「スイケトゥ・チェルビ」の版間の差分
m編集の要約なし |
m cewbot: ウィキ文法修正 1: Template contains useless word template |
||
31行目: | 31行目: | ||
*村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年。 |
*村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年。 |
||
*村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年。 |
*村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年。 |
||
{{ |
{{チンギス・カンの御家人}} |
||
{{DEFAULTSORT:すいけとうちえるひ}} |
{{DEFAULTSORT:すいけとうちえるひ}} |
||
[[Category:モンゴル帝国の将軍]] |
[[Category:モンゴル帝国の将軍]] |
2019年2月11日 (月) 01:20時点における版
スイケトゥ・チェルビ(モンゴル語: Süyiketü Čerbi,中国語: 速亦客禿扯児必,? - ?)は、コンゴタン氏出身のチンギス・カンに仕えた千人隊長の一人。『元史』などの漢文史料では速亦客禿扯児必(sùyìkètūchĕérbì)、『集史』などのペルシア語史料ではسوکتو چربی(Sūkātū Jarbī)と記される。
概要
チンギス・カンに仕えたコンゴタン族長モンリク・エチゲの息子として生まれ、兄にはココチュ(テプ・テングリ)、トルン・チェルビ、弟にはダイル(諸説あり)らがいた。
スイケトゥはチンギス・カンが最初に定めたケシク(親衛隊)のバウルチ(主膳の司)の一人であったことが知られている。『モンゴル秘史』にはバヤウト部のオングル、スニト部のカダアン・ダルドルカンら3人が、チンギス・カンの「朝の飲み物/え欠かすまじ 夕べの飲み物を/え怠るまじ」という言葉とともに最初のバウルチに任ぜられたと記されている[1]。
1204年、ケレイトを併合したチンギス・カンは千人隊制度(ミンガン)、親衛隊制度(ケシク)の原型を創設し、モンゴル帝国の基盤を作り上げた。その際、ドダイ、ドゴルク、オゲレ、ブチャラン、そしてトルンとスイケトゥ兄弟の6人を侍従(チェルビ)に任命した[2]。これ以後、スイケトゥはチンギス・カンの側近として活躍するようになる。
1219年、ホラズム遠征が始まると、スイケトゥはバアリン部のアラク・ノヤン、スルドス部のタガイとともに別働隊としてファナーカト攻略に派遣された。本来、東方からマーワラーアンナフルに向かうに進む際にはファナーカトを経由するルートが正規であり、アラクらの別働隊はオトラル経由で進むチンギス・カンの「本隊」から目をそらす陽動部隊としての役割を担っていたと考えられる。実際に、アラクはファナーカトを短期間で攻略した後もすぐにシル川を渡らず、続いてホジェンドを攻略した[3]。これ以後のスイケトゥの事蹟については知られていない。
コンゴタン氏モンリク家
- モンリク・エチゲ(Mönglik Ečige >蒙力克額赤格/ménglìkèéchìgé,منکلیک یجیکه/Munklīk Ījīka)
脚注
参考文献
- 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年。
- 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年。
- 杉山正明「モンゴルの破壊という神話」『ユーラシア中央域の歴史構図』総合地球環境学研究所、2010年
- 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年。
- 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年。