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{{otheruses|2=戊辰戦争に際して発生した事件|3=仙台藩#戊辰戦争の敗北と北海道開拓}}{{最高裁判例
{{otheruses|2=戊辰戦争に際して発生した事件|3=仙台藩#戊辰戦争の敗北と北海道開拓}}
{{Infobox 事件・事故
|事件名 = 再審請求棄却決定に対する異議申立棄却決定に対する特別抗告事件
|名称 = 白鳥事件
|事件番号 = 昭和46年(し)第67号
|正式名称 = 白鳥警部射殺事件
|裁判年月日 = 1975年(昭和50年)5月20日
|画像 =
|判例集 = 刑集29巻5号177頁
|脚注 =
|裁判要旨 = 刑訴法435条6号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」とは、確定判決における事実認定につき合理的な疑いをいだかせ、その認定を覆すに足りる蓋然性のある証拠をいうものと解すべきであるが、右の明らかな証拠であるかどうかは、もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば、はたしてその確定判決においてなされたような事実認定に到達したであろうかどうかという観点から、当の証拠と他の全証拠と総合的に評価して判断すべきであり、この判断に際しても、再審開始のためには確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りるという意味において、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判における鉄則が適用される。
|場所 = {{JPN}}・[[札幌市]]南6条西16丁目
|法廷名 = 第一小法廷
|標的 =
|裁判長 = [[岸上康夫]]
|日付 = [[1952年]]([[昭和]]27年)[[1月21日]]
|陪席裁判官 = [[藤林益三]]・[[下田武三]]・[[岸盛一]]・[[団藤重光]]
|時間帯 = 夜
|多数意見 = 全員一致
|概要 =
|意見 = なし
|原因 =
|反対意見 = なし
|手段 =
|参照法条 = 刑訴法435条6号}}
|攻撃側人数 = 1(実行犯)
'''白鳥事件'''(しらとりじけん)は、[[1952年]](昭和27年)[[1月21日]]に[[北海道]][[札幌市]]で発生した[[日本の警察官|警察官]][[銃殺|射殺]]事件である。
|武器 = 拳銃
|死亡 = 1
|被害者 = 白鳥一雄警部
|犯人 =
|容疑 =
|動機 =
|関与 =
|防御 =
|対処 =
|謝罪 = [[中核自衛隊]]に所属していたTによる謝罪。主犯・実行者、関与が疑われた日本共産党による謝罪はなし。
|補償 =
|賠償 =
|刑事訴訟 =
|影響 = 主犯格とされた[[村上国治]]の再審請求の特別抗告に関連して、いわゆる「白鳥決定」が判示された。
|遺族会 =
|被害者の会 =
|管轄 =
}}
'''白鳥事件'''(しらとりじけん)は、[[1952年]]([[昭和]]27年)[[1月21日]]に[[北海道]][[札幌市]]で発生した、[[日本共産党]]による[[日本の警察官|警察官]][[銃殺|射殺]]事件である。
{{TOC limit}}


== 概要 ==
「[[逆コース]]」の最中に発生した事件であり、[[日本共産党]]による謀殺を主張する[[検察庁|検察]]に対し、[[冤罪]]を主張する同党や[[自由法曹団]]が鋭く対立した。[[1963年]](昭和38年)[[10月17日]]に日本共産党札幌軍事委員会<ref>共産党札幌委員会の地下組織({{Cite web|url=http://chikyuza.net/archives/20864|title=「白鳥事件は冤罪ではなかった!」新資料・新証言による60年目の真実|accessdate=2017-11-30|author=渡部富哉|date=2012-03-18|publisher=ちきゅう座}})</ref>委員長への懲役刑が確定したものの<ref>[[#渡部富哉|渡部富哉(2012年)]]230頁</ref><ref name=":0">立花書房編『新 警備用語辞典』立花書房、2009年、203頁。</ref>、[[日本の警察|警察]]の[[捜査]]の過程での証拠の捏造や自作自演が指摘されており、[[受刑者]]が[[無罪]]を訴えて[[1965年]](昭和40年)に[[再審]]請求し、更に[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]へ[[特別抗告]]したが、新たな証拠が提出されたことなどにより、最終的に[[1975年]](昭和50年)に最高裁判所に[[棄却]]されている。
実行犯と目された人物らは[[日本共産党]]の[[幇助]]により国外[[逃亡]]したものの、日本共産党札幌軍事委員会{{Efn|共産党札幌委員会の地下組織<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=http://chikyuza.net/archives/20864|title=「白鳥事件は冤罪ではなかった!」新資料・新証言による60年目の真実|accessdate=2017-11-30|author=渡部富哉|date=2012-03-18|publisher=ちきゅう座}})</ref>。}}委員長であった[[村上国治]]が主犯格として逮捕され、[[1963年]](昭和38年)[[10月17日]]に懲役刑が確定した<ref name=":18">{{harvnb|渡部|2012|p=230}}</ref><ref name=":0">{{harvnb|立花書房|2009|p=203}}</ref>。


しかし、[[日本の警察|警察]]の[[捜査]]の過程での[[証拠]][[捏造]]や[[自作自演]]を指摘する声が根強く、日本共産党による冤罪[[キャンペーン]]や[[松本清張]]の『[[日本の黒い霧]]』での推論、当局による証拠捏造疑惑などにより一般の間でも冤罪の声が強まった<ref name=":2"/><ref name=":27">{{Cite book|和書|title=日本共産党の戦後秘史|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-136291-5|oclc=269438831|year=2008|author-link=兵本達吉|pages=177-185|author=兵本達吉}}</ref>。
なお、再審制度においても『[[疑わしきは罰せず|疑わしきは被告人の利益に]]』という刑事裁判の鉄則が適用されるとする判断をこのとき最高裁判所が下したことから、以後確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じれば再審を開始できるようになった。この判断は事件の名をとって「'''白鳥決定'''」と呼ばれる。


[[受刑者]]となった村上は[[無罪]]を訴えて[[1965年]](昭和40年)に[[再審]]請求を行った。これに対する審理においては村上の一部主張が認められたものの、村上の関与を裏付ける新たな証拠が検察側から提出され、最終的に村上の[[特別抗告]]は[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]によって[[1975年]](昭和50年)に[[棄却]]された<ref name=":19">{{Cite web|和書|title=昭和46(し)67|url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=51033|website=裁判所ウェブサイト|accessdate=2019-07-11|publisher=最高裁判所}}</ref>。
日本共産党による冤罪キャンペーンや[[松本清張]]の『日本の黒い霧』での推論、当局による証拠捏造疑惑などにより一般の間でも冤罪の声が強まったが、後年日本共産党の組織的犯行を示唆する資料や内部証言が報道されている<ref>[http://chikyuza.net/archives/20864 「白鳥事件は冤罪ではなかった!」新資料・新証言による60年目の真実 特別インタビュー 社会運動資料センター・渡部富哉氏に聞く]ちきゅう座、2012年 3月 18日</ref>。


再審制度においても『[[疑わしきは罰せず|疑わしきは被告人の利益に]]』という[[刑事裁判]]の鉄則が適用されるとする判断をこのとき最高裁判所が下したことから、以後確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じれば再審を開始できるようになった。この判断は事件の名をとって「'''白鳥決定'''」と呼ばれる。
== 概要 ==
1952年(昭和27年)当時、「[[51年綱領]]」の採択を経て[[武装闘争]]路線を採っていた日本共産党による警察官襲撃事件が全国で相次いでいた。党札幌委員会では委員長の[[村上国治]]や副委員長のSが軍事方針を立て、「時間があり、頭も悪くない」[[北海道大学]]の学生らを中心に[[中核自衛隊]]を組織していた(ただし、鉄砲玉のような役割は労働者にやらせていた)。これに対し札幌市警察本部[[警備課]]課長であった白鳥一雄[[警部]]は市内の[[丸井今井|丸井百貨店]]で開催されていた[[丸木位里]]・赤松俊子の原爆の図の展示会を「[[連合国軍最高司令官総司令部|占領軍]]の指示」として中断させたほか、ビラまきや[[座り込み]]デモを行う共産党員を多数検挙していた<ref name=":9">{{Cite web|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/013/0666/01302250666010c.html|title=衆議院会議録情報 第013回国会 行政監察特別委員会 第10号|accessdate=2018-09-03|website=kokkai.ndl.go.jp}}</ref><ref name=":3" />。


== 事件の経緯 ==
同年1月21日午後7時30分頃、札幌市<ref>現在の札幌市[[中央区 (札幌市)|中央区]]</ref>南6条西16丁目の路上で、[[自転車]]に乗る男が、同じく自転車で帰宅途上の白鳥に向けて後ろから拳銃を発砲し、心臓に[[弾丸|銃弾]]を受けた白鳥は絶命した。[[犯人]]はそのまま自転車で逃走した<ref name=":9" /><ref name=":1">{{Cite web|url=http://yabusaka.moo.jp/siratori.htm|title=白鳥事件|accessdate=2017-11-30|author=藪坂|date=|publisher=オワリナキアクム ~又ハ、捻ジ曲ゲラレタ怒リ~}}</ref><ref name=":2">{{Cite web|url=http://chikyuza.net/archives/20864|title=「白鳥事件は冤罪ではなかった!」新資料・新証言による60年目の真実|accessdate=2017-11-30|author=渡部富哉|date=2012-03-18|publisher=ちきゅう座}})</ref>。白鳥の体内から摘出された銃弾と現場に残された[[薬莢]]から、暗殺に使われたのは32口径ブローニング拳銃([[科学警察研究所|国家地方警察本部科学捜査研究所]]の鑑定では「1912年型ブローニング拳銃」とされたが、実際にそのような型式は確認できないため、世界的に流通していた[[FN ブローニングM1910|1910年型]]の誤りでないかといわれる)とされた<ref>[[利用者:4th protocol/sandbox#後藤篤志|後藤篤志(2013年)]]17頁。</ref>。
1952年(昭和27年)当時、「[[51年綱領]]」の採択を経て[[武装闘争]]路線を採っていた日本共産党{{efn|当時の党主流派は[[所感派]]であったが、非主流派の[[国際派 (日本共産党)|国際派]]も武装闘争の契機となった[[コミンフォルム批判]]を出したソ連に忠実な立場であった<ref>{{Cite web|和書|title=戦後日本共産党史の見直しを|url=http://gendainoriron.jp/vol.05/column/col05.php|website=現代の理論|accessdate=2021-12-18|author=富田武|authorlink=富田武}}</ref>。}}による警察官襲撃事件が、全国で相次いでいた。党札幌委員会では委員長の村上国治や副委員長のSが軍事方針を立て、「時間があり、頭も悪くない」[[北海道大学]]の学生らを中心に[[中核自衛隊]]を組織。列車運転業務妨害事件(赤ランプ事件)や検事・市長宅への投石事件などを起こしていた<ref>ただし、[[鉄砲玉]]のような役割は労働者にやらせていた</ref>。これに対し、[[札幌市警察]][[警備課]]課長・'''白鳥一雄'''[[警部]]は、市内の[[丸井今井|丸井百貨店]]で開催されていた[[丸木位里]]・[[丸木俊|赤松俊子]]の[[日本への原子爆弾投下|原爆]]の図の展示会を「[[連合国軍最高司令官総司令部|占領軍]]の指示」として中断させたほか、ビラまきや[[座り込み]]デモを行う共産党員を多数検挙し、「弾圧の急先鋒」として党関係者などから敵視されていた{{sfn|渡部|2012|pp=18-33}}{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}}<ref name=":9">{{国会会議録検索システム|101304280X01019520225|name=衆議院会議録情報 第013回国会 行政監察特別委員会 第10号|accessdate=2018-09-03}}</ref><ref name=":3" />{{sfn|今西|2020|pp=232-234}}。


同年1月21日午後7時42分頃{{Efn|NHKラジオの「[[三つの歌]]」が流れていたという証言がある{{sfn|追平|1959|p=22}}。}}{{sfn|今西|河野|2012|p=10}}、札幌市(現在の[[中央区 (札幌市)|中央区]])南6条西16丁目の路上で、[[自転車]]{{Efn|この自転車は、警察署の駐輪場に停められていたものを持ち出したもので、事件後に元の場所に戻されたとされる{{sfn|今西|2020|pp=232-234}}。}}に乗る男が、同じく自転車で帰宅途上の白鳥に向けて後ろから[[拳銃]]を発砲し、心臓に[[弾丸]]を受けた白鳥は絶命した。[[犯人]]はそのまま自転車で逃走した<ref name=":2" />{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}}<ref name=":9" />。
自転車上で片手で拳銃を発射し急所に命中させるという、極めて難易度の高い犯行であったが、白鳥には事件前から「昨年はきさまのおかげでおれたちの仲間が監獄につながれた。この恨はきっとはらす。おれたちは極めて組織的にきさまをバラしてやる。」などと書かれた[[脅迫状]]が相次いで届いていたことから、捜査当局は日本共産党による犯行とみて捜査を開始した<ref name=":1" /><ref name=":3">[[利用者:4th protocol/sandbox#後藤篤志|後藤篤志(2013年)]]72-88頁。</ref><ref name=":5">[[利用者:4th protocol/sandbox#後藤篤志|後藤篤志(2013年)]]89-107頁。</ref>。


遺体は北大病院で解剖され、死因は命中した拳弾丸による出血多量とされた{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}}。白鳥の体内から摘出された弾丸と現場に残された[[薬莢]]から、暗殺に使われたのは[[.32ACP弾|32口径]][[ブローニング・アームズ|ブローニング]]拳銃{{Efn|[[科学警察研究所|国家地方警察本部科学捜査研究所]]の鑑定では「1912年型ブローニング拳銃」とされたが、実際にそのような型式は確認できないため、世界的に流通していた[[FN ブローニングM1910|1910年型]]の誤りでないかといわれる<ref name=":14">{{harvnb|後藤|2013|p=17}}</ref>{{sfn|長崎|2003|pp=(9)-(14)|loc=拳銃と弾丸}}。警察庁は、白鳥事件の捜査に関連して北大理学部の地下室から武器の製造研究に使われた火薬類・試験管・軍事方針のパンフレットが見つかったことを明らかにしている<ref name=":25" />。札幌委員会軍事部は、上述のブローニング拳銃に加えてイタリアのベルナルデリ社製護身用小型拳銃を保有していたものと推察される。この小型拳銃は、撃針が不調で北大工学部の工作室で修理が試みられたが、スプリングを調達できず、後日提供者に返還されている{{sfn|大石|2014|p=87}}。ベルナルデリ銃の持ち主は札幌市内のカフェ経営者であったが、1952年に変死している{{sfn|追平|1959|pp=138-143}}。}}とされた<ref name=":14" />{{sfn|長崎|2003|pp=(9)-(14)|loc=拳銃と弾丸}}。
事件発生後、共産党員が市内で「見よ、天誅遂に下る!<ref>ビラには「下る」と書かれたものと「降る」と書かれた者の2種類があり、うち「降る」の版は共産党の犯行を市民に印象付けるために警察が撒いたものだとする主張がある。({{Cite web|url=http://chikyuza.net/archives/21216|title=「白鳥事件は冤罪ではなかった!」新資料・新証言による60年目の真実③|accessdate=2017-11-30|author=渡部富哉|date=2012-03-23|publisher=ちきゅう座}})</ref>」と書かれた[[チラシ|ビラ]]を配布した。これに対し、事件の翌々日に党北海道地方委員の村上由が「『天誅を下す』なんて言葉はわれわれの辞書にはない」「われわれ地方委員会では二、三日中にデッチ上げということをはっきりさせたい」と関与を否定する声明を出したが、その翌日には「誰が白鳥事件の犯人であるかは知らない。党と事件の関係については何とも言えない。白鳥氏殺害は官憲の弾圧に抵抗して起きた愛国者の英雄的行為で個人的なテロではない。かく闘うことは愛国的行動である。白鳥を殺害した犯人は白鳥自身である」と、党の関与を曖昧にしながら一転して犯行を称賛する声明を出した<ref name=":3" />。


自転車上で片手で拳銃を発射し一撃で急所に命中させるという、極めて難易度の高い犯行であったが、白鳥には事件前から「昨年はきさまのおかげでおれたちの仲間が監獄につながれた。この恨はきっとはらす。おれたちは極めて組織的にきさまをバラしてやる。」などと書かれた[[脅迫状]]が相次いで届いていたことから{{efn|1月4日には、村上・鶴田(後述)らが集まり宣言文「新年に当り警察官諸君に宣言す」と題する以下の文書を作成し、警察関係者や[[高田富與]]札幌市長らに送りつけている{{sfn|渡部|2012|pp=32-33}}。{{Quotation|親愛なる札幌の警察官諸君、新しい年を迎え、我々は諸君たちに重大なる決意を固めていただかなければならなくなった事を遺憾とするものである。それは、(中略)占領政策違反の名目で、労働者市民を抑圧しアメリカの手先として日本人を奴隷にする道と、今一つはかかる民族の利益を裏切り、日本人をアメリカに売り渡す売国奴共の命令を拒否し敢然として、日本人の利益のために闘う道とである。(中略)既に我々の兄弟たちは各所で実力の闘いを始めた。[[練馬事件|東京で諸君たちの同僚、もっとも悪らつな国民の敵である巡査が撲殺された]]のは周知の事実だ。(中略)我々の行く手を遮るものは何人といえども容赦はしない。準備はできた。売国奴、国民の敵の功罪表は整備された。(白鳥ら警察官の実名)その他弾圧を積極的にやった外勤の巡査、及び警備課の諸君…警察官諸君、我々はこれらの敵、新しい敵を国民の名においてひとりひとり葬り去ることを宣言する。(後略)}}}}、捜査当局は日本共産党による犯行とみて捜査を開始した<ref name=":3">{{harvnb|後藤|2013|p=72-88}}</ref><ref name=":5">{{harvnb|後藤|2013|p=89-107}}</ref>{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}<ref name=":22">{{Cite web|和書|title=「日本で一番悪い奴ら」北海道警察VS日本共産党|url=https://nikkan-spa.jp/plus/1190290|website=日刊SPA!|date=2016-09-02|accessdate=2021-01-16|publisher=|author=砂澤陣|authorlink=砂澤陣}}</ref>{{sfn|追平|1959|pp=30-33}}。
事件直後の党指導部では、態度を決めかねたのか「共産党のやったことではないという日和見的な意見を克服して、党の意思の革命的統一を図る必要がある」「共産党のやったことではないということに、合法的宣伝は統一する」と指示が錯綜し、事件後に気勢を上げて過激なビラを撒いたり職安事務官を襲撃して川に投げ込むなどの「暴走」を始める党末端との違いが浮き彫りとなった<ref name=":3" />。


事件発生後、共産党員が市内で「見よ、[[天誅]]遂に下る! 自由の兇敵、白鳥市警課長の醜い末路こそ、全ファシスト官憲どもの落ちゆく運命である<ref name=":22" />」と日本共産党札幌委員会名で書かれた[[チラシ|ビラ]](「天誅ビラ」<ref name=":13">{{Cite journal|和書|year=1971|journal=刑事裁判月報|volume=3|issue=7|pages=869-955|publisher=最高裁判所事務総局}}</ref>)を配布した{{Efn|天誅ビラには「下る」と書かれたものと「降る」と書かれたものの2種類があり、渡部は「降る」の版は共産党の犯行を市民に印象付けるためにスパイを通じて原稿を入手した国警が撒いたものであると主張し{{sfn|渡部|2012|pp=113-143}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://chikyuza.net/archives/21216|title=「白鳥事件は冤罪ではなかった!」新資料・新証言による60年目の真実③|accessdate=2017-11-30|author=渡部富哉|date=2012-03-23|publisher=ちきゅう座}}</ref>、国警が白鳥暗殺の事前情報を得ておきながらあえてこれを泳がせて犯行後にすかさずビラを増刷して弾圧のきっかけとしたとしている{{sfn|渡部|2012|p=191}}。一方、後述のTは「国治さんは古いタイプの人間だから『降る』と『下る』のどちらの文字を使ったと思うかと聞かれたら、『降る』の方じゃないかという気がします」と述べている{{sfn|今西|河野|2012|p=35}}。}}{{efn|再審請求審において、札幌高裁が「右ビラの文体は、簡潔でしかもなかなかの名文であつて、申立人(村上)以外に、このような文案を起草できる者がいないことは、多くの関係者の一致して指摘するところであるが(後略)」と言及している<ref name=":13" />。}}。これに対し、事件の翌々日に党北海道地方委員のMが「『天誅を下す』なんて言葉はわれわれの辞書にはない」「われわれ地方委員会では二、三日中にデッチ上げということをはっきりさせたい」と関与を否定する声明を出したが、その翌日には「誰が白鳥事件の犯人であるかは知らない。党と事件の関係については何とも言えない。白鳥氏殺害は[[wikt:官憲|官憲]]の[[弾圧]]に抵抗して起きた[[愛国心|愛国]]者の英雄的行為で個人的な[[テロリズム|テロ]]ではない。かく闘うことは愛国的行動である。白鳥を殺害した犯人は白鳥自身である」と、党の関与を曖昧にしながら一転して犯行を称賛する声明を出した<ref name=":3" />{{sfn|今西|河野|2012|pp=11-12}}{{sfn|追平|1959|pp=34-41}}。
[[政権]][[与党]]の対応は素早いもので、事件翌日の[[吉田茂]][[内閣総理大臣|首相]]は「現下の国際情勢を反映いたしまして、共産分子の国内の破壊活動は熾烈なるものがあると考えられるのであります。まことに治安上注意を要する次第であります。かかる事態に対処して、本国会に所要の法律案を提出する所存であります」と[[施政方針演説]]を行い<ref>{{Cite web|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/013/0512/01301230512006c.html|title=衆議院会議録情報 第013回国会 本会議 第6号|accessdate=2018-11-26|website=kokkai.ndl.go.jp|publisher=国会会議議事録検索システム}}</ref>、同年4月には[[破壊活動防止法]]を制定させた。当時共産党員による事件が連日報道され、日本共産党への国民の支持が失われていったが、それらの事件群の中には冤罪事件である[[菅生事件]]も含まれる<ref name=":3" />。


事件直後の党指導部では、態度を決めかねたのか「共産党のやったことではないという日和見的な意見を克服して、党の意思の革命的統一を図る必要がある」「共産党のやったことではないということに、合法的宣伝は統一する」と指示が錯綜し{{Efn|後の裁判では、札幌委員会の「極左冒険主義」を批判する党北海道委員会による声明書が証拠として引用されている<ref name=":27" />。}}、事件後に気勢を上げて過激なビラを撒いたり職安事務官を襲撃して川に投げ込むなどの「暴走」を始める党末端との違いが浮き彫りとなった<ref name=":3" />。
某[[信用金庫]]元従業員の共産党員は「白鳥に不正を察知されたと考えた[[メタンフェタミン|ヒロポン]]中毒の信金理事長が[[殺し屋]]を差し向けた」と主張し(当該理事長はその後[[自殺]]している<ref name=":1" />)、「軍用拳銃の[[闇市]]への横流しを知りすぎた白鳥が消された。証拠の弾丸をすり替えて事件を共産党のせいにした」などと怪情報が流された<ref name=":4">[[利用者:4th protocol/sandbox#後藤篤志|後藤篤志(2013年)]]17-21頁。</ref>。


[[政権]][[与党]]の対応は素早く、[[吉田茂]][[内閣総理大臣|首相]]は事件翌日に「現下の国際情勢を反映いたしまして、共産分子の国内の[[破壊活動]]は熾烈なるものがあると考えられるのであります。まことに[[治安]]上注意を要する次第であります。かかる事態に対処して、本国会に所要の法律案を提出する所存であります」と[[施政方針演説]]を行い<ref>{{国会会議録検索システム|101305254X00619520123|name=衆議院会議録情報 第013回国会 本会議 第6号|accessdate=2018-11-26}}</ref>、同年4月には[[破壊活動防止法]]を制定させた。本事件を始め共産党員による事件が連日報道され、日本共産党は同年10月の[[第25回衆議院議員総選挙]]で全議席を失うなど、自らの[[犯罪|非合法活動]]によって国民の支持を失っていったが、それらの事件群の中には冤罪事件である[[菅生事件]]{{Efn|本事件後の1952年6月に発生。}}なども含まれている<ref name=":3" />も全体的に見れば日本共産党による凶悪な暴力事件の件数の多さの中から見れば極めて例外な件であった。
事件発生から4か月後、[[静岡県]]で警察の保護を受けていた行き倒れの青年が[[保釈]]中に逃走した共産党員と判明し、彼が[[検察官|検事]]らの情に絆されて情報提供したことにより事態が急展開する。白鳥殺害に関与しているとの情報が得られて党札幌地区委員らが[[逮捕 (日本法)|逮捕]]され、更に[[共犯]]として逮捕されたTが「1月3日から1月4日頃に村上(国治)ら中核自衛隊でる北海道大学生7人が集まり、白鳥警部殺害の謀議を為した」と供述<ref name=":1" />した。その過程において、面子にかけても犯人を逮捕しなければならなかった警察は、容疑者の[[誤認逮捕]]([[被疑者|容疑者]]と別人の共産党員)をおかしたり、期限切れで釈放すると見せかけて迎えに来た父親の目の前で別件で再逮捕するなど手段を選ばずに容疑者を長期[[拘留]]捜査するなど、強硬な捜査を行いながら調書を作成していったという。逮捕者の中には生涯精神を病む者も出た一方で、日本共産党も組織防衛に奔り、釈放された党員らを「査問」し、命の危機を感じた党員が[[逃亡]]して警察の庇護を受けるということも起きた<ref name=":5" />。


市井では、「白鳥に不正を察知されたと考えた[[メタンフェタミン|ヒロポン]]中毒のS信用組合の理事長が[[殺し屋]]を差し向けた{{Efn|元共産党員で組合員総代であった人物による公開質問状により流布した。この人物の名をとって「原田情報」と呼ばれる。理事長はその後服毒自殺した{{sfn|渡部|2012|pp=91-100}}{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}{{sfn|追平|1959|pp=138-143}}。}}」「軍用拳銃の[[闇市]]への横流しを知りすぎた白鳥が消された。証拠の弾丸をすり替えて事件を共産党のせいにした」などと怪情報が流された<ref name=":4">{{harvnb|後藤|2013|p=17-21}}</ref><ref name=":10">{{harvnb|後藤|2013|p=169-173}}</ref>。
しかし、村上らの逮捕後も犯行に用いられたとされるブローニング拳銃は発見されず、事件発生の2年前に幌見峠で射撃訓練した際の銃弾のみが唯一の物証として[[裁判]]に提出された<ref name=":6">[[利用者:4th protocol/sandbox#後藤篤志|後藤篤志(2013年)]]173-186頁。</ref>。


事件発生から4か月後、[[静岡県]]で行き倒れ、警察の保護を受けた後に寿司屋で働いていた青年が、[[保釈]]中に逃走した北海道庁[[細胞_(政党)#戦後|細胞]]所属の共産党員Nと判明する。その青年が[[検察官|検事]]らの情に絆されて札幌の共産党組織の情報を提供したことにより事態が急展開する{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}}{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}<ref name=":5" />{{sfn|追平|1959|pp=91-115}}。党関係者が白鳥殺害に関与しているとの情報を得た警察は、札幌地区委員らを[[逮捕 (日本法)|逮捕]]した。8月28日に逮捕された札幌委員会副委員長Sは11月28日に自供を始め{{efn|「Sはスパイだ、裏切った」と書かれた党地下組織の文書を警察に見せられてSは観念したのだという{{sfn|大石|2014|pp=70}}。}}{{sfn|今西|2020|pp=234-236}}、札幌の地下組織の最高指導者は村上委員長であり、白鳥射殺の実行犯は円山細胞の『ひろ』{{efn|この人物は元[[大日本帝国海軍|日本海軍]][[震洋|第6震洋隊]]の下士官で実戦経験があり、戦後ポンプ職人をしていた{{sfn|渡部|2012|pp=80-91}}。T(後述)の証言によれば、『ひろ』は事件の一週間前にも白鳥の暗殺を試みたが、弾が発射されず未遂に終わっている{{sfn|渡部|2012|pp=35-91}}。}}である旨を供述{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}}{{sfn|追平|1959|pp=91-115}}。さらに翌1953年4月9日に逮捕された札幌委員会常任の追平雍嘉も供述手記を執筆してこれを裏付けた{{Efn|追平は「事件の前、『ひろ』の家で実包入りのブローニング拳銃をみた」「事件後、『ひろ』に会ったら『オレがやった』といっていた。『手ぬぐいに包んで撃ったので、二発目の薬きょうが引っかかって残ってしまい、あとが撃てなかった』などとも語っていた」と証言している{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}}。}}<ref name=":2" />{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}}{{sfn|今西|2020|pp=234-236}}。また6月9日に[[共犯]]として逮捕されていたTが「生きることに怠惰であってはいけない」などと訴えかけた[[安倍治夫]]検事の説得を受けて7月11日に転向し{{efn|大石は、[[吉田岩窟王事件]]の再審を支援し、[[三鷹事件]]や[[松山事件]]の冤罪を語った安倍が誘導じみたことをするはずがないとしている{{sfn|大石|2014|p=66}}。安倍自身も同僚検事の誘導尋問の手法(「査問」を逃れて警察に保護を求めた党員(後述)に対して行われた、泣き落とし。これによって自ら白鳥を射殺したとの言質を取ったが、ベテラン捜査官たちによって否定され、本人の供述も何度も覆ったため、殺人での起訴はされなかった{{sfn|追平|1959|pp=82-84}}。)を紹介しながら、「それがしかし、捜査本部におけるそういう偽り、でっち上げ、間もなくばれるんですね。同様に共産党内ビューローにおけるいろんなでっち上げも間もなくばれることになると、こういうことなんです。やっぱり強いのは真実が強い」「そういう(模擬裁判で警察の捜査本部が出してきた指紋鑑定について偽物と発言した札幌の検事正)下に立って私どもは捜査したんですからね。[…]私が誘導尋問ででっち上げの調書を作ったなんていうことは、もう根も葉もないということはすぐわかるんですよ。それを松本清張が『日本の黒い霧』を書いて、安倍という男はどうも怪しいと言い出したんだから、これはもう松本清張の負けですね」と述べている{{sfn|渡部|2012|pp=68-70}}。}}{{sfn|今西|2020|pp=234-236}}{{sfn|今西|河野|2012|pp=39-40}}、1月3日から1月4日頃に村上国治ら7人が集まり、白鳥警部殺害の謀議を為した旨を供述した{{Efn|1月4日には村上側にアリバイがあることなどから、冤罪説を擁護する者たちはTの偽証を主張した。一方、Tの供述は事件から2年後のことであり、T自身も「(一般的には)謀議というのはもっと緻密にいろんな計画を建てるとか方針はこうだと。(中略)正式にはそんなものだと思うんだけども、そんなにきちっとしたあれした謀議じゃないわけですよ。だからもうそんな日にちなんて忘れちまいますよ。(中略)普通の事件であれば、その謀議がいつ行われたか、どこでやった、誰がやったのかということがものすごく大事なことになるんだけれども、我々にとってはあまり大事なことではないわけですよ」と述べている{{sfn|渡部|2012|pp=63-64}}。}}{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}}。
直接の実行犯とされた党員らは日本共産党の[[密航]]船群「[[人民艦隊]]」で不法出国し、当時日本と[[国交]]が無かった[[中華人民共和国]]へ逃亡している<ref>{{Cite web|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/029/0012/02907170012002a.html|title=第029回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第2号|accessdate=2017-12-01|date=1968-07-04|publisher=国会会議録検索システム}}</ref>。

その過程において、面子にかけても犯人を逮捕しなければならなかった警察は、容疑者の[[誤認逮捕]]([[被疑者|容疑者]]と別人の共産党員)を犯したり、期限切れで釈放すると見せかけて迎えに来た父親の目の前で別件で再逮捕して長期[[拘留]]捜査するなどして、手段を選ばずに強引な捜査を行いながら調書を作成していったという。逮捕者や党員の中には生涯精神を病む者や自殺者も出たが、一方で日本共産党も組織防衛に奔って釈放された党員らを「[[査問 (日本共産党)|査問]]」し、身の危険を感じた党員が[[逃亡]]して警察の庇護を受けるということも起きた<ref name=":5" />{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}{{sfn|渡部|2012|pp=91-100}}{{sfn|追平|1959|pp=138-143}}{{sfn|追平|1959|pp=73-77}}。

しかし、村上国治らの逮捕後も犯行に用いられたとされるブローニング拳銃自体は発見されず{{efn|犯行後に複数の党員を経由して近郊の畑に埋められたと言われる{{sfn|今西|2020|pp=232-234}}。}}、"事件の2年前に行われた[[中核自衛隊]]による射撃訓練の遺留品"であるとされ、「被害者の体内で摘出されたものと異なる銃器から発射された確率は1兆分の1より小さい」との[[施条痕]]の鑑定結果が出された弾丸(「ニ個の弾丸」<ref name=":13" />)のみが、[[裁判]]に提出された直接的な物証となった。この弾丸は、T立ち合いのもとで行われた幌見峠での札幌市警による捜索で発見されたものである{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}}<ref name=":6">{{harvnb|後藤|2013|p=173-186}}</ref><ref name=":1">{{Cite book|title=「無罪」を見抜く|date=2013-11-27|publisher=岩波書店|author=木谷明|pages=103-107}}</ref>{{sfn|大石|2014|pp=73-75}}{{sfn|長崎|2003|pp=2-3}}。

直接の下手人をはじめ共謀したとされた党員らは、日本共産党の[[密航]]船群「[[人民艦隊]]」で不法出国し、当時日本と[[国交]]が無かった[[中華人民共和国]]へ逃亡している{{Efn|東京に潜伏していたメンバーは組織の公然化のためかばうことができないと党中央統制委員から告げられ、乗船訓練を受けて1955年10月頃に[[焼津港]]などから[[上海市|上海]]へ向けて出港している{{sfn|今西|2020|pp=234-236}}。}}{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}}<ref>{{国会会議録検索システム|102903933X00219580717|name=第029回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第2号|accessdate=2017-12-01}}</ref><ref>{{harvnb|後藤|2013|p=161-168}}</ref>。


== 白鳥警部 ==
== 白鳥警部 ==
北海道[[芽室町]]に生まれ、[[1937年]]に[[北海道庁]]巡査。戦中は日本陸軍特務機関系のハルピン学院で[[ロシア語]]を学んだ後に[[特別高等警察|特高警察]]の外事係として活動しており、戦後も[[公安警察|公安警察官]]として[[左翼]]活動の監視に加えて[[在日韓国・朝鮮人|在日朝鮮人]]の[[密輸|密貿易]]や[[風俗営業]]の取り締まりを行っていた。1948年3月に札幌市警の[[警備課|警備課長]]に就任した白鳥は警察内部においても秘密主義を徹底しており、上司も白鳥が日本共産党の秘密組織についてどこまで掴んでいたか報告されておらず、皮肉にもそのことが事件後の捜査を困難なものにした<ref name=":9" /><ref name=":4" />。
事件の被害者となった白鳥一雄は、北海道[[芽室町]]に生まれ、帯広中学(現・[[北海道帯広柏葉高等学校]])を卒業後、[[1937年]](昭和12年)に[[北海道庁]]巡査った[[太平洋争]]中は[[大日本帝国陸軍]][[特務機関]]系の[[ハルピン学院 (旧制専門学校)|ハルピン学院]]で[[ロシア語]]を学んだ後に[[特別高等警察|特高警察]]の外事係として活動しており、戦後も[[公安警察|公安警察官]]として[[左翼]]活動の監視に加えて[[在日韓国・朝鮮人|在日朝鮮人]]の[[密輸|密貿易]]や[[風俗営業]]の取り締まりを行っていた。[[1948年]](昭和23年)3月に札幌市警の[[警備課|警備課長]]に就任した白鳥は警察内部においても秘密主義を徹底し、上司も白鳥が日本共産党の秘密組織についてどこまで掴んでいたか報告を受けておらず、皮肉にもそのことが[[自治体警察 (旧警察法)|自治体警察]]である札幌市警による事件後の捜査を困難なものにした<ref name=":9" />{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}<ref name=":4" /><ref name=":12" />{{sfn|追平|1959|pp=29-30}}

生前の白鳥とも直接の面識があった安倍検事が語ったところによれば、普段の白鳥は物静かで礼儀正しいが、その[[共産主義]]を憎悪する精神は、[[シベリア抑留]]での経験によるものか、熾烈なものであったという<ref name=":12">{{harvnb|渡部|2012|pp=60-61}}</ref>。


家庭内では仕事の話をすることもなく良父を通しており、事件当日も3歳と5歳の娘に「きょうは[[給与|給料日]]だし、お土産を買って早く帰るよ」と出かけて行った<ref name=":3" />。事件後の司法解剖では、白鳥の胃袋に直前に飲食したものはなく、上衣のポケットには月給袋が手つかずのまま納められていた<ref>[[利用者:4th protocol/sandbox#後藤篤志|後藤篤志(2013年)]]17頁</ref>。享年36<ref name=":8">{{Cite news|title=「白鳥事件」更新続く最古の逮捕状 札幌で60年前に警官射殺|date=2012-11-24|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG24003_U2A121C1CC1000/|accessdate=2018-09-01|publication-date=|language=ja-JP|work=日本経済新聞 電子版}}</ref>。
家庭内では仕事の話をすることもなく良を通しており、事件当日も3歳と5歳の娘に「きょうは[[給与|給料日]]だし、お土産を買って早く帰るよ」と出かけて行った。事件後の司法解剖では、白鳥の胃袋に直前に飲食したものはなく、上衣のポケットには月給袋が手つかずのまま納められていた。死亡時の齢は36であった<ref name=":8">{{Cite news|title=「白鳥事件」更新続く最古の逮捕状 札幌で60年前に警官射殺|date=2012-11-24|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG24003_U2A121C1CC1000/|accessdate=2018-09-01|publication-date=|language=ja-JP|work=日本経済新聞 電子版}}</ref>。


== 当時の札幌の情勢 ==
== 当時の札幌の情勢 ==
当時札幌では、[[日本の警察|日本警察]]の[[国家地方警察|家地方本部]]・[[自治体警察 (旧警察法)|自治体警察]]である札幌市警察本部、[[アメリカ陸軍防諜部隊]](CIC)、そして裏社会の間で、互いに反目したり協力しながら公安情報収集るある種の「シンジケート」が形成されていた。白鳥はCICがアジトにしていた[[すすきの]]のとある[[バー (酒場)|バー]]に頻繁に通っており、そこにはギャングや[[右翼]]も出入りしていたという<ref name=":4" />。
[[朝鮮戦争]]が継続中の当時、[[ソビエト連邦]]と接する北海道では、後方補給基地の安定確保のためのアメリカ軍情報部による特殊活動が活発に展開されていた{{sfn|渡部|2012|pp=21-22}}。その中心である札幌では、[[日本の警察|日本警察]]の[[国家地方警察]](国警本部札幌市警察本部、[[アメリカ陸軍防諜部隊]](CIC)、そして裏社会の間で、互いに反目したり協力したりしながら公安情報収集が行われるある種の「シンジケート」が形成されていた。白鳥はCICがアジトにしていた[[すすきの]]のとある[[バー (酒場)|バー]]に頻繁に通っており、そこにはギャングや[[右翼]]も出入りしていたという<ref name=":4" />。

[[松本清張]]は『[[日本の黒い霧]]』で本事件を取り上げてCICによる謀略説を唱えているが{{efn|一方、[[松川事件]]においては活発に冤罪を主張した、[[広津和郎]]らは静観している{{sfn|渡部|2012|pp=21-22}}。}}{{efn|渡部は松本の冤罪説について「主観的で勝手な推測、ねじ曲げが随所に登場する」としている{{sfn|渡部|2012|pp=38-39}}。例えば、『ひろ』は射撃演習には参加していないのだから、(演習の遺留品である弾丸と施条痕が一致するとされた)事件に使われたピストルを所持しているはずがない旨の記述をしておきながら、4ページ後には「何回も拳銃の射撃練習に行っている」と記述している。松本は『ひろ』を"シロウト"として扱ったが実際には元軍人であり、軍装品として用いられていたブローニング拳銃の心得があったとしても不自然ではない{{sfn|渡部|2012|pp=80-91}}。松本が「暴露」したのは実のところ自らが批判する追平の『白鳥事件』の丸写しであったが{{sfn|渡部|2012|p=191}}、追平と『ひろ』の会話を書き換えて「Tは大丈夫か」とあたかもTの裏切りを心配していたかのような文脈に仕立て上げていることも確認されており、渡部は「松本清張が白対協(日本共産党が組織した白鳥事件対策協議会のこと)の提出する材料を無批判に書いたというものではない極めて意識的な虚構だ。当時、Tは白対協や弁護団から、S、追平雍嘉と並ぶ裏切り者として糾弾されていたからだ。これは単なるミスでは済まされない」と松本がTにありもしない罪をなすりつけたとして批判している{{sfn|渡部|2012|pp=228-229}}。}}、事件を取材していた北海日日新聞(後の[[北海タイムス]])の編集部長は「白鳥警部は左翼関係の情報収集力にかけてはピカ一だった。CICとしては彼を消せば元も子もなくなってしまう。CICが重宝している子飼いの白鳥をやっつけるはずがない」と語っている<ref name=":10" />。


== 裁判 ==
== 裁判 ==
{{最高裁判例|事件名= 爆発物取締罰則違反等|事件番号=昭和35(あ)1378|裁判年月日=1963(昭和38年)10月17日|判例集=刑集 第17巻10号1795頁|裁判要旨=#証拠によつて認定した事実は、他の事実の証拠となり得る。
検察側は村上国治を[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]の[[共謀共同正犯]]で、[[共犯]]2人を殺人罪の[[幇助]]犯として[[起訴]]し、「村上らは武装蜂起の訓練のため幌見峠で射撃訓練をした。そして、彼らの活動の邪魔になる白鳥警部を射殺した」と主張している。
#伝聞供述となるかどうかは、要証事実と当該供述者の知覚との関係により決せられるものと解すべきであつて、甲が一定内容の発現をしたこと自体を要証事実とする場合には、その発現を直接知覚した乙の供述は、伝聞供述にあたらないが、甲の発言内容に符合する事実を要証事実とする場合には、その発言を直接知覚したのみで、要証事実自体を直接知覚していない乙の供述は伝聞供述にあたる。
#刑訴法第三二四条第二項第三二一条第一項第三号所定の要件を具備した伝聞供述の原供述者が特定の甲または乙のいずれであるか不明確であつても、それだけの理由でその伝聞供述が証拠能力を有しないものとはいえない。|法廷名=第一小法廷|裁判長=[[入江俊郎]]|陪席裁判官=[[下飯坂潤夫]]、[[齋藤朔郎]]|多数意見=全員一致|意見=なし|反対意見=なし|参照法条=刑訴法317条,刑訴法318条,刑訴法320条1項,刑訴法321条1項2号,刑訴法321条1項3号,刑訴法324条2項|url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=56987}}


=== 村上の懲役確定まで ===
第1審[[札幌地方裁判所|札幌地裁]]は共同謀議を認定し、村上を[[無期懲役]]、共犯1人を[[懲役]]5年・[[執行猶予]]5年と[[判決 (日本法)|判決]]している。途中から[[公判]]分離されて共同謀議を自供した共犯Tは、[[1957年]](昭和32年)5月に懲役3年・執行猶予3年と判決されて確定している。控訴審[[札幌高等裁判所|札幌高裁]]は[[1960年]](昭和35年)6月の判決で村上を懲役20年に減刑し、共犯1人は[[控訴]]を[[棄却]]している。[[1963年]](昭和38年)10月17日、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]が[[上告]]を棄却して判決が確定した<ref name=":0" />。
1955年8月16日、検察側は村上国治を[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]の[[共謀共同正犯]]で、[[共犯]]2人を殺人罪の[[幇助]]犯として[[起訴]]し、「村上らは武装蜂起の訓練のため幌見峠で射撃訓練をした。そして、彼らの活動の邪魔になる白鳥警部を射殺した」と主張している。


第1審[[札幌地方裁判所|札幌地裁]]は共同謀議を認定し、村上を[[無期懲役]]、共犯1人を[[懲役]]5年・[[執行猶予]]5年と[[判決 (日本法)|判決]]している。途中から[[公判]]分離されて共同謀議を自供した共犯Tは、[[1957年]](昭和32年)5月に懲役3年・執行猶予3年と判決されて確定している。控訴審[[札幌高等裁判所]]は[[1960年]](昭和35年)6月の判決で村上を懲役20年に減刑し、共犯1人は[[控訴]]を[[棄却]]している。[[1963年]](昭和38年)10月17日、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]は二審判決を支持し[[上告]]を棄却し、村上の懲役20年の実刑判決が確定した<ref name=":0" /><ref name=":26">{{Cite web|和書|title=昭和35(あ)1378|url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=56987|website=裁判所ウェブサイト|accessdate=2021-08-14}}</ref>。
唯一の物証であるピストル銃弾は2年前に発射された銃弾としてはほとんど腐食が無く<ref name=":1" />、更に「[[施条痕]]が白鳥警部の遺体から発見された銃弾と一致したとする鑑定結果は[[アメリカ軍]]による鑑定」との証言が上告棄却後に得られ、捏造の可能性が疑われた<ref name=":6" /><ref>{{Cite web|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/058/0080/05805240080033a.html|title=第058回国会 法務委員会 第33号|accessdate=2017-12-01|date=1968-05-24|publisher=国会会議録検索システム}}</ref>。


物的証拠として提示された弾丸について、弁護側は、中国での実験結果などをもとに、発射から発見まで2年が経過しているにもかかわらず[[応力腐食割れ]]が生じていないことを指摘した{{sfn|長崎|2003|pp=(15)-(138)}}。さらに検察が裁判で提出した「ニ個の弾丸」の鑑定書は、アメリカ軍極東犯罪捜査研究所のG[[曹長]]が実質鑑定したものであった{{efn|当時日本には銃鑑定の専門家がいなかった{{sfn|長崎|2003|p=37}}。}}旨の証言が上告棄却後に得られ、捏造の可能性が疑われた<ref name=":6" /><ref name=":1" />{{sfn|長崎|2003|pp=61-68}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=105805206X03319680524|title=第058回国会 法務委員会 第33号|accessdate=2017-12-01|date=1968-05-24|publisher=国会会議録検索システム}}</ref><ref>{{国会会議録検索システム|106005206X00119681217|name=第60回国会衆議院法務委員会第1号昭和43年12月17日|accessdate=2022-06-24}}</ref>{{sfn|長崎|2003|pp=70-71}}。
日本共産党は冤罪キャンペーンを張り、110万人に及ぶ最高裁再審要請署名を集めた。村上は無罪を主張して1965年(昭和40年)に[[再審]]請求を行い、最高裁判所への[[特別抗告]]まで争った。しかし、獄中の村上が[[弁護士]]を経由して証拠隠滅の為に実行犯グループを国外へ逃がすよう指示した書面が警察当局に押さえられており、それが裁判資料として提出されたことなどから、最高裁は当時の証拠資料の不当性を認めつつも1975年(昭和50年)に棄却した<ref name=":2" /><ref>{{Cite web|url=http://chikyuza.net/archives/21084|title=「白鳥事件は冤罪ではなかった!」新資料・新証言による60年目の真実②|accessdate=2017-12-01|author=渡部富哉|date=2012-03-22|publisher=ちきゅう座}}</ref>。


この弾丸が「発見」された捜索では、訓練中の実験で使用された不発の手製[[手榴弾]]がTの証言通りに発見されており、Tの証言を補強する間接的物証とされたが、これについては弁護側からも否定されていない{{sfn|今西|河野|大石|2013|p=24}}{{sfn|今西|河野|大石|2013|p=76}}。
なお村上は、1969年11月14日に再審申し立て中としては異例の仮釈放を受けている<ref name=":1" />。

=== 再審請求 ===
日本共産党{{Efn|日本共産党は1955年1月1日に『赤旗』社説で極左冒険主義を自己批判し、公然化を宣言した{{sfn|今西|2020|pp=234-236}}。}}は冤罪キャンペーンを張り、110万人に及ぶ最高裁再審要請署名を集めた。党の支援を受けた村上国治は、無罪を主張して1965年(昭和40年)に[[再審]]請求を行い、最高裁判所への[[特別抗告]]まで争った<ref name=":2" />。

しかし、1953年6月23日に獄中の村上国治が[[弁護士]]を経由して「'''''とくにモグらせた人間'''''{{Efn|当時札委関係。}}'''''は絶対に活動させぬ様出来れば外国えやつて貰ひたいことを支店へ伝えて貰ひたい'''<ref name=":19" />''」と証拠隠滅の為に実行犯グループを国外へ逃がすよう指示{{Efn|この指示が上述の人民艦隊による関係者の不法出国に関わっているとされる{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}。}}した書面が国警に押さえられており{{sfn|今西|2020|pp=234-236}}<ref>{{harvnb|渡部|2012|p=255-264}}</ref>、それが裁判資料として提出されたことなどから、札幌高裁は1969年(昭和44年)6月18日に「弾丸の証拠価値は、(中略)たんに『原判決当時に比べいささか薄らいだ』というに止まらず、大幅に減退したと言わざるを得ない」と認めつつも、「各事件に、申立人(村上)が関与している事実は証拠上明白」であるにもかかわらず「明白な事実をことさらに否定しようとする申立人の供述には、その信ぴょう性に疑問をいだかざるをえない」などとして、村上の申立を棄却した<ref name=":13" /><ref>{{Cite book|和書|title=最高裁判所刑事判例集|year=1975|publisher=判例調査会|editor=最高裁判所|volume=29|issue=5|pages=321-347}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://chikyuza.net/archives/21084 |title=「白鳥事件は冤罪ではなかった!」新資料・新証言による60年目の真実② |accessdate=2017-12-01 |author=渡部富哉 |date=2012-03-22 |publisher=ちきゅう座}}</ref>{{sfn|長崎|2003|pp=3-5}}。

最高裁も、1975年(昭和50年)5月20日に札幌高裁の決定を支持して村上の特別抗告を全員一致で棄却した<ref name=":2" /><ref name=":19" />{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}}{{sfn|大石|2014|pp=73-75}}<ref name=":1" />{{sfn|長崎|2003|pp=3-5}}。

村上は[[1969年]](昭和44年)[[11月14日]]に半分近い刑期を残して[[仮釈放]]を受けている{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}。

{{Clear}}


== 白鳥決定 ==
== 白鳥決定 ==
{{最高裁判例
最高裁判所は再審請求を棄却したが、「再審制度においても『疑わしきは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則が適用される」と判断し、後年「'''白鳥決定'''」と通称されている。従前の再審裁判では証拠を完全に覆すに足る証言や証拠を求めることが多かったが、裁判時の証拠や証言に対して「ある程度の合理的疑いが存在する場合」も再審の対象とし得ると扱われるようになり、[[弘前大学教授夫人殺人事件]]・[[米谷事件]]・[[滝事件]]<ref>{{Cite web|url=http://setuen-project.com/detail.php?NAME=&SKEN=0&STATUS=0&SY=&SY2=&KIJI=20100922131009&PAGE=0|title=冤罪事件データベース|accessdate=2017-12-01|publisher=冤罪プロジェクト}}</ref>・[[財田川事件]]・[[免田事件]]など複数の事件での冤罪認定への道を開いた<ref name=":1" />。
|事件名 = 再審請求棄却決定に対する異議申立棄却決定に対する特別抗告事件
|事件番号 = 昭和46年(し)第67号
|裁判年月日 = 1975年(昭和50年)5月20日
|判例集 = 刑集29巻5号177頁
|裁判要旨 = #刑訴法四三五条六号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」とは、確定判決における事実認定につき合理的な疑いをいだかせ、その認定を覆すに足りる盡然性のある証拠をいう。
#刑訴法四三五条六号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」であるかどうかは、もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとすれば、はたしてその確定判決においてされたような事実認定に到達したであろうかという観点から、当の証拠と他の全証拠とを総合的に評価して判断すべきである。
#刑訴法四三五条六号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」であるかどうかの判断に際しても、'''再審開始のためには確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りるという意味において、「疑わしいときは被告人の利益に」という刑事裁判における鉄則が適用される'''。
|法廷名 = 第一小法廷
|裁判長 = [[岸上康夫]]
|陪席裁判官 = [[藤林益三]]・[[下田武三]]・[[岸盛一]]・[[団藤重光]]
|多数意見 = 全員一致
|意見 = なし
|反対意見 = なし
|参照法条 = 刑訴法435条6号
|url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=51033}}
上述の通り最高裁判所は再審請求を棄却したが、「再審制度においても『疑わしきは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則が適用される」との判断を示し{{Efn|主文の続きでは、「この見地に立つて本件をみると、原決定の説示中には措辞妥当を欠く部分もあるが、その真意が申立人に無罪の立証責任を負担させる趣旨のものでないことは、その説示全体に照らし明らかであつて、申立人提出の所論証拠弾丸に関する証拠が前述の明らかな証拠にあたらないものとした原決定の判断は、その結論において正当として首肯することができる」とされ、「所論は、事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、刑訴法四三三条所定の適法な抗告理由にあたらない」「要するに、所論の証拠弾丸に関する新証拠は、原判決の認定について合理的な疑いをいだかせるに足りないというべく、右新証拠が刑訴法四三五条六号所定の証拠の明白性の要件を具備しないとした原決定の判断は、その結論において正当として是認することができる」と結論づけられている<ref name=":19" />。}}、事件にちなんで「'''白鳥決定'''」と通称されるようになる<ref>{{Cite Kotobank |word=白鳥決定 |encyclopedia=デジタル大辞泉 |accessdate=2022-03-15}}</ref>。従前の再審裁判では証拠を完全に覆すに足る証言や証拠を求められることが通例であり、その厳しさは「開かずの扉」と呼ばれるほどであったが、この白鳥決定以後は裁判時の証拠や証言に対して「ある程度の合理的疑いが存在する場合」も再審の対象として扱われるようになった{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}}<ref>{{Cite web|和書|title=白鳥事件/白鳥決定|url=https://imidas.jp/genre/detail/F-105-0086.html|website=情報・知識&オピニオン imidas|publisher=[[集英社]]|accessdate=2020-08-25|author=[[伊藤真 (弁護士)|伊藤真]]}}</ref><ref name=":16">{{Cite Kotobank |word=再審 |encyclopedia=日本大百科全書 |accessdate=2022-06-24}}</ref>。

白鳥決定は、下級審の再審に関する姿勢も変えさせた極めて重要な判示となった{{efn|この白鳥決定については、[[傍論]]ないし傍論的なものと見做す見解がある一方で、一般的法命題も[[判例]]に含める前提に立つのであれば白鳥決定はこれに該当するとした意見もある<ref>{{Cite journal|和書|author=金築誠志|author-link=金築誠志|date=2016-03-31|title=判例について|url=http://id.nii.ac.jp/1648/00008078/|journal=中央ロー・ジャーナル|volume=12|issue=4|page=36|issn=1349-6239}}</ref>。}}。これに続く形で、1980年代には[[死刑]]の確定判決が出されていた[[免田事件]]・[[財田川事件]]・[[松山事件]]・[[島田事件]]・[[徳島ラジオ商殺し事件]](死後再審)において無罪判決が相次いで出され、司法界に大きな衝撃を与えた{{sfn|田中|佐藤|野村|1980|pp=83-110}}<ref name=":16" />。


== 後年の推移 ==
== 後年の推移 ==
=== 亡命者 ===
*[[1955年]](昭和30年)頃、実行犯として[[指名手配]]された3人は中華人民共和国へ不法出国により[[亡命]]した<ref name="20120329-OYT1T01212">{{Cite news|title=白鳥事件・最後の実行メンバー死亡…北京で|newspaper=YOMIURI ONLINE|date=2012-03-29|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120329-OYT1T01212.htm|accessdate=2012-03-30|publisher=読売新聞社|archiveurl=http://web.archive.org/web/20120330223817/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120329-OYT1T01212.htm|archivedate=2012年3月30日}}</ref>。[[1988年]](昭和63年)に2人が病死して鶴田倫也だけが生き残る。鶴田は[[北京外国語大学]]で「唐沢明」という名義で日本語教師をしており、定年後は構内の教職員宿舎に居住していた。[[1997年]](平成9年)6月、鶴田は[[北京市]]内で[[時事通信]]の取材に応ずるも事件の真相は語らなかった。このとき、一向に事件について語ろうとせず「ここ(中国)にいられないようにしてやる」とすごむ鶴田に対し時事通信の記者が「わかりました。この件については自分の判断でやります」というと、鶴田は「俺は昔から新聞記者は嫌いだったんだ!」と捨て台詞を吐いた。鶴田は心臓疾患を患い[[2012年]](平成24年)1月頃から体調を崩して3月中旬に北京で死亡している<ref name=":1" /><ref name=":7">[[利用者:4th protocol/sandbox#後藤篤志|後藤篤志(2013年)]]263-274頁。</ref><ref name="jiji2012032900320">{{Cite news|title=白鳥事件の鶴田容疑者が死亡=逃亡先の北京で-警部射殺から60年、真相語らず|newspaper=時事ドットコム|date=2012-03-29|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=soc&rel=j7&k=2012032900320|accessdate=2012-03-30|publisher=[[時事通信社]]}}{{リンク切れ|date=2013-04-18}}</ref>。
* 事件に関与して中華人民共和国(中国)に逃亡した党員たちの多くは、[[文化大革命]]を経て[[日中国交正常化]]後に帰国したが、不起訴にされている。一方、日本共産党は『[[しんぶん赤旗|赤旗]]』でこの者たちを「反党盲従分子」と攻撃し、村上と接触させなかった{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}<ref>{{Cite journal|和書|date=1975-12-28|title=いずれも反党盲従分子 {{small|中国から帰国の5人}}|journal=赤旗|page=15}}</ref>。
*白鳥の妻は鶴田生存の報を聞くと「生きてらっしゃるのですか」と驚いたが、「いまさら憎んでもしょうがないでしょう。亡くなった人間が帰ってくるわけでもないし。月日もたって思い出したくありません。そっとしておいてください」と答えた<ref name=":7" />。
* [[1955年]](昭和30年)頃、実行犯として[[指名手配]]された3人は中国へ不法出国により[[亡命]]した<ref name="20120329-OYT1T01212">{{Cite news|title=白鳥事件・最後の実行メンバー死亡…北京で|newspaper=YOMIURI ONLINE|date=2012-03-29|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120329-OYT1T01212.htm|accessdate=2012-03-30|publisher=読売新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120330223817/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120329-OYT1T01212.htm|archivedate=2012年3月30日}}</ref>。彼らは[[北京機関]]解体後に[[四川省]]に追いやられ{{Efn|これらの白鳥事件に関与して四川省に滞在していた者たちは「四川組」と呼ばれ、中国名を名乗っていた<ref name=":21">{{Cite journal|和書 |author=国谷哲資 |title=北京追憶 : 若者が体験した戦後日中関係秘史 |journal=アジア社会文化研究 |ISSN=1346-1567 |publisher=アジア社会文化研究会 |date=2019-03-31 |issue=20 |pages=43-71 |naid=120006621681 |doi=10.15027/47472 |url=https://doi.org/10.15027/47472}}</ref>。}}<ref name=":20">{{Cite web|和書|url=http://e-kyodo.sakura.ne.jp/tejima/140320kounotamio.pdf|title=「白鳥事件を考える札幌集会」の報告|accessdate=2020-08-27|publisher=インターネット事業団|author=河野民雄}}</ref>、射殺の実行者とされた『ひろ』を含むこのうちの2人が[[1988年]](昭和63年)に[[悪性腫瘍|癌]]で病死し、革命烈士として[[八宝山革命公墓]]に埋葬された{{Efn|2人共[[白酒 (中国酒)|白酒]]を浴びるように飲んでいたという{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}。}}{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}{{sfn|今西|2020|pp=238-243}}。
*[[1994年]](平成6年)11月3日、村上国治は[[埼玉県]][[大宮市]]内で[[失火]]原因不明の自宅火災により71歳で死亡している<ref name=":1" />。
**最後の生き残りとなった'''鶴田倫也'''{{efn|鶴田の事件との関わりは明らかにされていないが<ref name=":23" />、事件当日に白鳥警部を発見するまで『ひろ』と同行し、犯行に使ったブローニング拳銃の隠蔽に関わったとされる{{sfn|今西|2020|pp=232-234}}。暗殺の実行者だったとする主張もある{{sfn|大石|2014|pp=76}}。}}は[[北京外国語大学]]で「唐沢明{{Efn|教科書では中国語で同じ発音({{ピンイン|Tángzémíng}})となる「唐則銘」という名義を用いた。「中国の恩を覚えておく」という意味が込められているという<ref name=":23" />。}}」という通称で日本語教師をしており、鶴田が編纂した教科書は多くの大学で使われた<ref name=":21" /><ref name=":23">{{Cite journal|和書|author=菅原裕和|date=2012-06-05|title=中国に逃亡した鶴田容疑者が日本史の教科書を執筆していた|journal=エコノミスト|volume=90|issue=24|pages=90-93}}</ref><ref name=":7" />。
*[[2002年]]に[[司法博物館]]にあった白鳥事件の裁判資料を有志が整理して公開されたが、博物館が[[松本市]]に移管されるとお蔵入りになった<ref name=":2" />。
**1996年1月9日に関係者の訪問を受けた鶴田は泥酔し「俺らのやったことは[[オウム真理教]]と同じだという奴がいる。俺はな、単なるやくざ者で白鳥をやったのとは違う。あんなごろつきやって何が悪いんだ」「おれはここにいて[[プロレタリアート|プロレタリア]][[国際主義]]の立場から日本革命を考えている」とくだを巻いたという{{sfn|今西|2020|pp=238-243}}。
*[[2011年]](平成23年)3月27日、HBC[[北海道放送]]が事件関係者への[[インタビュー]]などを通じて白鳥事件の真相を追ったラジオドキュメンタリー「インターが聴こえない~白鳥事件60年目の真実~」(HBCラジオ開局60周年記念ドキュメンタリー)を放送し、同年5月に第37回[[放送文化基金]]賞ラジオ部門優秀賞<ref>[http://www.hbc.co.jp/hbc/press.html HBC北海道放送 プレスリリース 2011年]</ref>を、同6月に第48回[[ギャラクシー賞]]ラジオ部門大賞<ref>{{Cite news | url = http://www.47news.jp/CN/201106/CN2011060201000949.html | title = 秋田放送の番組がテレビ部門大賞 第48回ギャラクシー賞 | agency = [[共同通信社]] | publisher = [[47NEWS]] | date = 2011-06-02 | accessdate = 2013-04-18 }}</ref>を受賞している。番組の終盤には、鶴田との接触を持ち、中国共産党とのパイプを持つ人物へのインタビューの録音が流されるが、その人物は関係者が全員死なないと話せないと証言を拒んでいる。
**鶴田は訪中した日本人から身を隠すようにして定年後は大学構内の教職員宿舎に居住していた{{efn|鶴田の現地での暮らしぶりは安定していたが、同居する配偶者が中国当局の監視役であったことが示唆されている{{sfn|大石|2014|pp=82}}。}}。[[1997年]]([[平成]]9年)6月、[[時事通信]]の記者が[[北京市]]内で鶴田との接触に成功したが、鶴田は事件の真相を語らなかった。このとき、一向に事件について語ろうとせず「ここ(中国)にいられないようにしてやる」とすごむ鶴田に対し記者が「わかりました。この件については自分の判断でやります」と言うと、鶴田は「俺は昔から新聞記者は嫌いだったんだ!」と捨て台詞を吐いた。このころ[[渡部富哉]]らによる鶴田帰国支援運動が別途行われていたところであるが、時事通信の取材後に鶴田は消息不明となり、[[国際刑事警察機構|ICPO]]を通じて照会を求めた日本の[[警察庁]]に対して中国側は「鶴田なる人物は中国にはいない」と回答した。鶴田は心臓疾患を患い[[2012年]](平成24年)1月頃から体調を崩し、3月14日に北京で死亡したことが報道されている{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}<ref name=":21" /><ref name=":7">{{harvnb|後藤|2013|p=263-274}}</ref><ref name="jiji2012032900320">{{Cite news|title=白鳥事件の鶴田容疑者が死亡=逃亡先の北京で-警部射殺から60年、真相語らず|newspaper=時事ドットコム|date=2012-03-29|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=soc&rel=j7&k=2012032900320|accessdate=2012-03-30|publisher=[[時事通信社]]}}{{リンク切れ|date=2013-04-18}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|2012|p=288-290}}</ref>。鶴田は「唐沢明として革命公墓に入ると骨を調べられる。[[DNA型鑑定|DNA鑑定]]もできないように海に流せ」と[[遺言]]を残し、遺言どおりに[[天津市|天津]]沖で[[散骨]]されたという{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}{{sfn|今西|2020|pp=238-243}}。
*2012年(平成24年)2月24日、中核自衛隊に属して[[暗殺]]計画に参加したとして[[殺人罪 (日本)|殺人]][[幇助]]などの罪で執行猶予判決を受けた元隊員は「中核自衛隊が計画を進めていたのは事実」と証言して中核自衛隊の犯行であったことを認め、説明責任を果たすため手記を公表予定<ref>{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hokkaido/news/20120224-OYT8T00017.htm |title=「白鳥事件」銃撃、数日前に失敗…地下組織の元隊員60年後の証言 |newspaper=YOMIURI ONLINE |publisher=[[読売新聞社]] |date=2012年2月24日 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20120227075103/http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hokkaido/news/20120224-OYT8T00017.htm |archivedate=2012年2月27日}}</ref>と[[読売新聞]]の取材で述べている。
** 白鳥の妻は上述の時事通信記者から鶴田生存の報を聞くと「生きてらっしゃるのですか」と驚いたが、「いまさら憎んでもしょうがないでしょう。亡くなった人間が帰ってくるわけでもないし。月日もたって思い出したくありません。そっとしておいてください」と答えた<ref name=":7" />。
*海外逃亡をつづけた上述の3人の[[公訴時効#公訴時効の停止|公訴時効は停止]]している。鶴田は2012年、佐藤博はそれ以前に病死したと報じられたが、両名は中国公安当局による死亡確認を得られていないことを理由に[[逮捕#通常逮捕|逮捕状]]が更新され続けており、効力を有する日本の逮捕状としては最古のものとなっている(逮捕状の有効期限は原則7日)<ref name=":8" /><ref>{{Cite news|title=更新続く「最古の逮捕状」 白鳥事件で北海道警|date=2012-11-24|url=https://www.chibanippo.co.jp/newspack/20121124/111330|accessdate=2018-09-01|publication-date=|language=ja}}</ref><ref>{{Cite news|title=更新続く「最古の逮捕状」 白鳥事件で北海道警|date=2012-11-24|url=http://www.47news.jp/CN/201211/CN2012112401000993.html|accessdate=2013-04-18|agency=[[共同通信社]]|publisher=[[47NEWS]]}}</ref>。
* 国外逃亡を続けて中国で客死した、上述の3人の[[公訴時効#公訴時効の停止|公訴時効は停止]]している。[[中華人民共和国公安部|中国公安]]当局による死亡確認を得られていないことを理由に両名の[[逮捕#通常逮捕|逮捕状]]は半年間隔で更新され続けており、効力を有する日本の逮捕状としては最古のものとなっている(逮捕状の有効期限は原則7日)<ref name=":18" /><ref name=":8" /><ref>{{Cite news|title=更新続く「最古の逮捕状」 白鳥事件で北海道警|date=2012-11-24|url=https://www.chibanippo.co.jp/newspack/20121124/111330|accessdate=2018-09-01|publication-date=|language=ja}}</ref><ref>{{Cite news|title=更新続く「最古の逮捕状」 白鳥事件で北海道警|date=2012-11-24|url=https://web.archive.org/web/20131023061210/http://www.47news.jp/CN/201211/CN2012112401000993.html|accessdate=2013-04-18|agency=[[共同通信社]]|publisher=[[47NEWS]]}}</ref>。2022年4月の時点で鶴田容疑者は161回、佐藤博容疑者は180回更新された。

=== 川口の告白 ===
* 1998年(平成10年)、事件当時の北海道地方委員会軍事部門幹部であった川口孝夫{{Efn|川口は妻とともに1956年3月に人民艦隊で中国大陸に渡り{{sfn|今西|2020|pp=236-238}}、滞在中の1967年に起きた[[北京空港事件]]で[[砂間一良]]を庇い、その後監禁・査問を受けた。[[田中角栄]]訪中後の1973年12月に帰国した川口は、鶴田の帰国にも取り組み、帰国後は真相を語ること、弁護士は[[国選弁護人]]にすることなどで1997年4月に鶴田と合意したという。しかし、上述の時事通信のスクープ報道後、鶴田からの連絡は途絶えた{{sfn|今西|2020|pp=244-267}}{{sfn|今西|2020|pp=238-243}}。}}が、軍事活動を知りすぎて党に日本を追放された旨を主張する『流されて蜀の国へ』という回顧録を自費出版した。川口はその際の[[北海道新聞]]のインタビューで、「謀略ではなかったと言ってよい」と松本清張などが提唱した米軍謀略説を否定し、党員の犯行であったことを認めている。川口は「事件に関与していないが、事件後に報告を受けました」として中核自衛隊の元隊員Tの証言が自分が受けた報告と合致することを認め、さらに党の真相調査に対して「事実」を報告していたことも明かされた。なお、村上が裁判闘争を続けたことについては「彼は、私の入党責任者{{efn|川口は1947年に村上の勧誘を受け、日本共産党に入党している{{sfn|今西|2020|p=232}}。}}。『左』の路線の時も、すごい活動家だった。間違いを犯したのは共産党の方針が間違っていたためで。彼個人の責任とは考えません。彼も晩年は気の毒な人でした」とした<ref name=":15">{{harvnb|後藤|2013|p=279}}</ref><ref name=":17">{{Cite news|和書|date=1998-10-29|title=白鳥事件 党員の犯行裏付け 元共産党軍事部門幹部が証言 米軍謀略説を否定 事件直後「報告聞いた」|newspaper=北海道新聞|page=1}}</ref><ref>{{Cite news|和書|date=1998-10-29|title=白鳥事件で証言 川口孝夫さんに聞く 「当時の党 方針間違い」|newspaper=北海道新聞|page=27}}</ref><ref>{{Citation|和書|title=現代史への一証言(上)川口孝夫著『流されて蜀の国へ』を紹介する|last=中野|first=徹三|year=1999|url=https://doi.org/10.11501/1817138|work=労働運動研究|publisher=労働運動研究所|issue=356|pages=34-37|doi=10.11501/1817138}}</ref><ref>{{Citation|和書|title=現代史への一証言(下)川口孝夫著『流されて蜀の国へ』を紹介する|last=中野|first=徹三|year=1999|url=https://doi.org/10.11501/1817139|work=労働運動研究|publisher=労働運動研究所|issue=357|pages=30-33|doi=10.11501/1817139}}</ref>。
** 共産党は同紙の取材に対しては「党が分裂していた当時の一方の側の問題で、党としてコメントする立場ではない<ref name=":17" />」と言及を避けた一方で「歴史の暗部の断層にうごめいて生き血を吸い、腐肉を喰らう男」と川口を激しく誹謗した。事件に関連して中国に逃亡した者からも「軍事方針の直接の実行部隊幹部であったことを自認し、非合法の軍事方針を実践していたことを確認しておりながら、彼は下部組織の犯行であって自分は関与していないと白を切っている」と川口に対し批判の声が上がった。中国への逃亡の後に帰国した人物は、「当時の共産党は組織原則が厳しく、党員は絶対服従することが義務付けられていた」「白鳥事件についても村上国治が上部組織の許可なしに計画実行することなどあり得ない」「川口がこの事件の直接の策謀者だと信じている」と見解を述べている<ref name=":11">{{harvnb|後藤|2013|p=220-222}}</ref>。
**『流されて蜀の国へ』に対しては「事件の真相を曖昧にしている」との批判もあったが、川口は「妻は何の理由もなく異国に送られ、十八年もの長き年月を強制的に中国に滞在させられ、悲しくつらい思いをし、苦しめられた。その原因である『白鳥事件』の真相の公表を、妻は人生の最後まで望んでいた。私は六〇年間の長い年月の苦労の旅をともにしてきた(妻の名前)の最後の願いを実現させる事こそ、私に残された最後の仕事と考えている{{sfn|今西|2020|pp=244-267}}」として事件に関する自らの体験を記した『いまなぜ「白鳥事件」の真相を公表するか』と題した遺稿を2002年に書き上げ、2004年に他界している{{sfn|今西|2020|pp=238-243}}。この中で川口は、中核自衛隊の射撃訓練に参加したことや村上の強い要請で『ひろ』の逃亡に加担したことを明かしている{{efn|川口が的屋グループに属する甥に依頼して『ひろ』を奈井江白山の鉱山飯場へ送り込んだことは、裁判で用いられた参考人調書でも確認される{{sfn|渡部|2012|pp=144-153}}。}}{{sfn|今西|2020|pp=244-267}}。

=== Tによる謝罪 ===
* 2012年(平成24年)2月24日、裁判で用いられた自供を行い、自身も[[暗殺]]計画に参加したとして[[殺人罪 (日本)|殺人]][[幇助]]などの罪で執行猶予判決を受けたTは、「中核自衛隊が計画を進めていたのは事実」と中核自衛隊の犯行であったことを改めて認め、説明責任を果たすため手記を公表予定と[[読売新聞]]の取材で述べていた{{efn|川口らとの共著を五月書房から刊行する動きがあったが、2021年現在出版は確認されていない{{sfn|今西|河野|2012|p=13}}。}}<ref>{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hokkaido/news/20120224-OYT8T00017.htm|title=「白鳥事件」銃撃、数日前に失敗…地下組織の元隊員60年後の証言|newspaper=YOMIURI ONLINE|publisher=[[読売新聞社]]|date=2012年2月24日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120227075103/http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hokkaido/news/20120224-OYT8T00017.htm|archivedate=2012年2月27日}}</ref>。
*Tはその後、「裏切り者とか[[イスカリオテのユダ|ユダ]]と悪罵を投げかけられながらも60年間ジッと耐えて我慢してきたTに一回喋ってもらい、記録に残したい」として有志が同年10月に[[小樽商科大学]]のサテライト教室で開催した、『白鳥事件を考える集い』に参加し<ref name=":20" />、「若く幼稚な正義感から白鳥警部殺害に関与してしまった。当時は白鳥氏には妻子がいることに思いが及ばず、白鳥警部のご家族に多大のご迷惑をかけたことを、今となっては遅きに失するが心よりお詫びしたい。また、この事件で多くの札幌市民を不安に陥れたことを深く反省している{{sfn|今西|河野|大石|2013|p=21}}」と謝罪の言葉を述べ、「共産党は55年の[[日本共産党第6回全国協議会|6全協]]で[[極左冒険主義]]を清算したといいます。だが、その具体的内容には触れておらず、白鳥事件のことなど一切出てきません。それどころか、事件は一部の分派の飛び跳ねた部分がやったということで、ぼくらや仲間のやったことを切り捨て、現在の党には関係ないといいます。果たしてこんなことで、一般の国民を納得させられるでしょうか{{sfn|今西|河野|大石|2013|p=24}}」と疑問を投げかけた<ref name=":20" />。またTは、出所後の村上と面会し、互いに事件のことには触れずに2時間ほど回顧談をしたことを明かしている{{sfn|渡部|2012|pp=15-16}}{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=25-26}}。

=== その他 ===
* [[2002年]](平成14年)に[[長野県]][[松本市]]の[[松本市歴史の里|旧司法博物館]]にあった白鳥事件の裁判資料を有志が整理して公開されたが、博物館が同市に移管されてからは、多くの[[個人情報]]が含まれることなどから[[公文書等の管理に関する法律|公文書管理法]]第16条第2項の「不開示情報」として閲覧禁止となっている<ref name=":2" />。市立博物館側は「デリケートな情報が多く自治体として公開に至る判断はできなかった」としていたが、2021年12月8日の[[松本市議会]]で同市教育部長が研究機関への寄贈を打診していることを明らかにした<ref>{{Cite journal|和書|date=2021-12-09|title=白鳥事件裁判資料譲渡へ|journal=[[市民タイムス]]|page=1}}</ref>。
* [[2011年]](平成23年)3月27日、HBC[[北海道放送]]が事件関係者への[[インタビュー]]などを通じて白鳥事件の真相を追ったラジオドキュメンタリー『インターが聴こえない~白鳥事件60年目の真実~』(HBCラジオ開局60周年記念ドキュメンタリー)を放送し、同年5月に第37回[[放送文化基金]]賞ラジオ部門優秀賞<ref>[http://www.hbc.co.jp/hbc/press.html HBC北海道放送 プレスリリース 2011年]</ref>を、同6月に第48回[[ギャラクシー賞]]ラジオ部門大賞<ref>{{Cite news | url = https://web.archive.org/web/20130927001822/http://www.47news.jp/CN/201106/CN2011060201000949.html | title = 秋田放送の番組がテレビ部門大賞 第48回ギャラクシー賞 | agency = [[共同通信社]] | publisher = [[47NEWS]] | date = 2011-06-02 |accessdate= 2013-04-18}}</ref>を受賞している。番組の終盤には、鶴田との接触を持ち、[[中国共産党]]とのパイプを持つ人物へのインタビューの録音が流されるが、その人物は関係者が全員死なないと話せないと証言を拒んでいる。


== エピソード ==
== エピソード ==
北海道大学教授の[[布施鉄治]]は[[イールズ声明|イールズ闘争]]世代であり反骨の学者と知られていたが、「白鳥運動」に取り組もうとしていた者に対して、「白鳥にかかわったとされる多くの党員学友が行方不明になっている。自分の親友もいた。おそらくは中国へ脱出したのだ。冤罪と思っている人は北大にはいない。白鳥事件を[[三鷹事件]]や[[松川事件]]と同列に論ずるわけにはいかない。これが現地北海道の常識だから深入りしないように」と釘を刺していた。松川・[[青梅事件|青梅]]・芦別事件などでは無罪判決が出され、そのほとんどが冤罪事件とされる戦後の公安事件の中にあって、白鳥事件は「検察最後の砦」であた<ref>[[白鳥事件#後藤篤|後藤篤志(2013年)]]279頁。</ref>
* 北海道大学教授の[[布施鉄治]]は[[イールズ声明|イールズ闘争]]世代であり反骨の学者と知られていたが、「白鳥運動」に取り組もうとしていた者に対して、「白鳥にかかわったとされる多くの党員学友が行方不明になっている。自分の親友もいた。おそらくは中国へ脱出したのだ。冤罪と思っている人は北大にはいない。白鳥事件を[[三鷹事件]]や[[松川事件]]と同列に論ずるわけにはいかない。これが現地北海道の常識だから深入りしないように」と釘を刺していた。松川・[[青梅事件|青梅]]・[[芦別事件]]などでは無罪判決が出され、そのほとんどが冤罪事件とされる戦後の公安事件の中にあって、白鳥事件は「検察最後の砦」であり、近年に至るまで北海道での[[タブー]]とされていた<ref name=":15" />{{sfn|今西|河野|大石|2013|pp=6-16}}。共産党議員であった[[志賀義雄]]も、『ドキュメント志賀義雄』を編纂していた横堀洋一に事件の真相について意見を求められ、次のように述べて口を閉ざしている{{sfn|渡部|2012|p=258}}
{{Quotation|もちろん、国会で追求するつもりだった。ところが、種々調べてみると下手な発言ができないことが次第にわかってきた。そこで、手づるを求めて当時、自民党の大物議員だった[[賀屋興宣]]に面会して、意見を聞いてみた。すると賀屋興宣は「志賀君、君のために忠告しておくが、それだけはやめておいたほうがいい。村上国治は獄中から弁護士の面会の際に、関係者を国外に逃がせ、というレポを渡し、それが当局の手に渡っているんだよ」と言うんだ。}}
* 自由法曹団の団長を務め上告審から本事件に関与した[[上田誠吉]]は、1977年のインタビュー<ref>{{Cite journal|和書|year=1977|title=上田誠吉氏に聞く--白鳥事件のことなど(法曹あの頃-26-)|journal=法学セミナー|issue=273|pages=84-88|publisher=日本評論社}}</ref>で、戦後の公安事件の多くで無罪判決が出された中において白鳥事件は有罪となっている点について問われ、「当時、ある種の極左冒険主義があったことは間違いないんで、これが巧みに(治安当局に)利用されているんです。一部の人たちが武器を作り、集めていたということはあるようで、(中略)あの状況の中で白鳥警部が射殺される、共産党の周囲の近しい人、あるいは内部の人自体が、〝ははあ、これはうちの関係者がやったのではないか〟と疑うこと、これがこわいですね」と答えた。また『ひろ』ら中国への逃亡組について触れられると、「何人か帰国した人たちがいるようですが、この人たちも強く無罪を主張しているようですね。くわしいことはわかりませんが」と述べた<ref>{{Cite book|和書|title=法曹あの頃(上)|year=1978|publisher=日本評論社|pages=75-76|author=野村二郎|series=日評選書}}</ref>。
*札幌地検の次席検事として村上国治の取り調べをした高木一([[帝銀事件]]で[[平沢貞通]]の取り調べを行った検事)は、[[ヤメ検]]になったあとの1980年に行われたインタビューで<ref>{{Cite journal|和書|year=1980|title=高木一氏に聞く-下-白鳥事件(法曹あの頃-51-)|journal=法学セミナー|volume=24|issue=2|pages=32-35|publisher=日本評論社}}</ref>、「私は、個人的には、村上は正直ないい男だと思いますよ」「結局、村上は党の方針にあおられていたのだと思います。しかし、党内では、農民的一揆主義の突出行為だという批判を受けています。それはそうだと思いますが、あおった党の軍事方針に非常に大きな危険をはらんでいたと思いますね」と述べ、後年、別の公安事件(芦別事件)の法廷で白髪頭になった村上に傍聴席からヤジを飛ばされ、なつかしい気持ちで「おお」と声をかけると「おおでないよ」と言われたエピソードを紹介している。帝銀事件にくらべ「白鳥事件はその百倍も苦労しました。相手もそうだし、味方もコントロールしなければなりません。臆病になってもいけないし、逃げ回ってもいけない。まして行きすぎても行けない。戦争だからやっつけましょう、という意見もあるんです。そうしたのを押さえながら捜査を進めるんですからたいへんでした」と当時の苦労を明かした。なお、高木は帰国した中国逃亡組が起訴猶予になったのは「大いに賛成」と述べている<ref>{{Cite book|和書|title=法曹あの頃(下)|year=1981|publisher=日本評論社|pages=187-190|author=野村二郎|series=日評選書}}</ref>。

== 年譜 ==
* 1951年
** 4月 - 村上国治(当時:留萌委員長)が『平和のこえ』紙頒布のかど([[占領目的阻害行為処罰令]]違反)で逮捕される{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**7月 - 村上が[[旭川刑務所]]から釈放{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**10月 - 広島県オルグであった追平雍嘉が札幌委員会常任に就任{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**10月16・17日 - 日本共産党第5回全国協議会(五全協)が開催され、[[51年綱領]]・武装軍事方針を採択。川口孝夫が道委員会軍事部に転出{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**10月20日 - 村上が留萌地区委員長から札幌委員長に就任{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
** 10月下旬 - 追平がビューロー員となる{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**10月23日 - 日共北海道地方委員会が下部組織に対し"帝国主義者の走狗"に対する攻撃集中を指示。白鳥警部については「特高あがりで、共産党に対して最も悪辣である」と付記され、「北海道に於いては悪辣な村巡査に至るまで村八分を実施し、主婦や子供を徹底的に仲間外れにするまでビラ、[[伝単]]で攻撃をくわえられたい」と指示{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**11月中旬
***村上がSに「[[琴似]]方面でブローニングが手に入るのだが4千円ほど欲しい」と連絡{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
***Sがベルナルデリ小型拳銃の持ち主の情報を村上に伝え、村上が「その話はおれの方で預かろうではないか」と答える{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
***村上がSにブローニングが入手できたと伝える{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**11月末 - 日本電気産業労働者組合(電産)社宅にある党員U宅で新綱領・軍事方針についての講習会を実施。この席で村上が「白鳥はもう殺してもいい奴だな」と発言<ref name=":26" />{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**12月10日 - 幌見峠で拳銃射撃訓練{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**12月23・24日 - 村上がSに対し、「全党に模範を示すんだろう。警察官の1人や2人殺ったって浮かないさ」「どうだ、白鳥を堂々と襲撃しようかい」「日本共産党を名乗って白鳥課長の家を襲ってやっつけるんだ」などと発言。これに対しSは「やるなら暗殺を狙うべきだ」と意見を述べる<ref name=":26" />{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**12月27日 - 餅代よこせ事件。札幌市自由労働組合(自労)20数人が市役所内で座り込みを行う。要請を受けた白鳥警部らが出動し、有力党員11人を検挙。同日、[[東京都]][[練馬区]]で[[練馬事件]]が発生。村上が追平に「東京に先にやられた」と語る{{sfn|今西|河野|2012|p=10}}{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**12月29日 - 白鳥射殺の実行を決定{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**12月30日 - 白鳥警部宅に脅迫ビラ十数枚が貼られる{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
*1952年
**1月3日 - S宅で開かれた新年宴会を兼ねた新綱領の学習会の席上で、『ひろ』が「白鳥課長らは労働者を弾圧しているひどい人間だから、ああいう人間を生かしておく必要はない」などと発言{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**1月4日 - 村上が中核自衛隊員に対し白鳥殺害は拳銃をもってやることを告げる{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**1月5~6日 - 手榴弾の実験を兼ねた幌見峠射撃訓練{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**1月10日 - 川口が『ひろ』に「白鳥を殺ったら浮くか浮かないか」と問われる。これを受けて川口は北海道地方委員会議長に宛てて計画中止を求める緊急レポを出すが、回答はなかった{{sfn|今西|2020|pp=232-234}}{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**1月中旬 - Tが『ひろ』の部屋でブローニング拳銃を見る{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**1月15日 - 白鳥警部と路上で遭遇した『ひろ』が射殺を試みるが、弾が出ずに失敗{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。Tらが拳銃の[[オーバーホール]]を行う{{sfn|今西|2020|pp=232-234}}。
**1月21日 - 19時40分頃、'''白鳥警部射殺{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}'''。現場で薬莢1個が押収される{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。
**1月22日 - 北大にて司法解剖。体内から弾丸1発(206号弾丸<ref name=":13" />)が摘出される{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。
**1月23日 - 北大正門前・札幌鉄道局[[北海道旅客鉄道苗穂工場|苗穂工場]]や大通東2丁目札幌職安労働者集合所などで「天誅ビラ」が撒かれる{{sfn|今西|2020|pp=232-234}}{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。札幌市警本部長が「一応日共関係の犯行とみなし、威信にかけても犯人は検挙してみせる」と発表{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。
**1月26日 - [[苗穂町]]駐在所に抗議に押しかけた共産党員らが、苗穂工場前で「白鳥事件を口実として民主団体を弾圧するとは何事だ。直ちに手を引かないと第二の白鳥がでるゾ」と書かれたアジビラを配布する{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**1月27日または28日 - 村上がSに実行犯が『ひろ』であると打ち明ける{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**4月12日 - 道庁細胞長Nが逮捕される{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**6月2日 - [[菅生事件]]。
**8月上旬 - Nが伊豆伊東で発見され、札幌に移送される{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**8月28日 - Sが逮捕される。以降、共産党札幌委員会活動家の逮捕が続く'''{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。'''
**10月1日 - 村上が街頭での選挙運動中に逮捕される{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**12月23日 - S信用組合理事長が服毒自殺{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
*1953年
**4月9日 - 追平が[[八王子駅]]付近街頭で逮捕される{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**6月23日 - 村上、実行犯グループの潜伏の徹底・国外逃亡を特別弁護人に指示{{sfn|今西|2020|pp=234-236}}'''{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。'''
**7月8日 - 上述の'''村上レポが警察当局に押収される'''{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**7月11日 - Tが脱党を声明{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**7月13日{{Efn|11日とも{{sfn|今西|2020|pp=234-236}}。}} - 村上、[[苫小牧警察署]]からの逃亡を企て失敗(1回目){{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**8月19日 - 幌見峠で発射弾丸1発(207号弾丸<ref name=":13" />)が「発見」される{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。
**9月4日 - 上記207号弾丸と白鳥の体内から摘出された206号弾丸について、同一の銃器から発射されたものと「直ちには断定することが出来ないものと認められる」との鑑定書(銃鑑第七五九号)を国警科学捜査研究所が出す{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}{{sfn|長崎|2003|pp=106-110}}。
**10月19日 - 公判廷において村上が裁判長に殴りかかる{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
*1954年
**1月16日 - 村上、苫小牧警察署からの逃亡を企て失敗(2回目){{sfn|今西|2020|pp=234-236}}{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**2月15日 - 村上、苫小牧警察署からの逃亡を企て失敗(3回目){{sfn|今西|2020|pp=234-236}}{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**4月30日 - 幌見峠試射場で2発目の弾丸(208号弾丸<ref name=":13" />)が「発見」される{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。
**7月1日 - 改正[[警察法]]の施行により、国家地方警察と自治体警察が廃止され、警察庁と都道府県警察へ統合。
**7月30日 - 幌見峠で「発見」された207号弾丸・208号弾丸(「ニ個の弾丸」<ref name=":13" />)と206号弾丸について、「同一銃器によって発射されたもの認定するに足る程度の類似発射痕特徴を発見し得なかった」との鑑定書(銃鑑第九七九号)を警察庁科学捜査研究所が出す{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}{{sfn|長崎|2003|pp=111-113}}。
**10月18日 - Sに懲役3年、執行猶予4年の判決{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
*1955年
**7月 - [[日本共産党第6回全国協議会]]。極左軍事冒険主義を転換{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**11月1日 - 札幌地検(高木一)の委嘱を受けた磯部孝東京大学教授が、「ニ個の弾丸」と206号弾丸について、「仮に異なれる銃器によって発射されたとするならば、現弾丸に見られる如き、線状痕の一致の生起する確率は極めて小さく、大きく見積もっても〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇一より小さいことが認められる」とする鑑定書('''磯部鑑定書''')を出す{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}{{sfn|長崎|2003|pp=121-126}}。
*1957年
**5月8日 - Tに懲役3年、執行猶予3年の判決{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
*1958年
**4月13日 - 警視庁が「人民艦隊」第1勝漁丸関係者らを逮捕し、同船が中共に密出国させた乗客は『ひろ』ら白鳥事件容疑者4人と発表{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
*1963年
** 10月17日 - 最高裁判所(第一小法廷)が上告を棄却し、'''村上の実刑判決が確定'''{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。
**11月28日 - 村上が[[網走刑務所]]に収監される{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。
*1965年
**10月21日 - 再審請求書が札幌高裁に提出される{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。
*1967年
**11月18日~21日 - 鑑定人3名に対し、事実取り調べが行われる{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。
**11月21日 - 磯部鑑定書について、磯部に対し取り調べが行われる。その中で磯部は、自らが弾丸の鑑定については素人であること、東大には比較顕微鏡もないため[[最高検察庁]]の者から米軍を紹介され、'''G曹長に鑑定を丸投げしていたことを証言'''{{sfn|長崎|2003|pp=61-68}}{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。
*1968年
**8月5日 - '''科捜研鑑定書'''{{Efn|これらの鑑定書は法廷に提出されておらず、2度にわたる弁護団からの札幌高裁への照会要求によって内容が明らかとなった{{sfn|長崎|2003|pp=68-70}}。}}(銃鑑第七五九号・銃鑑第九七九号)'''が弁護団に提出される'''{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}{{sfn|長崎|2003|pp=68-70}}。
*1969年
**6月13日 - 札幌高裁が再審請求申立を棄却{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。
**11月14日 - '''村上が仮釈放を受ける'''{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。
*1973年
**12月13日 - 川口らが中国から帰国{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
*1975年
**5月20日 - 最高裁判所(第1小法廷)が'''村上の特別抗告棄却を決定'''{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}{{sfn|長崎|2003|pp=(1)-(8)|loc=白鳥事件(弾丸を中心とした)年表}}。
*1988年
**『ひろ』ら2人が北京で客死{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
*1994年
**11月3日 - 村上が焼死{{Efn|事件の事情を知る、川口の帰国後の動きを悲観しての焼身自殺であったとも言われる<ref name=":27" />。}}{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
*1997年
**6月8日 - 時事通信社が「鶴田、北京で確認」と発信{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
*1998年
**10月29日 - 川口が事件直後に報告を聞いたと暴露し、Tの証言を肯定{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
*2012年
**3月14日 - 鶴田死去{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。
**10月27日 - 「白鳥事件を考える集い」開催{{sfn|渡部|2012|pp=342-380}}。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>

=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}

=== 出典 ===
{{Reflist|20em|refs=
<ref name=":25">{{Cite web|和書|title=【風を読む】学があってテロに走ったのはオウム入信者だけではない 論説副委員長・榊原智|url=https://www.sankei.com/article/20180710-UAWSROJBJRNKPNBZHY3L5LYCJU/|website=産経ニュース|date=2018-07-10|accessdate=2021-12-06}}</ref>
}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|title=白鳥事件|year=1959|last=追平|first=雍嘉|url=https://doi.org/10.11501/1669593|publisher=日本週報社|doi=10.11501/1669593}}
* 白鳥事件中央対策協議会『壁あつくとも 村上国治獄中詩・書簡集』日本青年出版社、1969年
* {{Citation|和書|title=戦後政治裁判史録2|year=1980|publisher=第一法規出版|editor1-last=田中|editor2-last=佐藤|editor1-first=二郎|editor2-first=功|editor3-last=野村|editor3-first=二郎}}
* 長岡千代『国治よ 母と姉の心の叫び 謀略白鳥事件とともに生きて』光陽出版社、1997年
* {{Citation|和書|title=作られた証拠: 白鳥事件と弾丸鑑定|year=2003|publisher=アグネ技術センター|last=長崎|first=誠三|author-link=長崎誠三|isbn=978-4901496025}}
* 宮川弘『白鳥事件の謎 ノンフィクション・スパイシリーズ』東洋書房、1968年
* {{Citation|和書|author= |title=新警備用語辞典 |publisher=立花書房 |year=2009 |NCID=BA91464482 |ISBN=9784803713022 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010544351-00 |ref={{Harvid|立花書房|2009}}}}
* 村上国治『網走獄中記 白鳥事件――村上国治 たたかいの記録 上・下』日本青年出版社、1970年 
* {{Citation|和書|last=今西|first=一|last2=河野|first2=民雄|date=2012-07-25|title= 白鳥事件と北大 : 高安知彦氏に聞く |url=https://hdl.handle.net/10252/4928|journal=商学討究|volume=63|issue=1|pages=1-50}}
*[[山田清三郎 (作家)|山田清三郎]]『白鳥事件研究 昭和史の発掘』白石書店、1977年
* {{Citation|和書|title=白鳥事件 {{small|偽りの冤罪}}|publisher=同時代社|year=2012|month=12|ISBN=978-4886837363|last=渡部|first=富哉|author-link=渡部富哉}}
* 山田清三郎『白鳥事件』新風舎、2005年
* {{Cite book|和書|author=[[渡部富哉]]|title=白鳥事件 {{small|偽り冤罪}}|publisher=同時代社|year=2012|month=12|ISBN=978-4886837363|ref=渡部富哉}}
* {{Citation|和書|last=後藤|first=篤志|title=亡命者 {{small|白鳥警部射殺事件}}|publisher=筑摩書房|year=2013|month=9|ISBN=978-4480818379}}
* {{Citation|和書|ref=harv|title=シンポジウム・歴史としての白鳥事件|last=今西|first=一|last2=河野|first2=民雄|last3=大石|first3=進|year=2013|month=dec|url=https://hdl.handle.net/10252/5243|journal=商学討究|publisher=小樽商科大学|volume=64|issue=2/3|pages=3-95|ISSN=0474-8638|naid=120005360098}}
* {{Cite book|和書|author=後藤篤志|title=亡命者 {{small|白鳥警部射殺事件の闇}}|publisher=筑摩書房|year=2013|month=9|ISBN=978-4480818379|ref=後藤篤志}}
* {{Citation|和書|last=大石|first=進|title=私記 : 白鳥事件 |publisher=日本評論社 |year=2014 |NCID=BB17240101 |ISBN=9784535520806 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I025875093-00}}
* {{Citation|和書|last=今西|first=一|year=2018|title=テロルの「兇弾」 白鳥事件・高安知彦氏の手記 |journal=アリーナ|issue=21|pages=54-100|publisher=中部大学}}
* {{Citation|和書|last=今西|first=一|year=2020|title=白鳥事件と中国 川口孝夫の「遺書」|journal=アリーナ|issue=23|pages=230-267|publisher=中部大学|isbn=978-4-8331-4150-5|oclc=1227470235}}


== 関連書 ==
== 関連書 ==
* {{Citation|和書|title=壁あつくとも 村上国治獄中詩・書簡集|publisher=日本青年出版社|year=1969|editor=白鳥事件中央対策協議会|last=村上|first=国治}}
*大石進『私記白鳥事件』日本評論社 (2014/11/12)
* {{Citation|和書|title=白鳥事件の謎 ノンフィクション・スパイシリーズ|publisher=東洋書房|year=1968|last=宮川|first=弘}}
*長崎誠三『作られた証拠: 白鳥事件と弾丸鑑定』アグネ技術センター (2003/01)
* {{Citation|和書|title=網走獄中記:白鳥事件-獄中18年たたかいの記録|publisher=日本国民救援会中央本部|year=1974|last=村上|first=国治}}
* {{Citation|和書|title=白鳥事件研究 昭和史の発掘|publisher=白石書店|year=1977|month=3|author-link=山田清三郎 (作家)|last=山田|first=清三郎}}
* {{Citation|和書|title=国治よ 母と姉の心の叫び 謀略白鳥事件とともに生きて|publisher=光陽出版社|year=1997|month=11|ISBN=978-4876622122|last=長岡|first=千代}}
* {{Citation|和書|title=白鳥事件|publisher=新風舎|year=2005|month=10|ISBN=978-4797498516|last=山田|first=清三郎}}
* 柳原滋雄『実録・白鳥事件ー「五一年綱領」に殉じた男たち』論創社、2023年12月。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[冤罪]]
* [[練馬事件]]
* [[追跡 (小説)]] - 白鳥事件をモチーフにした小説で、いわゆる「原田情報」一点に絞り、この事件を検証している。
* [[再審]]
* [[日本共産党第5回全国協議会]]
* [[公安警察]]
* [[日本共産党]]
** [[51年綱領]]
** [[中核自衛隊]]
* [[札幌市警察]]
* [[松本清張]] - 著作「日本の黒い霧」でこの事件を取り上げ、[[対敵諜報部隊|CIC]]の謀略・冤罪説を唱えた。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{Cite web|和書|title=事件ファイル-8 疑わしきは被告人に利益に {{small|白鳥事件}}|url=https://www.jlaf.jp/old/syoutai/07_8.html|website=www.jlaf.jp|accessdate=2021-11-05|publisher=自由法曹団|author=谷村正太郎}}
* [http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/takahashishiratori.htm 高橋彦博「白鳥事件の消去と再生 『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に」]2005年10月
* [http://chikyuza.net/archives/20864 「白鳥事件は冤罪ではなかった!」新資料・新証言による60年目の真実 渡部富哉インタビュー(1)][http://chikyuza.net/archives/20864 (2)][http://chikyuza.net/archives/21216 (3)]ちきゅう座、2012年3月
* [http://chikyuza.net/archives/20864 「白鳥事件は冤罪ではなかった!」新資料・新証言による60年目の真実 渡部富哉インタビュー(1)][http://chikyuza.net/archives/20864 (2)][http://chikyuza.net/archives/21216 (3)]ちきゅう座、2012年3月
* {{Cite web|和書|title=白鳥事件の消去と再生 『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に |author=高橋彦博 |url=https://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/takahashishiratori.htm |website=共産党問題、社会主義問題を考える |accessdate=2022-03-13 |publisher=[[宮地健一]]}}
* [http://jairo.nii.ac.jp/0047/00004330 白鳥事件と北大-高安知彦氏に聞く]今西一・河野民雄,小樽商科大学『商学討究』63号,2012-07-25
* {{Cite web|和書|title=1950年前後の北大の学生運動-{{small|その位置と意義を再考する}} |author=中野徹三 |url=https://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/nakanosira.htm |website=共産党問題、社会主義問題を考える |accessdate=2022-03-13 |publisher=[[宮地健一]]}}
* [http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/nakanosira.htm イールズ闘争から白鳥事件へ-その遺したもの]中野徹三、『大原社会問題研究所雑誌№651』(2013年1月号)
*{{Cite web|和書|title=白鳥事件などの研究 |url=http://e-kyodo.sakura.ne.jp/tejima/shiratorijiken.html |website=手島繁一のページ |access-date=2022-04-23}}
* [http://jairo.nii.ac.jp/0047/00004632 シンポジウム・歴史としての白鳥事件]今西一・河野民雄・大石進,小樽商科大学『商学討究』64号, 2013-12-25
* {{Kotobank}}
* [http://opac.ryukoku.ac.jp/webopac/r-ho_048_01_025._?key=ZTUFBH 分析と科学鑑定 : 白鳥事件、ナイロンザイル事件、銑鉄一千万円事件、和歌山カレー事件]河合潤、龍谷大学法学会『龍谷法学』48号, 2015-10-14


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白鳥事件
正式名称 白鳥警部射殺事件
場所 日本の旗 日本札幌市南6条西16丁目
日付 1952年昭和27年)1月21日 (夜)
攻撃側人数 1(実行犯)
武器 拳銃
死亡者 1
被害者 白鳥一雄警部
謝罪 中核自衛隊に所属していたTによる謝罪。主犯・実行者、関与が疑われた日本共産党による謝罪はなし。
影響 主犯格とされた村上国治の再審請求の特別抗告に関連して、いわゆる「白鳥決定」が判示された。
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白鳥事件(しらとりじけん)は、1952年昭和27年)1月21日北海道札幌市で発生した、日本共産党による警察官射殺事件である。

概要

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実行犯と目された人物らは日本共産党幇助により国外逃亡したものの、日本共産党札幌軍事委員会[注釈 1]委員長であった村上国治が主犯格として逮捕され、1963年(昭和38年)10月17日に懲役刑が確定した[2][3]

しかし、警察捜査の過程での証拠捏造自作自演を指摘する声が根強く、日本共産党による冤罪キャンペーン松本清張の『日本の黒い霧』での推論、当局による証拠捏造疑惑などにより一般の間でも冤罪の声が強まった[1][4]

受刑者となった村上は無罪を訴えて1965年(昭和40年)に再審請求を行った。これに対する審理においては村上の一部主張が認められたものの、村上の関与を裏付ける新たな証拠が検察側から提出され、最終的に村上の特別抗告最高裁判所によって1975年(昭和50年)に棄却された[5]

再審制度においても『疑わしきは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則が適用されるとする判断をこのとき最高裁判所が下したことから、以後確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じれば再審を開始できるようになった。この判断は事件の名をとって「白鳥決定」と呼ばれる。

事件の経緯

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1952年(昭和27年)当時、「51年綱領」の採択を経て武装闘争路線を採っていた日本共産党[注釈 2]による警察官襲撃事件が、全国で相次いでいた。党札幌委員会では委員長の村上国治や副委員長のSが軍事方針を立て、「時間があり、頭も悪くない」北海道大学の学生らを中心に中核自衛隊を組織。列車運転業務妨害事件(赤ランプ事件)や検事・市長宅への投石事件などを起こしていた[7]。これに対し、札幌市警察警備課課長・白鳥一雄警部は、市内の丸井百貨店で開催されていた丸木位里赤松俊子原爆の図の展示会を「占領軍の指示」として中断させたほか、ビラまきや座り込みデモを行う共産党員を多数検挙し、「弾圧の急先鋒」として党関係者などから敵視されていた[8][9][10][11][12]

同年1月21日午後7時42分頃[注釈 3][14]、札幌市(現在の中央区)南6条西16丁目の路上で、自転車[注釈 4]に乗る男が、同じく自転車で帰宅途上の白鳥に向けて後ろから拳銃を発砲し、心臓に弾丸を受けた白鳥は絶命した。犯人はそのまま自転車で逃走した[1][9][10]

遺体は北大病院で解剖され、死因は命中した拳弾丸による出血多量とされた[9]。白鳥の体内から摘出された弾丸と現場に残された薬莢から、暗殺に使われたのは32口径ブローニング拳銃[注釈 5]とされた[15][16]

自転車上で片手で拳銃を発射し一撃で急所に命中させるという、極めて難易度の高い犯行であったが、白鳥には事件前から「昨年はきさまのおかげでおれたちの仲間が監獄につながれた。この恨はきっとはらす。おれたちは極めて組織的にきさまをバラしてやる。」などと書かれた脅迫状が相次いで届いていたことから[注釈 6]、捜査当局は日本共産党による犯行とみて捜査を開始した[11][21][22][23][24]

事件発生後、共産党員が市内で「見よ、天誅遂に下る! 自由の兇敵、白鳥市警課長の醜い末路こそ、全ファシスト官憲どもの落ちゆく運命である[23]」と日本共産党札幌委員会名で書かれたビラ(「天誅ビラ」[25])を配布した[注釈 7][注釈 8]。これに対し、事件の翌々日に党北海道地方委員のMが「『天誅を下す』なんて言葉はわれわれの辞書にはない」「われわれ地方委員会では二、三日中にデッチ上げということをはっきりさせたい」と関与を否定する声明を出したが、その翌日には「誰が白鳥事件の犯人であるかは知らない。党と事件の関係については何とも言えない。白鳥氏殺害は官憲弾圧に抵抗して起きた愛国者の英雄的行為で個人的なテロではない。かく闘うことは愛国的行動である。白鳥を殺害した犯人は白鳥自身である」と、党の関与を曖昧にしながら一転して犯行を称賛する声明を出した[11][30][31]

事件直後の党指導部では、態度を決めかねたのか「共産党のやったことではないという日和見的な意見を克服して、党の意思の革命的統一を図る必要がある」「共産党のやったことではないということに、合法的宣伝は統一する」と指示が錯綜し[注釈 9]、事件後に気勢を上げて過激なビラを撒いたり職安事務官を襲撃して川に投げ込むなどの「暴走」を始める党末端との違いが浮き彫りとなった[11]

政権与党の対応は素早く、吉田茂首相は事件翌日に「現下の国際情勢を反映いたしまして、共産分子の国内の破壊活動は熾烈なるものがあると考えられるのであります。まことに治安上注意を要する次第であります。かかる事態に対処して、本国会に所要の法律案を提出する所存であります」と施政方針演説を行い[32]、同年4月には破壊活動防止法を制定させた。本事件を始め共産党員による事件が連日報道され、日本共産党は同年10月の第25回衆議院議員総選挙で全議席を失うなど、自らの非合法活動によって国民の支持を失っていったが、それらの事件群の中には冤罪事件である菅生事件[注釈 10]なども含まれている[11]も全体的に見れば日本共産党による凶悪な暴力事件の件数の多さの中から見れば極めて例外な件であった。

市井では、「白鳥に不正を察知されたと考えたヒロポン中毒のS信用組合の理事長が殺し屋を差し向けた[注釈 11]」「軍用拳銃の闇市への横流しを知りすぎた白鳥が消された。証拠の弾丸をすり替えて事件を共産党のせいにした」などと怪情報が流された[34][35]

事件発生から4か月後、静岡県で行き倒れ、警察の保護を受けた後に寿司屋で働いていた青年が、保釈中に逃走した北海道庁細胞所属の共産党員Nと判明する。その青年が検事らの情に絆されて札幌の共産党組織の情報を提供したことにより事態が急展開する[9][22][21][36]。党関係者が白鳥殺害に関与しているとの情報を得た警察は、札幌地区委員らを逮捕した。8月28日に逮捕された札幌委員会副委員長Sは11月28日に自供を始め[注釈 12][38]、札幌の地下組織の最高指導者は村上委員長であり、白鳥射殺の実行犯は円山細胞の『ひろ』[注釈 13]である旨を供述[22][9][36]。さらに翌1953年4月9日に逮捕された札幌委員会常任の追平雍嘉も供述手記を執筆してこれを裏付けた[注釈 14][1][9][38]。また6月9日に共犯として逮捕されていたTが「生きることに怠惰であってはいけない」などと訴えかけた安倍治夫検事の説得を受けて7月11日に転向し[注釈 15][38][44]、1月3日から1月4日頃に村上国治ら7人が集まり、白鳥警部殺害の謀議を為した旨を供述した[注釈 16][9]

その過程において、面子にかけても犯人を逮捕しなければならなかった警察は、容疑者の誤認逮捕容疑者と別人の共産党員)を犯したり、期限切れで釈放すると見せかけて迎えに来た父親の目の前で別件で再逮捕して長期拘留捜査するなどして、手段を選ばずに強引な捜査を行いながら調書を作成していったという。逮捕者や党員の中には生涯精神を病む者や自殺者も出たが、一方で日本共産党も組織防衛に奔って釈放された党員らを「査問」し、身の危険を感じた党員が逃亡して警察の庇護を受けるということも起きた[21][22][33][19][46]

しかし、村上国治らの逮捕後も犯行に用いられたとされるブローニング拳銃自体は発見されず[注釈 17]、"事件の2年前に行われた中核自衛隊による射撃訓練の遺留品"であるとされ、「被害者の体内で摘出されたものと異なる銃器から発射された確率は1兆分の1より小さい」との施条痕の鑑定結果が出された弾丸(「ニ個の弾丸」[25])のみが、裁判に提出された直接的な物証となった。この弾丸は、T立ち合いのもとで行われた幌見峠での札幌市警による捜索で発見されたものである[9][47][48][49][50]

直接の下手人をはじめ共謀したとされた党員らは、日本共産党の密航船群「人民艦隊」で不法出国し、当時日本と国交が無かった中華人民共和国へ逃亡している[注釈 18][9][51][52]

白鳥警部

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事件の被害者となった白鳥一雄は、北海道芽室町に生まれ、帯広中学(現・北海道帯広柏葉高等学校)を卒業後、1937年(昭和12年)に北海道庁巡査になった。太平洋戦争中は大日本帝国陸軍特務機関系のハルピン学院ロシア語を学んだ後に特高警察の外事係として活動しており、戦後も公安警察官として左翼活動の監視に加えて在日朝鮮人密貿易風俗営業の取り締まりを行っていた。1948年(昭和23年)3月に札幌市警の警備課長に就任した白鳥は、警察内部においても秘密主義を徹底し、上司も白鳥が日本共産党の秘密組織についてどこまで掴んでいたか報告を受けておらず、皮肉にもそのことが自治体警察である札幌市警による事件後の捜査を困難なものにした[10][22][34][53][54]

生前の白鳥とも直接の面識があった安倍検事が語ったところによれば、普段の白鳥は物静かで礼儀正しいが、その共産主義を憎悪する精神は、シベリア抑留での経験によるものか、熾烈なものであったという[53]

家庭内では仕事の話をすることもなく良き父親を通しており、事件当日も3歳と5歳の娘に「きょうは給料日だし、お土産を買って早く帰るよ」と出かけて行った。事件後の司法解剖では、白鳥の胃袋に直前に飲食したものはなく、上衣のポケットには月給袋が手つかずのまま納められていた。死亡時の年齢は36であった[55]

当時の札幌の情勢

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朝鮮戦争が継続中の当時、ソビエト連邦と接する北海道では、後方補給基地の安定確保のためのアメリカ軍情報部による特殊活動が活発に展開されていた[56]。その中心である札幌では、日本警察国家地方警察(国警)本部と札幌市警察本部、アメリカ陸軍防諜部隊(CIC)、そして裏社会の間で、互いに反目したり協力したりしながら公安情報の収集が行われるある種の「シンジケート」が形成されていた。白鳥はCICがアジトにしていたすすきののとあるバーに頻繁に通っており、そこにはギャングや右翼も出入りしていたという[34]

松本清張は『日本の黒い霧』で本事件を取り上げてCICによる謀略説を唱えているが[注釈 19][注釈 20]、事件を取材していた北海日日新聞(後の北海タイムス)の編集部長は「白鳥警部は左翼関係の情報収集力にかけてはピカ一だった。CICとしては彼を消せば元も子もなくなってしまう。CICが重宝している子飼いの白鳥をやっつけるはずがない」と語っている[35]

裁判

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最高裁判所判例
事件名  爆発物取締罰則違反等
事件番号 昭和35(あ)1378
1963(昭和38年)10月17日
判例集 刑集 第17巻10号1795頁
裁判要旨
  1. 証拠によつて認定した事実は、他の事実の証拠となり得る。
  2. 伝聞供述となるかどうかは、要証事実と当該供述者の知覚との関係により決せられるものと解すべきであつて、甲が一定内容の発現をしたこと自体を要証事実とする場合には、その発現を直接知覚した乙の供述は、伝聞供述にあたらないが、甲の発言内容に符合する事実を要証事実とする場合には、その発言を直接知覚したのみで、要証事実自体を直接知覚していない乙の供述は伝聞供述にあたる。
  3. 刑訴法第三二四条第二項第三二一条第一項第三号所定の要件を具備した伝聞供述の原供述者が特定の甲または乙のいずれであるか不明確であつても、それだけの理由でその伝聞供述が証拠能力を有しないものとはいえない。
第一小法廷
裁判長 入江俊郎
陪席裁判官 下飯坂潤夫齋藤朔郎
意見
多数意見 全員一致
意見 なし
反対意見 なし
参照法条
刑訴法317条,刑訴法318条,刑訴法320条1項,刑訴法321条1項2号,刑訴法321条1項3号,刑訴法324条2項
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村上の懲役確定まで

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1955年8月16日、検察側は村上国治を殺人罪共謀共同正犯で、共犯2人を殺人罪の幇助犯として起訴し、「村上らは武装蜂起の訓練のため幌見峠で射撃訓練をした。そして、彼らの活動の邪魔になる白鳥警部を射殺した」と主張している。

第1審札幌地裁は共同謀議を認定し、村上を無期懲役、共犯1人を懲役5年・執行猶予5年と判決している。途中から公判分離されて共同謀議を自供した共犯Tは、1957年(昭和32年)5月に懲役3年・執行猶予3年と判決されて確定している。控訴審札幌高等裁判所1960年(昭和35年)6月の判決で村上を懲役20年に減刑し、共犯1人は控訴棄却している。1963年(昭和38年)10月17日、最高裁判所は二審判決を支持し上告を棄却し、村上の懲役20年の実刑判決が確定した[3][59]

物的証拠として提示された弾丸について、弁護側は、中国での実験結果などをもとに、発射から発見まで2年が経過しているにもかかわらず応力腐食割れが生じていないことを指摘した[60]。さらに検察が裁判で提出した「ニ個の弾丸」の鑑定書は、アメリカ軍極東犯罪捜査研究所のG曹長が実質鑑定したものであった[注釈 21]旨の証言が上告棄却後に得られ、捏造の可能性が疑われた[47][48][62][63][64][65]

この弾丸が「発見」された捜索では、訓練中の実験で使用された不発の手製手榴弾がTの証言通りに発見されており、Tの証言を補強する間接的物証とされたが、これについては弁護側からも否定されていない[66][67]

再審請求

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日本共産党[注釈 22]は冤罪キャンペーンを張り、110万人に及ぶ最高裁再審要請署名を集めた。党の支援を受けた村上国治は、無罪を主張して1965年(昭和40年)に再審請求を行い、最高裁判所への特別抗告まで争った[1]

しかし、1953年6月23日に獄中の村上国治が弁護士を経由して「とくにモグらせた人間[注釈 23]は絶対に活動させぬ様出来れば外国えやつて貰ひたいことを支店へ伝えて貰ひたい[5]」と証拠隠滅の為に実行犯グループを国外へ逃がすよう指示[注釈 24]した書面が国警に押さえられており[38][68]、それが裁判資料として提出されたことなどから、札幌高裁は1969年(昭和44年)6月18日に「弾丸の証拠価値は、(中略)たんに『原判決当時に比べいささか薄らいだ』というに止まらず、大幅に減退したと言わざるを得ない」と認めつつも、「各事件に、申立人(村上)が関与している事実は証拠上明白」であるにもかかわらず「明白な事実をことさらに否定しようとする申立人の供述には、その信ぴょう性に疑問をいだかざるをえない」などとして、村上の申立を棄却した[25][69][70][71]

最高裁も、1975年(昭和50年)5月20日に札幌高裁の決定を支持して村上の特別抗告を全員一致で棄却した[1][5][9][49][48][71]

村上は1969年(昭和44年)11月14日に半分近い刑期を残して仮釈放を受けている[22]

白鳥決定

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最高裁判所判例
事件名 再審請求棄却決定に対する異議申立棄却決定に対する特別抗告事件
事件番号 昭和46年(し)第67号
1975年(昭和50年)5月20日
判例集 刑集29巻5号177頁
裁判要旨
  1. 刑訴法四三五条六号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」とは、確定判決における事実認定につき合理的な疑いをいだかせ、その認定を覆すに足りる盡然性のある証拠をいう。
  2. 刑訴法四三五条六号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」であるかどうかは、もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとすれば、はたしてその確定判決においてされたような事実認定に到達したであろうかという観点から、当の証拠と他の全証拠とを総合的に評価して判断すべきである。
  3. 刑訴法四三五条六号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」であるかどうかの判断に際しても、再審開始のためには確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りるという意味において、「疑わしいときは被告人の利益に」という刑事裁判における鉄則が適用される
第一小法廷
裁判長 岸上康夫
陪席裁判官 藤林益三下田武三岸盛一団藤重光
意見
多数意見 全員一致
意見 なし
反対意見 なし
参照法条
刑訴法435条6号
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上述の通り最高裁判所は再審請求を棄却したが、「再審制度においても『疑わしきは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則が適用される」との判断を示し[注釈 25]、事件にちなんで「白鳥決定」と通称されるようになる[72]。従前の再審裁判では証拠を完全に覆すに足る証言や証拠を求められることが通例であり、その厳しさは「開かずの扉」と呼ばれるほどであったが、この白鳥決定以後は裁判時の証拠や証言に対して「ある程度の合理的疑いが存在する場合」も再審の対象として扱われるようになった[9][73][74]

白鳥決定は、下級審の再審に関する姿勢も変えさせた極めて重要な判示となった[注釈 26]。これに続く形で、1980年代には死刑の確定判決が出されていた免田事件財田川事件松山事件島田事件徳島ラジオ商殺し事件(死後再審)において無罪判決が相次いで出され、司法界に大きな衝撃を与えた[9][74]

後年の推移

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亡命者

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  • 事件に関与して中華人民共和国(中国)に逃亡した党員たちの多くは、文化大革命を経て日中国交正常化後に帰国したが、不起訴にされている。一方、日本共産党は『赤旗』でこの者たちを「反党盲従分子」と攻撃し、村上と接触させなかった[22][76]
  • 1955年(昭和30年)頃、実行犯として指名手配された3人は中国へ不法出国により亡命した[77]。彼らは北京機関解体後に四川省に追いやられ[注釈 27][79]、射殺の実行者とされた『ひろ』を含むこのうちの2人が1988年(昭和63年)にで病死し、革命烈士として八宝山革命公墓に埋葬された[注釈 28][22][80]
    • 最後の生き残りとなった鶴田倫也[注釈 29]北京外国語大学で「唐沢明[注釈 30]」という通称で日本語教師をしており、鶴田が編纂した教科書は多くの大学で使われた[78][81][83]
    • 1996年1月9日に関係者の訪問を受けた鶴田は泥酔し「俺らのやったことはオウム真理教と同じだという奴がいる。俺はな、単なるやくざ者で白鳥をやったのとは違う。あんなごろつきやって何が悪いんだ」「おれはここにいてプロレタリア国際主義の立場から日本革命を考えている」とくだを巻いたという[80]
    • 鶴田は訪中した日本人から身を隠すようにして定年後は大学構内の教職員宿舎に居住していた[注釈 31]1997年平成9年)6月、時事通信の記者が北京市内で鶴田との接触に成功したが、鶴田は事件の真相を語らなかった。このとき、一向に事件について語ろうとせず「ここ(中国)にいられないようにしてやる」とすごむ鶴田に対し記者が「わかりました。この件については自分の判断でやります」と言うと、鶴田は「俺は昔から新聞記者は嫌いだったんだ!」と捨て台詞を吐いた。このころ渡部富哉らによる鶴田帰国支援運動が別途行われていたところであるが、時事通信の取材後に鶴田は消息不明となり、ICPOを通じて照会を求めた日本の警察庁に対して中国側は「鶴田なる人物は中国にはいない」と回答した。鶴田は心臓疾患を患い2012年(平成24年)1月頃から体調を崩し、3月14日に北京で死亡したことが報道されている[22][78][83][85][86]。鶴田は「唐沢明として革命公墓に入ると骨を調べられる。DNA鑑定もできないように海に流せ」と遺言を残し、遺言どおりに天津沖で散骨されたという[22][80]
    • 白鳥の妻は上述の時事通信記者から鶴田生存の報を聞くと「生きてらっしゃるのですか」と驚いたが、「いまさら憎んでもしょうがないでしょう。亡くなった人間が帰ってくるわけでもないし。月日もたって思い出したくありません。そっとしておいてください」と答えた[83]
  • 国外逃亡を続けて中国で客死した、上述の3人の公訴時効は停止している。中国公安当局による死亡確認を得られていないことを理由に両名の逮捕状は半年間隔で更新され続けており、効力を有する日本の逮捕状としては最古のものとなっている(逮捕状の有効期限は原則7日)[2][55][87][88]。2022年4月の時点で鶴田容疑者は161回、佐藤博容疑者は180回更新された。

川口の告白

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  • 1998年(平成10年)、事件当時の北海道地方委員会軍事部門幹部であった川口孝夫[注釈 32]が、軍事活動を知りすぎて党に日本を追放された旨を主張する『流されて蜀の国へ』という回顧録を自費出版した。川口はその際の北海道新聞のインタビューで、「謀略ではなかったと言ってよい」と松本清張などが提唱した米軍謀略説を否定し、党員の犯行であったことを認めている。川口は「事件に関与していないが、事件後に報告を受けました」として中核自衛隊の元隊員Tの証言が自分が受けた報告と合致することを認め、さらに党の真相調査に対して「事実」を報告していたことも明かされた。なお、村上が裁判闘争を続けたことについては「彼は、私の入党責任者[注釈 33]。『左』の路線の時も、すごい活動家だった。間違いを犯したのは共産党の方針が間違っていたためで。彼個人の責任とは考えません。彼も晩年は気の毒な人でした」とした[92][93][94][95][96]
    • 共産党は同紙の取材に対しては「党が分裂していた当時の一方の側の問題で、党としてコメントする立場ではない[93]」と言及を避けた一方で「歴史の暗部の断層にうごめいて生き血を吸い、腐肉を喰らう男」と川口を激しく誹謗した。事件に関連して中国に逃亡した者からも「軍事方針の直接の実行部隊幹部であったことを自認し、非合法の軍事方針を実践していたことを確認しておりながら、彼は下部組織の犯行であって自分は関与していないと白を切っている」と川口に対し批判の声が上がった。中国への逃亡の後に帰国した人物は、「当時の共産党は組織原則が厳しく、党員は絶対服従することが義務付けられていた」「白鳥事件についても村上国治が上部組織の許可なしに計画実行することなどあり得ない」「川口がこの事件の直接の策謀者だと信じている」と見解を述べている[97]
    • 『流されて蜀の国へ』に対しては「事件の真相を曖昧にしている」との批判もあったが、川口は「妻は何の理由もなく異国に送られ、十八年もの長き年月を強制的に中国に滞在させられ、悲しくつらい思いをし、苦しめられた。その原因である『白鳥事件』の真相の公表を、妻は人生の最後まで望んでいた。私は六〇年間の長い年月の苦労の旅をともにしてきた(妻の名前)の最後の願いを実現させる事こそ、私に残された最後の仕事と考えている[90]」として事件に関する自らの体験を記した『いまなぜ「白鳥事件」の真相を公表するか』と題した遺稿を2002年に書き上げ、2004年に他界している[80]。この中で川口は、中核自衛隊の射撃訓練に参加したことや村上の強い要請で『ひろ』の逃亡に加担したことを明かしている[注釈 34][90]

Tによる謝罪

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  • 2012年(平成24年)2月24日、裁判で用いられた自供を行い、自身も暗殺計画に参加したとして殺人幇助などの罪で執行猶予判決を受けたTは、「中核自衛隊が計画を進めていたのは事実」と中核自衛隊の犯行であったことを改めて認め、説明責任を果たすため手記を公表予定と読売新聞の取材で述べていた[注釈 35][100]
  • Tはその後、「裏切り者とかユダと悪罵を投げかけられながらも60年間ジッと耐えて我慢してきたTに一回喋ってもらい、記録に残したい」として有志が同年10月に小樽商科大学のサテライト教室で開催した、『白鳥事件を考える集い』に参加し[79]、「若く幼稚な正義感から白鳥警部殺害に関与してしまった。当時は白鳥氏には妻子がいることに思いが及ばず、白鳥警部のご家族に多大のご迷惑をかけたことを、今となっては遅きに失するが心よりお詫びしたい。また、この事件で多くの札幌市民を不安に陥れたことを深く反省している[101]」と謝罪の言葉を述べ、「共産党は55年の6全協極左冒険主義を清算したといいます。だが、その具体的内容には触れておらず、白鳥事件のことなど一切出てきません。それどころか、事件は一部の分派の飛び跳ねた部分がやったということで、ぼくらや仲間のやったことを切り捨て、現在の党には関係ないといいます。果たしてこんなことで、一般の国民を納得させられるでしょうか[66]」と疑問を投げかけた[79]。またTは、出所後の村上と面会し、互いに事件のことには触れずに2時間ほど回顧談をしたことを明かしている[102][103]

その他

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  • 2002年(平成14年)に長野県松本市旧司法博物館にあった白鳥事件の裁判資料を有志が整理して公開されたが、博物館が同市に移管されてからは、多くの個人情報が含まれることなどから公文書管理法第16条第2項の「不開示情報」として閲覧禁止となっている[1]。市立博物館側は「デリケートな情報が多く自治体として公開に至る判断はできなかった」としていたが、2021年12月8日の松本市議会で同市教育部長が研究機関への寄贈を打診していることを明らかにした[104]
  • 2011年(平成23年)3月27日、HBC北海道放送が事件関係者へのインタビューなどを通じて白鳥事件の真相を追ったラジオドキュメンタリー『インターが聴こえない~白鳥事件60年目の真実~』(HBCラジオ開局60周年記念ドキュメンタリー)を放送し、同年5月に第37回放送文化基金賞ラジオ部門優秀賞[105]を、同6月に第48回ギャラクシー賞ラジオ部門大賞[106]を受賞している。番組の終盤には、鶴田との接触を持ち、中国共産党とのパイプを持つ人物へのインタビューの録音が流されるが、その人物は関係者が全員死なないと話せないと証言を拒んでいる。

エピソード

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  • 北海道大学教授の布施鉄治イールズ闘争世代であり反骨の学者と知られていたが、「白鳥運動」に取り組もうとしていた者に対して、「白鳥にかかわったとされる多くの党員学友が行方不明になっている。自分の親友もいた。おそらくは中国へ脱出したのだ。冤罪と思っている人は北大にはいない。白鳥事件を三鷹事件松川事件と同列に論ずるわけにはいかない。これが現地北海道の常識だから深入りしないように」と釘を刺していた。松川・青梅芦別事件などでは無罪判決が出され、そのほとんどが冤罪事件とされる戦後の公安事件の中にあって、白鳥事件は「検察最後の砦」であり、近年に至るまで北海道でのタブーとされていた[92][22]。共産党議員であった志賀義雄も、『ドキュメント志賀義雄』を編纂していた横堀洋一に事件の真相について意見を求められ、次のように述べて口を閉ざしている[107]
もちろん、国会で追求するつもりだった。ところが、種々調べてみると下手な発言ができないことが次第にわかってきた。そこで、手づるを求めて当時、自民党の大物議員だった賀屋興宣に面会して、意見を聞いてみた。すると賀屋興宣は「志賀君、君のために忠告しておくが、それだけはやめておいたほうがいい。村上国治は獄中から弁護士の面会の際に、関係者を国外に逃がせ、というレポを渡し、それが当局の手に渡っているんだよ」と言うんだ。
  • 自由法曹団の団長を務め上告審から本事件に関与した上田誠吉は、1977年のインタビュー[108]で、戦後の公安事件の多くで無罪判決が出された中において白鳥事件は有罪となっている点について問われ、「当時、ある種の極左冒険主義があったことは間違いないんで、これが巧みに(治安当局に)利用されているんです。一部の人たちが武器を作り、集めていたということはあるようで、(中略)あの状況の中で白鳥警部が射殺される、共産党の周囲の近しい人、あるいは内部の人自体が、〝ははあ、これはうちの関係者がやったのではないか〟と疑うこと、これがこわいですね」と答えた。また『ひろ』ら中国への逃亡組について触れられると、「何人か帰国した人たちがいるようですが、この人たちも強く無罪を主張しているようですね。くわしいことはわかりませんが」と述べた[109]
  • 札幌地検の次席検事として村上国治の取り調べをした高木一(帝銀事件平沢貞通の取り調べを行った検事)は、ヤメ検になったあとの1980年に行われたインタビューで[110]、「私は、個人的には、村上は正直ないい男だと思いますよ」「結局、村上は党の方針にあおられていたのだと思います。しかし、党内では、農民的一揆主義の突出行為だという批判を受けています。それはそうだと思いますが、あおった党の軍事方針に非常に大きな危険をはらんでいたと思いますね」と述べ、後年、別の公安事件(芦別事件)の法廷で白髪頭になった村上に傍聴席からヤジを飛ばされ、なつかしい気持ちで「おお」と声をかけると「おおでないよ」と言われたエピソードを紹介している。帝銀事件にくらべ「白鳥事件はその百倍も苦労しました。相手もそうだし、味方もコントロールしなければなりません。臆病になってもいけないし、逃げ回ってもいけない。まして行きすぎても行けない。戦争だからやっつけましょう、という意見もあるんです。そうしたのを押さえながら捜査を進めるんですからたいへんでした」と当時の苦労を明かした。なお、高木は帰国した中国逃亡組が起訴猶予になったのは「大いに賛成」と述べている[111]

年譜

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  • 1951年
    • 4月 - 村上国治(当時:留萌委員長)が『平和のこえ』紙頒布のかど(占領目的阻害行為処罰令違反)で逮捕される[112]
    • 7月 - 村上が旭川刑務所から釈放[112]
    • 10月 - 広島県オルグであった追平雍嘉が札幌委員会常任に就任[112]
    • 10月16・17日 - 日本共産党第5回全国協議会(五全協)が開催され、51年綱領・武装軍事方針を採択。川口孝夫が道委員会軍事部に転出[112]
    • 10月20日 - 村上が留萌地区委員長から札幌委員長に就任[112]
    • 10月下旬 - 追平がビューロー員となる[112]
    • 10月23日 - 日共北海道地方委員会が下部組織に対し"帝国主義者の走狗"に対する攻撃集中を指示。白鳥警部については「特高あがりで、共産党に対して最も悪辣である」と付記され、「北海道に於いては悪辣な村巡査に至るまで村八分を実施し、主婦や子供を徹底的に仲間外れにするまでビラ、伝単で攻撃をくわえられたい」と指示[112]
    • 11月中旬
      • 村上がSに「琴似方面でブローニングが手に入るのだが4千円ほど欲しい」と連絡[112]
      • Sがベルナルデリ小型拳銃の持ち主の情報を村上に伝え、村上が「その話はおれの方で預かろうではないか」と答える[112]
      • 村上がSにブローニングが入手できたと伝える[112]
    • 11月末 - 日本電気産業労働者組合(電産)社宅にある党員U宅で新綱領・軍事方針についての講習会を実施。この席で村上が「白鳥はもう殺してもいい奴だな」と発言[59][112]
    • 12月10日 - 幌見峠で拳銃射撃訓練[112]
    • 12月23・24日 - 村上がSに対し、「全党に模範を示すんだろう。警察官の1人や2人殺ったって浮かないさ」「どうだ、白鳥を堂々と襲撃しようかい」「日本共産党を名乗って白鳥課長の家を襲ってやっつけるんだ」などと発言。これに対しSは「やるなら暗殺を狙うべきだ」と意見を述べる[59][112]
    • 12月27日 - 餅代よこせ事件。札幌市自由労働組合(自労)20数人が市役所内で座り込みを行う。要請を受けた白鳥警部らが出動し、有力党員11人を検挙。同日、東京都練馬区練馬事件が発生。村上が追平に「東京に先にやられた」と語る[14][112]
    • 12月29日 - 白鳥射殺の実行を決定[112]
    • 12月30日 - 白鳥警部宅に脅迫ビラ十数枚が貼られる[112]
  • 1952年
    • 1月3日 - S宅で開かれた新年宴会を兼ねた新綱領の学習会の席上で、『ひろ』が「白鳥課長らは労働者を弾圧しているひどい人間だから、ああいう人間を生かしておく必要はない」などと発言[112]
    • 1月4日 - 村上が中核自衛隊員に対し白鳥殺害は拳銃をもってやることを告げる[112]
    • 1月5~6日 - 手榴弾の実験を兼ねた幌見峠射撃訓練[112]
    • 1月10日 - 川口が『ひろ』に「白鳥を殺ったら浮くか浮かないか」と問われる。これを受けて川口は北海道地方委員会議長に宛てて計画中止を求める緊急レポを出すが、回答はなかった[12][112]
    • 1月中旬 - Tが『ひろ』の部屋でブローニング拳銃を見る[112]
    • 1月15日 - 白鳥警部と路上で遭遇した『ひろ』が射殺を試みるが、弾が出ずに失敗[112]。Tらが拳銃のオーバーホールを行う[12]
    • 1月21日 - 19時40分頃、白鳥警部射殺[112]。現場で薬莢1個が押収される[113]
    • 1月22日 - 北大にて司法解剖。体内から弾丸1発(206号弾丸[25])が摘出される[113]
    • 1月23日 - 北大正門前・札幌鉄道局苗穂工場や大通東2丁目札幌職安労働者集合所などで「天誅ビラ」が撒かれる[12][112]。札幌市警本部長が「一応日共関係の犯行とみなし、威信にかけても犯人は検挙してみせる」と発表[113]
    • 1月26日 - 苗穂町駐在所に抗議に押しかけた共産党員らが、苗穂工場前で「白鳥事件を口実として民主団体を弾圧するとは何事だ。直ちに手を引かないと第二の白鳥がでるゾ」と書かれたアジビラを配布する[112]
    • 1月27日または28日 - 村上がSに実行犯が『ひろ』であると打ち明ける[112]
    • 4月12日 - 道庁細胞長Nが逮捕される[112]
    • 6月2日 - 菅生事件
    • 8月上旬 - Nが伊豆伊東で発見され、札幌に移送される[112]
    • 8月28日 - Sが逮捕される。以降、共産党札幌委員会活動家の逮捕が続く[112]
    • 10月1日 - 村上が街頭での選挙運動中に逮捕される[113][112]
    • 12月23日 - S信用組合理事長が服毒自殺[112]
  • 1953年
    • 4月9日 - 追平が八王子駅付近街頭で逮捕される[112]
    • 6月23日 - 村上、実行犯グループの潜伏の徹底・国外逃亡を特別弁護人に指示[38][112]
    • 7月8日 - 上述の村上レポが警察当局に押収される[112]
    • 7月11日 - Tが脱党を声明[112]
    • 7月13日[注釈 36] - 村上、苫小牧警察署からの逃亡を企て失敗(1回目)[112]
    • 8月19日 - 幌見峠で発射弾丸1発(207号弾丸[25])が「発見」される[113]
    • 9月4日 - 上記207号弾丸と白鳥の体内から摘出された206号弾丸について、同一の銃器から発射されたものと「直ちには断定することが出来ないものと認められる」との鑑定書(銃鑑第七五九号)を国警科学捜査研究所が出す[112][113][114]
    • 10月19日 - 公判廷において村上が裁判長に殴りかかる[112]
  • 1954年
    • 1月16日 - 村上、苫小牧警察署からの逃亡を企て失敗(2回目)[38][112]
    • 2月15日 - 村上、苫小牧警察署からの逃亡を企て失敗(3回目)[38][112]
    • 4月30日 - 幌見峠試射場で2発目の弾丸(208号弾丸[25])が「発見」される[112][113]
    • 7月1日 - 改正警察法の施行により、国家地方警察と自治体警察が廃止され、警察庁と都道府県警察へ統合。
    • 7月30日 - 幌見峠で「発見」された207号弾丸・208号弾丸(「ニ個の弾丸」[25])と206号弾丸について、「同一銃器によって発射されたもの認定するに足る程度の類似発射痕特徴を発見し得なかった」との鑑定書(銃鑑第九七九号)を警察庁科学捜査研究所が出す[112][113][115]
    • 10月18日 - Sに懲役3年、執行猶予4年の判決[112]
  • 1955年
    • 7月 - 日本共産党第6回全国協議会。極左軍事冒険主義を転換[112]
    • 11月1日 - 札幌地検(高木一)の委嘱を受けた磯部孝東京大学教授が、「ニ個の弾丸」と206号弾丸について、「仮に異なれる銃器によって発射されたとするならば、現弾丸に見られる如き、線状痕の一致の生起する確率は極めて小さく、大きく見積もっても〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇一より小さいことが認められる」とする鑑定書(磯部鑑定書)を出す[113][116]
  • 1957年
    • 5月8日 - Tに懲役3年、執行猶予3年の判決[112]
  • 1958年
    • 4月13日 - 警視庁が「人民艦隊」第1勝漁丸関係者らを逮捕し、同船が中共に密出国させた乗客は『ひろ』ら白鳥事件容疑者4人と発表[112]
  • 1963年
    • 10月17日 - 最高裁判所(第一小法廷)が上告を棄却し、村上の実刑判決が確定[112][113]
    • 11月28日 - 村上が網走刑務所に収監される[112][113]
  • 1965年
    • 10月21日 - 再審請求書が札幌高裁に提出される[113]
  • 1967年
    • 11月18日~21日 - 鑑定人3名に対し、事実取り調べが行われる[112][113]
    • 11月21日 - 磯部鑑定書について、磯部に対し取り調べが行われる。その中で磯部は、自らが弾丸の鑑定については素人であること、東大には比較顕微鏡もないため最高検察庁の者から米軍を紹介され、G曹長に鑑定を丸投げしていたことを証言[62][113]
  • 1968年
    • 8月5日 - 科捜研鑑定書[注釈 37](銃鑑第七五九号・銃鑑第九七九号)が弁護団に提出される[113][117]
  • 1969年
    • 6月13日 - 札幌高裁が再審請求申立を棄却[113]
    • 11月14日 - 村上が仮釈放を受ける[112][113]
  • 1973年
    • 12月13日 - 川口らが中国から帰国[112]
  • 1975年
    • 5月20日 - 最高裁判所(第1小法廷)が村上の特別抗告棄却を決定[112][113]
  • 1988年
    • 『ひろ』ら2人が北京で客死[112]
  • 1994年
  • 1997年
    • 6月8日 - 時事通信社が「鶴田、北京で確認」と発信[112]
  • 1998年
    • 10月29日 - 川口が事件直後に報告を聞いたと暴露し、Tの証言を肯定[112]
  • 2012年
    • 3月14日 - 鶴田死去[112]
    • 10月27日 - 「白鳥事件を考える集い」開催[112]

脚注

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注釈

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  1. ^ 共産党札幌委員会の地下組織[1]
  2. ^ 当時の党主流派は所感派であったが、非主流派の国際派も武装闘争の契機となったコミンフォルム批判を出したソ連に忠実な立場であった[6]
  3. ^ NHKラジオの「三つの歌」が流れていたという証言がある[13]
  4. ^ この自転車は、警察署の駐輪場に停められていたものを持ち出したもので、事件後に元の場所に戻されたとされる[12]
  5. ^ 国家地方警察本部科学捜査研究所の鑑定では「1912年型ブローニング拳銃」とされたが、実際にそのような型式は確認できないため、世界的に流通していた1910年型の誤りでないかといわれる[15][16]。警察庁は、白鳥事件の捜査に関連して北大理学部の地下室から武器の製造研究に使われた火薬類・試験管・軍事方針のパンフレットが見つかったことを明らかにしている[17]。札幌委員会軍事部は、上述のブローニング拳銃に加えてイタリアのベルナルデリ社製護身用小型拳銃を保有していたものと推察される。この小型拳銃は、撃針が不調で北大工学部の工作室で修理が試みられたが、スプリングを調達できず、後日提供者に返還されている[18]。ベルナルデリ銃の持ち主は札幌市内のカフェ経営者であったが、1952年に変死している[19]
  6. ^ 1月4日には、村上・鶴田(後述)らが集まり宣言文「新年に当り警察官諸君に宣言す」と題する以下の文書を作成し、警察関係者や高田富與札幌市長らに送りつけている[20]
    親愛なる札幌の警察官諸君、新しい年を迎え、我々は諸君たちに重大なる決意を固めていただかなければならなくなった事を遺憾とするものである。それは、(中略)占領政策違反の名目で、労働者市民を抑圧しアメリカの手先として日本人を奴隷にする道と、今一つはかかる民族の利益を裏切り、日本人をアメリカに売り渡す売国奴共の命令を拒否し敢然として、日本人の利益のために闘う道とである。(中略)既に我々の兄弟たちは各所で実力の闘いを始めた。東京で諸君たちの同僚、もっとも悪らつな国民の敵である巡査が撲殺されたのは周知の事実だ。(中略)我々の行く手を遮るものは何人といえども容赦はしない。準備はできた。売国奴、国民の敵の功罪表は整備された。(白鳥ら警察官の実名)その他弾圧を積極的にやった外勤の巡査、及び警備課の諸君…警察官諸君、我々はこれらの敵、新しい敵を国民の名においてひとりひとり葬り去ることを宣言する。(後略)
  7. ^ 天誅ビラには「下る」と書かれたものと「降る」と書かれたものの2種類があり、渡部は「降る」の版は共産党の犯行を市民に印象付けるためにスパイを通じて原稿を入手した国警が撒いたものであると主張し[26][27]、国警が白鳥暗殺の事前情報を得ておきながらあえてこれを泳がせて犯行後にすかさずビラを増刷して弾圧のきっかけとしたとしている[28]。一方、後述のTは「国治さんは古いタイプの人間だから『降る』と『下る』のどちらの文字を使ったと思うかと聞かれたら、『降る』の方じゃないかという気がします」と述べている[29]
  8. ^ 再審請求審において、札幌高裁が「右ビラの文体は、簡潔でしかもなかなかの名文であつて、申立人(村上)以外に、このような文案を起草できる者がいないことは、多くの関係者の一致して指摘するところであるが(後略)」と言及している[25]
  9. ^ 後の裁判では、札幌委員会の「極左冒険主義」を批判する党北海道委員会による声明書が証拠として引用されている[4]
  10. ^ 本事件後の1952年6月に発生。
  11. ^ 元共産党員で組合員総代であった人物による公開質問状により流布した。この人物の名をとって「原田情報」と呼ばれる。理事長はその後服毒自殺した[33][22][19]
  12. ^ 「Sはスパイだ、裏切った」と書かれた党地下組織の文書を警察に見せられてSは観念したのだという[37]
  13. ^ この人物は元日本海軍第6震洋隊の下士官で実戦経験があり、戦後ポンプ職人をしていた[39]。T(後述)の証言によれば、『ひろ』は事件の一週間前にも白鳥の暗殺を試みたが、弾が発射されず未遂に終わっている[40]
  14. ^ 追平は「事件の前、『ひろ』の家で実包入りのブローニング拳銃をみた」「事件後、『ひろ』に会ったら『オレがやった』といっていた。『手ぬぐいに包んで撃ったので、二発目の薬きょうが引っかかって残ってしまい、あとが撃てなかった』などとも語っていた」と証言している[9]
  15. ^ 大石は、吉田岩窟王事件の再審を支援し、三鷹事件松山事件の冤罪を語った安倍が誘導じみたことをするはずがないとしている[41]。安倍自身も同僚検事の誘導尋問の手法(「査問」を逃れて警察に保護を求めた党員(後述)に対して行われた、泣き落とし。これによって自ら白鳥を射殺したとの言質を取ったが、ベテラン捜査官たちによって否定され、本人の供述も何度も覆ったため、殺人での起訴はされなかった[42]。)を紹介しながら、「それがしかし、捜査本部におけるそういう偽り、でっち上げ、間もなくばれるんですね。同様に共産党内ビューローにおけるいろんなでっち上げも間もなくばれることになると、こういうことなんです。やっぱり強いのは真実が強い」「そういう(模擬裁判で警察の捜査本部が出してきた指紋鑑定について偽物と発言した札幌の検事正)下に立って私どもは捜査したんですからね。[…]私が誘導尋問ででっち上げの調書を作ったなんていうことは、もう根も葉もないということはすぐわかるんですよ。それを松本清張が『日本の黒い霧』を書いて、安倍という男はどうも怪しいと言い出したんだから、これはもう松本清張の負けですね」と述べている[43]
  16. ^ 1月4日には村上側にアリバイがあることなどから、冤罪説を擁護する者たちはTの偽証を主張した。一方、Tの供述は事件から2年後のことであり、T自身も「(一般的には)謀議というのはもっと緻密にいろんな計画を建てるとか方針はこうだと。(中略)正式にはそんなものだと思うんだけども、そんなにきちっとしたあれした謀議じゃないわけですよ。だからもうそんな日にちなんて忘れちまいますよ。(中略)普通の事件であれば、その謀議がいつ行われたか、どこでやった、誰がやったのかということがものすごく大事なことになるんだけれども、我々にとってはあまり大事なことではないわけですよ」と述べている[45]
  17. ^ 犯行後に複数の党員を経由して近郊の畑に埋められたと言われる[12]
  18. ^ 東京に潜伏していたメンバーは組織の公然化のためかばうことができないと党中央統制委員から告げられ、乗船訓練を受けて1955年10月頃に焼津港などから上海へ向けて出港している[38]
  19. ^ 一方、松川事件においては活発に冤罪を主張した、広津和郎らは静観している[56]
  20. ^ 渡部は松本の冤罪説について「主観的で勝手な推測、ねじ曲げが随所に登場する」としている[57]。例えば、『ひろ』は射撃演習には参加していないのだから、(演習の遺留品である弾丸と施条痕が一致するとされた)事件に使われたピストルを所持しているはずがない旨の記述をしておきながら、4ページ後には「何回も拳銃の射撃練習に行っている」と記述している。松本は『ひろ』を"シロウト"として扱ったが実際には元軍人であり、軍装品として用いられていたブローニング拳銃の心得があったとしても不自然ではない[39]。松本が「暴露」したのは実のところ自らが批判する追平の『白鳥事件』の丸写しであったが[28]、追平と『ひろ』の会話を書き換えて「Tは大丈夫か」とあたかもTの裏切りを心配していたかのような文脈に仕立て上げていることも確認されており、渡部は「松本清張が白対協(日本共産党が組織した白鳥事件対策協議会のこと)の提出する材料を無批判に書いたというものではない極めて意識的な虚構だ。当時、Tは白対協や弁護団から、S、追平雍嘉と並ぶ裏切り者として糾弾されていたからだ。これは単なるミスでは済まされない」と松本がTにありもしない罪をなすりつけたとして批判している[58]
  21. ^ 当時日本には銃鑑定の専門家がいなかった[61]
  22. ^ 日本共産党は1955年1月1日に『赤旗』社説で極左冒険主義を自己批判し、公然化を宣言した[38]
  23. ^ 当時札委関係。
  24. ^ この指示が上述の人民艦隊による関係者の不法出国に関わっているとされる[22]
  25. ^ 主文の続きでは、「この見地に立つて本件をみると、原決定の説示中には措辞妥当を欠く部分もあるが、その真意が申立人に無罪の立証責任を負担させる趣旨のものでないことは、その説示全体に照らし明らかであつて、申立人提出の所論証拠弾丸に関する証拠が前述の明らかな証拠にあたらないものとした原決定の判断は、その結論において正当として首肯することができる」とされ、「所論は、事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、刑訴法四三三条所定の適法な抗告理由にあたらない」「要するに、所論の証拠弾丸に関する新証拠は、原判決の認定について合理的な疑いをいだかせるに足りないというべく、右新証拠が刑訴法四三五条六号所定の証拠の明白性の要件を具備しないとした原決定の判断は、その結論において正当として是認することができる」と結論づけられている[5]
  26. ^ この白鳥決定については、傍論ないし傍論的なものと見做す見解がある一方で、一般的法命題も判例に含める前提に立つのであれば白鳥決定はこれに該当するとした意見もある[75]
  27. ^ これらの白鳥事件に関与して四川省に滞在していた者たちは「四川組」と呼ばれ、中国名を名乗っていた[78]
  28. ^ 2人共白酒を浴びるように飲んでいたという[22]
  29. ^ 鶴田の事件との関わりは明らかにされていないが[81]、事件当日に白鳥警部を発見するまで『ひろ』と同行し、犯行に使ったブローニング拳銃の隠蔽に関わったとされる[12]。暗殺の実行者だったとする主張もある[82]
  30. ^ 教科書では中国語で同じ発音(拼音: Tángzémíng)となる「唐則銘」という名義を用いた。「中国の恩を覚えておく」という意味が込められているという[81]
  31. ^ 鶴田の現地での暮らしぶりは安定していたが、同居する配偶者が中国当局の監視役であったことが示唆されている[84]
  32. ^ 川口は妻とともに1956年3月に人民艦隊で中国大陸に渡り[89]、滞在中の1967年に起きた北京空港事件砂間一良を庇い、その後監禁・査問を受けた。田中角栄訪中後の1973年12月に帰国した川口は、鶴田の帰国にも取り組み、帰国後は真相を語ること、弁護士は国選弁護人にすることなどで1997年4月に鶴田と合意したという。しかし、上述の時事通信のスクープ報道後、鶴田からの連絡は途絶えた[90][80]
  33. ^ 川口は1947年に村上の勧誘を受け、日本共産党に入党している[91]
  34. ^ 川口が的屋グループに属する甥に依頼して『ひろ』を奈井江白山の鉱山飯場へ送り込んだことは、裁判で用いられた参考人調書でも確認される[98]
  35. ^ 川口らとの共著を五月書房から刊行する動きがあったが、2021年現在出版は確認されていない[99]
  36. ^ 11日とも[38]
  37. ^ これらの鑑定書は法廷に提出されておらず、2度にわたる弁護団からの札幌高裁への照会要求によって内容が明らかとなった[117]
  38. ^ 事件の事情を知る、川口の帰国後の動きを悲観しての焼身自殺であったとも言われる[4]

出典

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参考文献

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関連書籍

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  • 村上国治 著、白鳥事件中央対策協議会 編『壁あつくとも 村上国治獄中詩・書簡集』日本青年出版社、1969年。 
  • 宮川弘『白鳥事件の謎 ノンフィクション・スパイシリーズ』東洋書房、1968年。 
  • 村上国治『網走獄中記:白鳥事件-獄中18年たたかいの記録』日本国民救援会中央本部、1974年。 
  • 山田清三郎『白鳥事件研究 昭和史の発掘』白石書店、1977年3月。 
  • 長岡千代『国治よ 母と姉の心の叫び 謀略白鳥事件とともに生きて』光陽出版社、1997年11月。ISBN 978-4876622122 
  • 山田清三郎『白鳥事件』新風舎、2005年10月。ISBN 978-4797498516 
  • 柳原滋雄『実録・白鳥事件ー「五一年綱領」に殉じた男たち』論創社、2023年12月。

関連項目

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外部リンク

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