ジェデル
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ジェデル(J̌eder, ? - 1237年)は、モンゴル帝国に仕えた軍人の一人。『元史』などの漢文史料では直脱児(zhítuōér)と記される。
概要
[編集]ジェデルの父アチャル(阿察児)はモンゴル帝国の建国者チンギス・カンに仕えてケシクテイ(親衛隊)のバウルチとなった人物であった。また、『元朝秘史』の功臣表78位には「者迭児(zhĕdiéér)」という名前が挙げられているが、この「者迭児」は『元史』の記すと「阿察児」もしくは「直脱児」と同一人物ではないかと考えられている[1]。
ジェデルは第2代皇帝オゴデイの治世に、バトゥを総司令とするヨーロッパ遠征に従軍し、キプチャク・カンクリ諸部の攻略に功績を挙げた。1232年、金朝征服にも従軍し、河南・関西の一帯の攻略に従事した。この功績によって4万の民戸を与えられたが、これはトゥルイ家のソルコクタニ・ベキに属するものであった。1236年、ジェデルは織染七局を涿州に設置し、その翌年には涿州路のダルガチとされたが、間もなく亡くなった[2]。
子孫
[編集]ジェデルの死後は息子のカランジュ(哈蘭朮)が後を継いだ。李璮の乱が起こると、カランジュは叛乱鎮圧に活躍し、この功績によって万人隊長に任ぜられた。その後益都路のモンゴル万人隊に移り、密州における戦いの中で陣没した[3]。カランジュの死後、その地位はジェデルの甥クラチュに受け継がれた。
なお、『元史』巻133列伝にはクラチュの列伝があるが[4]、『元史』巻123のジェデルの列伝と内容がほとんど重複しているとの批判がある[5]。
脚注
[編集]- ^ 村上1972,388頁
- ^ 『元史』巻123列伝10直脱児伝,「直脱児、蒙古氏、父阿察児、事太祖、為博児赤。直脱児従太宗征欽察・康里・回回等部有功。四年、収河南・関西諸路、得民戸四万餘、以属荘聖皇太后、為脂粉絲線顔色戸。八年、建織染七局於涿州。明年、改涿州路、以直脱児為達魯花赤。卒」
- ^ 『元史』巻123列伝10直脱児伝,「子哈蘭朮襲、佩虎符。李璮叛、世祖命領諸万戸為監戦達魯花赤以討之。有功、授解万戸翼監戦領軍。遷益都路蒙古万戸、監戦密州、歿於軍」
- ^ 『元史』巻133列伝20忽剌出伝,「忽剌出、蒙古氏。曾祖阿察児、事太祖、為博児赤。祖赤脱児、従太宗征欽察・康里・回回等国有功、為涿州達魯花赤、卒。伯父哈蘭朮襲職、佩金符、以功稍遷益都路蒙古万戸、歿於軍」
- ^ 小林1972,13頁