コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「クドカ・ベキ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m cewbot: ウィキ文法修正 1: Template contains useless word template
61行目: 61行目:
*村上正二訳注『モンゴル秘史 1巻』平凡社、1970年
*村上正二訳注『モンゴル秘史 1巻』平凡社、1970年
*村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年
*村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年
{{Template:チンギス・カンの御家人}}
{{チンギス・カンの御家人}}
{{DEFAULTSORT:くとかへき}}
{{DEFAULTSORT:くとかへき}}
[[Category:オイラト部]]
[[Category:オイラト部]]

2019年2月11日 (月) 01:18時点における版

クドカ・ベキモンゴル語: Quduqa Beki,中国語: 忽都合別乞,? - ?)は、13世紀初頭にチンギス・カンに仕えたオイラト部族長。『モンゴル秘史』などの漢文史料では忽都合別乞(hūdōuhébiéqǐ)、『集史』などのペルシア語史料ではقوتوق بیكی(qūtūqa bīkī)と記される。クトゥカ・ベキとも。

クドカ・ベキの一族はチンギス・カン家と密接な姻戚関係を構築し、第四代皇帝モンケ・カーンの治世にはモンゴル帝国における最大の姻族に成長したが、モンケ死後に勃発した帝位継承戦争を境に姻族としての地位は低下した。15世紀以後史料上に現れる、ドルベン・オイラト(4オイラト部族連合)に属するホイト部の支配者はクドカ・ベキの子孫を称しており、クドカ・ベキ一族の後裔であると見られている。

概要

『集史』「オイラト部族史」には「[オイラト部族は]常に一人の支配者、一人の首長を持っていた」と記されており、クドカ・ベキは12世紀末から13世紀初頭にかけてのオイラト部族唯一の長であった[1]

クドカ・ベキが史料上に現れ始めるのは1202年からのことで[2]、この時クドカ・ベキはオイラト軍を率いてナイマン部のタヤン・カンメルキト部のトクトア・ベキらとともに同盟軍を結成し、モンゴル部のチンギス・カンとケレイト部のオン・カンの連合軍に敵対したが、寒気のためこの時は目的を達さず退却した[3]

この後、チンギス・カンは敵対する部族を各個撃破し、同盟軍たるケレイト部をも打倒し、最終的にナイマン部を征服することで1206年にモンゴル高原の統一を果たした。この時点でオイラト部のクドカ・ベキは未だチンギス・カンに服属していなかったが、1208年にモンゴル高原西北部の「ホイン・イルゲン(森林の民)」征服が始まるとクドカ・ベキは率先して降伏し、ホイン・イルゲンの征服を手伝った[4]

チンギス・カンはこのクドカ・ベキの功績を称えて「[クドカ・ベキこそ]先に帰順して、万のオイラトを率いてきた者ぞ」と語り[5]、その地位を保証するとともに自らの娘チチェゲンをクドカ・ベキの息子トレルチに嫁がせた。なお、トレルチとチチェゲンの婚姻はクドカ・ベキの娘オグルトトミシュとチンギス・カンの息子トゥルイの婚姻とあわせて「姉妹交換婚」になる予定であったが[6]、正式にオグルトトミシュを娶る前にトゥルイが亡くなったため、代わりにトゥルイの長子モンケがオグルトトミシュを娶ることになった。しかし、オグルトトミシュとモンケの婚姻が切っ掛けとなってモンケの治世においてクドカ・ベキ家は姻族としての大幅な勢力拡大に成功することとなる。

この後のクドカ・ベキの事蹟と没年については記録がない。17世紀以後に編纂されたモンゴル年代記、『シラ・トージ』ではホイト部の首領がクドカ・ベキの後裔であると述べられており、クドカ・ベキの血統ははるか後代にまで存続していたことが確認される[7]

オイラト部クドカ・ベキ王家

  • クドカ・ベキ(Quduqa Beki >忽都合別乞/hūdōuhébiéqǐ,قوتوق بیكی/qūtūqa bīkī)…オイラト部の統治者で、チンギス・カンに降る

延安公主

  1. コルイ・エゲチ公主(Qolui egeči >火魯/huŏlŭ,قولوی یکاجی/qūlūy īkājī)…ジョチの娘で、イナルチに嫁ぐ
  2. チチェゲン公主(Čičegen >闊闊干,جیجاکان/jījākān)…チンギス・カンの娘で、トレルチに嫁ぐ
  3. トクトクイ公主(Toqtoqui >脱脱灰/tuōtuōhuī)…クビライ・カーンの孫娘で、トゥマンダルに嫁ぐ
  4. □□公主…名前や出自は伝わっていないが、ベクレミシュに嫁ぐ
  5. □□公主…名前や出自は伝わっていないが、シーラップに嫁ぐ
  6. 延安公主…名前や出自は伝わっていないが、延安王エブゲンに嫁ぐ

『元史』に記載のないクドカ・ベキ家に嫁いだチンギス・カン家の女性

  1. エル・テムル(El temür >یلتمور/īltemūr)…トゥルイの娘で、バルス・ブカに嫁ぐ
  2. エル・テムル(Möngülügen >منکولوقان/munkūlūkān)…フレグの娘で、チャキル、タラカイ父子に嫁ぐ
  3. ノムガン(Nomuγan >نوموغان/Nūmūghān)…アリク・ブケの娘で、チョバンに嫁ぐ

脚注

  1. ^ 志茂2013,773頁
  2. ^ なお、『モンゴル秘史』はこの事件を「酉の年(1201年)」のこととしているが、『モンゴル秘史』は物語的要素が強く信憑性が低いため、1202年のこととする『集史』の記述が正しいと考えられる(岡田2010,358頁/村上1970,316-317頁)
  3. ^ 岡田2010,356-357頁
  4. ^ 村上1976,87-88頁
  5. ^ 村上1976,89頁
  6. ^ 宇野1993,84-85頁
  7. ^ 岡田2010,376頁

参考文献

  • 宇野伸浩「チンギス・カン家の通婚関係の変遷」『東洋史研究』52号、1993年
  • 宇野伸浩「チンギス・カン家の通婚関係に見られる対称的婚姻縁組」『国立民族学博物館研究報告別冊』20号、1999年
  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 1巻』平凡社、1970年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年