[[東京大学の建造物#門|赤門]]の前を通ると破談にした男と出くわすのではないかとひやひやし{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=28}}{{sfn|穴水|2001|p=12}}、その男が別の女性と結婚したと風の噂で聞いた時には悶絶した{{sfn|穴水|2001|pp=12-13}}。イギリスから帰国した際に、家族に[[松島]]旅行を勧められるも、[[新婚旅行]]で松島に行く予定だった苦い思い出から、トクヨは拒否し、「人の心も知らないで」とつぶやいた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=29-30}}。 |
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高知師範では[[恋愛]]を経験している{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=52}}。相手は歩兵第44連隊の青年将校で、トクヨが慰問のため[[衛戍]]病院を訪ねたのが出会いのきっかけであった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=52-53}}。2人は順調に仲を深め、結婚を意識するまでになったが、連隊長が反対したため破談となった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=53}}。弟の清寿は姉トクヨから事の次第を手紙で知らされたが、掛ける言葉が見つからなかったという{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=53}}。 |
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東京女高師の助教授時代には、福島師範の同級生の母親がトクヨを心配して[[仲人]]を買って出てくれた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=196}}。仲介された相手は海軍少佐で、トクヨと同じようにわけあって結婚できなかった人物であったことから、トクヨに深く同情し、自分と結婚したらもっと悲惨な目に遭わせてしまうと発言した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=196}}。この時トクヨは母方の叔父・小梁川文平を同伴していたが、文平は「忙しいのに」とひどく不機嫌で、仲人の家に着くと「おみやげはどうするんだ」と言い、先方の同情発言も理解していなかった、と手紙に記している{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=196}}。そうこうしているうちにトクヨのイギリス行きが決まり、縁談は自然消滅、先方はトクヨの留学中に別の女性と結婚した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=196}}。教授時代にも縁談が持ち込まれ、相手の男性はある分野で知名度の高い人物であった{{sfn|穴水|2001|p=19}}。トクヨは一旦この縁談を断るも後から気になりだし、弟の真寿に再交渉を依頼した{{sfn|穴水|2001|p=19}}。真寿は仲人だった人物に会いに行って事情を話すと、既に先方は婚約者が決まったと伝えられ、「もっと早く言ってくれたら」と残念がられた{{sfn|穴水|2001|p=20}}。真寿はトクヨに手紙で結果報告をし、トクヨから「二日二晩飯も食わずに泣き明かした。もう迷わないで女子体育という使命に生きる」という旨を記した長々しい返事を受け取った{{sfn|穴水|2001|p=20}}。 |
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最晩年になっても、トクヨは体専の若手男性教師を校長室に呼び、疑似恋愛のようなものを楽しんでいた{{sfn|穴水|2001|p=25}}。[[佐々木秀一 (1912年生の教育学者) |佐々木秀一]]は校長室に気軽に出入りを許された教師の1人で、佐々木を応対するときは、普段の孤独感を漂わせず明朗快活で、かつらは外したままだった{{sfn|穴水|2001|p=25}}。入院中、実弟の見舞いすら激怒して追い返したにもかかわらず、佐々木には面会を許し、「私は、他人のおせわになりたくない。」と話した{{sfn|穴水|2001|p=26, 150-151}}。 |
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==== 軍人 ==== |
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体育の世界に入ったことにより、トクヨの人生は軍人との関係が深いものであった{{sfn|西村|1983|pp=46, 246-248}}。金沢で第9師団に[[乗馬]]練習のため単身司令部に乗り込んだのが、記録に残る最初の軍人との関係である{{sfn|西村|1983|p=46}}。乗馬練習中に、将校が部下に号令をかけたがあまりうまくなく、トクヨが代わりに号令をかけたら兵隊は一糸乱れずに動いたというエピソードもある{{sfn|西村|1983|p=46}}。特に体専時代は[[陸軍戸山学校]]の教官や青年将校、[[歩兵第1連隊]]とのかかわりが多かった{{sfn|西村|1983|pp=247-248}}{{sfn|穴水|2001|p=127}}。体専に青年将校が来校した際には、授業を中断させて湯茶での接待や生徒のダンス披露などで歓待したため、現場教師の不満の種となった{{sfn|西村|1983|pp=247-248}}。トクヨの「わが身を国に捧げる」という思いは、献身的な姿勢で教え子に感動を与える一方で、その時々の政策に簡単に引っ張られてしまうという弱点を持っていた{{sfn|西村|1983|p=248}}。トクヨの人生の末期はまさに戦争に向かっている時代であり、国家主義・国粋主義的な思想を持った「軍国ばあさん」になっていき{{sfn|西村|1983|pp=248-251}}、トクヨの死後の体専の学生は、「人生とは何ぞや…と考えるより先ず自分の心の雑草を抜く。」という言葉を残しており、トクヨの教えは[[思考停止]]装置になってしまった{{sfn|穴水|2001|p=28}}。 |
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トクヨは高知時代に軍人と恋をし{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=52-53}}、教え子を軍人と結婚させたこともある{{sfn|穴水|2001|p=127}}。一方で、教え子の見合い相手の軍人に対し、「今に軍隊などなくなる時代が来る」と言ったこともあり、軍人に対する見方は首尾一貫したものではなかった{{sfn|穴水|2001|pp=127-128}}。教育体操の中に[[兵式体操]]が入り込んでくることには反対していた{{sfn|西村|1983|p=153}}。軍隊で行われる兵式体操の目的は号令による統一行動であり、教育体操の目的は個人としてあるいは団体としての日常的な動作を体得することであることから、目的が違うと考えたためである{{sfn|西村|1983|pp=153-155}}。 |
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== 顕彰 == |
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郷里の三本木にある大崎市三本木総合支所には、トクヨの胸像が設置されており<ref name="Osaki"/>、[[2019年]][[3月17日]]には二階堂トクヨ先生を顕彰する会{{#tag:ref|元・三本木町長を会長、大崎市の行政関係者が理事などの役員に就任して[[2016年]](平成28年)[[12月3日]]に発足した<ref>{{cite web|url=http://東京古川会.tokyo/nikaido-1.pdf|title=日本女子体育の母 二階堂トクヨ先生を顕彰する会|publisher=東京古川会|accessdate=2019-07-12}}</ref>。なお、大河ドラマ『いだてん』の制作発表は同年11月16日である<ref>{{cite web|url=https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/257134.html|title=2019年の大河ドラマは「オリンピック×宮藤官九郎」!|date=2016-11-16|publisher=NHK|work=NHKドラマ|accessdate=2019-07-16}}</ref>。|group="注"}}と館山公園を復活させる会が協同してトクヨを顕彰する看板を設置した<ref name="ks1903"/>。また、母校の三本木小学校では、2018年(平成30年)より校内[[縄跳び]]大会を「二階堂トクヨ杯」と銘打って開催し、「二階堂トクヨ先生を顕彰する会」の会員も観覧に来ている<ref>{{cite web|url=http://www2.educ.osaki.miyagi.jp/sanbongi-s/blog/index.php?bno=71|title=第2回二階堂トクヨ杯(校内なわとび大会|work=三本木小学校のブログ|date=2019-02-22|publisher=大崎市立三本木小学校|accessdate=2019-06-25}}</ref>。 |
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トクヨが創設した日本女子体育大学では、学部1年生の[[教養]]演習でトクヨの生涯について見識を深める授業を行っている<ref name="sc">{{cite web|url=https://www.scenario.co.jp/online/22089/|title=創設者を、人間として深掘りするためのシナリオの使い方|work=シナリオ教室ONLINE|publisher=シナリオ・センター|date=2013-02-25|accessdate=2019-06-25}}</ref>。この授業は従来、テキストを読んで問いに答えるという「テストの読解問題」のような形式{{#tag:ref|例えば「トクヨが、金沢でノイローゼ同然になった原因を簡潔に説明しなさい」など<ref name="sc"/>。|group="注"}}をとっていたため学生から不評であったが、[[2012年]](平成24年)に外部講師を招いて、学生が[[脚本|シナリオ]]作りをするという方式で開講したところ、学生がトクヨに人間としての生き生きとしたイメージを持つようになったという<ref name="sc"/>。 |
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== 親族 == |
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* 父方の祖父:二階堂清三郎 |
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** 元・仙台藩士{{sfn|西村|1983|pp=7-8}}。二階堂家は[[須賀川市|須賀川]]発祥の由緒ある[[家柄]]であると清三郎は語っていたが、真偽は謎で[[二階堂氏]]との関係も不明である{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=8, 11}}。[[戊辰戦争]]の折に伝家の宝刀を抜こうとしたが、引き上げ命令が出たため、使うことはなかった{{sfn|西村|1983|p=8}}。[[明治維新]]以後は桑折村合の沢で開拓農民となり、農閑期に[[刀剣]]磨きや「雉子おき」作りの副業をしていた{{sfn|西村|1983|p=8}}。 |
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* 父方の祖母:二階堂やえ{{sfn|西村|1983|p=10}} |
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* 父:二階堂保治(やすじ){{sfn|西村|1983|pp=8-9}} |
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** 幼少期から書を好み、20歳頃に志田・[[玉造郡|玉造]][[郡役所]]書記に就任、[[松山町 (宮城県)|松山]]の[[戸長]]を経て三本木に戻り、戸長・村長を務める{{sfn|西村|1983|pp=8-9}}。しかし途中で挫折し、酒に溺れ、一家離散の原因を作った{{sfn|穴水|2001|p=10}}。[[1904年]](明治37年)、48歳で死去{{sfn|西村|1983|p=9}}。 |
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* 父方の叔母:佐藤トリノ{{sfn|西村|1983|p=10}} |
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** 保治の妹{{sfn|西村|1983|p=10}}。[[仙台市|仙台]]に住んでおり、夏休みにトクヨを家に呼んだ{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=15}}。 |
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* 父方の叔父:佐藤文之進{{sfn|西村|1983|p=14}} |
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** トリノの夫で小学校教師{{sfn|西村|1983|p=14}}。トクヨに『日本外史』を教え、トクヨの勉学の才能を開花させた{{sfn|西村|1983|p=14}}。 |
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* 母方の祖父:小梁川正之助{{sfn|西村|1983|p=9}} |
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** 元・藩士、士族{{sfn|西村|1983|p=9}}。[[黒川郡]][[大松沢村]](現・[[大郷町]])新田に居を構えた{{sfn|西村|1983|p=9}}。トクヨの福島師範進学の際にトクヨに付き添って養父となる小笠原に挨拶し、トクヨの留学出発前には「外つくにの 学びの園に あそぶとも ゆめな忘れそ 大和国ふり」という励ましの短歌を記した[[短冊]]を贈った{{sfn|西村|1983|p=4, 20}}。 |
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* 母:二階堂キン{{sfn|西村|1983|p=9}} |
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** 小梁川正之助の長女{{sfn|西村|1983|p=9}}。18歳で保治と結婚する{{sfn|穴水|2001|p=10}}。気丈で男勝りな性格であり、畑仕事は得意であったが文字は読めず、[[裁縫]]もできなかった{{sfn|西村|1983|p=9}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=13}}。しかし字面の雰囲気でほぼ正確に内容を読み取り、[[古川市|古川]]の裁縫塾に通って裁縫を身に付けたという{{sfn|西村|1983|p=9}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=13}}。夫亡き後は1人で家を支え、後に二階堂体操塾の運営も手助けした{{sfn|西村|1983|p=9}}。1943年(昭和18年)、85歳で死去{{sfn|西村|1983|p=9}}。 |
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* 母方の叔父:小梁川文平 |
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** キンの弟{{sfn|西村|1983|p=9}}。東京在住で、トクヨが東京で頼れる唯一の親類であったが、トクヨにとってあまりいい思い出のない人であった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=194-196}}。トクヨが助教授時代に受けた見合いに立ち会うも不機嫌に振る舞い、教授時代には息子の結婚式を手伝わせてトクヨに多額の出費をさせている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=194-196}}。式の後トクヨはのどを患ってしばらく出勤できず、その間文平に[[斬首刑|打ち首]]にされるという悪夢を見ている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=192-196}}。 |
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* 養父:[[小笠原貞信 (政治家)|小笠原貞信]]{{sfn|西村|1983|pp=20-21}} |
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** [[嘉永]]6年[[2月 (旧暦)|2月]](グレゴリオ暦:[[1853年]]3月) - [[1903年]]([[明治]]36年)[[2月18日]]{{sfn|西村|1983|pp=20-21}}。[[検事]]・[[判事]]・[[弁護士]]・[[衆議院]][[議員]]{{sfn|西村|1983|pp=20-21}}。[[福島民報]]の社長を務めていた頃にトクヨから手紙を受け取り、形式上、養女として迎え入れた{{sfn|西村|1983|p=20}}。トクヨの祖父・小梁川正之助から「鍋でも釜でも洗わしてください」とトクヨを預けられたが、「勉強に精進していただきたい」と応じてトクヨの勉学専念環境を整えた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=22}}。1896年(明治29年)3月から1909年(明治42年)[[7月30日]]までトクヨは小笠原姓を名乗った{{sfn|西村|1983|p=21}}。 |
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* 長弟:二階堂清寿 |
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** [[1882年]](明治15年)[[12月5日]] - [[1976年]](昭和51年)[[8月14日]]{{sfn|西村|1983|pp=9-10}}。[[小学校教員]]、[[公務員]]{{sfn|西村|1983|pp=9-10}}。[[仙台市]]内で校長など{{#tag:ref|北五番丁高等小学校([[仙台市立第二中学校]]の源流)、東二番丁尋常小学校(現・[[仙台市立東二番丁小学校]])校長や宮城県女子師範学校教諭を務めた{{sfn|西村|1983|p=9}}。|group="注"}}を務めた後、[[仙台市役所]]学務課長に就任する{{sfn|西村|1983|pp=9-10}}。弟妹の中でトクヨが最も信頼を置いていた。トクヨの死後、二階堂美喜子(トクヨの養女)に頼られて日本女子体育専門学校の2代目校長に就任する{{sfn|穴水|2001|p=27}}。94歳没{{sfn|西村|1983|p=10}}。 |
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* 末弟:二階堂真寿 |
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** [[1894年]](明治27年)[[6月5日]] - [[1977年]](昭和52年)[[11月29日]]{{sfn|西村|1983|p=11}}。[[牧師]]・教育者{{sfn|西村|1983|p=11}}。トクヨが留学中に家族に送った手紙を無断で[[新聞社]]に提供して記事に掲載されてしまい、トクヨを激怒させた経験がある{{sfn|穴水|2001|p=81}}。駒込教会・九段教会で牧師を務めた後、聖学院神学部(現・[[聖学院大学]])・梨花女子専門学校(現・[[梨花女子大学校]])講師や延禧専門学校(現・[[延世大学校]])教授となった{{sfn|西村|1983|p=11}}。二階堂体操塾創設時から教鞭をとり、[[1944年]](昭和19年)より日本女子体育専門学校教授、[[1965年]](昭和40年)に日本女子体育大学教授、[[1975年]](昭和50年)に[[学校法人二階堂学園]]理事長に就任する{{sfn|西村|1983|p=11}}。83歳没{{sfn|西村|1983|p=11}}。 |
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* 妹:村田とみ |
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** 名前は「登美子」とも書く{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=212}}。トクヨの留学中に、[[許婚]](村田順義)がありながら別の男性と恋仲になり、トクヨを怒らせた{{sfn|穴水|2001|pp=79-80}}。後、村田と結婚して村田姓となる{{sfn|西村|1983|p=11}}。2人の娘を出産するも、夫に先立たれ、長女も後を追うように死亡した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=212}}。夫亡き後、主にトクヨの資金援助で生活する{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=212}}。[[1954年]](昭和29年)に67歳で死去{{sfn|西村|1983|p=10}}。 |
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* 養女:二階堂美喜子 |
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** [[1919年]](大正8年)[[6月25日]] - [[1949年]](昭和24年)[[9月23日]]{{sfn|西村|1983|p=10}}。トクヨの妹・とみの子(次女{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=212}})、すなわちトクヨの[[姪]]であるが、死期を悟ったトクヨに{{sfn|穴水|2001|p=27}}1941年(昭和16年)4月14日付で{{sfn|西村|1983|p=10}}半強制的に養女にされる{{sfn|穴水|2001|p=27}}。美喜子はトクヨの資金援助で[[日本女子大学]]家事科を卒業させてもらい{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=212}}、卒業後すぐに{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=212}}死を目前にしたトクヨの身の回りの世話を任され、医師・看護師以外では唯一人、臨終の瞬間を看取った{{sfn|穴水|2001|pp=143-150}}。トクヨから後を託されるも{{sfn|穴水|2001|p=27}}、1949年(昭和24年)に[[薬物中毒]]で30歳の若さで急逝する{{sfn|西村|1983|p=10}}。 |
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== 著書 == |
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* {{cite book|和書|title=體操通俗講話|publisher=東京寶文館|date=1917-08-31|page=776|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/939695}}{{全国書誌番号|43009663}} |
|||
** 表紙の著者名は「二階堂豊久」名義([[奥付]]は「二階堂トクヨ」)。書名の「通俗」は一般向けに啓蒙する、という意味合いで付されたが、後に古い学説に囚われた頭の固い専門家は対象外である、という意味を帯びるようになっていった{{sfn|穴水|2001|p=22}}。一般向けのユーモアを交えた体育書かつ珍しい女性執筆者の本であるということで注目された{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=68}}。スウェーデン体操の入門書であり、創始者の{{仮リンク|ペール・ヘンリック・リング|en|Pehr Henrik Ling|sv|Pehr Henrik Ling}}の体操観、4つの体操領域について詳しく記述している{{sfn|西村|1983|pp=143-144}}。 |
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* {{cite book|和書|title=足掛四年 英國の女學界|publisher=東京寶文館|date=1917-09-26|page=392|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941386}}{{全国書誌番号|43010445}} |
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** 表紙の著者名は「櫻菊女史」{{#tag:ref|桜菊(おうぎく)はトクヨの号([[ペンネーム]])であり、晩年には「桜菊尼」と自称していた{{sfn|西村|1983|p=222}}。また、イギリスから帰国後に自身が教えた生徒を集めて桜菊会を結成した{{sfn|西村|1983|p=222}}。|group="注"}}名義(奥付は「二階堂トクヨ」)。留学の記憶がまだ鮮明に残っている時期に執筆され、読み物風の体裁から、留学経験を生々しく伝えるものである{{sfn|穴水|2001|p=71}}。 |
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* {{cite book|和書|title=男女幼學年兒童に科すべき模擬体操の實際|publisher=東京敎育研究會|date=1918-05-22|page=151|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/939717}}{{全国書誌番号|43009681}} |
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** 著者名は表紙・奥付ともに「二階堂豊久」名義。子供のための体操指導例を示した本である{{sfn|西村|1983|p=143}}。児童の自発性を重視しており、[[大正自由教育運動|大正自由教育]]を反映したものとなっている{{sfn|西村|1983|p=157}}。 |
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== 演じた人物 == |
== 演じた人物 == |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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===注釈=== |
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{{Reflist|group="注"}} |
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===出典=== |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* {{cite book|和書|author=穴水恒雄|title=人として女として―二階堂トクヨの生き方―|publisher=不昧堂書店|date=2001-05-30|isbn=4-8293-0403-0|page=182|ref={{sfnref|穴水|2001}}}} |
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* {{cite book|和書|author=勝場勝子・村山茂代|title=二階堂を巣立った娘たち―戦前オリンピック選手編―|date=2013-04-18|publisher=不昧堂出版|isbn=978-4-8293-0498-3|page=171|ref={{sfnref|勝場・村山|2013}}}} |
|||
* {{cite journal|和書|author=清水諭|date=1996-09|title=体操する身体―誰がモデルとなる身体を作ったのか/永井道明と嘉納治五郎の身体の格闘―|journal=年報筑波社会学|publisher=筑波社会学会|issue=8|page=119-150|naid=110000527968|ref={{sfnref|清水|1996}}}} |
|||
* {{cite journal|和書|author=曽我芳枝・平工志穂・中村有紀|title=女性におけるスポーツ・運動実践―東京女子大学の体育を中心として―|journal=東京女子大学紀要論集. 科学部門報告|publisher=東京女子大学論集編集委員会|issue=65|page=1987-1999|year=2015|naid=120006512580|url=http://opac.library.twcu.ac.jp/opac/repository/1/5803/SOGA_HIRAKU_NAKAMURA_20150315.pdf|ref={{sfnref|曽我・平工・中村|2015}}}} |
* {{cite journal|和書|author=曽我芳枝・平工志穂・中村有紀|title=女性におけるスポーツ・運動実践―東京女子大学の体育を中心として―|journal=東京女子大学紀要論集. 科学部門報告|publisher=東京女子大学論集編集委員会|issue=65|page=1987-1999|year=2015|naid=120006512580|url=http://opac.library.twcu.ac.jp/opac/repository/1/5803/SOGA_HIRAKU_NAKAMURA_20150315.pdf|ref={{sfnref|曽我・平工・中村|2015}}}} |
||
* {{cite book|和書|author=永井道明先生後援会|title=遺稿 永井道明自叙伝|publisher=大空社|series=伝記叢書 36|date=1988-03-17|page=93|ref={{sfnref|永井道明先生後援会|1988}}}}{{全国書誌番号|88039498}} |
|||
* {{cite book|和書|author=二階堂清寿・戸倉ハル・二階堂真寿|title=二階堂トクヨ伝|publisher=不昧堂書店|date=1961-04-01|series=第4版|page=222|ref={{sfnref|二階堂・戸倉・二階堂|1961}}}}{{全国書誌番号|67005097}} |
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* {{cite book|和書|author=西村絢子|title=体育に生涯をかけた女性―二階堂トクヨ―』|publisher=杏林書院|date=1983-08-01|page=266|ref={{sfnref|西村|1983}}}}{{全国書誌番号|83050977}} |
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* {{cite journal|和書|author=頼住一昭|date=2007-05|title=体育人と身体感 21 永井 道明(1868〜1950)|journal=体育の科学|publisher=杏林書院|volume=57|issue=5|page=377-381|naid=40015447887|ref={{sfnref|頼住|2007}}}} |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* [https://www.nhk.or.jp/idaten/r/journey/022/ 二階堂トクヨと日本女子体育大学] - NHK「いだてん紀行」 |
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2019年7月30日 (火) 05:21時点における版
人物情報 | |
---|---|
全名 | 二階堂 トクヨ |
別名 |
小笠原トクヨ(養子として)[1] 桜菊女史(筆名)[2] 二階堂登久[3] |
生誕 |
二階堂 トクヨ 1880年12月5日 日本宮城県志田郡桑折村[4](現・大崎市三本木桑折) |
死没 |
1941年7月17日(60歳没) 日本東京府東京市四谷区信濃町(現・東京都新宿区信濃町) 慶應義塾大学病院[5] 胃ガン[3] |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京女子高等師範学校文科[4] |
配偶者 | なし[6] |
両親 |
父:二階堂保治[4] 母:二階堂キン[4] 養父:小笠原貞信[7] |
子供 | 二階堂美喜子(養女)[8] |
学問 | |
時代 | 明治 - 昭和 |
活動地域 | 日本 |
研究分野 | 体育学 |
研究機関 | 東京女子高等師範学校・二階堂体操塾 |
主な指導学生 | 人見絹枝[9] |
称号 | 勲六等瑞宝章[4] |
主な業績 | 日本へのホッケー・クリケットの紹介[10] |
主要な作品 | 『体操通俗講話』、『足掛四年』 |
影響を受けた人物 | マルチナ・バーグマン=オスターバーグ |
二階堂 トクヨ(にかいどう トクヨ、1880年12月5日 - 1941年7月17日)は、宮城県大崎市(旧三本木町)出身の教育者。日本女子体育大学創設者[9][10]。「女子体育の母」と称される[9][11]。日本初の女子オリンピック選手である人見絹枝のほか、8名のオリンピック選手を育てた[12]。
イギリス留学で学んだスポーツの普及に努め、クリケットとホッケーを日本に初めて紹介した[10][13]。トクヨはこの2競技を女子のスポーツとして日本に持ち帰った[13]。
経歴
体操嫌いの文学少女(1880-1904)
1880年(明治13年)12月5日に宮城県志田郡桑折村(現・大崎市三本木桑折)にて父・保治、母・キンの長女として生まれる[4][14]。三本木は豊かな自然に囲まれた山あいの里であり、トクヨはどんな花の名所よりも美しいと讃える歌を残している[15]。1887年(明治20年)、父の赴任地・松山の松山尋常高等小学校(現・大崎市立松山小学校)に入学するが、間もなく父の転勤により三本木尋常高等小学校(現・大崎市立三本木小学校)に転校する[15][16]。三本木小では尋常科4年・高等科4年の計8年間学び、成績は普通であったが、「女子には高度な学問は不要」と考える当時の風潮[注 1]からすると、高等科をきっちりと卒業させた二階堂家は教育熱心であったことが窺える[15]。高等科4年生(1894年=明治27年)の夏休みに叔父の佐藤文之進(仙台市立立町小学校教師)から『日本外史』を習ったことで学問に目覚め[18]、文学少女に成長した[4]。なお、小学校時代の8年間、トクヨは体操(体育)の授業を受けたことがなかった[19]。
1895年(明治28年)に三本木小高等科を卒業し、予備講習会[注 2]を経て、同年11月10日に尋常小学校本科准教員の免許を取得する[22]。地元の三本木小学校に就職し、坂本分教場で准教員となった[23]。坂本分教場では老教師が教えていたため、「鬼ごっこをしましょう」と誘う15歳の「二階堂先生」の出現に児童は驚いた[23][24]。月給は1円50銭と新米教師の相場と同等で、初任給を神棚に祀った[24]。分教場での教師生活を続けるうちに更に上級学校へ行って学問を身に付けたいという思いが募ったが、宮城県尋常師範学校(宮城師範、現・宮城教育大学)は女子部を廃止しており、トクヨは進学ができなかった[25]。しかしトクヨは諦めず、全く縁のない福島民報に手紙を送って福島県尋常師範学校(福島師範、現・福島大学人文社会学群)への入学の斡旋を依頼した[26][27]。福島師範には福島県民でないと入学できなかったことから、戸籍上養子縁組すれば面倒を見るという返事を受け取ったトクヨは、これを受諾して1896年(明治29年)3月に福島民報の社長・小笠原貞信の養女となり、小笠原トクヨを名乗った[7]。こうして同年4月に福島師範へ入学、1899年(明治32年)3月に高等小学校本科正教員の資格を得て卒業[注 3]した[28]。成績優秀で附属小学校の訓導に就くことを求められるも固辞し[29]、安達郡油井村の油井尋常高等小学校(現・二本松市立油井小学校)に赴任し、訓導として尋常科2年生の担任になった[30]。担任クラスには長沼ミツという児童がおり、その姉で高等科3年生の智恵子とも親しくなった[31]。智恵子とは、後に高村光太郎の妻になる高村智恵子のことであり、智恵子はトクヨに懐いていた[31]。
1900年(明治33年)4月、油井小を休職し、女子高等師範学校(女高師、現・お茶の水女子大学)文科に入学する[32]。当時の女高師は高嶺秀夫が校長を務め、和歌の尾上柴舟、体操の坪井玄道をはじめ、安井てつ[注 4]・後閑菊野らの授業を受けた[35]。トクヨは特に尾上柴舟の授業に魅了され、自作の歌を褒められて「小柴舟」の名をもらうほどであった[36]。一方で体操の授業には全く関心がなく、欠課や見学など何とか授業に出ないようにしていた[37]。
女高師時代のトクヨは毎年学年末に不運に見舞われるというジンクスがあった[37]。1年生の時はチフスに感染して4か月間茅ヶ崎の病院に入院、2年生は足裏の怪我が原因で骨が腐って40日の闘病生活を送り、3年生は養父・小笠原貞信が死去、4年生は実父・保治が死去した[38]。このうち1・2・4年生の時には学年末試験を受けることができなかった[39]。本来、試験を受けなければ進級できないが、トクヨは成績が良かったからか、試験免除で進級している[39]。特に4年生の試験は卒業がかかったものであり、トクヨは留年覚悟であったが、学校は試験を免除し卒業を認めた[39]。こうして1904年(明治37年)3月、教育・倫理・体操・国語・地理・歴史・漢文の7科目の師範学校女子部・高等女学校の教員免許を取得して女高師をストレートで卒業した[40]。
体操教師への覚醒(1904-1912)
女高師の卒業後は教師となり、最初の赴任先は石川県立高等女学校(石川高女、現・石川県立金沢二水高等学校)であった[40]。赴任前に「主として体操科を受け持ってほしい」という私信を受け取っていたが、トクヨは何かの間違いだろうと思い、最初の校長[注 5]からの言葉でそれが事実だと知ると絶句した[43]。本業の国語の教師は十分いる一方、体操の免許を持った教師は不足していたから[注 6]であった[40]。体操のことを「義理にもおもしろいとは云えぬ代物」、「怒鳴られて馬鹿馬鹿しい」、「およそ之れ程下らないものは天下にあるまい」と酷評していたトクヨにとって体操教師を命じられたことは不本意であるばかりでなく、大恥辱である、世間に対して面目を失う[注 7]、とまで思っていた[46]。しかし、女高師の卒業生は5年間任地で教職を全うする義務を負っていたこと、女高師時代のジンクスから翌1905年(明治38年)の春に自分は死ぬのだろうと思っていたことで、決死の覚悟で体操を教えることにした[47]。最初は週13時間の授業に身も心も疲弊したが、数か月すると自身の体調が良くなっている[注 8]ことを発見し、夏には井口阿くり[注 9]が講師を務める3週間の体操講習会を受講し、スウェーデン体操を学んだ[52]。
井口の講習を受けたトクヨは素人では到底教えられないと痛感し、体操を学びたいと思うようになった[53]。幸運にも、体操専門学校を卒業したカナダ人宣教師のミス・モルガンが金沢市にキリスト教を布教しに来ていたため、トクヨは1日おきに30分の個人レッスンをモルガンの家の庭で受け始めた[54]。モルガンの教える体操は、スウェーデン体操にドイツ体操を混合した独自のもので、指導のうまさと相まって、トクヨはどんどん体操にのめり込んでいった[55]。ついには石川高女の全生徒を対象に週28時間もの体操の授業を受け持つ[注 10]に至り、石川県の郡部を回って小学校教師向けに体操の実地指導を行うようになった[57]。この頃の教え子に時の石川県知事・村上義雄の娘がおり、父娘ともどもトクヨの体操に魅了され、知事の後ろ盾を得て運動会ではプロの楽隊を入れて体操を行うという企画を行ったり、生徒を男役と女役に分けてカドリーユを踊らせたりした[58]。この運動会では、入場券を得られなかった第四高等学校(現・金沢大学)の学生が塀を乗り越えて乱入し、警察官が監視に当たるほどの大変な評判を呼んだ[58]。
1907年(明治40年)7月、トクヨは高知県師範学校(高知師範、現・高知大学教育学部)への出向を命じられた[59]。しかし高知市に来てすぐにマラリアに感染し、入院を余儀なくされた[59]。教諭兼舎監[注 11]に着任し、歴史1時間、体操18時間[注 12]を受け持った[59]。体操の授業中、生徒を木陰で休ませている時に、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲を語り、生徒を喜ばせた、という逸話が残っている[61]。高知県でもトクヨは体操講習会を開き、その模様は土陽新聞(現・高知新聞)に取り上げられた[62]。この頃トクヨは、自身がスウェーデン体操を教えているつもりであったが、実際には金沢では第9師団、高知では歩兵第44連隊で行われていた軍隊式訓練を見よう見まねで教えていたのであった[63]。軍人からは「女軍の一隊だ」などと言われたことに当時のトクヨは得意げだったが、後に振り返って「之れ等を思へば総べて漸死の種なり」と綴っている[63]。1909年(明治42年)7月31日、トクヨは二階堂姓に戻った[64]。1910年(明治43年)末、トクヨは母校の東京女子高等師範学校[注 13](東京女高師)の体操科研究生になることを願い出た[65]。この願い出は後に取り下げるが、次には宮城師範への転任の話が舞い込み、更に母校・東京女高師からは助手就任の勧めが来て、また別の学校からも就任依頼が届いた[66]。トクヨはこの中から東京女高師の職を選び、高知師範を辞して[67]1911年(明治44年)春に東京女高師助教授に着任した[50]。トクヨはこの時30歳で、異例の抜擢となった[50][68]。
東京女高師での仕事は、6時間の授業と井口阿くり・永井道明両教授の補佐であった[67]。ところが井口は同年7月に藤田積造と結婚して退職した[注 14]ため、トクヨは井口の後任として女子体育の指導者の重責を負うことになった[67]。体操を専攻した者ではないのに、体操界の権威になろうとしていたトクヨは同僚4人から妬まれ、家族宛ての手紙で「たかがウジ虫メラ!」とののしっている[69]。
英国留学(1912-1915)
1912年(大正元年)10月1日、トクヨは体操研究のため2年間のイギリス留学を命じられた[70][61]。留学を推薦したのは上司の永井道明であり、永井は女子体育の担い手としてトクヨに期待していた[70]。11月20日、曇り空の下で永井道明、安井てつ、長沼智恵子(後に高村姓となる)、高村光太郎ら10人が見送りに駆けつけ、横浜港から旅立った[71]。イギリスに派遣された日本女性の体育留学生は井口阿くり以来2人目であった[72]。
1913年(大正13年)1月15日、ロイヤルアルバートドックに入港しイギリスに到着するも、予定より1日早く着いたため迎えの人が来ておらず、船中でもう一夜を明かした[73]。翌1月16日、迎えは来たものの、その人は留学先のキングスフィールド体操専門学校(現・グリニッジ大学)の場所を知らず、雨の降る中ようやく夕方に学校に到着し、入学手続きを行った[74]。学校側は「アシスタント・プロフェッサーが留学してくる」と聞いて身構えたが、いざトクヨに試験を課すと何も知らないことが判明し、トクヨは「一体まあ、何をあなたは教えていました?」と教師一同から問われてしまった[75]。そんな中で唯一、「家庭競技」だけは「興味ある室内ゲームだ」と高評価を得た[76]。
キングスフィールド体操専門学校の授業は理論と実科に分かれ、理論では生理学・解剖学・衛生学など、実科では教育体操・医療体操・舞踊・競技などを学び、理論と実科にまたがる「教授法」の科目もあった[77]。最初は何も知らないと驚いていた教師陣も、日々急速に成長していくトクヨに「天才だ」と賛辞を贈るようになった[78][61]。トクヨが最も影響を受けたのは、校長のマルチナ・バーグマン=オスターバーグであった[79]。学校の長期休暇中は、ロンドン市内の女子体操学校を参観し、チェシャー州オルトリンガムの夏季学校での水泳練習、ロンドンの舞踊塾でのダンス練習に励んだ[80]。特に水泳は苦手で最も苦しんだが、1か月後には一通りの型を習得し[注 15]学年1位の成績を得た[81]。
キングスフィールド体操専門学校で1年3か月学んだ[注 16]後、トクヨはイギリス国内の体操専門学校を渡り歩いた[83]。当初の留学予定では、イギリス巡歴の後、ヨーロッパ各国を巡ってスウェーデンで半年学び、帰路アメリカに立ち寄ることになっていた[84]。しかしこの頃、第一次世界大戦が勃発し、イギリスでもドイツ軍による空爆が行われるような緊張状態であったため、トクヨは各国巡回を諦めイギリスにとどまることにした[85]。ところが日本から急きょ帰国せよとの電報が届いたため、やむなく1915年(大正4年)3月14日にイギリスを発ち[85]、ドイツ軍の潜水艦攻撃に怯えながら行きと同じ航路を取って[86]、4月4日に日本へ戻った[85]。
イギリス留学を通して、トクヨは自らの体を女子体育に、国に捧げるという覚悟を決め、その意志は終生揺らぐことはなかった[87]。トクヨは留学生活について『足掛四年』(1917年)に書き残し、2人の弟・清寿と真寿はトクヨ13回忌記念に、留学中に送られてきた手紙をまとめた『ロンドン通信』(1953年)を発行した[88]。
女子体育は女子の手で(1915-1922)
1915年(大正4年)5月、東京女高師教授となり[61]、第六臨時教員養成所教授を兼任する[4]。同年6月には文部省講習会講師[注 17]と教員検定臨時委員に就任、1916年(大正5年)7月には文部省視学委員になり、夏休みには自ら体操講習会を開催して日本各地を飛び回った[61]。また著書『体操通俗講話』、『足掛四年』、『模擬体操の実態』を1917年(大正6年)・1918年(大正7年)に立て続けに出版[90]、東京女子大学の学長となっていた安井てつに請われて、1918年(大正7年)5月から1922年(大正11年)3月まで同学で授業を行った[91]。女高師と臨時教員養成所では共に家事科の生徒に体育を教え、ダンス・体操・遊戯・スポーツの指導を行った[92]。この時の教え子に、女子体育の指導者となる戸倉ハル、加藤トハ(旧姓:内田)がいる[93]。戸倉はこの頃のトクヨが「女子体育は女子の手で」と口癖のように言っていたことを証言している[94]。
授業では、イギリスから持ち帰ったメイポールダンス、クリケット、ホッケー[注 18]を取り入れ、生徒を肋木にぶら下げておいてゆっくりと説明するのが常であった[96]。この頃の体操指導は、上司の永井道明が苦労してまとめ上げた『学校体操教授要目』に従うことが求められていたが、その体操はドリルを中心とした味気ないものであり、トクヨは要目よりもオスターバーグから習ったイギリス式の生き生きとした体操を強引に実施していた[97]。また、永井はダンスの価値をほとんど認めておらず、女高師の体操着も永井受け持ちのクラスがブルマーだったのに対し、トクヨのクラスはキングスフィールド体操専門学校と同じチュニックを採用するなど、永井とトクヨの間に対立が生じていった[98]。永井は自身の後継者としてトクヨに期待していただけに、裏切られた格好となり、トクヨは体操の資格がないクラスに配置転換されてしまった[99]。さらに永井との対立は、東京女高師でのトクヨの孤立に至り、ノイローゼとなって鎌倉に引きこもってしまったこともある[100]。この時は安井てつの助力により、無事に東京女高師に復帰した[100]。一方で、オスターバーグからかけられた「ここ(キングスフィールド体操専門学校)にちなみを持ったクイーンスフィールド体操専門学校を建てるように祈ります」の言葉を胸に抱き、学校を建てる構想を温め続けていた[101]。
まず、トクヨは1919年(大正8年)の体操女教員協議会(東京女高師で開催)の場で女子の体操教師120人に呼び掛けて「全国体操女教員会」(後に体育婦人同志会に改称)を立ち上げ、自ら会長に就任した[102]。全国体操女教員会を率いたトクヨは、スウェーデンの国立中央体操練習所[注 19]やイギリスのキングスフィールド体操専門学校のような体操研究と指導者育成を担う「体育研究所」を設立すべく10万円を目標に寄付を募り始めた[104]。しかし1921年(大正10年)に文部大臣官房が「体育研究所」の設立議案を策定し、その経費が150万円と発表されると、トクヨは10万円では到底研究所を作れないことを悟り、また「国がいつか建ててくれるなら」と人々に思われたことで3,300円しか募金は集まらなかった[104]。そこでトクヨは、構想を温めてきた自身の体操塾を設立する資金に募金を振り向けることに決め、寄付者に理解を求めた[105]。次に、1921年(大正10年)5月に雑誌『わがちから』を創刊し、女子体育の重要性を社会に訴えた[106]。『わがちから』は毎号1,000冊印刷し、平均500冊ほど販売していた[107]。関東大震災による中断をはさんで1925年(大正14年)1月に『ちから』に改題、1927年(昭和2年)4月の『ちから第51号』を最後に発行を停止した[108]。この雑誌発行により、トクヨは講習会や講演会を開く余裕がなくなり、視学委員の仕事も返上した[107]。
『わがちから』を創刊した1921年(大正10年)には正六位に叙せられた[109]。
二階堂体操塾の創立(1922-1926)
1922年(大正11年)4月15日[110]、私財を投げ打ち[注 20]、日本女子体育大学の前身となる「二階堂体操塾」を開いた[4][109]。この時トクヨは41歳であった[109]。創立構想時には「日本女子体操学校」の名で1年制の学校とし、入学試験がない代わりに1か月後に本入学試験を課して見込みのある者のみ残す方針[注 21]であった[114]。校舎は東京・下代々木(後の小田急小田原線参宮橋駅付近[注 22])に借りた庭園付きの邸宅を利用し、設立前から住み込みで準備していた[114]。しかし開校前になって校名を「二階堂体操塾」に、仮入学制度をやめて選抜を行うこととした[115]。また、卒業しても何の資格も得られないが、中等教員として体操科教師となれるだけの能力を身に付けさせることは請け負うし、体操科教師の不足している現状では無資格でも教師職を得て最低でも月給60円を得るだろうと宣言した[116]。
開塾に際して定員は22人と定めていざ募集をかけてみると、予想を上回る4倍の出願があり、約40人に入学を許可[注 23]した[116]。二階堂体操塾は全寮制を敷くことにしていたため、トクヨが借りていた邸宅だけでは不足し、隣家も借り受け、2棟を新築して校舎兼寄宿舎に充当した[112]。もっとも広い21畳の部屋は、学科教室、講堂、体育館、音楽室、自習室、食堂、寝室と7種の用途があったことから「七面鳥のお部屋」と呼ばれた[119]。運動場が不足したため、代々木練兵場を「黙認」の形で使わせてもらっていた[120]。
開校初年の時間割は以下の通りであった[112]。トクヨ塾長が自ら授業を行ったほか、トクヨの弟・二階堂真寿が国語と和歌を担当し、軍人や軍医ら軍関係者、野口源三郎・大谷武一ら体育界の重鎮も教鞭を執った[121]。また、トクヨの母・二階堂キンとお手伝いさん2人が家事を行って塾生を支えた[122]。
月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | |
1 | 体操 | |||||
2 | 体操 | |||||
3 | 競技 | 英語 | 競技 | 英語 | 英語 | 倫理 |
4 | 競技 | 心理 | 競技 | 和歌 | 英語 | 倫理 |
5 | 体育史 | 音楽 | 解剖 | 競技 | 衛生 | |
6 | 生理 | 遊技 | 救急法 |
開校して間もなく、体操教師不足の時勢からトクヨの活動は世間の注目を浴び、9月には塾生に出張教授依頼が舞い込むほどであった[120]。トクヨは臨時教員養成所が3年かけて教える内容をわずか1年で塾生に叩き込み、49人の1期生を世に送り出した[118]。この1期生には、後に参議院議員となる山下春江がいた[123]。塾生は就職せずとも生きていけるような良家の女子であったが、見知らぬ土地への赴任もいとわず、体育教師となった[124]。しかもうち半数は(3学期制の)2学期の末までに就職先が決まっており、トクヨの指導力が社会的に評価されていたことが窺える[125]。トクヨは卒業生に次の言葉を送っている[126]。
「 | 学校を我が家と心得、校長を親と思うて大切に仕へよ、同僚を師と仰ぎ、生徒を国宝と思へ、常に職を励みて業を成し、倹を行ひて身を立て、道を崇めて国家に奉仕を怠るべからず、かくて汝の生命をして最も幸福ならしめよ。 | 」 |
塾の評判から、2期生は30人定員だったにもかかわらず、1923年(大正12年)6月時点で72人が在籍していた[127]。同年9月1日に関東大震災が発生し、塾舎が半倒壊し使用困難になる被害を受けたが、トクヨと塾生80人は全員無事[注 24]であった[130]。塾は1か月休止し生徒を実家に帰したが、その後塾再建のため、塾生が体操やダンスをしている写真を売り歩き資金調達を図った[131]。トクヨは荏原郡松沢村松原(現・世田谷区松原二丁目、日本女子体育大学附属二階堂高等学校の位置)に移転を決め、1924年(大正13年)1月25日にバラックの塾舎へ移転した[131]。当日は代々木から松原まで約6 kmの道のりを塾生が机や椅子を抱えて行進した[131]。
3期生には1928年のアムステルダムオリンピックに日本女子選手として初出場し、陸上800m走で同じく日本女子史上初となる銀メダルを獲得した人見絹枝が入学した[9][132]。塾創設時のトクヨはアスリートを育成する気は毛頭なかったが、絹枝と出会って女子体育の発展にアスリート養成が不可欠との認識に至った[133]。1925年(大正14年)4月、東京女子大学に復帰し体操科の担任を務め、東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)でも週1回教え始めた[134]。両校での勤務についてトクヨ本人は「御主に仕ヘて忠義をして見たい」と語っているが、二階堂体操塾の専門学校昇格のための学習・準備を兼ねていた可能性がある[134]。
専門学校昇格と晩年(1926-1941)
1926年(大正15年)3月24日[135]、日本女子体育専門学校(体専)に昇格・改称した[136]。私立の女子専門学校としては日本で20校目であり、初の女子体育専門学校であった[137]。ところが定員を150人に増やしたところ、開校初年は約130人、2年目は約70人と定員割れしてしまった[138]。その理由を資格が取れないからだと考え、1928年(昭和3年)6月4日、体専は中等教員無試験検定資格を取得し、学生は卒業と同時に体操科の中等教員免許が取得できるようになった[138]。しかしその後も学生数は回復せず、1学年40 - 50人台の状態が続いた[139]。この頃のトクヨは忙しさのあまり居留守を使ったり、黒髪を切り丸坊主になったりした[注 25]エピソードが関係者の間で知られている[136]。来客時にはかつらを着用したが、慌ててかぶるため、眉毛の近くまでかかっている時から大きく後退している時まであった[142]。また震災の被害や学校移転で資金繰りに窮し、学生からも借金をする羽目になった[143]。文部省が審査のために来校した時には、慶応義塾大学や東京女子体操音楽学校(現・東京女子体育短期大学)から図書や備品を借りて審査をやり過ごした[144]。
体専時代のトクヨの学校経営は、思いの強さから「専制的」と見られ、トクヨと相いれず学校を去った教師も少なくなかった[6]。11年ほど体専で講師を務めた今村嘉雄も不満を抱いていた1人であったが、表立ってトクヨに反発するのは1人の理事[注 26]しかいなかったと語り、晩年のトクヨを「よい軍国婆さん」と表現した[145]。社会が戦争へと向かっていったことと戦前の体育が軍と深い関係があったこともあり、トクヨは青年将校を愛し、将校の側もそれを分かっていて軍事演習の帰りに兵隊を連れてたびたび来校した[145]。その際には授業を中断して湯茶で接待したり、軍人に見せるために学生にダンスさせたりしていたという[6]。トクヨの日々の発言や雑誌『ちから』の記事も国家主義・国粋主義的な色味を帯びていき、「日本のほこり」のために女子スポーツ選手を輩出しようと考えるようになっていった[146]。こうした中でトクヨは学校経営の実務を名誉校長の二宮文右衛門に任せ[147]、校内に引きこもり、病気がちとなった[148]。弟の真寿に「自分なんぞは今に誰からも相手にされなくなって、電信柱の蔭にひとりでうずくまっているかもしれない」という苦しい胸の内を明かした[149]。
1941年(昭和16年)4月7日、体専の入学式[注 27]の朝に倒れ、東京海軍共済組合病院(現・東京共済病院)に入院、後に本人の希望で慶應義塾大学病院に転院した[3]。病名は胃ガンで、ほかに糖尿病や白内障などの持病があった[3]。4月14日[注 28]にはトクヨの妹・とみの娘である美喜子を養女にとった[151]。入院中、体専の生徒や卒業生は看病や見舞い、輸血を申し出たが、一切断っている[152][注 29]。同年7月17日午前1時40分に死去、60歳であった[156]。当日は稀に見るような暑さであったという[136]。生涯独身であった[6]。
「ゆかり」と題した手帳には、次の言葉が互いに何の脈絡もなく並んでおり、死の間際のトクヨの心境を映し出している[157]。( / は改行)
「 | 馬鹿を見るな / 愚痴をこぼすな / 時は解決 / 勝て!! / 償へ / 大摂理に安んぜよ / 自適楽天 / 大御手の身がはり / 時は勝利 / 大慈悲の手 / 報償、深慮、自適、浄土 / 外に無し ただ羽根布団わが一生 | 」 |
死後
7月18日、数名の関係者のみが見守る中、堀ノ内斎場で火葬され、「勝妙院釈桜菊尼」の法名を授けられた[158]。トクヨの死は7月27日に朝日新聞が夕刊で報じたのが最初で、翌7月28日の朝刊で他紙も報じ、これを見た人々が弔問に訪れた[159]。夏休み期間中であったため、学校葬が行われたのは9月20日になってからであった[159]。
死後、勲六等瑞宝章が贈られた[4][136]。墓所は築地本願寺和田堀廟所[4][160]。すぐ近くには作家・樋口一葉の墓がある[160]。トクヨは生前、多磨霊園がなければ和田堀廟所でもよいと美喜子に要望していた[150]。
トクヨは養女の美喜子に遺言書を口述筆記させ、その中で体専の学生募集を停止し、全生徒の卒業・就職を待って閉校するよう要望したが、弟の清寿が2代目校長に就任して学校を引き継いだ[161]。清寿は「体育のタの字も知らない」ような人物であったため、学生は反発したものの、太平洋戦争の激化でボイコット運動をしているような時代ではなくなったことや、長年の学校行政手腕を発揮して同窓会「松徳会」[注 30]を組織するなどして反発を収束させていった[162]。
1943年(昭和18年)9月1日、ある新聞が「女子体力章検定いよいよ実施」という記事にて「日本女子体育専門学校校長二階堂とくよ女史」の談話を掲載した[163]。すでに2年前に他界しているトクヨが当然語るわけはないので、実際は電話取材を受けた弟の清寿が「冷汗三斗」[注 31]で答えたものがトクヨ談として掲載された[163]。死してなお、トクヨが女子体育に大きな影響力を持っていたことを物語るエピソードである[163]。
人物
生徒や卒業生にものをあげることが好きで、手当たり次第にものをあげ、その時は相手に要・不要を言わせなかった[140]。喜んで受け取れば非常に満足し、断れば叱りつけた[140]。他人の幸福は自分の幸福と考える人であり、口癖のように「○○さん、ご幸福ですか?」と問うていたという[140]。
金沢で初めて洋服を着た人であると言われている[50]。当時のトクヨは颯爽とした印象の人だった[50]が、体専の校長になった頃には服装へのこだわりはなくなり「ぞろっとした着物」を着ていたと学生が証言している[140]。かつらは3つくらい持っていた[140]。
美声と怒号
トクヨは美声の持ち主だったといい[164]、よく通る声であった[165]。トクヨの弟・真寿は、「澄んだ美しいはりのあるソプラノで遠くまで凛々しくひびきその深みといい、強みといい、一度聞いたら耳にのこっていていつまでも忘れられないような魅力のある美しいものだった」と賛美している[166]。代々木練兵場の軍人は「トクヨの号令は日本一」と讃えた[164]。歌人として「伊豆能舍馨聲子」[注 32]という雅号を使ったこともあるように、自身の声に自信を持っていた[167]。
トクヨの声に関する逸話がいくらか残っている。
- 高等科4年の時、『日本外史』を朗々と読み上げる声が高等科2年にいた弟の清寿の教室まで聞こえてきた[169]。
- 福島師範の学生時代には、帰省時に授業で習った唱歌を夕闇の中で大声で歌っていた[164]。
- 石川高女では、浅野川の河原で早朝に号令練習をしていたところ、「全体、止まれ!」の号令に驚いた馬子が立ち止まった[165]。
- 高知師範では桂浜で号令を練習し、いつしか土佐の荒波さえトクヨの号令に従った、という伝説を残した[170]。
- 東京女高師教授時代には、体操の授業を見学に来た校長団一行が小声で話していたところ、「出て行って下さい」の一言で黙らせた[171]。生徒の精神統一を欠くから、というのが理由であった[171]。トクヨの一声に一行は面食らったが、理由を聞いて納得して帰って行った[171]。
トクヨの声は、体育指導や日常生活でしばしば雷が落ちたような大声となった[172]。養女の美喜子は、トクヨを知る人で怒られた経験がない人はおそらくあるまいと記し、調査に来た特別高等警察を殴りつけたという「武勇伝」を披露している[172]。
語録
トクヨは指導の際に独特の表現をよく使った[172]。養女の美喜子はトクヨの言葉を「奇妙な、しかも穿った形容詞」と表現し、人見絹枝は「叱られながら可笑しくなります」と記している[173]。そして叱られた生徒が笑うと「愛嬌を振りまく」とまた叱るのであった[174]。
以下にトクヨが使った主な言葉を示す。(☆は特によく使ったもの)
イヌ・ネコ好き
イヌやネコが好きで、よくイヌを連れて散歩していたので、「女西郷」というあだ名を付けられた[180]。自身の好物をイヌ・ネコに与えることも好きで、散歩中には餌を持ち歩いていた[180]。トクヨは常にイヌを5 - 6匹、ネコを3 - 4匹飼っていたので、イヌ・ネコ嫌いの教え子は大変困っていたという[181]。
特にシロと名付けたイヌをかわいがっていた[182]。シロはトクヨが東京女高師教授時代の1916年(大正5年)頃に御茶ノ水で拾ったイヌで、二階堂体操塾の移転の際にも一緒に連れていった[182]。シロはよく吠えたので学生からは嫌われ、トクヨの外出中にシロをいじめる学生もいた[183]。ある日、学生がシロをいじめているところを目撃し、その学生に「あなたは退学です」と宣告した[183]。
またある時、大阪の街を歩いていると、瘦せた捨てイヌが木の下でうずくまっているのを見つけたので、近くのうどん屋に飛び込み、1杯の天ぷらうどんを買ってそのイヌに与えたという[140]。
金欠
トクヨの人生には常に経済苦が付きまとった[184]。女高師時代には既に学資の負債を抱えており、「死ぬに死ねない立場」と心境を綴っている[39]。石川高女時代は生命保険に入っていたが保険料が払えずに中途解約し、トクヨの金欠を見かねた同僚がトクヨに代わって軍事公債を買い受けたり、トクヨに体操を教えたミス・モルガンが宣教師館の1室にトクヨを住まわせたりしている[185]。これに輪をかけて、実家が債主の手に渡る[注 36]ことになり、母・妹・末弟の3人を金沢に引き取った[187]。この3人は、トクヨの高知師範転任に伴い宮城県に帰り、長弟の清寿が面倒を見た[188]。この間、清寿は結婚し、トクヨは羽織や袴を高知の呉服店に仕立てさせて送った[189]。
体専時代には多額の借金を抱え、急場しのぎに持ち物の質入れや学生から借金をすることもしばしばであった[143]。それでも夫に先立たれた妹のとみとその娘に送金し、家計を支えた[190]。学生から借り入れ・返済するときは、必ず皆がそろう食堂で行い、「皆さんご承認を!」と叫んでいた[144]。校舎の雨漏りも直せず[149]、手を付けてはいけない財団法人の基本金すら取り崩さざるを得ないほどの[191]金欠にもかかわらず、トクヨは人にものをあげるのを好み、学生から20円を借りると、20円の利息を付けて返した[192]。トクヨの金欠を教え子はよく知っていたので、初任給を全額トクヨに寄付したり、雑誌『ちから』を200冊も買い取ったり、赴任先の名物を贈ったりして、トクヨや母校を支えようとしていた[174]。それでもトクヨは贈られてきた名物を在校生にあげてしまったという[174]。
結局、生前に借金を完済することはできず、遺品には多くの「金子借用書」が含まれていた[193]。
対人関係
高村智恵子
高村智恵子とトクヨの出会いは1899年(明治32年)のことで、智恵子の在籍していた油井尋常高等小学校にトクヨが赴任したことがきっかけである[194]。智恵子は妹のミツの担任であったトクヨに親しみを抱き、下宿を訪ねたり、一緒に安達ケ原を散歩したり、トクヨに話を聞かせてもらったりと慕っていた[31]。トクヨの油井小勤務は1年で終わったが、女高師に進学してすぐの9月頃に、(担任をしたミツのクラス宛ではなく)智恵子のいた高等科の女子児童に向けて手紙を送っている[195]。智恵子は自分の写真をトクヨに贈り、学費の援助までしていたという[196]。
トクヨのイギリス留学の時には、智恵子は出会ってから1年くらい経過した高村光太郎を伴って横浜港まで見送りに行き、留学中には「長沼家」名義で紋付を贈っている[197]。見送り時、まだ2人は結婚前である[71]。
その後、智恵子が精神分裂症を発して入院した時に、トクヨは見舞いに行った[198][199]。その時の智恵子の症状はまだ軽かったが、トクヨを見た智恵子は後ろを向いてしまった[198][199]。トクヨは椅子に座り、2人は黙ったまま同じ姿勢を取り続け、30分ほどたってからトクヨは無言で立ち去った[198][199]。お互いのわがままさを示すエピソードであるとともに、そうしたわがままを許し合える関係だったことが分かるエピソードである[200]。智恵子はトクヨより先に亡くなったが、トクヨが智恵子の死に何を思ったかは記録に残されていない[198]。
安井てつ
安井てつとトクヨの出会いは、トクヨが女高師に入学したことがきっかけである[35]。てつはトクヨの恩師であり[201][72]、トクヨはクリスチャンのてつの下で聖書の学習に没頭し、英語専攻でない者には読解が難しいとされた『ヨブ記』さえ読みこなせるようになった[33]。この経験が、後に金沢で体操教師となった際に教会に通い、ミス・モルガンから体操の指導を受ける契機となった上に、英語学習の成果がイギリス留学に生きることになるのであった[34]。
トクヨが助教授として東京女高師に戻ると、てつは同僚になった[33]。トクヨのイギリス留学が決まると、イギリス留学の経験者であるてつに大いに世話になり[33][201]、イギリスへ出発するときには、てつが横浜港まで見送りに行っている[202]。留学から戻ると、てつは東京女高師を去っており、東京女子大学に移っていた[91]。てつ自身は体育指導を行っていないが、かねてより女子体育の重要性を十分認識しており[203]、その専門家としてトクヨに東京女子大学で指導するよう懇願した[91][33]。またトクヨが東京女高師に出勤せず、鎌倉に引きこもってしまった際には、てつのおかげでトクヨは東京女高師に復帰できた[100]。
二階堂体操塾の設立構想期には、資金不足から東京女子大の体操場を借りることも視野に入れていた[204]。(実際には自前の設備を整えることができ、借りずに済んだ[204]。)二階堂体操塾・体専では、てつが理事を務めることでトクヨを支えた[72]。このように、てつは女子体育の理解者として常にトクヨの味方であり続けた[204]。
永井道明
永井道明とトクヨの出会いは、トクヨの東京女高師の助教授就任時である[205]。ここで道明はトクヨに目星を付け、部下としてトクヨをかわいがった[206]。トクヨの助教授就任時は、道明自身が欧米留学から日本に戻ってきたばかりの時期と重なり、道明は日本の女子体育の遅れを痛感していたものと見られる[207]。そこで道明は、イギリス滞在中に知ったオスターバーグのキングスフィールド体操専門学校にトクヨを留学させようと、文部省に留学生としてトクヨを推薦した[70]。東京女高師の校長であった中川謙二郎もトクヨを推薦し、留学話が持ち上がってから10か月でトクヨは文部省留学生の辞令を受け取った[207]。当時の心境をトクヨは「夢とまぼろしがごっちゃになった様な」と表現している[70]。
トクヨがイギリスに出発した時には、道明は横浜港まで見送りに行った[71]。キングスフィールド体操専門学校でオスターバーグの教育を受けたトクヨは、オスターバーグの人格に接し、そこに送ってくれた道明に深く感謝し、トクヨの著書『足掛四年』にも道明への感謝の言葉が綴られている[208]。オスターバーグは道明のことを覚えており、「ヤパニースボーイ[注 37]が日本の体育界を支配しているんだから、誠に結構だ」とトクヨに言った[205]。またオスターバーグと道明は、トクヨ留学中に手紙でやり取りしていた[209]。
留学経験を胸に帰国したトクヨを待っていたのは、皮肉にも道明との対立であった[209][210]。道明はトクヨに、自身が骨を折って策定し、スウェーデン体操を軸とした『学校体操教授要目』を普及させてくれることを期待しており、実際トクヨもスウェーデン体操を学び、体操遊戯講習会の講師として日本中にスウェーデン体操を広めることに尽力した[211][212]。しかし、道明の言うスウェーデン体操はドリル中心の味気ない体操であり、トクヨが学んだオスターバーグ式の生き生きとした体操とは異なっていた[213]。道明の立場からすれば、自身が『学校体操教授要目』を普及させるために地方に出張している間に、トクヨが勝手にイギリス式の体操を教えているように見え、裏切られたという思いであった[98]。最初は小さなすれ違いから始まったが[210]、ダンスに対する考え方や体操服の採用などトクヨと道明はことごとく衝突するようになり[98]、留学前から同僚に妬まれていたトクヨ[69]は孤立無援となってしまった[100]。さらにトクヨのプライベートでは縁談の破談があり、精神的に動揺している状態であった[212]。
このような公私に渡る悩みを振り切ることで、トクヨは「女子体育の使徒」としての自覚を強めていき、東京女高師の職を捨て二階堂体操塾を設立するという決断に踏み切ることになった[214]。1922年(大正11年)、トクヨ41歳のことである[215]。
対する道明は、1920年アントワープオリンピックに合わせて欧米への外遊に出かけ、帰国後は教授から講師に職階を落とし、1923年(大正12年)に東京女高師を退いた[216]。兼務していた東京高等師範学校(東京高師、現・筑波大学)でも道明は派閥争いを抱えていた[217]が、道明は自叙伝に「数多の感想もあるが」と記すのみで、東京高師・女高師での対立について何も書き残しておらず、女高師の思い出話の中にトクヨを登場させていない[218]。
マダム・オスターバーグ
オスターバーグとトクヨの出会いは、1913年(大正13年)1月にトクヨがキングスフィールド体操専門学校に入学した時である[74]。入学前にオスターバーグについてトクヨが知っていたことは、スウェーデン人であるということだけで、名前すら正確に把握していなかった[219]。トクヨが入学した当時のオスターバーグは64歳で、実務はミス・ウィクナーらに任せ、自身が積極的に教壇に立つことはなくなり、引退の準備を始めていたところであった[220]。
オスターバーグはあまり授業をしなかったため、トクヨが直接教わったのは「実地教授法」だけであるが、生徒1人ひとりに長所と短所を指摘して本入学の可否を伝えるところを目撃したり、オスターバーグの人格に接したりしたことで、トクヨの留学以後の人生をオスターバーグの存在なしにかたることができないほどの大きな影響を与えた[221]。留学中、トクヨとオスターバーグは共通の知人である永井道明について話しており、オスターバーグはトクヨの帰国後に自身の学校を建てるように促し、協力もすると言った[208]。トクヨに期待を寄せていたオスターバーグは、トクヨが1年半でキングスフィールド体操専門学校を去ると知って「2年在学しないなら入学を許可すべきでなかった、入学した以上は2年いなければならない」と主張し、他の学校も視察せねばならないトクヨを困惑させた[82]。最終的にオスターバーグは、トクヨが学校を去ることを許し、トクヨはイギリス国内の体操学校を訪問して1915年(大正4年)4月に日本へ帰国した[222]。
オスターバーグは、トクヨの帰国からわずか2か月後(3か月後とも[223])にこの世を去った[205]。死の直前にキングスフィールド体操学校を国家に寄付し、「無一文で立った私は無一文で終わらねばならぬ」とトクヨに語った言葉を現実にした[224]。トクヨは生涯オスターバーグを敬愛し、自作の花柄の刺繍入りの額縁にオスターバーグの写真を入れて居間に飾っていた[225]。トクヨが建てた二階堂体操塾・体専にはキングスフィールド体操専門学校の影響が随所に見られるが、オスターバーグが女性参政権の獲得などを目指すフェミニズムの思想を持ちながら体操教師を育成したのに対して、トクヨの教育観はフェミニズムを直接意図したものではなく[注 38]、思想的背景なく技術のみ持ち込まれるという日本の典型を体現したものとなった[227]。
人見絹枝
人見絹枝とトクヨの出会いは、1924年(大正13年)4月に絹枝が二階堂体操塾に入塾した時である[228]。塾創設時のトクヨはアスリートを育成する気はなく、塾生がスポーツエリート意識を持つことを嫌い、特定の種目に特化した生徒に特別な配慮をすることもなかった[229]。テニスの腕を磨きたかった絹枝は、理想と現実の差に思い悩み、退塾したいと思うこともあったが、夏休みに帰省した際に教師となることを家族に期待されていると感じて考え直した[230]。トクヨの方も岡山県から絹枝に陸上競技大会への出場要請が来たことで、トップアスリートの養成が女子体育の発展に必要であると認識を改める契機となった[231]。
トクヨが絹枝を認めてからは、絹枝のために急きょグラウンドを2倍に拡張して競技力向上を支援したが、トクヨは陸上競技を指導できなかったため、絹枝は野口源三郎『オリムピック陸上競技法』や文部省『競走指針』などの手引きを参考に自主練習に励んだ[232]。絹枝の卒業後、トクヨは一旦は京都市立第一高等女学校(現・京都市立堀川高等学校)に送り出すも、8月には呼び戻して研究生とし、トクヨと絹枝の二人三脚で塾の専門学校昇格に向けて準備を進めた[233]。この時のトクヨは絹枝に月給70円を支給していたが、絹枝は頑として受け取らず、年末年始も帰省せずにグラウンド整備に尽くそうとする絹枝を無理にでも帰省させようとしていた[234]。昇格が認められた際には、2人で手を取り泣いたという[235]。
トクヨは「何一つ非の打ちどころの無い人物」と絹枝を手放しで絶賛し、体専に留めおきたいという思いが強かった[236]。一方の絹枝は女子陸上競技のパイオニアとして更なる飛躍を目指し、トクヨの反対を振り切って大阪毎日新聞に入社した[236]。絹枝が立て続けに大会に出場していた際には「こうした大会に出場することは大いに考えるべきこと」とトクヨはたしなめた[237]。
こうしてトクヨと絹枝は仲違いしてしまうが、その後和解したようで[238]、1930年(昭和5年)、国際女子競技大会への遠征費として金一封(1,000円)を絹枝に送った[239]。1929年(昭和4年)のトクヨの忠告は図らずも1931年(昭和6年)に現実となり、絹枝は大阪帝国大学付属病院(現・大阪大学医学部附属病院)に入院した[240]。同年5月31日、トクヨは絹枝の見舞いに訪れ、やつれた絹枝を見たトクヨは涙を流した[240]。絹枝も涙しつつ心配させまいと気丈に振る舞い、トクヨの差し入れであるスイカを2片食べた[240]。しかし絹枝は回復せず、8月2日に24歳の若さでこの世を去った[241]。トクヨは「スポーツが絹枝を殺したのではなく、絹枝がスポーツに死んだのです」という言葉を『婦人公論』に寄せた[242]。
恋愛と縁談
トクヨは生涯独身であった[6]が、年を重ねてからも結婚願望を抱き続けていた[243]。
最初の縁談は、三本木小の恩師の仲介で、仙台出身の東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)の学生との間で持たれ[244][245]、結納まで進んでいた[246]。先方は母子家庭で、トクヨの卒業と同時に結婚して家庭に入り、母の面倒を見ることを要望していた[244][246]。一方のトクヨは福島師範3年生(18歳)で、女高師への進学を夢見ており[244]、進学と婚約は両立できるものと考え、女高師を受験、合格を果たした[246]。女高師に進学すると、トクヨの思いに反して、先方は破談を申し入れた[244]。トクヨの家族は「法科の学生なのに人権無視だ」と憤り、仲介した恩師も「縁がなかった、意に介することはない」と慰めた[247]。この経験は長らくトクヨに暗い影を落とし、上京時には赤門の前を通ると破談にした男と出くわすのではないかとひやひやし[244][246]、その男が別の女性と結婚したと風の噂で聞いた時には悶絶した[248]。イギリスから帰国した際に、家族に松島旅行を勧められるも、新婚旅行で松島に行く予定だった苦い思い出から、トクヨは拒否し、「人の心も知らないで」とつぶやいた[249]。
高知師範では恋愛を経験している[250]。相手は歩兵第44連隊の青年将校で、トクヨが慰問のため衛戍病院を訪ねたのが出会いのきっかけであった[251]。2人は順調に仲を深め、結婚を意識するまでになったが、連隊長が反対したため破談となった[252]。弟の清寿は姉トクヨから事の次第を手紙で知らされたが、掛ける言葉が見つからなかったという[252]。
東京女高師の助教授時代には、福島師範の同級生の母親がトクヨを心配して仲人を買って出てくれた[253]。仲介された相手は海軍少佐で、トクヨと同じようにわけあって結婚できなかった人物であったことから、トクヨに深く同情し、自分と結婚したらもっと悲惨な目に遭わせてしまうと発言した[253]。この時トクヨは母方の叔父・小梁川文平を同伴していたが、文平は「忙しいのに」とひどく不機嫌で、仲人の家に着くと「おみやげはどうするんだ」と言い、先方の同情発言も理解していなかった、と手紙に記している[253]。そうこうしているうちにトクヨのイギリス行きが決まり、縁談は自然消滅、先方はトクヨの留学中に別の女性と結婚した[253]。教授時代にも縁談が持ち込まれ、相手の男性はある分野で知名度の高い人物であった[210]。トクヨは一旦この縁談を断るも後から気になりだし、弟の真寿に再交渉を依頼した[210]。真寿は仲人だった人物に会いに行って事情を話すと、既に先方は婚約者が決まったと伝えられ、「もっと早く言ってくれたら」と残念がられた[254]。真寿はトクヨに手紙で結果報告をし、トクヨから「二日二晩飯も食わずに泣き明かした。もう迷わないで女子体育という使命に生きる」という旨を記した長々しい返事を受け取った[254]。
最晩年になっても、トクヨは体専の若手男性教師を校長室に呼び、疑似恋愛のようなものを楽しんでいた[255]。佐々木秀一は校長室に気軽に出入りを許された教師の1人で、佐々木を応対するときは、普段の孤独感を漂わせず明朗快活で、かつらは外したままだった[255]。入院中、実弟の見舞いすら激怒して追い返したにもかかわらず、佐々木には面会を許し、「私は、他人のおせわになりたくない。」と話した[256]。
軍人
体育の世界に入ったことにより、トクヨの人生は軍人との関係が深いものであった[257]。金沢で第9師団に乗馬練習のため単身司令部に乗り込んだのが、記録に残る最初の軍人との関係である[165]。乗馬練習中に、将校が部下に号令をかけたがあまりうまくなく、トクヨが代わりに号令をかけたら兵隊は一糸乱れずに動いたというエピソードもある[165]。特に体専時代は陸軍戸山学校の教官や青年将校、歩兵第1連隊とのかかわりが多かった[145][258]。体専に青年将校が来校した際には、授業を中断させて湯茶での接待や生徒のダンス披露などで歓待したため、現場教師の不満の種となった[145]。トクヨの「わが身を国に捧げる」という思いは、献身的な姿勢で教え子に感動を与える一方で、その時々の政策に簡単に引っ張られてしまうという弱点を持っていた[147]。トクヨの人生の末期はまさに戦争に向かっている時代であり、国家主義・国粋主義的な思想を持った「軍国ばあさん」になっていき[146]、トクヨの死後の体専の学生は、「人生とは何ぞや…と考えるより先ず自分の心の雑草を抜く。」という言葉を残しており、トクヨの教えは思考停止装置になってしまった[163]。
トクヨは高知時代に軍人と恋をし[251]、教え子を軍人と結婚させたこともある[258]。一方で、教え子の見合い相手の軍人に対し、「今に軍隊などなくなる時代が来る」と言ったこともあり、軍人に対する見方は首尾一貫したものではなかった[259]。教育体操の中に兵式体操が入り込んでくることには反対していた[260]。軍隊で行われる兵式体操の目的は号令による統一行動であり、教育体操の目的は個人としてあるいは団体としての日常的な動作を体得することであることから、目的が違うと考えたためである[261]。
顕彰
郷里の三本木にある大崎市三本木総合支所には、トクヨの胸像が設置されており[10]、2019年3月17日には二階堂トクヨ先生を顕彰する会[注 39]と館山公園を復活させる会が協同してトクヨを顕彰する看板を設置した[9]。また、母校の三本木小学校では、2018年(平成30年)より校内縄跳び大会を「二階堂トクヨ杯」と銘打って開催し、「二階堂トクヨ先生を顕彰する会」の会員も観覧に来ている[264]。
トクヨが創設した日本女子体育大学では、学部1年生の教養演習でトクヨの生涯について見識を深める授業を行っている[265]。この授業は従来、テキストを読んで問いに答えるという「テストの読解問題」のような形式[注 40]をとっていたため学生から不評であったが、2012年(平成24年)に外部講師を招いて、学生がシナリオ作りをするという方式で開講したところ、学生がトクヨに人間としての生き生きとしたイメージを持つようになったという[265]。
親族
- 父方の祖父:二階堂清三郎
- 父方の祖母:二階堂やえ[151]
- 父:二階堂保治(やすじ)[269]
- 父方の叔母:佐藤トリノ[151]
- 父方の叔父:佐藤文之進[17]
- 母方の祖父:小梁川正之助[271]
- 母:二階堂キン[271]
- 母方の叔父:小梁川文平
- 養父:小笠原貞信[7]
- 長弟:二階堂清寿
- 末弟:二階堂真寿
- 1894年(明治27年)6月5日 - 1977年(昭和52年)11月29日[278]。牧師・教育者[278]。トクヨが留学中に家族に送った手紙を無断で新聞社に提供して記事に掲載されてしまい、トクヨを激怒させた経験がある[279]。駒込教会・九段教会で牧師を務めた後、聖学院神学部(現・聖学院大学)・梨花女子専門学校(現・梨花女子大学校)講師や延禧専門学校(現・延世大学校)教授となった[278]。二階堂体操塾創設時から教鞭をとり、1944年(昭和19年)より日本女子体育専門学校教授、1965年(昭和40年)に日本女子体育大学教授、1975年(昭和50年)に学校法人二階堂学園理事長に就任する[278]。83歳没[278]。
- 妹:村田とみ
- 養女:二階堂美喜子
著書
- 『體操通俗講話』東京寶文館、1917年8月31日、776頁 。全国書誌番号:43009663
- 表紙の著者名は「二階堂豊久」名義(奥付は「二階堂トクヨ」)。書名の「通俗」は一般向けに啓蒙する、という意味合いで付されたが、後に古い学説に囚われた頭の固い専門家は対象外である、という意味を帯びるようになっていった[215]。一般向けのユーモアを交えた体育書かつ珍しい女性執筆者の本であるということで注目された[282]。スウェーデン体操の入門書であり、創始者のペール・ヘンリック・リングの体操観、4つの体操領域について詳しく記述している[283]。
- 『足掛四年 英國の女學界』東京寶文館、1917年9月26日、392頁 。全国書誌番号:43010445
- 『男女幼學年兒童に科すべき模擬体操の實際』東京敎育研究會、1918年5月22日、151頁 。全国書誌番号:43009681
演じた人物
脚注
注釈
- ^ 三本木小高等科の同級生は7、8人しかおらず、女子児童はトクヨだけであった[17]。
- ^ 郡の視学が教師となって開いていた[20]。講習会からの帰り道は暗くなったので、用心のためトクヨは小刀を懐に忍ばせ、途中まで弟の清寿が迎えに行っていた[21]。
- ^ 在学中に校名変更があり、卒業時の校名は福島県師範学校であった[28]。
- ^ 安井はクリスチャンであり、トクヨは安井の下で聖書の勉強をし、『ヨブ記』を英語で読みこなすことができた[33]。この経験が金沢での宣教師との接触につながり、体操教師トクヨの誕生に至るのであった[34]。
- ^ 当時の校長は体操伝習所の卒業生である土師雙他郎(はじ そうたろう、1853 - 1938)であった[41]。土師は体育を重視しており、トクヨの赴任前年に体操科の中心を担った高桑たまが病死したため、トクヨに高桑と同様の役回りを期待していた[42]。
- ^ 実際には国語の担当教師は2人しかおらず、土師校長がトクヨを納得させるために使った方便であったと考えられる[44]。
- ^ トクヨが特別体操を卑下していたというわけでなく、当時の日本社会が体操教師を軽視する傾向があった[45]。
- ^ この文章の元になっているのは、イギリス留学から帰国した後のトクヨが自身の転換点として言及したものである[48]。文学好きのトクヨは悲劇のヒロインに自己同化する傾向があり、誇張された表現とみるべきである[49]。周囲の人からは金沢で初めて洋装した、純白の体操着を身に付けた颯爽とした印象の人だと見られており、身も心も病んでいるようには見えていなかった[50]。
- ^ 井口は1903年(明治36年)に女高師教授に着任したので、トクヨが4年生の時と重なっているが、井口は国語体操専修科を主に担当したため、文科のトクヨと接点はなかった[51]。
- ^ 本業の国語でも50人の作文指導を行っている[56]。
- ^ 舎監として、夜中に高知師範女子寄宿舎に侵入した泥棒を薙刀で追い払った[60]。トクヨに武士の血が流れていることを示すエピソードである[60]。
- ^ 本格的に体操教師になったトクヨに弟の清寿は「物好きにもほどがある」と自分の思いを伝えたが、トクヨは全く意に介さなかった[45]。
- ^ 女子高等師範学校から改称していた。
- ^ 井口の退職は、文科出身ながら体育に一生を捧げようとしているトクヨの熱意に打たれた井口が、自らの後任とすべく引退したという説がある[67]。井口は退職時に「其筋へも学校へもあなたを推薦して行きますから」とトクヨに声をかけている[67]。
- ^ 水に入っているのは1日1回30分までという規則を破って3時間練習したり、1日2回入水したりして猛練習した成果である[81]。これを知った教師は「そんな無理をするなら証明書はやらない」と激怒したが、限られた時間内で水泳の実力を付けたかったトクヨにとって証明書の取得は重要なことではなく、ついに教師側が折れてトクヨは猛練習を認められた[81]。
- ^ キングスフィールド体操専門学校は、トクヨの2年間のイギリス留学を同校で2年学ぶものと誤解していたため、学校を去る時にひと悶着あった[82]。同校は2年制の学校であり、オスターバーグ校長はトクヨを学校に留めおきたかったのであった[82]。
- ^ スウェーデン体操の普及と女子体育の振興を図った[89]。
- ^ トクヨは日本で初めての女子スポーツとしてクリケットとホッケーを持ち帰った[13]。特にホッケーは体専時代に校技と呼べるほど盛んで、対外試合では常に上位にあった[95]。
- ^ スウェーデン語: Gymnastiska Centralinstitutet[103]、現・スウェーデンスポーツ健康科学大学(スウェーデン語: Gymnastik- och idrottshögskolan)。スウェーデン体操の創始者・リングが設立した体操指導者養成施設で、永井道明の留学先であった[103]。
- ^ トクヨが投じた私財は、母の老後の住まいを買うために貯金していた1,500円である[111]。先述の通り、募金も開塾資金に利用している[102]。体育研究所から体操塾に計画変更後に募金額が増え、最終的に3,800円となった[112]。うち3,500円を塾舎の整備に、残る300円を風呂桶・風呂釜の購入に充てた[112]。
- ^ トクヨの留学先のキングスフィールド体操専門学校を模範としたものである[113]。
- ^ 二階堂体操塾創立時にはまだ小田急線は開業しておらず、京王線神宮裏駅(現存せず)が最寄駅であった[113]。当時の代々木は人家もまばらで自然環境が良く、塾のすぐ近くには代々木練兵場(ワシントンハイツを経て代々木公園となる)があった[113]。
- ^ 1期生は途中で辞めた者、親の反対や既に教師をしていて休職許可を取れずに諦めた者、資格の採れる臨時教員養成所に転校した者、途中入学した者などがいたため、正確な入学者数を特定できなかった[117]。『わがちから』によると1期の卒業生は49人であった[118]。
- ^ 塾で教鞭を執っていた弟の真寿が駆けつけたところ、余震の不安から代々木練兵場に避難していた[128]。東京女高師の教え子2人が心配して訪ねて来て、「無事でよかった」と抱き合って泣いた、という一幕もあった[129]。
- ^ 1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)頃から坊主頭だったという[140]。そこでトクヨは「桜菊尼」と自称するようになった[141]。
- ^ 今村は「林良富」と書いているが、おそらく林良斉(良斎)の誤記である[6]。林は海軍軍医の出身で、二階堂体操塾創設時代から教鞭をとり、解剖学や救急療法などの授業を担当した人物である[119]。
- ^ この年の入学者は90人で、体専史上最多となった[139]。
- ^ 4月24日説もある[150]。
- ^ 週1回、放射線治療のために病室から移動する際に運搬車を押すことは例外的に認められた[153]。看護師の制止を振り切って卒業生が病室に入って来た際には「二階堂を見舞う暇があったら自分の職務を立派に果たして来なさい!」と叫んだが、布団をかぶってすすり泣いたという[152]。また別の人には、「今大往生を楽しんでいるところだ、最後の聖地をけがされたことは残念だ、出て行ってくれ」と激怒した[154]。弟の清寿が見舞いに来た時でさえ、開口一番「なんでこんなところに来た、帰れ」と激昂した[155]。
- ^ 「しょうとくかい」と読み、学校所在地・松原の「松」とトクヨの「徳」をとって命名した[162]。「しょうとくかい」の音は「頌徳会」と同じであり、「トクヨを讃える」の意味合いをかけたものであった[163]。
- ^ 清寿が当日の日記に残した言葉である[163]。
- ^ 馨聲(けいせい)とは「香るような声」という意味であろうと弟が語っている[167]。伊豆能舍(いずのや)の意味は不明であるが、穴水恒雄は、トクヨの歌作の師・尾上柴舟が伊豆に別荘を持っていたことや、女高師の別称「お茶の水」からの連想で、泉の「いず」と校舎の「舎」から「いずのや」としたのではないかと推測している[168]。
- ^ 体操中にグニャグニャした姿勢を取った生徒に対して[176]。
- ^ 靴下をだぶつかせていた生徒に対して[176]。
- ^ 生徒が手を上げているときにトクヨが手をたたいて揺れた時に使用した[179]。
- ^ 1890年(明治23年)頃に建築されたもので、人手に渡った後、大光寺の庫裏となった[186]。建築当時、父の保治は三本木村長であったため、桑折区の住民総出で建設の手伝いに訪れたという[186]。
- ^ 永井道明のことを「ヤパニースボーイ」と呼んでいた[205]。スウェーデン出身のオスターバーグは、スウェーデン語なまりの英語を話し、“Japanese boy”を「ヤパニースボーイ」と発音していた[205]。
- ^ 結果論からすると、トクヨの活動はフェミニズムの先駆となった[226]。
- ^ 元・三本木町長を会長、大崎市の行政関係者が理事などの役員に就任して2016年(平成28年)12月3日に発足した[262]。なお、大河ドラマ『いだてん』の制作発表は同年11月16日である[263]。
- ^ 例えば「トクヨが、金沢でノイローゼ同然になった原因を簡潔に説明しなさい」など[265]。
- ^ 北五番丁高等小学校(仙台市立第二中学校の源流)、東二番丁尋常小学校(現・仙台市立東二番丁小学校)校長や宮城県女子師範学校教諭を務めた[271]。
- ^ 桜菊(おうぎく)はトクヨの号(ペンネーム)であり、晩年には「桜菊尼」と自称していた[141]。また、イギリスから帰国後に自身が教えた生徒を集めて桜菊会を結成した[141]。
出典
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外部リンク
- 『二階堂トクヨ』 - コトバンク
- 二階堂トクヨと日本女子体育大学 - NHK「いだてん紀行」