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下飯坂潤夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

下飯坂 潤夫(しもいいざか ますお、1894年1月29日 - 1971年12月26日)は、日本の裁判官最高裁判所判事[1]宮城県出身[1]。四男はシナリオ作家下飯坂菊馬[2]小説家橘かがりは孫[3]

経歴

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旧制宮城県立仙台第一中学校旧制第二高等学校東京帝国大学法科大学卒業[1]。第二次世界大戦前は鳥取地裁所長、水戸地裁所長、新潟地裁所長、大審院判事などを務め、その後は札幌高裁長官、名古屋高裁長官、大阪高裁長官を歴任[1]

1956年11月に最高裁判事となる[1]岩松三郎裁判官の後任であり、当初は安部恕東京高裁長官が候補に上ったが、安部が辞退したため下飯坂になった[1]

八海事件の第二次上告審では第一小法廷裁判長として単独犯行説ではなく5人犯行説をとって1962年5月17日に無罪判決を破棄し、広島高裁に差し戻す判決を言い渡した(八海事件は1968年10月に第三次上告審で無罪判決が確定した)[4]

松川事件では有罪説に立ち、第二次上告審のとき、無罪とした仙台高裁判決を罵倒[注 1]したが、最高裁第一小法廷の合議では無罪3対有罪1で無罪判決が確定した[5]。1964年1月に定年退官[6]

白鳥事件の上告審は第一小法廷に係属し、下飯坂も審理に加わることになったが、松川事件における判決を見て警戒した弁護団が忌避申立てをされたが、却下された[6]

1971年12月に脳軟化症のため、東京都三鷹市の自宅で死去した[6]。。

松川事件の無罪確定は終生の痛恨事とされ、死去後に遺言によって、遺体と共に松川事件の判決文が棺に納められた[7]

裁判官としての信条は「当然なことを着実にやりたい。事件にまともに取り組み、よく調べ誤り無きを期しているのみ」[4]

趣味は歌舞伎や野球やラグビー観戦[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 最高裁判所第一小法廷判決昭和38年09月12日刑集第17巻6号661頁(引用文は最高裁の公表しているPDFテキストのまま)「原判決はいろいろごまかしは云う」,「原判示はこぢつけ以外の何ものでもない。」,「私の同僚は本事件と真正面に取組まれ老体遂に職務に斃れられた、然るに原審裁判官はどうであろう。何千とある証拠の中も片々たる前示二つの調書にのみ拘着し、しかのこれに十分な詮索検討をも加えず、いとも簡単に且つこれが判文であるかと驚く程の舞文曲筆で以て第一審判原二審判決を一蹴して去つているのである。その浅薄さ、その短見さ極言するとその卑劣さ、云うべき言葉を知らない。しかも大言壮語する。弱い犬程大いに吠えるのたぐいである。今後もあることと思うが、裁判所の門戸に打ちつける嵐はきびしい、われわれ裁判官は徒手空挙で以ても、これをはねかえさなければいけない。私と雖も人権の尊重すべきことは十分に知つている。殊更に被告らを窮地に追い込もうなどとは思つてもいない。しかし、その構造の粗雑さにおいて、その表現の独断的で偏向的な、しかも壮語高言する原判決には我慢ができなかつたのである。このような判決を見逃すことは最高裁判所の恥だと考えたのである。これ敢えて、私が少数意見を発表する所以である。」

出典

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参考文献

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  • 野村二郎『最高裁全裁判官』三省堂、1986年。ISBN 4385320403 
  • 野村二郎『日本の裁判史を読む事典』自由国民社、2004年。ISBN 4385320403 

外部リンク

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