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バイバク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

バイバクモンゴル語: Baibaq中国語: 伯八、? - 1276年)は、クビライに仕えたコンゴタン出身の万人隊長。『元史』などの漢文史料では伯八(bǎibā)と記される。

概要

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バイバクの祖父のモンリク・エチゲはチンギス・カンの義父として功臣筆頭に位置づけられた人物で、またバイバクの父のトルン・チェルビはチンギス・カンの側近として金朝・西夏遠征に活躍しているなど、バイバクの家系はモンゴル帝国有数の名家であったといえる[1][2]モンケ・カアンの治世の7年目(1257年)、バイバクはチャガタイ家の投下領である太原に投下領を設定され、この頃既に父の後を継いでいたと見られる[3]

モンケの死後、クビライが第5代皇帝(カアン)として即位すると、バイバクは建国の功臣の子孫であることを買われ、トゥメン(万人隊長)としてキルギス人の住まうケムケムジュート地方に駐屯するように命じられた[4]

1276年トク・テムルの主導によってアルマリクで「シリギの乱」が勃発すると、叛乱軍はシリギをカアンに戴いて「祖宗興隆の地」モンゴリアを目指して東進した[4]。いち早く叛乱軍の侵攻に気づいたバイバクはクビライに叛乱軍の進撃を報告し、自らの手兵で叛乱軍の侵攻を押しとどめようとしたが、衆寡敵せず敗死してしまった[4][5]

子孫

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バイバクにはバラク(八剌)とブラルキ(不蘭奚)という息子達がいた。「シリギの乱」でバイバクが亡くなると、トク・テムルは生け捕りとしたバイバクの息子のバラクとブラルキ兄弟を身近に置いて重用し、彼等を頗る厚遇した。しかしバラクらは父の仇を忘れておらず、トク・テムルの近侍と密かに通じてトク・テムルを謀殺しようとした[4]。しかし家人から謀議がトク・テムルに報告されてしまい、計画が失敗したことを悟ったバラクは家族を連れて南方に向かって逃走した。トク・テムルはこれに対して追っ手の騎兵を派遣し、渡河に手間取っていたバラクらを包囲して矢を放ち、力尽きたバラクらは投降した[4]

トク・テムルは自らの下に連れてこられたバラク兄弟に対して「我は汝を厚く遇したというのに、汝は何故このような行動にでたのか」とバラクらの行動を強く責めた。これに対してバラクは「汝は君主に反逆し、我が父を殺し、我が家族を掠奪した。[故に]我は汝を殺し、君父の仇に報いんと誓ったのである」と答えた。バラクらは跪けと言われても跪かず、その膝を砕かれても跪かず、遂に兄弟ともに殺された[4]。この忠義を称えて、バイバク、バラク父子は『元史』巻193「忠義伝」に立伝されている[6]

バラクにはアドゥーチという息子がおり、河北河南道粛政廉訪使の職にあったという[7]

コンゴタン氏モンリク家

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脚注

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  1. ^ 『元史』巻193列伝80伯八伝,「伯八、晃合丹氏。祖明里也赤哥、嘗隷太祖帳下。……父脱忽闌闍里必、扈従太祖征西域,累立奇功」
  2. ^ 村上1972,350-351頁
  3. ^ 『元史』巻193列伝95志44歳賜,「伯八千戸:五戸絲、丁巳年、分撥太原一千一百戸。延祐六年、実有三百五十一戸、計絲一百四十斤」
  4. ^ a b c d e f 村岡1985,318頁
  5. ^ 『元史』巻193列伝80伯八伝,「世祖即位、以伯八旧臣子孫、擢為万戸、命領諸部軍馬屯守謙謙州。至元十二年、親王昔列吉・脱鉄木児叛、奔海都。伯八以聞、且願提兵往討之、未得命、為彼所襲、死焉」
  6. ^ 『元史』巻193列伝80伯八伝,「脱鉄木児虜其二子八剌・不蘭奚、分置左右、居歳餘、待之頗厚。八剌陰結脱鉄木児近侍也里伯禿、謀報父仇、後為也伯里禿家人泄其謀。八剌知事不成、将家族南奔、脱鉄木児遣騎追之、至一河、八剌馬驚、不能渡、回拒之、射中数人、力窮、兄弟就擒。脱鉄木児責之曰『我待汝厚甚、而汝反為此耶』。八剌曰『汝背叛君上、害我父、掠我親属、我誓欲殺汝、以報君父之讎、今力窮被執、従汝所為』。逼令跪、不屈、以鉄撾碎其膝、終不跪、与弟不蘭奚同被害」
  7. ^ 『元史』巻193列伝80伯八伝,「幼子何都兀赤、官至河北河南道粛政廉訪使」

参考文献

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  • 村岡倫「シリギの乱 : 元初モンゴリアの争乱」『東洋史苑』第 24/25合併号、1985年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年