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アンチュル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アンチュルモンゴル語: Ančul、? - 1263年)は、モンゴル帝国に仕えた人物の一人で、オングト部の出身。『元史』には按竺邇(ànzhúĕr)と按主奴(ànzhŭnú)という2通りの表記があるが、この名前はラドロフのトルコ語方言辞典に見える「賢明」を意味するカザフ語"Aŋčïl"と同語源の単語と考えられている[1]。また、『元朝秘史』に千人隊長の一人として記されるアジナイと同一人物とする説もあるが、1211年以降にモンゴルに帰順したアンチュルが1206年に任命された千人隊長に数えられることはありえないとして現在では否定的な見解が主流である[2]

概要

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生い立ち

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アンチュルはオングト部族の出身[3]で、代々雲中に居住してきた一族の出身であった。アンチュルの父の䵣は金朝に軍牧使として仕えていたが、当時のオングト部族長アラクシ・ディギト・クリが新興のチンギス・カン率いるモンゴルに服属すると、これに従ってモンゴルに仕えるようになった。しかし、1211年にアラクシ・ディギト・クリがチンギス・カンの金朝遠征を手助けした際、オングト内の反モンゴル派勢力が蜂起してアラクシは殺され、䵣もこの内乱に巻き込まれて殺されてしまった。孤児となったアンチュルは幼い頃母方の祖父の朮要甲(zhúyàojiǎ)に育てられたため、後に母方の祖父の名前に通じる「趙(zhào)」を自らの姓としたという[4]

アンチュルは14歳にしてチンギス・カンの次男のチャガタイに仕え、ある時狩猟で2匹の虎が飛び出てきたのを一人で射斃してしまったため、以後弓の名手としてチャガタイに重用されるようになった。1214年(甲戌)からはチンギス・カンの中央アジア遠征に従軍し、その功績によって千人隊長に任じられた[5]1227年(丁亥)、西夏遠征の際には別動隊としてスブタイとともに積石州・河州・臨洮・徳順の攻略に功績を挙げ、その後は秦州に駐屯した[6]

金朝との戦い

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1229年にチンギス・カンの三男のオゴデイが即位すると、オゴデイ即位に尽力したチャガタイは「皇兄」として厚遇され、アンチュルもまた元帥の地位を授けられた。西夏の攻略後、その旧領はチンギス・カンの諸子に分割相続され、ジョチ家が敦煌(沙州)一帯を、チャガタイ家が刪丹(山丹州)一帯を、オゴデイ家が西涼一帯を領地として得た。アンチュルは1228年にこの新領土の刪丹に派遣されたが、この年はモンゴル帝国の辺境各地にタンマチが派遣された年でもあり、アンチュルの派遣もその一環であったと考えられている[7]。また、同年には敦煌から玉門関に至る地のジャムチ(駅伝)設置を行っている[8][9]

1231年(辛卯)にはオゴデイの金朝親征に呼応して陝西方面の鳳翔の包囲に加わり、アンチュルは投石によって攻城を阻む金軍に対し、決死隊を選抜して城壁を上り金将の劉興哥を討って城を陥落させた。鳳翔の陥落後は西和州に侵攻したが、ここは宋将強俊が数万の軍勢を擁する防備の整った地であった。そこでアンチュルは死士を選抜して丈平を挑発させ、これに怒った強俊が城を出た所で伏兵に城を攻撃させ、遂に西和州を下した。その後も余勢をかって平涼・慶陽・邠州・原州・寧州を攻略したが、その後涇州は後に再度背いたため、アンチュル配下の武将たちは城民を皆殺しにするよう主張したが、アンチュルはそのような意見を抑えて首魁のみを訣するよう指示したという。アンチュル軍が原州に帰還するとモンゴルに降った民が老人・子供を捨てて夜半に逃亡したため、アンチュルの部下たちは「これはモンゴルに対する反乱である。残された者たちを処刑してその他の住民への警告すべさである」と主張した。しかし、アンチュルは「逃れた者たちは我等にモンゴル高原に連れて行かれるのを恐れたのであろう」と述べ、逃れた者たちに使者を派遣して「汝らがもしこのまま逃れるならば軍法によって家族は残らず処刑とされるだろう。汝らがもし戻れば処罰はない。(我等のもとにもう一度起算するならば、)翌年牛や酒を用意して我が軍を出迎えよ」と論したため、逃れた民も戻ってきたという。また、豪民の陳苟が数千人を集めて新寨諸洞に立て籠もった時も、火をつけて皆殺しにすべきとする配下の意見を抑えて使者を派遣し、戦わずして投降させることに成功している[10]

1234年(甲午)に哀宗の死によって金朝が滅亡すると、アンチュルは鳳翔一帯で抵抗を続ける金の将軍郭斌の討伐を命じられ、会州に立てこもる郭斌を包囲した。食料が尽きた郭斌は城より逃れようとしたが、城門にてこれを待ち構えていたアンチュル軍と乱戦になり、多くの死傷者が出た。敗北を悟った郭斌は自らの妻子を一室に集めて火をつけ、自らも火中に身を投じて命を絶った。その後、火中から赤子を抱いた女奴隷があらわれ、泣きながらこれは郭斌の遺児であり、哀れんでこの子供を助けてくれれば幸いであると語って子供を渡し、自らは再び火中に身を投じた。これを聞いたアンチュルは惻然として子供の命を奪わないよう命じたという[11]。その後もトルイ軍の先鋒として金軍との戦いを続け、1232年にはこの戦役における最大の激戦となった三峰山の戦いにも従軍した[12]

1235年にはオゴデイの次男のコデンが鞏州汪世顕討伐を命じられたが、コデンはなかなか汪世顕を屈伏させることができなかった。そこでアンチュルが使者として汪世顕の下を訪れ説得したため、遂に汪世顕はモンゴルに投降してコデンの指揮下に入ることになった[13]。この功績を称え、アンチュルはチャガタイよりバートルの称号と征行大元帥の地位を授けられている[14]

南宋との戦い

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1236年(丙申)、オゴデイの三男のクチュを総司令とする南宋遠征が始まると、アンチュルは宗王モチ・イェベの指揮下に入って四川方面に侵攻することになった。アンチュルは砲兵を先鋒として宕昌を攻略した。文州攻めでは守将の劉禄が奮戦して数カ月に渡って城を落とすことができなかったが、アンチュルは城中に井戸がないことを探り当てた上で宋軍の糧道を絶ち、勇士を率いて城壁を登って守兵数十人を殺し、遂に文州を攻略した。また、この頃吐蕃の僧長勘陁孟迦らを招聘して銀符を与えた。アンチュルが龍州を攻略すると、四川方面の諸軍は再結集して要衝の成都を攻撃し、遂にこれを陥落させた。しかし、モンゴル軍が一度引き上げた後、成都は再びモンゴルに背いて南宋に帰属している[15]

1237年(丁酉)、アンチュルはモチ・イェベに「隴地方の州県はすでに平定されましたが、人心はなお背く気持ちがあります。西の漢陽は隴と蜀を結ぶ要衝です。南宋やチベットが侵入するのに便利なところです。優秀な武将を得て、配置してこの地を鎮守すべきです」と献策した。これに対し、モチ・イェベは「謀反の気持ちを抑え、侵入する敵を制することは良策である。しかし、汝アンチュル以外に替わるものはいない[16]」と述べて、千人隊長5名を分けてその地に派遣することとした[17]。また、この頃に新たな駐屯地として漢陽(西和州)・礼店(礼県)を選び、これ以後陝西地方には鞏昌の汪氏、秦州の馬氏、そして礼店の趙氏(アンチュル一族)というオングト系の3勢力が連なることとなった[18][19]

1238年(戊戌)にはアンチュルらかつてモチ・イェベの配下にあった指揮官たちはオゴデイによって任命された元帥タガイの下に転属して四川方面に侵攻し、隆慶にて勝利した。さらに1239年(己亥)には重慶を攻め、1240年(庚子)には万州を攻囲した。宋軍は軍船数100艘を率いて攻めてきたが、アンチュルは精鋭を率いて巨大な筏に乗り、敵の間をくぐり抜けて弩・弓による攻撃をしかけ、遂に南宋軍を破った。1241年(辛丑)には西川地区に侵攻し、20城余りを陥落させた[20]

晩年

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しかし、1243年から1250年にかけてアンチュルの軍事活動は史料上に全く見られなくなる。これは、1241年のオゴデイの死から次のカアン位をめぐってトルイ家のモンケを推す派関とオゴデイ家のグユクを推す派閥との間で政争が激しくなり、外征にカをそそぐことができなかったためであると考えられている[21]。1250年(庚戌)、久方ぶりに活動を再開したアンチュルは涇州・邠州を安定させた。しかし、翌1251年に即位したモンケはカアン位をめぐって敵対派閥であったオゴデイ家・チャガタイ家の有力者を粛清し、これにアンチュルも巻き込まれた。モンケより召還されたアンチュルは旧鎮(=刪丹)に戻るよう命じられ、南宋軍による文州攻撃などがあったにもかかわらず、刪丹に留められて四川方面の前線に戻されることはなかった[22][23]。代わって四川方面の指揮官に抜擢されたのがサルジウト部のタイダルで、タイダル家とアンチュル家は後々まで四川方面の軍事を委ねられる[24]

1259年、モンケが急死するとカアン位を巡ってクビライとアリクブケとの間で帝位継承戦争が勃発し、アンチュルらの拠る関隴地方にはアリクブケ派の巨魁アラムダールクンドゥカイの連合軍が南下してきた。モンケ体制下で冷遇されていたアンチュルはモンケ政権を引き継ぐアリクブケ派と敵対することを決意し、クビライがアラムダール軍討伐のために派遣したカダアン・オグル率いる軍勢に合流した。子のチェリクが四川方面に駐屯していたため、アンチュルは老体をおして自ら出陣し、同じくオングト部出身の汪良臣とともにアラムダール・クンドゥカイらを捕虜とする功績を挙げた。この報告を聞いたクビライは大いに喜び、弓矢・錦衣を与えている。それから程なくして1263年(中統4年)に、69歳にしてアンチュルは亡くなった[25]

子孫

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アンチュルの子供は10人いたが、その中でも名前が知られているのはチェリク、ヒジル(趙国宝)、テムル(趙国安)、趙国能の4名である。

オングト部アンチュル家

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脚注

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  1. ^ 松田1992,81頁
  2. ^ 松田1992,69頁
  3. ^ 『元史』巻180趙世延伝ではコンギラト部族出身とも記されるが、アンチュルの出身地雲中がオングト部族の勢力圏であることや、同列伝の別の箇所で「帝曰『世延誠可用、然雍古氏非漢人、其署宜居右』」とあることなどから、やはりオングト部族出身とするのが正しいと考えられている(松田1992,68-69頁)。
  4. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「按竺邇、雍古氏。其先居雲中塞上、父䵣公、為金群牧使。歳辛未、駆所牧馬来帰太祖、終其官。按竺邇幼鞠於外祖朮要甲家、訛言為趙家、因姓趙氏」
  5. ^ 『集史』などの記述によってチャガタイには4つの千人隊が分与されたことが知られているが、アンチュルの千人隊もその一つではないかとする説がある。しかし、松田考一はチャガタイへの分与は1207年-1211年頃になされたものであって、1211年以降にモンゴルに仕えるようになったアンチュルの千人隊をその一つに数えることはできないと指摘している(松田 1992,69-70頁)。
  6. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「按竺邇、雍古氏。其先居雲中塞上、父䵣公、為金群牧使。歳辛未、駆所牧馬来帰太祖、終其官。按竺邇幼鞠於外祖朮要甲家、訛言為趙家、因姓趙氏。年十四、隷皇子察合台部。嘗従大猟、射獲数麋、有二虎突出、射之皆死。由是以善射名、皇子深器愛之。甲戌、太祖西征尋思干・阿里麻里等国、以功為千戸。丁亥、従征積石州、先登、抜其城。囲河州、斬首四十級。破臨洮、攻徳順、斬首百余級。攻鞏昌、駐兵秦州」
  7. ^ ただし、他のタンマチは出自は高くないがケシク(親衛隊)出身でカアンに忠誠心の高い者が選抜されていたのに対して、チャガタイ家所属の指揮官であったアンチュルの存在は特異であった(松田1992,70-71頁)。
  8. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「太宗即位、尊察合台為皇兄、以按竺邇為元帥。戊子、鎮刪丹州、自敦煌置駅抵玉関、通西域、従定関隴」
  9. ^ 本来、ジャムチの設置はオゴデイ時期に始められたと考えられているが、近年の研究ではオゴデイ即位以前からジャムチの設置は始まっていたことが指摘されている(松田1992,71頁)。
  10. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「辛卯、従囲鳳翔、按竺邇分兵攻西南隅、城上礌石乱下、選死士先登、抜其城、斬金将劉興哥。分兵攻西和州、宋将強俊領衆数万、堅壁清野、以老我師。按竺邇率死士罵城下、挑戦。俊怒、悉衆出陣、按竺邇佯走、俊追之、因以奇兵奪其城。伏兵要其帰、転戦数十里、斬首数千級、擒俊。余衆退保仇池、進撃抜之、従抜平涼・慶陽・邠・原・寧皆降。涇州復叛、殺守将郭元恕、衆議屠之、按竺邇但誅首悪。師還原州、降民棄老幼、夜亡走。衆曰『此必反也、宜誅之以警其余』。按竺邇曰『此輩懼吾駆之北徙耳』。遣人諭之曰『汝等若走、以軍法治罪、父母妻子並誅矣。汝帰、保無他。明年草青、具牛酒迎師於此州』。民皆復帰。豪民陳苟集数千人潜新寨諸洞、衆議以火攻之。按竺邇曰『招諭不出、攻之未晩』。遂偕数騎抵寨、縦馬解弓矢、召苟遙語、折矢与為誓。苟即相呼羅拜、謝更生之恩、皆降」
  11. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「甲午、金亡。初、金将郭斌自鳳翔突囲出、保金・蘭・定・会四州。至是命按竺邇往取之、囲斌於会州。食尽将走、敗之於城門。兵入城巷戦、死傷甚衆。斌手剣駆其妻子聚一室、焚之。已而自投火中。有女奴自火中抱児出、泣授人曰『将軍尽忠、忍使絶嗣、此其児也、幸哀而収之』。言畢、復赴火死。按竺邇聞之惻然、命保其孤。遂定四州」
  12. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「金人守潼関、攻之、戦於扇車回、不克。睿宗分兵由山南入金境、按竺邇為先鋒、趣散関。宋人已焼絶桟道、復由両当県出魚関、軍沔州。宋制置使桂如淵守興元。按竺邇假道於如淵曰『宋讎金久矣、何不従我兵鋒、一洗国恥。今欲假道南鄭、由金・洋達唐・鄧、会大兵以滅金、豈独為吾之利。亦宋之利也』。如淵度我軍圧境、勢不徒還、遂遣人導我師由武休関東抵鄧州、西破小関。金人大駭、謂我軍自天而下。其平章完顔合達・枢密使移剌蒲阿帥十七都尉、兵数十万、相拒於鄧。我師不与戦、直趣鈞州、与親王按赤台等兵合、陳三峰山下。会天大雪、金兵成列。按竺邇先率所部精兵迎撃於前、諸軍乗之、金師敗績。癸巳、金主奔蔡。十二月、従囲蔡」
  13. ^ 松田1992,72頁
  14. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「金将汪世顕守鞏州、皇子闊端囲之、未下。遣按竺邇等往招之、世顕率衆来降。皇兄嘉其材勇、賞賚甚厚、賜名抜都、拜征行大元帥」
  15. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「丙申、大軍伐蜀、皇子出大散関、分兵令宗王穆直等出陰平郡、期会於成都。按竺邇領炮手兵為先鋒、破宕昌、残階州。攻文州、守将劉禄、数月不下、諜知城中無井、乃奪其汲道、率勇士梯城先登、殺守陴者数十人、遂抜其城、禄死之。因招来吐蕃酋長勘陁孟迦等十族、皆賜以銀符。略定龍州。遂与大散軍合、進克成都。師還、而成都復叛」
  16. ^ 訳文は松田 1992,73頁より引用
  17. ^ ただし、南宋に対して蒙古・漢軍混成軍=タンマチが駐屯して相対するという体制は河南地方でも実施されており、アンチュル独自の発案ではなく、モンゴル帝国全体の対南宋戦略の一環として定められたものであると考えられている(松田1992,75-77頁)。
  18. ^ 松田1992,75頁
  19. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「丁酉、按竺邇言於宗王曰『隴州県方平、人心猶貳、西漢陽当隴蜀之衝、宋及吐蕃利於入寇、宜得良将以鎮之』。宗王曰『安反側、制寇賊、此上策也、然無以易汝』。遂分蒙古千戸五人、隷麾下以往。按竺邇命侯和尚南戍沔州之石門、朮魯西戍階州之両水、謹斥候、厳巡邏、西南諸州不敢犯之」
  20. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「戊戌、従元帥塔海率諸翼兵伐蜀、克隆慶。己亥、攻重慶。庚子、図万州。宋人将舟師数百艘逆流迎戦。按竺邇順流率勁兵、乗巨筏、浮革舟於其間、弓弩両射、宋人不能敵、敗諸夔門。辛丑、伐西川、破二十余城。成都守将田顕開北門以納師。宋制置使陳隆之出奔、追獲之、縛至漢州、令誘降守将王夔。夔不降、進兵攻之。夔夜駆火牛、突囲出奔、遂斬隆之。壬寅、会大軍破遂寧・瀘・叙等州。癸卯、破資州」
  21. ^ 松田1992,77頁
  22. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「庚戌、按竺邇安輯涇・邠二州。宋制置使余玠攻興元、文州降将王徳新乗隙自階州叛、執扈・牛二鎮将、領衆千餘走江油。憲宗召按竺邇還旧鎮。按竺邇遣将直搗江油、奪扈・牛以帰」
  23. ^ 松田1992,80頁
  24. ^ 松田1992,80-81頁
  25. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「中統元年、世祖即位、親王有異謀者、其将阿藍答児・渾都海図拠関隴。時按竺邇以老、委軍於其子。帝遣宗王哈丹・哈必赤・阿曷馬西討。按竺邇曰『今内難方殷、浸乱関隴、豈臣子安臥之時耶。吾雖老、尚能破賊』。遂引兵出刪丹之耀碑谷、従阿曷馬、与之合戦。会大風、晝晦、戦至晡、大敗之、斬馘無算。按竺邇与総帥汪良臣獲阿藍答児・渾都海等。捷聞、帝錫璽書褒美、賜弓矢錦衣。四年、卒、年六十九。延祐元年、贈推忠佐運功臣・太保・儀同三司・上柱国、封秦国公、諡武宣」

参考文献

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  • 松田孝一「チャガタイ家千戸の陝西南部駐屯軍団 (上)」『国際研究論叢: 大阪国際大学紀要』第7/8合併号、1992年
  • 松田孝一「チャガタイ家千戸の陝西南部駐屯軍団 (下)」『国際研究論叢: 大阪国際大学紀要』第7/8合併号、1993年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年
  • 元史』巻121列伝8